【八年前】
「シルフィエットちゃん、こんにちは」
ロキシーはしゃがみこみ、幼い女の子に笑いかけた。
ブエナ村の狩人の家の前で、母親にぴったりとくっついた女の子は可愛らしいのだが、ロキシーは「これは苦労するだろう」と心中穏やかではない。
色白の肌、大森林の種族の者に多い赤い瞳の色、クォーターエルフにしては長い耳。これは何の問題もない。
一番目を引く、緑色の毛髪が問題なのだ。
かの残虐な魔族、スペルド族を彷彿とさせるエメラルドグリーンの髪だ。
人族の社会で、常に疎外感が付き纏うのは、人族に在らざる者故だ。どちらも理由を言葉にはしないが、村に元々住む長耳族のロールズと、最近やってきた魔族のロキシーは比較的早くに打ち解けた。
ロールズの三歳になる一人娘の容姿について相談に乗るべく、ロキシーは彼の家を訪ねたのだった。
「杏は好きですか? はい、どうぞ」
「よかったわね、ルフィ、もらっておいで」
ロキシーが差し出した果物に、シルフィエットの視線は釘付けだ。
母親に背を優しく押され、よちよちと歩み寄ってきた幼児は、ロキシーの目を見ないままオレンジ色の果物をとり、その場で齧り始めた。
ルディと同い年だと聞いていたが、随分違うのだな、とロキシーは思う。
あまり喋らないし、体幹もまだグニグニしている。三年前に生まれたばかりであるのだから、こちらの方が普通なのだろう。
「ルフィ、ありがとうは?」
「……」
ロールズに声をかけられても、シルフィエットは照れている。
「ロキシーさんに、ありがとうって言うんだよ」
「あいがとぉっ」
再度促され、ようやく感謝の言葉を口にしたが、意味はわかっていない顔つきだ。
さて、と立ち上がったロキシーを、ロールズが家の中に案内する。
嫌悪される緑の髪で、しかも女の子。シルフィエットの人生には苦労が付き纏うことを、彼女の両親は既に予感している。
流れ者のロキシーが彼らにしてやれることは少ない。今日訪ねたのも、これまで自分が受けてきた魔族差別と、その対策を伝授するためであった。
長耳族の血が濃ければ、魔術の潜在能力を備えている可能性は高い。
せめてルーデウス並に発達が早ければ、魔術師として身を立てていく術を共に考えてやることもできたのだが。
「おかえりなさいませ」
用事を終え戻ったロキシーを、リーリャが迎えた。
居間の奥では、ゼニスが末子のシンシアを抱いて遊び唄を口ずさんでいる。
ゼニスの膝元では、長男のルーデウスがじっと歌を聞いている。真剣に聞いているのか、ちょっと口が開いていた。
「先生?」
ロキシーは傍に膝をつき、ルーデウスの頭を撫でた。
自分の仕事は、ゼニスの膝元にいるルーデウスを教え導くことだ。別の子供に必要以上に肩入れすべきではない。
過酷な土地で育った者の気風か、ロキシーは身内と外の区分をハッキリさせることができた。給料を貰って見ているルーデウスと、食と住の世話になっているグレイラット家は内で、他は外だ。
「村の子に会ってきました。ルディと同じくらいの歳でしたよ」
「へえ」
何でも知りたがるルーデウスにしては、珍しく興味が無さそうだ。
そういえば、ルディが友達と遊んでいるところを見たことがない。
シルフィエットとルーデウスの会話のテンポや意思疎通の度合いを比べ、ロキシーはさもありなんと頷いた。
賢いルーデウス。幼い子供は彼の相手にならないのだろう。
ミグルド族にとって念話が使えないのは盲や聾と同じことだが、明確なハンデがないのにルーデウスにまで友達がいないからといって、心配することはないのだ。
「ああ、シルフィエットちゃん?」とシンシアを構いながらゼニスが声をかける。
毛皮の上にシンシアを座らせようとしたのだが、ゼニスの支えを失った途端、くにゃんと前のめりに倒れる。
シンシアのおでこと毛皮の間に手を滑らせ頭をぶつけるのを防いだゼニスを見て、ロキシーは腰を浮かせて伸ばしていた手を引っ込めた。
「母様、シンディも早く立てるようになるといいですね」
