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「……あの?」
マンハッタンカフェはアグネスタキオンを疑いの眼差しで見つめた。心なしか、彼女の眉間にはしわが寄っている。
「なんだい、カフェ? ずいぶんと怖い顔じゃないか。」
「なんだい? じゃ、ありませんよ。ここに置いておいた私のマグカップはどこですか。」
彼女は自身の戸棚を指さした。そこには、一か所だけ不自然な空きがあった。
「おいおい、カフェ~。私が知るわけないだろう。わざわざ、私と君の荷物は分けてあるというのに。」
やれやれ、とカフェは首を横に振った。
「でも、私の薬品とか勝手に借りてますよね?」
「ぐっ……。それは、不可抗力というものでだね……。って、おぉぉい! 勝手に開けられては困るよカフェ!」
隣の戸棚を開け、物色を始めるカフェ。あわあわ、と手を空中でふらつかせるタキオン。
「え、カフェ……さん? ちょっと……。あぁ……。」
タキオンの制止も空しく、カフェは上から下へと戸棚を開けていく。一段、また一段と開けるごとに、アグネスタキオンの表情には焦りが見えるようになった。彼女は最下段の戸棚を開けると、ぐしゃぐしゃのビニール袋を手に取った。
「……で、これは何ですか?」
中には、無残に割れたマグカップの残骸があった。二つに割れた黒猫のイラストや取っ手が、その悲惨さを物語っていた。
「……それには少し事情があってだね。」
「一応聞きますが、猫やネズミだとかの動物が勝手にやったとか言わないで下さいね。」
「……。」
押し黙るタキオン。
「まさか、本気で言おうとしてたんですか……?」
哀れみにも似た視線を向けるカフェ。タキオンは叱られた子供の様に、手をもじもじさせるばかりだった。
「えーと、だね。」
「……いいです。知りません。」
がしゃり、と袋を机の上に置いた。タキオンはおびえた子猫の様に身を反らす。
(これは……。やってしまったねぇ……。)
肩で風を切って、去って行くカフェ。タキオンは後ろ髪を引かれる思いのまま、ただ見送ることしかできなかった。
それから数日後。研究室には、6月の雲を煮詰めたような、どんよりとした空気が漂っていた。
「……。」
「……。」
お互いの沈黙が続く。作業をするマンハッタンカフェ。と、少し後ろで本を読むアグネスタキオン。彼女の目線は本とカフェを行き来していた。
「……何ですか、さっきから。こっちを見ているのは分かっているんですよ。」
最初に沈黙を破ったのは、カフェだった。思わず、本に顔をうずめるタキオン。
「き、気付いていたのかい……、カフェ。」
恥ずかしそうに、タキオンは目線を本からカフェに向ける。
「バレバレですよ……。いつまで同じページを読んでいるんですか……。……で、何ですか?」
タキオンを一瞥して、カフェはまた作業に戻る。
「あの!」
「……っ!」
本を机に伏せて、タキオンは立ち上がった。いつにない彼女の声に、思わずカフェはタキオンに視線を向ける。
「……だね。この前はすまなかった。……良かったら、これを受け取ってくれないかい?」
机の下から、おずおずとマグカップを取り出す。中央に黒猫の描かれた、白のマグカップ。カフェが以前、使っていたマグカップだ。
「これは……。」
タキオンのそばににじり寄るカフェ。カップを手に取り、まじまじと見つめている。
「その……。前割ってしまったものと同じものを用意したんだ。」
「……。」
カフェは、マグカップに向けていた視線を、タキオンに向けた。タキオンの目線は、変わらずカフェに向けられている。
「……よかったら使ってくれないかい?」
強張った表情筋を寄せて作った、ぎこちなくて、不細工な笑み。今の彼女にはこれが限界だった。
「……。」
マグカップを置き、無言で歩き始めるカフェ。長く伸びる彼女の黒髪は、とても大きな壁の様だった。
「あ……。」
カフェを捕まえようと伸ばしたその手は、壁に阻まれ、空を掴むばかりだった。
「……カフェ! 本当に、本当に、すまなかった!」
声を上げるタキオン。しかし、カフェの足取りは止まらない。
「……だから、機嫌を直してくれないか?」
お願いというよりも、懇願に近い声。表情は強張り、手は震えている。
「ふふっ。」
紛れもない、カフェの声だった。
「全く……。アナタという人は……。」
怒りではなく、どこか温かみを含んだ声。戸棚を開け、黒い何かを取り出す。振り向いた彼女は、ほほ笑んでいた。
「それは……。」
カフェの手にはマグカップが握られていた。中央に白猫の描かれた、黒のマグカップ。
「アナタが割ってしまったから、買いに行ったんです。まさか、あなたも買っているとは思いませんでしたが……。」
タキオンに見せる様にマグカップを少し振る。
「そう……だったのかい。じゃあ、これは、いらないようだね……。」
