時折、新雪をキュッ、キュッと踏み抜く音が遮るものが無い周囲に響く。白いローブを着こんだ十代半ばとおぼしき少年が、山肌に張り付く様にある山道を一人登っていた。その少年に最初に気づいたのは、山肌の中腹にぽっかりと空いた洞穴の前の踊り場で日光浴をしていた、青い雫のような水滴型をした小さな魔物。
「おっ、カナタッ! また遊びに来たのか? 頻繁にこちらに顔を出すのは良いけど、ちゃんと大学は通ってるのか? 卒業できなかったらホイミンがうるさいぜ?」
「やあ、スラリン。今日は遊びに来たわけじゃないよ。そのホイミン先生から頼まれたんだ。ポップの残した日記がばらばらになったから、時間のある時に綴り直して欲しいって。それに、こう見えても俺は成績優秀者だよ」
その言葉にスラリンと声をかけられたスライム族の魔物は「ああ、ホイミンから聞いたのか。それならこっち、こっち」と、少年を案内するように洞穴の奥に向かってピョンピョンと跳ねていく。
そして複雑に入り組んだ洞穴の奥のとある小部屋の前まで案内したホイミンは、背後を振り返り「ここだよ」と告げる。足元から投げかけられたその言葉に軽く頷き、取っ手に手を伸ばしその木の扉を開く少年。
扉を開いた事で部屋の中の空気が乱れたのか、床一面に散らばっていた無数の紙片がさらさらと宙を舞う。
「これは凄い量だな。俺が前に来た時に読ませてもらったのは、全体のほんの一部分だけだったんだ……」
そう呟きながら、足元に舞う紙片の一枚を拾い上げる少年。それに束の間目を通していた少年だったが、不意に紙片から顔を上げ足元の魔物に問いかける。
「そう言えば、昔この日記の一部を破って持ち帰った不届き者がいなかった?」
「ああ、いたいた。俺は、人相が悪かったから気をつけろって皆に言ってたんだけどな。案の定、盗みを働かれたんだよ。それもあって、ポップの残した日記はこの部屋に移す事になったんだ。あれ、どうしてそれを知っているんだ、カナタ?」
「……ん、数か月前にちょっと一騒動があってね。でも、もう大丈夫。それは解決しているから。それより、この床一面に散らばっている日記を、元通りに綴り直したら良いんだね?」
「うん、頼めるか、カナタ? 俺達じゃあ、この日記が読めないからどうしようか困ってたんだ。あ、ロッキーを責めるなよ。これは不幸な事故だったんだから」
「あれ、ロッキーじゃなくて、スラリンがばらばらにしたって聞いたけれど?」
その言葉に足元の魔物は「ばれたか」とばつが悪そうな顔をして部屋から退散していった。そのピョンピョンと飛び跳ねる魔物の後ろ姿を苦笑しながら見つめていた少年はその後、床に散らばっている紙片に視線を移し、「さあ、やるか」とローブの袖を捲り上げた。
~~~~【ポップ・マーカストンの書】~~~~
●●年●●の月●●の日
今日でロモスの港を出港し6日目。ネルソン船長が言うには、明日にはパプニカ近海に着くとの事だ。マァムに贈る予定のメタルフィストの製作はどうにか間に合った。取扱説明書も用意したし、これを拳に装着して悪を挫くマァムの姿が今から待ち遠しい。ふふふ、はたして最初の犠牲者は誰になるかな? やはりヒュンケルだろうか? あるいは死霊の騎士? 個人的には、あのイケメン顔のヒュンケルの顔に苦悶の表情を浮かべさせてやれると溜飲が下がるんだが。
いずれにしても、しっかりと魔結晶に魔力を充填しておいて、しかるべき時が来れば最大威力が発揮できるようにしておいてやるとしよう。今日からは震えて眠れ、魔王軍。メリケンサックを装着した『霊長類最強の女武闘家』マァム様のお通りだ。
ああ、そうだ。今日の記録をつけるのを忘れていた。3分28秒。
よし、これで良い。……これで良いが、昨日より18秒短い。呪文の効果は、術者と被術者双方のその日の体調からも影響するのだから一概に決めつける事は出来ないが、少し気になる。奴と遭遇する日まで記録を残し続ける事は忘れないようにしよう。
●●年●●の月●●の日
エルサはいつも就寝前に鏡台の前に腰を降ろし、その蜂蜜色の金髪から白銀に輝く髪留めを引き抜き、それを大事そうに鏡台に置いた後、首を微かに振る。その仕草で、束ねていた髪が彼女の白いうなじの上をまるで金の流砂のごとく流れる。そうやって、彼女が就寝する前にきまって行うルーティンはこれまで幾度となく目にしたが、一向に飽きることなく、今日も俺はその所作に思わず魅入ってしまう。
