評論「政治権力者ヤン・ウェンリーに関する一考察」 作:旧王朝史編纂所教授
前節の内容を踏まえて、同盟末期、帝国暦483~487(792~796)年に起こった主要な会戦について、同派の動向を念頭に置きつつ、分析してみたい。
まず、以下に略年表を示す。カッコ外の記述が史料等から確認できる史実、カッコ内記述が筆者の評価である。
帝国暦483(792)年 第5次イゼルローン要塞攻防戦
宇宙艦隊司令長官シドニー・シトレが遠征軍総司令官を務める。要塞攻略は出来なかったが、シトレの指揮で、並行追撃による「雷神の鎚」の無力化と、無人艦作戦が実施される。
(用兵家としてのシトレの名声が確立)
帝国暦485(794)年 第6次イゼルローン要塞攻防戦
ラザール・ロボス元帥が遠征軍総司令官を務める。ロボス派の有力な一員、ホーランド少将が活躍するも、善戦したにとどまり、全軍撤退を余儀なくされる。
(用兵家としてのロボスの名声が低下)
帝国暦486(795)年 第3次ティアマト星域会戦
帝国皇帝フリードリヒ4世の在位三十周年を記念、国威発揚のため、宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥率いる帝国軍が同盟領に侵攻。迎撃軍総司令官はラザール・ロボス元帥が務めるが、後方で待機している間に、両軍は開戦してしまう。
迎撃の指揮はビュコック・ウランフ・ホーランドの三中将が務めたが、戦理を無視した用兵でホーランドのみ敗死、同盟軍撤退の原因となるが、残るビュコック・ウランフ両提督の奮戦で全軍崩壊の危機は脱する
(ロボス派の有力な一員だったホーランドの戦死で、同派の幹部級軍人が失われた。反面、シトレ派のビュコック・ウランフ両将の名声が上がり、シトレ派の評価も高まる)
同年 第4次ティアマト星域会戦
第3次と同様、ミュッケンベルガー元帥率いる帝国軍と、ロボス元帥率いる同盟軍とが激突。惑星レグニツァでの遭遇戦で、パエッタ中将麾下の同盟軍がラインハルト陛下率いる帝国軍に敗退している。
続く本戦でも、敵前回頭という大胆な戦術を実行したラインハルト陛下によって、同盟軍は撤退を余儀なくされている。同盟軍は侵略する帝国軍を退けるとの戦略目的を達成するも、勝利を得たとは言い難い。
(第3次・第4次と、ロボス指揮の同盟軍が敗退、また撤退した事で、用兵家としてのロボスの評価はさらに低下。また、ロボス派のパエッタ中将も敗軍の将との不名誉を負う)
全体的な傾向として、ロボス元帥以下、ロボス派に属する提督たちの失態が目立つ。逆に、シトレ派は、領袖シトレが第5次イゼルローン要塞攻防戦で、攻略こそ出来なかったものの、彼が立案、実行した並行追撃と無人艦作戦は、要塞攻略戦術の極北に近いとも見なされ、その独創性と戦術指揮能力を評価された結果、元帥への昇進を果たしている。また、ビュコック・ウランフら、同派の軍人達も勝利を得て、名声を高めている。
つまり、帝国暦483~487(792~796)年の間、当時の同盟軍の二大派閥、シトレ派とロボス派は、帝国軍との戦闘で勝利、または評価するに足る武勲を挙げたシトレ派が相対的に優位で、同じ元帥位でありながら、制服軍人トップの地位たる統合作戦本部長に、ロボスに先んじてシトレが就任できたのも、勝利を背景とした世論の支持、その世論に迎合した政治家の判断があったのではないかと推測される。
統合作戦本部長時代のシトレは、ロボス派に近い国防委員長トリューニヒトとは決して良好な仲ではなく、これもミンツ氏の著作の記述だが「よく言って武装中立というところ」だった。
