絶望の最中、一人のうさん臭い占い師に時を遡る魔術の存在を教えられる。
0
一人の男が書庫を漁っていた。夜中、手元の懐中電灯を頼りに、黙々と。男が探しているのは、未来を見通す力についての本だった。男はその本が簡単に見つかるとは思っていなかった。過去に何度もその書庫に入ったことはあるのだが、それらしきモノを見かけたことがないからだ。なのでそれを探すために、棚に並べられたもの、机に積まれたもの、床に落ちているもの、隅から隅まで全てに目を通そうとしていた。
男は考えた。「どこか見落としは無かったか? 全ての表紙に目を通したか?」しかし以前と同じように探して見つかるはずもなかった。「もう一度最初から全ての表紙に目を通すべきか?」この案を採用仕掛けたが、それは踏みとどまった。いくら探しても無いものは無い。男は冷静になって書庫全体を見渡した。目立たないように並べられた本も無ければ、鍵の付いた本も無かった。ましてや隠し扉も無い。であれば、そもそも探している本は書庫で取り扱っていないのではないか、この結論に男はやっと辿り付いた。
男は書庫を出て、足音が響かないよう気を付けながら危険物の保管庫へ向かった。書庫のある階の下の下の、ずっと下の階に降りていった。保管庫の扉は当然ながら鍵がかかっている。しかし男は気にも止めなかった。鍵穴を覗き込み、そして左手の人差し指を鍵の形に変形させた。その指を鍵穴に突っ込んで少し待つと、鍵が回った。
「案外ちょろいもんだな」
扉を開くと中には刀や槍、巻物、人形が置いてあったのだが、どれもこれも見るからに妖しい何かを纏っているように思えた。そういうのには出来るだけ触れないように、例の本を探した。一通り見渡して本一冊すら見つからなかったのでアテが外れたのかと帰ろうとした際、甲冑が着せられた人形の後ろに本棚が隠れているのが目に入った。恐る恐るそれをどけると、またしても妖しい本がいくつか並んでいた。その中の一冊に、探し求めていた本があった。男の口角はほんの少しだけ上がっていた。
「さて、次の問題は帰り道か」
心の中で呟くと、建物の裏口に向かった。暗い廊下を静かに歩いていると、後ろから誰かが声をかけてきた。
「あんなモノが集められている倉庫にしては、随分簡単に開いてしまう鍵だなとは思わなかったのかね?」
その声には覚えがあった。かつて同じ釜の飯を食べた仲の一人、法華津。昔の知り合いを相手にせずに、すぐさま駆け出して逃げる選択肢もあったのだが、それはやめた。
「いやいや、いくらなんでも簡単すぎると思っていたよ。何かがおかしいって気づいていたよ」
「強がりはよしたまへ。頭領と林桜がいない時分を狙ってきている時点でお前は負けを認めているんだ」
男は法華津の言い草に少しだけ腹が立った。なので振り返ると同時に、掌から光の矢を幾つも放った。決して狭くはない通路だったが、それだけで視界が埋まるほどの量だった。しかし法華津はそれを一本一本確実に避けて、躱しきれないものは拳や脚で弾いた。全ての矢を回避すると、今度は光の弾を作り出して男に投げ込んだ。
「あんな小さな攻撃を重ねても無意味なのだよ。必要なのは、一発ごとに相手を退けようとする強い意志だ」
先程の光の矢よりも圧倒的な速度だった。光の弾は男の腹に直撃した、のだが簡単に消え去ってしまった。
「お前、まだ俺と互角だと思っていたのか?」
男が手をかざすと、法華津が避けた矢が戻ってきて、その背中に次々と刺さった。
「避けるんじゃなくて、弾けばよかったのに」
意識が無くなっているのを察すると、また出口に向かって歩き出した。しかしその時、通路の灯りが全てついた。そして建物全体が騒がしくなっている空気を察知した。男は他の者と戦いになってもそう簡単に負けるはずもなかったが、さすがに大人数を相手してはいられない。この状況でコソコソと隠れながら逃げ出すのも面倒に感じたので、今度は掌で光の回転刃を作り出し、壁に放った。こうして通路の側面を大きな音と共に四角くくり抜いてしまった。「おい、下の階だ」「あっちで何か音がしたぞ」人が集まってくるのがわかった。男は穴を何度か作り、中庭に出た。そこには頭領の下で修行する者たちが走り回っており、その全員が男を発見した。取り押さえようと向かってきたのだが、一人の血相の悪い女が目の前に現れた。
「例の本は見つかりましたか、竜鬼様」
「ああ、ようやくだよ。じゃあ頼む、君じゃないと結界を抜けられないからね」
血相の悪い女が空間に手をかざすと、黒い霧のようなものが現れた。二人はそこに消えていった。
1
そこそこの都心の中にある、そこそこの高さのビル。そのビルのワンフロアをぶち抜いた執務室。田中の勤める弁護士事務所はそこにあった。他に仕事をしている人間がいるにも関わらず彼は喚いていた。
「えー、また俺がこんなチマチマした細かい案件やるんですか? 無料相談の内容なんて誰でもいいじゃないですか」
「誰でも、じゃあないの。こういう仕事こそ、アナタのように確実にこなせる男がやってくれないと、ウチの評判が下がってしまう」
このままゴネられるのも面倒だったので、遠藤はひとまず何冊かのファイルと封筒を会話に紛れて机に置いた。
「まぁ確かに他の奴らじゃあヘマするかもしれないですけど…。こんなの、あそこで暇そうにしてる松本にやらせてもいいでしょう」
「そうは見えないけど?」
松本は固定電話を肩に挟みながら、手元の資料とパソコンのモニターを交互に眺めてキーボードを操作していた。
「あいつ、俺なら一〇分で終わる仕事をわざわざ二時間かけてやるんですよ。あんなの忙しいフリですって」
「っていうことは、この量も一〇分で終わるでしょ」
そう言い残して、遠藤は自分の個室オフィスに戻っていった。田中は舌打ちをしながら、ファイルと封筒に次々と目を通した。「はいはい、誹謗中傷に誹謗中傷、離婚関係にご近所トラブル、あと誹謗中傷ね」書類の束を乱暴に机の上に置いた。そして部屋の天井を遠い目で眺めた。しばらくしてまた書類の束を手に取ると、離婚関係の資料だけ取り出して、残りを抱えて松本の机に向かった。
「これ、一通りやっておいてくれる?」
また書類の束を乱暴に机の上に置いた。今度は松本の机に。
「いやちょっと待てよ、そんな事いきなり頼んでくるな。そもそも田中は僕の直属の上司じゃないだろ。しかも役職も同じだ」
「まあでも、俺はもう来年からは昇格が決まってる。未来の上司に媚び売っておくのも悪い策じゃないと思うぞ。それじゃ」
松本が田中の後ろ姿に向かって文句を飛ばしていたが、飛ばされた方は気にも留める様子がなかった。
田中は事務所一階にある打ち合わせ用個室にいた。
「なるほど牧村さん、貴方は不貞行為をしたにも関わらず親権を失いたくない訳だ」
「不貞行為だなんて、キャバクラと風俗に数回行っただけですよ。だいたい、その、なんというか、妻との夜のアッチの活動もご無沙汰だったし」
牧村という男は、真面目な相談をしているこの空気感により、気を遣って性的な言葉の使用を避けていた。
「つまりセックスが減っていたと」
田中はハッキリとそう告げた。「…まぁ、はい」牧村は苦笑いしていた。しかし逆に、言葉を濁さない田中の態度は逆に信頼できるとも感じていた。
「でもなんで親権が取れると思ったんです? 状況を察するに、圧倒的不利ですけど」
嫌味すらなく、純粋な興味で出た質問だった。
「正直、彼女に子育ては無理だと思うんです。感情的だし話を聞かないし変に教育ママぶってるし勝手に断捨離とかするしモノ投げたりするし…」
「つまり頭が悪いと」
「…まぁ、はい」牧村はまた苦笑いしていた。田中はその受け応えを無視するかのように言葉を続けた。
「で、話し合いはいつ?」
「今日このあと二時間後、すぐ近くで」
「あらま。つまり貴方は計画性が無い、と」
「だったら今からでも、何か策を考えましょう」田中はそう言いながら立ち上がり、「ちょっと飲み物をとってきます」と部屋の外へ出た。ウォーターサーバーでお茶を煎れると、紙コップを持ったまま一分ほど近くをウロウロしてすぐに戻った。
「思い付きました。これを試しましょう」
田中は自分の分の飲み物だけを手に持っていた。牧村はお茶を出してもらえるのかと少しだけ期待をしていたが、そんな事は無かった。「お子さん何か好きなキャラクターとかあります?」「え? 変形ロボットとか大好きですけども」「じゃあそれにしましょう」「どういう事ですか?」とりあえず答えを聞きたい内容だけを質問した。そして牧村を連れて近場のおもちゃ屋に寄ってから、話し合いに向かった。
牧村の元妻も弁護士を雇っていた。相手方の事務所に行くと、二人はエントランスで待ち構えていた。
「コウタはどうしてる?」
「このビルの託児所にいるわ」
田中は周囲を見渡して、ビルの施設の充実ぶりに関心していた。
「じゃあ、一目だけ合わせてくれないか?」
「話し合いが先よ」
元妻は、かつて結婚生活を共にしていたとは思えないほど牧村に鋭い目つきを向けていた。
