評論「政治権力者ヤン・ウェンリーに関する一考察」 作:旧王朝史編纂所教授
そして、帝国領侵攻作戦が決定した、もう1つの理由。これは筆者の想像による部分も大きいのだが、この時、シトレ派は、主流派シトレのグループと、非主流派グリーンヒルのグループに分裂した、この結果、シトレ派は一枚岩ではなくなり、さらに非主流派グリーンヒルはロボス派と野合し、帝国領侵略作戦に賛成したのではないか、と考えている。以下、その流れを解説したい。
前述した通り、同一派閥に属してはいたが、シトレとグリーンヒルの間には、思想的な対立関係が伏在していた。共に、政治と軍事は対等であるべき、との点では一致していたが、シトレは軍事力の直接行使はあくまで最終手段であり、それに先立つ政治交渉などで、武力行使が避けられるのならば、それが望ましいと考えていた。ただ、その政治交渉とは、政治家に全権委任するのではなく、少なくとも国防に関する限りは、軍部が主導、最低でも政府と対等の立場で当たるべきと考えており、対立するロボス派は、その点を「シビリアンコントロールからの逸脱」と、強く批判していた。
また、軍事力の行使に至っても、人的・物的被害は可能な限り低減するべきであり、事前の情報収集や補給確保によって、不戦勝の状態に持ち込めるのならば最良、開戦に至っても、機械化部隊の活用など、人命が損なわれない戦術を講じる事が望ましいと考えていた。シトレが第5次イゼルローン要塞攻防戦で実行した無人艦突入作戦は、彼の軍事思想の表れでもあり、それは御曹司的存在のヤンにも継承されている。いや、シトレの軍事思想をより先鋭化したのが、後世、魔術師とも称されたヤンが独創した、敵将の心理状態を巧みに利用した各種戦術だったと言えるかもしれない。
一方、グリーンヒルは、軍事力の行使により積極的だった。政治が誤った方向に向かっていれば、武力行使でそれを修正するのは当然、いや軍部の責務でさえあると考えていた節がある。これが後年、彼が軍事クーデター勢力・救国軍事会議の議長になった遠因だと言えるだろう。
また、人命よりも社会秩序、さらには民主共和制の大義を守る事を重視する傾向にあり、軍隊の存在意義は、第一に国防だが、次いで国家の秩序維持も重要だと考えていた。救国軍事会議が首都星ハイネセンを支配していた時、同会議の一員、クリスチアン大佐が野党政治家エドワーズを撲殺した事を契機として勃発した民衆暴動と、軍隊による鎮圧行動、いわゆるスタジアムの虐殺事件が生じているが、これもまた、彼らグリーンヒル達のグループが有していた、秩序維持も軍隊の責務、との思想が遠因になっている。
彼らは、政治と軍事は対等であるべきとの思想に基づき、政治への従属に甘んじるロボス派への反感を共有して、同一派閥内にとどまっていたが、ロボス派が凋落、シトレ派の独尊が確立されてくると、これまで隠されていた路線対立が表面化してきた。
それに拍車をかけたのが、ヤンによるイゼルローン要塞陥落と、その後にシトレ、ヤン達が提唱し始めた帝国との和平交渉提案。あくまで対帝国戦争の完遂を求めるグリーンヒル一派には、これは野党や反戦派集団への迎合にしか見えなかった。対帝国強硬派で、急進的な若手士官らの代弁者的立場だったホーウッド元中将がグリーンヒルに接近していったのも、このシトレ達の主張に賛同できなかったからだろう。
ロボス派とグリーンヒル一派がいつ頃から接近していったのか、またどちらが先にアプローチしたのか、当事者のグリーンヒルやロボスらが死去している今、真相は闇の中だと言わざるを得ない。
だが、元々ロボスとグリーンヒル両者の関係は悪くなかった。帝国暦485(794)年の第6次イゼルローン要塞攻防戦、続く帝国暦486(795)年の第4次ティアマト星域会戦では、司令官ロボス、参謀長グリーンヒルでコンビを組んでいる。戦場でも、ロボスはグリーンヒルの献策を良く受け入れ、両者が極端に対立していた形跡は確認できない。
あくまで想像だが、どちらかと言えば鷹揚な性格だったロボスに、同盟軍一の紳士とも評されたグリーンヒルが、ロボス派が提出した帝国領侵攻作戦に賛成する代わりに、戦後は対帝国戦争を完遂するため、政府に対する軍部の立場強化、特に自分達グリーンヒル一派と、主戦派政治家との関係強化に動いて欲しいと、辞を低くして求めたのではないだろうか。
プライドが高いロボスに対しては、下手に出る方が有効だと理解していたグリーンヒルには、その程度の「寝技」は朝飯前だっただろう。そして、遠征軍総司令官ロボス元帥の下、副司令官は置かれず、遠征軍のナンバー2たる総参謀長にグリーンヒル大将が就任したのは、ロボス派とグリーンヒル一派の同盟の証と言える。
なお余談ながら、ホーウッド元中将いわく「当時の高級軍人の中で、最も政治的な軍人」グリーンヒルの娘、フレデリカが第13艦隊司令官に就任したヤンの副官に配された人事だが、この背後に政治的軍人グリーンヒルと、同じく政治的感覚に優れたキャゼルヌ、この両者による無言の連携を感じるのは筆者だけだろうか?