だが同時に、本部長シトレは「はでな人気こそないが、支持者の層は厚く広い」とも評されている。当時のトリューニヒトは、その熱狂的な反帝国演説と端正な容姿で、多くの有権者の支持を集めており、そのトリューニヒトと不仲であったにも関わらず、シトレ支持者が多かったという事実は、シトレが軍内にとどまらず、政界、官界、経済界、そして一般世論の中で、反トリューニヒト派の支持を集めていたのではないかと推測される。
詳しくは後述するが、アスターテ星域会戦での同盟軍の敗北、そしてヤンによる第7次イゼルローン要塞攻防戦の勝利で、本部長シドニー・シトレの名声と権威は頂点に達している。
そして、本論との関係で重要なのは、エル・ファシルの英雄となったヤンは、その軍人キャリアの早い時期から一貫して、末期の同盟軍で重きをなしたシトレ元帥の庇護下に置かれていた可能性が高い事だ。この点を明確に記した史料は、管見の限りでは存在しないが、状況証拠と呼べそうなものはある。
それは帝国暦483(792)年の第5次イゼルローン要塞攻防戦の開戦前、遠征軍総司令官シトレ大将は、当時弱冠25歳の少佐で、自身の副官を務めていたヤンをわざわざ指名し、列席の諸提督に対して、攻略作戦の発表をさせている。
これもホーウッド元中将の指摘だが、イゼルローン攻略の如き大作戦の概要説明を行うのは、通常ならば遠征軍の参謀長、もしくは作戦参謀がやるべき事で、一介の副官に任せるような軽い業務ではないとの事。この点から、シトレが如何にヤンを重用していたかが伺えると感じるのは、穿ち過ぎであろうか?
さらに、ヤンの為人から考えてみよう。前述のホーウッド元中将の証言によれば、エル・ファシルの英雄となったヤンに対しては、各派閥から様々なアプローチがあった事は十分想像されるが、その際、ヤンはシトレ派以外の勧誘に耳を貸すだろうか?
ミンツ氏の著作によると、ヤンの対人関係は「嫌いな奴に好かれる必要は無い。理解したくない奴に理解される必要は無い」が基本だったそうだが、だとすると、彼の交際相手は「好きで理解できる人」にならざるを得ない。
その時、士官学校時代に面識があり、その裁定に感謝もしていた当時の校長シトレ、そして、やはり当時の士官学校事務局次長で、頼りがいがある先輩だったキャゼルヌ、この2人に勧誘されたなら、ヤンがそれを拒絶する事は出来ただろうか。いや、軍内に知己が少なかったヤンには、一面識もないロボス派の軍人にどれほど口説かれても、士官学校時代からの知り合いで、かつ世話になった人の言葉以上に、その説得が心に響く事はあり得なかっただろうと想像される。
実際、ヤンは一貫して彼ら2人に対し、礼節を以て接している事は、ミンツ氏の著作から十分に読み取れるのだ。
つまり、エル・ファシルの英雄となったヤンは、その後ほどなくして、シトレ派に所属。以降、同派領袖シトレ、その腹心的立場のキャゼルヌの庇護を受け、その卓越した軍事的才能を見込まれた結果、次第に領袖シトレの秘蔵っ子、同派のプリンス的存在になっていった。そのため、彼は軍隊というタテ社会の中でも、理不尽、または非道な目に遭うことなく、その才能を伸び伸びと発揮し、かつその武勲を正当に(或いは過大に)評価された結果、まずあり得ない20代での准将に昇進できた、これが筆者の着想である。
それは、ロボス派に属したホーランドやフォークが派閥の後押しを受けて、ヤンと同様に20代で准将の地位に到達した事、さらには、開祖ラインハルト陛下が姉君グリューネワルト大公妃殿下、そして旧王朝の皇帝フリードリヒ4世の庇護を受けて、若年から出世の階梯を駆け上がった事と軌を一にしており、その意味で、ホーウッド元中将は「ヤン元帥ほど政治権力に庇護され、出世の階段を駆け上がった同盟軍人は稀だ」と評したのではないかと考えられる。