咽頭がんだった。
ベース兼メインボーカルとして、高校のころからバンド活動に勤しんだ。
大学生のときにインディーズレーベルに拾われたと思ったら、ある時を境に一気にブレイク。あれよあれよとスター街道を突き進み、海外ツアーなんかやったりして。
うん、一時期は名実ともに日本一のロックバンドと言って間違いなかった。
俺は、ここまで駆け抜けてきた自分と仲間たちが誇らしかった。
テッペンは取れたけど、まだまだ俺たちの音楽は続いていく。……女癖が悪いメンバーがゴシップ記事のネタにされて活動休止――みたいなオチにならないといいな、なんて仲間内で笑ってたけど。でも、どんな障害があっても、俺たちはバンドを続けていくんだろうな、という妙な確信があった。
――だから、咽頭全摘手術なんて、そんなの論外だ。
歌えなくなるくらいなら死んでやるって、そういうものをいままで歌ってきた。メンバーも俺の意見に賛同してくれると思った。
仲間は皆手術を進めてきた。
いや、なんでだよ。おかしいだろ普通に。酒とバンドは俺の命より重要だと、日頃から言っていただろう。わかってくれよ頼む。
結局手術を受けた。
術後、声が出なくなって、つまり歌えなくなって、なんだか現実味がない。
俺の音楽から歌がなくなっても、愛機は変わらない音を出してくれた。それだけが救いだった。
それで、俺の手術が終わったあとの復帰ライブ。俺のボーカルがない初めてのライブに向かう途中で――俺は死んだ。
なんともつまらない交通事故だった。即死じゃないぶんタチが悪い。
ああ、こんなことなら、最期の時までずっと歌ってりゃよかった。酒飲んでかき鳴らして歌って、俺はそれだけでよかったのに。
――そうだなぁ。来世があるなら、いくらでも歌える潰れない喉をくれ。
廣井きくりは頭を抱えていた。
きくりは中学一年生。
思春期まっさかりの彼女は、やはり思春期にありがちな悩みを抱えている。
彼女はいわゆる“陰キャ”だ。中学生デビューにヤベー髪型で登校してクラスで遠くから見守られる立場となった“ぼっち”だ。
ゆえに、その悩みは“友達がいない”ということに尽きる。
どうすれば話しかけてもらえるのだろう。私はこんなにも悩んでいるのに。
なお、“自分から話しかける”などという選択肢は最初からない。
やはり髪型など目につきやすいところで特徴的にするべきなのか。でも前回はそれでお母さんとかにあの世のものを見たような目で見られたしな……。
学校のことを考えて憂鬱な気分になりながら、家のブラウン管テレビをボーッと見ていた。
画面のなかにはお茶の間を賑わす音楽番組が表示されている。アイドルに、歌手、それにロックバンド――ロックバンド?