安堵と寂しさの混じった声で告げると、タキオンはマグカップを後ろに隠した。
「……誰が、いつ、いらないっていいましたか?」
カフェは再び、タキオンのそばへにじり寄った。
「でも……、君はすでに持っているじゃないか。」
カップを隠したまま、後ずさるタキオン。
「こうすればいいんですよ。」
「……わぁっ!」
不意に、タキオンの体が前に押し出された。後ろに組んでいたはずの手は、半ば無理やりにカフェへ引き寄せられている。驚く彼女をよそに、カフェはお互いの手に握られたマグカップを取り替えた。
「……いいのかい? 私が受け取っても?」
きょとんとした表情で、タキオンはカフェに質問する。
「まがりなりにも、アナタからのプレゼントなんです。それを無下にするワケないでしょう。」
さも当然かのようにカフェは答える。
「カフェ……。」
相変わらず、カップを持つ手は震えていた。ただ、その声に寂しさはなかった。
「本当に……。最初から素直に謝ってくれれば、許してましたよ。」
やれやれと、彼女に微笑みかけるカフェ。
「……それについては、本当にすまなかったよ。」
きまりが悪そうにタキオンは目線を逸らした。
「えぇ。ですから、少し私のお茶に付き合ってくれませんか?」
「……? それくらいなら別に構わないが……。」
戸棚に向けて歩き出すタキオンを、カフェは引き留めた。
「……っと、何だいカフェ? 私はただ、自分のお茶を用意しようと……。」
振り返ると、満面の笑みを浮かべたカフェがいた。
「私が用意します。」
「え?」
「聞こえませんでしたか? 私が用意する、と言ったんです。」
カフェの声が段々と上ずっていく。
「……一応聞いておくけれど、何を淹れるつもりなんだい?」
「コーヒーです。とびきり苦いのを淹れてあげますね。」
今日一番の笑顔だった。
「そ、そんなぁ。」
「だから、そこで待っててくださいね。」
鼻歌を歌いながら、カフェはドリッパーにお湯を注ぐ。時折、顔を近づけては香りを楽しみ、一定のリズムで円を描くように注いでいる。
「お待たせしました。……って、そんなに嫌そうな顔をしないで下さい。私、淹れるの上手なんですよ?」
「……君は、自分が苦手なものがこれから出てくるって時に嫌な顔一つせずに受け入れるって言うのかい?」
頬杖をつき、ため息をつくタキオン。はいはい、と彼女を流すカフェ。
「少なくとも、今のアナタよりは、いい顔をしますよ。」
タキオンの前にコーヒーを置く。コーヒーからは湯気と共に香ばしい香りが立ち昇っている。
「そうかねぇ。」
「そうです。……冷めないうちに、どうぞ。」
「どうも。で、カフェ。ミルクと砂糖は?」
身を乗り出して、タキオンは辺りを見回す。
「……最初の一口くらいはブラックでお願いします。これでも、丁寧に淹れたんですよ?」
コーヒーをすすり、カフェは淡々と答える。
「とは、言ってもだねぇ……。」
タキオンは見るからに不満そうな表情を浮かべた。
「そもそも、元はと言えば―。」
「あー、わかった。わかったよ。」
おそるおそる口を付けるタキオン。と、笑顔で見守るカフェ。
「……やっぱり、にがい。」
タキオンは眉間にしわを寄せて、べぇー、と舌を出す。
「……顔で分かりますよ。……ミルクと砂糖です。」
小さなため息をつくと、カフェは机の下から、それらを取り出した。
「なんだ、あるじゃないか。」
「アナタがコーヒーを飲む機会が今後あるかも分かりませんからね。淹れたからには、飲んでもらわないと……って、そんなに入れるんですか!?」
タキオンの手には、シュガースティックの束とミルクが握られていた。彼女は逆に、不思議そうにカフェを見つめ返した。
「ん? あぁ。コーヒーはここまでしないと。甘味の中に、少し苦味を感じるくらいがいいのさ。」
シュガースティックの束をいっぺんに破り、コーヒーに注ぎ淹れる。カップの底面には、砂糖の山が見える。
「……まぁ、楽しみ方は人それぞれなので否定はしませんが。」
「カフェもいつかやってみるといいさ。」
そう告げて、タキオンは嬉々とした表情でミルクを混ぜる。その様子を、色物でも見るようにカフェは見つめていた。
会話も弾み、長針が半分を回った頃、お茶会の終わりは訪れた。
「……そろそろ、いい時間だね。私はこれで、お暇させてもらうよ。少し用事があるのでね。」
「そうですか。では。」
タキオンは流しでマグカップをゆすぎ、研究室を後にした。
(少し淹れ過ぎてしまいましたね……。)
ポットには、ちょうど一杯分のコーヒーが残っていた。カフェは、マグカップにコーヒーを注ぐと、砂糖とミルクを入れた。ティースプーンで混ぜ、それを口に含む。
(少し、苦味は感じるけど……。)
「やっぱり甘い……。」
久々の更新になりましたが、目を通していただけると幸いです。