まだ付き合っていない二人。
日向を助けた影山。
彼へもたらされる感情の意味とは?
自分を揺るがすイレギュラーに戸惑う影山の話。
「日向!」
放課後の体育館に激声が打ち上がる。
響いた影山の声に、館内にいた全ての者が振り返る。
人がまばらな体育館に打ち付ける雨の音。
湿り気のある空気。
二階から荷物を持って階段を降りる日向の姿。
部活の準備中。
少し気になり眼で追って、意識を彼へ向けていた。
それが幸いした。
「おわっ!」
荷物を持ったまま、日向は子供のように足を踏み外しバランスを崩した。
落ちる!
影山は双眸を見張る。
だが間に合った。
地を蹴り、日向が床へ頭をぶつける前に手を滑り込ませた。
間を置かずバタン、と。
音を立てて二人は床へ倒れ込んだ。
視界を揺るがすほどの衝撃が影山の全身を貫く。
「……頭っ、打ってねえか!」
すぐさま顔を振り上げた影山は声を発する。
身じろぎをし、上体を起こした日向は呆然としていた。
「大丈夫!? すごい音したよ?」
山口と清水、少し遅れて悠長に歩いてきた月島が座り込む二人を取り囲む。
「……影山、血出てる!」
山口の放った言葉に、日向はびくっと身体を揺らし双眸を見開く。
見れば影山の右手の甲は赤く滲み、ぽたりと血を床に落とした。
「床で擦ったんだな、大丈夫だ」
「──っ」
硬直していた日向は、血に濡れた影山の手を見て息を呑み顔色を激変させる。
呼吸が荒くなり、次にはあり得ないほどの動悸を誘発する。
「……手。影山の手、ダメになったら、どうしようっ!」
掠れた嘆きの言葉が漏れる。
へたり込んだまま、青ざめた日向は身を震わせ、ぼろぼろと涙滴を零す。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 俺のせいで……っ」
泣きじゃくり、謝罪を繰り返した。
今までにないほど取り乱す日向に、影山は双眸を見開く。
「そんなに泣くことないでしょ」
大袈裟だなと呆れる月島。
その横では山口がおろおろとしている。
月島の言葉など頭に入らない。
何も聞こえない。
そんな、何で、俺のせいで──。
ばくばくとした鼓動の衝撃が視界をブレさせる。
影山の手に視線を縫い付けたまま、日向は唇を震わす。
「……血、止まんないっ、清水先輩! 救急車……」
「日向、落ち着きなさい」
惑乱し、動揺に動揺を重ねる日向を清水が冷静に宥める。
その時だった。
「おい、どうした?」
日向達の喧騒を瀬切るように、背後から声が投じられる。
清水達が揃って振り返ると。
体育館へ入ってきた澤村がこちらへ歩み寄ってきた。
体育館内に緊迫した空気がもたらされる中、それまで唖然としていた影山が手を伸ばす。
ぐいっと、日向を引き寄せた。
「泣くなボゲェ。大したことねえって言ってんだろ」
彼の身体を自分の胸へと導き、両手でかき抱く。
「だってお前、血出て……」
日向は影山の服を両手で握り、震えながら言葉を零す。
「お前こそ脚打ってんだろ」
「影山が、俺かばって……」
「うるせえ! びーびー泣くな!」
影山は声を荒げる。
びくっと肩を跳ねさせた日向は、影山へ身を寄せ首元に顔を埋める。
「ごめん、ごめんなさい……」
嗚咽を漏らし、しがみ付いて離れようとしない彼を影山は抱き締め返す。
「……大丈夫だって言ってんだろ」
まるで幼子をあやすように。
背中と後頭部を慣れない手付きで優しく撫でた。
「まさに幼児だね、泣けば許されるとか思ってんでしょ」
