トンチキ魔法で小さくなったクリスとヒューゴの話。

2003.07.10初出(個人サイト)

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かわいい彼女

 ビュッデヒュッケ城の朝は早いが、中でもルイスの朝はけっこう早い。

 朝、主人であるクリスが目覚めるよりも先に起床し、着替え、朝食の準備をする。ビュッデヒュッケ城では専属料理人とも言えるメイミがレストランを預かっているのだが、クリスの朝食だけは自分に作らせてほしい、と頼み込んだのだ。

 朝食の準備を完璧に終えてから、ルイスはクリスの私室へと向かった。とんとんとん、と軽く扉を叩く。

「クリス様、おはようございます、ルイスです」

 ここまではいつもと同じ。日課といえるもの。

 だが。

「……クリス様?」

 いつもなら、ルイスが起こしに来る前に、クリスはもう起きていて、硬質だが美しい微笑とともにおはようの挨拶をするのだが、今日はクリスの部屋からは物音一つしなかった。

 確か昨日は遅くまでクイーンとリリィとエステラにつかまって酒場に居たはずだ。もしかしたら、飲みすぎで具合を悪くしているのかもしれない。生真面目な性格から予測できる通り、クリスはあまり酒が飲めないのだ。

「クリス様?」

 幾分語気を強めて、再び扉を強く叩く。だが、それでも返事はない。

 しばらく迷った後、ルイスは扉のノブに手をかけた。

「失礼します……」

 ビュッデヒュッケ城は言ってしまうとなんだが、もともと部屋数だけは多いボロ城である。急激に人が増えてあちこち改装され、活気もあふれてきているが、だからといって設備が急に新しくなるわけもない。そんなわけで、クリスの部屋も鍵なんて上等のものはついていない。血迷った輩が押し入ったらコトだから鍵はつけるように、とルイス他クリスを慕うゼクセンの騎士全てが口を揃えて言ったのだが、「何かあったとしても大抵の男なら撃退できるさ」というクリスの発言により却下されている。

 そのときは心底不安になったものだが、今は逆にそれが幸いした。

「クリス様? いらっしゃらないんですか?」

 声をかけながら、恐る恐る私室に踏み入る。窓際まで近づいたルイスは、ベッドがふっくらと盛り上がっているのを見て、ほっと胸をなでおろした。どうやら、疲れてまだ寝ているだけのようだった。

「クリス様、もう朝ですよ。起きてくださ…」

 ゆさゆさと揺さぶるルイスの手がふと止まった。

 ベッドの中で眠る人物に、見覚えはある。滑らかな真珠の肌。月光を束ねた銀の髪。今は閉じられて見えないけれど、強い意志を宿す紫水晶の瞳。

 だが。

「……たっ、たいへんだっ……」

 呻くように呟いて、ルイスは慌てて部屋を駆け出した。残されたクリスが、その慌しさにようやく目を覚ます。

「……ん……みゅ……」

 手のひらでごしごしと目をこすってから、ゆっくりと起き上がる。きょときょと、とその視線が不思議そうにめぐらされる。

「……ここは……?」

 ベッドの上。クリスとまったく同じ容姿を持つ7,8歳前後の少女が、きょとんと首をかしげた。

 

 

* * *

 

 

 不幸中の幸いとでも言うべきか。

 朝食のピークにはまだ早い時間帯だったためか、食堂にはほとんど人影が見当たらなかった。ぽつん、とある人影はテーブルに突っ伏して眠っているようで、これは無視してても問題は無い。

「ほら、よく噛んで」

「ん、うん」

 拙い手つきで、だが一生懸命まくまくとホットケーキにかじりつくクリスに、ヒューゴは思わず目を細めた。いつもジョー軍曹に弟扱いされているだけに、こうして逆にお兄さんぶれるのが少し嬉しい。まぁ、相手が小さなクリスというのが、いささか複雑だけれど。

 サロメとシーザー、ルイスは姿を消した大きいほうのクリスのアリバイ作りのため、ここにはいない。また新しく別の人間に事情を話して様子を見てもらうのも躊躇われて、現在ヒューゴが子守を買ってでたのである。

