PRISM   作:はくたかゆき

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■カルメンが10歳くらいのときのお話です。カルメンかわゆす。
 ジンとサエコが13~15歳くらいでイメージしています。

■漫画で登場したヒーラ社の伝達係さん(眼鏡スーツの男性)に勝手に名前をつけています。



2.それぞれの誓い

 サエコが社長を務めている間に、ジンバブエの宝石使い研究養成施設は売却された。

 一方、トロントの施設は現在、複数の買い手候補と交渉中だ。トロントの施設は整理が進んでおり、残っている人間は住み込みで働く執事のジョージと家政婦のメリッサの老夫婦、そして宝石使いの卵である四人の幼い子どもたちだけだ。家財もほとんど整理がついているが、大量にあるジンの個人的な蔵書やコレクションは当然そのままになっていた。交渉がまとまる前に、ジンの財産を余裕をもって保管できる程度の住居を見つけなければならない。

「まいったな……」

 ジンは頭を抱えていた。

「旧流崎邸さえあれば、そこに全部持って来れたんだが。レイカ君はどう思う? 僕これからどこに住んだらいいんだろうね」

「そうですねぇ。私なら……トロント近郊で探しますね」

「日本じゃなくてもいいのかい?」

 なぜかジンは意外そうだ。

「そんなに日本がお気に召しましたか? でも、この日本で短期間にそれなりの物件を、となると……かなり難しいと思います」

 結局、トロント近郊で小規模の屋敷を探すということになり、二人は数日後に日本を発つことになった。

 

 

 レイカは通勤帰りに、スーツ姿で旧流崎邸の前に立っていた。

 ヒーラ社が流崎邸を欲しがるとは、思いもしなかった。億どころか兆単位の金を出して買い取って、彼らに一体何の得があるのだろう? 屋敷に残されている調度品やコレクションの維持にもそれなりの経費がかかるはずだ。

(もしかすると私の知らない秘密が地下にでもあるとか……? でも、あったとしても、きっとつまんない秘密だわ。以前にジェイキンズ博士が持って行ったCD-Rみたいな……ってアレ、ずっと忘れてたけど、今どこにあるのかしら?)

 ジンの手元にある可能性に気づいて、レイカはぞーっとした。

(アレ、子ども向けの歌って踊る料理番組みたいな内容になってて恥ずかしいから隠しておいたのに! ジンは見たわよね…でも今は忘れてるわけで……きっとまた見るわよね……ひいいいい! いや、今となってはもう、知らんふりしておくしかない!)

 レイカが一人で青くなったり赤くなったりしていると、その後ろに、リムジンが停まった。

「お久しぶりです、流崎さん」

 声をかけられて振り向くと、見慣れたリムジンの運転席に、眼鏡の男が乗っていた。

「あなたは…桑島さん」

 桑島はレイカにリムジンに乗るよう促したが、レイカは断った。もうヒーラ社と取引する気はない。

 すると、桑島は運転席から降りた。旧流崎邸の柵の前で、レイカに向かい合う。

「単刀直入に申し上げましょう。我々のスパイになる気はありませんか」

 レイカは絶句した。

「……と言っても、私には、絶対にありえないと分かっています。しかし私はメッセンジャーですから、上から言われれば従うのが仕事です。実際には我が社の上層部も、あなたが承諾するとは思っていないでしょうがね」

「つまり、そう言って私のようすを見て来い、という意味ですね」

「その通りです。できれば今のお考えをお聞かせ願えれば……」

 桑島は静かに微笑んでいる。

 いたずらに敵対する気はない、という態度が見て取れた。

「……私がシャニに入って学んだことは、正義は立場が違えば180度違う、ということです。以前の私は、シャニを、一企業という体裁を取ってダイヤモンドを裏取引する闇のシンジケートだとばかり思っていました。ダイヤモンド市場と世界経済の安定を守るために、いつかは、叩き潰さなければならない相手だと」

 レイカの言葉に桑島はうなずいた。

「そう、我々にとっては、ダイヤモンドの希少価値とイメージを守ることこそが正義です」

「けれど、シャニにとっては自由化こそが正義……かつて訪れたタイのチャンタブリという街では、ダイヤモンド以外の宝石が、ルールに則って自由に取引されていました。しかし、それと同じことをダイヤモンドでやろうとすれば、たちまち違法な闇取引と言われてしまう。ダイヤモンドだけは、ヒーラが支配するフィールドでなければ正当と認められる取引ができない」