「そうねえ、お座りもできるようになってほしいけど、シンディは育つのがゆっくりみたい」
冬生まれのシンシアは八ヶ月になり、季節は夏である。
ルーデウスに抱きしめられる格好で上半身を支えられたシンシアはロキシーを、正確にはロキシーの青色のおさげを目で追っている。
「ルディは立つのも喋るのも早かったでしょうね」とロキシーはルーデウスの赤ん坊の頃を想像する。
子供を育てた事はないロキシーでも、ルーデウスの知性と自我の目覚めは早く、反対にシンシアの成長は遅々としているのはゼニスやリーリャの雰囲気から感じ取っていた。
「それはもう! ウチのルディは天才だもの、村の子供たちの中では何でも一番だったわ」
「今もね」と頬にキスをされているルーデウスを見て、ロキシーが感じるのは微笑ましさだ。
彼女たちはロキシーが理想とする幸せな家族像であった。
自分も素敵な旦那を捕まえ、賢く可愛い子供を育ててみたいものだ、という気持ちが深まっていく。
ブエナ村では子供たちが遊ぶ光景は其処此処で見られる。
中にはルーデウスと同じ年頃の子たちもいて、たいていは姉兄に連れられている。
今日見たシルフィエットも含めて、数は十人前後だろうか。
「この村には、シンディの他に赤ちゃんはいるのですか?」
何気ない質問であったが、ゼニスは苦笑して首をちょっとかしげた。
「いないのよ。今年生まれたのはシンディだけで」
「そうなんですか?」
不思議そうに問い返したのはルーデウスであった。
リーリャがシンシアを抱いて箱床に寝かせたため、躰のあいたルーデウスはぺたっと床に手をついて立ち、ちゃっかりロキシーの膝上に移動する。
「去年の夏も旱魃気味でね、そんな年は赤ちゃんを産み控えるか、よその村に預けるのが普通なんだけど、私もパウロも、そういうことは知らなかったの」
生まれてから少年期までを貴族として過ごしたゼニスとパウロは、農村での常識に欠ける部分がある。
普段は持ち前の人付き合いの上手さで溶け込んでいるが、幾つかは覆すことのできないズレとして今も残っている。そのうちの一つがシンシアの誕生であった。
「干ばつで食べ物が少なくなると、女の人はおっぱいが出なくなるのよ。お乳が飲めなくなると、まっさきに弱るのは赤ちゃんだから……少し考えれば、わかることだったわ」
ゼニスの気まずそうな表情は、そうした我が子への負い目に由来していた。
ロキシーは窓の外に目を向け、外の光景を思い出す。
垂れ下がった葉、止まりがちになった粉挽き小屋の水車、枯れた井戸、都市のギルドに貼られた依頼は、水不足の解消を求めるものばかりであった。
旱魃は今に始まった事ではなく、前年の夏から予兆はあったらしい。
「でも、シンディがいなかったら寂しいです。妹が生まれてきてよかったです」
ルーデウスがシンシアが寝かされた箱を背に、大人の都合から妹を庇うように言う。
「ええ、シンディを産んだことは後悔してないわ。何があっても、幸せに育ててあげるの」
ゼニスが手を伸ばし、シンシアを抱き上げる。
箱床に寝かされてから不満そうにクークーと声を上げていた赤子は、ロキシーを視界に入れるとぴたっと静かになった。
シンシアに頬擦りをするゼニスを見て、ロキシーは決意した。
この地にも魔族への偏見はある。
見捨てて村を出ることはできる。
でも、わたしはこの親子のために聖級魔術を使おう。雨を降らせてみせるのだ、と。
【甲龍暦419年】
「シンディがいたぁ!?」
ウェンポートを出立してしばらく。
大型のトカゲ型魔獣の背に乗り移動していたロキシーは、横に座るエリナリーゼの肩に掴みかかった。
それによってバランスを崩し落下しかけたのは、背も低ければ手足もすらりと長いとはいかないロキシーのみである。
戦士のエリナリーゼは鍛えられた体幹で澄まし顔をし、落下しかけたロキシーを引き戻した上で、「ええ、それがどうしたんですの?」ときた。
パウロの家族を魔大陸まで捜索しにきた面々であった。ロキシーは昔の恩と好意から、エリナリーゼとタルハンドは元パーティメンバーとしての縁からである。
