簡単なことだよ、愛しい人(書籍版『バケモノのきみに告ぐ、』)   作:柳之助@バケつ1~4巻発売中

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踊る怪盗

 

 

 女は何をするべきか迷っていた。

 するべきことがあり、そのために動いた。

 そして、今。

 

「……なんと言った、お前?」

 

「降参です降参。参っちゃうな、強すぎでしょ。なので取引と行きませんか?」

 

 己が使命の邪魔になろうとしていた男を叩きのめしたら、そんなことを言いだした。

 女は苛立ちながら男に吐き捨てた。

 骨の数本は折れているだろうに、へらへらと笑っている男だった。

 

「取引だと? 貴様とそんなことをして何の得がある」

 

「いや、ほら。どうも同じ事件を追ってかち合ったみたいな感じじゃないですか。だったら協力できません?」

 

「できんな。そんな必要があるとでも?」

 

 女は自分の能力に絶対の自信を持っていた。

 助けを借りるまでもない。

 問題は自分で解決できる。

 

「いやぁ、そこは心配していませんけど」

 

 でもと、男は笑う。

 

「このまま突き進んでいいんでしょうか」

 

「――――何が言いたい」

 

 女の顔が歪む。

 咥えていた煙草を噛み潰しそうになる。 

 このままでいいのか?

 良いに決まっている。

 突き進むことが彼女の使命だからだ。

 そのはずなのだ。

 

「いえ、どうにも苛立っているような、迷っているような感じがしたので。俺は、あなたほど有能ではないかもしれないでしょうけど、情報色々ありますよ―――貴女みたいな、特別な異能を持つ人とか」

 

「…………お前」

 

「えぇ、そうです。知っています、きっとあなたより。だから力になれます」

 

 何よりと、男は笑う。

 

「貴方が為すべきことを迷わせない手伝いが、できると思いますよ」

 

 

●

 

 

 ロンズデー・エンハンスダイヤ。

 褐色の肌に前髪に赤色が一筋入った黒い髪の女。

 胸元あたりまで伸びる左右非対称な髪は自分で適当に切ったらしいのだが、しかし顔の良さと不敵な笑みのせいでそういうスタイルと錯覚させてしまう。

 男物のシャツとズボンをサスペンダーで繋ぎ、羽織るジャケットは袖を通さずに肩にかける男装の麗人。

 威風堂々、傲岸不遜、天衣無縫が掛け算して服を着ているような存在だ。

 足はモデルの様に長く、腰はきゅっと括れ、豊満な胸はその存在をしっかりと主張し、ピンと伸びた背筋は舞台女優のようでもある。

 どこにいても、まるで舞台の中心に立つかのように。

 当たり前の様に周りから注目され、時に喝采を浴び、しかしそういう聴衆の声には全く耳を傾けず。

 何があっても自分を曲げない金剛石。

 そんな彼女は、

 

「よぅ、ノーマン。そろそろ来ると思っていたよ。煙草くれないか」

 

 ノーマンの顔を見て、開口一番そう言った。

 3人くらい座れそうなソファの真ん中にふんぞり返り、目の前の机に長い脚を乗せながら。

 ローテーブルの上には山のような吸い殻が溜まった灰皿に酒瓶。見慣れたダウニー通りの食堂のテイクアウトボックスの空箱、新聞が散らばっている。

 散らばっているのは机の上だけではなかったが。

 

「………………はぁ」

 

 そんな惨状を見てノーマンはフェルトハットに手を置きながらため息を吐いた。

 

 

 

 

●

 

 

 ロンズデーの家は三階建ての廃墟の最上階にある。

 元々は物好きなギャングの倉庫兼鑑賞用の別荘的なものだったらしく内装は妙に趣向が凝らされている。

 半年ほど前にそのギャングを潰したロンズデーがそのまま住居として使っているのである。

 シャワーやトイレなんかは使える様にしているが一階と二階の窓ガラスはノーマンが態々発注しなかったらずっとそのままだっただろう。

 とにかくものぐさなのだ。

 それは分厚い麻のゴミ袋片手に部屋のごみを回収するノーマンを見ながら、変わらずソファの前で煙草を吸っている姿で一目瞭然だ。

 

「ロンズデーさん、いつも言ってますけど自分でもちょっとは片づけしてくださいよ。前に俺が来た時から一回も片づけてないでしょ」

 

「ふふん、何を言うかノーマン」

 

 ソファの後ろで酒瓶やら紙屑やらをゴミ袋に放り込むノーマンにロンズデーは手をひらひらと振る。

 

「そんなことをしたらノーマンの作業を奪ってしまうじゃないか。社会的に無職という居心地の悪さは私も分かっているつもりだぞ」

 

「俺の仕事はロンズデーさんの片づけじゃないんですけど」

 

「だから奪わないんじゃないか。お前の愛を拒否するほど私の胸は狭くないぞ。むしろ、大きい」

 

「……」

 

「私の胸はとても大きい」

 

「なんで言い直した!?」

 

 態々ソファに膝立ちになってとても大きい胸を張る彼女に思わずノーマンは全力で突っ込んだ。

 実際に彼女の胸は大きい。

 ワインレッドのシャツを第三ボタンまで開けているので、ハリのある褐色の膨らみが覗いている。

 思わず視線が行きそうになるが、今見れば揶揄われて面倒になるだけだからノーマンはゴミの回収を続けた。

 

「流石にどこぞの忠犬には負けるが。だがまぁ張りと弾力は勝っていると思わないか? そこのあたりどう思う?」

 

「少なくとも俺の疲労度という点に関しては比じゃないですね」

 

「ふっ……」

 

「なんで勝ち誇った?」

 

 ぶつぶつ文句を言いながら、ざっくりと目につくゴミを集めて、一階まで空いている縦穴に放り込む。

 ノーマンの下宿先のリビング二つ分くらいの広さの端っこに空いている幅二メートルくらいの穴だ。

 ゴミ袋に分厚い麻袋を使っているのは三階から落とすことを前提としている。

 この後再回収して中身を捨てて、上まで持ってくるのはノーマンの作業である。

 

「はぁ」

 

 一通り終えてロンズデーの向かいにある椅子に腰かける。

 年季は感じるがそれなりの豪華な椅子だ。

 ギャングのボスが座っていたものだ。

 

「それで、最近はどうですかロンズデーさん」

 

「玉虫色の質問だな。だが応えてやろう。先週ポーカーで賭けをしたら全財産擦った。帰りにチンピラに絡まれたのでむしゃくしゃしたのでそいつらのチームを潰して巻き上げたがそれでも赤字だったかな。酒と煙草は手に入ったからトントン……でもないか。安酒だし、薄かったな」

 

 とんでもない最近である。

 ロンズデー・エンハンスダイヤ。

 チンピラを締め上げた彼女はほとんどそのチンピラだ。

 安定的な仕事はなく、日々の大半をこの部屋で酒を飲み煙草を蒸かしているか、ギャンブルに精を出すか、チンピラからカツアゲをするかだ。

 こうして羅列するととんでもダメ人間だが、ノーマンの知る限り誰よりも自堕落な生活をしてる。

 半分くらい浮浪者と変わらない。

 なのに、廃墟のソファで煙草を蒸かし、酒瓶を握るロンズデーは妙に絵になった。

 浮浪者特有の悲壮感がないからだろうか。

 退廃的な美、とでも言うのだろうか。

 基本的に何をしても絵になる女なのだ。

 

 

 

●

 

 

 

 

「そりゃあ消毒用の酒を原液から飲むロンズデーさんからしたらどんな酒でも薄いでしょ」

 

「あぁ、でも煙草は良かったな。態々手作業で作ってたから週に一回献上するように言いつけた。ついさっき吸いきったよ」

 

「はぁ。ヘビースモーカーのロンズデーさんがそのあたり計算してないのは珍しいですね」

 

「い(・)い(・)や(・)、計(・)算(・)し(・)て(・)吸(・)い(・)き(・)っ(・)た(・)さ(・)」

 

 ふふんと、彼女は鼻を鳴らす。

 ノーマンが来る途中に買ってきた煙草を深く吸い込み、机の上にあった新聞に視線を置く。

 日付が違うものが5部。

 

「今月入って四件。おまけに未解決の事件が新聞に載っている。バルディウムの警察は無能揃いだが仕事をしないわけではない、なのに解決できないということは普通の調査では解決できない案件だ。そして、昨日の号外で5件目の予告が出た。となれば、お前が駆り出されて私の下に来るというのは解りきっている」

 

「…………流石ですね」

 

「初歩的な推理だよ(エレメンタリー)、ワトソン君」

 

「…………」

 

 もっと言うタイミングなかったか? とワトソンことノーマンは思った。

 だが、彼女の言葉に否定することは何一つなかったので適当に肩を竦めておいた。

 

「まぁ、そういうことです。ロンズデーさん向けの仕事ですね。なにせ――――怪(・)盗(・)で(・)す(・)よ(・)」

 

「ふん、冗談みたいな肩書だ」

 

「冗談みたいな仕事をしてる人が言いますか?」

 

「冗談みたいな仕事といえばまさにお前だ」

 

「…………まぁ」

 

「それで?」

 

 促され、椅子に掛けておいたコートからファイルを取り出す。

 

「今月からバルディウム市内の博物館、美術館、図書館、市役所に盗みに入った怪盗は態々――ある意味怪盗らしく予告状を出してそれぞれの施設に保管されていたアンティークやら芸術品を盗み出している。最初の博物館はいたずらだと思って相手にしなかったがまんまと盗まれて、それ以降の事件では警察と連携して警備を強化したが全く効果は無し。怪盗の人影を見るくらいはしたがどれも盗まれた――――これ以外の新情報が欲しいところだ」

 

「…………ファイル取り出した意味ないじゃないですか」

 

「なら捨ててしまえ。聞き込みと新聞から知ることができる情報と変わらないじゃないか」

 