 レイカの率直な指摘を、桑島はすべて肯定した。

「おっしゃる通りです。つまり、あなたの正義は、今やシャニにあるのですね」

「いいえ。私の中に、正義はありません。私にあるのは……ただ大切な人を守りたいという、小さな私利私欲です」

 凛と立つレイカを見て、桑島はゆっくりうなずいた。

「よく分かりました。上には、その言葉の通りに伝えましょう」

 リムジンに乗り込むとき、桑島は何かを思い出したようにレイカを振り返った。

「ひとつ、忠告しておきます。ヒーラはただの会社ですから、一枚岩ではありません。私の上司は卑怯な手を好みませんが、他の者は違います。あなたは我々にとって、今やジェネラル・ジンやミス・サエコと同等かそれ以上の脅威です。くれぐれも、よく考えて行動を取られるよう……」

「それは脅しですか?」

 レイカの表情が厳しくなる。

 桑島はやわらかく笑った。

「まさか。あなたが屈するはずがないと分かっているのに、脅しなど。私もあなたの戦いを見守ってきた一人。その情で申し上げているのです」

 去ってゆくリムジンを見送ると、レイカは家路についた。

 

 

 サエコから、為五郎の塾が休みの日に料理を持ち寄って夕食にしよう、という誘いがあった。たこ焼き器を買ったので皆で作ろう、レイカの卓袱台を貸してほしい、というメッセージが携帯に届いた。

 卓袱台を運んで、ドアの前で声をかける。

「サエコさーん、開けてー」

「あ、僕が運ぶよ!」

 サエコの代わりに普段着のジンが現れて、レイカの心臓はひっくり返った。

 ジンはレイカから卓袱台を受け取って奥へ運んでいった。

「この前、ジンが来てくれたでしょ。でも為五郎の塾が終わる前に帰っちゃったから、ずっと為五郎がくやしがってて。それでジンにも声をかけたの」

 サエコは台所で材料の下準備をしている。

 レイカの後ろからヒロミとエスメラルダが料理の入った鍋や皿を運んできた。

 皆たこ焼きを作るのは初めてで、いつも以上ににぎやかな食卓となった。

 久しぶりにジンと話せた為五郎は大喜びだ。

「俺、いっぱい勉強して、大学行って留学もして、大人になったらシャニに入りたいんだ」

 それを聞いてサエコは、仕方ないわね、と言いたげに肩をすくめる。

「そんで、いっぱい働いて、偉くなって、いつか故郷のレシェネオラに会社と学校を作る! 俺、仲間と約束したからさ。もう俺たちみたいな子どもを作らせないって。それには、働く場所と学ぶ場所を作ることが必要だって、母さんに教わったんだ。働く場所を作ったら、あいつらを呼び寄せる。そしてあいつらの子どもも、俺が助けて勉強させてやりたい」

 為五郎の言う「あいつら」というのはかつて少年兵として駆り出されていた仲間たちのことだ。彼らは現在シャニが援助する現地施設に引き取られて教育と更生プログラムを受けている。

「私としては、あなたにはただ平穏に暮らしてほしいんだけど」

 そう言いつつも、目標に輝く為五郎の姿を見たサエコは嬉しそうだ。

「俺、きっとジンの役に立つ人間になって見せるよ。ジンのこと支えられるように、ジンが困ってるとき力になれるように。ジンは覚えてなくても、俺には仲間を救ってもらった恩があるから。俺が大人になるまで待ってて!」

「ああ、待っているよ」

 ジンは為五郎と握手し、笑顔を交わした。皆も笑顔でそれを見守った。

 

 

 レイカたちがトロントへと発つ日、仲間は誰一人欠けることなく見送りに来てくれた。

「私たちから餞別があるの」

 サエコはいくつもの宝石が嵌め込まれた腕環をレイカに差し出した。

「私たち皆で宝石を選んで、好夫さんのゴールドで作った。私たちがそばに居られなくても、あなたの力になれるように。これなら仕事中にも持ち運びやすいでしょう。でも、あえてダイヤは入れてないわ。あなたはいつも、飛び切りのを胸に持っているから」

 レイカはありがたくそれを受け取った。飛び立とうとする飛行機の中で、腕環に手を通してしげしげと眺める。台座の金細工が素晴らしい。宝石たちは、エメラルドやルビーやサファイアはもちろん、レイカのよく使うものが、スクエアにカッティングされて嵌め込まれている。

 レイカは遠ざかっていく日本の地に目を向けた。これから、ジンに従って世界中を飛び回る生活が始まる。ときどきは日本に滞在することもあるだろうが、狭いアパートで皆と過ごした日常は、遠いものになってしまう。