彼女が日頃使っている髪留めは、まだ彼女と結婚する前に初めて彼女にプレゼントしたものだ。最初は別の物をプレゼントする事を考えていたのだが、姫さんの勧めもあり銀製の髪留めにした。もちろんマァムやメルルに渡したものと同様、俺の自作だ。髪留めの製作は、一度シグマに頼まれた事があったから慣れたものだった。あれから随分と経つのに未だにそれを大事にしてくれているのだから、ありがたい話だ。
鏡台のかがみ越しにエルサと目が合った俺は、頬が赤くなったのを自覚しながら視線を剥がし、再び日記に視線を落とす。
『今日は何を書いているんですか?』とエルサが尋ねるので、『今のエルサとのやり取りをそのまま書いているよ。いわゆる生配信ってやつ』と応えると、『何ですか、それは』とクスクスとおかしそうに笑う声が、俺の耳朶をくすぐった。
さて、エルサも就寝の準備が出来たようだし、そろそろ筆を置くとしよう。ここからは配信してやらない。今日もいつもと変わらない一日だった。だけど、そんな日々の積み重ねが愛おしい。
●●年●●の月●●の日
こうして空を見上げていると、かつてアバン先生とベンガーナ北部の森の中で交わした会話が思い起こされる。あの日もこんな風に空一面に星々がきらめく夜だった。
……そうですね。万が一のことなど考えていてはいけませんね。……では、ポップ。先ほどの話はいったん忘れてください。
……『いったん』では無く、俺はずっと忘れていますからね。絶対ですからね!
はいはい、分かりました。では、ずっと忘れていてください
どうしてかな。随分前の事なのに、こうして一言一句アバン先生と交わした言葉を覚えている。
ヒュンケルが瓦礫だらけの石畳の上でごろんと横になっている。その隣ではダイが高いびきをかき、マァム、バダックさんも夢の中だ。昼間にヒュンケルと死闘を繰り広げたダイはもう滅多な事では目を覚まさないだろう。先ほど寝返りを打った拍子にダイの身体から布が落ちたのを直してやったと言うのに、もうずれている。
ヒュンケルは一見、規則正しい寝息を立てているように見えるが、こいつは油断ならない。さっきも皆が寝静まった後一人起き上がり、俺達の元から去って行こうとした。俺はその事をなんとなく察していたので、それに気づきどうにか諭したが、もう一度同じことをしないとも限らない。
もちろんヒュンケルが自分の果たすべき役割を放棄して逃げようとしたわけで無い事は分かっている。むしろ逆だ。こいつは自分一人でケリをつけるために、俺達の側から離れようとしたんだ。
本来、不器用で一本気な漢だからな、ヒュンケルは……。俺の提案とは言え、今のように姿形を変えて他者を欺く事が我慢ならなくなって思わず行動に移した、そんなところか。特に、自身が滅ぼした国の兵士であるバダックさんと接した事で、その思いがより強くなったのだろう。
……いかんな。こうして手を動かしていても、睡魔が襲って来る。眠気覚ましにちょうどいい。先ほどの奴とのやり取りを日記に残しておこう。
『……行かせてくれ、ポップ。俺は自身の犯してしまった罪を償わなければならない』
研いだばかりの鋼の剣を片手に、悲壮な目で俺をじっと見つめていたヒュンケル。俺とヒュンケル以外は皆、泥のような眠りについていた。そんなヒュンケルに対して俺は、無言のまま氷の槍を周囲に展開させた。宙に浮かぶ13本の氷が星明りを反射して、ちりりと冷たそうに震えていたのが何故か記憶に残っている。
その冷たい氷の槍の先端が向かっていたのは俺だった。
『何のつもりだ』、と問いかけたヒュンケルに、俺は『お前が俺達の元から去ると言うのなら、俺は俺自身を殺すよ』と応えた。何を馬鹿な、と顔を歪めるヒュンケルだったが、宙に浮かぶ氷の槍の一本が突然加速し俺の頬を掠め後ろの壁に突き刺さったのを見て、ようやく俺が本気なのを悟ったようだった。
『……お前のような常識外れの弟子を持って、さぞやアバンも苦労した事だろうな』
その捨て台詞に俺が『常識外れの弟子なら俺より先にいたようだから、慣れていたと思うぜ』と言い返すと、ヒュンケルは苦虫を噛み潰したような顔をした。
