PRISM   作:はくたかゆき

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1.閉じられたダイヤ

 夜が明ける寸前の世界は、青く透明な宝石に封じ込められているかのようだ。

 その青い空間に、カーテンの隙間から一条の朝日が差し込み、レイカが胸に捧げ持つダイヤの指輪を包む。

 ダイヤは新しい朝の光を受けて、まるで今生まれたばかりの星のように、まばゆく煌めいた。

(あの人の、魂のかけらがここにある)

 レイカはダイヤにやわらかな唇をそっと寄せた。

(私を愛してくれたあの人は、私の中で生き続けてる……)

 小さな子どもを守るように、そのダイヤを胸元に抱き寄せる。

(だから、私は大丈夫。きっと、大丈夫)

 レイカは力強くうなずくと、寝床からさっと立ちあがった。

 ダイヤの指輪はプラチナ製の細いネックレスに通されて、レイカの胸元に下がっている。

 狭い畳の部屋に並べた布団で疲れきって眠っている妹たち――エスメラルダとヒロミを起こさないように、台所に向かう。手際良く3人分の弁当と朝食をこしらえると、台所の隅でスーツに着替え、身支度を整えた。

「行ってきます」

 眠っている2人に向かってそうささやくと、レイカはなるべく静かにドアを閉じた。古めかしいいドアはどうしても蝶番がきしんで、枠にはめるときにガタガタと音を立ててしまう。

 パンプスの底が軽快な音を立てて、前奏のように階段を鳴らす。

 彼が生きているというだけで、世界中の何もかもが、今にも歌い出しそうだ。

「おはよう、レイカ」

 背後から女性の声がした。

「おはようございます、サエコさん」

「会社の迎えの車がすぐそこに来ているわ。一緒に行きましょう」

「え、私は……電車で通勤しますけど」

「ええ、明日からはそうしてもらうわ。はい、これ明日からの定期券」

 サエコはペンギンの絵柄のICカードをレイカに渡した。

「とても、きれいね。あなたがきちんとお化粧してるところなんて初めて見たわ。スーツ姿も、とっても決まってる」

 レイカは嬉しくなった。サエコに褒められると、おなかの底から自信が湧いてくる。

 待機していたシャニの社用車に乗りこむと、サエコは言った。

「さぁ、今日は忙しいわよ。これから晩まで一日中、私に付きっ切りで、あちこち走り回らせるわよ」

 

 

 レイカは今日付けで、ジェネラル・ジンの秘書としてシャニで働くことになっていた。

 ただ、今日のジンは健康チェックと休養で、出社はしない。

 サエコはこの一日でレイカに必要最低限の引き継ぎを行う。ジンの仕事の管理については、明日以降ジェイキンズから引き継ぎが行われる。引き継ぎが終わり次第、ジェイキンズには、世界中に散らばっている採掘・調査の現地チームを統轄するという、多忙な仕事が待っていた。

 2人は迎えの車に乗り込んだ。

「昨日カイロから帰ったばかりだというのに、朝早くから駆り出して悪いわね。エスメラルダとヒロミは?」

 サエコはレイカの体調を気遣っているようだ。

 レイカたちはジンの捜索に何週間もかけて世界中を走り回り、ついにエジプトでウィルスンの宝石使いたちと対決した。ジンを送り届けに来たカルメンと再会し、ジンの目が覚め、そこから十数時間かけて昨日、やっと日本に帰ってきた。移動にはシャニの専用飛行機を使ったが、それでも多忙を極めた道中だった。

「エスメラルダとヒロミは今日と明日はゆっくりして、週明けからそれぞれ、会社と学校に復帰です。疲れているようなので、起こさずにそのまま出てきました」

「まだ朝の6時だものねぇ。あなたは眠くないの?」

「ちっとも。4時半くらいに目が覚めてしまいました」

 レイカは嬉しくてたまらなかった。ジンの記憶から自分との二年間がすべて消えてしまったことは寂しいけれど、元気に生きてくれているだけで良かった。もう恋人ではなくても、秘書としてすぐ側で働いて彼の力になれる。

「ジンはあなたが秘書として着任することをまだ知らないわ」

「いいんですか、それ……」

 レイカが目を丸くするのを見て、サエコは微笑する。

「いいのよ。誰にも私の決定に有無は言わせない。たとえそれがジェネラル・ジンでもね」

 サエコは話を続けた。

「だけど、秘書というのはあくまで名目よ。おそらく、最初のうちこそスケジュール管理や事務的な仕事が主になると思うけど。あなたならすぐに、私がかつてやっていたように、ジンの対等なパートナーとして活躍することになる」

