伊地知星歌と、廣井きくりにこんな過去があったらなと思いました。pixivにも投稿してます。

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マイ・ベース、マイ・ヒーロー

 ステージの上には、これから演奏を行うバンドがスタンバイをしていた。

 ここ、下北沢のSTARRYでライブをするには、オーディションが行われる。

 オーナーである星歌さんのお眼鏡にかなわなければ演奏はできない。それだけに、演奏をするバンドは総じてレベルが高い。

 下北沢で、バンドのライブを聞くならSTARRYに行け、と語る業界人もいるらしい。

 しかし、今ステージの上にいる彼らは、初めて見る顔だ。恐らく、ここでのライブは初なのだろう。表情に、緊張がにじみ出ている。

 ステージから一番遠い所で見ている私にも、それが伝わってくる。

 緊張――私が感じなくなって久しい感情だ。

 ひとりちゃんたち結束バンドの時もそうだったけれど、ぴかぴかに磨かれた楽器を見るたびに思い出すことがある。

 私が初めてベースを買ったころの話だ――

 

◆ ◆ ◆ ◆

 

 何事もなく終わった高校生活。なんとなく入学式を終えたと思ったら、気が付くと卒業証書を手にしていた。

 高校生活3年間。友達と呼べるニンゲンもできず、私は教室という箱のなかに、ただいるだけの存在だった。いろんなヒトがいる中で、触れられることも視界にも入らない、ワタシダケがユウレイみたいな扱い。

何とか大学に入学することだけは決まっていたが、大学生活の4年間も、きっと同じように何事もなくさらりと終わるのだろう。

 けど、それでいいや――そんなことを、歩きながら考える。

 親に、夕飯の買い物を頼まれた帰り道。夕暮れ時の駅前には、帰宅を急ぐ人たちで溢れている。その中でも、私はひとりぼっちだった。

 人ごみの中をすり抜けていくようにして歩く。

 私は、人混みが嫌いだ。誰もかれも、幸せそうな表情を貼り付けて、私のことを嘲笑っているように感じるから。

 立ち去ろうと足を速めた時、耳に音が飛び込んできた。

 何の音だろうと見渡してみると、広場の一角に楽器を演奏している人たちが見える。

 人生で初めて見る、バンドの路上ライブだった。自分よりちょっと年上くらいの女の子が3人、路上で楽器を演奏している。

 立ち止まって聞いている人は、お世辞にも多いとは言えない。

 けれど、彼女たちは一生懸命に、なにより楽しそうに演奏している。その姿に、私は心惹かれた。

 素直に、うらやましいと思う。

 何の変哲もない、ありきたりな人生しか送ってこなかった自分。今後、友達もできないままダラダラと歳を取り、誰の記憶にも残らないまま人生を終えるのだろう。

 そんなのはまっぴらだ。少しでもいい、自分を変えたいと思った。

 

◆ ◆ ◆ ◆

 

 私は、御茶ノ水に来ていた。

 路上ライブを見た数日後だ。自分にもこんな行動力があったのかと、少し驚く。

 時折吹く風はちょっと湿っぽくて、季節は春になろうとしていることを教えてくれる。初めて来る町で少し緊張しているせいか、手のひらも湿っぽい。

 私は、バッグの中に財布があることを確認して、歩き出す。

 目的地は決まっていた。イシバシ楽器御茶ノ水本店だ。

 私に、バンドをやっている友達なんているはずもなく、情報源はネットの海。そこで、とりあえずここに行けば間違いないとレビューされていたのがこの店だったのだ。

 東京メトロ丸の内線、2番出口。

 明大通りを真っすぐ歩いて徒歩2分。

 携帯の画面に表示されるマップを頼りにしなくても、店につくことができた。

 店の中から溢れるように、店頭にまでギターが並んでいる。その光景は、私のようなニンゲンを近寄らせないように威嚇しているようにも見えた。

 透明な自動ドアと、大きな窓に貼られているチラシの隙間からも、店の中が楽器で溢れているのが見えた。

 なんとなく近寄りづらくて、私は店の前で二の足を踏む。ここまで来てためらうのが私だ。

 もう、本音では帰りたくてしょうがない。

 しかし、店の前で挙動不審な私に、通行人からの奇異の目が向けられる。そのせいで、動きたくても動けなくなっていた。

 体感では永遠に近い時間が流れたころ、誰かの声で現実に引き戻された。

 

「客なら入って。冷やかしなら、そこ邪魔なんだけど」

 