……こんな所か。さすがに眠気に勝てなくなってきたが、東の空がいぶし銀のようにぼうっと明るくなってきた。今からヒュンケルも抜け出したりしないだろう。少し俺も眠らせてもらうとしよう。
●●年●●の月●●の日
自分が何者なのか分からず気に病んでいたダイを元気づけたくてやってきたキャンプだが、思いのほか俺が楽しんでしまった。うつらうつらしながら釣り糸を垂らした釣りと言い、ダイやゴメと一緒に囲んだキャンプ飯。アバン先生との二人旅で感じていたような穏やかな時を過ごす事が出来たのは、望外の幸せだった。
マァムや姫さんに声をかけなかったのは悪かったけれど、来て良かったな。なんだか、肩に乗っていた重しのような物が束の間だけど消えたような気がする。
ダイはどうだっただろうか? 少しはうつうつとした気持ちが晴れただろうか? そうだと良いんだが。バダックさんに借りた、2、3人が横になるのがせいぜいといった所の小さな三角テント。枕元に置いたオイルランプに照らされたダイの寝顔を見つめてると、そんな思いが胸中を占めたが、同時にずっと感じている罪悪感も鎌首をもたげ始める。
……ごめんな、ダイ。俺、本当はお前の正体を知っているんだよ。知っていてお前に黙ってるんだ。全部俺のため。俺がその方が楽が出来るって浅ましい考えを抱いているから。お前が心の底から自分の正体を知りたいと願っている事を知っているのに……。お前がまだ見ぬ両親の愛に飢えている事を知っているのに……。
いっそのこと、原作なんて知らなければよかった。知らなければ、こんな風にお前に罪悪感を抱く事も無かっただろうに。お前の曇りの無い蒼い瞳を向けられて、思わず目を背けたくなるような思いもしなくて良かったはずなのに……。
●●年●●の月●●の日
ゴメっていったい何者なんだろう?
いや、いきなりこんな疑問を抱いたのには理由がある。ただ、なんとなく日記に残したくなったのだ。今、パトス湖の青々とした水面は初夏の朝陽を吸って黄金色に輝いている。
朝、俺が狭いテントの中で目覚めると、ダイの枕元で眠っていたはずのゴメが、いつの間にか俺の胸の上にちょこんと乗っかってすやすやと眠っていた。もちろんそれが冒頭の疑問の発端というわけでは無い。
ダイはあの寝相だ。狭いテントの中であいつの寝相の悪さから逃れる様に俺の胸の上にゴメが避難してきた、と考える事も出来る。だから俺が冒頭に抱いた疑問は全く別の事が発端だ。
昨日俺は寝入る前に暗い感情に支配されていた。それは、昨日の日記を読み返しても明らかだ。そんな感情に支配された時の翌朝の目覚めはいつだって最悪。それは、焦燥に胸を焼かれるような、悔恨の海に身を包まれるような感覚。
だけど、どうしたわけか今日の俺の目覚めはついぞ感じた事の無い程心地よいものだった。俺はその理由が、俺の胸の上で翼を折りたたんで寝息を立てていたゴメにある様な気がした。
自分でも馬鹿な事を言っているという自覚はある。それは、天幕の隙間から差し込んだ一条の陽の光を浴び、その黄金の身体をより一層神々しく輝かせていたゴメを目にしたから、そんな風に感じただけなのかもしれない。
守り神……。原作で最終的にゴメにどのような役割が与えられていたのかを、俺は知らない。もしかしたら、何の役割も与えられていなかったのかもしれない。だけど俺は何の確証も無く、その3文字が不意に脳裏に浮かんだ。
……いや、よそう。ゴメはゴメだ。ダイの友達で、今では俺の友達でもある。『守り神』、なんて大仰な言い方はゴメに似つかわしくないな。
さあ、今日はパトス湖で水遊びだ。そのために水着も持って来ているんだ。いつまでもテントの中で眠ったまま起きてこない寝坊助達を起こすとしよう。
●●年●●の月●●の日
……どっと疲れた。今日は日記をつけるのも早々に終わらせて、早く就寝しよう。天蓋付きのベッドで眠るなんて、アバン先生とフローラ様の招待でカールの城に泊めてもらった時以来の経験だから、寝付けるかどうか不安だが。
今日を含めて3日間、俺達はノヴァの家で厄介になっている。さすがは、かつてのリンガイア王国を代表する武門の名家ヴァレスタイン家の客室だ。天幕付きの大きなベッドだけではない。質素ながらも品のある調度品の数々。おそらくこの部屋に隣接しているマァム達の部屋も立派な造りなのだろう。