 つまらなさそうにエメラルドグリーンの目を細めて彼女は言い捨て、長い腕と細い指を突き出した。

 

「ほら、さ(・)っ(・)さ(・)と(・)出(・)せ(・)。あ(・)る(・)ん(・)だ(・)ろ(・)う(・)?」

 

 形の良い唇が弧を描く。

 獲物を目の前にした狩人が自然と浮かんでしまうような笑い方。

 戦場で高揚した軍人が無意識に浮かべてしまうそれにノーマンは息を吐いた。

 分かっていたが、何もかも御見通しらしい。

 ファイルの中に挟まれた書類ではなく、封(・)筒(・)を彼女に手渡した。

 

「ほう、流石に私も初めて見たぞ。いいな―――予(・)告(・)状(・)か」

 

 真っ黒な封筒には真っ赤な封蝋。

 封の方は既に開けられている。

 

「姉さんの命令で刑事さんがだいぶ無理して確保したものなんで大事にしてくださいよ」

 

「アレは無理をするのが仕事だ。……ふむ」

 

 ロンズデーはすぐには封筒の中身を見なかった。

 封筒自体を何度もひっくり返したり手触りを確かめたり、匂いを嗅いだり。

 

「上物だな。バルディウムでは売っていない。リバープールのだ」

 

 リバープールというのはバルディウムから列車で数時間ほど掛かる都市の名前だ。

 海に面した港湾都市であり、同時に多くの街と線路を繋げた商業都市でもある。

 国内外を問わず多くのものが集まる大都市なので、あらゆるものにおいて品ぞろえはバルディウムの比ではない。

 

「えぇ。警察も調べたらリバープールの専門店で買えるみたいなやつらしいです。蝋の方もそうですね」

 

「結構。……ふむ」

 

 小さく頷いてから中身を取り出した。

 二つ折りにされた白い便箋。四隅に特徴的な羽ペンを模したマークがあるのは、専門店のシンボルらしい。

 開けば当然、予告の内容が。

 

「『来る満月の夜、バルディウム博物館よりブラッドダイヤの指輪を頂戴する。諸君らの健闘を期待しよう――怪盗ティスルより』か」

 

 怪盗ティスル。

 それが今街を―――正確に言えば金持ちや噂好きを騒がせている怪盗だ。

 名前以外何もわかっていない謎の人物である。

 ちなみに満月の夜といえば明日だ。

 

「3000ポンドもする宝石らしいですね。バルディウムの博物館じゃ特に高いとか」

 

「好事家に売れば十倍は下らんだろうな。オークションに掛ければ跳ね上がる。なるほど、一回目はデモンストレーションで本命はこれか……」

 

 頷きながら彼女は封筒と同じように手紙をひっくり返し、匂いを嗅ぎ、文字の表と裏から指でなぞって感触を確かめていた。

 その様子をノーマンは眺めている。

 翡翠の瞳は細められているが、口元の笑みは変わらないままだったから。

 こういう時、声をかけられると怒られる。

 

「――――なるほど」

 

「何か解りました?」

 

「犯人は女。怪盗なんて名乗って予告状も出しているんだから当然だが犯行を楽しんでいる。理由は欲を満たす為だろうな。義賊の類じゃないし、警察も博物館も馬鹿にしているが賢い。自意識過剰で傲慢で、人見下しがち、ただしそのためなら努力を厭わないし几帳面。二十代から三十代だな。去年の春にリバープールに訪れているが今はバルディウム在住だな。≪アンロウ≫だとしたら『逸脱者(ディヴィエイター)』か『歪曲者(ディフォーム)』だ」

 

「――――なるほど」

 

 一息に告げられた言葉にノーマンは驚きをなんとか飲み込んだ。

 彼女ならこれくらい言うだろうとは思っていたし、だから彼女に直接重要な証拠品を持ってきたわけだが、流石に少し驚かないわけにはいかない。

 

「ちなみにどうしてそう思ったんですか?」

 

「おいおい、少しは考えろよ」

 

 ニヤリと笑って、彼女は煙草を灰皿に押し付けてから立ち上がった。

 ソファに掛けてあるジャケットは袖を通さず肩に掛ける。

 スナップを効かせた二本の指で予告状をノーマンに投げる。

 流石に掌で挟んで受け止めた。

 

「どうします?」

 

「決まっている。まずは博物館だ、その後各盗難現場に行くとしよう――――いいね、楽しくなってきたぞっ!」

 

 真面目なことを言ったと思ったら軽く飛び跳ねて拳を握ったロンズデーにノーマンは肩を竦める。

 やっぱり適当に。

 こうなると解っていたから。

 ロンズデー・エンハンスダイヤ。

 安定収入はないが。

 臨時収入ならある。

 

 なぜなら彼女の本職は―――――探(・)偵(・)だ。

 

「行くぞノーマン、探偵と怪盗。果たして勝つのはどっちか――――或いはバケモノとバケモノの知恵比べだ。最高に笑えるじゃないか」

 

 

 

●

 

 

 

 

 バルディウムの中心街をロンズデーは颯爽と長い脚で闊歩していた。

 隣には勿論ノーマンが。

 大通りには様々な店が並び、多くの人や馬車、排気ガスを大量に吐き出す自動車が行き来している。

 バルディウムには風がほとんど吹かない。

 だからだろうか、どこにも行かず閉じ込められた熱のような活気がある。

 そんな街を彼女は真っすぐに歩いていく。

 この場合の真っすぐとは本当に進行方向へ定規引いたかのようにという意味だ。

 人通りが多いにも関わらず、対面方向から進んでくる人や馬車が勝手に避けて行くのだ。

 舞台女優のステージのようだし、実際通りすがる人は男女問わず何度か振り返っているようだった。

 そんな彼女についていくノーマンはさしずめ黒子か何かだろう。

 

「あの便箋はリバープールの郵便物専門店のプリンス・プリンセスという店が、我が国の王女殿下の20歳の誕生日と店の創立20年がちょうど同じだったから去年1ヶ月ほど限定で販売していた限定品だ」

 

 煙草を蒸かしながら彼女は言う。

 ロンズデーの推理をノーマンも一応考えたが全く分らなかったから、彼女の解説を聞いているのだ。

 

「リバープールの若い貴族や金持ちの女性をメインにそれなりに流行った。恋文としてな」

 

「だから二十代から三十代の女性?」

 

「いや女と思った理由は他にもあるが。おそらく二十代前半だとは思うが三十後半にもなって女子気取りの痛い女もいる。年を食えば年を食うほど重ねた年代に固執するものだ。三十後半より上ならもっと老舗で限定品ではないものを使うだろう」

 

 酷い言い草だった。

 

「それだとロンズデーさんはどうなるんですか? 女子、少女、女?」

 

「私は美女だ」

 

「………………」

 

 にんまりと笑う彼女の顔面はまさに美女としか言えなかったので何も言えなかった。

 なので、別のことを聞く。

 

「ならシンプルに二十代前半とかでいいんじゃないですか?」

 

「便箋だけならな。それは後で解説してやろう、もったいぶるというわけではなく順番の問題だな。材料の出所の話をするならインクはバルディウム産だ。文字の艶や照り、インクの滲みで分かる。この街は諸々の物資のクオリティがいまいち低い。便箋はリバープールで買ったが、インクは普通に街で買っていて日常的にインクを使っているんだろうな。わざとらしい」

 

「それなら仕事を絞れる……わけじゃないですね。そんな仕事いくらでもある」

 

「そういうことだ。だから言わなかった」

 

「はぁ。それなら性格は? 欲を満たす為だとか自意識過剰とか色々」

 

「欲を満たす為、義賊の類ではない、警察も博物館も馬鹿にしている、賢い、自意識過剰、傲慢、人見下しがち、努力を厭わないし几帳面」

 

 ロンズデーは発現を短く正確に繰り返す。

 

「単純な話だ。怪盗なんて名乗っている上に『健闘を期待しよう』というのは警察や博物館への挑発でしかない。ただの義賊なら他に狙うものなんていくらでもある。貴族どものへそくりでも狙えばいい」

 

「確かに。どう考えてもリスクが高い」

 

「几帳面というのは1年前に買ったであろう便箋なのに保存状況が非常に良かったということだ。単なる破損は勿論、日焼けや湿気も全くないほぼ新品。おそらく最近まで未開封で厳重に保管していたはず。どうして最近始めたのかは知らんが、それまでしっかり待って準備をしていたわけだな。インクをわざとらしいと言ったのはそういうことだ。封筒と便箋は買ったが、わざとインクは買わなかったかさっさと使ったか」

 

「えーと……たまたま買って忘れて、怪盗やろうとして思い出して使ったとかは?」

 

「つまらん。……こら、そんな目で見るな。こんな手の込んだことをするやつだぞ? しっかり準備してるのに決まってる。さっき言ったようにリスクが高い犯罪なのは間違いない。なのにやるということはやる理由がある。警備が厳しいアンティークを狙いながら警察を挑発するのは楽しいからだ。後は便箋の内容だな」

 

「うーん、文字とか?」

 

「もっと正確な言い方がある。ちなみにこれはいくらでも誤魔化せるから言わなかったが犯人は両利きだ」

 

「えぇ……? 筆跡?」

 

「惜しい、筆圧とインクの滲みだな」

 

 楽しそうに彼女は笑う。

 

「綺麗な字だったが良く見ると1文字置きに極僅かだがインクの滲み方が違う。裏面の字の跡もな。奇数文字と偶数文字の字の止めや払いにパターンがあり、偶数文字の方が若干筆圧が濃く、滲みも大きい。つまり偶数文字は本来の利き腕と逆で書いて、奇数文字は本来の利き腕で書いた。私が凝視して裏面をなぞって気づけるレベルだから仮に犯人が目の前にいても分らんだろうし、日ごろからどっちかしか使ってないということもある」

 

「……なんでそんな面倒なことを」

 

 状況を想像して頭が痛くなった。

 怪盗は態々両手でペンを握って、一文字一文字交互で字を書いた?

