かつての伸びやかな気持ちは消えてしまった。
『──予定よりずいぶん遠い場所にいる。こんなはずじゃ』
停滞と諦念の中でただ、漂うように生きてる。
『──また飯食って寝て、起きて働くだけか』
わたしは何をしたかったんだっけ?
『──子供の頃の夢はどこいった?』
わたしは今も動けているのか?
あの時の情動のまま、進めているのか?
かつての青い推進力のまま、一筋に。
……。
もし止まってしまったのなら、恥じてはいけない。
動けなくなってしまったことを責めてはいけない。
どんな機械でもいつかは燃料も尽きて、止まるのだから。
蒸気は消えて、車輪は錆びるのだから。
そんなものだ。
ずっと進み続けられる物などない。天におわす星すらいつかは止まる。だけど、
そうだとしても。
──
青年はペンを置いて椅子に背中を投げ出して天井を見上げた。
くらい部屋の天井を。机では埃を被った試験問題の本が腐ってる。
こうしていると生きているのか、死んでいるのか分からなくなるようだった。誰も自身の生存を確かめてはくれない。今この瞬間に消えたとしても、いくつかの書類の手続きで終わってしまう。
こんな、こんな価値のない命。
青年は頭を抱えた。たったそれだけの事でおかしくなりそうだった。
机にあった古ぼけた電気スタンドを掴む、振りかぶる。そこでふと、デスクマットの下に挟んであったとある講演会のお知らせを見つけた。
《青年の独白》
◆
「ホマレちゃん、時間だよ」
愛川はドアから顔を出し、少し狭い部屋の中にいる少女に声をかけた。
「ええ」
彼女は顔も上げずに答える。
そのトーンだけはいつものものだった。しかしその姿勢は事務用の長机に参考書やデータの印刷された用紙を広げて、突っ伏している。
愛川はふ、と息を吐いて近づき、さらさらと机に淡い色の藁のように広がっている髪を丁寧に梳いていく。
シロツメホマレは時々講演会を行なっていた。
それは“次に走る誰かに繋げるため“の活動の一環であり、且つよくお呼ばれするのでそうしていたのだった。
その、何度目かのとある講演会のあと。
ほんの偶然で、参加者の小さな少女がシロツメホマレに近づいてきたのだった。そうしてぽつりぽつりと相手をするように会話をする様子を見て他の参加者たちも一言彼女に言葉をかけたいと希望を出した。
そうしてそれが慣習となり、講演会のあと彼女は毎回参加者と一言ふたこと会話をする時間を取るようになっていた。
時は現在に戻り、講演が終わったあと。シロツメホマレが何をしているのかというと、休憩時間にて割り当てられた控室でとある企画の資料を作成している所だった。これは某病院との提携を図るもので、それなりに法律も関係してくる難しい物だった。
彼女は慣れない作業によく眉間に皺を寄せて、すこし跡になっている。
「私も手伝うよ、ホマレちゃん」
答えが分かっていながら愛川は心配そうに尋ねる。
そうしてシロツメホマレが首をゆるゆると振るのを見て、慮るような表情は残しつつ、仕方がないな、と口元を緩めた。
彼女は言い出したら聞かない。
頼ることは知っている。それはかつて駆けたトゥインクル・シリーズをかけて見つけた彼女の答えだ。
だがそれはそれとして、シロツメホマレは自分で出来ることを増やしたかった。どこをどう動かせば何が動くのか、この取り決めはどういった法則によって決められているのか。それらを知らなければ提携する相手や組織と渡り合えない。自分から新しい提案を出来る機会を見逃してしまうかもしれない。
そして何より──知る努力をせぬまま相手取ること。それは誠実ではない。
そっ、と愛川に肩を押されてシロツメホマレは顔を上げる。
そして耳の垂れた彼女の眉と眉の間を指でほぐしてシロツメホマレを立たせた。
「行こっか」
◆
「本当に凄かったです。今日の講演も感動しましたっ!」
「ええ、そう」
「ずっとずっと応援してますから!」
「できる範囲でいいのよ」
そんな回答でも中年の女性は嬉しそうに頷く。そうして時間になり、名残惜しそうに去っていく。
「次の……はい、最後の方ですね。どうぞ」
愛川が誘導を続けると、最後尾に居たのはまだ年若いであろう青年だった。
彼が特徴的だったのは、醸し出す草臥れた雰囲気。
そこそこある背丈は俯き、目の下には薄くクマがある。
首をもたげた、夏の終わりのひまわりのような枯れたような空気が張り付いていた。
「ぇ……と」
