シンシア視点
サラサラと髪を撫でられる感触があった。
眼を瞑り、横になっていてる躰を自覚する。そこに至るまでの記憶は曖昧だ。
頬には、柔らかくてあたたかいものが当たっている。
自分の寝具ではない、他の人の匂いに包まれている。
シルフィみたいな……。
「……む……」
目覚めると、火よけの鉄衝立と、奥でパチパチと燃ゆる炎が視界にあった。
居間である。
もぞりと寝返りをうち、丸みを増した相手の腹に手や頭が当たらないようにする。
「……シルフィ」
「起きたの? シンディ、大丈夫?」
ゆっくりと怠い躰を起こす。
朝に着替えた制服は、襟元を緩められていた。
上衣だけは脱がされ、下の白いブラウスと、赤色のスカートは皺になっている。
そうだ、と私は今朝のことを思い出す。
制服に着替えて、ノルンと一緒に学校に行こうとしたのだ。
すこし怠かったけれど、朝は起きられたから、朝食は食べれたから、と、少しずつ躰の不調を誤魔化していた。
そうしていよいよ具合が悪くなり、居間の長椅子に躰を預けたまま、立ち上がれなくなってしまった。
シルフィに聞くと、ノルンは私を心配しながらも登校し、欠席の連絡をしてくれたらしい。
アイシャは、シルフィに私を任せ、滋養のつくものをと買い物に出かけたようだ。
心苦しくなる。身重のシルフィに面倒をかけてしまった。
朝の時点で、学校には行こうとせず、素直に休んでおけばよかったのだ。
人に迷惑をかけてしまう無理は、美德にはならない。
反省である。
「ごめんなさい……」
「いいんだよ。……どうかな、ひとりで立てる? 部屋に移動させたいけど、無理そうだったら」
私は首を振り、長椅子の肘掛けに手をついて立った。
寝かせてもらえたのがよかったのか、自室への移動くらいならできそうだ。
自室に行き、アイシャが整えてくれたのだろう、綺麗に皺を伸ばされている寝台に横になる。
シルフィは心配そうについてきて、私が楽な服に着替えるのに手をかした。
「ねえ、何かボクたちに隠してるわけじゃないよね? 悪いものを飲んでるとか、ルディが大学でやってたみたいな実験を、自分の体でやってる、とか……」
「心配なさらないで。じきによくなるわ」
不調は隠しきれず、返答は短くなってしまう。
おおよその検討はついている。
昨日、父様を守った。その反動だろう。
トウビョウ様は呪うほうが得意な神様だ。
あんなふうに強引に介入して助けられたのは、相手が
私には、兄を庇った父様が死ぬ未来が視えていた。
ヒュドラの迷宮に囚われた母様を、助けに行った父と兄。
兄は生き、父は死ぬ。
父様は、竜に関わったために、死ぬ。
パウロ・グレイラットは竜に呪われている。
と、した。
ヒュドラそのものは、他の魔物のように遠隔では祟り殺せないだろう。
しかし、呪いの強さなら。
私の蛇産みによって力を増したトウビョウ様ならば、呪いの強さにおいては勝てる。
オルステッドのように龍神の名を持つ者には変わらず通用しないだろうが、魔物に堕ちたヒュドラ相手であれば通じると確信した。
かくして私は父様を呪い、父様は死を免れた。
いつか海竜を呪い殺したように、足萎えの盲に戻らずに済んだのは、竜そのものは呪い殺していないからだろう。
私はあくまで竜の呪いを退けただけ。
ヒュドラを斃したのは、父様と兄たちである。
父様に憑いた蛇は、彼が帰還した時に回収しよう。