それから個室に入り、淡々とした会話が始まった。
「であるからして、毎月の養育費を———」
「財産分与として現在の貯金額の———」
「精神的苦痛を与えたとして慰謝料を———」
「とりあえずお金を払え———」
それから個室を出て、淡々とした会話が終わった。
「じゃあ、今日の内容は一旦持ち帰ります。最後にお子さんに挨拶して帰りますか」
牧村の元妻は黙ったまま託児所に向かった。
二人になった瞬間、牧村は質問をいくつもぶつけた。「なんでもっと強く言い返してくれないんですか!」「あんなにお金払えないですよ!」「親権の話は!」「とりあえずお金を払えって何!?」とにかく不安を感じているのがよく分かった。そんな彼を制して、田中は言った。
「ま、本当の策はここから先ですよ。プレゼントを用意してください」
自身の親権争い真っ只中であるコウタくんは、何も知らずに父親の元に現れた。
「パパ、パパだ!」
無邪気に抱きつく様子を母親は快く思わなかった。牧村はコウタくんの頭を優しく撫でた。
「またちょっと大きくなったな。久しぶりにあったコウタに、パパからプレゼントだ」
「これ欲しかったやつ! なんで持ってるの!」
「そりゃお前のために探し回ったんだよ」
二人がしばらく戯れあっているところに、元妻は「あなたみたいな不潔な人間が近寄らないで」と辛辣な物言いをした。そしてコウタくんを連れ去っていった。
「では我々も、次の話し合いで会いましょう」
田中は自分の職場に戻っていった。
数日後、二度目の話し合い。ここでマトモな主張ができなければ牧村が親権を手にする事はない。
「田中さん、私は何も準備してなかったけれど、大丈夫ですか?」
「大丈夫です、必要なものはこっちが揃えたので」
またしても四人で個室に入り、代理人を介して牧村の元妻からの要求がつらつらと告げられた。そこに適当に反論していく田中。そして代理人が親権の話題に入った時、田中はあるモノを取り出した。それは、以前買った変形ロボットのおもちゃだった。しかし随分と傷がついて汚らしくなっていた。
「これ、先日私の依頼人がコウタくんにあげたものと同じですよね」
「なんでアンタがそれを?」
「偶然拾ったんです」と元妻の問いに白々しく答えた。「器物損壊って、ご存知ですか?」更に白々しく問うた。
「でも、別のものの可能性だって」
「実はこの変形ロボット、転売対策のためにシリアル番号が割り振られてるんです。購入のレシートも、同じ番号が書かれた箱もこっちの手元にある」
「子供のものを勝手に捨てたりしませんから!」
「……ははっ」
「な、なによ?」
「私は先ほど、器物損壊を知っているかと質問しただけです。『子供のものを勝手に捨てましたか?』なんて聞いてませんよ。お母様、何か勘違いというか、早とちりしていませんか?」
田中は牧村と家庭の状況を聞き出すうちに、この元妻の性格を察していた。さらに、牧村自身も、私物を捨てられた経験が何度もあるらしかった。
「しかしそれにしても、私は心配です。今後学校に通い、学校で授業を受ける最中、コウタくんが勝手に大事なものを捨てられやしないかね」
田中自身この反論が弱く薄く軽い事は理解していた。そして元妻の代理人もそれは同じだった。しかし元妻の性格的な問題は感じ取っており、離婚の本当の理由だとか養育能力とかを掘り返されると不利になると分かっていた。代理人は元妻に耳打ちした。「これ以上戦うと、慰謝料すら貰えない可能性があります。下手に粘るより引いた方が良いかと」彼女はそれに素直に従った。
部屋を出ると、代理人は「あとは書面でやりとりしましょう」と吐き捨てた。「是非そうしましょう」田中はタクシーを拾い、牧村と共に自分の事務所に向かった。
「それにしても、何故捨てられたロボットが見つかったんですか?」
「ん? 別に見つけてないですよ。あんな子供騙しのオモチャにわざわざ転売対策しないでしょ」
ハッタリだと理解したのだが、もしそれが上手く行かなかったらどうしたのか気になった。しかし牧村はそれ以上問わなかった。なんにせよ、自分の依頼が達成されたのだから。
今後の事務的処理について説明し牧村と別れた後執務室に入ると、何やら騒がしかった。松本の机に人が集まっている。田中もそこに加わろうとした。
「あ、渦中の男が帰ってきた」
自分がこの騒ぎの当事者らしいが、一体何の事か全く分からなかった。皆が集まっているところに、遠藤もやってきた。「やっと帰ってきたね、ちょっと私のデスクに来て」言われるがままについて行った。
「アナタ、松本くんに仕事を投げたんだって?」
「えっと、暇そうにしてたので」
「私にはそう見えなかった。それにアナタの勝手な判断で面倒な事態になったの。分かってる?」
遠藤は全てを説明した。松本が忙しい中さらに仕事を押し付けられた事、松本もネットの誹謗中傷の案件を抱えていた事、田中から渡された案件の中にその加害者からの相談があった事。
「冷静に考えてみて。一人の弁護士が、一つの争いで被害者加害者両方からの依頼を受け持つなんてあり得る?」
「いや、松本だって少し調べればそれぐらい分かるはずじゃないですか?」
彼女は机の上に乗せた手の甲を眺め、しばらく黙り込んだ。そして再び口を開いた。
「問題はそこじゃないの、アナタの立ち振る舞いがこんな問題を引き起こしたから、私は怒っているの」
「でも俺だって他の案件に真面目に取り組んでいました」
「そんなのはどうでも良い。私はこれまでの行動とその末路に怒ってると言ったでしょ。それと、未だに謝罪一つもない。人間性を疑うわ」
今度は田中が黙り込んだ。彼女の剣幕に言葉一つ発せなかった。
「…これまでアナタは、その横暴な態度が許される代わりに結果を残してきた。けど、その歪な等価交換も終わり。クビよ、ここから出て行って」
「は、え…」少しだけ声が漏れると、その後は言葉に詰まりそれ以上何も言い返せなかった。
2
田中は面接を受けていた。
ある時は普通の打ち合わせ室で。
「という事で、かれこれ6年ほどあの弁護士事務所でやってきたんですけど、そろそろ違う環境も必要かなって思いまして」
「…しかし先ほど、『もう少しで出世できるところまで来ていた』と仰っておりませんでした? そんなタイミングで辞めるのはもったいなく思うのですが」
「いや、えっと…、前の事務所は離婚と親権ばかり扱っていて、もっと多彩な事件や問題に関わっていきたいなと。出世よりも自分の知見を広める事を優先したんです」
「ウチは不動産関係を多く扱うのですが、貴方の言う『多彩な事件や問題』というご要望に応えられそうですか?」
「あー、あー、その…、」
ある時は広々とした会議室で。
「俺は何度も裁判で勝利してきたっていうのに、上司は俺を目の敵にしてきたんです」
「ほう、随分輝かしい成績だね。他の事務所であればとっくに昇進してもおかしくない戦績だ」
「そうなんですよ。実際上司が高く評価してくれていたみたいで、出世の対象者にも選ばれていたみたいです」
「あれ? 目の敵にされていたのに、評価も高かったの? 不当な評価とかされてなかったの?」
「えーっと、だから…、」
ある時は紙やファイルが積み重なった資料室で。
「今後は後進の育成も求められると思ったので、同僚に仕事を振ったんです。そうしたら上司が『なんで自分で片付けなかったの?』と」
「それは量的に自分一人で厳しかったのかい?」
「いえ、俺は仕事が早いので自分で簡単に片付けられる量でした」
「だったらなんで同僚に仕事を押し付けた?」
「それは、これからは上司としてのスキルも求められると考えての行動で…」
「でも正式に昇進を言い渡された訳じゃないのだろう?」
「まぁ、はい、ですから…、」
田中の面接は連戦連敗だった。唯一採用してもらえたのは、自宅から2時間ほどかけてやっと通える距離にあって、定年間際のご老体一人で運営していて、相続についてばかり取り扱っている、そういう事務所だった。当然それはお断りした。時間は無闇に過ぎていく。貯金は徐々に減っていく。
その日、またしても面接に失敗した田中は、スーツ姿のまま駅前の道端で体育座りしていた。何も考えずに、どこにも視点を合わせずに、ぼんやりとしていた。家に帰るサラリーマンや学生達は、彼に目もくれなかった。
「お兄さん、何してるの?」
一人の中年女性が声をかけた。
「…何もしてない」
「だったら、どいて欲しいんだけど。そこに居られると邪魔なんだけど」
田中が座り込んでいたのは、簡素な椅子と幕のかかったテーブルのすぐ横だった。その幕には、『占い一回2000円』と書かれていた。
「駅前の占いなんて、もう流行らないでしょ」
「うるさいね他人に文句言われる筋合いないわ」
そんな風に言い返されたので、田中は逆に仕返しのようにそこから動こうとしなかった。黙りこくって、目も合わせようとしなかった。
「…わかったわかった、アンタのこと一度占ってあげる。そしたらどいてちょうだい、金は取らないわ」