 ヒロミはもともと料理がうまいし、家事も一通りできる。エスメラルダにも、できるだけのことは教えてきた。

(でもやっぱり心配だわ。ヒロミは性格がわりとオカンだからまだ安心だけど。エスメラルダは相変わらず世間知らずでよく詐欺にひっかかるし。サエコさんにあの子のフォローを頼むわけにはいかないし。毎日でもスカイプしないと……)

 レイカは心配しながらコンクリートの小さな粒がぎっしり並んだように見える街並みを見つめた。

 

 

「レイカ…大丈夫かしら。心配だわ」

 エスメラルダははるか上空を遠ざかっていくシャニの専用ジェットを見上げながら言った。

「ジンさんが一緒なのに? ていうか、レイカさん一人でも最強なのに、何も心配いらないんじゃ……」

 ヒロミは首を傾げた。

「違うわよ、そういう心配じゃないの。

 なんだか最近、レイカったらジンの前じゃ、ただの小娘みたいになってるもの」

「それはそうかも……」

 ヒロミは苦笑した。

「でも、いいじゃないですか。好きな人の前ではただの女の子になれるって、平和な証拠だもん」

「そうね。つい1週間くらい前までは怒涛の日々だったものね。……そういえば、カルメンたちは今頃どうしてるのかしら」

 エスメラルダが言うと、サエコが答えた。 

「私、カルメンのウェブメールアドレスも携帯も知ってるから、たまに連絡入れてるのよ。でもまったく返信がないのよね」

「え? サエコさん、カルメンと仲良かったんですか? 意外……」

 ヒロミは目を丸くした。

 サエコはにっこり笑った。

「シャニの施設の中では、よく話した方ね。2人でよくチェスを打ったわ」

「そうなの? 同じ施設に居たのに、全然知らなかったわ」

 エスメラルダも目を丸くしている。

「ふふ、エスメラルダはまだうんと小さかったもの。覚えてないでしょう」

 サエコが黙ってシャニを去ったとき、カルメンは激しく怒っていた。サエコのアドレスや携帯に、何度か怒りと軽蔑に満ちたメッセージが届いた。そしてカルメンはニコライに連れ去られてから、最後に一度だけ、短いメッセージを寄越した。そこには

『私はジンにとって兵隊でしかない。だから女王に成りに行く。敵陣に入るから今後連絡は取れない』

 と書かれていた。

「女王に成る? なにそれ」

 エスメラルダもヒロミも為五郎も、目をぱちくりさせた。

 サエコは説明した。

「チェスよ。チェスで一番数が多い兵隊の駒を、ポーンと言うの。ポーンはそのほとんどが捨て駒になるんだけど、敵陣の一番奥に踏み込んだとき、ポーンは王以外の駒と同じ働きができるようになる。最強の駒である女王にもなれるの」

 

 

「サエコから連絡があったわ。ジンたちは近々こっちへ来るそうよ。私たちも、早速手筈を整えましょう。彼らがトロントにいる間にさっさとケリをつけてすっきりしたいわ」

 カルメンはニコライたちを伴って、カナダに来ていた。湖畔のバンガローに滞在している。

 ジンの名を聞いて、ニコライたちは一様に暗い表情になった。

 カルメンはニコライたちの顔を見ながらあきれたように言う。

「またメソメソするの? ま、いいわよ。気が済むまで泣いて、早めに浮上してね」

「カルメン……僕たち話し合ったんだけど……やっぱりこれ以上君の治療は受けられない。手元に残った金目のものはすべて譲るから、静かに死なせてくれないか」

 ニコライは情けない表情で言う。

「で?」

 カルメンは眉を上げてニコライを見つめた。

「で? って……」

 ニコライはたじろぐ。

「あなたたち、もっとこの私に感謝するべきじゃない? 私の力じゃジンの蘇生まではできなかったけど、脳死状態を改善させたのは間違いない事実よ」

 カルメンはふんぞり返った。

「もちろん、感謝はしてるよ!」

「それじゃ、あなたたちは見返りに何をくれるの? 金目のもの? はん! 馬鹿にしないでよ」

「僕たちが持ってるもので、君が欲しいものは、何だってくれてやるよ……」

 他の3人も、ニコライの言葉に同意した。

 カルメンはすぐさま彼らを指さした。

「それじゃ、その命をもらい受けるわ。言っとくけど、あなたたちの命はもう私のものだから、捨てるのは絶対許さない。一生私の下僕よ! それと、不健康で役立たずの下僕なんて、いらないから!」