バンド→陽キャ→イケイケ→リア充。
“これだ!”ときくりは確信した。
廣井きくりは頭を抱えていた。
バンドの知識もなにもないのに、「まずは楽器が必要でしょ」と近くの楽器店に足を運び、そして絶望した。
ベースだかギターだかなんてよくわからないけれど、そこに展示されていたものの値札を見てみれば、七桁だった。
六桁ですらない。七桁だ。
きくりは今年中学生になったばかりなのだ。とてもそんな金額を出すことはできない。
……あ、なんか一気にどうでもよくなっちゃったな。そもそもなんで私こんなところにいるんだろ。帰ろう。教室の端っこのホコリと肩を並べる私がバンドなんて手を出すべきじゃなかっ――
「そんなんじゃなくてあっちのYAMAHAのがいいと思うよ」
「――ひぇえぇぁああッッ!!」
「わ、びっくりしたぁ。びっくりした記念で飲んじゃお。グビ」
きくりの後ろに、いつの間にか一人の男が立っていた。
男は二十代後半といったところで、きくりと比べればかなり背が高い。癖がなくまとまった顔立ちは、アイドルやモデルと言われても疑えない程度には整っている。きくりと同じ小豆色の髪で、短く切りそろえられてさっぱりとした印象だ。
しかし、何より特徴的なのが――酒だ。とても酒臭い。こんな真昼間から酒を飲んでいる。
首から下げたスキットルを開けて、きくりの目の前でどうどうと呷り、ぷはーと気持ちよさそうに吐いた。
「そのベースはちとプレミアムがついちゃっててなぁ。当初は五万で売ったんだけどなぁ」
「えっ、あ、いや、ちがっあの、あ」
同年代の同性でさえまともに話せないきくりが、初対面の年上の男とまともに会話できるはずもなかった。
「んー? ベース見にきたんじゃないのぉ? ……見たとこ初心者かね。こっち来なよ」
きくりの手を見て目を細めた男は、そのまま店の奥へときくりを手招きする。
きくりは、そこでようやっと男の正体がこの楽器店の店主なのだと気づいた。そういえば胸元に名札がついていたような、と思い至る。
――さっさと帰りたいけれど、しかし初対面の人間に逆らうのも怖い。
きくりは、おそるおそる男の背を追った。
「パート――楽器はどれだ?」
「……が、楽器とかは、まだ、あの」
「お、まじぃ? じゃあ好きなの渡しちゃお〜」
店の奥には、少し広い空間があった。
男は商品ではなくおそらく私物と思われる楽器を取り出して、構えてみせる。
「これがエレキベース。電気で鳴るやつな」
男はお手本を見せるようにピックを構えて、ベースを弾き始める。
きくりはバンドのことなんて何ひとつわからないが、しかし――上手い。
それは素人目線でも、テレビで見たあのロックバンドとも“違う”と思わされる演奏だった。
「……こんなとこだ。じゃ、今度は自分でやってみよう」
「えっ」
軽く演奏を終えた男が、今度はそのベースをきくりの手に押し付ける。
後ろに回って持ち方などを教えられ、あれよあれよとセッティングしてしまった。
「ここのとこ左で抑えて、ピックは弦と平行に、よし。鳴らしてみようぜ」
「え、あ――」
鳴った。
男の音とは比べものにならないほど情けない音だったが、確かにきくりの手によって鳴らされた音だった。
「どうだぁ? ベースはバンドの土台だ。ここが全体のリズムをつくる。それが俺のパート――あぁ〜、なんか気分よくなってきた。飲んじゃお」
男は変わらぬ調子で酒を呷る。
しかし、きくりはそんな男の姿は眼中になかった。ずっと自分の手元を注視している。
きくり自身の手で、ベースを鳴らした。
それは、まだ十三年しか生きていないきくりにとって衝撃的なことだった。
そしてなにより――現実味が帯びてきた。
このベースをかき鳴らす自分が、クラスのみんなの中心にいる光景が見えた――!
決めた。私は、これでぼっちを脱却する!