 意味が分からない。

 ――――どうして?

 

「楽(・)し(・)ん(・)で(・)る(・)ん(・)だ(・)ろ(・)」

 

 謎解きを楽しむ自分と同じように―――そう繰り返した笑みはさらに濃くなる。

 

「あの封筒と便箋には山ほど犯人の情報がある。便箋や書き方がまさにそうだ。気(・)づ(・)い(・)て(・)く(・)だ(・)さ(・)い(・)と言わんばかりにな。これだけあれこれ仕込めるなら、何も仕込まないのも簡単なはずだった。なのに予告状を出した。全部の情報をひっくるめて一言で言い表すなら言葉通り――――『健闘を祈る』、だ」

 

 にたにた―――にやり。

 浮かぶ凄惨な笑みに通行人がぎょっとして道を開けるが、彼女には気にしない。

 ここまで楽しそうにしているロンズデーも久しぶりに見た。

 饒舌な彼女だが封筒一つでこれだ。

 これから先どうなるか想像して、多分想像以上になるだけだろう。

 別に、嫌ではないし。

 

「ノーマン」

 

「はい?」

 

「喉が渇いた。酒をくれ」

 

「はいはい」

 

 コートの内側からスキットルを取り出して手渡す。

 医療用にも使えるアルコールは、仮に飲むなら他の酒と割ったり水で薄めるものだが彼女はそれを原液で飲む。

 普通の人間がやれば卒倒しそうだが、彼女は普通ではない。

 推理力が、ではなく。

 存在そのものが。

 

「それで……年齢の話は?」

 

「ん? あぁ……それは封(・)筒(・)の(・)話(・)じ(・)ゃ(・)な(・)い(・)。≪アンロウ≫ということを踏まえて二十代だと個人的に思うが、これは現場の確認が欲しい。だからちょっと幅を持たせた」

 

「なるほど、まだ話すべきではないってやつですね」

 

「…………それ、先に言われるとちょっと腹立つな」

 

「ははは、≪アンロウ≫のタイプに関しては?」

 

「これはお前の方が詳しいだろ。まぁいいが、私の美声を聞きたいと言うがいい」

 

「ロンズデーさんの美声と解説いっぱい聞きたいです」

 

「よかろう。私(・)が(・)怪(・)盗(・)な(・)ら(・)同(・)じ(・)こ(・)と(・)を(・)や(・)る(・)」

 

「…………」

 

 聞きたくなかった。

 

「あの妖(・)精(・)でもやる。まぁ、アレの場合もっと性質が悪いだろうが。小娘と忠犬はやらない。そういうことだ」

 

「……」

 

 何も言いたくなかった。

 

「…………黙秘権を行使します」

 

「弁護人を呼ぶなら私にしておけ。女を弄んだ罪でどうだ?」

 

「ある意味光栄な罪ですね。というか弁護人が罪を決めるんですか?」

 

「私が法だ。安心しろ、有罪で無罪だ」

 

 ロンズデーは笑い、ノーマンは肩を竦めた。

 

「でもロンズデーさんはこれまでも異能の推理をしたでしょう?」

 

 なんだかよく分からないけれど。

 とにかく――――ある。

 存在するなら観測できる。

 観測するなら推理できる。

 かつて彼女はそう言ったし、実際推理したのを何度も見ている。

 期待を込めた言葉だったがロンズデーは肩を竦めた。

 ノーマンがやるといい加減にしか見えないのに、ロンズデーがやると絵になる。

 

「まだ現場にもついてないんだぞ? 流石に分からん。場合によってはただの人間かもな。いや、訂正しよう。極めて賢くて性格の悪い人間だ。何にしても情報だな」

 

 カツンと、音を鳴らしてロンズデーは足を止めた。

 つられてノーマンも足を止める。

 視線の先には明日の夜怪盗が盗みに来るであろうバルディウム博物館。

 入り口にはハリソンがいて、憮然とした顔でこちらを見ている。

 

「最後に確認だ、ノーマン」

 

「はいはい」

 

「怪盗と宝石、どっちを優先するべきだ? 殺したほうが良いか? 生かしておいたほうが良いか?」

 

 煙草はあるか? くらいの軽い問い。

 それにノーマンは肩を竦めた。

 やっぱり、どうしたって適当に。

 

「とりあえず、ロンズデーさんの命を優先で。生かしておいた方がいいですけど、ロンズデーさんが死ぬなら殺して良いです」

 

 ニヤリと、彼女は今日一番の笑みを浮かべた。

 

「ではその方針で調査を始めよう」

 

 

 

●

 

 

 

 

 

「………………エンハンスか」

 

 ロンズデーの顔を見た途端、普段仏頂面な顔をさらに顰めて苦々しげに呟いたハリソンは碌な挨拶もせずに美術館に入る。

 片手には少し分厚いファイルが。

 あまり会話をしたくないということは推理をしなくても明白だった。

 彼は普段から不愛想であるにしても手厳しい対応だが、ロンズデーは気にせずに煙草に火をつけながらその後を追う。

 ハリソンが開けた扉を彼女は通り、その後をノーマンが追いかけるというのはなんだか2人してロンズデーの付き人になったような気分だ。

 実際の付き人はノーマンだけだけど。

 

 博物館の中は数人の警備員や警察官による緊張感で満ちていた。

 静かなのは今日明日は予告のせいで閉館しているからだ。

 5度目の犯行間近ということもあって、警備員たちは緊張の面持ちで今からもう目を光らされている。

 

「どうする?」

 

「えーと……ロンズデーさん?」

 

「例のダイヤの置き場所と1回目で盗まれたという首飾りが置かれていた場所が見たい。それからハリソン、この博物館の見取り図はあるか?」

 

「ある」

 

「結構」

 

 渡された見取り図によればこの博物館は三階分のフロアがある。

 地下一階と地上階二階。

 地下は保管庫や事務室といった職員向けのフロアであり、地上階は警備室やバックヤードはあるがほとんどが展示スペース。

 これといって普通。

 

「ちゃんと返せよ」

 

「覚えたのでもう要らん。行くぞノーマン」

 

 ぞんざいな仕草で見取り図を返したロンズデーはノーマンにだけ声をかけ歩き始めた。

 静かな館内に響く靴音に堂々と歩く美女に警備員や警察官が驚いた表情で見ているが止められることはない。事前に話が付けられているのだろう。

 

「……はぁ、頭が痛い」

 

「お疲れ様です刑事さん」

 

「半分くらいはお前の責任だ」

 

 残念ながら気の利いた言葉は思いつかなかった。

 

 まず向かったのは一階の展示スペース。

 一番最初に盗まれた首飾りがあった場所。

 この博物館は順路に応じた小部屋があるタイプで、首飾りがあった場所は正直さほど重要視されているような場所でもなかった。

 博物館の眼玉というわけでもなく、何気なく歩ていたら適当に流して終わりそうな場所。

 小部屋の中央には長椅子があり、壁際にショーケースがあるだけで特筆することはないように見えた。

 ロンズデーからすると違うのだろうか。

 数秒彼女は見回して、

 

「もういい、次だ」

 

「はぁ」

 

 すたすたと順路を進んでいく。

 そのまますぐに二階へ。

 今回ノーマンとロンズデーを引っ張り出す原因になった『ブラッドダイヤの指輪』の展示はついさっきの首飾りがあった場所とは随分と違った。

 順路の一番奥、博物館内で一番大きな部屋の中央にガラスケースにダイヤモンドの指輪が納められている。

 ダイヤモンドはちょっとした硬貨くらいのサイズはある大きなものだ。

 遠目に見ても照明の光を反射しているのが分かる。

 ブラッドなんて名前がついているが、別に赤いわけでもなく透明な輝きを放っていた。

 

 そんなダイヤを何人かが囲んでいた。

 見るからに警察らしい二人組、高そうなスーツを着た初老の男、作業着の中年の男、温和そうな老婆に釣り目が印象的な女性、それから丸眼鏡の可愛らしい少女。

 6人が展示ケースを囲んで何やら話している。

 それを見てハリソンが眉を潜めて前に出た。

 

「ちょっとちょっと……オリヴァーさん。なにしてるんですか、困りますよ」

 

「レナードか」

 

 じろりと声をかけられた中年の刑事がハリソンを睨む。

 少し小太り、強面で頭皮の薄い彼はハリソンからロンズデーとローマンを順番に睨み付けた。

 ロンズデーに対しては少し長めに。

 敵意満々という気持ちを丁寧に表してくれている。

 

「困るのはこちらのセリフだ。お前らの都合はあっても俺らにも警備の都合がある。好き勝手されても困る……特にお前にはな、エンハンスダイヤ」

 

「相変わらず頭が固いようですな、オリヴァー警部」

 

 パトリック・オリヴァー。

 バルディウム署の警部であり、如何にも現場第一主義という感じの頑固な男だ。スーツはそこそこ質の良く、いつもの顔に似合わず清潔感のある男だと思っていたが今日は妙にくたびれていた。

 

 警部ということでハリソンにとっては上司にあたるのだが、この辺りは色々ややこしい。

 ハリソン・レナードは刑事だが、直属の上司はスフィアであり指揮系統やら組織図が違うらしい。階級的には刑事でも彼の権力や権限は警部よりも強いのだ。

 それによって≪アンロウ≫の事件に関してノーマンたちに調査資料を渡したり現場に連れ出してくれるのである。

 基本的にノーマンは警察が一通り調査し終えて、お手上げになってから仕事が回ってくるので現場とバッティングすることは少ないが、たまにこう言う時もある。

 オリヴァー警部はそういう時、反感を分かりやすく示してくる一人。

 もっとも、ノーマンは別に彼のことは嫌いでもなかった。

 ロンズデーでも直接的な敵意を楽しそうに受け止める。 

 他の5人の誰だこいつら? という視線も。

 