ウェンポートをドタバタで後にし、気を取り直して魔大陸のほかの町まで足を伸ばそうというのだ。
魔物を警戒しながらの移動であるが、A級冒険者のロキシーとS級冒険者のエリナリーゼとタルハンドが揃えば、旅路に余裕も出る。
「ウェンポートで仲良くなった子がいたんですのよ」
ロキシーが爆弾発言に驚愕する少し前。
エリナリーゼはかの港町で出会った人族を話題に登らせた。
「そうですか。男の話は結構です」
「まぁ失礼な、ちっちゃな女の子ですわ、ロキシーみたいな」
「わたしはちっちゃくありません」
何でもかなり可愛らしく、娘にして連れ歩きたいくらいだったらしい。
ふむ、とロキシーは瞳を右上に向けて回想する。世の中には成人でも子供にしか見えない種族――例えばわたしのような――が存在する。
ロキシーは自他ともに認めるミグルドの成人女性のはずなのだが、近年ではどうやら自分は少女にしか見えないらしいと諦めたところだ。
他種族にはミグルド族の50歳も100歳も見分けがつかないらしい。不思議なことに。
自分が子供ではないことを逐一訂正するロキシーとは異なり、中には幼気な容姿に自覚的で、かつそれを利用し人を騙す者もいるのだ。
相手も旅慣れた冒険者だ、忠告は不要だろうとは思いつつも、男に浮つき気味のエリナリーゼを間近で見ていると、どうしても懐疑的になってしまう。
「子供のフリをした小人族かもしれません。何も盗られてませんか?」
憂慮を口にすると、「わたくしこれでも長生きですの」とエリナリーゼは薄い胸を張った。
「人族かそうでないかの見分けくらいつきますわ。
……ええと、達者に歩けていたから人族だと5歳は越えてますわね。でも抱っこはしやすいサイズでしたわ、だから10歳かそれより下で……」
ハイハイと聞き流していたロキシーだが、「シンディ」という名前が飛び出してきた時に平静ではいられなくなったというわけだった。
肩を揺さぶるような勢いで訊ねた髪の色と瞳の色も一致、年頃は7~10歳。
ロキシーが別れを惜しまれつつブエナ村を出た時、シンシアは2歳程度だったが、成長した今はそれくらいのはずだ。
重大な見落としを知ったところで、すでにウェンポートは遠い。
「な、な、何を考えてるんですかっ! その子こそがシンシアだったかもしれないんですよ!?」
「え? ちょっとお待ちになって。わたくしたちが探しているのは、パウロの娘の、シンシア・グレイラットでしょう?」
「そうです!」
「あの子はシンディですわ」
嫌な予感がロキシーの背を駆け抜ける。
これは説明しなかった自分が悪いのか。いやしかし、人族の社会で生きて長いなら常識として知っているべきでは。
そう思いながら、エリナリーゼに問いかける。
「エリナリーゼさん、あなた……シンディと聞くと、本名はどんなものを思い浮かべますか?」
「シンディアナとか? シンデルウェン?」
悪びれないエリナリーゼに、ロキシーは恨めしい目を向ける。
これは命名法則の違いが招いた悲劇である。エリナリーゼに悪気は無いと知っていても、それくらい把握していろという気持ちは抑えられなかった。
「人族の間では、シンシアの愛称はシンディになるんです……」
「え、ええ? そうだったんですの?」
せめてシンシアがグレイラットの家名を口にしてれば、いや、エリナリーゼが自分の娘になるかと訊いていなければ、防げたすれ違いかもしれなかった。
「わたくしの報告が至りませんでしたわ。ごめんなさい」
エリナリーゼは自分の非を認め、即座に謝った。
しかし過ぎたことだ。たらればは通用しない。人生経験でそれを理解していたエリナリーゼは早々に気を取り直し、豪奢な金髪をサラッとかきあげた。
「まあ、向こうは向こうで達者そうでしたし、そのうちまた会えましてよ!」
「すぐに会って保護しなければいけないんです! 今すぐウェンポートに引き返します!」