 本当ならば、そんなふうにゆったりと過ごせる時間など、あるはずがない。だが、今まで休みらしい休みがなかったことと、意見を交し合うべきクリスが小さくなってしまったことから、シーザーが「ついでだから暫く休みにしとけば」などと言ったのだ。

「ねえねえ、ここってどこなの?」

「ビュッデヒュッケ城っていうんだけど……そういえばクリス、目が覚めたとき知らないヒトばっかりだったのに泣いたりはしなかったんだな」

 8歳の少女が、目が覚めたらぜんぜん見知らぬ土地にいたわけである。普通ならば両親を恋しがって泣き喚いてもおかしくはないのだが、クリスはあっさりと状況を受け入れた。

 豪胆というか柔軟というか……とにかく、小さい頃から強い子だったんだな、と思う。

 腕が、とか体力が、とかではなく……心がしなやかなのだろう。

 ヒューゴとしては誉め言葉のつもりで言ったのだが、それを聴いたクリスの表情は僅かに曇った。

「クリス?」

「……だって、パパ、も……ママ、もいないから。だからね……じいが、知らないところへ連れてきてくれてのかなぁって思ってたの」

 じくり、と胸が痛んだ。

 詳しい事情は聞いていないが、この少女はきっと幼いころから孤独だったのだろう。自分にも父親はいなかったけれど、それでもルシアがいた。アイラだってルルだっていたし…それに、ジンバもいた。

 今はもう居ないヒト。兄のように慕っていた……クリスの父親。

 自分のせいではないのだけれど、クリスからワイアット……ジンバの時間を奪っていたようにも思えて、少し後ろめたくなる。

 表情が沈んだヒューゴを察したのだろう、クリスが精一杯の笑顔を向けてくれた。

「でもね、それだけじゃないんだよ。なんか見たことがあるような気がしたの。お兄ちゃんも……他のおじちゃんたちもなんだけど。ぜんぜん怖くない人だよってわかったの」

「ふうん……じゃあ、意外と記憶は残ってるのかな?」

「よくわかんないけど……」

 ヒューゴの言葉に、クリスは曖昧に首をひねる。それはそうだろう、8歳の少女に、残っているかどうか定かではない記憶の話をしても難しくて理解しがたいに違いない。

 ちらり、と目の前のクリスに視線をやる。

 ……確かに、かわいい。大人のクリスはどこか硬質で、水晶の像に命が宿っているような印象を受けたものだったが、幼い頃のクリスは天真爛漫で、本当に可愛 らしいのだ。こんな少女をギョームに見せでもしたら、まず間違いなく追い掛け回されるだろう。鎧姿でもなく、旅姿でもなく、年の近いアラニスの服を借りて 着ている小さなクリスは、文句なしの美少女だった。