「カルメン…」

「シャニの仲間のうちじゃ語り草になってたけど、ジンはシャニの施設に入ったばかりのころ、餓死寸前になったそうよ。ロシアの下水道に残してきた仲間のところに戻せと言って、暴れて、何日も飲まず食わずで。壁が血まみれになるまで殴って、爪が全部剥がれるまで壁をかきむしって」

 カルメンの言葉を聞くうちに四人とも泣き出してしまった。

「このままあなたたちが死んだら、ジンが不幸になるじゃない。本当に後悔してるなら、生きろ! そうでなきゃ、この私がウィルスンにいた意味がなくなる!」

「よく分からないわ、カルメン。あなた、流崎レイカに嫉妬してウィルスンに入ったんじゃなかったの?」

 ミーシャは涙に濡れた顔で不思議そうにカルメンを見た。

 カルメンは腕を組んでニヤリと笑った。

「……嫉妬があったことは否定しないわ。でも、私の中にあるのはずっと……言うなれば、ただの私利私欲よ」

 カルメンはコートを羽織った。

「さて、あんたたちの辛気臭い顔を眺めててもつまんないから、私は散歩に出るわ。帰ったら何か温かいものが食べたいから、作って置いて!」

 カルメンは残してきたニコライたちを振り向きもせずに外へ出た。空は明るいが薄曇りで、風が少し冷たい。もう少しでジンも同じ空を見上げることになるのだろう。もう二度と会わないけれど。

 カイロでトラピッチェ・エメラルドの力が解放されたとき、その強烈な波動はカルメンたちにも伝わった。ただ、そのときは何が起きたのか分からなかった。後日サエコからのメッセージで、ジンの意識が回復したことを知って、もう泣かないと心に決めたはずなのに、どうしても涙が止められなかった。

(いつか、サエコにだけは会えるといいな。そしたら、誓いを果たせたねって、褒めてくれるかしら……)

 カルメンは風でほどけた髪をかきあげた。

 

 

 レイカは窓の外を見るともなくぼんやり眺めていた。エスメラルダはまたポケットにティッシュを入れたまま洗濯機を回すんじゃないかしら…、洗濯物を干すときにちゃんとしわを伸ばせるかしら…、畳の目に沿って掃除機をかけられるかしら…、フライパンの油がはねたと言ってパニックを起こすんじゃないかしら…、心配しだすと切りがない。

 ジンはレイカをちらりと見た。

 離陸してからずっとこの調子だが、彼女は一体、あんなに誰のことを思っているのだろう?

 カイロで目が覚めてから、ジンの頭の中はレイカのことでいっぱいだった。

 何があったかは思い出せないが、自分にとってレイカが特別な人らしいということは、周囲の雰囲気や彼女が自分を見るまなざしで、容易に察しがついた。

 カルメンが残してくれたスーツのポケットにはカードケースがあって、そこにはレイカの写真が入っていた。その写真には、ご丁寧に自分の字で「My Sweet Heart」と裏書きされていた。それなのになぜ彼女は「サエコに雇われた宝石使い」としか名乗らないのだろう?

 証拠品だってざくざくと出てきた。社長室のデスクの一番上の引き出しには、婚約指輪が入っていたとおぼしきケースと、ダイヤの鑑定書。鑑定書の内容はレイカが胸元に下げていたものと、一致していた。そして、相手のサインを待つばかりの、国際結婚の申請書。私物のパソコンや携帯にはレイカの写真がいっぱい。親しくやり取りしたメッセージは、メモリを食うのもお構いなしでスクショどころかバックアップまで取ってあった。

 けれど初日の昼食時、彼女にプロポーズめいたことを言ってみたら、完全にスルーされた。彼女が何を考えているのか、さっぱり分からない。

 レイカは頬に落ちかかった髪を指ですくって耳にかける。ジンがその仕草に見とれていると、レイカが視線に気づいて振り向いた。

「ごめんなさい、考え事してて……ご用でしょうか」

「いや、えーと……君、チェスはできる? お相手願えるかな」

「昔父に習ったので基本的なルールは分かりますが……定跡や詰め方までは覚えてなくて」

「十分だよ」

 ジンはチェス盤を広げた。

「サエコ姉さんにはよく対戦してもらったよ。とても強くてね。僕たちも流崎さんから教わったんだ」

「父から?」

「そう。流崎さんが施設を訪れているときには、カルメンも教わっていたよ」

 ここでカルメンの名が出てきて、レイカは驚いた。

「カルメンも、父からチェスを教わっていたのですか?」

「うん……最初は主に僕が教えてた。あれはカルメンが10歳かそこらのときじゃないかな。カルメンがチェス盤を僕のところに持ってきて、教えてほしいって言ってきたんだ」

 