 はっとして顔を上げる。

 すると、そこには女性が立っていた。金髪を肩位まで伸ばした女性が、腕を組んでこちらをにらむように見ている。

 

「ひっ」

 

 喉を締め上げたような声が、反射的に漏れた。

 自分が犯罪者になったような心地になって、即座に頭を下げる。

 

「す、するみません」

 

 もう呂律も回っていない。

 視界に入るひざは震えている。あまりの情けなさに、このまま消えてしまいたいと思った。

 

「すみませんじゃなくて。ギター興味あるのか?」

 

 頭上から降ってきた声には、困惑が混じっていた。

 ギターへの興味。突かれた図星に、恐る恐る顔を上げる。

 

「は、はひ」

 

 今度は噛んだ。コミュニケーション能力の低さを痛感して、泣きたくなる。

 しかし、目の前の女の人はそんなこと気にも留めていないようで、

 

「じゃあ、入んなよ」

 

 と、いって店内に戻っていった。

 私は、慌てて彼女の後を追うように店に入っていく。

 このチャンスを逃すと、一生店に入ることができない気がしたからだ。一歩足を踏み入れた店内。そこは、私がこれまで触れたことがないものばかりで、次元が違う世界に迷い込んだようだった。

 

「わぁ……」

 

 小さく声が漏れる。

 息をすると、嗅いだことのないケミカルなニオイが鼻をくすぐる。

 壁と床には、所狭しとギターが立っている。それらすべてに値札が貼られていて、全部が売り物なんだと分かった。何本かには売約済み、と書かれた紙が貼られている。

 

「じゃあ、ごゆっくり」

 

 そういって、女の人は何かの作業を再開した。私のせいで、中断していたのだろう。

 スプレーのようなものを布に吹きかけて、ギターを吹き上げている。

 拭かれたギターの表面が、眩しく私の瞳を刺した。

 

◆ ◆ ◆ ◆

 

 私がここに来た目的は、いわずもがなギターを買うためだ。自分を変えるためにギターを始める。衝動的で安易な考えかもしれない。

 けれど、路上ライブの光景が、私の頭から離れなかった。

 だからこそ、ここにきた。

 しかし、ギターにこんなに種類があるのを知らなかった。並ぶギターに貼られた紙には、値段のほかに、聞きなれないカタカナが並んでいる。

 入店して、すでに1時間は経っているだろう。その間、私はうろうろするばかり。

 結果として、1時間前と状況は変わっていないじゃないか。

 改めて、今の状態を整理してみると、途端に心がしおれたのが分かった。

 

――やっぱり、今日は帰ろう。

 

 きびすを返して、店の自動ドアに向かって一歩踏み出す――その時だ。

 

「なにか探してるのか? それとも、やっぱり冷やかしか?」

 

 背後から声を掛けられた。

 

「ひぅ」

 

 身をすくませて、ゆっくりと振り返る。そこには、さっきの女の人が立っていた。

 

「冷やかしなら帰れって言ったよな」

 

 ずい、と顔を近づけてくる。

 

――やっぱり帰れば良かった!

 

 私は、心の中で悲鳴を上げていた。

 

 

「冷やかしじゃないなら、先に言えよな」

 

 ぐしゃぐしゃと乱暴に頭をかきながら、女の人が言った。

 全身から、申し訳なさがにじみ出ている。

 言葉遣いは怖いけれど、悪い人ではないのかもしれない。

 

「ご、ごめんなさい。あ、あの……」

 

「だから謝んなくていいって、悪いのはこっちだから。私は伊地知星歌、アンタは?」

 

 星歌さんはバツが悪そうに、頬をかきながら言った。

 

「ひ、廣井です。廣井きくり」

 

「で、確認だけど、初心者だよな?」

 

 私は、返事の代わりに首を縦に振って答える。

 

「ギターが欲しくて、探してる?」

 

 また、首を縦に振る。

 

「なら……」

 

 と言って、彼女は並んでいるギターの一角に向かった。

 顎に指を当てながら、何事かを呟いている。

 やがて、1本のギターを手にして戻ってきた。

 

「これなんか、おすすめ」

 

 と、私の目の前にギターを掲げて見せた。

 

◆ ◆ ◆

 

 それから、星歌さんは何本もギターを見せてくれた。

 時には、音も聞かせてくれた。その演奏は、素人の私にも分かるほど、上手だ。

 しかし、優柔不断が災いする。なかなか、決めきれない。

 すでに、入店してから2時間は経っている。

 