その掠れ声は久しぶりに音を出したようだった。声の酷さに当人すら驚いたようだった。
「あの。自分は、その……あなたの……」
ここに参加するひとは、普通なら限られた時間の中で“ありがとう”だとか、“すばらしい”と言った言葉をシロツメホマレにかけていく。
だが、彼は喉の奥に何かつっかえてるように中々言葉を続けない。何か言おうとして、口をぱくぱくさせるのみである。
やがて彼自身が諦めたのか視線を右へ左へきょろきょろと移し、視線は最終的に足元に固定された。俯き、シロツメホマレを見ようとしない。
「……が、頑張れる自信がないんです」
そして唐突にぽつりと言葉を落とす。まるで懺悔するような響きを持っていた。
「そう」
シロツメホマレは自然に相槌を返す。
言葉少なに、ぶっきらぼうに。“それで”と彼女が続ければ青年は少し肩を震わせた。
「諦められないの?」
「……はい」
側から見れば年齢差など関係なく、その光景は慈愛混じりに子供の話を聞く母子のように見えた。
「大事なこと?」
含めるようにシロツメホマレが尋ねる。
「大事……だと思います。自分の枯れた夢、みたいなもので」
青年は言いづらそうに言葉を連ねた。
話は二人の間で、澱みなく進んでいく。青年は悩みの内容を口にしてすらいない。
だが、まるで二人の間に共通了解があるように、当然の如く。
「なら、やるしか無いわね」
「えっ」
思わず青年は顔を上げる。そこには無表情にこちらを見つめる浅緑の瞳があってどきりとする。
「大事なら、そうね。やるしかないのよ」
どこか彼女自身に言い聞かせるように。
ただただ、真正面から見つめて。
「じゃないと、
何気ない言葉だった。特別な言葉でも無かった。だが、それはズン、と青年の胸を貫いて腹の奥に突き刺さった。電気スタンドを衝動的に投げそうになった夜が思い出されて、弾ける。そうして彼のボヤけていた世界の輪郭が目の前のウマ娘を中心にはっきりし出した。
「なら、やるのよ」
ずいぶんとマッシブな励ましである。大雑把にも思える。
それでも力強かった。彼女がこちらを見ていた。
自信があるからやる。自信がないから出来ない、やらない。
そんな無意識のうちにせっせと設置していたハードルをすべてまとめて撃ち抜くような力強い理論だった。
「ひとりじゃない、みているわ。誰かが」
“もちろん、わたしも”、と。
青年の手にじわ、と汗が滲む。
心臓の鼓動が急に耳に響く。体のエンジンが再起動を果たした。動け動けと脈動が血液を全身に送り出す。
「はい。……はい! やってみます。この気持ちはっ、嘘じゃ……ないから」
青年はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に」
シロツメホマレは軽く頷いた。頭を下げている青年には見えなくとも。
そして彼は素早い動作で踵を返して出口に向かっていった。ドアを開ける直前、彼は振り返り“伝え忘れていました”と少し笑って真剣な表情をした。
「あなたのファンです」
結局、彼は名乗るわけでもなくそれだけ言って去っていった。
その様をシロツメホマレは黙って見届けて、会場から誰もいなくなったことを確認すると、徐に鞄から眼鏡と紙の束を取り出した。
トレセン学園へ出発まではあと30分程ある。シロツメホマレが取り出したのは先ほど彼女が理解できなかった資料の束だった。
いきなりの行動に愛川は目を白黒させる。その視線にシロツメホマレはバツが悪そうに、どこか恥じるように「時には肥料だって必要なのよ」と答えた。
愛川は思わず笑ってしまった。
◆
──名前の無い詩──
白い線の手前に立つ。
俺に引かれたスタートラインに立つ。
『位置について、よーいスタート』
よーい、用意? そんなバカな事があるか。
位置について、一斉に走り出せるものか。
パァンと音が炸裂する。
おれは一瞬遅れて、押し出されるように、足を縺れさせながら走り出す。
スタートが遅れたか。
だが、そんなもの些細な事だ。後ろ向きに些細な事だ。
あいつを見ろ。
俺よりずっと先からスタートじゃないか。金持ちで、親もいて。あいつの道はずっと舗装されてそれを当然だとしている。
俺を見ろ。
人に誇れるものはとくになく。
過去に抱いた『何者にかなれる』という幻想はいつの間にか諦観に塗りつぶされた。
あの子を見ろ。
俺よりずっと後ろからスタートじゃないか。片手は無く、走りは壊れている。
これで『平等』?
