夜の冷気が身体に残留している。
それは宵を越えるとき特有の感覚で、久しく味わっていなかったものだった。
「冷えるね」
「ええ」
隣で彼女が頷いて、白い息を吐いた。
「本当に、冷たい」
絡む指の力が強くなった。彼女の手は本当に暖かくて、熱が伝播してくるのがわかる。それはきっと、歩いてきた日々の熱量なのだと思った。
「あと何分くらいかかる?」
「そうね、だいたい一時間くらいかしら」
「そっか」
時間がない。それまでに辿り着けるだろうか。わからないけど、やれる限りはやったほうがいいと思う。
畦道を抜けて、山道を歩いて、徐々に黒から藍に染まりつつある空を眺めて、何も会話がない気まずさに気づいて。
最後に何か言っておいたほうがいいだろうか、僕のそんな迷いを察したようで、彼女は小さく「優しいのね」と笑った。
「そりゃ、まあ。最後になるからさ」
手向けがわりの気配りなんて、真の優しさとは言えないだろうに、それでも彼女は気にした素振りを見せずに飄々としていた。
「君には、本当にお世話になった」
「……ええ」
「何でもない毎日だったけど……君がいてくれたお陰で、僕は少しだけ大人になれた。近すぎてその有難さまでは理解できてなかったけれど、別れる今になってようやくわかった気がする」
「なら次は、ちゃんとしなさいね?」
「善処する」
きっと繰り返すのだろうと、そうも思う。いつもそうだ、在る時は何も思わないのに、失う時になってようやく気づく。
滲む視界を誤魔化すように、瞼を絞って空を見上げる。徐々に明るいグラデーションが生まれつつある、雲一つない空。明けの明星。綺麗に映るこれだって、普段なら何も思わないはずなのだ。彼女を失った今だから、そう思うだけで。
標識が出るくらい急な坂を登って、分かれ道の細い方に進んで、丸太の細い階段を一つ飛ばしで上がって。そうしてようやく、そこに着いた。山の上。申し訳程度にベンチの置かれたそこには、当然のように誰もいない。
山の奥に見える空は、もうほとんど黄金色だった。
「そろそろ、お別れね」
「……うん」
「そんな悲しそうな顔しないの。いずれはこうなるのが運命だったんだから」
握る手の感触が薄れていく。体温が消えていく。もう届かなくなってしまう。
「君といられて、幸せだった!」
「私も」
瞼を擦ってから、くしゃりと笑う。これで最後なのだから、笑顔で送り出さなきゃいけない。
「今年は絶対、上手くやるから!」
「私のときも同じこと言ってた癖に」
嘘つきと笑う声だけ残して、右手は軽くなった。気づけば正面にはお日様が昇り始めていて、左手には冷たい感触があった。
「初めまして」
「お初にお目にかかりますわ。短い間ですが、よろしくお願い致しますわね」
「こちらこそ」
握った手の指を絡める。彼女が残してくれたぬくもりを移すように。
「君のこと、きっと大切にする」
「あら。毎年同じことを言っているのではなくて?」
「──だとしても」
この想いは、決して嘘じゃないから。そう微笑んだ。
今年とよろしくお願いします。