「私に……できるでしょうか」

「私の人を見る目を信じなさい」

 サエコはにっこり笑った。

 ビルの谷間から、シャニの日本支社が見え始めた。

「それと、あなたの願い通り、シャニの人間には、ジンとの関係のことは口止めしたわ」

「ありがとうございます。私のわがままでお手数かけて申し訳ありません……」

「いいのよ。大した手間じゃなかったわ。でもね、レイカ。分かってるでしょうけど、いつまでも隠しおおせないわよ。ヒーラ側の口止めまではできないし。そしてジンがその気になれば、この一、二年に何があったのか……調査でたどることなんて簡単よ」

 レイカはうなずいた。

「いいんです、それでも」

 レイカはジンに関係を強要したくないだけで、ジンが自ら過去を知ろうとするなら、それを止める理由はなかった。

 サエコは短く、そう、とだけ返すと、それ以上この話題には触れなかった。

 会社に着くと、サエコは予告通り、あちこちレイカを連れて回った。

 土曜日なのに、社員のほとんどが出勤している。それぞれ通勤ラッシュにかからない時間帯で、時間差をつけて出社するのだ。サエコがシャニのトップとなったことで、本社機能は現在日本に移されていた。そして時差のある各支社と迅速にやりとりを行うため、会社の機能は長時間稼働している。社員たちは週休二日制で、土日祝関係なく仕事をこなしていた。社員全体で同じ日に休日をとるということは、シャニの取引相手には通用しない。

 さまざまな部署に面通しされ、挨拶して回り、こまごましたことを教わっただけで、午前の時間はほとんど消えた。

 社長室に戻ったサエコはレイカに言った。

「お疲れさま。ちょっと早いけど、お昼にして休憩しましょ」

「私、お茶を淹れます。ほうじ茶でいいですか?」

「ええ、お願い」

 社長室には専用の給湯室があった。流しや電磁調理器はもちろん、食器棚に冷蔵庫と電子レンジも備えられている。眺めのよい窓際に長いテーブル作りつけてあり、簡素だが洒落た椅子が数脚並べられている。内装と家具はシンプルに木目で統一されていた。

「いいでしょ、ここ。ガス火じゃないのはちょっぴり残念だけど」

 サエコは嬉しそうだ。

「ここで誰かとお弁当並べるなんて、久しぶりだわ」

 サエコはレイカの弁当の薄切りハムで作った花を見て感心し、何かと交換しないかと持ちかけた。レイカはサエコお手製のミートボールと交換した。

「おいしーい! サエコさん天才」

「そう? でも夕飯の残り物よ」

「私のもほとんどそうですよ」

「最初は張り切って別メニューで作ってたんだけど、だんだんダレてきちゃって」

「あ、それ! わかる! それで夕飯のときに多めに作っておいて……」

「そうそう! シリコンカップに詰めて冷凍したりねー」

 こうしてサエコと過ごすのも、一緒に仕事するのも、とても楽しかった。明日からサエコが退任してしまうのが残念だった。

 

 

 午前10時が、一日で最初のお茶の時間だ。

 レイカは紅茶を淹れ、クッキーを添えてジンのデスクに差し出した。

「ありがとう」

 礼を言って、ジンは紅茶を一口含んだ。

 ジンが目を瞠るようすを見て、レイカは嬉しくなった。そしてすぐに、かつてトロントの屋敷でジンに味噌汁を褒められたことを思い出し、切なくなってしまった。

 思い出を頭から振り払って、テキパキと洗い物を片付け、業務に戻った。

 昼休憩になると、給湯室の隅の席で弁当を広げた。この界隈で昼頃に外食しようとすると、行列につかねばならず、無駄な時間を消費してしまう。給湯室での昼食は、他の社員とのおしゃべりを楽しむことはできないが、窓からの景色が良く、気分が澄みわたるようで、十分な気分転換になった。

「やあ。隣、いいかい?」

 すぐ戻ると言って5分ほど前に外出したジンが、もう戻ってきた。手に仕出し弁当とほうじ茶のペットボトルを持っている。胸が高鳴った。さっきジンが出て行ったときは、さみしいような、ほっとするような気持ちだった。

