哲学します
ああ、うん。と頷いて、僕は空のカップを受け取った。
「やっぱりこんな時期は、君が淹れるコーヒーに限るね。欠点は、淹れたてがカップ一杯分しか味わえないことだ」
いつも通りの感想。こんな時期は、と言うが、君はどんな時期でも、僕のコーヒーを美味しいと言ってくれる。
たまには違うフレーバーも、と聞いてみるが、君は肩をすくめた。
「君のコーヒーがその味であることに意味があるのさ。私はいつも通りが良いんだ」
オリジナルブレンドでもなんでもない、市販のコーヒー粉を、ペーパードリップで淹れるだけ。いつも同じ粉とフィルターなのだから、君も同じ味で淹れられるはずなのに。そう僕が言えば、君はむっとした様子で答えた。
「それを君が淹れることで、再現性が高まるんだ。ほら、はやくしてくれよ。私を待たせるのか?」
手を叩いて僕を急かす君を尻目に、僕はまたヤカンを火にかけた。
コーヒー一杯分のお湯を沸かすための、細く長い首のついた小さなヤカン。当然、沸くのも早い。それでも君は、待ちきれない。
頬杖をつき、ため息まじりに君はぼやく。はいはい、と聞き流して、僕は使用済みのフィルターと出涸らしを捨てた。
「いやいや、君、その反応はないだろう。私は至って真面目だぞ?」
真面目に話すには、荒唐無稽な話題ではなかろうか。茶色いフィルターを折り、ドリッパーにセットした。
「時間は話のテーマとして面白い、と、君は言っていなかったかい?」
目配せをして、続きを促す。メジャースプーンでひとすくいの中細挽きの粉を、フィルターに入れた。
「では、語らせてもらおうか」
君は満面の笑みで足を組んだ。
「そもそも時間というのは、ある次元方向の広がりへ、認識が移動することである。私はそう思っている」
ドリッパーを軽く揺する。こんもりとしていたコーヒー粉が平らに均された。サーバーにセットし、お湯が沸くのを待つ。
「それを図形的に表したければ認識可能な次元のひとつを諦め、時間軸をそこに書き加えればいい。視覚的にならば、二次元的に認識しているはずだ。まあグラフの縦横どちらかにtをつけて柱でも点でも線でも並べればいい」
ヤカンがボコボコと音をたて、細い口から盛んに湯気を吐き出し始めた。
「長さを知りたければ、単位を決めて区切ればいい。1秒、1分、1時間、1日、1年。統一された単位がある」
ゆすいだカップに、沸騰したお湯を注ぐ。あらかじめカップを温めておくことで、注いだコーヒーが冷めるのを防ぐためだ。
「だが。全ての、意識を持った存在にとって、時間の長さは一定だろうか?ただ一人の内でだって、長くも短くもなるそれが?」
ヤカンの振動が落ち着いた頃を見計らい、ドリッパーに少しだけ、そっと乗せるようにお湯を注ぐ。回しながら、均一になるように。褐色の滴が、サーバーに数滴落ちた。
「蒸らしの20秒間、ただ待つだけの20秒は長い。だが、話していればすぐだ」
きめ細かな泡がたち、ガスの抜けた粉が丸く膨らむ。
「同じように。時間が少し飛ぶことがある」
95℃のお湯を、その中心に注ぐ。小さく回しながら、満遍なく全体に。
「大層な言い方をすれば、タイムスリップか。ぼうっとしていて、ふと気づけば数時間経っていたりする。今起きた出来事なのに、前にも全く同じことがあったように感じる」
細かな泡が、液面を覆った。一度注ぐのを止め、液面が下がっていくのを待つ。
「だが、起こらないこともある。時間の逆行だ」
先程より、ゆっくりとお湯を注ぐ。そしてまた、止める。
「時間は進行形で逆行しない」
もう一度、さらに優しくお湯を注ぐ。サーバーへ落ちるコーヒーと、注がれるお湯の量を一定に保つように。
「ビデオや音楽の逆再生のような現象は、ここでは起こり得ないんだ。時間は絶対に一方向にだけ流れている」
滴る雫が、だんだんとテンポを落とし、最後にはドリッパーに張り付いたままになった。静かにドリッパーから落ちていくコーヒーが、だんだんと細くなり、途切れ途切れの雫になる。ヤカンを傾けるのを止め、コンロに置いた。
「今見せてくれた通りだ。わかるね?」
最後の一滴を振り落として、僕は君に頷いた。カップのお湯を、流しに捨てた。
「時間の流れの増減速はあっても、時間が前後に飛ぶことがあっても、逆行することはあり得ないんだよ」
触れる指先がチリチリとするほど、カップは十分に温まっていた。フィルターに残った出涸らしは、厚さが均一で、表面に泡が薄く残っている。上手く淹れられた証拠だ。
冷めないうちに、サーバーからカップへ、コーヒーを注ぐ。香ばしい香りが広がり、僕の鼻腔をくすぐった。
君の前に、静かにカップを置いた。
「ああ、ありがとう。やはり君は最高だ」
君は嬉しそうにカップを受け取ると、立ち昇る香りを湯気とともに吸い込んだ。
「……そう、この香りだ。まったく、大したものだよ。いつもと同じ香りだ」
二度、三度、息を吹きかけて、君はカップに口をつけた。
「……あついな、さすがに」
かさはほとんど減っていない。猫舌なのに、君はいつも冷ますのもそこそこに飲もうとしてしまう。
「こういうものは、冷めないうちに飲むのが流儀で礼儀だろう。違うか?」
そもそも君が、コーヒーをブラックのまま飲めないのも、僕は知っている。君の前に、10ミリリットルサイズのミルクピッチャーを置いた。中身は、冷たい牛乳だ。
「お見通し、か。君には敵わないね、全く」
君はミルクピッチャーをつまむと、中身を全てカップへ注いだ。黒と白のマーブル模様を、君はマドラーでかき混ぜる。
君は、カップに口をつけ、傾けた。白い喉が上下する。
「あたたかいな、君のコーヒーは」
君は、カップを手のひらで包むように持った。
「ここまで聞いていた君なら、もうわかるはずだね」
君はもう一度コーヒーを口に含んだ。唇を湿らせ、また語る。
「小説ならば。意味を表すために時間順に並べられた文字が、つまり文章が、三次元になるわけだ。ページをめくれば、ページをスクロールすれば、それだけで時間を超えられる」
君は、カップに口をつけて、大きく傾けた。
「その実証をするのは君だ。君ならそれができる。あるいは、既にそれをしている」
君は、手の中のカップを覗き込んだ。
「もう、なくなってしまった」
君は、空になったカップを差し出して言った。