 鑑定屋のほうには近寄らないでおくとして……さて、これからどうしたものか。

 ぺったぺった、と近づく暢気な足音に、ヒューゴは考え込んでいた意識を前に向けた。いつの間に近づいたのやら、保護者とも言えるジョー軍曹が片羽(?)を軽く振っている。

「よう、ヒューゴ、早いな。……ところで、そのちびさんはなんだ?」

「あ、えっと、その……」

「ちびさんじゃないよ、アヒルさん。クリスだよ」

「……『クリス』……?」

 ヒューゴが言い訳を考えている間に、小さなクリスが胸を張って答える。その言葉に眉をひそめたジョー軍曹は、暫くしてああ、と頷いた。

「もしかしてお前さん、クリス・ライトフェローか」

「そうだよ。アヒルさんは?」

「なかなか利発なお嬢さんだな。俺はジョルディだ」

「ジョルディさんはヒューゴお兄ちゃんのお友達なの?」

「まぁな。保護者とも言えるが……」

「『ほごしゃ』ってなぁに?」

「そうだな、ヒューゴのお兄さんみたいなもんだ俺は」

「ふうん……お兄ちゃんのお兄ちゃんなんだ。すごいねっ」

「……ジョー軍曹……?」

 異様な事態にもかかわらず、平然と会話できる軍曹はすごいかもしれない。大体なんでこれで『クリス・ライトフェロー』だと認識できるのか。

 ……まぁ、誰がどう見ても『クリスの小さい頃の姿』にしか見えないからだろうけれど。

 困惑した表情で2人(?)を眺めるヒューゴに、ジョー軍曹はくっ、と喉の奥で小さく笑った。

「若い軍師さんとあまり若くないゼクセンの軍師が額を寄せて集まってたし、何よりお付の少年が血相変えて走り回っていたしで、何かあるんだろうとは思っていたんだ。それに、さっきからゼクセンの騎士連中がクリスを探してうろうろしてたぞ。……ほら、噂をすれば何とやらだな」

 ばさっと片羽が示す先には、ゼクセン騎士の中でも有名な『誉れ高き6騎士』の中のひとり、パーシヴァルと、同じくボルスとが何やら軽く言い争いをしながら歩いてくるのが見えた。

 以前は『グラスランドの敵』『鉄頭』としか見ていなかったゼクセンの騎士たちが、実はそれぞれの人生を歩んできたひとりの人間なのだ、と認識しはじめた のもつい最近のことである。だが、そのゼクセン人の中でも特に『誉れ高き6騎士』はいろんな意味においても個性豊かで、強烈に印象を塗り替えられてしまっ た。

 『クリス様ファンクラブ』とはクリスに憧れるセシルの命名によるものだが、その熱烈さはもはやファンクラブすら乗り越えて、親衛隊の域にまで達しているのではないかとも思える。なんというか、命がけで足を引っ張り合っているような雰囲気が、外から覗えるのだ。

 ……それはさておき。

 これはマズイ。このふたりに小さなクリスの姿が見つかったら、どれほどの大騒ぎになるか。最悪の場合、ヒューゴが原因なのではないかと疑われ、再びグラ スランドとゼクセンの間に不信感が芽生えるかもしれない。いや、あるいは2人はチャンスとばかりに、小さな貴婦人に対するかのようにクリスに己を売り込 み、人目を思いっきり惹いてしまうかもしれない。こっちのほうが遥かに可能性が高そうだが。

 立派な騎士たちにかしづかれる姫君=クリス。

 なんとなくその想像は、ヒューゴの感情をささくれ立たせた。

 ホットケーキを食べ終わり、両手でグラスを支えてオレンジジュースを飲んでいるクリスの耳に、精一杯の何気なさを装って、そっと囁く。

「そろそろ、お散歩に行こうか?」

「うんっ」

 元気良く頷いたクリスが、ぴょこんと椅子から飛び降りる。それを見送ったヒューゴの視界の端で、ジョー軍曹がくつくつと喉の奥で笑っているのが見えた。思わず憮然としてにらむ。

「……なにかおかしい?」

「いや、こちらの話だ気にするな」

 あっさりと大人の余裕でジョー軍曹が言い切るのに、ますます表情が渋くなる。これ以上は何を言ったところで無駄と悟ったヒューゴは、クリスに呼びかけよ うとして……止まった。この距離では名を呼べばパーシヴァルたちにまで聞こえてしまう。なにしろ、クリスが好むらしいという出所の怪しい噂一つで果物を買い 占めてしまうぐらいの熱狂的ファンである。まるで主人の声に反応する犬(と呆れて言ったのは確か母ルシアである)のように、クリスの名前に反応することは 間違いない。

「ほら、行こうか」

「はぁい」

「気をつけてな、ヒューゴ」

 ジョー軍曹に見送られ、きゅっと仲良く手をつないで歩き出そうとしたとき。

 パーシヴァルの鋭く探るような視線と絡まった。

(……あ、やばい……!)