ああ、そうだ。何故ノヴァの家に厄介になっているかをまだ書いていなかった。それは社交ダンスの習得のためだ。講師はノヴァの若奥さん、つまりクラリスというわけだ。
これまで職場であるリンガイアの宮廷で開催される社交ダンスからは何のかんのと理由をつけて逃れてきたが、顧問の仕事について2年。それもそろそろ限界が来ていた。ダンスなんて、フォークダンスくらいしか経験の無い俺だが、国内ばかりか国外の有力者と交流を深めるのにダンスは必須です、とノヴァばかりかカミーユ君にまで懇願されてはもう逃げてはいられない。
ていうか、カミーユ君だって社交ダンスとは縁の無い子供時代を過ごしているはずなのに、今では上手に踊っているもんな。俺だけがいつまでも逃げていては恰好がつかない……か。しかも、ノヴァが普通に踊れるのもしゃくに触るしな……。あいつが自分の結婚披露宴でクラリスを相手にそれなりに躍れていたのを見た時は正直驚いたぜ。
しかし、マァム達まで俺の社交ダンス合宿に付き合うとは思わなかった。クラリスが『ポップ君の奥さんになるのなら、社交ダンスぐらいできなくてどうするの? それとも皆さんは、ポップ君が他の女性とダンスをしている所を指をくわえて見ているつもりなのかしら?』と、発破をかけている所を偶然見かけたが、もしかしてそれが理由なのだろうか?
ああ、疲れているがこれも記録に残しておこう。今日だけの話だが、マァム、メルル、エルサの3人で一番筋良いとクラリスに褒められていたのは、意外と言っては失礼だがエルサだ。彼女はもともと音感に優れているのか、練習を始めて直ぐにテンポよくステップを踏み始めた。それはまるで背中に翼があるかのような軽やかな舞だった。
そしてエルサに続くのはメルルだ。彼女はエルサのような宙を舞うかの様なステップを踏まないが、基本に忠実に指先から目線といった一つ一つの所作を丁寧に行う事で、まるで舞うたびに彼女の指先から雫が零れるような舞だった。
最後にマァム。実をいうと練習が始まる前は、日頃から身体を動かしている彼女が一番こういうのが得意なのではと思っていたのだが、その予想は外れた。多分マァムは、舞踏会を武闘会と勘違いしているんじゃないだろうか。ステップを踏んでいたはずなのに、気が付いたら床板を砕くほどの鋭い踏み込みに変わっていたり、挙句の果てには、ダンスの流れの中でマァムの腰に手を回した俺の脇腹に肘が入れられるという事が多々あり、そのたびにクラリスが額に手を当て深いため息をついていた。
……もっとも、人の事は言えない。俺もさんざんマァム達の足を踏んだり、足を絡ませたりして情けない恰好を晒してしまった。まだ合宿初日だ。4人で社交ダンスをマスターして、ノヴァとクラリスのようにいつか結婚披露宴で堂々と舞えるように頑張ろう。
『Shall We Dance』ってやつだぜ。
●●年●●の月●●の日
悩んでいる。何に悩んでいるかって? それはエルサへの贈り物についてだ。姫さんに指摘されたんだ。メルルにはペンダント、マァムにはイヤリングを渡しているのに、エルサには何も渡していないじゃないかと。
いや、実は皆でアバン荘で暮らし始めてから俺もその事は気付いていたんだ。だから姫さんに言われるまでも無く、俺もいくつか候補を考えていた。
だが、俺がその候補を口にすると、姫さんにゴミ虫を見るような眼で見つめられた後、海より深いため息をつかれてしまった。そんなに駄目だったのだろうか。俺が考えていたのは、1対のモーニングスターだ。もちろんエルサに誰かを撲殺させるつもりは無いので、鋼で作ったりはしない。俺が考えていたのは、前世で言う所のマラカスのような、フリフリしたらシャカシャカと軽快な音を奏でるモーニングスターに扮した楽器を作るつもりだったのだ。
だが、それではどうも駄目だったらしい。もう少し考えてみよう。どうしても思いつかなかったら、しゃくに触るけれど、姫さんに頭を下げて助言を請うとしよう。
●●年●●の月●●の日
もうすぐアバン荘が完成する。完成すれば、今は世界各地でバラバラに住んでいるルームメイト達がネイル村に集まる事になる。ネイル村の大工さん達は、マァムとレイラさんに頼まれたとは言え、多忙にもかかわらず突貫でシェアハウスを仕上げてくれた。それも、あまり類を見ない構造の家だというのに。