「もちろんです、どうぞ」

 ジンはレイカの隣に腰を下ろし、レイカの弁当を覗き込んだ。

「ね、その可愛い、赤い花は何?」

「これ、花じゃなくてウインナーで作ったタコです。エスメラルダがこういうの喜ぶので……」

「もしよかったら僕の何かと交換してもらえない? 僕まだ口をつけてないから」

 レイカの顔がほころぶ。

「昨日もサエコさんとお弁当の中身を交換したんです」

「ミス・サエコと? 何を?」

「ハムで作ったお花とサエコさんのミートボールを」

 ジンは目を丸くした。

「ハムで花だって? いいなぁ……」

「明日、お弁当に入れて来ましょうか?」

「いいのかい? やったね!」

 ジンは嬉しそうにウインナーのタコをほおばった。彼の子どものような無邪気な笑顔を見ると、レイカの頬はついゆるんでしまう。

「ミス・サエコが会社を辞めると言い出したときは、正直、困ったことになったと思ったよ。だけど僕は世界一幸運な男だ。君のような素晴らしい女性がスタッフとして来てくれるなんて。今朝君が社長室に現れたときは、女神が舞い降りたと思ったよ」

 レイカはジンの誉め言葉に(相変わらずねぇ)とニコニコしながら聞いていた。

「君が淹れてくれた紅茶、とてもおいしかった。紅茶の香りがあんなにも体と心を癒してくれるなんて……27年間生きてきて、初めて知ったよ」

「ふふふ、お上手ですね」

「いや、本当だよ。一日の仕事を終えて、家に帰って、あのおいしい紅茶を飲みながらくつろげたら……それが今一番の願いさ」

「まぁ! ありがとうございます」

 レイカがなおもニコニコしているのを見て、ジンは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。そして、指先で頬をちょっと掻くと、気を取り直して話題を天気のことに変えた。

 

 

「に……」

 サエコとエスメラルダとヒロミが、真剣な面持ちでまっすぐにレイカを見つめる。

「にぶい!」

「な、なによ、三人で声をそろえて……」

 レイカはうろたえた。

 サエコが息子として育てている為五郎は弁当を持って夕方から塾に行っているので、サエコは一人でレイカたちの部屋に遊びに来ていた。4人で卓袱台に持ち寄った料理を囲んでいる。

「だって、ジンって元々キザなところあったし。あんなのただのリップサービスよ。ジンにとって私は一昨日カイロで初めて会ったばかりの人なのに、そんな深い意味があるわけないわ!」

 レイカが必死になって否定すると、エスメラルダは眉根を寄せた。

「恋に落ちるのに時間はいらないのよ。そんなの常識じゃなくて?」

 サエコは卓袱台に肘をついて、身をレイカの方に乗り出した。サエコは小声でレイカに尋ねる。

「ねぇ、もしかしてレイカって、他の男の人とつきあったことないの?」

 レイカはサエコの言葉を否定できなかった。

「だって……だって私、ずっとパパが理想の男性だったから」

「ああ! それは理想が高すぎるわ。私も好夫さんが理想の男性だから、気持ちはよく分かるけどねぇ」

 そう言ってエスメラルダは笑顔になった。

 ヒロミが大胆な質問をした。

「あのぉ、レイカさん、それって……何もかもジンさんが初めてだったってこと?」

「わーお!」とエスメラスダとサエコが声をそろえた。

「やめてください! サエコさんまで! 私のことはいいわよ! ヒロミはどうなのよ、ヒロミは!」

 レイカは首まで真っ赤になって、無理矢理ヒロミのことに話題を振った。

 ヒロミは褐色の肌を通しても分かるくらい、頬を上気させた。

「えーと。私は……文通を」

「……文通!」

 レイカは一瞬絶句したあと、ヒロミの言葉を繰り返した。

 エスメラルダは「新鮮! インターネットのこの世の中に!」と盛り上がっている。

「だって、東堂くんと純くんが入ってる児童養護施設って、基本的にインターネットや携帯は禁止らしくて」

 ヒロミは照れながらゴニョゴニョと説明した。

「その文通のお相手って、あなたが中学のときに同級生だった少年ね。あなたたちが虐待から保護して福祉につないだ」

 サエコが聞くと、ヒロミは驚いた。

「サエコさん、知ってらしたんですか?」

「かつてシャニは、クリシュナのことを徹底的に調べ上げたのよ。私がシャニを離れるまでにあなた方が関わった事件は、ほぼ知っているわ。それがシャニやヒーラとはほとんど無関係の事柄でも、ね」