 反射的に硬直してしまったその間に、がちゃがちゃと鎧の音をさせてパーシヴァルが駆け寄ってきた。一見温厚で冷静な視線がヒューゴの上をかすめ、小さなクリスに注がれる。

「おはようございます、ヒューゴどの」

「……え、と。おはようございます、パーシヴァルさん」

 静かな圧力に気おされて、思わず詰まりながら挨拶を返す。その間もパーシヴァルの視線は隣に立つ小さなクリスから離れることは無い。

「パーシヴァル、いきなり走り出したから驚いたぞ!」

「ああ、それはすまないな」

 遅れて現れたボルスの文句をさらりと受け流すパーシヴァルは、まだ小さなクリスを見つめたままである。気まずそうに立ちすくむヒューゴとパーシヴァル と、遅れて現れたボルスとを交互に見つめて、小さなクリスはきょとん、と首をかしげた。それほど異様な空気が漂っていたのだ。

「ヒューゴどの」

「え、なに?」

「こちらの小さなレディはわたしたちに紹介してくださらないのですか?」

「あ、いや、その……」

 ようやくクリスから視線を外して、パーシヴァルはにっこりと笑うとヒューゴに問いかけてきた。その瞳がちっとも笑みを含んでいないのがやけに不気味である。手段を選ばなさそうな人ランキングでトップ3に入るらしい、という噂も納得できる。誰が言い出したのかは知らないが。

 きゅ、と小さなクリスとつないだほうの手が引っ張られた。

「なに?」

「ヒューゴお兄ちゃん、あのヒトたち騎士様なの? すごいねぇお兄ちゃん、お友達いっぱいだねっ」

 瞳をきらきらと輝かせて、嬉しそうに、楽しそうに高く澄んだソプラノを響かせるクリスの姿は、ものすごくかわいらしい。目を細めて眺めていたボルスがふと、ぱちぱちと瞬きをした。

「突然で不躾だが、もしかしてクリス様のご親戚か何かなのか? どことなく面影があるのだが……」

 面影があるも何も、ずばり本人なのです、とは言いにくい。だらだらと冷や汗が背中を伝う。

「……ヒューゴどの?」

「なにやら顔色が悪いが、大丈夫か?」

 ふたりそろって顔を覗き込まれて、とうとうヒューゴは叫んだ。

「ごめんなさいっ、オレ用事があるからッ! …フーバー!」

 ピィィッ! と鋭く指笛が吹き鳴らされる。瞬く間にばさりと風を巻き起こして大きな有翼の獣……フーバーがヒューゴの目の前に現れる。

「乗って!」

「キュィィィィィィィィィィッッッ!!」

 飛び乗り、クリスを引っ張り上げた刹那、大きな鳴き声をひとつ残してフーバーは勢い良く大空へと飛び上がったのだった。

 

 一方、残された誉れ高き騎士たちとダッククラン有数の戦士は。

「……ジョルディどの、ヒューゴどのはどうされたのだ一体?」

「もしかすると、クリス様によく似たあの少女に関係あるのではありませんか?」

「さぁな、あいつもまだ子供だからな」

「何か我々に隠しているのではないのか、ジョルディどの!!」

 何かにつけ頭に血の上りやすいボルスが大声で叫ぶ。だがそれに気おされた風もなく、ジョー軍曹はばさばさと片羽を振って見せた。

「俺は何も知らんが、どうせ子供の隠し事さ。それよりもお二方、そろそろレストランに向かわないと朝食を食いっぱぐれるんじゃないのか?」

 内心の苦笑を押し隠して、ジョー軍曹は悠然とそう言ってのけたのだった。

 

 

* * *

 

 

「うわぁ、キレイだねえ」

「……そうだね」

 表情を曇らせるヒューゴの隣で、クリスは楽しそうにはしゃいでいる。

 どこまでも広がる青い青い空の下に、同じように果てなく広がる緑の草原。アムル平原を渡る風も、きらりきらりと暖かい熱を届けてくれる光もひどく心地よくて、ヒューゴの軽いパニックを収めるには十分すぎるほど優しかった。

 別に、あせることはなかったのだ。ボルスとパーシヴァルはクリスの腹心の部下である。ゼクセンとグラスランドの心をひとつにまとめ、ハルモニアに当た る、と考えているクリスに背くような振る舞いをするわけが無い。あの時、苦笑いでもしながら「エステラさんの魔法で小さくなったみたいなんですよ」とでも 言っておけば、ふたりは納得したに違いない。

 だが、そのときはそういう選択肢がちらとも思い浮かばなかった。ただ、隠さなければ、と思った。

 なぜ……?