「しかしのうロキシー、そのパウロの子はまだウェンポートにおるのか?」
魔獣の手網を握るタルハンドが、今にもとんぼ返りを命じてきそうなロキシーを冷静にさせた。
「いないんじゃありません?」とエリナリーゼが答える。
「〈お兄ちゃんに会いにいく〉と、確かそう言っていましたわ。あの子もわたくしたちのように、家族を捜索しているんじゃなくて?」
「わしらが出発してもう一ヶ月近くじゃ、ウェンポートから毎日どれだけの船が出港しとる? パウロの子がザントポートに向かったとして、時期を考えると、追いかけたわしらは雨季で足止めを食らうじゃろう。ろくに捜索はできんわい。
パウロの子がまだ魔大陸におるなら、このまま各町を転々として探すほうが再会の目はあるぞ」
「むむ……」
行くか戻るか悩むロキシー。
エリナリーゼは「パウロの子、パウロの子とやかましいですわ」とタルハンドの背中を真っ白な肘でつついた。
「パウロの子と聞いて、どんな子を思い浮かべますの?」
「そりゃ……とんでもないクソガキじゃろ」
「その上スケベですわ」
「間違いないわい」
エリナリーゼはシンディ、もといシンシアを思い出す。
健気で可愛い女の子であった。あれは完全にゼニス似である。パウロの面影といったら、自分が男と盛っているのを見ても平然としていた所だろう。ゼニスであれば「もっと慎みをもって!」と説教をしてくるであろうから、そこは母親に似なかったらしい。
パウロの子、ゼニスの娘、両方の血を引いていることには変わらないのに、言い方ひとつで印象が変化する。
「ゼニスの娘と言いなさいな。パウロだなんだと連呼されるシンディが可哀想ですわ」
「何を言っとるんじゃおぬしは」
「ああ……シンディ、見つけてあげたかったです……」
エリナリーゼとタルハンドが妙なやりとりをしている間、ロキシーはがくりと肩を落とした。
「というか、パウロさんとゼニスさんは元パーティメンバーで、顔もよく知っているでしょう。なんか似てるなあ、とか気づけないんですか?」
食い下がるロキシーに、エリナリーゼは物憂げにした。
「まあまあ、無理をおっしゃいますのね。
人族なんてみんなある程度似てますもの。二人の顔は憶えてますけれど、顔立ちから親子関係を察しろなんて、そんなのできっこありませんわ」
長耳族から見た人族などそんなものだ。
全員耳が丸くて、躰つきは炭鉱族ほどではないが太いのが多くて、老けるのが早い。あと耳が悪い。
炭鉱族のタルハンドもそれに便乗する。
彼からみた長耳族も、耳が尖っていて、男もやたら細いから男女を見分けるのが難しい、変な種族であった。
「わしも他種族はだいたい同じに見えるからのう。そして他種族もまた、わしら炭鉱族を全員似たり寄ったりだと評する……ま、お互い様じゃな。区別なんぞすぐにはつかんわい。
ミグルド族とて全員ロキシーみたいなモンなんじゃろ?」
「そんな事ありません、ミグルドの里に来てみればわかります! みんなまったく違う顔です」
ミグルド族の里に入った瞬間、エリナリーゼとタルハンドに「同じじゃないか」と言われる未来を、ロキシーは知らない。
そうして旅は続く。
リカリスの町で出会った魔界大帝よりグレイラット家の居場所を告げられるまで、ロキシーたちは行動を共にし、種族を越えた友情を深めるのであった。
一方ウェンポートでは、少年が物陰の適当な樽に腰を下ろし、港を往来する人々を眺めていた。
特徴のない半袖に、赤い半ズボンという軽装で、首には鉢金を巻いている。抱えている杖は、上部の魔石が襤褸布で覆い隠されているため、それが値打ち物だとは誰も思わない。
十歳程度の背丈と顔つきで、顔の造形は整っているほうだ。
しかし目の下の酷い隈と、漂う敗北者のオーラが、彼を哀れな存在に仕立てていた。
「いないわね!」
溌剌とした声が上がる。隣にいた少女が痺れを切らし、立ち上がったのだった。
少年と揃いの鉢金をヘアバンドのように巻いている少女は、豊かな赤髪を靡かせ、仁王立ちになって声を張り上げた。