それまで魔物に襲われやすくなる程度の不運はあるだろうが、父様はそれくらい物ともしないはずだ。
あとは待っていれば、兄が父様たちを連れてこの家に帰還するだろう。
私は枕に頭をあずけてシルフィを見上げた。
シルフィは私の寝台の横に椅子を引っ張ってきて、そこに座っている。
指の先まで温かいシルフィの手が、私の手に絡んだ。
昔のことを思い出す。
ノルンとアイシャが産まれる日、幼い私はシルフィの母親に預けられていた。
私は幼い女の子に過ぎなかったけれど、それはシルフィも同じだった。
あのとき母親に次子をせがんでいた女の子が、いま、自らの子を妊んでいる。
巡る命の尊さに感動を憶えながら、私はその循環の一部にはなれないのだった。
「どうにもならないのよ」と、私は伝えた。
「……それは、ルディにも言っていいこと?」
「いけないこと」
私は笑い、シルフィの手を握りかえした。
シルフィはむっと黙りこくっている。その表情の奥に、怒りを抑えつけていると感じた。
今はまだいい。
蛇産みからの恢復は早く、体力もある。
こういう時と出産期以外は、まだまだ動ける。学舎にも通える。
私はあと何年こうしていられるのだろうと思い、グラグラとする眩暈から逃れるために目を閉じた。
ルーデウス視点
ゼニスの救出に成功した。
俺を庇い、ヒュドラの首に薙ぎ払われたパウロも、生還した。
腹部が大きく凹んでいるところを見た時は冷や汗が流れたが、治癒魔術によって何とか持ち直したのだ。
生前の世界だったら、まず助けられなかっただろう。
ふと、思う。
俺の生前の両親は、どうして亡くなったのだろう。
生前の家は広く、葬式は自宅の一階でやっていた。
坊主のお経や線香の匂いは上にいても感じられて、俺は率直に言って、煩わしいと思っていた。
葬式が始まると多少の動揺もあったし、死因も気になりはしたが、窓から喪服の列がぞろぞろとやってくるのを見ると、とうてい自室から出る気にはなれなかった。
二人同時に葬式をあげていたのだから、病死や自然死ではないだろう。俺と同じような交通事故かもしれない。
それすら知らされず、知ろうともせず、俺は自室に引きこもっていた。
いや、一番上の兄貴が、両親の死を伝えにきたのだ。
俺は返事をしなかった。現実感はない。そうかよ、と他人事みたいに思っていた。
あのタイミングで外に出ていれば。
少し扉を開けて、話を聞いていれば。
兄貴の事だから、俺が社会復帰できるように色々と手を貸してくれただろう。
俺はそのうち、両親の死とも向き合うことができたのかもしれない。
「今更どうしようもないか……」
「え?」
「いや、独り言です」
不思議そうなロキシーに苦笑を返した。
失血によって意識がぼんやりしているパウロの身を案じ、ヒュドラを倒した大広間で一日を過ごすことにした。
俺は何か起きても対応できるようにパウロとゼニスのそばにいたが、他のメンバーは大量の魔力付与品を大喜びで拾い、ああだこうだと話しながら荷物に詰めていた。
そんな中で、ロキシーは、なぜか俺の横にいる。
「一緒に拾いに行かなくていいんですか?」
ギース、エリナリーゼ、タルハンドらを遠目に眺めながら、俺はロキシーに訊いた。
あの中に混ざらないと、俺たちの分け前がなくなるんじゃなかろうか。
まあ、俺は別にいいが。
ここまで協力してくださった師匠には、たんまりと報酬を得てほしい。