「ヒューゴお兄ちゃんは楽しくないの?」

「え、あ、そんなことはないよ」

「ホントに~?」

「……本当だよ」

 ぱたぱたと走り回る音が消えたかと思うと、突然クリスが少し首をかしげながら覗き込んできた。至近距離で見つめ返した、まっすぐな紫水晶の瞳がどこまでも自分の嘘を見抜いて貫くように感じられて、少し辛い。

 嘘が、つけなくなってしまう。

 今ならば、ゼクセンの騎士たちがクリスを指して「女神ロアの現し身」とひそかに呼ぶのも解る。曇りの無い瞳に宿ったまっすぐな眼差しは、密かに蓋をした心の深遠まで届き、隠していた罪の意識を引きずり出すように思えてしまう。

 それでも。

(他のヒトに、見せたくなかった)

 宝物をしまいこむような、子供じみた独占欲。

 こういうときに思い知らされるのだ。いくら『英雄』の意志を継ごうとも、『英雄』と呼ばれようとも……まだまだ未熟な子供に過ぎないのだ、と。

 どうすれば、もっと大人になれるのだろう。護りたいひとやものを護り通せるだけの力と、何物にも惑わされることのない、揺るぎのない意志とを持つ、理想の『英雄』に。

「ヒューゴお兄ちゃ、……っっ!」

「クリス!?」

 不意に。

 クリスが苦しげに胸を押さえた。ぐらりとかしぐ身体をとっさに引きとめ、自分の胸にもたれかからせる。いくら柔らかい草の上とはいえ、地面に倒れこめばケガをしかねない。

「どうしたんだ!?」

「……なんでも、ないよ。ただちょっと……ぎゅっ、てしただけで…」

「クリス……」

 心配をさせまいと懸命に微笑を浮かべようとするクリスに、胸が痛くなる。己のことのみにとらわれていた自分が恥ずかしく、苛立ちが沸き起こった。

 そうだ、何を考えていたのだろう。自分はどれだけ背伸びをしても、まだ子供なのだ。だから理想に近づけるよう、少しずつ努力をしていくしかない。目に映るひとつひとつを、精一杯護っていくしかない。

 ……そして、今は小さなクリスを護りたかった。自分を頼ってくれる彼女を。

「フーバー、ごめん、急いで!」

「キュィィィィィィィィィッ!」

 緊迫した声の調子を聞き取ったのだろう、慌ててフーバーに飛び乗ると、聡いグリフォンは鋭い鳴き声を上げて、ビュッデヒュッケ城に向かって真っ直ぐに翔けてゆく。きゅっと口元を固く結んだヒューゴはクリスを抱きかかえたまま、ただ前を見つめていた。

 

 

* * *

 

 

 フーバーがビュッデヒュッケ城の庭に着地するやいなや、ぐったりとしたクリスを抱きかかえ、ヒューゴは一目散に走り出した。目的地はクリスの私室である。

「失礼しますっ」

 乱暴に部屋の扉を開けると、そこには驚いた顔のアップルがいた。手に彩り豊かな服とを抱えているところを見ると、この機にクリスをいろいろと『飾りつけ』しようと思ったのだろう。

「アップルさん……クリスが苦しそうなんだ……。とりあえず寝かせようと思って帰ってきたんだけど……」

「話はシーザーから聞いているわ。多分大丈夫よ、ヒューゴくん。魔法が切れ掛かっているだけだと思うわ。ほら、後ろ向いて」

「え、なんで?」

「……たとえ小さいといっても、女の子の着替えを見るもんじゃないわよ」

「わっ、分かったよっっ」

 バネ仕掛けの人形のようにきゅっ、とヒューゴが背を向けてから、アップルはそっとクリスを寝かせた。

 魔法が切れてもとの大きさに戻るのならば、子供の服は窮屈なだけである。ゆっくりと衣服を脱がせてから、アップルはクリスの上からそっとシーツをかけた。ベッドに背を向けたまま硬直しているヒューゴに、柔らかく笑いかける。