「仕方ないなぁ、占われてあげるか」と勝ち誇ったような顔を見せた。
田中は占いのような非科学的なものを一つも信じていない人間だ。しかしそれでも、誰でもいいからこれから先の人生がどうなるか教えてほしい、そんな藁にもすがる想いが心の奥底にあった。中年女性には正対せず体を横に向け、足を組んで椅子に腰掛けた。中年女性が机に置いてあった水晶玉に手を添えると、内側がぼんやりと光を放った。
「ふむ、アンタ今相当過酷な状況にいるみたいね。人生の中でもかなりツラそう」
「そんな事、俺の格好や表情を見ればわかるだろ」
田中は、着ているスーツのくたびれた様子を見せびらかした。
「仕事をクビになりそう、またはクビになりかねない事をしでかした、はたまた既にクビになったとか」
「…答えに幅を持たせすぎだ。スーツ姿で落ち込んでいる男がいたら、仕事に関する悩みと言っておけば大外れしないに決まってる」
田中は、中年女性の目線を避けるように顔を逸らした。
「どうやら、もうクビになってる、が正解みたいね」
「……俺の反応を見て推測しただけだ」
田中は、左の手のひらで顔を覆った。
「で、新しい仕事にもなかなか有り付けず、とても困っている」
「クビになった人はだいたいそうだろ!」
左手で机を叩き、声を荒げて立ち上がった。そして駅前を歩く人々の視線を集めた。田中は雑踏の中にいる事を思い出し、冷静さを取り戻しながら再び椅子に腰をおろした。
「…もし、本当に占ってくれるなら、俺が聞きたいのはそんな話じゃない。これから俺はどうなるのか、どうなってしまうのか、それを知りたい」
「そうじゃないでしょ。アンタが本当に願っているのは、過去のやり直し。いろんなこれまでの後悔を、無かった事にしたがってる」
水晶玉は先ほどより強い光を放っていた。駅前の街灯よりもずっと明るく。
「過去をやり直すなんて、そんなの出来ないだろ」
「いえ、出来るの。過去はやり直せる。無かった事に出来る」
「占いをそもそも信じてないのに、そんな話を信じるワケが」
二人が話しているところに、駅員がやってきた。「また貴方ですか。次ここでやったら警察に通報するって言いましたよね」呆れながら、そして威圧的な態度だった。中年女性はそそくさと荷物を片付け始めた。
「アンタどうせ無職で暇なんでしょ? だったら、月聖山の寺院に行きな。貴方の望むものがあるわ」
「ツキヒジリって、なんだよそれ。そこに何があるんだよ」
中年女性は「もう終わりだから、立って。どいて」と田中を急かした。そして椅子と机を折りたたみ、立ち去った。
田中は占いのような非科学的なものを一つも信じていない人間だ。しかしそれでも、過去をやり直せる可能性があるならそれを試してみたい、そう思っていた。
駅員は、特に追いかけたりはしなかった。
「お兄さん、何を話してたかは知らないけどインチキババアの話なんて真に受けないでくださいね。だいたい、あんなのに構っちゃダメですよ、仕事帰りで疲れてるんでしょ」
「あ、はい。俺は、仕事帰りで、疲れてます」
何故か、意味もなく嘘をついた。
・・・
「バカバカしい」
田中は、電車の音に掻き消される程度の声で呟いた。そもそも、過去をやり直すなんて出来ない、無理に決まっている。そのように心の中で決めつけていた。可能であればそうしたいが不可能であるのを理解しにいく、それが目的だった。直せるはずもない完全に壊れたおもちゃを、一応、念の為、最も修理出来る可能性の高い人間の下へ持っていくかのような。
例の中年女性が言っていた月聖山は田中の住む街から新幹線で4時間、電車で2時間、バスで30分、そこから歩いて3時間、そういう場所にあった。車で行けば歩かずには済んだが、田中は車を持っていない。レンタカーを何日も借りる金もない。かてて加えてペーパードライバーであった。と言う訳で多少大変な思いをしても徒歩移動しなければならない。
とはいえ、車を使用しない判断は間違いでは無かった。田中は中年女性からある事を聞いていなかった。それを月聖山の麓まで来てやっと気づいた。
「やべ。この山のどこにあるのか全くわからねぇ」
寺院はどこにあるのか、どんな建物なのか、どれぐらい広いのか、遠目からでも見つかるのか。何も分からない。近場に村も無く、山に詳しい猟師から情報を仕入れるのも無理だ。もし自力で探すなら月聖山を歩き回る必要がある。それには準備を整える必要がある。それには先ほど3時間ほどかけて歩いた道を戻る必要がある。陽はすでに沈みかけている。色々と考えるのが面倒になった田中は、コンクリートで舗装されていた道路から土の上に踏み出し、山へ入っていった。
とりあえず道なりに歩いた。適当に歩けばそのうち辿り着くだろう、そんな考えだった。しかし山道は何度も分岐した。その度に適当に分かれ道を歩いた。先には湖があったり崖があったり、行き止まる度に引き返した。これを数回繰り返して、夕闇のころ田中は座り込んだ。今日はもう歩き疲れた。誰も通りかかりはしないのに、律儀にも道の端に寄って時間が過ぎて陽が登るのを待った。山の夜は少し寒かったが、リュックに詰めていた上着が役に立った。
翌朝、昨日電車で食べ損ねたおにぎりを一つ食べて歩き始めた。風呂も入っていないし歯も磨いていない。全身も口内もうっすらベタベタしていたので、それを不快に感じていた。せめて口の中だけても濯ごうと思い、昨日飲み残したペットボトルの水を少し口の中で掻き回してから吐き出した。田中は、今日一日歩けば流石に寺院が見つかるだろう、そう思っていた。昨日歩かなかった方の分岐の道を歩けばどこかで見つけられるはず。歩いて行き止まりになって、歩いて行き止まりになって、歩いて行き止まりになって。道らしい道を歩いても何も見つからなかった。なので今度は、茂みに入って草木をかき分けて進んだ。朝も過ぎて昼も過ぎて陽が傾きはじめた。田中はここでやっと事態の重さに気がついた。背負ったリュックには飲みかけの水とおにぎり1つとクッキーと電波の繋がらない携帯電話とモバイルバッテリー、それとあらかじめ映画をダウンロードしていたタブレット。山を登るにしては明らかに軽装備すぎる。もはや帰り道も分からない。自分はほぼ遭難状態。果たして生きてこの山から出られるのか。寺院を見つけるか帰り道を見つけなければ、おそらく死ぬ。生き残るために夜通し歩こうとしたのだが、あまりにも疲労していたせいかほんの少し休もうと座った際に、寝てしまった。
目が覚めるとかなり腹が減っていた。2日前に買ったおにぎりを食べるのは少し躊躇いがあったのだが、そうも言ってられない。ゆっくり咀嚼して飲み込むと、歩き始めた。しかし最早行き当たりばったりに歩くのみだった。
寺院を探していた筈なのにどうしてこうなったのか。俺はここで死ぬのだろうか。それとももし助かるとしたら、誰かが俺と音信不通になったからという事で捜索願を出してくれていたりしないだろうか。職場の誰かが出勤していない俺を心配して…いや、俺はもう無職だったな。そもそも職場にも、それ以外にも俺を心配してくれるような人はいないか。俺は生きてこの山から出られるのだろうか。
少しづつ食べていたクッキーも次の日には無くなった。奇跡的に水の綺麗な川があったのでそれを飲み水にしていたが、サバイバルの知識も全く無い田中の命を繋げるものはそれぐらいしかなかった。
明くる日、草木や木の枝を踏み潰す音が聞こえた。もしかしたら人が歩いているかもしれない。田中はその方向に歩いた。そこに居たのは熊だった。そもそも今までの間遭遇しない事の方が奇跡だったのだ。サバイバルの知識も全く無い田中は一目散に、逃げ出してしまった。熊は急な動きに興奮して、追いかけて来た。完全に死んだと思った。そもそもこの山に来たことを激しく後悔した。ずっと、ずっと、ずっと走ると、広い場所に出て、古めかしい建物がそこにはあった。田中はそれが中年女性の言っていた寺院だと確信した。追いかけてくる熊はいつの間にかいない。田中は助かったのだ。彷徨って7日目の出来事だった。もしレンタカーを借りていたら、返却の時いくら請求されたことやら。
田中は寺院の建屋の扉を強く叩いた。
「すみません、助けてください。遭難したんです」
するとすぐに扉が空いた。長身でメガネをかけた女が現れた。
「遭難したんですか、そうですか。でも私には関係ありません。帰ってください」
「は」
「林桜、どうしたのですか」
痩せた女の問いに、長身の女は毅然として応えた。
「頭領、玄関に怪しい者が」
「怪しい者? 遭難者かもしれませんよ」
「いえ、あの一件以来この場所の結界を強めました。魔術的な知識が無ければこの場所は発見できません」
「となると、術の使い手であり即ち竜鬼の手先の可能性があると」
林桜と呼ばれる長身の女は、小さく頷いた。頭領と呼ばれる痩せた女は手のひらから水を生み出し、それを空に放った。すると水の中に扉の外にいる田中の姿が映った。「おい、頼むよ、本当に死にそうなんだ! すぐそこに熊が来てたんだ! 見殺しにするのか!」田中は喚いていた。