「分け前については、あとで話し合います。ルディの分も、わたしがしっかり確保しておきますからね」
ロキシーは小さな手で、俺の左腕の先をさすさす撫でた。
左手があった場所。
ヒュドラの眼に拳を突っ込んだ時に、失った左手だ。
肘と手首の間でバッツリ切り落とされてしまったが、治癒魔術によって断面は塞いだ。
再生したての薄ピンク色の肌が、やや不恰好に盛り上がって残っている。
新しい皮膚は、薄皮一枚を剥かれたように敏感だ。
ロキシーは上目遣いで俺を見た。
「いまは、ルディに不便があったときに、助けたい……です」
「そうですか……」
金銭は大事だ。
俺はそれを、デッドエンド時代に嫌というほど知った。
ロキシーもそれを知りつつ、今は俺に献身したいという。
やはり素晴らしいお方だ。
気が緩む。
「あぁ!? 何だこりゃあ!」
その瞬間、ギースの声が聞こえた。
俺とロキシーはサッと立ち上がって彼らの元へと駆け出す。
立ち上がる瞬間、バランスを崩しかけたが、ロキシーが支えてくれた。
まだ魔物がいたのか。
ベビーヒュドラでも発見したのだろうか。
ところがギース達は、何やらワヤワヤとしているだけで、武器を抜く様子がない。
彼らが注目しているのは、大広間の柱。
正確には、その影だ。
念のためギースは距離をとっている様子だが、エリナリーゼは臆していない。
「チッチッチッ、怖くないですわよー」
エリナリーゼはしゃがみ、影に向けて指をクイクイと動かしていた。
タルハンドは不可解そうに逞しい髭を摩っている。
「何かいたんですか?」
「アレじゃ」
アレじゃ、ではわからん。
しかし二人が丸腰で、まるで警戒していないという事は、危険度は極めて低いのだろう。
俺はエリナリーゼの背後に立ち、柱の影を覗き込む。
黒い影が一部もぞりと動き、四本足を生やして動き出した。
「うん……?」
ふわふわの黒い影が、俺の足元にすり寄る。
影、いや、毛玉だ。
獣の耳が生えた、四本足の毛玉である。
三角の耳がついた頭部に、伸縮性のありそうな胴体を持ったそいつは、俺を見上げた。
そして、顔全体をくちゃっと歪めて、高らかに鳴いた。
「ニャーン!」
「お前、雪白か!?」
生きていたのか!
懐かしい黒猫を認めた瞬間、俺は警戒を解いた。
ブエナ村のパウロさんちには、ペットが一頭と一匹いた。
まずは馬のカラヴァッジョ。パウロの愛馬で、ときに家族の乗り物となる中々賢い馬だった。
そして猫の雪白。シンディが拾った仔猫が、そのままふてぶてしく育った。
漆黒の毛並みを持つ黒猫だが、名前は〈雪白〉だ。
ミルクまみれになって毛並みを白く染めたさまが雪のようだと、そう名付けられた。シンシアによって。
「黒いですよね?」
「黒いですわよ」
ロキシーとエリナリーゼの会話を聞きながら、俺は肩に飛び乗ってきた雪白を受けとめる。
ああ、懐かしいな、この感じ。
あまり獣に懐かれない人生の中で、こいつとドルディアの巨犬だけが俺にすり寄ってきてくれた。
「お前も無事だったのか? まさか母さんと一緒に、ずっとここに?」
思わず訊くが、所詮は畜生。
マスコットキャラクターのように人語を話すわけでもない。
ゴフゴフゴロゴロと喉を鳴らし、雪白は襟巻きのように俺の肩に落ち着いてしまった。
「おべっ」
たしんたしんと動く尻尾が、俺よりも頭の位置が低いロキシーの顔に直撃。
ロキシーは渋面でぺっと舌を出した。
猫毛が口に入ったようだ。
可愛い。