本当は最後に俺がアバン荘のセキュリティレベルを上げるために、防犯対策の数々を施した魔道具をアバン荘の中心に設置するつもりだったんだが、大工さん達から口を揃えて言われてしまった。
『押し込み強盗? ……。この家、いや、しぇあはうすだったか? いずれにしてもここには、
それを聞いて俺は二の句が継げず、防犯用の魔道具を設置する事をやめたのだった。
●●年●●の月●●の日
今日は、ようやくホイミンに自作の本を手渡す事が出来た記念すべき日だ。何の本かって? ふふふ、医学書さ。と言っても、人間相手の医学書じゃない。そう、魔物や魔族についての医学書。
もっとも、偉そうな事を言っても、俺が書き上げた本はデルムリン島やエウレカの里にいる魔物、そしてラーハルトやロン・ベルクと言った限られた魔族を診て把握できた程度の事柄しか記載できていない。
本当は地上界より遥かに多くの魔物や魔族のいる魔界に行って、もっと様々な角度からの知見を加えた医学書に仕上げたかった。だが、以前その事について相談したラーハルトに首を振られた。その時にあいつに言われた言葉を俺は忘れた事は無い。
『氷の大賢者 ポップ・マーカストンの名は、魔界では畏怖の象徴だ。いくらお前が善意で診たいと言った所で、それを信じる奴はいない』
分かっている。確かにラーハルトの言う通りだった。俺はあまりにも多くの魔物や魔族を殺した。いくら『生きるためだった』と言った所で、魔界に住む魔物や魔族には通じないだろう。BJは人間ばかりか動物、果ては人工知能を搭載したコンピューターまで治療していた。彼を信奉する俺としては、彼に習いこの世界に生きる全ての者に対する医者になる事を目標としていたが、気づけばこの手は、魔族や魔物の流した血によって赤く染まっていた。
だから俺は後世に託す事にした。ホイミンには、いつかベンガーナ医療大学の門戸を叩いた学生の内からこれはという生徒が現れたら、遠慮なく渡してくれと託した。ほんの序章と言った程度の魔族を対象とした医学書だけど、その道を志す者にとっては、光の届かない宵闇の中で最初の一歩を踏み出す際にその足元を淡く照らすぐらいの役割は、果たせるかもしれない。
いつか、俺のようなしがらみのない、俺のように手の汚れていない、無垢な学徒があの特別な医学書を手に取る事を願って筆を置こう。
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「なんだ、まだ全然整理できてないじゃないか。何やってたんだよ、カナタ――って、どうした、大丈夫か、お前?」
床に座り込んで一枚の紙片に目を落としていた少年を、一匹の魔物が覗き込むような仕草をする。咄嗟に少年は身に着けていた白いローブの裾で目元を拭い顔を上げた。
「あ、ああ、ごめんよ、スラリン。駄目だね、こういうのを片付け始めると、俺って一つ一つに目を通すたちで、なかなかはかどらないんだ」
「……ふーん、まあ、良いんじゃないか。どうせお前にしか読めないんだし、この部屋が散らかっていても別に困る奴もいないし。まだ卒業まで半年以上あるんだろ? ゆっくりやれよ。それより、サーラがそろそろ晩御飯にするから来いってさ。今日は泊っていくんだろ?」
「うん、そのつもり。あ、そうだ。大学の食堂から甘く煮た黒豆を分けて貰って来てるんだ。後で皆で食べようよ」
集めた紙片を束ね側の箱の中に入れた少年はリュックサックを背負い立ち上がるが、その間にスラリンと呼ばれた魔物が少年の肩に飛び乗り、嬉しそうに身体を震わせた。
「やった! それってポップが良く持って来てくれていた奴だろう? サーラも大好物だから喜ぶに違いないぜ」
「それは良かった」と応えた白衣のローブを纏った少年は、肩に青い姿の魔物を乗せたまま、外に向かって歩いて行く。その途中、一度だけ部屋の中を振り返った少年は無言のまま口だけを動かした。
その口は(また来ます、先輩)と動いていたように見えたが、それに気づいた者は誰もいなかった。
日記ってなかなか難しいですね。書いていて、こんなの日記じゃないよ、と直す事たびたび。自分が日記なんて書いた事が無いから余計に、ですね。