「頭が固いせいで奥さんが逃げ出したのでしょう。寂しさで愛犬に構ったり、好物のフライドチキンを好きなだけ食べるのもいいですが、自分の非を認めて頭を下げないと実家に行ったきり戻ってはきませんよ」

 

 

 

●

 

 

 

 

「………………余計なお世話だ」

 

 さらりと個人情報を言い当てられたが、オリヴァー警部は苦々しげに言い返しただけだった。

 驚いた様子はない。

 驚いていたのは周囲の人たち。

 特にオリヴァー警部の相棒、というか後輩であろう金髪の青年があからさまに声を上げる。

 

「えっ!? 何で警部の奥さんと娘さんが出て行ったことを!?」

 

「アレン! 余計なことを――」

 

「それではお答えしましょう。貴方、お名前は?」

 

「へ? あぁ、バート・アレンですけど……」

 

「結構、アレン刑事。どうしてと聞かれれば見れば分かるという話です。そちらのオリヴァー警部と最後に会ったのは二か月前ですがその時より太りましたね。おそらく最近急に太ったのでしょう。ベルトの皺を見れば普段よりも2サイズ緩めているのが分かる。彼は現場大好きで運動不足ではない。ということは精神的なストレスによる一時的なもの。料理の出来ない男性が短期間で大量に食べられて太れるのならフライドチキンが分かりやすい。

 左手の結婚指輪、随分と綺麗ですね。女々しいことに何度も触っているうちに指の脂で磨かれたのでしょう。さらにこれまで会ったオリヴァー警部はいつも質が良く手入れされていたスーツを着ていました。よくいる男尊女卑、亭主関白な男ですからこれまでは妻にやらせていたはず。着る物も選ばせていたはず。なのに今日は随分とくたびれている。襟元や袖に油染みやケチャップの汚れが新しいのも古いのも付いている、あぁフライドチキンだけではなくフライドポテトも付け加えましょう。セットがつきものですが一応ね。つまり碌にアイロン掛けもしていないし洗濯だってできていない

 愛犬は単純な話、ズボンのすそに犬の毛がついている。丈を見るに小型犬でしょうね。家に帰って洗濯や掃除も億劫だけれど、犬には構ってもらっている。逆説的に言えば犬には構ってもらえるのに洗濯や掃除もできていない。ということは家には彼と犬しかいない。

 つまり、奥さんと娘に出て行かれて身なりを整える余裕はないがストレスでフライドチキンをやけ食いして太った。ついでに言えばスーツ自体のセンスは良いので妻は賢い女性であり、夫の理不尽に耐えかねて家を出て、母親によく似た娘は当然母についていった。――――反論は?」

 

「………………洗濯をしてないわけではない」

 

「適当に洗剤を使った程度でしょう。染み抜きは知らないようだ」

 

 ――――し(・)ん(・)っ(・)、と。

 寒々しい沈黙が降りる。

 誰だこいつ、という視線に畏れのようなものが混じっていた。

 私生活を言い当てられたオリヴァー警部は人間が表現できる苦々しさの上限を表してくれていた。

 

「さて皆さん」

 

 ぱんと、手を鳴らす。

 芝居がかった仕草。

 誰もが彼女を見る。

 8人分の視線はさしずめスポットライトだ。

 ブラッドダイヤの為の部屋はいつの間にかロンズデーの為の部屋になっている。

 

「もうお気づきでしょうが私はロンズデー・エンハンスダイヤ、探偵です。今日は怪盗事件のアドバイザーとしてここに呼ばれました。2,3質問したいことがあるだけですのでご安心を。皆さまを実は怪盗だなんて疑っているわけではありません――――今のところはね?」

 

 

 

 

●

 

 

 

「酷いことしますねぇ、オリヴァー警部に」

 

「あれはパフォーマンスだ」

 

 美術館の外。

 右手をポケットにツッコミ、左手の指に挟んだ煙草の灰を落としながらロンズデーはつまらなさそうに呟いた。

 

「所詮部外者だし私は警察に嫌われているからな。あぁして場を支配したかった。でないとまともに聞き出せん」

 

「あぁなるほど。道理で解決編でもないのに芝居がかってたわけだ。でも、あれでよかったんですか?」

 

 なぜなら、

 

「全(・)員(・)と(・)握(・)手(・)し(・)た(・)だ(・)け(・)で(・)終(・)わ(・)っ(・)た(・)じ(・)ゃ(・)な(・)い(・)で(・)す(・)か(・)」

 

 そう、彼女は挨拶としてあの場にいたオリヴァー警部以外の全員と握手をした。

 そこから質問が始まると思ったら、急に用事を思い出したとか言い出してすぐに美術館を出たのがさっきのこと。

 オリヴァー警部もハリソンも追ってはこなかった。

 ノーマンにしても疑問だ。

 

「あぁ……だって怪盗の正体が分かったからな」

 

「へぇ、なるほど―――――んん!? 今なんて!?」

 

「怪盗は分かった。だからあの場で聞くことはなかったし、挑発までされた」

 

「はっ……!? いや……握手しただけですよね」

 

「あぁ、そうだ。全くつまらん。……まぁいい。とりあえず犯人は『逸脱者(ディヴィエイター)』だな」

 

「封筒の推理から握手だけで分かったんですか?」

 

「あの推理は全く無駄になったな、それもムカつく。お前にまだ話していないこと一つで分かってしまったし」

 

「はぁ」

 

 意味が分からない。

 しかし、なら聞きたいことは一つしかない。

 

「誰かって聞いてもいいですか?」

 

「ふむ」

 

 ロンズデーは長く煙を吐きだした。

 

「別に誰かはどうでもいいだろう。それよりも異能の方だな。犯人捜しは面白くなかったんだ、実際に遊んで楽しませてもらおう。それでいいな?」

 

「まぁ……そりゃ異能が分かったほうが安全ですしね」

 

「うむ。行くぞ、とりあえず現場を回る」

 

「了解です」

 

 犯人の正体は気になるけれど。

 異能の推理まで終わってから犯人とかち合った方ががいい間違いない。

 変に意味の分からない能力に手間取って逃げられても困る。

 

「それならオリヴァー警部への推理を楽しませてもらっただけでしたね。本人からすればたまったものじゃあないでしょうが」

 

「ん? あぁ、いやあれは推理じゃないぞ」

 

 やっと、ロンズデーは笑う。

 少しいらずらっぽく。

 

「当事者から直接聞いた」

 

「はい?」

 

「先週ポーカーで擦ったって言っただろう? 私(・)の(・)全(・)財(・)産(・)ふ(・)ん(・)だ(・)く(・)っ(・)た(・)の(・)が(・)オ(・)リ(・)ヴ(・)ァ(・)ー(・)警(・)部(・)の(・)奥(・)方(・)だ(・)。実に聡明な人だ、男の趣味が悪いが。その時に事情を聞いたのさ」

 

 

●

 

 

 

「つまらん! 探偵業は終わりだ!」

 

 廃墟の三階に帰って来たロンズデーはジャケットをソファに放り、ワインレッドのシャツもぞんざいに脱ぎ捨て、ソファに乱暴に腰を落としながらそう叫んだ。

 

「全く……ティスル……ティスルだと? ふざけおって。全く以て期待外れだ。推理ゲームが楽しめると思ったのにいつもの≪アンロウ≫と大して変わらん……ノーマン! 酒! 煙草! 飯!」

 

「投げ捨てたジャケットの中でしょう。飯はありますけど」

 

「飲ませろ、咥えさせて火をつけて、そして食べさせろ。女王陛下に傅く騎士のように恭しくな」

 

「騎士はそんなことしませんよ」

 

「私の国ではそうするんだ」

 

 女王陛下万歳。

 言われた通りにする。

 脱ぎ捨てられたジャケットからスキットル――元々ノーマンのもの――と煙草――これもノーマンが買ってきたもの――とジッポライター――これはロンズデーのもの――を取り出し、ふんぞり返る彼女の隣に座って、まずは酒を一口飲ませ、煙草を咥えさせて火をつけて、一吸いするのを待ってから帰り道にダウニー通りの食堂で買ってきたハンバーガーを食べさせる。

 煙草と酒、彼女の汗、それに混じるロンズデーの甘い香り。

 黒のわりと過激なランジェリーに包まれた褐色の膨らみには汗が滲み艶めかしい。

 

「ノーマン」

 

「はいはい」

 

「今なら揉んでもバレんぞ?」

 

「バレてるじゃないですか」

 

「冷静に考えると明日の夜まで暇なんだ。ストレス発散で肉欲に溺れるのも一興じゃあないか?」

 

「魅力的な誘いですけど、報告書書かずにロンズデーさんに溺れたら姉さんに殺されますよ」

 

「ぬぅぅ……あの女に対する完全犯罪を実行するには難しい」

 

「恐ろしいことを言わないでください。探偵でしょう?」

 

「探偵が実は犯人なんて珍しくもない。言っただろう、探偵業は店終い中なんだ」

 

「そうでなくても俺の姉ですし」

 

「義理のだろ」

 

「義理でも姉です」

 

「余計に殺したくなってきたな」

 

「なら僕の相棒として報告書書くのを手伝ってくださいよ。ロンズデーさんに話聞かないと全然書けないんですから」

 

「………………ふむ」

 

 形のいい顎を小さく上げて頷いた。

 それから、包帯の巻かれた右手を顔の前に翳してから笑う。

 

「今の言い方は気に入った。肉欲に溺れるのは後にして仕事をしてやろう」

 

 

 

●

 

 

 

「『逸脱者(ディヴィエイター)』と解ったのは単純に、これだな」

 

 丁寧に包帯が巻かれた手をひらひらと振りながら彼女は言う。

 

「最初の博物館で順番に握手したら私(・)の(・)手(・)を(・)握(・)り(・)つ(・)ぶ(・)し(・)て(・)き(・)や(・)が(・)っ(・)た(・)。何故か? 挑発だな。私が探偵で、どういう人間かを考え、あの場で指摘したり叫んだりしないと踏まえてそんなことをしてきたんだ。全く呆れかえる傲慢ぶりだな。一瞬で沸騰して私も相手の手を握り潰してやったが」