「お、おい、先輩……近づきすぎじゃねえか? こんな所にただの小動物が居られるわけがねえ。油断したところを襲われるかもしれねえぞ」
「いや、大丈夫です。こいつは知った顔なんです」
ビビるギースに、俺は説明した。
この猫は昔うちで飼っていた猫である事。
推測になるが、ゼニスと一緒に転移してきたのではないかという事。
「ゼニスのように、結晶に閉じ込められておったというのか?」
タルハンドが俺の肩上と大広間の奥を見比べる。
どうだろう。
氷漬けのように結晶に埋まっているのは、ゼニスだけに見えた。
俺たちはゼニスしか見ていなかったが、実はこの黒猫も一緒に中にいたのか。
雪白はエリナリーゼに懐かず、俺に懐いている。
この様子だと、雪白は俺を憶えているのだろう。
記憶がある、ということだ。
迷宮の結晶に閉じ込められた者は、例外なく記憶と人間性を喪失する。又聞きではあるが、そういう話と聞く。
畜生には適用されないのだろうか。
俺はゼニスを横たえている方向をチラリと見る。
「母さんは睡ったままなのに、猫ならすぐ動き回れるものなんですかね」
「さあ……それはわかりませんけども」
エリナリーゼも首を傾げる。
不思議な現象だ。
っと、急に体が怠くなってきた。
なんだか肩が重い。
達成感こそあれ、疲労はさほど感じていなかったが。
気づかぬうちに溜まっているのだろう。
今にも押し潰されそうだ。
ロキシーを見ると、彼女は杖をこちらに構えていた。
ギースが、タルハンドが、エリナリーゼが驚いた顔でこちらに手を伸ばしたり、剣に手をかけたりと、思い思いの反応をしていた。
「ルディ!」
次の瞬間、俺は黒いものに押しつぶされた。
芳ばしい匂いに包まれる。
あたたかい。
そして黒い。
窒息。その言葉が頭をよぎる。
「むぐぐ!」
俺はがむしゃらにもがき、そこから這い出た。
何だ? 何が起こった?
「擬態型だ!」とギースが叫ぶ声が聞こえ、俺は警戒を露わにしたエリナリーゼ、タルハンド、ロキシーに囲まれている。
「ルーデウス! 早くこちらへ!」
いや、俺じゃない。
囲まれているのは、猫の雪白だ。
猫は、鼠を捕らえるハンターだ。
農作物を食い荒らす鼠は人間の敵で、猫は鼠を食う。
その一点で、猫は犬のような忠義心を持たずとも、人間と共存していた。
しかし猫が巨大であった場合はどうか。
獅子と一緒に暮らそうと思うやつは、早々いないだろう。
いないこともないが、前世にテレビで見たような一部の海外セレブだ。
小型であるからこそ、猫は多少傍若無人でも問題視はされてこなかった。
だが、もしも。
普遍的な猫が、——六畳一間を軽く埋め尽くしそうなサイズだったら。
そんな生き物に、猫特有の気まぐれが加れば、そいつは脅威に他ならないのである。
「雪白……?」
ゴルル、ゴフッ。
轟のような音を喉から発し、巨猫は丸太のような前足を畳んだ。
俺の背丈をゆうに超えた雪白は、薄ピンク色の鼻面を俺の右手に押しつけた。
鼻息を浴びせられる。
鼻筋の毛並みはベルベットのように滑らかである。
……ふむ。
害意はないと見ていいだろう。
喉を鳴らして目を閉じているのが、何よりの証拠だ。
先ほど押し潰されかけたのも、雪白がデカくなるタイミングで、俺がたまたま下にいた。
それだけのことだ。
雪白を背後に庇い立つ。
俺はロキシーたちに両腕を広げてみせた。
なんにもいないわ、なんにもいないったら!