「予算足りないねぇ、ははは」
「……」
初心者向けのエレキベースを勧められて、それが三万円ほど。これでもめちゃくちゃ安い価格が提示されていた。
中学一年生のきくりにとって、その価格はギリギリ払える値段だった。しかし、裏を返せばこのベースを購入してしまえばきくりの全財産が消えてなくなることになる。
「んー、そうだなぁ。さすがにタダで渡すとかはできないぜ。でもなぁ、勧めたの俺だしなぁ。……グビ」
やはり会話の途中だろうと酒を飲みながら、男は顎に手を当てて思案する。
そのまま再び店の奥へ行ったあと、一つのベースを手に持って戻ってきた。
それは、先ほどきくりに弾かせてみせた彼の私物のベースだった。
「無利子のローンってことにしよう。俺のお古だし、払うのも販売価格の半分でいい。期限はなし。つまり、生きてるうちに五万円返してくれりゃそれでいい」
「え……」
思わぬ好意を前に、しかしきくりの心中は困惑で埋め尽くされた。
なんで初対面なのにそんなに良くしてくれるのか? 正直な気持ちを口に出すと、男は酒を口に含み答えた。
「単純に初心者さんは大歓迎ってことが一つ。あとは……名前はなんて言うんだ?」
「……えっ、あ、私ですか?」
「うん」
「ひ……廣井、きくりです」
「きくりちゃんねぇー。……俺も名字廣井なんだ。偶然だねぇ。まあ、そういうことでいいんじゃね」
「???」
初心者への好意と、あとは同じ名字のよしみということで、きくりは晴れてエレキベースを手に入れた。
後日、家でエレキベースを練習できるような防音設備がないことに気がついたきくりは、再び男の楽器店に助けを求めることになる。エレキベースにヘッドフォンが接続できるなんて、きくりは知らなかった。
人脈のないきくりに、ベースの弾き方を教われる知り合いなんてこの楽器店の男しかいなかったので、いつの間にか放課後男にベースを教えてもらうのが日課になっていた。
無論ベースの教本だって買ったが、やはり実際の指導に勝るものはなかなかない。
男は、「そっかー、いまの時代はまだネットの動画で独学とかできないよねぇ」などとよくわからないことをいいながら、素人のきくりに一つずつ丁寧に教えた。
その甲斐あって、きくりの実力はメキメキ上昇。男がほかのパートを担当して合わせてくれたので、バンドのなかでのベースの役割もわかってきていた。
ただ、その演奏技術とは裏腹に、きくりの表情は優れない。
「バンドが組めない……」
「誰か誘いなよ」
きくりはいまでもぼっちだった。いや、楽器店の男と一緒に練習しているという点ではすでにぼっちを脱却しているといえなくもないが、裏を返せばこの男以外との交流がない。
思えば、こうして曲がりなりにもこの男とコミュニケーションが取れていることのほうが異質だ。なんというか、きくりは男が他人の気がしない。同じ名字といっていたから、もしかしたら先祖を辿れば薄い血の繋がりでもあるのかもしれない。
「……せ、先生のお知り合いで、バンド組んでくれる人とか」
「んー? 知り合いねぇ。いるにはいるけどねぇ……中学生と組んでくれる人ねぇ…………ぷはー、なかなかいないねぇ」
「お酒飲むか話すかどっちかにしてください……」
あまりに酒臭い男だが、きくりは尊敬の念をこめて“先生”と呼んでいた。
一応ベースの先生であることには間違いないし、なにより、男が自分の名前を明かさないので、それ以外に呼びようがない。なんでも、「そっちのほうが面白いから」ということらしい。きくりにはさっぱり意味がわからなかった。
――男はあまり自分のことを話さない。それがなぜかわからないし、いまのいままで気にも留めていなかったけれど、ふと興味を持ったきくりは、練習の合間に聞いてみることにした。
「先生って……その、ほんとにどんな楽器も弾けますよね」
「なんでもいけるぜ。二千年前とかなんちゃって楽器で一人バンドしかやることなかったし」
またこれか、ときくりは心の中でため息をついた。
この酔っ払いによれば、男は西暦元年に生まれて、不老不死なので現代まで楽器作って弾いて歌ってと生きてきたのだという。