「そうだ。ヒーラ社といえば、あの子たちを保護するとき、たしかヒーラ社が便宜を図ってくれて。事後のことも頼んであったわよね」

 エスメラルダはそう言うと心配そうにレイカを見た。

「レイカは途中からシャニの側についちゃったけど、東堂くんたち、ヒーラからの援助は打ち切られなかったのかしら……」

「それは、大丈夫よ」

 サエコは言う。

「ヒーラ社のクリシュナ関連の担当者はチェリンという女性なんだけど、彼女、人情家だから心配ないわ。会ったことあるけど、なかなか大した人物よ。チェリンならクリシュナがヒーラと敵対関係になっても関係なく、保護した彼らを援助するはずよ」

 そしてサエコはレイカに向き直った。

「話を戻すけど、レイカ。ジンは確かにキザで歯の根の浮くようなこと言うけど……ああ見えて、女性に軽々しいことは絶対にしないのよ。だから、あの子がもし好意を示してきたら、逃げたりはぐらかしたりせずに、まっすぐ受け止めてあげてほしいの」

 レイカの頬がほんのり染まる。

「サエコさん……今もジンのことそんなに大切に思っているのに、どうして離れてしまうんですか?」

「んー……そうねぇ。詳しく話したことなかったわね」

 サエコは頬に手を当てて考え込んだ。

「どこから話せばいいかしら……」

 

 

 ニ年ほど前に、流崎好夫と腹を割って語り明かして以来、サエコはジンが支配するシャニから心が離れ始めていた。しかし、ジンを独りにしてしまうことには、ためらいがあった。ジンは、誰かがそばにいて止めてやらなくては、いつか自滅してしまいそうなほどに焦りと怖れを抱えていた。サエコはジンから離れる決心がつかないまま、シャニでの仕事に追われる日々を過ごしていた。

 そんなある日、失踪していた流崎好夫がマリー・ランジェを伴って、ジンとサエコが滞在していたジンバブエ支社に現れた。

「ジン君にいくつか頼みがあるんだ。ヒーラとウィルスンの目を欺くために、僕たちと一芝居打ってほしい。僕たちがシャニと決別したと思わせておく必要がある。そしてそのあと、僕たちはアダマンタイトという鉱石を探す旅に出るけど、行方を追わないでほしい。会社と連絡がつくと、そこから情報が漏れるからね。最後に、ジェイキンズ君が大切に保管していたトラピッチェ・エメラルドを僕たちが持ち出すことを許してほしいんだ」

「そんなものを持ち出さなくても、資金はお渡しできますが」

 ジンが言うと、マリーは上品に笑った。

「いいえ、資金の心配はいらないの。売るために持ち出すわけではないのです。いつか来る、時をつかさどる神との契約に、どうしてもそれが必要なの」

「ヒーラ社を欺くためには、まずヒーラ社のクリシュナである私の娘を欺かなければならない」

 そう言って好夫は恰幅の良い懐から写真を出し、ジンに手渡した。

「ニ年前…19歳になるかならないかの頃の、娘の写真だ。なかなか美しい娘だろう?」

 好夫はヒーラとウィルスンを欺くという芝居の計画について、詳しく語り始めた。

 好夫のシナリオを聞いて、ジンは眉根を寄せた。

「参ったなぁ。それじゃあ、僕、とんでもない悪役じゃないですか…。娘さんに嫌われちゃうな」

「まあ、そう言わんでくれ。代わりと言ってはなんだが、君たちにとっておきの情報を授けよう。実は……この僕とマリーが、宝石使いの三賢人と呼ばれている者なのだ」

 驚くジンとサエコに、好夫は不老不死のからくりを説明し、彼らがなぜアダマンタイトを探し求めるのかを話した。そして最後にこうつけくわえた。

「どうか君たちは、道を間違えないでくれ……」

 それから数日後、ジンと好夫とマリーは、ハワイへ向かった。

 出かけるときは気が進まないようすだったが、ハワイから帰ってきたジンはとても満足そうだった。そして、既に読み終わったはずのクリシュナについての報告書を何度も読み返したり、ぼんやり窓の外を眺めていたり。そんなジンをサエコは微笑ましく見ていたものだ。