その後俺たちは、パウロが動き回れるほど回復するのを待ち、数日かけて転移迷宮から帰還した。
雪白は大人しくついてきた。小さくなって人の荷物の中に入り、肩に乗り、そうされるのが当然のように運ばれた。
魔物が出たときは大猫サイズになり、イートデビルや朱凶蜘蛛に飛びかかった。その働きぶりは番犬ならぬ番猫のようであり、次第にほかの面々の警戒は解けたようである。
何より巨大な猫は、ふかふかの暖かい寝床として、あまりにも魅力的だったのだ。
「ルディ、わたしはほぼ確信を持っていますが、その猫は……」
ロキシー師匠曰く、
雪白は、多分、魔獣になったのだろう。
迷宮の深部というきわめて魔力濃度の高い場所で、突然変異を起こしたのだ。
今はまだ誰も襲われていないが、根っこは猫である。
いつ気まぐれを起こすかわからない。
自分の身を守るために、守護魔獣の契約を結んだほうが良い。
ラノア魔法大学なら学べるだろう。
とのこと。
魔獣化に関しては同意見だが、魔法陣に関して俺は門外漢である。
そのためピンとはこないが、言われてみれば、そんな授業もあった気がする。
「基本的に、自分より魔力量の多い魔獣を従わせることはできません。しかし、ルディなら大丈夫でしょう」
師匠に太鼓判を押される程とは。
自分の魔力総量が誇らしくなる。
あ、でも、雪白はシンシアの猫だ。
幼いながら一生懸命面倒を見ていたし。
魔力量が足りるなら、契約主はシンシアにしよう。
俺と一緒に魔術の練習をしていた時も、疲れたところは見たことがない。少ない事はないはずだ。
今の俺がラノア魔法大学の特別生であることを知ると、ロキシーは喜んだ。
彼女も卒業生。俺達家族が全員見つかったら、シャリーアに戻って教師になる夢があったようだ。
今まで自分の夢を後回しにして、俺達のために尽力してくれていたのだ。
まったくロキシーには頭が上がらんな。
迷宮に一緒に潜る約束もしてしまった。
俺はホワホワしたまま皆と帰還する。
「旦那様、ルーデウス様!」
「ああ、帰ったぜ、リーリャ。ゼニスも連れ帰ることができた」
宿で待っていたリーリャたちに、パウロが全員の無事を伝える。
リーリャは泣いて喜んでくれた。
ここまでパウロについてきたヴェラとシェラの姉妹も、安心したように微笑みを交わした。
その夜はお祭り騒ぎであった。
Sランクの転移迷宮が攻略された噂は冒険者たちの間を駆け抜け、新生『黒狼の牙』は、一躍有名に。
さっそく吟遊詩人たちがラバーブやナーイの音色に乗せて一連の出来事を歌い上げ、闘神語の独特な抑揚は酒場や街角に響いた。
ラパンでは注目の的となった『黒狼の牙』だが、もっぱら俺達の関心は別のところにあった。
ゼニスの容態である。
ゼニスは迷宮を脱出し、宿に到着するまでの数日間、睡り続けていた。
その間、食事も水分も摂れなかったというのに、顔色は良く、痩せてもいない。
30代ではあるはずだが、20代と言われても信じる若々しさだ。
まるで転移事件から時が止まっているかのようである。
ギースやタルハンドなんかは飲み歩いているようだが、俺たち家族とロキシーは、自然とゼニスを寝かせた部屋に集合する。
ゼニスは目覚めない。
転移事件の時に着ていた服は、リーリャによって寝間着のような白いワンピースに着替えさせられた。
結われていた髪は解かれ、赤ん坊のように安らかな顔である。
身じろぎ一つしない。
「父さん、キスでもしてみれば目覚めるかもしれませんよ」
「マジか」
「うおっ、冗談です。二人きりのときにやってください」
ノータイムでゼニスに顔を近づけたパウロの服を掴んで止めた。
両親の熱いキスシーンなんか見たいものか。
あれ、子供の時は、全然平気だったんだが。
情事のギシアンだって面白がっていられた。
身内だからか、年齢的なものか、ロキシーのように興奮はしなかったが……。
考えてみれば、この躰は16歳だ。思春期なのかもしれない。
いや、この躰という言い方はやめよう。
俺は16歳。多感なお年頃だ。