「…いくら竜鬼の手先とはいえ、こんな見え透いた演技をしますでしょうか」
「そ、そうですね」
林桜は少し田中の必死さに引いていた。「中に入れて助けてあげましょう。その者が敵か味方か、有益か無益か、判断は後にしましょう」頭領は手のひらへ水を回収した。さらに扉のほうに手を向けると、ひとりでに開いて外から吸い寄せられるように田中が引き込まれた。
「とりあえず元気になるまで泊めてあげなさい」
林桜は呆れながら「はぁ」と答えると、頭領は「それに」と続けた。「それに?」と相槌を打つと、少し間が空いた。
「『いつの日か訪れる戦い』のためにも魔術師は一人でも多い方が良いでしょう」
「奴をここで寝泊まりさせて、魔術師として鍛えろと?」
「そうです。あとは頼みましたよ」
頭領が立ち去るのを確認してから、「相変わらず人がいいんだから」と自分にしか聞こえないように呟いた。
「お前、さっきはよくも見捨ててくれたな」
田中は立ち上がって、言い放った。
「アンタ一言目がそれ?」
3
田中が昨晩ほど深く眠ったのは久々であり、随分と気持ちの良い寝覚めになった。失職や遭難を忘れて、明日の不安は何も感じずに眠りにつけたのだ。柔らかい敷布団に暖かい掛け布団。慣れない寝具に違和感を感じる間も無かった。田中は何かを思い出していた。この温もり、どこかで感じた事がある。母親だ。母体の中に居た赤子の頃の記憶なんて失われているはずだ、それでも感じずには居られないデジャヴ。出来るのであればもう一度母の元へ帰りたい。田中はそう思って、再び目を閉じようとした。
「二度寝すんな」
林桜は荒々しく引き戸を開いた。
「アンタ、昨日の私の説明聞いてたの?」
「ああ、聞いていた」
「聞いてた上で二度寝するのね」
田中は、この寺院にしばらく寝泊まりさせてもらえるようになった。しかし幾つか条件があった。
「もう一度ハッキリ言わせてもわうわ、ここは宿代タダのホテルじゃないの。アンタは修行扱いでここにいる、だからやってもら事がるの。一つ、この寺院の掃除」
敷地や建物の中で、銃撃戦や爆発でも繰り広げられたかのような箇所があった。基本的にはそこを掃除、というより最早修理あるいは整備をする必要があった。
「二つ、農作業か狩猟を手伝う」
ここでの生活は自給自足だ。獣を捕らえるか魚を釣るか農作業をするか、いずれかで食べ物を確保しなければならない。いくら魔術でも生命を生み出すのは不可能らしく、畑を耕す魔術はあっても無から野菜は作り出せない。
「三つ、魔術の修行をする」
月聖寺院はこの国の魔術を管理している。魔術の才能ある者がどこかで誕生すれば、悪用や暴走を防ぐためにここまで連れてきて学ばせたり、世界中に散らばる魔力や呪力、霊力的な力を持った道具を集めたり。あとは、いつ起こるか分からない、そもそも大前提としてそれ自体が起こるかも分からない『いつの日か訪れる戦い』のために準備をする。だからこそ、ここに住まう者は皆魔術の修行をしなければならない。
「わかってるよ、ここではそっちのルールに従うから」
田中は布団から出て、気持ちよさそうに伸びをした。
「…とは言いつつ未だに信じ難いけどな、本当に魔術が実在するなんて」
「あら、まだ信じないつもり? また体験でもする?」
林桜が挑発的な口ぶりをすると、田中は激しく首を横に振った。昨晩魔術の実在を説明をして更に実演もして見せたというのに、「さすがに嘘だろ」「何かタネがある」「最新の映像技術だ」と難癖をつけ続けた。その結果、自分自身を空中に浮かび上がらせられて延々と横方向に落下させられて地球を一周し、戻ってくるなり体を縮められてどこからともなく現れた猫に追いかけ回され、逃げた先の建物は何故か映画館になっておりそこでは自分の恥ずかしい学生時代の記憶が映画化されていて。信じると首を縦に振るまで強制的に魔術を体験させられ続けた。
「アレは二度とごめんだ」
思い出しただけでも半泣きになっていた。
「だったらさっさと支度して。人を待たせてるんだから。じゃあ、あとは任せたよ狗山」
田中が完全に起床したのを確認し、林桜は部屋を出て行った。
「え、お前がもっと色々説明してくれるんじゃないのか?」
廊下から彼女の声が聞こえた。「アンタに付きっきりになれるほど暇じゃないの。分からない事があったらそこにいる狗山に聞いて」
そこには二足歩行の犬のような生き物がいた。
「あ、えっと、イヌヤマっておたくの名前?」
「…ああそうだ、狗山とは私の事だ」
彼はがっしりした図体に似合わない、少年のような声をしていた。
それから月聖寺院での生活が始まった。
狗山の説明はいつも丁寧だった。数日前に質問したはずの内容をもう一度質問しても快く答えてくれたし、時折現れる専門用語にもすぐに補足を入れていた。
「いいかい、魔術というのは実際の物体に相互作用を自分自身のアストラル因子によって引き起こすもので」
「えっと、アストラル因子というのは…」
「それは魔術的な力場を発生させるためのエネルギーで、精神夢幻変換を体内で行えば」
「精神夢幻変換?」
「精神夢幻変換というのは、そもそもアストラル因子が空気中に漂っているものではないからこそ、体内の幻素と夢素を元に」
「ゲンソトムソ」
「幻素と夢素というのは、人体のドリームファクターの記憶陰性因子とイマジナリーファクターの想像陽性因子が魔霊的性質か呪妖的性質を持った幻素中性子と夢素中性子に合成された際に」
「…」
「…うん、私もここまで説明が難しいとは自分でも思わなかった」
ここで修行する身の者は皆日課を終えると、各々自室で自由に過ごしている。狗山は毎晩書庫に篭っており、そして管理人でもある。更に自身の寝床も、その部屋に確保していた。彼はある本を読んでいた。『アレイストの半生』、著者は題名にも書かれているアレイストという人物。彼は後世のために自らの魔術体得までの過程を書き記していた。
「どう、彼の修行は順調なの?」
林桜が書物を抱えて入ってきた。「これ返すね」書庫の入り口に設置されている、返却本回収用と張り紙された箱にそれらを入れた。
「いや、正直なところかなり難航しているよ。この本に何か手がかりがあればと思ったけど、役に立ちそうもない」
魔術の才がある者にとって、魔術とは教わるものでは無かった。バッタが跳ね方を誰にも教わらないように、カニが挟み方を誰にも教わらないように、スッポンが噛み方を教わらないように、人間だって二足での歩き方を教わらない。魔術も同じだ。そもそもこの寺院の目的も、魔術の扱い方を教える事が目的であり、決して使えるようにする事ではない。
「そもそも田中からはやる気を感じられないな。やはりまだ心の奥底では魔術を信じきれていない気がするのだよ」
「あれだけのことをやったのに?」
「いや、魔術の存在そのものというより魔術を扱える自分自身を想像出来ていない、そんな印象だ」
翌朝田中は、自室で待たされていた。部屋の真ん中に椅子と机を置いておくように、とだけ指示をされて。まるで学生と生徒の面談のようだった。
「やあ、待たせたね。今日は特別授業だ」
狗山と林桜が部屋に入ってきた。
「特別授業? って、なんだよ」
二人は教科書らしきものも何も手に持っていなかった。林桜が部屋に入ってきて机に腰掛けると、狗山はその少し後で見守るように立っていた。
「アンタは、なし崩し的にここに住み始めた。遭難していたところを私が助けて、その流れでここでの生活を始めた」
「ああ、感謝してるよ。残酷にも一旦見捨てられたけどな」
林桜が「あ?」と吐き捨てると、「いえ、なんでもないです」と反射的に口に出した。
「私たちはその中で、とても大事なことを確認し忘れていた」
「とても大事な事?」
「頭領からはアンタを鍛えておけと指示が出ていたけど…、アンタ自身は魔術を使いたいと思ってる?」
「使う気なんて無いと言ったらどうなるんだ」
「ここに来た時の記憶を全て消して家に送り返す」冷たくそう告げられて、田中は息を詰まらせた。なので、しばらく自分の中で答えを探した。
「俺は、今までの人生で失敗した事とか間違えた事があまりにも沢山ある。それが自分を成長させるなんて聞くけど、俺には後悔しか無いんだ。だからそういうのを、魔術を使って過去をやり直したい。もしそういう魔術があるなら使えるようになりたいんだ。だから俺は今ここに居座る最初からと決めていたんだ」
桜林はと狗山は顔を見合わせた。
「時間逆行、時戻り」
「つまりは時の魔術、最高位の魔術ね。アンタにもやり直したい事なんてあるんだ」
「うるせ」田中は恥ずかしがる思春期の青年のように目を逸らした。
「俺だって生きてりゃ後悔の一つや二つある」
「なのにそんな性格に仕上がった、と」桜林は半笑いだった。狗山は態度を改めさせようとしたのだが、
「悪くない理由ね。それにかなり難しい魔術だけど目標は高い方がいいわ」
思春期の弟を持つ姉のようだった。