「ピンとこないか?」

 

「ごめんなさい」

 

 星歌さんがおすすめしてくれる位だ。

 どのギターも、良いものであることは分かる。

 でも、決めることができない。

 

「いいよ、べつに。最初の楽器選びなんて、そんなもんだから」

 

 星歌さんが、ギターを元の場所に戻しながら言った。

 申し訳なさで一杯になる。

 でも、ピンと来ないのは確かだった。

 

――何かが、ちがう。

 

 その時、1本のギターが目に入った。店の奥の角当たり、壁にかけられているギターだ。

 

「あの……あれって」

 

「ん?ああ、あれはベースだよ。ざっくりいえば、目立つ高い音を出せるのがギターで、低い音をカバーするのがベースね」

 

 言いながら、星歌さんがベース、と呼ばれたそれを壁から外してくれた。

 さっきまで見ていたギターよりも一回り大きいそれは、本体に虎のような模様が浮かび上がっている。弦の数も4本と、少ない。

 

「これ、ヤマハってメーカーのTRB1004Jってモデル……って言っても、分かんないよな」

 

 そういうと、星歌さんはベースの本体にピンを刺した。

 ゆっくりと、確かめるように弦を抑えて、一度だけかき鳴らした。

 すると、轟くような音の波が、スピーカーから溢れだす。

 私は、自分の頭から足先までの神経が、感電したように震えるのが分かった。頭蓋骨の中までずっしりと響くベースの音が、とても心地よい。

 やがて、感情的な余韻のさざめきが、ゆっくりと糸を引いて消えていく。

 

――これだ。

 

 直感的に、そう思った。

 思ったときには、口に出していた。

 

「これ、ください」

 

「え、ギターじゃなくてベースでいいのか」

 

 手のひらを返すような即決に、星歌さんは驚いたらしい。

 

「はい、これがいいんです」

 

 ギターとは違う、重厚なベース音。

 あの時、聞いた路上ライブ。このベースでなら、私もあんな風に演奏できるかもしれない。

 誰かの記憶に残るような、演奏を。

 

◆ ◆ ◆ ◆

 

 それから、アンプやシールド、チューナーといった最低限必要な機材を星歌さんに選んで貰った。初心者用のセットがあるらしく、こちらは安く済んだ。

 ストラップは、シンプルなブラック。それに、楽譜も途中の本屋で買ってきた。

 全部を一度に持って帰るのは大変だった。荷物を運んだせいで、肩も両腕も疲れ切っている。おまけに、足もへとへとだ。

 けれど、鏡の前でベースを構えてみると疲れが吹き飛んだ。

 ぴかぴかと光る新品のベース。両手で弦を抑えてみると、それだけで自分が生まれ変わったように見える。

 

「か、かっこいい……」

 

 自分しかいない部屋で、感嘆の声をあげた。

 アンプに、ヘッドホンのピンを刺し込んで、頭に付ける。ベースの方は、星歌さんに教えて貰ったようにセッティング済みだ。

 恐る恐る弦をはじくと、なんだか頼りないけれど、確かに音がした。それだけで、背筋がむずむずとくすぐったい。

 私は、練習に取り掛かった。

 

◆ ◆ ◆ ◆

 

「っツ……」

 

 鋭い痛みに、私は顔をしかめる。

 右手を見ると、親指の腹に赤い筋が1本走っていた。

 弦をこすり弾く部分が、切れているのだ。

 最初はばんそうこうを貼って何とかしようとしたけれど、ばんそうこうは材質的に柔らかい。

 練習を続けるうちに、ばんそうこうでは間に合わなくなった。なので、私の指は、テーピングでぐるぐる 巻きになっている。たまに台所に立っても、こうはならない。

 

――でも、これは上手くなるために必要なことなんだ。

 

 私は、自分に言い聞かせて、練習を続けた。

 その日は、いつの間にか外が明るくなっていた。

 

◆ ◆ ◆ ◆

 

 それから1週間、私は練習に没頭した。

 さいわい、時間だけはある。

 ご飯を食べるのを忘れる位にベースを弾き続けた。

 楽譜を見ながら曲を聞いて、同じ音が出せるようになるのが近道だと思ったのだ。

 しかし、一向に上達しないどころか、ベースを絶え間なく引き続けているおかげで指先のけがが治らない。

 時には、ベースの本体に赤いしずくが落ちることもあった。そのたびに、私はベースに謝りながら拭いて綺麗にする。

 そんなことを繰り返していると、自分でも気が付き始める。

 