「はぁ……」
パウロは元気がない。
さっきの冗談に乗ったのも、彼なりのユーモアだったのだろうか。
「バカ言いやがって」と小突いてくる反応を予測していたのだが……。
悪いことをしたかな。
早いところ、ゼニスさんには起きていただきたいところだ。
俺はゼニスの顔の前に右手をかざして、呼気のあることを確かめる。
「ルディ……手、なくなっちまったな」
使わなかった方の腕。
パウロは俺の左手に視線をやった。
正確には、左手が本来あるべき場所に。
俺の左手は、肘関節を残し、途中で断ち切れていた。
ヒュドラの片目に突っ込んだ時に失ったのだ。
「このくらい安いものです。誰も死なずに済んだじゃないですか」
「そんな軽く言うなよ。……なあ、王級の治癒魔術なら、失った手足も生えるって、ロキシーちゃんから聞いたぞ。お前、王級治癒魔術師の知り合いとか、いないのか?」
「流石に心当たりはありませんよ。多分、魔法大学にも使い手はいませんし……」
修練棟の治癒魔法陣も、あれは確か聖級だ。
聖級治癒魔術は、ちぎれた部位を再び繋げることはできても、新たに生やすことはできない。
「よし。決めた」
と、パウロは言った。
「オレはシャリーアに行ったら、ゼニスを治せる医者を探しつつ、王級治癒魔術師も見つけて連れてくる。
ルディ、お前はシルフィと自分の子供のために生きてくれ。母さんの治療は、他のすべてを後回しにしてまでお前がやることじゃない。
母さんと、お前の腕のことは、オレがなんとかする」
パウロは腕力は強いが、俺を上回る医学知識はない。
魔力の扱い方も知らないから、実験動物の魔獣化の研究も引き継げるとは思えない。
だというのに「なんとかしてやる」の言葉で安心するのは、彼が俺の父親だからだろう。
そうだった。
ブエナ村でもミリスでも、ベガリットでも、パウロはずっと俺の父親だったのだ。
そしてこれから先も、俺は、この男の息子なのだ。
「父さんは、ずっと俺の父さんだったんですね」
「何言ってるんだ、当たり前だろ」
心底不思議そうなパウロ。
俺は照れ隠しに胸の前に垂れていた髪をパッと後ろにやり、「でも」と食い下がった。
「研究は続けますよ、無理のない範囲で。アレはもう俺の趣味でもあるんです」
「そうか? ならいいが」
「左手のこともですね、今の所それほど不便は感じていません」
と、俺はロキシーを見る。
部屋で大人しくしていたロキシーは、一瞬ビクッとした。
彼女はすごい。
「支えたい」との言葉は本心らしく、寝る時と風呂トイレ以外は常に俺の左側に付き添っている。
しつこくなく、かと言って気配を消しすぎもせず、必要な時はサッと文字通り手を貸してくれる。
それがここ最近のロキシーだ。
髪も彼女が結ってくれた。
「先生のおかげですよ。ありがとうございます」
「いえ……ルディのセンスが良いんです。魔術を変わらず使えるのには、驚きました」
何もかも五体満足であった頃と同じとは言えないが、さほどの差を——戦闘においても——感じないのは、俺が剣士ではないせいもあるだろう。
あとは、元々片手でも混合魔術は使えるように訓練していたおかげだ。
なんでだっけ。
そうそう、シンシアのためだ。
生まれつき左手では魔力を扱えない妹。
シンシアが右手だけでも混合魔術を使えるように、色々検証した時期があったのだ。
「家に帰れば、ルディのお嫁さんがルディを支えてくれるでしょう。わたしのことは、それまでの代わりとでも思ってください」
ロキシーはもじもじと前髪をいじった。
所在なさげでもある。
眸の奥に見え隠れする熱は、誰に向いているのか……。
……。
いや、まさかな。
ロキシーは尊敬すべき師匠で、ロキシーにとっての俺は昔魔術を教えていた弟子だ。
そんなことがあるはずない。
支えてくれるのも、純粋な善意なのだ。
妻子ある身の俺に、そんな感情を抱くはずがない。
そうですよね? パウロさん、リーリャさん。
「……」
二人は難しい顔をしていた。
どうしよっかこれ、という雰囲気だ。
いやいや。
