冬の日の事だった。
気温は一桁台で、雪は降っていない。吐く息は白く染まり、肌を刺すような風の冷たさに、少女――美竹蘭は顔を顰めながら歩いていた。
いつも横にいる幼馴染達は、その日に限って一人もいなかった。家にいるのも嫌だったので、こうして街へ飛び出したところまでは良かったが、あまりの寒さと退屈さに、彼女の眉間にはいつも以上にシワが寄っていた。
「路上ライブやります!」
その声が聞こえてきたのは、諦めて家に帰ろうかと、渋々足を家の方へ向けようとした時の事だった。
耳に届いてきたのは、マイクを通した女性の声。声の主を見てみれば、耳と口に複数空けたピアスが特徴的な、如何にも『バンドマン』といった風貌の女性だった。
他のバンドメンバーは見当たらない。女性は赤いギターを担いで、その場に一人で立っている。
その立ち姿から、何故か目が離せなかった。
家に帰るよりはマシだろうと、路上ライブの会場へと歩いていった。
女性バンドマンの周りには数人の観客がいた。
それは彼女の知り合いなのかもしれないし、野次馬精神で立ち止まった人間かもしれない。多くの人が通り過ぎていく中で集まったその人間達のことが少しだけ気になったが、見ただけで知り得るようなものでもないからと、蘭は考えるのをやめた。
「ひーふーみーよー……結構集まった。じゃあやりまーす」
その言葉と共に、女性バンドマンがギターの弦でカウントを取る。一回、二回。カウントの後、Cコードから始まったその曲は、街中で聴いたこともある有名な洋楽だった。
(かっこいい歌声)
少し低めでやや掠れ気味な、それでいてよく通る歌声。英語の滑舌の善し悪しに関して、蘭にはあまり分からなかった。しかし曲調も相まってどこか甘さを感じさせるその歌声に、蘭は一目惚れと言ってもいい程惹かれていた。
女性が右手を振り下ろす度、六本の弦が細やかに揺れる。無駄なノイズのないクリーンなギターサウンドは、女性の丁寧なミュートと迷いのないストロークによって生み出されるものであった。
三分と少しが経って、演奏が終わる。拍手の数が少ないことに不満を持った蘭は、少し強めに手を叩いた。周りの観客と、女性バンドマン自身も少し驚いていたが、蘭は気にしなかった。
「はは……じゃあ次の曲に行きます」
次の曲は日本の曲だった。所謂邦ロックに分類されるその曲は、本来ベースとドラムがそこに入ることで完成する。
彼らのいない演奏は少し寂しげなものに映ったが、それでも女性の奏でるその音楽は間違いなく〝ロック〟であった。先程までは甘い響きを見せていたその歌声は、一転して力強さを際立たせている。寒さを吹き飛ばしてしまいそうな熱量がそこにはあった。
赤いギターが唸る。先程とは違って歪みの効かせたギターサウンドは、鋭さの中にも秩序が感じられるものであった。
目の回るような指捌きでギターソロを走り抜けた女性は笑顔を浮かべながら一瞬後ろを振り向いて、そこにはただ道を行く鉄の馬達しかいないことを確認し、悲しげな様子で演奏を再開する。
本来、その視線の先には何があったのだろう。蘭は少しだけ気になったが、そんな疑問もラスサビの盛り上がりに塗りつぶされて消えてしまった。
演奏の後、蘭は先程と同じように強い拍手をした。
今度は周りの数少ない観客たちも負けじと拍手の音を強めて、バンドマンの女性は恥ずかしげに、しかしどこか嬉しそうな様子で笑った。
「じゃあ、次で最後の曲です」
あれからいくつかの曲を演奏した後、女性はそう言いながらギターのチューニングをしていた。
「ここまで聴いてくれてありがとうございます……こんなに聴いてくれる人がいるなんてびっくり。最後にやる曲は、私がやってたバンドの曲です」
女性の目の中でゆらりと炎が揺らいだような、そんな錯覚に蘭は陥った。
「初めて書いた曲で、初めて演奏した曲で――大好きで、大嫌いな曲です」
その言葉と共に、女性は足元のエフェクターのツマミを一気に回す。歪みの増したギターサウンドは、まるで何かを訴えているかのようで。まるで彼女の心境を表しているようだと蘭は感じた。
二曲目の途中、ギターソロを終えた女性の悲しそうな表情が頭の中に甦った。
曲が始まる。イントロを潜り抜けて、彼女の歌声がギターの響きに合流した。
その曲における女性の歌声には、どこか幼さのようなものが混じっていた。これまでとは違う、剥き出しの歌声。低く掠れ気味の声で、前のめりに。泣くように。叫ぶように。
声自体は大人のものなのに、その本質は子供の癇癪に近い。
それはまるで、反抗期の子供が駄々をこねるようなもの。
最初にやっていれば間違いなく観客達は理解できずに離れていくであろうその姿を見て、周りの観客も蘭も、一切その場を動くことができなかった。
泣き声の中に見える、立ち上がろうとする意思。
終わりを受け入れながらも、
(すごい……!)
