■セクハラです。現実だったら大炎上不可避。
レイカのアポイントメントを、チェリンは快く受け入れてくれた。
その日、日本のヒーラ社を訪れると、チェリンの秘書は応接室にレイカを案内した。先に待っていたチェリンは秘書に別の用事を言いつけ、下がらせた。
チェリンに促されてレイカはソファに腰掛け、テーブルに小切手を差し出した。
「あなたに知恵と力の限りを尽くせと言われたけど、私には、自力でお金を稼ぐ以外の方法が思いつかなかったの。これは、あなたがシャニから旧流崎邸を買い取ったときの金額よ」
「小さな子どもを抱えて大変だったでしょうに」
チェリンは優しく微笑んだ。
「大半は独身時代に貯蓄したものよ。そのほとんどがヒーラ社からもらった仕事の報酬」
レイカが言うと、チェリンは小切手をつまみあげた。
「……とても残念だわ」
「もちろん、この第一回目の交渉で売ってもらえるとは思ってない。何度でもあなたにトライするわ。……自力で稼ぐこと以外の条件が必要なら、ヒントをもらえるとありがたいんだけど」
「そういうコトじゃないのよ」
チェリンはそう言って、テーブルに封筒を置いた。
「あなたのおうちの、権利書よ」
そしてチェリンはレイカに、右手を差し出した。
こんなにあっさり交渉がまとまるとは思っていなかったレイカは、あっけに取られてチェリンの右手と封筒を何度も見比べた。
「私との握手はお嫌かしら」
チェリンは首を傾げた。
レイカは戸惑いつつもチェリンの右手を取った。
その瞬間、チェリンはテーブルに乗るようにしてレイカに迫り、レイカの唇を奪った。
チェリンは目を丸くして固まっているレイカの唇を濃厚にねぶると、名残惜しそうにゆっくりと唇を外し、レイカの耳に触れそうなほど唇を寄せて、そっとささやいた。
「……お代は確かにいただいたわ」
レイカが我にかえったとき、すでに応接室にチェリンの姿は無かった。
レイカは封筒を胸に抱えると、チェリンの感触が残る唇を手の甲で強くぬぐった。
近くのカフェで待っていたジンは、戻ってきたレイカの様子に引っかかるものを感じた。
「……なにがあった?」
「なにも。権利書、もらっちゃった。あまりにもあっけなくて、びっくりしたの」
「口紅が取れているが」
「そう? コーヒーをいただいたから、それでじゃないかしら」
レイカは明るく言った。何が起きたか、ジンには一生話せないと思った。
チェリンは自分の執務室で、指に挟んだ小切手をぴらぴらさせながら、窓の外のビルの群れを眺めていた。
「さぁて、餌はまいてみたけれど」
コンコンとドアをノックする者がいる。
「さっそく喰いついたわね」
チェリンは小声で言ったあと、外の人物に入室を許可した。
「チェリン、良い知らせだよ。さっきの君の行為が、応接室の防犯カメラすべてに映っていた」
「あら、ありがとう、キッペンベルクの坊や。録画のコピーを私にちょうだい。寂しい夜のおかずにするわ」
チェリンがうろたえると踏んでいたキッペンベルクの表情は、たちまち引きつった。
「ネット上にばらまかれる心配はないのかな?」
心配すると見せかけて、キッペンベルクはなかば脅すような口調だ。
「身内の恥を晒したいのなら、どうぞ? 我が社の名誉に傷がつくだけよ」
チェリンは嬉しそうにコロコロ笑った。
「それでも、君が左遷されれば、僕にとっては美味しい事態だね」
キッペンベルクは負けじと言った。
チェリンはキッペンベルクに歩み寄ると、右手の人さし指を立てた。
「万が一、ヒーラが私を放逐するのならば」
チェリンはその指を自分のこめかみに当てる。
「ここに詰まってる機密情報と一緒に、ジェネラル・ジンに買い取ってもらうわ」
そして右の手のひらを、上に向かって広げた。
「そうしたら、あなたごとヒーラを叩き潰してあげましょう」
「……君の父上が我が社の重役だというのに?」
「子は親を超えていくべきものよ」
チェリンは小首を傾げて微笑んだ。
「私、ちょうど人生の楽しみを失って鬱々としていたところなの。あなたと一戦交えるのも楽しそう」
「おお、怖い怖い。すべて私の冗談だよ。それでは失礼」
キッペンベルクは冷や汗を隠して、ドアノブに手をかけた。
「ねえ、録画のコピーは全アングルで、今日中にお願いね?」
チェリンが追い打ちをかけると、キッペンベルクの足が止まった。
「……チェリン、君、わざとやったね? うかつだったな……君は防犯カメラをオフにする権限を持っている。まんまと君がまいた餌に喰いつくところだった」
「私は流崎レイカとの思い出の記録が欲しかっただけよ」
キッペンベルクは背を向けたまま、ため息まじりに笑った。
「まったく君は度し難い。僕個人はともかく、我が社の敵に回すべきではないな。……君の真意は理解できない」
「それはあなたが卑怯者で、私が正直者だからよ」
チェリンがしゃあしゃあと言うと、キッペンベルクはやっと振り返った。
「言ってくれるね。……録画のコピーはすぐに送るよ」
キッペンベルクが退散すると、チェリンは心底残念そうにため息をついた。
「しっかり喰いついてくれたら、あの子とまた二人きりになるチャンスを作れたのに。まぁ、別の手を考えるまでよ」