優しく笑うと、手で何かを描いた。田中の座っていた椅子の下に、所謂魔法陣が現れ、田中はどこかに落ちていった。一瞬叫び声のようなものも聞こえたのが、気のせいだろう。陣の内側には大空が広がっており、既にここからはただの点にまで縮んでしまった誰かが見える。
「随分と荒療治だな」
「口で言うのは簡単なのよ。結局追い込まれたらどうなるか、大事なのはそこ」
空中で田中の体を次々と空気が通りすぎる。周りには何も無いのに耳元には轟音が鳴り響く。今のところ地面との距離がどれぐらい残されているのかは分からないが、一つ一つの景色が近づいて来ているのがよく分かる。今までの人生で時間に追われるピンチは何度も経験してきた。自分が死ぬのではないか、なんて恐怖もつい最近経験したばかりだ。それでも冷静さは保っていられなかった。
「……ぉぁ」
自分で自分の声すら聞こえていない。声がきちんと出ているのかも分からない。しかし、桜林の声がどこかから聞こえた。
「このまま落ちていったら死ぬわよ」
魔術で意識に話しかけているだけなのだが、田中には何故声が聞こえるのか気にしている余裕は無かった。
「ふざけんな! 待てよ! おい! なんで!」
最早文章を作る余裕すら無い。
「貴方が助かる方法は一つしかない。魔術を使って乗り切るの。なんとかしなさい」
「イメージするんだ、この状況から助かる方法を! どんな形でもいい、強くイメージしてみろ!」
狗山は懸命に田中へ助言をした。「鳥でも、虫でも、飛行機でも、漫画やアニメのキャラクターでもいい、飛んでる姿を強く想像しろ!」田中は「無理だ!」間髪入れずに返した。子供の頃はなんでも想像できたのに、大人になると中途半端に知識が身に付くにつれて、自分の知ってる範囲でしか行動できなくなる。既に飛んで助かるという方法は諦めてしまっていた。そこに頭の中をよぎったのは、あるデジャブだった。こんなふうに落下する瞬間を体験した記憶がある。スカイダイビングもバンジージャンプも経験は無いが、確かにある。ただの夢の中での話だが。誰しも経験がある、落ちる夢。田中は必死に思い出した、落ちる夢はどうやって助かるのかを。
次の瞬間、元いた部屋の床に落下した。
「あら、これは珍しいわね」
「一番珍しいパターンだな」
田中はうつ伏せたまま、起き上がれずにいた。腰が抜けていたのもあるのだが、少しおしっこを漏らしていたからだ。このまま二人が立ち去るのを待とうとしていた。
「…何か、臭わないか?」
「もしかして怖すぎてアンタちびった?」
「仕方ないだろ!」と弁明したかったのだが、大きい声を出す元気も無かった。
狗山曰く、ほとんどの人が羽を創るか空中に浮遊するか、そうして助かるらしい。その次に多いのがパラシュートを創る場合。偶にいるのが体を頑丈にして耐える場合。ごく稀にいるのが地面のほうを柔らかくしてしまう場合。そしてもっと稀なのが落とされる前に居た場所に瞬間移動する場合。今まで三〇〇人ほどに試してきたが、一番最後のものは田中以外でもう一人しか居ないらしい。田中はこの説明をされた時、「そもそもこんな恐ろしい事を三〇〇人にもやらせるな」と思った。
魔術を一度使用出来た田中は、そこからは順調だった。
「今度は上から落ちてくるぞ、どうする!」
狗山がわざとらしく警告した。上を見上げると大量の岩石や瓦礫が降り注ごうとしている。田中が両手の中で球体を生成すると、それを棒状に伸ばした。そして傘を開くように左手を引くと上空に結界壁が現れ、落下物は次々とそれに弾かれていった。田中は見せつけるように余裕の笑みを浮かべたのだが、狗山が視界から消えていた。
「派手な攻撃は陽動に使いやすい、憶えておけ」
背後から光の槍が迫る。田中は結界壁の展開を解除すると、同じ槍を瞬時に作り、攻撃を受け止めた。狗山が大袈裟に後退すると、田中の持っていた槍を思い切り投げつけた。手元を離れ、数歩分ほどの距離を飛んでいくとすぐに消えてしまった。
「またかよ」
「この短期間でそれだけできれば充分だ」
結界壁の張り方に光の槍の作り方、モノの動かし方。基本的な術は次々と会得していた。そのため実際の戦いに近しい魔術の使用演習を早くも始めていた。その中で田中は褒められているはずなのにも関わらず、「みんな使えるだろ、このぐらい」と何故か少し不機嫌そうにしていた。ただ、狗山には気持ちがよくわかっている。魔術の才能とは、そこから先が大事なのだ。水を動かせても水を生み出すのは難易度が全く違うし、幻を一人に見せるだけでも限られた人間にしか出来ないし、光の槍を投げるのすらも意外と難しい。田中はそこから先に全く踏み入れられていなかった。
演習を終えて夜になると、普通の生活のように食事をとる。部屋で一人で食べるのも別段問題は無いのだが、たいていは食堂に集まっている。二人は案外野菜好きであり食事の好みが似ていたので、一緒に食べる事も多い。
「なぁ、この間借りたネクロモンドの書なんだけど」
田中は狗山の管理する文献や書物を幾つも漁って自分の能力の向上に勤しんでいたので、よくその内容についての質問をこの時にぶつけていた。
「なんでも教えてやろう」
結局のところ、あれ程の資料を用意してもきちんと目を通す人間は非常に少ない。口頭で教わった魔術だけで満足する人間が多い。わざわざ書庫に借りに来る者もいたが、ほとんどの場合で読まずに返されていた。
「最後の方にアレイストの提唱する四大禁術の認識を〜』とか書いてあったんだけど、四大禁術ってなんだ」
「それは死者を蘇らせる術、認識を壊す術、生命を生成する術、そして時間を逆行する術の四つだ」
「マジかよ、俺が求めてたのってそんなヤバい術なのか?」
「いや、これは決して禁じられている訳ではない。倫理的に扱いが難しいから、いっそ禁止にした方が良いだろうという提案であってだな」
狗山には田中の向上心が嬉しかった。
頭領と桜林はテレビを見ていた。頭領の個室には古めかしい寺院には似つかわしく無い、かなり新しい機種があった。この建物は特に外界からの情報を遮断したりはしておらず、携帯電話の電波は届かずともwi-fiはあるしテレビ放送も繋がっている。光回線も通じている。魔術を使って世界に散らばる魔術師を探すのは面倒なので、頭領が何年も前にこのような通信設備を導入した。
『次のニュースです。海外でまたしても原因不明の青い炎が上がる火災が発生しました』
桜林は苛立ちと焦りを募らせていた。
「また竜鬼の仕業ですね」
「おそらくそうでしょう。あの者たちは目的も信念も無い愚かな集団です」
「既に奴らの拠点は割れていると聞きました。早く手を打ちましょう」
「ですがここを守る人間も必要です。魔具や呪具を奪われても厄介です」
「それはそうですが…」
その時、外で何かが崩れるような轟音が鳴った。頭領の個室に弟子の一人が息を切らしてやってきた。
「何事なの?」
「誰かが召喚魔術に失敗し、呼び出した魔獣を制御できずにいるようです!」
弟子と桜林が外に出ると、獣の雄叫びのような何かが聞こえた。その中心に向かうと、実践演習用の広場で既に田中が合成魔獣であるキマイラと交戦していた。
若い弟子が桜林のもとに寄ってきた。
「田中が失敗した自分を助けてくれて、しかも被害を少なくするために、広場まで誘き寄せたんです」
近くには、田中の様子を見守る狗山が腕を組んで立っていた。
「何ボーッと見てるの。片付けるわよ!」
「待て!」駆け出した桜林を狗山は静止した。
「少し見ていろ」
「でもキマイラなんて、対処が簡単な魔獣じゃないわよ」
「慌てるな、面白いものが見られるぞ」
桜林は狗山と同じ方に視線を向けた。
広場にはキマイラを囲うようにして光の槍が何本も突き立てられていた。キマイラには獅子と山羊の頭と、尾には蛇の頭がある。
「そう、こういう頭の数が複数以上の魔獣は、攻撃の手数が多くて厄介よ」
「しかも、背後をとるのすら非常に難しい」
しかし田中は致命的な一撃を一切受けていなかった。迫り来る爪や牙を、確実に避けられる光の槍の位置に瞬間移動して避けていたのだ。
「なるほど、時間逆行による瞬間移動ね。中々やるじゃない」
「ああ、少しだけだが、時間を操る魔術の才があったようだ」
田中はキマイラの攻撃を避けながら、手のひらの中で結界壁を展開する準備をしていた。「よし、いけるぞ!」そう言ってからその結界壁を上に投げた。するとそれは広場を覆うように一枚の円盤のように広がり、キマイラを地面と挟むように頭から抑え込んだ。
「狗山、こいつを元の場所に送り返せるか!」
「ああ、それだけ動きを止めてくれれば充分だ!」
狗山はキマイラの足元に陣を展開した。その内側が真っ暗な闇に染まると、沈むように落ちていった。
安堵する田中たちのもとに、頭領がゆっくりと歩いてきた。
「素晴らしい。もうそんな技を使えるとは驚きです。桜林、これで全ての条件が整いました」
「ですね。私たちは攻め入る準備をしましょう」
4
海を越えた先の雪国、その中にそびえ立つ山脈の中に竜鬼達の住処があった。頭領たちは吹雪の中数十人の隊を率いて向かっていた。山の麓に辿り着くと頭領のもとに白い鳥がやってきた。