「出てきなさい! シンシア・グレイラット! 来ないとタダじゃおかないわよ!」
本人が聞いていれば目を丸くし、何事かしらととりあえず駆けつけてくる剣幕であった。ちなみにだいたいの者は脅えて逃亡するだろう。
「エリス。怖がらせるようなことはやめて……」
「でも、全然見つからないじゃない! 今もコソコソ隠れてるに違いないわ!」
「そうだとしても、それだけの事を俺はしたんだよ」
エリスは渋々拳を下げる。
兄妹喧嘩というには一方的であった糾弾を一部見ていたエリスも、ちょっと妹に言いすぎじゃないかしら、とは思っていた。
自分が面識のない兄に同じようなことを言われたら、まずぶん殴り、それから蹴り上げ、またぶん殴り、半殺しの目に遭わせるだろう。
もしルーデウスが言われる側であったら、エリスはやはりルーデウスを傷つけた相手をぶん殴り、縁を切らせるだろう。
とはいえ、やったのはルーデウスだ。そこは覆せない。
エリスはこれまでの彼の苦労と頑張りを知っているから肩入れをするし、妹のほうがルーデウスを許さないのは、なんだか嫌だった。
ちょっと待ちなさい、と口ばかりか手も出そうになる。
とにかくルーデウスが報われないのは嫌なのだ。
「ルイジェルドでも見つけられないの?」
「どこにも気配がないそうですよ」
「そう、もう町にはいないってことね!」
エリスはすとんと腰を下ろした。
すぐに立ち上がる。
「いない子をどうやって探すのよ!」
「そこですよ」とルーデウスは出航する船を眺めながら口にする。
「シンディの同行者は、ルイジェルドさんのレーダーに引っかからなかったんです」
「どういうこと?」
「つまり、目くらましの魔道具を持っている可能性が高いです。シンディも同様に、何らかの方法で魔力を消すか、レーダーを撹乱させて、追跡を逃れているのかもしれません」
シンシアが宿に無事に着くまでこっそり見守っていたルイジェルドは、ルーデウスが窶れるほど反省したとみて、仲を取り持つためシンシアが滞在する宿に向かった。
そこにシンシアは居らず、代わりに連れてこられたのは、同行者であったという不機嫌そうな黒髪の少女であった。
スキンヘッドの大男を警戒した少女はそんな子供など知らぬの一点張りであり、翌日ルーデウスたちを伴い訪ねた時には、すでに宿を出ていた。
行き先について宿の従業員は口を割ることはなかった。箝口料として、しっかり金を握らされたらしい。
ルイジェルドが黒髪の少女を見つけられないのは、彼女に魔力がないためであるが、そんな事は誰も知らないのだった。
ルーデウスの考えはこうだ。
もしシンシアもザントポートに向かうならば、港を見張っていれば再会できる。
しかしそれらしい影は見当たらず、ルーデウスは日々絶望を深めていた。
ルーデウスからはシンシアの居場所はわからないが、逆はその限りではないはずなのだ。
だというのにまるで町から姿を消したように会えないのは、相手がこちらを避けているからだろう。
ルーデウスはポケットの魔石を思う。大ぶりで透明度も高いそれは、シンシアが旅費の助けにと授けたものだ。
スペルド族の渡航費は緑鉱銭200枚である。大金だが、魔力結晶を売ればほぼ賄える。
パウロの居場所は聞いた。ウェンポートでシンシアと再会するのは諦めて、各々が父親の元に――ミリス神聖国の首都ミリシオン――に向かうべきではないか。
謝るのはその時だ。
それも手だ、というか、エリスをフィットア領に送り届けるという当初の目的を達成するためには、いつまでもここに留まる理由はないのだ。
そう思いながらも、ルーデウスは決断を下せずにいた。
シンシアと入れ違いになり、謝るタイミングを逃し、関係の修復が手遅れになった未来を想像すると、足が竦む。
「キャアアァ!」
「掏摸だ!」
悲鳴と怒号が往来に響く。
人混みからは小柄な男が飛び出し、身軽に人を躱し、時には跳ね飛ばす勢いでぶつかりながら逃走する。
視線は掏摸を追いながら、立ち上がるルーデウスの動きは緩慢だ。