見てて苛つくと、表情を小揺るぎもさせず毒づく月島に対し山口はツッキー言い過ぎだよと、何とも言えない表情を作る。
「よーし二人とも保健室行ってこい。そして今日はそのまま帰れ。いいな」
冷静に、一目で事態を把握した澤村は毅然とした声音で指示を出す。
「えっ……」
告げられた命令に、日向と影山はその場で固まり澤村を見上げる。
側にいる山口はあらーと、気の毒そうな顔をした。
何事に対しても常に冷静沈着な主将は、斜向かいへ眼差しを転じる。
「清水、頼む」
「はい」
凛とした声を響かせ、彼女は頷いた。
「気をつけて帰るのよ」
「はい、お疲れっしたー」
下駄箱で清水に見送られながら靴を履き替える。 今日は部活が出来ない。
澤村に帰れと言われたらそうする他はなかった。
「影山、助けてくれてありがとな」
「おう」
影山はこちらを見ずに端的に答える。
そんな彼の横顔を見上げ、日向は嘆息する。
「……やっぱ、怒鳴らねーんだな」
「あ?」
「いつもみたいに、部活できねーのお前のせいだぞボゲェ!って言わねーのな」
「……」
じっと直視してくる日向に、影山は努めて表情を消す。
口を閉ざし押し黙った影山から日向は視線を外した。
校庭でしばらく立ち尽くしていた二人は、致し方なく緩慢な動きで移動を開始した。
雨は止み、頭上には青空が広がっていた。
校門を出た二人は肩を並べて歩く。
「でも良かったー、影山の手がたいしたことなくて」
「だから言っただろうが」
保健室で影山が治療を受けている間、涙を溜めその様子を見ていた日向だったが。
立ち上がった影山に、ウゼェ、泣くなと指先で涙を拭われようやく泣き止んだ。
昂っていた感情も沈静化しつつある。
「あんなに血出てたら誰だって焦るだろ」
口を尖らせる日向へ。
お前だけだったじゃねーかと、影山は心底呆れた面持ちをする。
日向は俯きながら唇を震わせる。
「お前が手大事にしてんの知ってるし、毎日完璧にケアしてんのに俺が原因で……もし、影山が再起不能とかなったら、バレー出来なくなったら、俺は自分を絶対に許さない!」
己の不甲斐なさを詫びながら。
表情を硬く険しくする日向は、自転車のハンドルを掴む手を握り締める。
苛烈な響きを帯びたその声音に、影山は顔を僅かに動かし隣を一瞥する。
(んなの、こっちのセリフだボゲェ……)
包帯を巻かれた日向の左足を見やる。
ふくらはぎが青あざにはなっているが、痛みはさほどなく歩行に支障はない。
自転車もこげるだろう。
お前こそ再起不能免れてんだろうと、胸の内で憤る。
普段の顔を取り戻しつつある日向を見て。
ぎゅっと唇を噛んだ影山はふぅ、と吐息をつき視線を前方へ戻す。
そんな彼を他所に、日向はなおも言葉を続ける。
「影山、その時は俺が一生面倒見てやるからな!」
顔を振り上げ、安心しろ!と、西谷ばりのドヤ顔を作った。
ぴくり、と影山の肩が揺れる。
眼を丸くし、ゆっくりと顔を真隣へ向ける。
視線が合うと、日向はニヤリと口角を持ち上げた。
それに対し、影山は眉間に力を込め真剣な顔付きになる。
強い響きを灯す日向の言葉に。
向けられた鋭く熱い眼差しに。
影山は断定する。
これ、プロポーズだな。
彼は、盛大な勘違いをした。
(十年後も俺を倒すって言ってたの、そういうことか……)
合点がいったように邪笑した影山は、長い指を日向へ突きつけ額を弾いた。
「ぴぎゃ!?」と仰け反り涙目になる日向は何すんだよ!と影山を睨み付けた。