「私みたいなニンゲンは、やっぱりベース上手く弾けないんだな」

 

 私は、ベースを床に置いた。でこぴんをするように弦を弾く。すると、バツりと弦が切れて弾けた。

今まで忘れていたけれど、私は諦めるのが得意だった。

 

◆ ◆ ◆ ◆

 

 翌日、私は楽器店を訪れていた。

 私は、ベースをケースごとレジカウンターの上に置く。

 

「売るのか?」

 

 と星歌さん。

 私は、ゆっくりうなずいた。

 彼女はベースをケースから出して、しばらく眺めていた。

 ベースを置いて、レジを開く。中から、お札を何枚か取って私に差し出した。その数は、予想より、多かった。

 

「選んでもらったのに、ごめんなさい」

 

 私は、頭を下げる。

 星歌さんは、相変わらず仏頂面のまま、

 

「別に、いいよ」

 

 と、言った。私は、書類に簡単なサインをして店を出る。

 背負うものがなくなった肩は、虚しく軽かった。

 

◆ ◆ ◆ ◆

 

 ベースは売ってしまったものの、その行方はなんとなく気になっていた。

 他のギターと同じく値札が付けられて、また誰かが買っていくのだろうか。

 ベースを売った3日後には、私はまた御茶ノ水を訪れていた。星歌さんに気づかれないように注意して、店の前をゆっくりと通り過ぎる。

 歩きながら、店内に目をこらす。すると、もう私のモノだったベースは、店に並べられていた。しかも、売約済みと書かれた紙が貼られている。

 流石にショックだけれど、売ってしまったのは自分だ。今さら、どうにもできない。

 私は、どうにも気になって何日かおきに御茶ノ水へ足を運ぶようになっていた。店をのぞいては、売約済みの札を見て溜息をついた。

 だけど、売約済みの紙が貼られたまま、ベースはなかなか店から姿を消さなかった。

 もしかすると、誰かが手付金を払って予約していったのかもしれない。後ろ髪を引かれながら、御茶ノ水を後にする。そのたびに、私の中の後悔は膨らんでいく。

 

◆ ◆ ◆ ◆

 

 私は、あの日星歌さんに渡されたお金を財布に入れて、再び御茶ノ水を訪れていた。

 楽器屋に入っていく。

 店内を見渡すと、星歌さんがいた。

 初めてあった日と同じように、ギターをメンテナンスしていたようだった。

 彼女は、私の姿を見つけると、

 

「また来たのか」

 

 と、言った。ギターとポリッシュを置く。

 私は、店内を見渡す。

 私が売ったベースは、まだそこに並んでいた。相変わらず、売約済みの紙は張り付いたままだ。

 私は、

 

「あの」

 

 と口を開く。ベースを指さして言った。

 

「あの……すごく図々しいとは分かってるんですけど、あのベースって買い戻すことはできませんか」

 

 何とか絞りだした言葉が終わると同時に、私は財布からお金を取り出す。あの日、星歌さんに渡されたベースの代金。それを、星歌さんに見せた。

 

「もう、売約済みになっているベースを売ってくれ、なんて……すごく図々しいとは思うんです。けれど、なんとかなるのなら……」

 

 私は、必死だった。

 震える手で、お金をカウンター上のトレイに置く。

 自分でも分かるくらいに顔が熱い。

 やがて、星歌さんがくすりと笑った。

 

「まぁ、なんとかならないことも、ない」

 

「なんとか、なる?」

 

 私は訊き返した。すると、星歌さんがうなずく。ベースに近づいて、売約済みと書かれた紙を剥がした。そのまま、くしゃくしゃに丸めてしまう。

 私は、目の前でとんでもないことが起きているような気がして、訊く。

 

「え、いいんですか、そんなことしても……」

 

「いいんだよ。これを予約したのは私だから」

 

 と、星歌さん。彼女は、丸めた紙をゴミ箱に放り込む。

 

「え……」

 

 私は、目を丸くするばかりで、どういうことなのか理解できなかった。

 

「星歌さんが、私の売ったベースを予約したってことですか?」

 

「そう」

 

 星歌さんはうなずきながら言った。

 

「どうして、そんなことを……?」

 

 言葉を絞りだす。

 すると、

 

「お前が、必ずこのベースを買戻しに来ると思ったからだよ」

 