デッドエンドならば、悪は見過ごせない。掏摸をふん縛って財布を被害者に返し、衛兵に突き出すべきだ。
特に人目の多い今ならば、絶好の見せ場となるだろう。
理屈はわかっていても、精神状態に引き摺られ、どうにもやる気になれない。
ルーデウスは首を振る。
魔大陸での旅路において、ルイジェルドには大恩がある。最近だって、妹相手にヒートアップした俺を止めてくれた。
今やれることをするのだ。スペルド族の名誉回復のために動かねば。
「行きますよ、エリス」
「わかったわ!」
駆け出すルーデウスの後を、やっと暴れられる期待と興奮に目を輝かせたエリスが続く。
掏摸は身軽に飛び、屋根から屋根を渡る。走る速度ではエリスとルーデウスも負けてはいないが、地の利は向こうにあった。
中年の掏摸は少年少女を愚弄するが如く、露店の天幕に飛び乗った。獣皮製の天幕は大きくたわみ、掏摸を高く遠く飛ばした。即座にエリスも続く。
跳躍力の足りないルーデウスは地面を素直に走る。
しかし老朽化が進んでいた天幕の脚は二度目の衝撃でバッキリ折れた。
下敷きになる商品の魚、店主と客。そしてルーデウス。
「何なんだ! 誰がやりやがった!」
魔族の店主は激怒し、今にも角材を振り回さんとしている。
派手に倒壊した店に衆目は集まり、野次馬が増える始末であった。
一人這い出たルーデウスは、地に落ちた天幕を踏み立った。
気怠げな顔で地に手を翳し、土魔術を行使する。
メキメキと柱は地から伸び、店構えは元通りになっていく。頑丈さは壊れる前以上だろう。
ポカンとする店主や野次馬をルーデウスは見下ろした。
屋台が壊されたと思いきや、ゴツく修繕されたのだ。
押し上げられ、店の屋根に立っている少年が注目を集めるのは、当然の流れであった。
「あー……」
あいつがやったのか、子供だぞ、何なんだあの死んだ目は、と騒つく他人が、ルーデウスには煩わしかった。
普段ならば意気揚々とデッドエンドの名乗りをあげる所だが、どうにも気が乗らない。
視野の端では、顔を腫れ上がらせた掏摸を、エリスが首根っこを掴んで捕獲している。
やることは終わった。
事態に収拾をつけるため、ルーデウスは頬をバチンと叩き、空元気に声を張った。
「ワハハ! 者どもよく聞け! 掏摸を捕まえたのはデッドエンドのルイジェルドだ!
そして店を破壊したのは俺! 俺はルージェルドだ! あ、間違えた……」
訂正するほどの気力はなく、憔悴した様子の少年は、赤毛の少女と連れだって去った。
嵐のような出来事に人々はざわつき、やがてそのざわめきも収まり、解散していく。
「あいつが店を壊したのか……?」
「でも、なんか建て直していったぞ……?」
「何がしたかったのか全然わかんねえけど、変なガキだったな」
「やべえな」
「ああ」
「何者なんだ、デッドエンドのルージェルド……」
町にはじわじわと、そんな噂話が広がっていく。
横の店で香辛料を吟味していたナナホシは、変な子ね、と思っていた。
黒髪を後頭部でまとめ、フードを被っていたナナホシは、ルーデウスとエリスの目には留まらなかったのだった。
数日後、ルーデウスは北聖の剣士に声をかけられる。
北聖の剣士はかつて、ルーデウスが予見眼を得た直後に救った男であった。
デッドエンドの噂を聞きつけたその男は、スペルド族のルイジェルドを奴隷の密輸として無料で渡航させる話を持ちかけ、代わりに囚われた獣族の子供を解放するよう依頼した。
子供を奴隷にする非道にルイジェルドは怒りを露にし、妹からもらった魔石を
こうしてデッドエンドはザントポートに渡る。
しかしルーデウスの心には、大きな後悔と蟠りが残ったのだ。
「忘れ物は?」
「ないのよ」
パウロとの再会を約束されたシンシアは、ウェンポートの宿で旅装に身を包み、出発の時を待っていた。
身支度を終えたシンシアは、仮面をつけ、マントのフードを被り、いつもより厳重に姿を隠すナナホシを不思議に思う。
自分がウェンポートを一時期離れる前と後で、宿を変えていたのも不思議だった。