前述した通り、グリーンヒルはシトレ派の幹部でありながら、非主流派のリーダーでもあり、ロボスとも比較的、良好な関係を保っていた。
そのため、同派領袖シトレ直系の軍人、特に政治的策謀を気質的に嫌う、武人的性格の強い前線指揮官、例えばビュコックやウランフ、ボロディン達から、必ずしも好意的に見られていなかった。
そこで、グリーンヒルは派閥内での立場強化を策して、彼ら前線指揮官が嘆賞する軍事的才能と武勲の持ち主であり、かつ領袖シトレの御曹司、プリンス的存在のヤンに、愛娘フレデリカを副官として差し出し、ヤンを通じて、彼ら前線指揮官達との関係修復を、さらには、次代の派閥領袖の座が確実視されるヤンとの関係強化を図ろうとしたのではないだろうか。
一方、シトレの腹心的立場だったが、シトレの年齢を考えるならば、ポスト・シトレ体制を見据えなければならないキャゼルヌは、派閥内の有力者で、シトレ引退後は領袖の目さえあるグリーンヒルを、派閥の御曹司で自身が庇護するヤンの新たな後ろ盾にしたかった。この両者の利害が期せずして一致した事で、ヤン少将の副官フレデリカ・グリーンヒル大尉という人事が成立した、これをある種の「政略結婚」だと見なすのは、流石に穿ち過ぎであろうか?しかし、キャゼルヌに推薦された副官フレデリカ・グリーンヒルと初対面したヤンの態度と心理状態について、ミンツ氏は以下の通り、表現しているのだ。
ヤンはサングラスをかけ直して表情を隠し、アレックス・キャゼルヌという男は軍服のスラックスの下に、先端のとがった黒いしっぽを潜めているに違いないと考えた。
どういう意味だろうか?フレデリカ・グリーンヒルが後年、ヤン夫人になった事実を知っている我々は、女性と付き合おうとしない後輩ヤンが男やもめにならないよう、世話焼きの先輩キャゼルヌが将来の結婚相手として、ヤンに思いを寄せる、うら若き美女・フレデリカを推薦したのだと、微笑ましい解釈をする事が出来るが、そんな結婚相談所的感覚で、軍隊内の人事が行われるだろうか?
いや、フレデリカは卓越した記憶力と事務処理能力を有した、優秀な若手士官だった。新進気鋭で、シトレ本部長の御曹司的立場にあったヤンの副官として、確かに相応しい人材だった。それは間違いないが、フレデリカの父、ドワイト・グリーンヒルは当時、統合作戦本部次長の地位にある高級軍人で、副官就任前のフレデリカが勤務していた部署は同本部情報分析課、つまり、父は娘の上司だったのだ。上司が部下の人事情報を知り得ないはずはなく、また部下の人事に注文を付ける事など造作も無かっただろう。
そして、この父娘の関係は良好だった。ある夜、ヤンと共に訪れたレストランが満席だった時、偶然にも同じ店で食事をしていたグリーンヒル父娘が自分達のテーブルに招いてくれた事があったと、ミンツ氏は著作中に記している。
ドワイトは妻を早くに亡くし、父一人、娘一人の父子家庭だった。後年、父ドワイトが救国軍事会議議長として主導した軍事クーデターが失敗した後、自殺したと伝えられた娘フレデリカは「一時間、いえ、二時間だけいただけますか」と、上官のヤンに申し出て、私室に籠っている。自分と敵対した父に対し、娘が深い悲しみにくれている事が分かる。それは逆説的に、父が娘に注いだ愛情の深さを証明するものだろう。
この父娘が深い親子愛で結ばれていたとするならば、首都星ハイネセンという安全な場所、そして自身の庇護下から愛娘を解き放ち、イゼルローン要塞攻略戦という、危険度と困難度では間違いなく第一級の軍務に従事させる父親は、一体、何を考えていたのだろうか?
ドワイトが軍務に私情を持ち込まない、誠実で良識ある人物だったとしても、同盟軍の組織規模から考えて、ヤンの副官に相応しい若手士官がフレデリカ以外に存在しなかったとは思えず、フレデリカがヤンの副官候補に挙げられた時、ドワイトがそれに異論を唱えても、内心、公私混同ではないかと感じる軍人はいるかもしれないが、父娘の関係性を知る者であれば「まあ、当然だろうな」と、納得する者の方が多いだろう。
さらに、ドワイト程の地位と政治力の持ち主であれば、人事部門に圧力をかけて、フレデリカに匹敵、いや、それ以上の才幹を持つ若手士官をヤンの副官に就任させる事も出来ただろう。
故に、この副官人事には、むしろドワイト・グリーンヒルの意向が働いていると考える方が自然ではないだろうか。敢えて想像の翼を逞しくすれば、フレデリカと初対面したヤンの心の声は、こうだったのではないか。
…やれやれ、先輩の悪魔の尻尾が指し示す先は、シトレ本部長からグリーンヒル次長に変わったんですか。軍内政治の生臭い所に、私をあんまり巻き込まないで欲しいものですけどねえ…