 

 その日カルメンは、人生の中で一番勇気を振り絞った。

「あ、あのっ、ジン! 読書中、邪魔して悪いんだけど……もし大丈夫だったら、私にチェスを教えてほしいの!」

 顔が赤くなって、声がひっくり返っている。でもジンはカルメンを笑ったり馬鹿にしたりしないで、静かにうなずいてくれた。

「いいよ。どこまで知ってる?」

「駒の置き方と動かし方だけは、覚えたわ」

「よし」

 ジンは短く「よし」と言っただけなのに、カルメンは天にも昇る心地だった。彼は学業のほかに既にシャニの会社で働き始めていたので、めったに屋敷に現れなかった。珍しく談話室で姿を見かけても、一人で本を読んでいるか、サエコとチェスしているか。ジンがいない間に、今度会えたらどうやって話しかけようか散々悩んで、図書室からチェスの本を借りてきて、一生懸命読んだ。

 先手のカルメンが白いポーンを進めると、ジンも黒いポーンを進めた。カルメンはビショップを進めるための道を開けたつもりだった。ところが、盤面を動き始めたカルメンのビショップは、あっという間にジンのポーンに食われてしまった。

「あ、あれ? あれ?」

「僕、駒を減らそうか?」

 初心者に教えるときは上級者は駒を減らしてくれるものだ。

「う……お願いします……」

 ジンは黒い駒を六つまで減らしてくれた。それを見てカルメンはがっかりした。自分のレベルがどれだけ低いのか、思い知らされた。

「そんなにガッカリすることもないよ。まともに対戦するのは初めてなんだろう?」

 ジンは優しく励ましてくれた。

 カルメンは頬を染めながら返事した。

「うん、そうなの……私の周りじゃ誰もチェスに興味なくて」

「教本で学んだのかい?」

「そう、図書室で借りてきたわ」

「図書室のはあんまり子ども向けじゃないから、難しかっただろう。僕が一番最初に使ってたのを譲るよ。あとで持ってきてあげる」

 カルメンは卒倒しそうになった。毎日枕の下に入れて寝よう…!

 

 それから、カルメンはたまに、ジンにチェスを教えてもらうようになった。本当は彼を見かけた日は毎日でも声をかけたかったが、度を超すと嫌われてしまうと思った。その代わり、カルメンはもらった本を何度も読みこんだ。難しいと言われた図書室の本も、頑張って読んだ。ジンの知らない間に少しでも腕をあげて、一言でいいから褒めてほしかった。

「私、正直言うと、ポーンが邪魔だわ。こんなにいっぱい前に並んで。強い駒を動かしたかったら、まずポーンを進めて道を開けなくちゃいけないなんて」

 天気が良いので皆は庭に出ている。カルメンも誘われたが断って、独り談話室でチェスを頑張っていた。頬杖をついてぶつくさ言っていると、後ろからジンの声がした。

「ポーンはとても大切な駒だよ。敵陣の一番奥に踏み込んだら、王以外なら何にだって成れる。ポーンだけが成長する駒なんだ」

「それはそうだけど……。私、最初から女王でいたいわ。そしてずっと王様の隣にいたい」

「待つことができないから、カルメンはいつも僕に勝てないんだよ」

 ジンはカルメンの前の席に腰を下ろした。

「さて、久しぶりに一局どう?」

「またコテンパンにされるのね、私」

 カルメンは嬉しくなって笑った。ジンは必ずどこか褒めてくれる。勝負には負けても、こうして過ごしてくれるだけで幸せだった。

 

 

 ジンの話を聞いて、レイカはやっとカルメンを理解できた気がした。そしてドラバイトでカルメンに「なんて節操ない」と言ってしまったことを後悔した。

「カルメンは、最初からジェネラル・ジンの駒に徹していたんですね……」

 ジンに認めてもらうために、あえて敵に回ったというカルメンの言葉を、あのときレイカは理解できなかった。こうしてチェスになぞらえてみて、カルメンの考えがようやく分かった。彼女はジンの駒として最大限の働きができるようにあえて敵陣に乗り込み、じっと機を待っていたのだ。