(この子もやっと恋を知ったのかしらね……)

 しかし、ジンはクイーン・アルマ号で、クリシュナや無関係の人々まで危険に巻き込んで、ウォン・ミュンヘンとの接触を図った。当時、ジンはウィルスンよりも先んじてウォン・ミュンヘンと接触しようとしていた。巨大企業に成長したシャニに、再びウォン・ミュンヘンという強力な宝石使いを取り込むために。ヒーラ社の監視を逃れて潜伏している彼を引きずり出すには、大がかりな仕掛けが必要だった。

「どうして? あなた、あんなに流崎レイカを気に入っていたじゃない!」

 チェスをもてあそんでいるジンを問いただすと、彼は不思議そうにサエコを見つめた。

「気に入ってるよ。彼女は美しくて強くて勇敢で……とても面白いんだ」

 言いながら、ジンはチェスの駒を動かす。

「数手先を読んで駒を配置し、僕が作ったフィールドに誘い出しても……彼女は思いもよらぬ動きで、僕が組んだ棋譜をひっくり返してくれるんだよ。次はどうやってクリシュナという駒を動かそうか……考えると、飽きないね」

 サエコは青ざめた。

「……あなたは、自分の何を犠牲にしたのか、分かっているの……?」

 ジンは肩をすくめた。

「大げさだよ。なにも命まで取ろうとしたわけじゃない。万が一、ウォン・ミュンヘンがウィルスングループに確保されてしまえば、さらに多くの人々が危険にさらされることになる」

「多くの人々……? それより先に、あなたにも守るべきものがあるはずよ!」

「どうしてそんなに彼女に肩入れするんだい? そりゃあ、流崎氏に娘を頼むとは言われたけど、今はヒーラ側の人間じゃないか」

 ジンは機嫌を損ねたようすでチェス盤に駒を片付け、それを持って去ってしまった。

 サエコは呆然としたままジンの後ろ姿を見送ると、その場にへたり込んでしまった。

(だめだ……私がそばにいても、あの子を止めることはできない。あの子を足止めするなら、私が離れるしかない。ここを出て行こう……なるべく早く!)

 

 

「あの子には、自分の正義のためになら人を駒のように扱ってしまうところがあった。私は彼のそこに狂気を感じていたわ。だけど……」

 サエコはあらためてレイカを見た。

「あなたに惹かれていくうち、ジンの何かが変わり始めたと思う。私がかつてジンから離れたのは、彼を信じられなくなったから。だけど、今は違う。ジンはあなたに出会う前に戻ってしまったけど、あなたがそばにいてくれれば、ジンはまた変われるって信じてる。だから、離れることができるのよ」

「ジンは、ハワイでレイカと出会う以前に、戻ってしまっているものね」

 エスメラルダは残念そうに言った。

「私は、あなたがやり過ぎたとは思ってないわよ。これは単なる推測だけど、あの世からジンの魂を取り戻すのに、トラピッチェ・エメラルドのパワーだけでなく、彼の大切な思い出を差し出すことが必要だったのかもしれない。パワーをうまく調節できたところで、結果は同じだったのかもしれないわ」

 サエコはそう言ったが、エスメラルダは元気なく肩を落とし、小さく「そうなのかな…」と呟いた。

「ジンはね、流崎さんやマリーさんが三賢人だということも覚えていなかった。あのときレイカの写真を見せられた直前から、記憶が消えてる。直接レイカに関わることから、都合良く記憶がごっそり抜け落ちるなんて……そんなことって、あるかしら? 少なくとも私には、偶然とは思えないわ」

 サエコは確信を持っているような口調だった。

 

 

 翌日、ジンはデスクで決済書類の束を眺めながら、ときどきあくびを噛み殺していた。

「今日はお疲れですね」

 昼食時にレイカが声をかけると、ジンは微笑んだ。

「うん、昨日はホテルに戻ってからパソコンや携帯とにらめっこしててね。ちょっと寝不足なんだ」

 レイカはハムの花とうずらのゆで卵で作った小鳥を弁当に入れてきていた。ジンが喜ぶのを見て、胸が躍る。明日は何にしよう?

