サエコはあらかじめ約束した時間に、スカイプをつないだ。相手はカナダにいるカルメンだ。
『久しぶりね、サエコ』
カルメンの勝気な顔が画面に映った。
サエコの表情はほころんだ。
「元気そうね。あなたの顔を見るのは何年ぶりかしら」
『あら、そんなに何年も経ってたかしらね。せいぜい一年か二年ってところじゃない?』
「あなた今、どうしてるの?」
カルメンは肩をすくめて、両の掌を上に向けて広げた。
『ひまになっちゃって、特に何もしてないわ。ニコライたちの身体はもうだいたい治ったの。最近こっちで医者に見せたけど、もう問題ないそうよ。……でもね』
カルメンは困ったように頬杖をついた。
『私は歌で、彼らの身体を治した。だけど私には、彼らの心までは癒やせない。心が悲しみに病んでいれば、せっかく治った身体もまた悪くなってしまうわ。ジンに会って、直接ジンの役に立てるような仕事をしながら生きることができれば……そうしたら、彼らの悲しみもきっと癒えると思うの』
「そうね、あなたの言うとおりだわ。……それで、私はなにをすればいいかしら?」
サエコはあえてカルメンに尋ねた。
カルメンはにやりと笑った。
『もう、サエコったら意地悪ね。……私は、ジンに会いたくないの。私の代わりに、彼らを引き合わせてやって欲しいのよ』
「あなた、そうやって一生ジンに会わないつもり?」
『そうよ。それに、ジンが今どうしてるかなんて、知りたくもないわ』
カルメンは面白くなさそうに口元をゆがめた。
サエコの頭には小さい頃のカルメンがちらついている。
「本当なの、カルメン?」
『ええ。あの女が一緒にいれば、間違いなく彼は幸せなんでしょう。………会ったり聞いたりしたら、きっと狂っちゃうわ、私』
カイロで別れてから数か月経った今でも、いるはずもない場所でジンの姿や面影をつい探してしまうのに、直接会ったらどんなに辛いか。カルメンは唇を噛んだ。
「……引き受けたわ」
サエコはうなずいた。
「その代わり、約束してちょうだい。これからは私が連絡したら、必ず返事をしてよ。私にとって、あなたは妹なのよ。いつも心配してたんだから」
カルメンは仕方なさそうに「取引成立ね」と笑ってうなずいた。
数日後、突然カルメンは湖畔のバンガローを引き払って移動するとニコライたちに告げた。
ニコライたちは急いで荷物をまとめてリビングに運び込んだ。
準備は整ったが、バンガローのどこを探してもカルメンの姿がない。
「カルメンは僕らに黙ってどこかに出かけるなんて、しないのに。おかしいな」
リビングに集まって首を傾げていると、ドアが開いた。
「準備はできたようね」
「サエコ・ミレイ!」
ニコライたちは声をそろえて驚いた。
「カルメンからあなたたちを預かったわ。これからトロントへ向かう。ジンに会ってもらうわよ」
サエコの言葉にニコライたちは慌てた。
「僕らに、どの面下げて会いに行けと? 放っておいてくれよ!」
「あなたたちの体裁なんて、知ったこっちゃないわ! ジンがあなたたちに会いたがってる。理由はそれだけで十分よ!」
サエコは冷たく言った。
「私だって本当はあなたたちに親切にしたくはないの。だけどカルメンが私に頭を下げるんだもの。あなたたちの身体をいくら治しても、心が癒えなければどうにもならない。だからジンに引き合わせてやってくれって」
ニコライたちは唖然として顔を見合わせた。
「どういうことだ? カルメンは?」
ニコライは切羽詰まった様子でサエコに尋ねた。
「彼女なら空港に向かってるわ。あなたたちとは別行動よ」
聞くやいなや、ニコライは自分のバッグをひっつかんでドアを飛びだして行った。
「おい、ニコライ!」
ミハイルが追おうとした。
「待って、ミハイル!」
ミーシャがミハイルを引き止めた。
「……ニコライを行かせてあげて」
「なぜだ?」
ミハイルとセルゲイは戸惑ってミーシャを振り返った。
「……あなたたちが気づいてないことも、私の目には映ってたのよ」
ミーシャは微笑んでいる。
「カルメンがジンの婚約でショックを受けて、引き籠もってたことがあったでしょ? 役に立たないなら私が始末するって言ったのに、ニコライはカルメンをかばった。ジンが脳死したときも、カルメンをわざわざインドまで連れて行った。そして、そばにいることを許した。ドラバイトの件でも、戻ってきたカルメンを簡単に許して……。エメラルドの目がなくったって、分かるわよ」
「うーん、ちょっと早すぎたわね……」
空港の電光掲示板を見上げながらカルメンは考えた。
(カフェで待つのも一人じゃ退屈なのよね。さりとて読みたい本もなし……)
ロビーに駆け込んできたニコライは、電光掲示板の前で考え込んでいるカルメンを見つけた。