 そういえばカルメンはドラバイトで、憎まれ口を叩きながらも、ずっとレイカを助けてくれていた。ニコライの術にはまったときも。そして、次会ったら殺すと捨て台詞を吐きながら、まるで殺気が無かった。もし本気で殺すつもりなら、レイカの味方の宝石使いが駆けつけられない、あの地で仕掛けてきただろう。

「カルメンは、強いわ……とても」

 レイカは手に取った白のポーンをしげしげと見つめた。

 ジンはそれ以上、カルメンのことをレイカに語らなかった。

 だが幼いカルメンの物語には、まだ続きがある。

 

 

「ねぇ、サエコ……もしよかったら、私とも対戦してもらえない?」

 カルメンは下唇を噛んでいた。

 サエコは不思議そうにしながら応えた。

「いいけど……あなた、ジンに教わってるんじゃなかった?」

「うん。でも、ジンのいないときに教本を読んでるだけじゃ、どうにもならなくて。少しでも実戦経験を積みたいの」

「私も引き分けるか負けるかで、ほとんどジンに勝ったことないのよ。それでもいいかしら」

「うん! 全然いい! ありがとう!」

 カルメンはぱあっと明るい表情になった。

 カルメンはサエコに最初から申し出て駒を減らしてもらった。

「私とジンが対戦するとき、あなたも横で見てるといいわ。それと、流崎好夫さんにも教わるといいわよ。私とジンも、流崎さんから教わったの。彼、教えるのとっても上手よ」

 駒を進めながら、カルメンは聞いた。

「ねー、サエコは好きな人っているの?」

「いるわよ」

 返事しながらサエコも駒を進める。

「どんな人か、聞いてもいい?」

 カルメンはおそるおそる聞いた。もしサエコがジンを好きだと言ったら、勝ち目がない。

「私の好きな人はねー…一見、人畜無害そうなんだけど、ときどき横顔がダンディで…博識で人にものを教えるのがうまくて、人の話を聞くのも上手で…一緒にいると、あたたかい気持ちになって…誰に向ける笑顔も、とても優しくって…」

(良かった! とりあえず違うみたい)

 カルメンはこっそり胸を撫でおろした。

「でも、もう結婚はしないって言ってたわ。昔、奥さんが病気で亡くなったんですって。だから一生、振り向いてもらえそうにないわ」

「そうなの……切ないね……」

 カルメンが共感してそう言うと、サエコは少し嬉しそうにした。

「でも好きな気持ちは変えられないもの。思いが届かなくても、認めてもらえるだけでもいいって思ってるわ。その気持ちがあるから、勉強も仕事も頑張れる。宝石使いの腕を磨くことも」

 カルメンにはその気持ちがよく分かった。

「でね、サエコ……あの……ジンって、誰か好きな人いるのかしら?」

「さあねぇ。女の子と付き合ってるの、見たことないわ」

(それじゃジンは今フリーなんだ! やったぁ!)カルメンの胸が躍る。

「女の子に興味なさそうだし。ゲイかもね」

「ゲイ……!!」

 頭を殴られたような衝撃が走った。眼前に火花が散る。

「あら、ごめんなさい。そうと決まったわけじゃないのよ」

 サエコはそう言ったが、カルメンの頭の中ではしばらく割れ鐘が響いていた。

 その夜、カルメンはベッドの上で枕を抱いていた。

(サエコは強いなぁ……)

 一生振り向いてもらえないけど、認めてもらいたい。そう語ったときのサエコは、夜空を照らす澄んだ月のように美しかった。

(サエコみたいになりたい)

 ジンとは別の意味で、憧れの人がカルメンの胸に住みついた。

 翌日、カルメンはジンとサエコの対戦を横で見せてもらっていた。二人の駒は流れるようにスルスルと盤面を動き、戦局は素早く展開していく。あまりの早さに、カルメンの頭では流れを読むことができなかった。

「カルメン、大丈夫?」

 サエコに聞かれて、カルメンは情けない顔をした。

「頭から煙が出そう……」

 サエコはカルメンに笑顔を見せた。

「最初はそんなものよ。……あら、私もう負けちゃった」

「え? 私にはまだ詰んでいないように見えるけど」

「ところがね、もし私がキャスリングしても、ここにジンの女王に成ったポーンが効いてるでしょ。かと言って、こちらに王を逃がしても、ジンならきっとここにこのナイトを持ってきて、それで私が仕方なくルークでナイトを取ったら……あと2手で詰みよ」

「すごい……」

 カルメンは感心した。サエコの先を読む目にも、ジンの戦略の確かさにも。

「今日こそはと思ったんだけど。悔しいわ」

 サエコは勝負がついたチェス盤を眺めて、首を傾げた。

「人に教えるとうまくなるよね。カルメンのおかげで、だいぶサエコ姉さんの上を行けたかな」

 ジンの言葉を聞いて、カルメンは嬉しくてたまらなかった。

(私、ジンの役に立ってた!)