 

「全然気づきませんでした」

 

「当然だ、お互いにやせ我慢したからな。このあたりの身体能力を常時発揮できて、頭がおかしいのは『逸脱者(ディヴィエイター)』しかいない。単純な話だ」

 

「全然気づきませんでした」

 

「…………分かったわかった。悪かったよ、次からすぐに言う。このくらい一晩寝れば治るからいいと思ったんだ」

 

「悪い癖ですよ、ロンズデーさん」

 

 苦笑する彼女にノーマンはじっとりとした視線を向ける。

 彼が彼女の手の怪我に気づいたのは博物館を出た後、犯行現場の図書館に着くところだった。

 ずっと右手のポケットに手を突っ込んだままだったからおかしいと思ったのだ。すぐにコートに入っていた湿布と包帯を巻いて手当をした。元々医者の家で、軍にいた時は軍医もしていたのでそのあたりは問題ない。

 問題なのは彼女が怪我したことを言わなかったということ。

 犯人の正体よりもずっと大問題。

 

「ふふん」

 

 少しだけ、彼女は笑った。

 包帯の巻かれた手を右手で摩りながら。

 宝石を愛でる様に。

 いつも浮かべる凄惨な笑みではない、柔らかいほほ笑みで。

 

「その気持ちだけで大分満たされた」

 

「安いですねぇ」

 

「いいや、私は原則高い女だ。おまけに買い手も選ぶし、値段も買い手次第だが。他に聞きたいことはあるか?」

 

「異能、なんだと思います?」

 

「物(・)質(・)の(・)透(・)過(・)だな」

 

「はい?」

 

「すり抜けだよ。おそらく壁や床やら好きにすり抜けられるんだろう」

 

「……その心は?」

 

「現場に何もなかった」

 

 ハンバーガーを齧ってから、唇についたソースを指で拭う。

 その指を舐める仕草が妙に扇情的だった。

 

「博物館と美術館の展示室。市庁舎は市長室。図書館は修復室からものは盗まれた。犯人のプロファイルに関して私が気になったのは後者だった……無駄になったが。それも聞くか?」

 

「是非に」

 

 聞きながら事件のファイルを開く。

 ロンズデーが最初から知っていたことばかりだったから碌に使ってないものだ。

 これまでの事件で盗まれたもの。

 博物館から首飾り。

 美術館からは絵画。

 市長室からはアンティークの硬貨セット。

 図書館からは修復したばかりの何百年か前の書籍の初版本。

 少しづつ価値は上がっている、らしい。

 市長室から盗まれたアンティーク硬貨セットの価値は高いわけではないが、マニアにはかなり高く売れるとのこと。

 

「年齢の話ですか?」 

 

「そうだ。年齢の幅を広げたのは展示室は誰でも見れるが、市長室と修復室は関係者しか見れない。それもある程度関係者の要素が限定される」

 

「……はぁ」

 

「アホ面を晒すな、興奮するだろう。いいか、シンプルな話だ。市長室に一般人や下っ端は入れないし、修復室も貴重な文献を扱う都合専門技能を持つ関係者しか立ち入ることはできない。バルディウムは閉じた街だからな。この手の技術者は各施設で共通で仕事をする。となると美術骨董品関連の重役か専門技術を持ち、なおかつそこそこの信頼が置ける若輩ではない年配―――だから三十代もいれた。それ以上を除外したのは便箋ともう一つの要素から」

 

「もう一つの要素?」

 

「それは最後に取っておこう。勿論、市長室には掃除係のような雑用が入れるが、修復室はそうもいかん。精密作業だからな。そのあたりは無視できなかったわけだ」

 

 

 

●

 

 

 

 

 煙草を軽く吸い、

 

「まぁこのあたりは余談だな。大事なのは5つの場所だ」

 

「展示室、市長室、修復室。……うーん、共通点ありますかね。博物館の後に全部見回りましたけど、俺にはよく分らなかったですね」

 

「私(・)も(・)だ(・)」

 

 つまらなさそうに彼女は鼻を鳴らす。

 

「怪盗ティスルの手口は?」

 

「えーと」

 

 ファイルを捲り、犯行に関する記載を見直す。

 といっても、それほど量があるわけではない。

 

「保管場所にまず、煙幕が張られる。視界が消えるほどの濃い奴ですね。2件目以降からは警備員や警察の目の前で堂々と煙幕が焚かれて、晴れた時には盗まれていた―――ってわけですね」

 

 シンプルな犯行だが、問題はこの煙幕の出所が分からないということだ。

 煙幕自体は軍でも使われるような発煙筒なのだが、厳重な警備をしたそれぞれの部屋で急に現れるのだ。

 警備員や警察官が全力で警戒したのにどこからともなく現れるし、例えば外から放り込むような場所もない。

 気づいた時には――――煙幕が。

 晴れた時は何もない。

 現場は全く荒れていなかったという。

 何も変わらず、アンティークだけが盗まれている。

 

「四か所とも煙幕を焚いたということは必要があるということだ。加えて警護していた者には危害が加えられていない。この場合考えられるのは目くらましさえできるのなら物を盗める異能か、煙幕そのものや周囲にあるものを利用した異能」

 

「――――『逸脱者(ディヴィエイター)』か『歪曲者(ディフォーム)』か」

 

「そうだ。異能に説明がつかんとは言っても、犯人の挑発から見るにこの二つだ。まぁこれは正直どれになるかは分からんのでいきなり『潜伏者(インサイター)』が出てきても驚かなかったがな。ただ四か所に共通して置かれているものはなかったし、ご丁寧に向こうが教えてくれた」

 

 手をひらひらさせる。

 『逸脱者(ディヴィエイター)』に砕かれた手。

 人外の膂力による負傷。

 動きを見るに既に治り始めているようだが、ノーマンの心は痛む。

 

「となれば、異能は自身の肉体に作用されるものとなる。ならなんだ? 一切外現場を荒らさずに盗みができる異能とは? 体を透明にするか物質をすり抜けるか、だ。『人影は見た』という発言から服は着ていたあたり、それなりに異能を安定させた上で応用ができるタイプだ。ただし、透明になる場合、どこかのタイミングでガラスケースやら鍵のかかった保管容器に変化があるはずだが何も変化はなかった。そうなると、考えられるのは物質の透過だ。体ごと天上なり床なりすり抜けて、煙幕を焚いて、保管ケースやらすり抜けて中身を取ってすり抜ける。これで終わり」

 

「……なるほど」

 

 確かに筋は通る。

 だが疑問も残る。

 ≪アンロウ≫というのは理屈が通じない。

 もっと何かわけのわからないものがあるのではないか――そう思わずにはいられない。

 ロンズデーを疑うのではなく、心配だ。

 もし彼女がそう仮定して怪盗と対峙し、全く違ったのなら。

 それは心配になる。

 

「安心しろノーマン。これは自信がある」

 

「その心は?」

 

「相(・)手(・)が(・)怪(・)盗(・)テ(・)ィ(・)ス(・)ル(・)だ(・)か(・)ら(・)」

 

「はい?」

 

「くくく」

 

 揶揄う様に彼女は笑う。

 一筋だけの赤い髪を揺らしながら。

 

「いや、お前は分からなくていい。愛でるのは宝石にしておけ。花でも犬でも妖精でもなくな」

 

「はぁ。いや俺は普通のジュエリーとか興味ないですけどね。まぁ、今回のブラッドダイヤとかいう指輪はキレイだとは思いますよ。なんかすごい曰(・)く(・)付(・)き(・)らしいですけど」

 

「ん?」

 

「ブラッドダイヤ、別に普通の大きなダイヤだったじゃないですか。なんでブラッドダイヤって言われてるかは知ってます?」

 

「血を浴びたダイヤ、だろ?」

 

「えぇ」

 

 これは完全に与太話。

 よくあると言えばよく話。

 バルディウム博物館に置かれた宝石は死を振りまく―――みたいな。

 元々どこかの国の国境あたりで採掘されたものらしく、その国同士で奪い合いそこそこの人が死んだ。その後も欲望の対象になり争奪戦で人が死に続けた。

 結果ブラッドダイヤ。

 血を浴びて―――吸った血で輝くダイヤモンド。

 

「びっくりしたんですけどほんとにバルディウムでもこのダイヤの関係者の死人が出てるんですよね。この街への輸送指揮を直接取った人とこのダイヤを博物館に展示する渡りを付けた人。これ、怪盗と関係あったりしませんかね。調べればもっと死んでるかも。呪いのダイヤですよ呪い」

 

「下らん。価値と歴史のある宝石だ、奪い合ったりして人が死んだりするだろう。呪いというのは事実の連続から来る人間の思い込みだ。知らんのか? 人を殺す理由には金は十分だし、人は簡単に死ぬ」

 

「そりゃまぁそうですけど」

 

「西部帰りのお前には言うまでもないだろ」

 

「そうですねぇ」

 

 適当に肩を竦めておいた。

 思い出したくない話だ。

 呪いのダイヤについて掘り下げたかったけど、西部戦線の話はしたくないので適当に話をずらす。

 

「ダイヤ自体はどうですか? 嫌いじゃあないでしょう」

 

「芸術品としては嫌いではないな。装飾品としては要らん」

 

「その心は?」

 

「どんな宝石も、私が付けたら霞むだろ?」

 

 

 

●

 

 

 

 

 怪盗ティスルは静かに床(・)へ(・)と(・)沈(・)み(・)込(・)ん(・)だ(・)。

 

 それは泥の中に飛び込むような感覚だ。

 ただしその泥はティスルの意思で固まり、好きなように歩ける泥。

 博物館の屋上から軽い動きで屋根をすり抜ける。

 不思議なことに物質の中では呼吸はできるし、圧力を感じることはない。視界は働いていないが、なんとなく人間の気配を感じることはできた。

 

