芹杜は青褪めたままの志選の肩を抱き、伊鶴を引きずってその場を離れた。ここにいてもできることは、何も無い。周囲を警戒し、誰にもつけられていないことを確かめ、マンホールの下に潜る。雨で多少増水した下水道を抜け、24区の地下道の手前あたりでようやく腰を下ろした。マンホールを降りる時に傘を閉じたから、全員ぐっしょりと雨に濡れていた。
「乾かすから脱いどけ」
のろのろと上着を脱ぎ、拾ってきたビールケースに干す。一口コンロの上の薬缶がシュンシュンと湯気をあげ出したころ、青い唇に血の気が戻ってきた志選が呻いた。
「分かっていた、つもりだったよ」
「……うん」
「沢山の人が死んだんだ」
「えぇ」
「僕たちは彼らの犠牲の上に成り立つ世界に生まれてきた」
伊鶴が重苦しく相槌を打ち、芹杜は黙って紙コップの中のインスタントコーヒーにお湯を注いだ。
「受け入れなければならないね、現状を。
僕たちも、喰種なのだということも」
喰種と人間の違いが稀薄な未来とは違う。この時代の喰種は人間にとって天敵であり、その逆も然り。お互いを歩み寄れる“者”だと思うことは、ありえない。
伊鶴と志選は選ばなければならない。人か、喰種か。どちらとして生きるのか。しかし、二人は人を選ぶ気はさらさらなかった。仲間を置いていくことなど、絶対にありえない。
「それは違う」
芹杜が口を挟んだ。
「お前たちは半喰種だ。喰種でもあるが、人でもある。人の生き方を棄てるな」
「っ、だって、」
伊鶴が奥歯を噛み締め、呻く。
「セリは、喰種なんだよ。Rclが無いこの時代の普通の食事は、セリの栄養にならない」
この時代に落ちて既に三日が経過している。その間、芹杜は珈琲と、珈琲に混ぜた伊鶴と志選の少々の血液しか摂取していない。食事こそ一緒に摂っていたが、それは喰種である芹杜の栄養にはなりえない。いくら美味しく食べられても、吸収できるわけではないのだ。
「竜管で消耗してから、もう三日食べてないでしょう」
「血は飲んでるだろ」
「血に含まれるRc細胞なんて嵩増しにしかならない。
それくらい、分かってるでしょ。自分の体なんだから」
半喰種の血液に含まれるRc細胞は、人間のものより遥かに多いが、所詮は血液だ。肉の含有量とは比べ物にならない。ただ生きていくだけならそれでもいいだろう。しかし、戦闘の腕を、赫子を鈍らせないようにするならなおさら、きちんとした量を定期的に摂取する必要がある。
「必要な分は摂ってる」
「赫子も出せないくらいの量を、ね。
もし、もしもよ。戦闘にもつれ込んだら、真っ先に殺されるのはセリになる。この時代の喰種のレートの異常さは、分かってるはず」
敵性喰種のレートは、戦闘能力だけではなく民間への被害度も加味して決まるため、レートが高ければ必ずしも強いとは言えない。しかし、逆も十分にあり得るのだ。この時代は手っ取り早く強くなるために大量の人間を喰らうだけでなく、共喰いも珍しくない。
伊鶴らの実力はアカデミーにおいては最上位であり、熟練の保安官にも劣らない。しかしこの時代においては、今のままでは芹杜が万全になったとて、甘く見積もっても単体でS、三人で組んでもSSの足元にも及ばない。そもそも人の姿をした相手と殺し合った経験なんてものが無いのだ。その経験の有無は戦闘において大いに足を引っ張るため、もっと弱くなると読んでいい。
この時代の誰も傷つけず、自分達が傷つけられないでいるためには、
「私はちゃんと治せるから、
共喰いをする他にない。
「嫌だ。いざとなれば見捨てろ」
「できるわけ、ないでしょ」
芹杜は断固として首を縦に振らなかった。紙コップの珈琲の水面を見つめ、全員が黙りこくっている間に冷め切ってしまったそれを飲み干し、二人にもう休むよう促す。
そうして一人、少し離れた場所の壁にもたれて眠ろうとしていた芹杜に、伊鶴が近づいた。止める間も無く真横に座り込んだ伊鶴は芹杜の肩にもたれ、何も言わず居座った。
伊鶴から漂う微かな甘い香りに、芹杜は歯を食いしばった。
身じろぎもしない伊鶴に、「眠っているのか」と問えば、静かな吐息だけが返ってくる。
ため息を一つ吐き、芹杜は口を開いた。
「人間の血に惹かれるのが、これほど悍ましいとは知らなかった」
半喰種である伊鶴と志選の血は、信じられないほどに甘美だった。ほんの数滴、珈琲に混ぜただけのそれは、芹杜の脳に未知の快楽を叩きつけてきた。芹杜は料理が好きだが、その食の喜びが薄れそうな衝撃だった。
血でこれなら肉は?
そう思ってしまった自分は、あまりにも悍ましかった。人の血肉はあくまでも“喰種なら食べることができる”だけのものだったはずなのに、食欲の対象に塗り替えられていた。
「命を奪う、奪わないの話じゃない。
人の肉を食べれば俺は、あの時代に生きていた俺という喰種ではなくなってしまう」
そして何よりも、
「俺は、お前らとの関係が被食者と捕食者になるのが、怖い」
友を、無二の片割れを、肉だと思ってしまう日が来るくらいならば、死んだ方がマシだと思うのだ。