「はい、もうこっちを向いてもいいわよ」

「え、あ、うん」

 多分に笑みを含んだ声に、ヒューゴは曖昧に頷くと振り向いた。

 ベッドに寝かされたクリスは、まだ少し顔色が悪いが、呼吸はだいぶ落ち着いているようだった。

「このままそっとしておけば、いずれ魔法が切れて元に戻ると思うの。あとは任せてちょうだい」

「でも……」

 アップルのいうことも解る。自分がこのままこの部屋にいたところで、きっと何の役にも立たないだろう。だが、なぜか妙に離れがたいものがあった。

『ヒューゴお兄ちゃん』

 脳裏にあどけない声が甦る。そこには無条件の信頼があった。けれど、きっと元に戻ってしまえば、また前のようにぎこちなく声をかけるのだろう。どこかよそよそしく、一歩退くような声音で。

 そんな声で呼ばれたいわけじゃない。そんな辛そうな、痛みを堪えるような表情で見て欲しいわけじゃない。

 ルルのことは忘れてはいないし、クリスに対する憎しみを棄てたわけでもない。ただ、いつまで経ってもヒューゴを見るたびに自責の念に駆られるクリスの様子は、見てて痛々しかった。

 だから、小さなクリスが自分に向ける瞳の中に、何の痛みも浮かんでいないのが、本当は嬉しかった。

 たとえ僅かな夢の間だけだとしても。

「……あれ……?」

 小さな呟きとともに、ぽかりとクリスの瞳が開かれた。心配そうにヒューゴが覗き込む。

「クリス、どこか痛いところはある?」

「ううん、ないけど……なんかね、すっごく眠いの。まだお昼なのになぁ……」

「疲れてるんだよ多分」

「そっか……」

「ヒューゴくん」

 ふと控えめなアップルの声がヒューゴを呼び止めた。振り向くとアップルがくすくすと笑いながら手招きをしていた。

「なんですか?」

「クリスちゃんとの最後の時間、あなたに全部あげるわ」

「……は?」

「要するに、邪魔はしないってコトよ。じゃあまた、あとでね」

「……へ?」

 素っ頓狂な返事に構うことなく、アップルは颯爽と立ち去った。その素早さたるや、呼び止める暇も無い。

 ぱたん、と軽い扉が閉まる音がして、ようやくヒューゴは顔を真っ赤にした。

「……絶対、何か誤解してるよなアレは」

「ほえ? なにが?」

「なんでもない」

 そう、なんでもないことだ。アップルは誤解をしたようだが、自分はクリスにそういう『特別な感情』を持っているわけではなくて、懐かれていたから、相手をしていたから、名残惜しいだけだ。

 そうに違いない。

 ……おそらく。多分。

 懸命に自分に言い聞かせるヒューゴに、クリスが何かを思い出したらしく、小さくむぅ、とうなった。

「クリス?」

「あのね、お兄ちゃん。クリス、もっとフーバーに乗ってみたかったな。お兄ちゃん、またクリスを乗せてくれる?」

「……クリスが望むならね」

「約束だよっ」

 元気良く差し出された指に自分の小指を絡め、ヒューゴはほろ苦く笑った。

 きっと、魔法が解けて元に戻ったなら、この約束も魔法と同時に解けてなくなるのだろう。覚えているとは思えないし、覚えていたところでクリスが自分に願うことはないに違いない。親友を奪った自分に願う権利はないのだと思って。どんなに小さな望みでも、ヒューゴに対して口にすることは無いだろう。

 ふと。

 訪れた沈黙に視線を落とすと、指を絡めたままクリスが健やかな寝息を立てていた。

 この寝つきのよさはさすが、子供ならではだろう。指を離せば起こしてしまうような気がして、指を絡ませたままただ小さなクリスの寝顔を眺めた。

 