無論、きくりは男の話を信じていない。いつもはぐらかされているようで、きくりは少し不満だった。
「――ま、メインはベースとボーカルだよ。……って、もう二千年以上前の話になっちゃったけど」
悲しげというか、優しげというか。
いつも陽気で能天気な男が、時折こういった落ち着いた目をすることがある。その理由を、きくりは知らない。
「あの、先生ってホントは何歳なんですか」
「今年で2007歳〜」
「……ちゃんと答えてくれないならいいです」
普段の口ぶりからして、きっと昔はバンドを組んでいたんだろうけれど、詳細はよくわからない。
少し拗ねたふうを装ってみたきくりだが、当の男はご機嫌な様子で酒を飲んでいる。
陽気な男は、そのままきくりのバンド活動の話を続ける。
「きくりちゃんはさ〜、やっぱりベース担当するのぉ?」
「というか、それ以外練習してないので……」
「ボーカルは〜? カラオケではわりとノリノリだったじゃん」
「いやいやいやいや、私なんかが人の目の前で歌うとか無理無理無理無理無理です!」
「そんなこといったらバンドも組めないじゃん、あはは、おもしろ。飲んじゃお」
ただでさえ人前に立つのがきくりが、楽器を弾くだけでなく歌うなんて、そんな地獄考えたくなかった。
そんなきくりをよそに、男はカレンダーを見て名案を思いついたと手を叩く。
「それじゃ、再来週の初詣で神様に祈っとくよ。“きくりちゃんがバンド組めますように”って」
「初詣……ウッ」
「おっ、発作だ」
男の放った初詣というワードに、きくりは胸を抑える。
彼女はときおりこうして勝手にダメージを受けている。いまはクラスの女子みんなで初詣に行く話題に一人だけ入れなかったことを思い出したのである。
とはいえ、さすがに溶けたり爆発したり人外に変形したりはしない。人間なのだから当然だ。
「毎年祈ってるけど叶えてくれたことありません……神様……」
「俺は神様しんじてるぜぇ〜、なんだったら毎日祈ってるぜぇ〜」
そういえば、なにかサインが添えられたベースを飾って、それに酒を供えて祈っている男の姿を見たことがあった。きくりは酔っ払いの奇行と流していたが、男にとってはなにか深い意味があったのかもしれない。
「よくわからんが、こうして俺に“潰れない
男は酒と音が大好きだ。だからいつも飲んでるし、毎日なにかしら弾いて、歌っている。
きくりから見ても、彼はこんな酒豪のくせして至って健康体だ。カラオケで十時間歌い続けたあともけろっとしたふうだったから、喉が特別丈夫だというのも本当だろう。
自分の好きなものに打ち込める天性の体――たしかに、神様に感謝の一つしたくなるのかもしれない。
「なによりいくら酒飲んでも死なないのサイコー!」
「……」
もしやそっちが信仰の理由の大半じゃなかろうか。
きくりは「こんな大人にだけはならないようにしよう」と固く決意した。
「私と君で……いまからここで路上ライブをするんだよ〜」
「えっ」
後藤ひとりは頭を抱えていた。
オーディションに合格してライブの出場権を勝ち取ったと思ったら、ひとりに課されたのはチケット五枚のノルマ。
うち二枚は両親に買ってもらい、残り三枚。ぼっちのひとりに、家族とバンドメンバー以外の知り合いなどいない。つまり、もはや手詰まり。
そんなひとりの前にこの酔っ払いのお姉さんが現れ、路上ライブなどと言い出した。
ブリックパック入りの酒を片手に、小豆色の髪をしたお姉さんは路上ライブを勧めてくる。
外での演奏経験などないひとりに、そんな度胸あるはずもなかった。
「あ、でもアンプとか路上ライブの機材なにもないか」
そうだそうだとひとりは激しく同意した。
そうとも、機材がないんじゃライブのしようもない。じゃあ今日はこれで……とひとりが言う前に、お姉さんはサッとスマートフォンを取り出してどこかへと電話をかけた。
「ちょっと待ってねぇ……あ、先生〜。お店からライブの機材持ってきてください。……え、違いますよーまたアンプ壊したとかじゃなくて、いまから路上ライブやるんですー。はい、場所は、えっとー」
先生? いや、そんなことよりも、ライブの機材を持ってくる?
