他人に優しくない「ぼく」は、どうやって他人からの優しさから逃れられるのか……
それを叙述しようとした短編小説。
2050年。人類はこの世からありとあらゆる序列・順位・差別・区別というものを撤廃することに成功した。宇宙空間上の資源へのアクセスが無造作に可能となり、旧人類が社会体制を維持するのためにやっていた他者を差別する必要が一切なくなったのだ。ただ1つの差別を除いて。
――優しくないと優しくされてしまう
2050年の社会では、利他行為というのは社会のありとあらゆる場所に普遍的に存在している。利己的な行為は一切合切なくなってしまい、皆が皆、利他行為をいつ誰にしてやろうか、どのようにしてやろうかを、今か今かと待ち構えている。
2049年までは、利己的な行為は当然あった。しかし2050年、最後の「全然優しくない人(別名: わたしたちの被害者)」が亡くなってしまった。それによって、利己的な行為はこの世から消え去ったのだ。革命家と称せられた彼は、最後まで呪詛を吐いて、そして死んでいった。惜しい命を無くしてしまったと、全世界の人たちが嘆き悲しんだ。彼の発言を抜粋してみよう。
「こんな世界は間違っていると思う」「あなた方は人間的ではない」「もしかして前世はトカゲですか」「いちいちお節介を焼かないでください」「こんなのテキトーでいいんですけどね」「俺は絶対誰にも感謝しません」「はいはい、どうせ俺は感情的ですよ」「俺の方がちょっと背が高いな」「俺の方が頭がいいかもしれない」「お前の家って狭いよな」「他人の気持ちそんなに考えてどうするの」「糖分ばっかり摂取しすぎだろ」「もしかしてこの曲知らないんですか?」「はあ?」「えー?見ればわかるよね」「だって練習するだけじゃん」「結局それはあなたのオナニーにすぎないんじゃないですか」「ばーーか!」
など、彼の発した「優しくなさ」をあげていけば枚挙にいとまがない。彼の発言から生成された倫理観は数えられないほどだ。
歴史の授業を見るたび、みなよくため息をついて嘆いていたものだ。「昔はよかったんだなあ。社会のどこにでも差別があって」と。しかしこうした発言自体もある種優しくないとされた。いつしかこれも、誰も言わなくなった。
優しさ。優しさとは何か。正義とは何か。そういうことが繰り返し問答される社会では、倫理観は1ヶ月に数個のペースでアップデートされる。たとえば次のように。
「新しい倫理観が発表されました」
「良くない自己決定権(旧名: 愚行権)を行使しようとしている他者について、それが明らかにその他者にクラスA相当の危害を及ぼすことがわかっていながら、それをこの他者が気付かない間に未然に取り除こうとする行為(以下K行為と称する)について: これはパターナリズムにもとづく個人のプライバシーへの介入であり、倫理に反する場合があると思われる。個人がK行為をするのではなく、行政にK行為の推薦を行うことが望まれている」
こういうことがずっと続いている。良くない自己決定権(旧名: 愚行権)を行使するなどということは昨今全く起こっていないのにも関わらず!!!
人類がまだ野蛮だったころに介入可能なように、タイムマシンの開発も急がれている。全世界の素晴らしく優しい人達のリソースが割かれているため、遅かれ早かれ、完成するのだろう。
そしてぼくは……ぼくはというと、
「あああああああああああああああああ!酒でも飲まなきゃやってらんねえなああああああ!!」
「ばーーーーーか!!!あーーーーーーほ!!」
ぼくは1人で家の中で意味もなく、ささやかな悪口を発していた。幸いにも防音設備は万全だ。
この行為はかなり危険である。他人にバレてしまうと、すぐにみな優しくしてきてしまうからだ。
優しさの中でももっとも厄介な行為が、人知れずして優しくしてくれるという「恩送り」「ペイ・フォワード」というものだ。これには何らかの理由がついていることが多い。否応なくその優しさを受け取らないといけない理由がいつのまにか発生しているのだ。その理由のほとんどは、論理的にも筋が通っているため、拒否をすることが難しい。皆これに恐怖を感じている。
原理的に拒否ができないのだ。拒否をすることは悪手だからだ。そんなことをしてしまえば、みな目が凜々とし始める。「こんなところに、宝の山が!!」といったような、あの犯罪的な目!!
世の中にはとんでもないクズがいて、「優しさインテリジェンス」という、諜報活動を行っているものもいる。優しさインテリジェンスというのは、非合法活動であり、これは法的に禁止されている。しかし、法的に禁止されているにもかかわらず、優しさの受益者を探し出して、偶然を装って優しくしてくるのだ。これが恐ろしい。
一時期、そういう諜報活動がバレたヤツが逮捕されたときは、世間ではどうやって優しくしてあげようかと考えていたものだ。「あなたのおかげで救われました」などという言葉がそのクズにかけられたり、嘆願書まで書かれたほどだ。クズは苦しんでいた。「勝手に優しくして申し訳ありませんでした」という謝罪はしていたものの、みな簡単に許してくれはせず、そのクズを快く受け入れていた。「受け入れることがむしろ相手を傷つけてしまうかもしれない」と考えた者の中には、表面的に「自分は許さないよ」というポーズをとる優しさの者もいた。ただ、いまでは彼は幸せそうに暮らしている。不幸なことに、彼は幸せなのだ。
それなのに、こんな危険な行為を行っているぼくは、いったいどうしたことだろう。
息を潜めながらぼくは小声で言った。
「ぶっ殺してやるからな…!」
別に誰かを恨んでいるわけではない。ただただ、こういうセリフを言うことが犯罪的な快感なのだ。ちなみに犯罪そのものではない。だいたい、殺人犯などというものは発生し得ないのだ。そして、刑務所というのは一応全世界に1つだけ存在しているが、犯罪者はいつでもそこから出ることができる。だが、誰も脱獄しようとはしない。そんなことをすれば、際限なく優しくされてしまうことがわかっているからだ。そうすると、絶対に幸福になってしまう。
刑務所の中にさえいれば、法律上、他人から勝手に優しくされることはない。みだりに優しくする人があまりにも多かったため、法律で禁止されたのだ。優しさによって、優しくできなくなったのだ。
「ぶっ殺す…ぶっ殺す…ふふ…」
ぼくは酒が入ったグラスの氷をカランコロン鳴らしながら、夜のひとときを楽しんでいた。
そして、この夜がぼくがふつうのままでいられた最後の夜になった。
革命家の彼の肖像画がぼくの方を見て、邪悪な笑みをして「ばーか」と煽ってきたような気がした。
気が向いたら続きを書きます