 魔法が解ける、その瞬間まで。

 

「おやすみ、クリスさん……」

 やがて小さな呟きだけを残して、かちゃりと扉が閉められた。

 

 

* * *

 

 

「……あ」

 思わず唇から声が零れてしまい、反射的にヒューゴは隣を見た。てっくてっく、とのんびりした足取りを緩めないジョー軍曹には、どうやら気づかれていないらしい。

 こっそりと安堵のため息を漏らして、ヒューゴはさりげなく進路を変えようとした。が。

「よぉ、クリス」

「……ああ、ジョー軍曹か。今から夕食か?」

「ははは、まぁそんなところさ」

 クリスと顔を合わせるのが妙に気恥ずかしくて道を変えようとしていたのに、あっさりとジョー軍曹がクリスに話しかけた。薄い微笑を口の端に漂わせて、向こうの廊下からクリスがきびきびとした歩調で歩いてくる。珍しいことに鎧を着けておらず、律動的な歩調だけが小気味よく響いた。

 ちらりと隣のダックに湿っぽい視線を向けるが、飄々とした余裕のある態度は崩れそうにない。

 ……つまりは、ヒューゴがクリスを避けようとしているのを知った上で、わざわざクリスに声をかけたというわけだ。

「今日はずいぶんとのんびりしてるんだな」

「本当ならば山のように仕事があるはずなんだが……どうも、風邪を引いていたらしくてな」

「…曖昧な話だなぁ」

「うむ。気がついたら夕方だったのだ。せめて急ぎの分だけでもと思ったのだが…ついでだから今日1日は休みにしよう、とサロメに取り上げられてしまったのだ」

「それで、風邪のほうはどうなんだ?」

「身体の不調は特にはない。どうやらすっかり治ったようだ」

「ははは、良かったじゃないか」

(……なんか)

 すっかり存在を忘れられてる自分の小ささに、ヒューゴの胸のうちにもやもやと灰色の雲がかかる。

 軍曹と屈託なく話すクリスに、僅かなりとも微笑が認められたのが、やけに気に障る。

 昼間はあれほど無邪気な笑顔を見せてくれたのに。今は視線も、言葉すらも向けてくれない。

 それが今までの『アタリマエ』だったはずなのに、酷くいらいらして、自然と険のある声が滑り出した。

「……軍曹、オレ先に行ってるから。じゃあね」

 これ以上軍曹とクリスの談笑を見ていたくなくて、言葉と同時にクリスの脇を通り抜けようとする。それを留めたのは、遠慮がちにかけられた声だった。

「……あの、ヒューゴ……」

「なに?」

「……その。良ければまた、フーバーに乗せてもらえないだろうか……?」

「……クリス、さん?」

 それは、小さなクリスと交わした約束だ。もう忘れられていると思っていた。魔法が解けると同時に、泡のように消えうせてしまうものだと思い込んでいた。

 けれど、クリスは覚えていてくれた。

 まじまじと凝視した先で、クリスが懸命に、たどたどしく言葉を紡ぐ。見上げた頬にさっと朱が散っているのが、やけにかわいらしく見えた。

「それに、その……ヒューゴは『炎の英雄』なのだし、わたしのことは『クリス』と呼び捨てにしてもらって、かまわないのだが……」

「……クリスさん?」

「す、すす、すまない。今のは、忘れてくれ。本当にすまない」

 これ以上はないほど顔を真っ赤にして、それだけを告げたクリスが、ぎくしゃくとした動きで歩を進める。その腕を思わずつかんで、ヒューゴは笑った。

「今度、天気のいい日にフーバーとピクニックに行かない? ……クリス」

 どこまでも広がる青い青い草の海に。

 お弁当を持ってでかけよう?

 

 その後、暇を見つけては弁当を持って、クリスとフーバーと草原へ出かけてゆくヒューゴに、ゼクセン騎士団その他から邪魔が相次いで入ったことはいうまでもない。

 


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