混乱するひとりをよそに、数分ほどで一人の男がやってきた。大量の機材を一人で持ち運んでいる。
初対面の男が新たに乱入して、ひとりは軽くバグる。
お姉さんと同じ髪色の男性は、手馴れた様子で機材をセッティングしたあと、お姉さんと楽しく話し込んでいる。
「まったくもーきくりちゃんはまた唐突に思いつきで行動してー。バンドメンバーに迷惑かけちゃだめだぜー?」
「だから先生に連絡したんです。先生なら迷惑かけてもいいでしょ?」
「んー……ヨシ!」
親しげに話す男女を前に、ひとりは直立不動でいるしかなかった。
二人の年の頃は同じに見える。恋人だろうか。
そう考えると、ひとりは自分の存在が途端に小さいものに感じてしまった。お姉さんのことを酔っ払いでやべー大人だと思ってたけれど、そんな人もちゃんとリア充していた。後藤ひとり、お前には生きる価値がないのだ。
「ねね、君がきくりちゃんとこれから路上ライブするんだろぉ? 俺も聞かせて聞かせて」
「ゴトウヒトリデススミマセンセップクシマス」
「おっとこれは人見知りの気配! 俺はあんま喋らんほうがよさそー。あっちで見てるわー」
「はーい」
ひとりに話しかけてきた男は何かを察し、さっさと観客側へと歩いていった。
初対面の年上の男に話しかけられたひとりは当然のように顔面崩壊していたが、それをお姉さんの声で引き戻される。
「金沢八景のみなさーん! 今からライブやりまーす、ぜひ見てってくださーい」
どうも、ひとりは本当に路上ライブをしなければいけないらしい。
ひとりの初めての路上ライブは終わった。
結果は――成功といっていいだろう。
途中からはちゃんと演奏できていたし、目を開けて観客を見ることができた。片目だけだけど。
なにより、チケットを二枚買ってもらえた。残りの一枚も、このお姉さんが買ってくれるという。これはひとりにとって驚愕に値する成果だ。
「あーいいもん聞けたわ。飲んじゃお」
唐突に発せられた声に、ひとりは肩を震わせる。
振り返ってみれば、それはお姉さんに呼ばれて機材を持ってきた男性だった。
よくよく見れば、男もお姉さんと同じように酒を飲んでいる。もっとも、コンビニで売っているようなパック酒ではなく、首から下げたスキットルを陽気に呷っていた。
「……あれ? 先生なんでいるんですか?」
「機材回収だっての。それ俺の店の〜」
「あーそっか」
酒飲みが二人集まれば、途端に場の雰囲気が適当になる。お姉さんはよろよろと男のもとへ歩き、そのまま飛び込んだ。
「昨日から飲んでたからさすがに眠いねぇ。先生肩貸してくださいぃ」
「俺と違ってきくりちゃんは二日酔いとかちゃんとするからねぇ。はい、おにころ」
「さらにお酒!?」
この男は機材とともにパック酒の追加も持ってきていたらしい。男はお姉さんの頭を撫でながらストローの飲み口を差し出して飲ませている。
「んふふ、おさけ〜、ちゅー」
「よーしよしよし、お前は飲んで歌って弾いて人生まっとうしてくれよな〜」
さっきまでかっこいいバンドマンだったお姉さんが、あっという間にあられもない姿になってしまった。これがロック……。
「ああそうだ。ひとりちゃん、でいいんだよな」
「ひゃい」
お姉さんを撫でていた男が、唐突にひとりへ向き直る。相変わらず顔は上気しているが、しかしどこか真面目な顔だ。
ひとりは、もしや機材の使用料を請求されるのではないかと戦々恐々とした。高校生で借金一億、結束バンドは当然クビになり、老いて死ぬまで地下労働……。
「いや、本当にいいものを聞けたと思う。きくりちゃんの思いつきはいつものことだけど、今日はそれに巻き込まれてよかったと思うよ」
「あ、ありがとうございます……?」
「やっぱり逸材ってのはどこに眠っているかわからないもんで、こういう場を巡る機会もなくしちゃいけないなぁと痛感したぜ。俺は自分の音が大好きだけど、人の音を聞くのも好きなんだ」
「??」
男の言葉はいまいち要領を得ない。自身の演奏をベタ褒めされ承認欲求モンスターがスクスク成長しているが、しかしそれでも困惑のほうが大きい。
男は目を細め、しかし陽気な調子のまま口を開いた。
「――端的に言えば、君の音に可能性を感じた。どうだろう、俺のスカウト受けてみないか?」
――スカウト。
思いもしなかった言葉に、ひとりは一時思考停止する。
すかうと。スカウト。scout.