視ることで人の居場所を探知できるシンシアは辿り着けたが、そうでなければ一晩迷い続けるところであった。
「さ、行きましょう」
「うん」
ナナホシと町の外に向かいながら、シンシアの心は迷っていた。
ルーデウスに会いに行くべきか否かだ。
現在、シンシアは兄の居場所を知らない。
視ればわかるのだが、それもできないでいた。
生まれた時から可愛がってくれていたルーデウスに感情的に責められたのは、シンシアにとってあまり思い返したくない過去となっていた。
自分と縁を切り、楽しそうにしている兄が視えてしまったら。
シンシアは悲しみのあまり泣くだろう。そしてナナホシかオルステッドにくっついて離れないだろう。
パウロの居場所は伝えてある。シンシアのことを嫌いになっていても、ルーデウスは他の家族の元に向かうはずだ。
だから今から会おうとしなくても、そのうち自然と再会できるだろう。
いやでも。
病気をしているかもしれない。
何か困っているかもしれない。
そう考えたシンシアが覚悟を決めてルーデウスを視ようとした時、既にシンシアは町の周壁の外にて、オルステッドと合流していた。
「なんだか気が休まらなかったわ。妙な子供はいたし、ハゲの大男が急に訪ねてきたし」
「何もされなかったか?」
「ええ。目当ては私じゃなくて、シンシアだったみたい」
「あなたを探してる人がいたわよ」と言われ、シンシアはしようとしていた事も忘れ、パッと期待を顔に浮かべる。
お兄ちゃんが来てくれてた!? と喜んだのである。
「ハゲの大男だったけど、心当たりない?」
「ないやい」
ある訳がなかった。シンシアは落胆した。
ナナホシの言う〈ハゲの大男〉とは、ルイジェルドである。
彼がルーデウスを止めた時にシンシアとも面識はあるのだが、俯いて泣いていたシンシアが憶えているのはルイジェルドのつま先のみであった。
「それと、妙な子供が露店を魔法みたいに建て直してたわ。土魔術だと思う。無詠唱だったし、オルステッドかシンシアの関係者かもしれないわね」
異世界にきて初めて出会ったオルステッドとシンシアが当たり前のように無詠唱で魔術を使うため、実感は薄いが、それが珍しい事はナナホシも常識として知っていた。
土魔術、無詠唱と聞き、お兄ちゃんかもと再び期待するシンシアであった。
「ルージェルドって名乗ってたわ」
「知らないやい」
シンシアはまた落胆した。
ルージェルドなんておかしな名前だ。ルーデウスのほうがかっこいいのに……。
罪のないルージェルドの名に内心で八つ当たりをしながら、シンシアは足元の土塊を蹴った。
そんなシンシアを見下ろしているオルステッドは思う。
彼もルージェルドなどという無詠唱の子供に心当たりはない。
しかしオルステッドは、シンシアの口から、ルーデウス・グレイラットという実兄の存在を聞いていた。
シンシア同様、今までのループでは生まれていなかった人物だ。
ルーデウスはシンシアの魔術の師であるらしい。であれば無詠唱で魔術も使うだろう。
ルージェルドはナナホシの聞き違いであって、本来はルーデウスと名乗っていたのでは。
ルーデウスは気になる存在だ、引き返して声をかけ、能力を試したいところだ。
オルステッドはそんな思考を口にはしない。
ルーデウスの話をする時、シンシアがしょげるのがちょっと可哀想だったからだ。
親元に帰すと言った以上、早く行動してやりたい。
ルーデウス云々はシンシアと別れてから、単独でやればいい。
シンシアも今は落ち込んでいるが、父親に会わせれば喜ぶだろう。
すまないが、それまで耐えてもらう。
「どうして私のこと見るの」
「哀れだな」
シンシアは蔑みからくる発言と表情だと誤解せず、同情されていると正しく理解した。
長い付き合いだからだ。
そうして彼らはウェンポートを去った。
次の行先はミリシオン――の前に、ケイオスブレイカーである。
まだ一つ残っている課題、ナナホシの今後の身の振り方を決めるためであった。