「お勤めご苦労様です、これからは自由に生きてください」
左手の甲に乗せた一羽を、空中に放った。飛び立つと同時にその体内から何かが抜け落ち、散ってしまった。
先頭に立っていた桜林は隊の皆のほうへ振り向いた。
「竜鬼はこの先の洞窟にいるわ。戦う準備は万端だとは思うけど、改めて気持ちの準備をしておいて。おそらく過酷な戦いになるわ!」
「あの日やられた者たちの仇のためにも、今後の魔術界の名誉のためにも奴らを討ちましょう」
頭領が静かに皆を奮い立たせると再び山を見つめた。両手を天に掲げ、呪文を詠唱すると青い衝撃波が放たれた。何も無い空間にその衝撃波がぶつかり、ガラスが砕ける音がした。強力で巧妙に作られた結界を、破壊したのだ。その向こう側には大きな城があった。
「外から見る限りは綺麗な建物なんですがね」
隊全員で城の入り口に向かい始めた。また、皆が動き出すと同時に大勢が慌ただしく城のバルコニーに出てきた。「何があった?」「誰かが結界を破ったかもしれない!」「一体誰が!」騒然としていた。向こうは懸命にこちらを探しているが、まだしばらくは見つかる事はない。透過の衣を隊の全員分用意しており、その効果で完全に姿を消しているからだ。
「何事だ!」
血相の悪い女が外に姿を見せた。
「蛇尾様、断絶壁の術式を壊されたようです!」
「なに? …なるほど、そんな芸当ができる人間なぞ限られておるな」
蛇尾は両手十本の指先から火花を生み出すと、手のひらから徐々に範囲を広げて上半身全てに纏った。さらに吐き出すように火花を放ち、頭領たちの頭上に大量に降り注いだ。透過の衣は所々焦げ、あまり意味を為さなくなった。「おおよそ二十人といったところか」城の者たちは迎撃に向かった。
・・・
その頃、寺院に残った者達は演習場に居るか農作業をしていた。自室に篭って寝ている人間などいない。彼らは敵襲の可能性を頭に置き、すぐに接近を察知するためにも出来るだけ屋外で過ごそうとしていたのだ。
「でも、その竜鬼ってやつと相手の本拠地で戦うんだろ? だったらこんなに警戒する必要あるか?」
田中にはいつになく張りつめた空気が居心地悪かった。
「確かにそうかもしれないが、奴らには一度頭領の不在を狙われたからな。警戒は解けないのだよ」
狗山は不満を垂れている田中を諫めた。
「んで、その竜鬼ってやつは何者なんだ? そもそも強いのか?」
「ああ、強いには強い。けど…」
「けど?」
・・・
山脈の城内部では、それぞれが激しい戦闘を行っていた。魔術により武器が飛び交い、魔術により炎と雷がぶつかりあい、魔術によりお互いの精神を奪い合った。
若い男の持つ光の剣が老人の持つ邪気を纏った刀を受けると、力強い衝撃が空気を揺らす。それぞれが反発する力を持つため、そこに込められた魔術的な力が放たれるのだ。すると光の剣は少しづつ削り取られた。邪気を纏った刀は触れた箇所だけ邪気が無くなった。このままでは、単なる魔術的な体力勝負になってしまうと察し、若い男は距離を取っていくつもの斬撃を放った。その衝撃波が刀にぶつかる度にそれは普通の刀に戻った。そして最後の斬撃で、普通の刀は折れてしまい、老人は胴体を斜めに大きく切られた。
炎の使う女が指を鳴らす度に、一瞬空気が燃えた。彼女は自由自在に炎を生み出しているように見えるが、実際は違う。たんに空気中に僅かに含まれる可燃性の気体を発火点温度まで瞬間的に引き上げているだけだ。雷を放つ男の服や皮膚を直接燃やそうにも、布が少し焦げたり軽い火傷で済んでしまう。だから彼女の戦いには工夫が必要であり、常にガスボンベを持ち歩いた。中の気体を男に向かって放ち、それを発火点温度まで引き上げると激しい炎が発生した。雷を放つ男は十本の指先から雷を城内の地面に落とし、床を破壊し跳ね上げる事で瓦礫の壁を作った。ガスの炎はそれを燃やせなかった。彼は壁から体を出すと、炎の使う女の持つボンベに向かって雷を落とし、彼女の目の前で爆発させた。
ただ一人透過の衣が焼けなかった女は、それに包まって城の入り口で寝ていた。しかし特に戦いを避けているのではない。魂だけの霊体になって肉体から抜け出し、彼女は竜鬼の居場所を探っているのだ。この姿の状態ではこちらから攻撃出来ない代わりに、殆どの攻撃も受けない、つまり自由自在に城の内部を動き回るのも可能だ。同じ状態の敵でもいない限り。霊体化の魔術が使える人間は彼女だけではなかった。彼女の前に屈強な男が立ち塞がった。霊体どうしでの戦闘はとても単純だ。霊体化の魔術の途中で他の魔術は使えない。霊体どうしは触れられる。そうなると肉弾戦しかない。一人の女と屈強な男、戦いの行方は見えていた。殴られ蹴られ、投げ飛ばされ、一方的だった。簡単に決着がついたと思った男は、簡単に背中を見せた。女はその背中に霊体化させていた短剣を突き立てた。そもそも道具を霊体化する方法を知っていた女と知らなかった男、二人の戦いの行方は見えていた。
・・・
狗山は日常会話のように語った。
「竜鬼はただの犯罪者なんだ。悪人なりの信条も無ければ愚か者なりの論理も無いただの犯罪者」
「…それは、随分珍しいな」
田中は罪を犯す者には大半の理由があると理解していた。生活に苦しんでいたとか信じていた人から裏切られたとか社会から孤立したとか。そこに田中自身の理解が及ぶかどうかは別として、その人達の中では理屈が通っている。
「力を手に入れたから、それを使って利己的な悪事を働いているのさ」
「悪者というより犯罪者、か」
例えば透明になれる魔術があればバレないように盗みをやる、火を生み出す魔術があれば周囲には分からないように放火する、このような魔術を身につけると最初に思いつくようなくだらない行為をやっているのが竜鬼なのだと田中は解釈した。
「たとえ犯罪者の素質があっても実行力がなければただの卑怯者に終わるだろう。しかし厄介だったのは、奴に魔術の才能が溢れていたことだ」
・・・
「久しぶりね、少しは強くなったの?」
城の中で桜林が蛇尾と相対すると、挑発した。
「もちろん。少なくとも貴様よりはね」
蛇尾の指先から術が放たれた。桜林は掌でそれを弾いた。軌道を変えた術は背後で戦っていた者の背中にぶつかり、その部分だけが石化した。蛇尾は続けて何度も術を放つと桜林は同じように弾いて逸らした。ぶつかった箇所は風化したり液化したり溶け出したりあるいは真っ黒になって色を失ったりもした。
「いろんな術を使えるのね、でもそれだけじゃ強くなったとは思えないけど」
「貴様は随分珍しい手袋を使っているのね。術の影響を受けずに触れられるなんて、珍しい手袋ですこと」
桜林は気軽に話しながら戦っているが、心の奥底では理解していた。今日ここでどちらかが死を迎えると。
二人は同じ頃に頭領から引き取られ、幼い頃大半を二人で過ごしていた。二人は魔術の才覚に恵まれ、頭領の言付けの通り『いつの日か訪れる戦い』のために自らを鍛えた。魔術を体得するまでの経緯はお互い似た様な経緯を持っていたのだが、得意とした魔術は全く違った。桜林は肉体活性や強化、変化、硬化。蛇尾は対象の者の性質を変化させる術を得意とした。だからこそお互いを比べて妬んだり憧れたりもしなかった。二人は対等だった。
「こうして正面をきって戦うのは、初めてであろう」
蛇尾は自らの影を蛇の形に変えて桜林の影に絡みつくよう指示した。
魔術における戦闘は人対人の他に、魔獣との戦いがある。魔獣とはその殆どが人間に害をなすものばかりだ。それに、人間に害を与えるために人間の手で生み出されている場合もある。だからこそ魔獣は、術を探求する者にとって格好の練習相手だった。退治のためにも攻撃をされて然るべき存在なのだから。桜林も蛇頭も負ける可能性が無い場合は、新しく身につけた実験的な術を使った。そんな中、蛇頭の心の内側には小さな不満が募っていった。「もっと術を自由に使いたい」いつしか魔獣でも魔術師でもない山の動物や罪を犯した人間に術を向け始めた。桜林はそれを咎めたが、「こいつらも同じように害を為す獣じゃない。だったら私の行いを貴様に否定される筋合いは無い」何も言い返せなかった。
桜林は地面を掴み、影の蛇を引きずり出した。口が開かないように頭全体を握り、そのまま力を込めて潰してしまった。
「貴様はそれを当然の様に殺した。しかし本物の蛇ならば殺さない」
「当たり前じゃない、こっちはただの術だもの」
「この偽善者が!」
蛇頭が術を放つと、桜林はそれを弾きもせず掴んだ。術は発動も消滅もしないまま手のひらで暴れ続ける。それをそのまま投げ返してしまった。「なんだと!」あまりの出来事に蛇頭は反応できなかった。そのまま術が直撃し術が発動すると、蛇頭の体が極限まで小さくなり、そのまま消えた。
「ごめんなさいね。貴方の持論は尤もだけど、魔術師のルールで人間を捌くのも間違ってると思うの」