心を揺さぶられると同時に、「これで最期なのだ」と。これは別れを惜しむ彼女の、未練を吐き出しきるためのものだいうことを、蘭は心で理解していた。
燃え尽きるその時まで、
冬の街で、残火が最期の輝きを放っていた。
演奏の後、惜しみない拍手が送られたその十数分後。
周りの観客はチップをバンドマンの前に置いて既に立ち去っており、その場にはバンドマンの女性と蘭だけが残っていた。
「あの」
「ん、君はさっきの……力強い拍手、ありがとうね」
「はい。演奏、すごかったです」
「楽しんで貰えて何より」
そう言いながら片付けを続ける女性の後ろ姿を見て、堪らず蘭はその問いを投げた。
「あの、音楽やめちゃうんですか」
片付けをする手が止まる。蘭の方へと振り返った女性は少し複雑そうな表情で、答えを出しかねている様子だった。
「そうだね……わかんないけど、多分そうなるのかな。やってたバンドは解散しちゃったし」
「! そう、なんですか」
曲の前に語っていた言葉から想像していた事が真実だったことを知って、蘭が顔を伏せる。女性はそんな蘭に慌てた様子で言葉を紡いでいた。
「ちょいちょいちょい、どうしたの。顔上げなよ」
「だって、寂しくはないんですか? こんなに歌もギターも上手なのに」
「そうだね……まぁ寂しいっちゃ寂しいけどさ。別になんか後悔とかあるかって言われたら、特に何もないんだよね」
彼女の言葉には迷いがなかった。
最後の曲が、彼女の中で僅かに燻っていた心残りのようなものを全て燃やし尽くしてしまったのだろう。
今の彼女はきっと、胸を張って「やりきった」と言い切れる。
「ま、音楽そのものはそんなあっさりやめられるか分かんないからさ。ゆっくりやりたいことを探しながら、色々考えるよ」
よいしょ、と言って女性が立ち上がる。片付けが終わったようで、機材をまとめたトランクケースを片手に、背にはギターケースが担がれていた。
その表情はどこか吹っ切れていて、前へ進む意志が感じられるものであった。
「そろそろ行こうかな! ライブ聴いてくれてありがとう。寒いのに色々話しちゃってごめんね」
「あ、いえ。その……頑張って、ください」
蘭はまだ幼く、そうやって大切だったものに別れを告げられるかどうか分からない。今ある大切な関係がいつか終わってしまうかもしれないと考えれば胸が苦しくなって、今すぐにでも泣き出してしまいそうになる。
そんな彼女を見て、女性バンドマンが蘭の頭の上に手を置いた。
「バンドも人間関係もいつ終わるかわかんないものだからさ、君は今ある関係を大切にしなよ」
そう言って去っていく、バンドマンの姿を蘭は見送った。
胸にストンと落ちたその言葉と、胸に残る、衝撃に似た感覚を抱きしめながら。
不思議な体験だった。今日初めて会って、初めて歌を聴いて、初めて会話した相手なのに、もうこんなにも心に刻み込まれている。
音楽を通じたコミュニケーションは、何よりも単純で素直で、だからこそストレートに胸に響く。それはきっと、修飾された言葉なんかよりもずっと美しい。
日が傾いて、空はすっかり夕焼け模様に染まっていた。カラスの鳴き声に、家へ帰らなきゃという気持ちが強くなる。
口うるさい父親。マイペースな少女。ムードメーカーな少女。頑張り屋の少女。姉御肌の少女。
今まで当たり前だった、そんないつも通りの人間関係を、少しだけ大切にしてみようと思った。
女性の歌っていた歌を口ずさみながら、蘭は歩き出した。
今日のことは、きっと
季節は巡って、少女は少しだけ大人になった。だけど未だ、彼女から幼さが抜け切ることはない。
少し前までの蘭は、クラス替えがきっかけとなって教室で孤立してしまっていた。それを見兼ねた幼馴染の一人が、みんなで一緒にいる為にバンドをやることを提案した時、蘭の脳裏にはかつて見た路上ライブの景色が浮かんでいた。
(今ある関係を大切にしろって言われたのに。これじゃ、まだまだ子供だ)
大人になりたいとは決して思わないが、あの日のバンドマンのような大人には少しだけ憧れる。
きっと父は反対するのだろうなと思いながら、それもまたロックでしょと。蘭は自分の中で結論づけた。
スタジオの重い防音ドアを開けたその先から、無秩序な音の塊が蘭を襲った。既に聴き慣れたそれに眉一つ動かすことなく、蘭は歩を進める。
その部屋にいた少女達が蘭の存在に気づいたことで、鳴り止まなかった音達が姿を消した。
「遅いよー蘭」
「やっと来たー!」
「ま、まあまあ。スタジオ入ってまだそんなに経ってないから、大丈夫だよ!」
「そうだな。音出ししとくから、準備ができたら言ってくれ」
蘭のことを出迎えた四人の少女達は既にセッティングを終えていて、「いつでも行ける」と言わんばかりにそれぞれの
背中に担いだギターケースから、蘭が一本のギターを取りだした。重量を感じるそのボディからは、「早く演奏させろ」と聞こえてくるようで。
シールドケーブルでエフェクターとアンプにギターを繋ぎ、電源を付けてそれぞれのツマミを回す。一連の動作にも少し慣れてきたことを実感しながら、ストラップに肩を通した。
軽く弦を弾いてみれば、ノイズ混じりの若々しい音がアンプを通じて部屋に響いた。
「ごめん、おまたせ」
四人分の瞳が、蘭の方を向く。
スタジオの照明を反射して、
「じゃあ――いつも通りやろう」
目に灯った火が揺らめく。
反骨心、友情、緋色の夕焼け。
それら全部を織り交ぜた彼女たちの
反骨の赤メッシュちゃんかわいいね。