 ジンとサエコが談話室を去ったあとも、カルメンの頬はゆるみっぱなしだった。

「よお、カルメン」

 そのカルメンに、ラルフが声をかけてきた。

 ラルフはジンやサエコと同じ年頃の少年で、同じトパーズ使いだ。しかし能力は年下のカルメンの方が強い。そのせいか、よくカルメンに意地悪な絡み方をしてくる。例えば紙つぶてを投げつけてきたり、カルメンを馬鹿にしたようにチラチラ眺めながら取り巻きとヒソヒソ話しをしている。それも、必ずジンやサエコがいないときを狙って。カルメンはいつもラルフたちを相手にしないようにしていた。

 ラルフは意地悪く笑いながら言う。

「お前、最近ジンに懐いてるのなー。犬みてえ」

「犬みたいに撫でてもらってんじゃね?」

 ラルフの取り巻きの少年もニヤニヤ笑いながら言った。

「腹を? こうやってか?」

 ラルフが犬が甘えて腹を出す仕草をすると、取り巻きたちはげらげら笑った。

 カルメンはぐっと堪えて、談話室を出ようとした。何歳も年上の男の子たちにからまれても、別に怖くはない。でも、ジンが屋敷にいるときに騒ぎを起こしたくない。

 ラルフの手が先にドアノブをつかんだ。そしてカルメンの耳元でささやく。

「もうジンにキスしてもらった?」

 カルメンは青ざめた。足元に小さな半月形の波がいくつも湧き上がる。無数の小さな半月は一瞬のうちに膨れ上がってラルフを襲った。

「ジンはそんなことしない!」

 カルメンの叫びは誰の耳にも届かない。窓ガラスが震え、窓の外の木々から鳥たちが狂ったように逃げ去った。談話室にいた人間は思わず耳をふさいだ。ラルフは自分の能力でカルメンのかまいたちのような超音波を相殺しようとしたが、その代わりに談話室の隅から隅までまっすぐ吹き飛び、壁にぶつかって落ちた。カルメンのまわりの絨毯に熊の爪に切り刻まれたような痕が残った。

 自分のやってしまったことを見たカルメンはとっさに逃げ出した。

(やっちゃった!)

 掃除道具を入れておく小さな収納部屋に隠れて、カルメンは声を出さないように泣いた。

(……これで嫌われちゃうんだろうな……サエコにも軽蔑されるのかな……)

 泣き声を出さないように歯を食いしばると、どうしても顔がゆがんでしまう。

 しばらく泣いて落ち着いた頃、隠れている収納の扉の向こうで、サエコの声がした。

「カルメン、ここにいるんでしょ。大丈夫だから出ておいで。いきさつは他の子たちから聞いた。ラルフは別にケガもしてないし、誰も怒ってないわ」

 サエコが来てくれた! カルメンはほっとして隠れ場所から出てきた。

 サエコの後ろにジンが立っていた。カルメンの足は震えだした。

「おいで、カルメン。ラルフに謝るんだ。僕がついていてあげるから」

 ジンは青ざめて黙っているカルメンの手を引いた。

 カルメンの足がもつれながら、談話室へ引き戻されていく。

(死にたい…)

 カルメンの目から涙がこぼれた。

 談話室でラルフと引き合わされた。カルメンは震える声で謝った。

「ごめんなさい……」

 ラルフはジンに厳しく見つめられて、そわそわと落ち着きなく体をゆすっている。

「いや、俺が悪かったよ」

 ラルフはそう言うと、そそくさと逃げ出した。

 ラルフが行ってしまうと、ジンは腰を落としてカルメンの目を覗き込み、やさしくうなずいた。ジンの瞳は「よく頑張ったね」と言ってくれているようだった。

 あとで、他の子がこっそりカルメンに教えてくれた。

「ジンってば、ものすごく怖かったのよ。言い方は静かだったけど。人が人を好きになる気持ちを笑い物にしちゃいけないって。まわりで聞いてた私たちも、かかとから首筋まで縮みあがっちゃった!」