それはおよそひとりにとって縁遠いはずの言葉だった。
というか、この男はいったい何者なのか。路上ライブでスカウトなんてシチュエーション本当にあるんだ。ひとりの頭の中はさまざまな思考が行ったり来たりしてぐちゃぐちゃになっていた。
「ちょっと先生」
「これでも長いこと生きているから顔は広いんだ。活動形態に希望があればいくらでも言ってくれ。あ、どこのレーベルがいいかわからなかったら、好きなバンドと一緒のとこ、とかでもいいぜ。どこだろうとねじ込めるから」
「え、あ、ぇ……」
お姉さんの静止の言葉すら無視して、男はとうとうと話をしている。
このスカウトを受ければ、ひとりの目標である“在学中にブレイクして退学”だってすぐに叶うかもしれない。もしどこのレーベルでもいいという話が本当なら、数多のバンドマンが喉から手が出るほど欲しい権利のはずだ。
「おっと、そういやひとりちゃんは俺が誰だかわからないよな。えっと、この場合どの肩書きを出そうか――」
「お、お断りします」
「――ふむ」
ひとりの思考はいまだまとまっていなかったけれど、すぐに答えが口をついた。思考する必要はなかった。
「私、ずっと一人でギターやって、バンドを組むなんて夢のまた夢で」
ひとりにとって、ギターはぼっちを脱却する手段だった。
「結束バンドに誘ってもらえなかったら、たぶんずっとそのままで……」
ギターを弾くのは楽しいし、いまはバンドを組んで曲がりなりにもぼっちを脱却しかかっている。ある意味、ひとりの当初の目的はすでに達成されている。
「私なんかが路上ライブをしたのも、結束バンドがあるからで……だから」
でも、いまは。
「私、結束バンドのみんなと、頑張りたいんです」
「そっかそっか。それじゃあ俺は余計なお世話だねぇ?」
男は満足げに頷くと、やはり酒を口に含み、そのままお姉さんと機材を持ち上げた。
「お邪魔者はさっさと退散するかー。きくりちゃんもほら、幸せスパイラルとか言ってないで帰るぜー、グビ」
「私にお酒の味教えたの先生なんですけどー!? 幸せスパイラルするようになったの先生のせいだから〜、責任とってよ〜」
「俺のこれは幸せスパイラルではない――幸せエターナルだ」
「うぅ〜……また一緒にライブしようねー! バイバイひとりちゃーん!」
お姉さんはそのまま男に連れられ帰っていった。
嵐のような二人だった。
お姉さんは不思議な人だ。あの迷いのないベースは、楽しんでいることがはっきりとわかるものだった。かっこいいな、と素直に思った。
――そういえば、結局男性の素性は聞いていない。今度、お姉さんにライブで会ったら聞いてみようか。
「……あ! チケット買ったらお金なくなっちゃった。先生、電車代ください!」
「仕方ないなぁきく太くんは。はい、ブラックカードォ〜!」
「やった〜!」
……とりあえず、成人してもお酒はほどほどにしようとひとりは心に誓った。
・不老不死バンドマン
酒とロック大好き!
前世はあるロックバンドのベース兼メインボーカルだった。
咽頭を全摘出したのち交通事故にて死亡、死に際に健康な喉を願った結果、あらゆるダメージを受け付けない身体を得て転生した。西暦元年に。
楽器がないときは自作するしかなかったため、楽器職人としてのスキルを磨かざるを得なかった。いまは二千年のあいだに培った資産を運用しながら趣味で楽器店を営んでいる。
本名『廣井きくり』
・廣井きくり
原作どおりインディーズバンド『SICKHACK』のベースとボーカルを務めるバンドマン。
先生に酒の味を教えこまれ案の定酒飲みになってしまった。
なお、いまだ名前を教えてもらえていない。
・後藤ひとり
帰ったあと大人の男性の申し出をすげなく断ったことを思い出して申し訳なさで爆発した。