 抜け出た先はバルディウム博物館二階、最も大きい展示スペース。

 広い広間の中央にガラスケースが一つだけ。

 煙幕は使わなかった。

 誰がいるのか分かっていたから。

 なんとなく、感じる。

 人間と――同類(バケモノ)の気配を。

 

 背の高い褐色の女。

 一房だけ赤が混じった黒髪。舞台女優のように威風堂々と煙草を吸うスタイル抜群の美女。男のシャツとズボン、ジャケットだけは袖を通さずに肩から羽織るだけ。

 火が付いた煙草を挟んだ右手には丁寧に巻かれた包帯が。

 女と同じくらいの身長の男。

 フェルトハットとコートにぼんやりとした表情は小動物を思わせる。

 顔立ちは整っているが、同年代より年上の婦人に人気が出そうな雰囲気。

 

 ロンズデー・エンハンスダイヤとノーマン・ヘイミッシュ。

 

「いつもだったら」

 

 天上から急に現れたティスルにロンズデーは驚かなかった。

 

「どうして正体に辿りついたか道筋を立てて推理を披露するのだが……お前相手ならば必要ないだろう。さっさとそ(・)の(・)仮(・)面(・)を外せ」

 

「―――ひっひっひ」

 

 明け透けのない言葉に怪盗から思わず声が漏れた。

 しわがれた、老人の声。

 それにノーマンがぎょっとして目を見開く。

 自分の正体を話していなかったのかと意外に思いつつティスルは仮面を外した。

 晒された顔に、ロンズデーは笑う。

 

「どんな性悪が出てくると思ったら――――とんだ性悪婆だったな、フィルジー・ミュール」

 

 

 

●

 

 

 

「ひっひっひっひ、お互い様だねぇお嬢ちゃん。私のことを教えなかったのかい?」

 

 引きつけを起こしたような独特の笑い方をする怪盗の素顔は老婆だった。

 小柄な体にサイズを合わせながら、年齢を知るとミスマッチな燕尾服とマントにシルクハットは怪盗と聞けばイメージするそのままの恰好。

 名前と顔は一応記憶の片隅にあった。

 昨日この博物館にいた時、オリヴァー刑事と一緒にいたうちの一人だ。

 

「……驚いた」

 

 それは二つに対して。

 怪盗の正体が老婆だったということ。

 そして、これだけ高齢の老婆が≪アンロウ≫であるということ。

 この一年半、様々な≪アンロウ≫を見て来たが、ここまでの高齢者は初めてだ。異能に覚醒するのは概ね十代後半から二十代くらいが多いというのが経験則だ。

 勿論全員がそうでもなく、知っている限りこれまでの最高齢は50程度だったが、明らかにそれを更新していた。

 フィルジー・ミュール、どう見ても70とかそこらだ。

 

「誰か、というのはどうでもいいんだよ私たちはな」

 

「おやおや。探偵というから昨日みたいな推理を期待したんだけれどねぇ」

 

「どの口が言うか」

 

 煙草を挟む指に力が入る。

 昨日怪盗に砕かれた手。

 それを見て、フィルジーは少し首を傾げた。

 

「ふむ。わしと同類ならもう治っているものだと思ったが」

 

「はん、治っているに決まってるだろう」

 

 だが、とロンズデーは笑う。

 宝物を見るような優しい目で。

 

「お(・)守(・)り(・)さ」

 

「安いですねぇ」

 

 少し恥ずかしかったノーマンは誤魔化すように肩を竦めておいた。

 

「ひひひ、お熱いねぇ若い者は」

 

「お前は年寄りの癖にファンキーすぎる。なんだ、あの予告状は」

 

「あぁ……あれかい。あれにはがっかりだったよ」

 

 肩を落とし、彼女は嘆息する。

 失望や呆れが混じったもの。

 思っていたものとまるで違ったと言わんばかりに。

 

「あからさまなヒントを幾つも出していたのに、まるで気づかない。5回も同じものを出したというのに。アンタが初めてだったよ探偵さん」

 

「警察が思ったより無能だったというのは同感だったな。オリヴァー警部にもレナードにもいまいちがっかりだ」

 

「俺も分かっていないんですけど」

 

「お前はそれくらいで丁度いい。探偵の助手は適度に愚かでないとダメだからな」

 

「嬉しくないなぁ」

 

「ひっひっひ」

 

 老婆は笑い、周囲を、ロンズデーとノーマンの奥の展示ケースを見やる。

 そこには何もない。

 

「ダイヤをどこかに運んだのかえ。聞かされていないのぅ」

 

「そりゃそうだ。私が無理やり運ばせた。ここの館長はバルディウムの威信にかけてお前を迎え撃つとほざいていたし、色々ダミーやらショーケースやらに細工をしようとしていたようだが」

 

「笑っちまうねぇ。その怪盗が目の前にいたってのに。ま、館長もお偉い貴族様なりなんなりからの圧力があったんだろうねぇ」

 

「……えーと?」

 

 話がちょっと見えなかった。

 というのもダイヤをどこかに隠したという話もロンズデーがハリソンを通して手を回したのでノーマンは何も知らされていない。

 ロンズデーが隣にいると大体何も知らない状態なのだが。

 

「簡単な話だノーマン。昨日、ダイヤを囲んで何人かいただろう? 刑事と館長は分かりやすい。それに女が3人と作業着の中年。このババアも含めて女は学者で、中年は鍵屋だ」

 

「その心は?」

 

「これから怪盗が盗みに来て、既に警備員も配置していた美術館に部外者を入れるはずがない。4人はどう見ても警備員ではなかった。だったら何をしていたか? 作業着を着ていたのだから作業をしに来ていた。タイミング的にガラスケースに罠か強固な鍵を掛ける様に準備をしていた。女どもは専門家だ。何故? 怪盗を騙せるようなダミーを用意し、それを通用するか確認させるためだ」

 

「――――完璧だよ、探偵さん」

 

 ニタニタと、老婆は笑う。

 これでこそ。

 待っていたと。

 最早瞳は焦がれていたと言わんばかりに輝いている。

 

「アンタが現れた時、笑いだしそうになった」

 

「代わりに手を握り潰したがな」

 

「お互い様さぁ。この年でこ(・)う(・)な(・)っ(・)て(・)、そりゃあもうはしゃいだものだよ。最初は色々壊して態々休暇を貰って調整したねぇ。アンタもそうだったかい?」

 

「さて、どうだったかな」

 

「そっちの助手さんは、ただの人間かな」

 

「えぇ、まぁそうですね」

 

「そうかい、そ(・)れ(・)は(・)残(・)念(・)だ(・)」

 

「安心しろ、この街にはいっぱいいるぞ。私やお前みたいなのが」

 

「あぁ―――それはいいねぇ」

 

 

 

●

 

 

 

 

 2人の『逸脱者』は笑っている。

 ニタニタ、ニヤニヤ。

 会話を重ねるたびに口元の弧が吊り上がっていく。

 引き絞るように。

 張り詰める様に。

 びりびりと、空気が震えるのをノーマンは感じた。

 感じただけで、特に何もしなかったが。

 

「どうもそっちの方がバケモノとしては経験豊富そうだ。いいねぇ、羨ましいねぇ。どれだけ同類と遊んだんだい?」

 

「さてな。覚えているのも、覚える価値がないのもいた」

 

「いいねぇ、言ってみたいねぇ」

 

 良い、と。

 怪盗は繰り返す。

 財宝を目の前にしたかのように。

 予告状を出していたダイヤがないことに気にした様子もない。

 いいや。

 きっと。

 この老婆にとって―――お(・)宝(・)は(・)ロ(・)ン(・)ズ(・)デ(・)ー(・)な(・)の(・)だ(・)。

 

「この力を手にした時はそれなりに驚いたねぇ。子供はとっくに独り立ちして、旦那は戦争で死んだ。行くところをなくしてこのバルディウムに来たらこうなった」

 

 バルディウム。

 城壁に囲まれた風の吹かない街。

 ―――それぞれの理由を乗せた風が最後に行きつく場所。

 

「力が落ち着いたら、その次は何を思ったと思う?」

 

「何(・)を(・)、ど(・)こ(・)ま(・)で(・)で(・)き(・)る(・)か(・)」

 

「ひっひっひ」

 

 即答にフィルジーは笑い続ける。

 笑みは、止まらない。

 

「そう、だからこ(・)ん(・)な(・)こ(・)と(・)を(・)し(・)て(・)い(・)る(・)の(・)さ(・)」

 

 みんなから外れた。

 普通から逸れた。

 人間から抜きん出てしまった。

 そしてそれを楽しめんだり、行動力に変えるのが『逸脱者』。

 

「でもだめだったね。小説みたいな怪盗ごっこをしたけど、簡単すぎて面白くもなんともありゃしない。力を隠して普通のふりをするのもストレスが溜まるだけ」

 

「そりゃそうだ。私たちは擬態しやすいがな。根本的にはバケモノだ」

 

 『逸脱者(ディヴィエイター)』は≪アンロウ≫の中で、最も日常生活を送りやすい。

 言ってしまえば過剰な身体能力を常時発揮しているだけなので、それさえコントロールすれば『みんな』の内側にいられなくもない。

 勿論、本当に溶け込めるわけではない。

 どうしたって、それは『みんな』から逸脱しているのだから。

 その異常さを隠しても、異常であることには変わらない。

 

「あぁ、気持ちは分かるぞ怪盗。だが―――安心しろ」

 

 ロンズデーは笑う。

 人から、みんなから外れた『逸脱者(ディヴィエイター)』は笑っている。

 ≪アンロウ≫の女はずっと笑い続けている。

 私とこいつは―――よく似ていると。

 

「私が遊んでやる、貴様の遅(・)す(・)ぎ(・)る(・)青(・)春(・)に付き合ってやろうじゃないか」

 

「ひっひっひ!」

 

 空気が歪む。

 それは殺気とか殺意とか戦意とか、そういうものではない。

 きっとそれは本能だ。

 自分の持つ能力を全力で発揮したい―――ただ、それだけの強烈すぎる生物としての根底意思。

 

 ロンズデーはこうなることを分かっていた。

 ノーマンだってこうなるだろうとぼんやり思っていた。

 だからロンズデーは怪盗ティスルの正体を態々言わなかったのだ。

 誰かは、どうでもいい。

 どうやっても、大した話ではない。

 問題は一つだけ。

 

 ――――どうして?