まさか。
「し、シンディも、母さんに会えたら喜びますね」
俺は話題を変えた。
そのときだった。
ゼニスの瞼が、ピクリと震えたのだ。
「!?」
俺たちは一斉にゼニスに注目する。
指先が、肩が、少しずつ動いた。
目覚める予兆と、誰もが察した。
固唾を飲んで見守られる中、ゼニスはゆっくりと目を覚ました。
「ゼニス!」
「奥様!」
青色の眸は虚ろだ。
表情も感情も抜け落ちたかのようだ。
リーリャに抱き起こされても、ゼニスは寝起きのようなぼんやりした顔のままだった。
しだいに首を動かし、緩慢な仕草でパウロを見た。
次に、リーリャを見た。
そして立ち尽くす俺を見て、首をかしげた。
「母さん、俺です。ルーデウスです」
俺はたまらず膝をつき、ゼニスの手を握った。
ゼニスの瞳はうろうろとして定まらず、握り返してくる感触もない。
少し開いた口のはたから、たらりと唾液が流れた。
「失礼」
俺はゼニスの呼吸、筋肉反射を見た。
脳から神経への伝達が上手くいかず、筋肉が勝手に弛緩する病気もこの世にはあるのだ。
結果、異常はなし。
「うー……ぁー……」
俺たちが話しかけ続けても、ゼニスは返事をしなかった。
時おり喃語のようなものを口ずさみはするが、声かけに反応しての事ではないように思える。
知性も感情も感じられない。
俺のことも、憶えてはいないだろう。
「……」
ゼニスが起き上がり、パウロとリーリャを見て驚き、成長した俺を見て「大きくなったわね」と抱きしめてくれる。
そんな奇跡を信じたい気持ちもあった。
シンシアが言ったことならともかく、ゼニスのこの状態を予言したのは、誰とも知れぬ龍族と魔族の混血だ。
居場所は当てた、でも、一部は外れて、ゼニスは元のままかもしれないじゃないか、と。
すべて的中していたわけだ。
覚悟はしていたが、キツい。
「ゼニス様は、もう……なぜ……!」
リーリャの言葉にならない嘆き。
もうゼニスは失っている、なぜこんな目に遭わなければならなかったのか。
そう言いたいのだろう。
すべてのきっかけは転移事件だ。
転移事件はナナホシの召喚によって起こったものだ。
それはナナホシの意図したことではなかった。
だから俺も責めたりはしない。
俺がナナホシの味方でいられるのは、追い詰められた彼女を知っているから。
そして、俺の身内は、命だけは助かったから。
転移事件はナナホシが原因ではあったけれど、ナナホシのせいではないと聞いて拳を収めたシルフィは、かなり優しい気質なのだ。
パウロは黙って、ゼニスの何も見ていない瞳を見つめ返した。
やがて逞しい腕を伸ばして、ゼニスを抱き寄せた。
「あえー、あー」
それすら何も感じないのだろう。
ゼニスの頭がカクンと揺れて、天井を力なく見上げた。
抑揚の妙なうめき声は、確かにゼニスの口から聞こえてくるのに、声音はまるで異なる。
俺の知る母親のゼニスはいない。
あとに残ったのは人形のような白痴。
パウロがぽつりと零した。
「……ルディ、母さんは、やっぱりダメだったみたいだ。
お前が立派になって、オレも生き延びて……良い事ばかりだったから、これも期待してたんだがなぁ……」
ゼニスはもう前のゼニスじゃないかもしれない。
治療方法を探そう、元に戻せるようにしよう。
口ではいくらそう言っても、現実として直面すると、やはり大きな喪失ではあって、苦しくもなる。
泣きそうだ。
「いいんだ、生きていれば……」
パウロは鼻を啜り、震える声を抑えて、ゼニスの後頭部に手をまわした。
優しい手つきで、寝乱れた金髪を撫でている。
「おかえり、ゼニス」
最後の家族が見つかった。
転移事件は終わらない。
俺たちは災害によって人生を変えられた。
被災者にとって、転移事件は、その生涯中終わることはないのだろう。
あの日失ったものや人が多すぎて、一生かかっても、全部取り返すことは、できそうにない。
それでも。
やっと、一区切りついた。
そんな心地がした。
次回、「ノルン、アイドルになる」/「浮気」の二本立てです。