これは子供の頃、大人から散々と聞かされた文句だ。
──夜、山のダムに寄ってはいけないよ。ここで誰かが死んだときに鐘が鳴るのさ。そう、鐘がね。それもとびっきり鈍い鐘が、水の中からね。きっと死人が鳴らしているんだよ。近づきゃきっと引き込まれてしまう。ああ恐ろしい。
舗装と呼べるほどの舗装もなかった。ただ人の道を真似たけもの道が草木を割けて入る者を歓迎している。
昼間であることを忘れさせるような曇天が、冷たく世界を照らしていた。
とても人に会えるような世界ではなく、だからこそ静かなことのみが取り柄だ。だがおかしなことに、鳥のさえずりすら聞こえない。
おそらく、山と山の谷間になっているのだろうが、そこを抜ける風はない。おかげで草葉が鳴くこともない。
川があるが、上流にしては驚くほどに緩やかで、水のはじける音は聞こえなかった。ただその川だけは、この世界で唯一動いているものだ。
そんな、恐ろしくも無害で無音な道で男は独りだった。
口を開く気にもならず夢見心地で地面を踏みしめていた。
しばらくすると視界が開けて、家が見えた。少なくとも、最近の家には見えない。
そのあともぽつぽつと数軒、無人の家が建っていて、そのどれにも張り紙があった。しつこいようにどの家にも玄関扉に貼ってあり、どれも掠れている。
そして全てに、ダム建設による立ち退きのお願いと書かれていた。
日付も責任者の名前もない、かすれて消えたようだ。
男はため息をついて空を見た。
簡素な風景だった。
風がないのか、雲は停滞していて動かない。
立ち止まる限りはどこもかしこも変わらなく、新鮮なものもじきに変わらない景色に変わっていく。
豊かな自然のなかにいるのに、五分と経たず飽きが来る。
そんな世界で、還暦間近の男はどこかを目指していた。
「…………」
思い出したように止まって、民家の玄関に手をかけた。鍵はかかっていない。
表札には柏、男の苗字だった。
戦前の家のようだが、そうとわかる劣化はない。ただ最近まで使われていた空気が漂っている。
もちろん無人だ。少し湿っていて、冷えた。
何より不気味なのは、多くのものが持ち出されたあとだということだ。
玄関に靴を置いて踏み入れると、不慣れに廊下を渡った。
ひとつひとつの戸を開いて、ひとつひとつのタンスと棚を開けている。
写真立てのある棚の3段目の引き出しから写真が出てきた。数枚の白黒写真で、集合写真が多かった。村を写したものもいくつかある。
どの写真にも男の姿はない。一人、着物姿の女の顔つきが、男に似ていなくもなかった。
興味を失ったのか満足したのか、写真を雑にポケットへ納めて部屋を出た。
そのまま靴を履いて家を出ると、相変わらず風ひとつない外に落胆のため息をつく。
疲れた瞳を動かすと、道の先で焦点を定めた。
男が初めから目指していたそこ、寺が目前にある。
白髪の髪を掻いて道に戻っても、景色は何も変わらなかった。
「…………」
寺にもあの張り紙があった。
ダム建設による立ち退きのお願い。ただ、ほかのよりは綺麗な姿で貼ってあった。
日付が残っている。
それだけを確かめて、すぐに離れた。
男の目的は、寺そのものではなかった。大きく立派な、鐘だった。
噂の鐘楼に近づいても、目立った汚れはない。よく手入れがされている。
梵鐘に触れた男の手に、冷たさが移った。
男は顔をしかめる。
「……八十年も前に沈んだ村になぜかいる。俺も見た事がねぇ景色がそのまんまだ」
男は撞木を引いた。
「婆ちゃん、俺は死んだのかね」
突く。
ごーんと、鈍い音が鳴った。
大晦日に投げるから鐘ネタです。