 

 同種の≪アンロウ≫。

 同じ穴の貉。

 貉同士の食らい合い。

 道を外れた者同士が一瞬だけ交叉する。

 

 そうなったらもう、バケモノ同士は止められない。

 

「ノーマン・ヘイミッシュ!」

 

 ロンズデーが叫ぶ。

 煙草を咥え、瞳を爛々と輝かせながら。

 ぎちりぎちりと、極限まで張り詰められた糸のように。

 

「探偵である私が言おう! バケモノはこいつだ! 探偵ではない私が問おう! このバケモノを、私は喰らってもいいか!? どうだ? いいか? 答えろ人間!」

 

 叫びに空気が震える。

 ノーマンの答えを待ちながら、拳が握られた。

 ぎちぎちとこれ以上なく固く。

 

 だからノーマンは答えた。

 これがロ(・)ン(・)ズ(・)デ(・)ー(・)と(・)ノ(・)ー(・)マ(・)ン(・)の(・)通(・)過(・)儀(・)礼(・)だ(・)か(・)ら(・)。

 常人ならその場にいるだけで卒倒してしまいそうな濃密な暴力の前兆を前に、フェルトハットに手を当てて、どうしたって適当にしか見えない動きで爆発寸前の獣に告げた。

 

「――――えぇ、どうぞ。存分に」

 

 その言葉が合図だった。

 同時に、人から外れた身体能力で飛び出す。

 

「ハッハー! 引導を渡してやろう、自分の年を考えていない糞ババア!」

 

「ひひひっ! 楽しませてもらうよぉ年長者への敬意も知らぬ小娘が!」

 

 適当なことを言いながら。

 2人の≪アンロウ≫。

 2人の『逸脱者(ディヴィエイター)』。

 2人のバケモノが。

 その異常を曝け出す。

 

 楽しみたい―――ただそれだけの狂気の下に。

 

 

 

●

 

 

 

 皺の寄った目が見開かれる。

 『逸脱者』の異能は自身の服にも対応するようにできる。

 身に纏う衣類を自己と定義することで異能が作用するのだ。そうしなければ異能の種類によっては使うたびに全裸になりかねない。

 この辺りは『変貌者』よりも融通が利く点だ。

 ただし、それはすぐにできるわけではない。

 自身の体の一部と認識できるだけの必要と思い入れがないとできない。

 なのに。

 

「それは、ただの包帯―――」

 

「そう見えるか?」

 

 笑みが変わる。

 バケモノの哄笑から。

 まるで人間みたいな優しいほほ笑みに。

 

「だったらこれが私とお前の違いだ」

 

 私とお前は似ているけれど。

 

「生憎私は重(・)い(・)女(・)だからな」

 

 ―――私とお前は違う。

 

「『砕けぬ純潔(アンビルセルメイデン)』」

 

 包帯が引き込まれ、

 

「がっ―――!?」

 

 ロンズデーの拳がフィルジーの顔面に突き刺さった。

 拳がめり込む。

 鋼鉄よりも固いその拳を。

 その意味を怪盗は知らない。

 けれど探偵と助手は知っている。

 

 ロンズデーの異能、『砕けぬ純潔(アンビルセルメイデン)』。

 それは彼女自身の存在密度の上昇だ。

 理屈は知らない。

 なにがなんだか分からない。

 けれどそうなる。

 だから≪アンロウ≫。

 体を固くするのではなく、密度を高めた結果に肉体の硬質化と重化を得るのだ。

 鋼の何十倍も固く、重い。

 すでに踏みしめている床、絨毯の下には亀裂が入っているだろう。

 人の形に最大数トンの質量を押し込み、しかし重さと物理法則による速度の鈍化がない。

 ただ彼女が望むままに。

 重く、固く、強く。

 

「ひょ……ぎっ……!」

 

 片手が繋がれ顔面をぶち抜かれたが怪盗は動けた。

 むしろ反撃した。

 異能を使い、巻かれた包帯をすり抜けようとし、同時に右手でロンズデーの体を掻っ攫おうとする。

 

「っ……!」

 

「ハハハ、どうした、笑えよ怪盗! 今更年齢を言い訳にはできないぞ!」

 

 しかしフィルジーの攻撃は通じない。

 高密度化された肉体をすり抜けることはできず、鈍い音を立てて弾かれるだけ。

 痛みがないわけではない。

 密度が上昇するだけで痛覚はそのまま。

 『逸脱者』の膂力で振り回された攻撃を食らえば当然痛い。

 だけど彼女は笑っている。

 片手は怪盗と自ら繋いでるが故、それは実質チェーン・デス・マッチだ。

 最早互いにガードはできない。

 故に人外同士の攻撃は突き刺さる。

 ただし。

 当然のように優性なのは探偵だ。

 

「ぎょっ……ぎっ……が……!」

 

「ハハハハ!」

 

 拳が何度も突き刺さる。ジャブ、ストレート、アッパー、ブロー。左拳による連打。老婆の攻撃は反撃というよりも悪あがきと言っていいかもしれないもの。

 拳によりフィルジーの体が吹き飛び掛け、しかし繋がれた包帯が引き戻し、また拳が突き刺さる。

 老婆の体が跳ね、戻され、また跳ねる。

 

「踊るのが好きなんだろう、ダンスとは手を取り合ってするものだ!」

 

 怪盗は踊り―――――探偵は笑う。

 

 ほんの一瞬前まではどちらも笑っていた。 

 互いの命の天秤は釣り合っていた。

 先に大きな傷を受けたのはロンズデーだった。

 けれど袋叩きにあっているのはフィルジー。

 痛みを受け、傷つけられ、それでも彼女は笑う。

 血に塗れながら。

 凄惨に。

 穢れに笑い、強度を増す貪りの金剛石(エンハンスダイヤ)。

 虚飾を、隠蔽を、策略を、策謀を。

 数多の謎からたった一つの真実を見出す探偵のように。

 

 ――――『砕けぬ純潔(アンビルセルメイデン)』は真実を指し示す。

 

「ぎっ……!」

 

 金剛の拳が仇花の歯を飛ばした。

 

「や(・)、や(・)め(・)―――」

 

「止めろ!? はっ、今更何言ってるんだ! 現行犯逮捕だ! 不法侵入と窃盗! 傷害や殺人未遂はお互い様だから許してやるとして! ババアだろう!」

 

 知らなかったのかと。

 美女は笑う。

 

「人(・)の(・)も(・)の(・)を(・)盗(・)ん(・)で(・)は(・)い(・)け(・)ま(・)せ(・)ん(・)――――だっ!」

 

 顔面にもう一発。

 振り下ろし気味の一際大きな打撃が怪盗の頭部を撃ち抜き、床を割りながらめり込む。

 

「ごっ―――」

 

「ラ(・)ス(・)ト(・)ス(・)テ(・)ッ(・)プ(・)だ(・)」

 

「――――」

 

 倒れ込んだ老婆の細い胸に、探偵の足が置かれた。

 どうなるかは、目に見えた。

 

「――――止めぃ!」

 

「探偵は犯罪者の嫌がることをするのが仕事でな―――――『砕けぬ純潔(アンビルセルメイデン)』」

 

 超過重。

 さらに質量を増した探偵が怪盗を踏みつぶして床を砕いた。

 

「ごふっ―――き、貴様、博物館じゃぞ―――!」

 

「ハッ! 学者らしいことを言うじゃないかいいぞ!」

 

 落ちて。

 一階の床に亀裂を入れる。

 ほんのわずかな抵抗の後、それすらもぶち抜いて落下する。

 

「だが安心しろ――――この博物館全部換算してもこの私の開けた穴に価値がありそうだからな!」

 

 そして、轟音と共に地下へと激突した。

 

 

 

●

 

 

 

 その言葉を戦闘中ずっと突っ立って見ていたノーマンは聞いた。

 そしてぽつりと呟いた。

 

「流石にその推理は無理があるでしょ……」

 

 

 

 

●

 

 

 

 

「答えは香水だった」

 

 ノーマンはロンズデーのつまらなさそうな声を聞いた。

 彼女は呟き、

 

「……おい、ノーマン。ちょっと痛いぞ」

 

「我慢してくださいよ。普通なら死んでますからね」

 

「はん、中々皮肉の利いた冗談だ」

 

 冗談のつもりではなかったけれど、彼女は途端に楽しそうに笑う。

 博物館の大立ち回りを終え、事後処理をハリソンに丸投げしたノーマンたちは廃墟に帰還していた。

 現場の壊れ具合に刑事は全身全霊による無言の激怒の抗議という器用なことをしたが、そこは彼の仕事ということで任せておく。

 

 ノーマンは下着姿のロンズデーに手当てをしていた。

 紫のランジェリーと褐色の肌は魅力的だが、しかし今はそう感じる時ではない。

 脇腹の抉り傷は勿論、全身に細かい打撲。最初ガードや捌きに使っていた両腕には打ち身に加えて擦過傷も多い。

 ソファに踏ん反りかえった彼女の傷をノーマンは丁寧に治療していた。

 消毒をしたり、傷薬を塗ったり、湿布やガーゼを当て包帯で一つ一つ巻いていく。

 脇腹の傷もしっかりと縫合する。

 

「相変わらず器用な奴だ」

 

「戦場じゃ色々覚えましたけど、コレが一番実用性がありますね。……それで、香水?」

 

「単純な話だ」

 

 彼女が鼻を鳴らす。

 