「カルメン!」
駆け寄ってくるニコライを見て、カルメンは意外そうな顔をした。
「あら、ニコライじゃないの。こんなところで何してるのよ」
ニコライは息が上がって汗だくになっている。
「……どういうことだ。僕たちを捨てるのか?」
「そうよ」
カルメンはこともなげに言い放った。
「あなたたちの身体は治った。私の役目は終わったわ」
「僕たちは一生君の下僕なんだろ? それなのに……」
「もう自分の舵は自分で取りなさいよ! 私は独りになって、これからのことをゆっくり考えたいの」
ニコライはカルメンの手首をつかんだ。
「……僕の気持ちに気づいてないとは言わせないぞ」
カルメンはふっと笑った。
「無駄よ。私はジンのことを一生愛してるもの」
ニコライは必死になって言いつのった。
「いいんだ。僕は君にジンのことを忘れろだなんて、言わない。それに僕を振り向いてほしいだなんて、思ってない」
「なによ、それ……」
カルメンはニコライの真意をはかりかねて極端に顔をしかめていた。
「君は、たった今、僕に言ったじゃないか。自分の舵は自分で取れと。君が誰を想っていようと構わない。僕はもう二度と、大切な人のそばから離れない!」
「うっとうしいわね」
そう言ってカルメンはニコライにつかまれた手を引こうとしたが、ニコライはびくともしない。
「僕は子どもの頃、大きな間違いを犯した。あの日マガダンで、泣き叫んで拝み倒してでも、ジンを引きとめれば良かったんだ。そうしたらきっと、ジンは残ってくれた。そうしたらきっと、僕たちは違う運命をたどれた」
「だったら今からジンに会って、もうジンのそばから離れなければいいでしょう?」
「……きっといつか、会うよ。君にお膳立てされなくてもね。僕は君についていく。逃げられるものなら逃げてみろよ」
言葉通りに逃れようとするカルメンの手首をニコライは強引に引き寄せ、ヒールの高い靴を履いているカルメンはよろけてニコライの胸にぶつかった。ニコライはもう片方の手をカルメンの腰に回してしっかりと捕まえた。
二人のいざこざを興味津々で見守っていた周囲の人々から、口笛と拍手が沸き起こった。
「やめてよっ! こんなところで!」
カルメンは真っ赤になって怒鳴った。
「じゃあ二人きりになれるところヘでも行くかい?」
ニコライはニヤニヤ笑っている。
カルメンは絶句してさらに赤くなった。
ミーシャの携帯が鳴った。ニコライからの着信だ。
「ニコライ? 今どこ? …………そう。………ええ、分かったわ。…………うん、大丈夫よ」
ミーシャはときどき相槌を打ちながらニコライの言葉を聞いていた。
「でも携帯の番号やメールアドレスを変えないでよ? こっちから電話したらちゃんと出てね? 約束よ!」
そして、通話を切った。
「ニコライはなんて?」
セルゲイが尋ねる。
「カルメンの乗る便に空きがあるから、このまま一緒に行くって」
ミーシャは笑顔で言ったが、セルゲイとミハイルの顔色は青くなった。
「そんな……俺たちを置いていくってのかよ?」
「それもいいじゃない」
「ミーシャ? 何を言ってるんだ…」
「カラバの施設で一緒だった頃からずっと、ニコライはいつだって私たちのことを一番に考えて、かばって行動してきた。その彼が、絶対にそばを離れないって思える人を見つけたんだもの。……行かせてあげましょうよ」
ミーシャは明るく言った。
「生きてさえいれば、私たち、また会えるもの。きっとね」
「その通りよ」
サエコはうなずいた。
「さあ、トロントに向かいましょう。ジンとジェイキンズ博士が、首を長くしてあなたたちのことを待ってるわ」
シャニの車がバンガローまで迎えに来ていた。
助手席に乗り込む前、サエコは雲の多い空を見上げた。
「同じ空を見上げているなら、きっと会えるわ……いつか」
「ねえ、もういい加減、手を放してよ」
離陸した飛行機の中でカルメンは言った。
「いやだね」
「もう! これじゃトイレにも行けないわ」
「ああ、これは失礼。行ってきていいよ」
ニコライはカルメンの手首を放した。
「別に今は行きたくないわよ」
カルメンは腕を組んで手を隠し、ツンとそっぽを向いた。
手持ちの資金がわずかなので、2人は狭いエコノミー席に並んで座っている。
ニコライは愛おしそうにカルメンを見つめた。
「ねぇ、カルメン」
「なによ」
カルメンはそっぽを向いたまま返事した。
「さっき言ったこと、少し撤回するよ」
「はぁ? ここまで来て、やっぱりジンに会いに行くの? いいけど、一人で行ってよね!」
「……違うよ」
ニコライは笑った。
彼を忘れなくてもいいから、いつか振り向いてほしい。
でもそれは、今は言わないことにした。