 午後、ジンは社外に一本の電話をかけた。

「やあ、サエコ姉さん。今いいかい?」

『ええ、今日は仕事が休みだから。どうかした?』

「うん……マーカス財団の決済書類のことなんだが…」

『何か問題でも?』

「この期間と金額に納得がいかないんだ」

 ジンは眉をしかめている。当然、レイカにはサエコの声は聞こえてはいない。

『そんなの、私じゃなくて担当者に聞きなさいよ』

「そうなんだよ、桁がひとつ足りないのではないかと思うんだ」

『ジン…? まったく話が見えないわ…』

「うーん、電話で話していても埒があかないな。今日、仕事が終わったらサエコ姉さんのアパートに行っていいかい?」

『いいけど……』

 

 サエコは携帯の通話を切ったあと、あごに人さし指を当てた。

「ははーん……」

 

 レイカは通勤帰りに買い物を済ませて、アパートに戻ってきた。

 会社の朝は早いが、日が暮れないうちに帰れるのはありがたい。

 ジンは用事ができたからと言ってレイカよりも先に仕事から上がった。今頃は隣の部屋でサエコと話しているのだろうか。

 弁当の下準備と夕飯の支度に取りかかりながら、つい、サエコの部屋との間の壁に目が行ってしまう。

 

 

「それで、マーカス財団の話って?」

 サエコが湯呑を差し出しながら聞くと、ジンはキョトンとした。

「え? なんのことだい?」

 座卓にはジンが買ってきた手土産の菓子箱が乗っている。

「僕はサエコ姉さんのご機嫌をうかがいに来たんだよ」

「……嘘おっしゃい」

 サエコはジンをにらんだ。

「では、正直に聞くけど…」

 とジンが言いかけると

「いやよ!」

 サエコは即座に一刀両断した。

「僕まだ何も言ってないよ!」

「直接彼女に聞きなさいよ。私は野暮なことはごめんよ」

「……ほんとサエコ姉さんにはかなわないよ」

 ジンは頭を掻いた。

「まぁでも、私もあなたに話しておきたいことがあったし、ちょうど良かったわ」

 サエコは座卓に四枚の書類を差し出した。書類にはそれぞれ別の子どもの顔写真と、成育歴が記載されている。

「これは、数か月前、あなたが直接トロントの研究施設に引き取った子どもたちのデータよ」

 

 

 台所がひと段落したので、レイカは先に入浴を済ませた。部屋着姿で髪にドライヤーを当てていると、部活を終えたヒロミが帰ってきた。

「レイカさんのかぼちゃの煮物、久しぶり!」

「もー、つまみ食いしないでよ」

「だってぇ。おいしいんだもん」

 そこに、早番で仕事に出ていたエスメラルダも帰ってきた。

「ただいまぁ。いい匂い! 今日は何?」

 そのときレイカは薄いドアの向こうに、ジンの足音を聞き分けた。足音はレイカの部屋の前で止まる。

 エスメラルダがノックの音に返事して、ドアを開けた。

「あらぁ、ジン! よく来たわね」

「わぁ、いらっしゃい! 上がっていくんでしょ?」

 エスメラルダとヒロミは笑顔でジンを迎え入れた。

「いいのかい? じゃ、遠慮なくお邪魔するよ」

 ジンの手土産は箱ふたつあって、ひとつ目の黒い箱にはボックスアレンジメントの花が入っていた。ふたつ目には焼き菓子の詰め合わせ。ヒロミとエスメラルダは歓声を上げたが、レイカはなかば青ざめていた。

(や、やばい……お化粧もう落としちゃった! 毛玉だらけの部屋着だし、しかも髪がまだ乾いてない!)