 と、彼女はベースの表面を撫でながらいった。

 

「私が、必ず買戻しに?」

 

「ああ」

 

「どうして、そう思ったんですか?」

 

 私は、訊いた。星歌さんは、私の目をまっすぐに見ていた。

 そして、

 

「その指、かな」

 

 と、私の手を指さしていった。

 

「指?」

 

 星歌さんは、うなずく。

 

「そう、指。普通、ギターやらベースやらを買って、すぐ売りに来るやつの指は大体キレイなまんまなんだよ。なんでか分かる?」

 

「いえ」

 

「簡単だよ。練習しないからさ。何回かやってみて、できないからってすぐに諦める。んで、私は練習したんですって顔をしながらキレイな指で売りに来るんだ。でも、お前は違った」

 

 私は、自分の手を見た。

 確かに私の指は、ばんそうこうとテーピングだらけになっている。

 

「お前がベースを売ったお金を受け取ったとき、気が付いた。しっかり練習した手だってね」

 

 彼女の言葉を、私は黙って聞いている。

 

「指がぐしゃぐしゃになるまで練習する人間が、簡単に諦めるはずがないと思ったのさ。経験からしても、ね。きっと、必死に練習して、練習して。それでも上手くいかなくて、つまづいた。んで、悩みぬいた上で、ベース手放す決心をしたんだろ」

 

 私は、言葉が出せないでいた。

「それに」と、星歌さんが続ける。

 

「お前がちらちら店の前通るの、知ってたぞ。ここの店員、私だけじゃないし」

 

 どうやら、ばれていないと思っていたのは私だけだったらしい。

 

「だから、売約済みにしておいた、ってワケ」

 

 そういうと、星歌さんは店の奥からケースを出してきた。それも、私が置いて行ったものだった。

ベースを、ケースに入れ始める。

 

「あの、なんていったらいいか……」

 

 ようやく言葉が出た。

 でも、蚊の鳴くような呟きが、精一杯だった。

 ここまで星歌さんが言ったことは、予想もできないことだった。

 

「いいよ、何も言わなくて」

 

 と言うと、ケースに入ったベースを渡してくれた。

 

「あと、これ使え。ケガしなくて済むから」

 

 星歌さんは、ポケットからピックを取り出した。ピンク地に、動物の柄がプリントされているピックだった。それを、私の上着の胸ポケットに落とす。

 

「後さぁ、どんな練習してんの?」

 

 と、星歌さんは眉間にしわを寄せている。

 私がやっていた練習法を伝えると、彼女は大きく息を吐いた。

 

「ばか、いきなり楽譜見て弾けるような奴がいるか」

 

 そう言うと、カウンターの中から本を取り出した。表紙を見るに、初心者向けのハウ・ツー本だ。ページは広がっていない。新品の本らしかった。

 だけど、ところどころに、なぜか付箋が貼ってある。

 

「これ、やるから使え」

 

「え、あの、お金は」

 

 私は、慌てて財布を取り出そうとする。

 

「いいから」

 

 星歌さんは、ぐいと本を私に押し付けた。

 

「さっさと帰って練習しろ。ポール・マッカートニーも、ジョン・エントウィッスルだって、みんな最初は下手くそだったんだから」

 

 私は、小さくうなづいた。

 大きくうなづくと、にじんだ涙が落ちそうだったからだ。

 

◆ ◆ ◆ ◆

 

 ステージの上では、ライブが終わったようだった。

 会心の演奏だったのだろう。バンドのメンバーたちは、お互いうなずき合っている。

 私は、胸の前で小さく拍手を送った。

 誰かの第一歩を見るのは、嫌いじゃない。むしろ、好き。

 場内が静まった頃、視界の端に星歌さんの姿をとらえた。

 今日も開かれるであろう打ち上げの予感に、私はタックルするように彼女の腰に飛びついた。

 

「うわ、なんだこの酔っ払い。誰かつまみだせ」

 

 めんどくさそうに、星歌さんは私を振りほどこうとする。

 

「先輩、今日も打ち上げありますよねぇ」

 

「あったとしても、お前は呼ばねぇよ」

 

 私は、まだあの日のお礼を言えないままでいる。

 ベースは、私の相棒で宝物。あの時貰ったピックも、大切にしまってある。これは、星歌さんには秘密だ。

 お酒の力に頼って、今日なら言えるだろうか。

 あの日の、ありがとうを。

 

――私の、ヒーローに。


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