桜林は理解していた。蛇頭が竜鬼に傾倒している以上、彼女は個人的な基準で悪を捌いていたのではなく、単に無差別な新術の実験を行なっていただけだったのだ。
城の奥にある玉座には竜鬼が待ち構えていた。頭領はその部屋の大きな扉をゆっくりと開いた。
「貴方らしい場所ですね。見せかけだけの権威が小物らしさを引き立てています」
「あら、ヒドいこと言うね。久々の弟子との再会なのに」
「とっくの昔に破門しました」
「こっちが破門されても、俺からすれば師であるのは変わらないのに」
「私からすれば只の犯罪者です」
「じゃあ、捕まえる?」
頭領は少し微笑みながら言った。
「いえ、駆除します」
頭領の手のひらから大量の水が放たれた。それに呼応するように竜鬼は炎で消し去った。頭領が地面を破壊して石礫を作ると、それを竜鬼に向けて飛ばした。竜鬼は風圧で軌道を逸らした。竜鬼はあえて火を大量の水で、石を強い風で防ぐ事によって自らの術の規模を見せつけていた。
「俺が思うに、頭領はもう衰えが始まってるんじゃないかな」
「それは認めます。しかしその代わりの力は身につけました」
頭領が腕を上に向けると、脇からそれぞれ三本の腕が生え、合計八本となった。それぞれの腕に光の槍を生成し、そのまま突き立てにかかった。その全ての攻撃を竜鬼は避け続け、完全に見切った一本を掴んだ。光の槍は掴まれた箇所から黒く塗り替えられ、その黒が頭領の手まで到達すると生えた六本の腕は消え去ってしまった。
「この術も頭領に教えてもらったモノですよ」
「私に使うために教えたのではありません」
頭領は両手を地面につけると、術を送り込んだ。すると竜鬼の足元から大量の手が生えてきた。すぐに後に飛んで接触を回避しようとするも、追いかける様に生え続けた。竜鬼は飛び上がりながら体勢を上下逆にすると、天井に立った。そのまま魔術を繰り出そうとしたのだが、今度は天井からも手が生えてきた。
・・・
「まぁ確かに、力のある奴の悪行はしまつが悪いからな」
田中は自らを戒める様に呟いた。力のある人間が力を持っていると自覚するとあまり良くない結末が待っている。
「しかし奴の命運も今日で終わりだ。頭領が決着をつけてくれるだろう」
田中は狗山の話をきちんと聞きつつも、「ふーん」と他人事のような返事をした。その時何気なく視線を上に向けると、空に大量の人影らしきものが見えた。
・・・
身体中を手に掴まれ、天井に磔のようにされた竜鬼はこの状況でも平然だった。
「なぁ、頭領はなんで俺を目の敵にするんだ?」
「貴方が魔術で身勝手なことばかりするからです」
頭領は問いに答えながら光の槍を生成した。
「じゃあそれ以外で魔術は何のために使う? 世の中の技術や仕組みなんて大概は自分のため、みんなのため、楽するため、そのぐらいだろ」
光の槍は先端が三叉に分かれた。
「頭領だって自分のために魔術を使うんだろ?」
光の槍は一つ一つの先端の鋭さが増していった。
「そもそも、『いつの日か訪れる戦い』なんて本当に存在するの?」
頭領は無言のままその光の槍を放った。迫り来る三叉を目前に、竜鬼が全身に力を込めると天井から生えていた手が崩れ去り、それを回避した。そして頭領の背後に周りこんで青い炎を全力で放とうとした。しかし頭領の背中から生えた二本の手が竜鬼の胴体を貫いた。
「少し口数が多いですね。やはり貴方は破門して正解でした」
胴体を貫いた腕は、体内の温度特有の生温さが包んでいた。その腕をゆっくりと引き抜くと、竜鬼は掠れた声を漏らした。腕の先端からはインク漏れした赤ボールペンのように血が垂れていた。うつ伏せに倒れた竜鬼の背中から地面が見えたのだが、そこに血が溜まってしまった。竜鬼が完全に死亡した。
決着がついたとほぼ同時に林桜達が部屋に入ってきた。
「よかった! 無事討ち倒したのですね!」
「ええ、しかしやはり当時よりも力をつけていました。私とて危ない戦いでした」
皆が戦いの終わりを確信した。その時竜鬼の体が崩れ、内側から一枚のボロボロな紙切れが現れた。頭領はそれが何なのか知っていた。
「まさか、生命生成術…?」
頭の中に嫌な予感が芽生えた。
・・・
月聖寺院に多くの魔術師が襲来していた。その中には竜鬼の姿もあった。
「いやあ、大変な準備だったよ」
畑にゆらりと着地すると、悠然と作物を踏みながら寺院の建物に向かった。当然残された者たちは自分達の居場所を守るために必死に戦った。一人は光の槍を構え、一人は結界壁を展開し、一人は光の弾を漂わせた。竜鬼たちを閉じ込める形で結界を敷き詰めたが、ただ単に前へ歩くだけでそれを破ってしまった。竜鬼の仲間の一人が腕を振ると、槍と弾を用意した二人の元へ刀が落下し、上半身に突き刺さった。
「じゃあ、お目当てのヤツを探しにいくか」
寺院に残された者たちは、その殆どが実力的に未熟な魔術師ばかりだった。対し竜鬼は考え得る中で最も凶悪な才を持つ魔術師を引き連れていた。未熟な魔術師たちは寺院で戦う利を最大限に生かそうとした。周辺の自然、建物の設備、保管されている魔術道具、その全てを生かそうとした。このような実力差を埋めるための策であっても、差が大き過ぎれば意味が無い。竜鬼たちは次々と打ち破った。一矢報いた者もいたが、それだけでは状況は何も変わらなかった。
演習場にたどり着き、そこで狗山と田中の二人と対峙した。
「なぜお前がここにいる!」
狗山は犬歯を剥き出しにしていた。
「いやいや簡単な話だよ。俺をもう一人生成した」
「なんと、世界の秩序を何だと思っている!」
「そんな大袈裟に騒ぐなよ、俺が俺一人生成したぐらいで。しかも完全に複製できた訳じゃなくて実力的にもだいぶ下だしね?」
狗山その軽率な発言、思考回路に苛立った。全身に炎を纏い、また炎で創られた犬を従えて、竜鬼に飛びかかった。竜鬼はそれに目もくれず、田中の方へ距離を縮めた。
「お前があの魔術師か」
「俺はどの魔術師だよ」
田中は結界壁で近づいてくる者を跳ね除けた。また光の槍を何本も撒き散らし、返り討ちにしようとした。
「田中! 逃げろ!」
狗山は叫んだ。しかしその言葉も意味はなく、竜鬼の術が放たれ、田中の左腕が弾き飛んだ。持ち主から離れていった腕は演習場の端に落ちた。
「いってぇぇぇぇ!」
「ほう、その痛みでも気絶しないのか。余程強靭な精神力を持っているとみる」
「貴様、やってくれたな!」と炎の犬たちは敵に狙いを定めて次々と噛み付いた。その間、田中は左腕が無くなったこの状況を冷静に受け入れられないでいた。何故俺は左腕を失ったのか、何故この男は俺の左腕を弾き飛ばすような攻撃をしてきたのか、何故俺が攻撃をされなければいけないのか。
「痛いよな? 辛いよな? なんでこんな目に遭うんだって思ってるよな?」
竜鬼は田中の心の動きを言葉で特定の方向に促した。田中の心はある結論に達した。この戦いに参加しなければよかった。そう思った瞬間、左腕が元の状態に巻き戻った。
「素晴らしい!」
炎の犬を振り払いながら、竜鬼は歓喜した。
今までの田中は時間の逆行術には多くの制限があった。元いた時間的位置に移動する、その程度にしか効力を発揮できなかった。しかしこの時、才能が一段階開花した。完全に状態を巻き戻す事さえ可能になったのだ。
「素晴らしい力だ! 何としても手に入れないと!」
竜鬼は仲間の一人に指示をした。「持ち帰るぞ、ただし殺すんじゃないぞ」その仲間は空に何本もの刀を用意した。術を発動し、何本もの刀が田中と狗山の頭上に高速で降り注いだ。しかし一本も二人には当らなかった。田中が結界壁を展開していたのだ。
「ただの薄壁一枚で防いだだと?」
「薄壁なのは認めるけど、ひと工夫してあるんだよ」
結界壁は割れる訳でも破れる訳でも貫かれる訳でもなく、中途半端に突き刺さっていた。結界壁は基本的に一部に損傷があると全てが破壊される。つまり刺さっているこの状態は理論上ありえない。
しかし田中はこれを実現した。
「なるほど、時間逆行を繰り返して超速で再生させ続けているのか」
二人にとって相手との戦力差は絶望的だった。しかし田中の才能に、この状況を覆す可能性を狗山は見出していた。
「おい、その力は他の術にも向けられるか」
「それぐらい簡単だ」
「なら俺の術に合わせろ!」
田中は黙って頷いた。狗山が炎の犬を大量に生み出すと、それを竜鬼たちに仕向けた。それらが相手に噛み付く前に消しとばされる犬もいれば、噛み付いたもののすぐに振り払われたものもいた。攻撃がほとんど効いていないのを理解しつつも、同じ術を繰り返した。生み出しては消され、生み出しては消され。それが何度も行われた。その間、田中は無限に再生する結界を貼り続けた。
「なるほど、そういう事か」
竜鬼は二人の考えに気がつき、それと同時に田中は結界を解除。今度は先ほどまで何度も消されていた炎の犬を、一瞬で全て再生させた。演習場にいる全員の視界がその術で埋め尽くされた。力の差が多少あったとしても、それは策や時間の積み重ねによって覆せる。
大量の炎の犬が一人一人に噛み付き、全身が埋め尽くされてしまった。焼かれる熱さに悶える者が殆どだった。しかし一人だけが正気を保っていた。