「カイロでは世話になった。サエコ姉さんから聞いたけど、この一カ月、僕を探して奔走してくれてたそうだね。お礼をまだちゃんと言ってなかった」

 ジンはエスメラルダを見た。

「とくにエスメラルダ君には、どうやって感謝をあらわしていいのか……。君には、憎まれてるとばかり思ってたよ」

「ウフフ。これでやっと、私が世界一のいい女だって認める気になった?」

 ジンはエスメラルダに笑顔を向けた。

「いやだなぁ、エスメラルダ君。僕が一度だってそれを否定したことがあったかい?」

 いとも簡単にあしらわれて、エスメラルダはぷぅっとむくれた。そして、すくっと立ち上がった。

「私、あんたのそういうところがホント嫌いなのよ!」

 エスメラルダは足音荒く、部屋を出て行った。

「エスメラルダさぁん! 待って! なにも出ていかなくても!」

 ヒロミもエスメラルダを追って飛び出していく。

 狭い部屋に残されたレイカとジンはあっけにとられて二人を見送った。

 エスメラルダはヒールの音高らかに道を行く。

 まもなくヒロミが追いついて、声をかけた。

「帰りましょうよ。せっかくジンさん来てくれたのに。そんなに怒るほどのことじゃなかったでしょう?」

「あのね、ヒロミ。私はね、もう昔のような単なる巨乳馬鹿じゃないのよ」

 エスメラルダの鼻息が荒い。

 ヒロミは意味が分からず「え?」と聞き返した。

「苦手な計算だって少しはできるようになったし、考えなしで行動してるわけじゃないのよ、これでも」

「あの、話がまったく見えないんだけど…」

 ここでエスメラルダはぴたりと足を止め、ヒロミを振り返った。そして、バチッとウインクして見せた。

 ヒロミは首をひねった。

「え? えーと……? ……あっ!」

「そう、今あの部屋でレイカたちは……ふ、た、り、き、り!」

 エスメラルダは得意そうに笑った。

 一方レイカは、卓袱台を挟んでジンと向かい合っていた。まともにジンの顔が見られず、ヒロミが淹れてくれた緑茶を眺めてばかりいる。

(どうしてこうなった!?)

 しばらくエスメラルダとヒロミを待ったが、一向に帰ってくる気配がない。

 レイカは気づいていないが、ジンの視線は、レイカの胸元に下がっているダイヤの指輪に注がれている。レイカはネックレスに通した婚約指輪を、いつもは見えないように懐に入れているが、入浴後は汗が引くまで服の外に出していた。

「……僕、今日のところは出直すよ」

 ジンは立ち上がった。レイカも一緒に玄関の外まで出た。

「申し訳ありません、せっかく来てくださったのに」

「いや、急に押しかけて悪かった。彼女たちにも感謝を伝えたかっただけなんだ。………そうだ、君にひとつ頼みがある。勤務時間外は、敬語はやめてくれないかな」

「……はい、分かりました」

「ほら、そこ。僕に記憶がなくても、勤務時間外は友人として頼めないか」

「……ええ、いいわ」

 少しばかり戸惑いながらレイカがうなずくと、ジンはにこやかに手を振った。

「それじゃ、また明日、会社で」

  

 エスメラルダとヒロミは薄暗い公園でブランコを漕いでいた。そこへ着信音が鳴る。

「あらレイカ! ジンは? えっ、もう帰った? あんた馬鹿ぁ!? せっかく2人きりにしてあげたのに! 何やってんのよぉっ」

『それはこっちのセリフよ! とにかく帰ってらっしゃい!』

 通話を切ったエスメラルダはため息をついた。

「んもう。世話が焼けるわねー」

(世話って……)とヒロミは苦笑した。

「そっとしときましょうよ。2人とも大人なんだし……。それに、あのようすだと、関係が戻るのにそう時間はかからないと思います」

「そうお?」

「だって、ジンさんがレイカさんを見る目、ちっとも変わってないもの」

「これはヒロミに一本取られたわねぇ」

 エスメラルダは苦笑した。

 

 

 夕食を終えると、ヒロミが台所の片付けに取りかかった。

 三組の布団を敷きながら、エスメラルダはレイカに話しかける。

「ねー、まだ怒ってる?」

「怒ってないわよっ!」

 レイカはエスメラルダが一芝居打ってジンと二人きりにさせられたことが面白くないのだ。エスメラルダとヒロミがいて間が持つならまだともかく、着古した部屋着と整っていない髪の毛で、モデルか彫刻のようなジンと向き合っているのは正直つらいものがあった。

「じゃ、もう怒ってなーい?」

「怒ってるわよっ!」

 レイカの眉は吊り上っているのに、エスメラルダときたら、のほほんとしている。

「怒らないで聞いてよ、レイカ」

 エスメラルダは前置きして、話し始めた。

「ジンね、変わってないと思う。……いいえ、変わったと言うべきかも。昔の彼なら、例えば今日みたいなことがあったとき、私に向ける笑顔って、冷たかった。こう……なんて言うのかしら。貼りついたような、作った笑顔というか。私、ジンのそういうところが気持ち悪くて嫌だったわ。人を何だと思ってるのかしらって、イライラしたものよ」