ふん、と鼻を鳴らした影山は先に歩き出す。
歩を進める毎に、地平線の奥へ日が沈んでいく。
夕焼けが始まる時刻だ。
下り坂の途中、眼下の街並みが光に濡れはじめる。
こいつと同じ色だなと、日向へ視線を移すと辺りは一面、蜜柑色に染まる。
「おお凄え! キレイだな! この時間に帰るの久々だなー」
眩しそうに空を見上げ、二人で帰る時いっつも真っ暗だもんなと笑った。
ゆっくりと歩いていた影山は、唐突に動きを止めた。
弾ける天真爛漫な笑顔。
屈託なく笑う日向の横顔を見つめる。
眩い光に濡れ、視界も心も彼で埋め尽くされる。
バレーに没頭する鋭く熱い眼差しとは別のあどけない顔。
早まる鼓動を知覚した影山は、ゆっくりと息を吐き出す。
(心臓うるせえ……)
今直面しているそれを、影山はこれまで経験したことがない。
規格外かつ未知の感情に抱き竦められる。
そんな感覚に陥った。
不意に、日向がこちらを見上げ口を開く。
「影山、腹減ったな。何か食って帰るか?」
「……ああ、食いたいもん、出来たな」
そう呟いた影山をまじまじと見つめ、日向は顔を引きつらせる。
「はは、お前の笑顔コワイなー。マジで引く」
その言葉に、影山は瞠目する。
(そうか、俺は今笑ってんのか……)
もう少し可愛く笑えねえの? と悪戯っぽい笑みを浮かべる日向を一瞥する。
「……結果オーライだな」
「へ?」
きょとん、と。
小首を傾げる日向を見下ろし、影山は笑みを深めた。
可愛いのはお前だけで十分だ、と。
そのすこぶる不敵な顔に、日向は怯え身構えた。
コワイ笑顔のまま、影山は思考を巡らす。
胸に迫る感情を誤魔化すことが出来ない。
無視することも出来ない。
悔しいが、やはりどうしても惹かれるのだ。
日向が秘める、凄烈たる闘志と度外れな身体能力に。
真っ直ぐで透明な純粋さに。
惜しみなく向けられる無垢な笑顔に。
体育館で抱きつかれた時。
腕の中に収まる彼は温かくて柔らかかった。
耳朶に触れる吐息がくすぐったかった。
いつも見ているしなやかな体躯は、想像以上に華奢だった。
縋り付かれて心が震えた。
互いの鼓動が交ざり合っている、そう感じてしまった。
保健室へ行くために身体を離す。
一瞬、涙を溜めた大きな眼がこちらを見上げた時、口では言い表わせない感情を確かに覚えた。
日向の背に回している手に力がこもる。
離れるのが惜しくなった。
今一度、彼を抱き寄せたい。
何だこの欲求は、何でこんな奴に?
知らない。
こんな感情は知らない。
訳わかんねえと、影山は大いに当惑する。
「影山?」
固まった影山を、日向は不安そうに見つめる。
「……行くぞ」
彼から視線を切り立ち上がる。
清水が、足を負傷した日向を支える。
三人で廊下を歩いていると、日向は双眸を潤ませこちらをチラッと窺う。
かと思うとうつむき、ぐすっと鼻をすする。
濡れた睫毛が震えていた。
無性に、抱き締めたい衝動にかられた。
薄暮が迫り、やがて薄闇が街並みを包み込む。
「なあ影山、どうしたんだよ。ぼーっとして」
思考を断ち切った影山は、すぐ側で見上げる日向と視線を絡める。
怪訝な面持ちをする彼へ、影山は一笑を漏らす。
プロポーズは受けて立つ。
勘違いをしたまま、勇み立つ影山は狙いを日向へ照準する。
そして──。
「おい、日向」
振り向いた彼と視線を交える。
深呼吸をして己の心を律する。
気付いたばかりの甘い想いを。
胸を温かくするこの感情を。
さあ、彼へ伝えよう。