「素晴らしい。やはり素晴らしい才能だ」
竜鬼が炎の犬を振り払うと、高速で石礫を二人に放った。田中は再び結界によりこれを防いだ。その間に石人形を作りあげ、狗山に肉弾戦をけしかけた。
石人形は腕を反らし、薙ぎ払うように大きく振った。狗山はこれを造作もなく回避し、鈍い風切り音がした。狗山は体を小さく構え、術で強化した爪を何度も刺した。少しづつひび割れていくと、完全に崩れた。しかし石人形は、自身で石人形を作る魔術を使用していた。
「狗山、こっちだ!」
田中は石礫を防ぐ結界を解除し、狗山は石人形を掴んで田中のほうに投げた。石人形に触れるとただの石の塊に巻き戻した。田中自身に攻撃が当たったが、それも時間を巻き戻し、怪我を簡単に直した。
「やはりあの男は強い。ただ策もなく戦うのでは二人同時にやられる」
「でもどうすんだよ」
「簡単な話だ。お前は今、防御と回復において最高の能力を有している。ならば私が攻撃に回る」
「狗山が無事で済まないだろ」
「その時は私の時間を巻き戻してくれ」
狗山は竜鬼に駆け出していった。
「そうだよな、やっぱりそう来るよな」
竜鬼は、この二人を相手するにおいて一番強力な連携を理解していた。田中が結界を貼りながらギリギリまで接近すると、直前で結界から外れ、狗山は徒手空拳で挑んでいった。先ほどの石人形と同じように術を纏った爪で上半身を何度も突き刺し、何度も切り刻んだ。竜鬼にとっては微々たる痛みしか与えられなかった。攻撃を喰らいながら竜鬼は斬撃の術を発動し、狗山は耳を切られ横腹を切られ足を切られ腕を切られ。確実に傷を負っていった。そして竜鬼が最大の斬撃術を発すると、右肩口から左脇腹まで大きな一太刀を浴びてしまった。その刹那、狗山は田中に言った。
「後は任せたぞ」
「ああ」
田中は狗山が爪に纏わせていた魔術を何度も何度も何度も逆行させた。
「なに!?」
竜鬼の上半身はほんの少しづつ削ぎ落とされていった。
「おおおおおお!」
田中は息を切らしていた。結界の高速連続巻き戻しよりもさらに上の速さで狗山の術を再生させていたのだ。
遂には皮が破れ、肉が切られ、骨が割られ、内臓を裂かれ、完全に上半身が失われた。そして首だけが、地面に落ちた。
「こんだけやれば、こっちの勝ちだろ…」
竜鬼の状態をじっと眺めて、田中は勝利を確信した。しかしその状態で竜鬼はしゃべり始めた。
「時間逆行術か…」
「嘘だろ!?」
生首にまだ意識があったのだ。田中は結界を展開し光の槍を構えた。
「安心しろ、ここまでやられたら俺も回復はできない」
「それでも、とんでもない生命力だな」
竜鬼の言葉を疑ってはいなかったが、術を構えたまま警戒は緩めずにいた。
「素晴らしい才能だな。しかし、一つ疑問を感じないか? 何故たまたま仕事をクビになって、たまたま魔術を知ったお前が、たまたま寺院を見つけられて、たまたまそんな才能を秘めていた? 話が上手すぎると思わないか?」
「それが運命ってもんだろ」
「随分健全な考え方だな。じゃあもう一つ。一人一人の魔術の才能ってのはどれも大したことはないんだ。じゃあなぜ頭領はあれ程魔術を大量に使える? おかしいと思わないか? そもそも『いつの日か訪れる戦い』って何だ? そんな事書いてる予言書見たこ」
竜鬼が話している途中で、田中は光の槍を突き立てた。
「ただの犯罪者が、散り際にごちゃごちゃうるせーよ」
田中は狗山の元へ駆け寄った。
「勝ったぞ、おい! 終わったぞ!」
しかし狗山は何も反応しなかった。
「そ、そうか、そりゃこんだけ怪我してりゃ、なあ! 俺がすぐに直してやる!」
田中は時間逆行術を使い、狗山の怪我は回復していった。
「よし、勝ったぞ狗山、体も直した。目を覚ませよそろそろ。いつまで寝てんだよ! おい、完全に治ってんだぞお前の体!」
田中の心の中に、自分の能力に制約があるのではないかと考えてしまった。しかしその推測は無視した。
「目を覚ませよ、なぁ! おいってば!」
狗山の体は完全に治っていた。しかし一切の反応がなかった。
5
寺院は殆ど元に戻っていた。壊された建物も壊された魔術道具も元通りになっていた。しかし死んだ人は誰一人戻らなかった。竜鬼の拠点から戻った頭領達は彼ら彼女らの遺体を山の中に埋めて弔った。葬式は慎ましやかに行われた。
掃除が行き届いていた建物も丁寧に手入れされていた植物も食堂の定番料理も、二度と帰ってこない。それは書庫の番人も同じだった。田中は、自発的に狗山の仕事を継いだ。ここ数日はじっと本を読み続けていた。
「入るわよ」
林桜が書庫に来ると、田中は顔を上げた。
「また新しいのを借りに来たのか」
「そうよ」機械的に応えると、簡単に沈黙が生まれた。
「…なぁ、いつまでそんなシケた面してんだよ。みんなもう前に動き出してるんだぞ」
「前ってどこよ」
「前っていうのは…、そりゃ自分のやりたい事だよ。実現したい何かがあってみんな魔術を習いに来たんだろ」
「私はそういうの無いから」
「そんな冷めた考えするなよ。俺たちは魔術を使えても普通に人生を生きていかなきゃいけないんだぜ。俺たちの居場所が守られただけでも充分だろ」
その発言を境に、林桜は本を読む手を止めた。
「守ったの? これで?」
本を閉じて棚に戻すと、田中が使っている受付用の机を叩いた。
「自惚れるのもいい加減にして!」
「あんだと?」
「狗山が死んだのはアンタのせいでしょうがっ!」
田中は立ち上がった。
「俺が何も試してないと思ったか、狗山の時間を戻そうとしたさ! けど、くそ、俺の力は事実までもは巻き戻せなかったんだよ!」
「使えない才能ね、何のために逆行術を会得したの!」
「ウルセェ、俺の力はそんな便利なモノじゃなかったんだよ! 時間なんて巻き戻さずに運命を受け入れるしか無いんだ!」
自分でこの話をしながら、田中は竜鬼が死に際に言っていた内容を思い出していた。
何故俺は魔術を使えるようになったのか、そもそも何故魔術の存在を確かめに行ったのか。田中の中で何かが繋がった。いや、繋がってしまった。
「なぁ、頭領は今どこにいる?」
田中は書庫の出入り口を見つめた。
「なに? 関係ないでしょそんなの」
「いいから教えてくれ」
「何なの? 自分の部屋にでもいるんじゃない?」
頭領の部屋は寺院の一番奥の棟にある。その扉を開けるとそこは空気が固まっているかのように人の気配が無かった。中央階段を登った先の扉をさらに開けても、誰も居なかった。真ん中に堂々と置かれた机に何枚もの手紙があった。
「時の魔術師、田中殿」
その内の一枚に、自分に宛てられたものがあった。
『拝啓 田中殿
まず初めに、急に皆の前から消える事を謝罪致します。申し訳ございません。しかし私がおらずとも皆が力を合わせればこの魔術界を守っていけると確信しております。林桜を中心に確固たる結束を築いて下さい。
さて、君が知りたいのは何故君が魔術師になったかというお話しでしょう。それはこの筆の中で説明します。そもそも私は、君が生まれた時から君の存在を知っていました。類稀なる魔術の才能は誕生したその時から察知する事が可能なのです。ですが何も知らない君が多くの結社から勧誘されるのは目に見えていました。ただ私には、君を育てそして守り続ける自信が無かった。だからこそ私は君の才能を隠し、現れないように細工したのです。
君は一人の人間として真っ当に生きていました。私も魔術界を守り続けると決めていました。きっと私たちの人生は決して交わらない、そう思っていました。しかし私はある日気がついたのです。私は、衰えていると。新たな力が、新たな才能が必要だと。
その時に思い出したのです、君の存在を。私は依頼主に扮して君の職を奪い、占い師に扮して魔術の存在を示唆し、熊に扮してこの寺院に誘ったのです。そして君を育て、最後は君の才を貰い受ける、そのつもりでした。これが真実です。
竜鬼との戦いの中で、私は明らかに衰えを感じました。私の出る幕は終わったのです。私も時間逆行の術を使いたいとは思いましたが、才を引き伸ばすのはもう止めようと考えました。ただ、今後現れる脅威は竜鬼以上の輩もいるでしょう。この世には幾人もの悪しき心を持った魔術師が存在しています。君ならば才を奪う術を簡単に会得できるはずです、力を身につけそれらを退けて下さい。独善的な正義観を持つ君ならばきっと大丈夫です。時を遡る術があろうと、運命に刻まれた出来事は覆せません。君の運命を受け入れて下さい。』
手紙を読み終えるとそれを握りつぶした。
「何が魔術界のためだ、お前は自分の思い通りに物事進めたいだけじゃねーか…」
頭領の部屋を出ようとした時、林桜が扉の前にいた。
「頭領は」
「消えてたよ」
「え」
田中は林桜に背を向けて歩き出した。
「ちょっと、どこ行くの」
「さぁ、アテも無い。どこに行くのかと言われれば、俺はここから出て行くよ」
彼は自分に定められた運命から必死に目を逸らそうとしていた。