「予告状に僅かだが匂いの名残があった。直接便箋に吹きかけたんだろうな。そしてあのババアは同じ香水を使っていた。だから近づいて握手しただけで正体が分かったんだ。手を潰されたりもしたが」

 

「はぁ。……でも、偶然ってこともあるんじゃないですか?」

 

「おいおいノーマン」

 

 腕に包帯を巻いていたノーマンにロンズデーは半目を向けた。

 

「事(・)件(・)は(・)終(・)わ(・)っ(・)た(・)、頭(・)を(・)回(・)せ(・)。確定したということは確定できる理由があったということだ」

 

「…………あー」

 

 パチンと、ハサミで包帯を切った。

 そして同じ音を頭の中で鳴らしてス(・)イ(・)ッ(・)チ(・)を(・)切(・)り(・)替(・)え(・)る(・)。

 

「………………………………テ(・)ィ(・)ス(・)ル(・)」

 

「そうだ、その通りだ。ティスル―――薊(ティスル)の花、その香水だ。我が国の国花の一つ、これは若者よりもある程度の年齢以上で、それなりに愛国心があることが伺える。便箋も王女様の誕生日記念だったしな。薊の香水を使う者もいるのは間違いないだろうが――――普通、怪盗と同じ名前の花の香水を使うことはあるまい」

 

「だから……」

 

 普通なら。

 自分が働く博物館や関係ある美術品を盗む怪盗の名の香水をつけるわけがない。

 その通りだ。

 だけど、フィルジー・ミュールは普通ではなかった。

 普通から逸脱してしまった。

 

「地下までぶち抜いたら従業員用の事務室があって、ババアの机を漁ったが去年職員旅行で行ったらしきリバープールの写真もあったし、例の便箋屋の封筒や便箋も保管されていた。ついでに言えばアレのデスクにはご丁寧に左右両方にペン刺しも置かれていた――――見つけて欲しかったのさ」

 

 1年前リバープールでの買い物。

 両利き。

 性格に関しては言うまでもない。

 最初の彼女の推理通り。 

 年齢だけは間違っていたが、ノーマンだってまさか怪盗が老婆なんて思わなかった。

 

「あの人、なんで怪盗だったんですかね」

 

 ソファに跪いて彼女の太ももに湿布を張る。

 彼女の足を自身の太ももに乗せながら、指を滑らせて怪我の度合いを確かめながら。

 

「≪アンロウ≫になって、『逸脱者』になったから能力を使いたいってのは分かります。でもなんで怪盗だったんでしょう」

 

「さぁな」

 

「むっ」

 

 彼女の足指が自身を乗せる太ももをくすぐる。

 こそばゆい。

 

「そこまでは流石に分からん。……夫と死別し、子供は一人だちしたと言っていた。≪アンロウ≫になってあれだけの弾け具合、それまで鬱憤を抱えていたのは間違いないだろう。博物館勤務の学者、怪盗になる理由があるとすれば……そうだな、やつの家の本棚でも漁ってみれば分かるかもしれない」

 

「……なるほど。刑事さんに手配しておきましょう」

 

 もしも。

 もしもそこに怪盗小説が並んでいたり。

 或いは自分で書いていたりしたのなら。

 それはなんというか。

 フィルジー・ミュールは本当に青春していたのかもしれない。

 年を取り、衰え、家族はおらず――――目覚めた異能により見た夢をかなえたのかも、なんて。

 それはちょっと突飛な想像だろうか。

 怪盗がそもそも突飛な存在だが。

 

「なぁ、ノーマン」

 

 足指が太ももを撫でる。

 ノーマンは足を取り、怪我がないか確かめる。

 まるで女王の足に口づけする騎士のように。

 

「私があの女を殺したのは正しかったか?」

 

 

 

●

 

 

 

 ロンズデーは自分に傅いている男を見る。

 全身の傷は、しかし『逸脱者』としての回復力なら1日、ないし数日あれば完治するにも関わらず丁寧に処置をしてくれる。

 マメな男なのだ。

 そんな男に問いかけた。

 

 ロンズデー・エンハンスダイヤは結局、フィルジー・ミュールを殺した。

 

 度重なる打撃に、ダメ押しと言わんばかりの超重量の押しつぶし。

 『逸脱者』の耐久を超えたダメージに彼女は死んだ。

 ≪アンロウ≫、それも肉体的に強度の高い『逸脱者』や『変貌者』を殺すにはそれくらいしないといけないということは分かっている。

 

 この廃墟の自宅、一階から三階まで空いている穴もフィルジー・ミュールを殺した圧殺と同じ行為で空いた穴。

 彼女が殺したヤクザの頭は≪アンロウ≫であり、異能を悪用していた。

 だから殺した。

 

 ロンズデー・エンハンスダイヤは探(・)偵(・)だ(・)っ(・)た(・)。

 

 探偵とはその推理で犯罪を暴き、隠された謎から真実を見出し、犯罪者を司法の手に委ねる正義の味方だ。

 彼女は≪アンロウ≫になる前から探偵であり、確かな正義感と倫理の下に犯罪者を警察に引き渡していた。

 正しいことを、したかった。

 生まれつき人並み外れた頭脳があり、人が気づけないことに気づくことができた。

 誰も気づかないことを気づき見抜く名探偵の瞳。

 彼女が探偵になったのは必然だったし、天職だと思っていた。

 みんなを守る探偵。

 

 けれど、1年半前ロンズデーは≪アンロウ≫になって、みんなから逸脱してしまった。

 

 異能の発現、各種身体機能の向上――――そして、精神の箍が外れてしまったのだ。

 精神性の逸脱こそが、『逸脱者』の特筆するべき点であると彼女は思う。

 『変貌者』を除き、≪アンロウ≫は少なからず頭がいかれるが、『逸脱者』はそれが顕著ではないかと思う。

 ブレーキが消えてしまうのだ。

 自らの能力を発揮したいが故に、ゲーム感覚で怪盗になった老婆のように。

 己のルールの中だけで生きる、生きられるようになってしまう。

 正しいことをしたいはずだったのに、いつの間にか楽しいことばかりを求めるようになった。

 罪なき人々を守るのではなく、罪を犯した者を追い詰めることに快感を覚える様になってしまった。

 

 自己矛盾だ。

 

 探偵は探偵から遠い存在になってしまった。

 でも。

 

「えぇ、正しかったと。俺はそう思いますよ」

 

 ノーマン・ヘイミッシュはロンズデー・エンハンスダイヤを肯定する。

 太ももに乗っていた足を取り変え、

 

「んっ……」

 

 足の裏、甲、くるぶし、太ももに手を滑らせる。

 ゆっくりとした動きにロンズデーの吐息が漏れた。

 丁寧に、執拗に。

 宝石に傷がないか確かめる様に。

 

「あの人好き勝手してたし、ロンズデーが≪アンロウ≫と知ってすぐに殺しに来ましたし。あれでロンズデーさんを殺してたら≪アンロウ≫とか狩り始めてたでしょ。そもそもこれまで人的被害がなかったのが奇跡ですよ」

 

「……」

 

「それにあの異能だと捕獲も難しい。怪(・)盗(・)だ(・)か(・)ら(・)っ(・)て(・)許(・)さ(・)れ(・)る(・)こ(・)と(・)は(・)な(・)い(・)で(・)す(・)し(・)ね(・)。そもそも≪アンロウ≫の捕獲は生死問わず―――成り立てや異能を覚えたてではなく、あれだけ応用ができる≪アンロウ≫を殺さずに終わらせるのは難しい。ロンズデーさんも知っていることでしょう?」

 

 だから。

 

「貴(・)女(・)は(・)す(・)る(・)べ(・)き(・)こ(・)と(・)を(・)し(・)ま(・)し(・)た(・)」

 

「………」

 

「それに」

 

 彼は彼女を見上げた。

 真っすぐに見つめる。

 少し微笑んで。

 

「やれと言ったのは俺です」

 

「……そうか」

 

 息を吐く。

 身体の力を抜く。

 本当に彼の言っていることが正しいのか―――ロンズデーという『逸脱者』にはもう分からない。 

 分からなくなって、しまった。

 壊れた倫理観。

 消えた罪悪感。

 崩れた常識。

 無くなった判断基準。

 善悪の推理はできる。ロジカルに思考はできる。

 けれど、そこにロンズデーは確証を持てない。

 自分で、自分の推理に確信を持てない。

 『逸脱者』になって、そうなってしまった。

 推理はできるけど正義が分からない探偵。

 それがロンズデーという女。

 

「ありがとう」

 

「いえ」

 

 だからノーマンは示してくれるのだ。

 何をするべきで、何を為すべきか。

 正しさの指針をくれる。

 もう探偵でいられない彼女を、探偵でいさせてくれる。

 それゆえに彼は彼女の相棒なのだ。

 ≪アンロウ≫で『逸脱者』のロンズデーを否定するのではなく、≪アンロウ≫で『逸脱者』のままのロンズデーとして。

 態々ロンズデーといる時は思考のレベルまで下げているくらいだ。

 それは忖度とか彼女を持ち上げているわけではなく、ノーマンの熟考はロンズデーの一瞬の思考にも及ばないというわりと切実な理由もあるのだが。

 

「ふっ……なぁノーマン」

 

「はい?」

 

「私は探偵か?」

 

「えぇ。貴方以上の探偵を俺は知りませんよ」

 

 彼は言う。

 彼女にとって一番うれしい言葉を。

 1年半前、ある事件で出会い、最初は敵対し、途中で協力し、そして自分を見失ったロンズデーに言ってくれた言葉。

 

「ふふん、そうか」

 

 そうか。

 だから。

 探偵であることを生きることを示した女は思う。 

 きっと自分はもう探偵という宝石ではない。

 けれど、そう愛でてくれる者がいるから。

 それだけで彼女は何よりも固い金剛なのだ。

 

「お前がいるそう言ってくれる限り―――私は探偵であり続けよう」

 

 

 

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