世の中腐ってて、天を衝く高層ビルに頂上があれば、あなたは路地裏の生ゴミに埋もれている。
あいつは高級スペアリブをシャンデリアの下で、ナイフを使って食べている。
おれは売れ残りの弁当を暗い部屋でたべている。白米がべちゃべちゃとしていた。
それでも同じレースを走らされるのか?
“まだ出来るさ”なんてお為ごかしで。
ご苦労な事だ。君にゴールは見えるかな。
きっと、坂道が多いから無理だろうな。
俺は足を動かす。
じゃりじゃりと足裏が削れていく。
『位置について、よーいスタート』
また誰かのスタートの声が聞こえた。
ご苦労なことだ。
こんなレース、走る意味などあるものか。
足を動かす。
そんなんでも止まるのは怖かった。
みっともない恐怖で受け身の動きを続けている。
『位置について……。位置について……』
またどこかでバカみたいにスタートの違うレースが始まる。
このレースは陸上競技みたく、スタートが後ろの奴はその分ゴールが手前にあるのか?
たぶん、ゴールはもっと遠い。
体力が尽きちまって、道半ばで倒れても、前に走ってるやつはそれすら気が付かない。
曇った陸上トラックをおれは重い足取りで進んでいる。
疲れた。止まりたい。
止まるのは怖い。
始まる位置の違いが、縮まらぬ差となって距離が開く。
俺は惰性のように前に進む。
辛い思いまでして走る意味はあるのか?
なぁ、シロツメホマレよ。
俺より後ろを走ってた子よ。
いつの間におれを抜かしたんだ?
気がつけば淡い小麦色が少し前に居て。
びっくりした俺は必死で喰らいつくように半ば反射的に速度を上げた。
気がつけば。
気がつけば目の前に曇りの陸上競技場は無く。
代わりに何処までも風が吹く、早朝の青々とした草原が広がっていた。
気がつけば。
俺は草原を駆ける獣になっていた。
筋肉が躍動する。汗が流れ出る。発熱した皮膚を深緑の風が通り過ぎていく。
その先をシロツメホマレは駆けている。
おれはその後を追う。
酸素の足りない頭で、それでも脚を回転させながら。
(彼女を追う。
おれは走る)
かつての青年 作
《あとがき》
ここでこの詩の作者の略歴を示す。
28歳、初めて医学部を受験。
30代後半より骨に関する難病の治療法を模索し始める。
46歳、ひとつの難病に対する治療法を完成させる。
同年、薬の完成前に自身の研究していた難病により没。
上記の詩は没後、氏の机より見つかった。
この詩を読めば分かるだろう。彼は間に合った。ゴールが出来たのだ。きっと。
どんな日陰に生える雑草にも、名前があるのだから。
暗い部屋にいたとて、きっと見ている人はいるのだろう。
そして彼は、その幻想の中にあった緑の大地で息吹に抱かれて眠るのだろう。
偉大な研究者として、スタートの遅れた男として、一匹の獣として。
いまはただ、彼の冥福を祈る。
《編集者あとがき》
◆
かつての伸びやかな気持ちは消えた。
『──予定よりずいぶん遠い場所にいるな。こんなはずじゃ』
停滞と諦念の中でただ、漂うように生きてる。
『──また飯食って寝て、起きて働くだけか』
わたしは何をしたかったんだっけ?
『──子供の頃の夢はどこいった?』
わたしは今も動けているのか?
あの時の情動のまま、進めているのか?
かつての青い推進力のまま、一筋に。
……。
もし止まってしまったのなら、恥じてはいけない。
動けなくなってしまったことを責めてはいけない。
どんな機械でもいつかは燃料も尽きて、止まるのだから。
蒸気は消えて、車輪は錆びるのだから。
そんなものだ。
ずっと進み続けられる物などない。天におわす星すらいつかは止まる。だけど、
そうだとしても。
──
あなたが人ならば。
あなたが託そうとしたように、誰かに篝火を託されることもある。
また進んでいける。
あなたはひとりではない。
──叫べ! まだ動けるぞ!
『なら、やるのよ』
そうだったな。やるしかない。じっさい、そうだ。
ここは風が気持ち良い。
──おやすみなさい。
シロツメホマレ
身長 138㎝
体重 人より軽い
誕生日 5月2日
得意なこと 蹄鉄の調整
苦手なこと とくになし対人ゲーム全般でしょ
耳のこと 知り合いの声ならかなり遠くからでも分かる
尻尾のこと 少し高めのシャンプー(貰い物)の香りがする。
靴のサイズ 両足ともに18.5
家族のこと 父とやるオセロの勝率は5割だった