 エスメラルダは枕を軽く叩いて整えた。

「記憶が無くなって、大切な出来事がなかったことになってしまっても……魂に刻まれたものは、消えないのかも。私はそう思いたいわ」

「……あなた、気にしてるの? ジンの記憶が無くなったこと……」

 そうレイカが尋ねると、エスメラルダはムキになって言った。

「そりゃそうよ! 私さえもっとうまくやれてたらって、ちょっとは思うわよ……」

 エスメラルダはぷいと顔をそむけた。

 

 

 カイロでジンが目を覚まし、どうやら記憶が飛んでいると分かったとき、レイカがまず試したのは、彼を婚約指輪のダイヤに触れさせてみることだった。ジンの念が籠められたダイヤは、レイカたち三人の脳裏に、ジンがウィルスンのダイヤと対峙したときのいきさつを見せてくれた。このダイヤがきっかけになって記憶を呼び覚ますことができるかもしれないと思った。

 レイカはジンの手を取って指輪のダイヤに触れさせたが、しかしダイヤは何の反応も起こさなかった。ダイヤモンド使いの力を使って強く呼びかけてみても同じだった。

「閉じてる…?」

 レイカが戸惑っていると、エスメラルダとヒロミもレイカの手元を覗き込んだ。

「どういうこと? …なにも見えなくなってる」

 エスメラルダは確認するようにヒロミを見た。

 ヒロミはダイヤを凝視している。

「ホントだ……どうして……?」

 ジンはレイカたちを見比べて申し訳なさそうにしている。

「……つまり僕は、君たちにこんなに心配をかけてるのに、何ひとつ思い出せないんだね?」

 レイカはどうにか笑顔を作り、首を横に振った。

「いいの。こうして生きてくれているだけで」

 エスメラルダとヒロミも笑顔でうなずいた。

「あなたは、二カ月ほど前に日本で、ニコライたち…マガダンの仲間たちに会った。彼らはあなたにウィルスンの呪いのダイヤをつきつけたわ……」

 レイカはごく簡単にいきさつを説明した。ニコライたちを呪いから救うために、ジンの意識がウィルスンのダイヤに入りこんで、長い間たった独りで戦い続けていたこと。残された体は脳死していたが、収容されたインドの病院で、カルメンが自発呼吸できるまでに治癒させてくれたこと。カルメンがカイロの地まで、意識のないジンを大切に送り届けてくれたこと。レイカたち三人がサエコの依頼を受けてニコライたちと戦い、彼らの身柄を押さえたこと。三賢人とウィルスンのダイヤはアダマンタイトによって浄化されたこと。そして、ウィルスンのダイヤとともに浄化されることがジンの意志だったこと。

「もう割れて粉々になってしまったけど、このトラピッチェ・エメラルドの力で、ジンの体の時間を巻き戻したのよ」

 エスメラルダは、手のひらに乗った貴重な宝石の残骸をジンに見せ、肩をすくめて舌の先を出した。

「でもちょっと、やりすぎちゃったみたい……許してね」

 

 

「ねぇ、エスメラルダ。今ね、私、とても幸せなの。あなたのおかげよ」

 レイカはエスメラルダを後ろから抱きしめた。

「ほんとうに、ありがとう。あなたがいてくれてよかった……」

「うん……」

 エスメラルダは顔を見せようとしない。涙ぐんでいるようだった。

 

 そのころ、レイカの住むアパートを見上げている男たちがいた。いずれも西洋系で、いかつい顔つきをした大男たちだ。

「キース、仕掛けてみますか?」

 その男たちの一人が後ろを振り返って、誰かに声をかけた。

 キースと呼ばれた男は首を横に振った。

「だめだ。このアパートにはあのサエコ・ミレイもいる。手を出せば確実に全滅だ。そうでなくとも、人の多い場所で騒ぎを起こすことは私たちの雇い主からかたく禁じられている。クリシュナが単独行動を取るのを待とう」

 また別の男が発言する。

「しかし、どれだけ待つことになるのか…」

 キースは余裕の笑みを浮かべた。

「ここは今や、世界でも有数の、難攻不落の要塞だ。現時点で我々にできるのは、待つことしかない。待つことができない者は、決して勝てない」

 レオンの合図で男たちは夜の闇の中を静かに引き上げて行った。

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