 それ以来、ラルフは紙つぶてを投げつけてこなくなった。その代わり、カルメンの前にさりげなく紙つぶてを置いていく。あるとき気まぐれに、それをつまみあげて広げてみると

「今日の服の色は、君の瞳の色に合ってる」

 と書かれていた。

 カルメンは目を丸くした。

「これって…まさかラルフって……ドMなの???」

 

 

 後日、カルメンは流崎好夫にチェスを教えてもらうチャンスを得た。対戦する2人の両側で、ジンとサエコが見守っていた。

 カルメンが指す一手一手に、流崎は目を瞠ったり、深くうなずいたりしている。

「あの、流崎さん……私なんかと対戦していて、面白いですか?」

 カルメンが尋ねると流崎はニコニコした。

「もちろんだよ! 君はとても魅力的なプレイヤーだ」

「そうでしょうか…?」

 流崎に褒められても、カルメンにはいまいち信じられない。

 流崎は笑顔で言う。

「チェスの盤上には、その人の性格や生き様が表れるんだ。君は、直情的で、努力家で、衝動的で、それでいてねばり強い。ジン君やサエコ君には真似できない、君だけの戦い方がある。君がどうやって自分を磨いていくのか、私にはとても楽しみだよ」

 流崎の笑顔を見ていると、カルメンの胸に不思議なあたたかさが広がった。

 

 

「なにそのカルメン、可愛いんだけど! 私が知ってるアイツじゃないわ!」

 エスメラルダには信じられない話だ。

「昔は可愛い子だったんですねぇ……それがどこで、あんなのになっちゃったんだろ?」

 ヒロミも記憶の中の傲慢なカルメンと一致しないようで、戸惑っている。

「カルメンは私やジンの前では可愛かったわよ、いつも」

 サエコは笑顔でそう言って、幼いカルメンの物語を終えた。

 しかしサエコとカルメンの間には、二人だけの秘密のエピソードがあった。

 

 

 談話室で騒ぎが起きた日の晩、カルメンはそっとサエコの個室を訪れた。

「サエコ、ちょっとだけいいかしら。……聞いて欲しいことがあるの」

「ええ、いいわよ」

 サエコは部屋に招き入れてくれた。

 扉が閉まると、カルメンは小声で話し始めた。

「あのね、私ね、将来ジンの役に立つ人間になりたいの。ジンがとっても困ってるときに、私の力で助けてあげられるようになりたい。だから私、勉強も訓練も、いっぱい頑張る!」

 サエコはうなずいた。

「それは素敵ね。でも、それはジンに話すべきじゃない?」

 カルメンは首を横に振った。

「だめなの。今の私じゃまだ全然ダメだから。いつか自信がついたら、きっと自分でジンに言うわ。でも、それまでに、信頼できる人に聞いておいてほしかったの」

「……私はあなたの誓いの立会人ってわけね。分かった。誰にも言わない」

 サエコとカルメンは笑顔を交わした。

 

 

 カルメンは湖の桟橋に出ていた。さすがに水辺は空気が冷える。

 サエコのメッセージには、エスメラルダがトラピッチェ・エメラルドの力を使ってジンの体の時間を巻き戻し、ジンは助かったが、時間を巻き戻し過ぎたせいでレイカと出会ってからの記憶がすべて消えた、と書かれていた。

 カルメンは揺れる湖面をじっと眺める。

「……どうも、腑に落ちないわね」

 体の時間だけが巻き戻ったのなら、体を離れてウィルスンのダイヤの中でたった独り戦い続けていたというジンの魂は、どこに行ってしまったのだろう。魂の一部だけが、寂しくあの世に取り残されているのだろうか。流崎レイカのそばに一番戻って来たがっているのは、その彼のはずなのに。

(私の歌声と祈りが、あの世にも届けばいいのに……)

 カルメンは無理を承知で歌いはじめた。

 カルメンを中心にして湖面に波紋が広がる。水辺の鳥たちも森の動物たちも、動きを止めて、静かに耳を傾ける。

 カルメンはただ一心に祈りを込めて歌い続けた。戻っておいで、と。

 

 ちょうどカルメンが人知れず歌い始めたとき、レイカの懐で婚約指輪のダイヤがあたたかい光を放った。

 レイカだけがその気配に気づいて、胸元を押さえる。

(……今のは? ……気のせい?)

「どうかした?」

 チェス盤の向こうでジンが怪訝そうにレイカを見ている。

「いいえ、なんでも」

 レイカは首を横に振った。

 ダイヤがあたたかくなったのはほんの一瞬で、今はもうレイカの懐で冷たく静まり返っていた。

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