追放されたら能力の真価が発揮されて俺だけセカンドライフがウハウハになった、の逆で冒険者としては完全無欠だったのに引退後の人生がハチャメチャになって終わろうとしている人たち   作:quiet

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1話 お前の人生終わりだよ

 

 

「やったー! 勝った!!」

 

 

 ずごごごご、とすごい音を立てて荒野にモンスターが沈んでいくので、三歳児でも見ればわかったことだろう。勝った。そして五歳児程度の知能があるならわかったことだろう。その沈みゆくモンスターは伝説の魔巨鼠ヌゴゴプロヌス・プロクトマギカ。そして三百七歳であればわかったことだろう。千年に三~八回くらい目覚める伝説の魔巨鼠ヌゴゴプロヌス・プロクトマギカを、再び人類の愛と勇気が打倒したのだ。そして心からの美しい涙を流す三百七歳の下に、王子様が現れて言うだろう。君に涙は似合わない。俺と踊らないか。

 

 ところで「やったー! 勝った!!」と言いながらガッツポーズをしてぴょんぴょん飛び跳ねているのは、十九歳だった。

 

「うひゃー! 本当にやっちゃった!」

 

 彼女の名はミハロ・クローバ。

 天才魔法使いの名をほしいままにする彼女は、周囲がものすごい赤茶けた荒野であるのをいいことに、誰に憚ることもなくぴょんぴょん飛び跳ねている。具体的には身長と同じくらいの高さを跳んでいて、時には大きな杖を両腕に抱えながら宙返りまでしている。そして赤茶けた荒野にずっかんずっかん足跡を残している。

 

 ずっかん、と彼女は着地する。

 それから大きく両手を広げて、こんな風に語りかけた。

 

「やっちゃいましたよ、みなさん!」

 

 語りかけた先には、三人の仲間たちがいた。

 ひとりは剣士。もうひとりは騎士。最後のひとりが賢者。みな満身創痍で空を見上げている。なぜ空を見ているかは知らないが、構図としては絵になっている。

 

 いやあ、と言ってミハロは話し出す。話し出すというか興奮でまくし立てている。剣士は落ち着いて、騎士は笑いながら、賢者は疲労からかぼーっとした様子でそれに応える。

 

 この凄まじい荒野に至るまでの一年間、筆舌に尽くしがたい旅路と大冒険があった。具体的にどんなものだったのかと訊かれると筆舌に尽くしがたいがために何も答えられないわけなのだが(しかし、偉業とは得てしてそういうものだ)、筆舌が及ぶ範囲で語れることがあるとすれば、その旅路の中で四人は異常な回数の神経衰弱バトル(伏せられたカード群の中からペアを捲り当て、その当てた枚数を競うゲームのこと)を行い、絆を深めていた。

 

 だから話は弾んだ。ミハロが若さと興奮に任せてぺらぺらぺらぺら喋り倒しているのに、残りの三人は適切な相槌を打ってくれていた。そして空を見上げていた。なぜ空を見ていたかは知らないが、風に髪がなびいて絵になっていた。

 

 適切な相槌を得たミハロのトークは、まさしく合いの手を得た餅つきのようにとどまることを知らなかった。ぺったんぺったん。ぺったんぺったんぺったんぺったん。うわあ、餅が美味い! 結局誰が制するわけでもなく、彼女が自分の喉の渇きに気付いたり、よく考えたらこれから帰らなくちゃいけないのかめんどくさいなと思ってテンションを下げたりするまで、つまり自主的にそれを止めるまで、延々止まらなかった。ゆえに後になってミハロは思い出す。あの言葉を口にしたとき。自分のそれからの人生に大きな影響を及ぼすあの言葉を自分の喉が発したとき。あれは誰が悪かったわけでもなければ、誰の無意識の誘導を受けたわけでもない。

 

 

「こうして会えたのも何かの縁!

 何かあったらいつでも頼ってくださいね! みなさん!」

 

 自分の口が軽かったのだ、と。

 

 

 

 

 

 

 共和国には『学園』と呼ばれる巨大な都市が存在し、そこには無数のフレッシュな若者たちと、残念ながら年齢という強大なアドバンテージを有してなおフレッシュとは言いがたいくたびれた若者たちがおり、さらにそれを取り囲むようにして若者たちの生気を吸い取りながら日々を生きるインフラ労働者と、一体何億年前からそこに建っているのだと思わず疑問を浮かべずにはおられないような黴臭い学園校舎がひしめいている。

 

 さあ、早速この都市の中に入ってみよう。

 

 特に塀に囲まれた都市というわけではない。学問は誰にも分け隔てなく開かれているものであるし、またたとえ学問の芳醇かつまろやかな香りに惹かれてモンスターが涎を垂らしながら乱入してきたとしても、何とかそれに対処するための手段が(もちろんこれは、誰が好む形で想像してもらって構わない。想像はいつだって自由だ)この都市の住人たちの手の中に常に存在するからだ。

 

 しかしここは、いわゆる『正門』と呼ばれる場所から入って行くのがわかりやすかろう。

 

 いっとう大きな門だ。首府から来る魔法馬車は大抵の場合まずここで止まる。もう着いたのか、という客の言葉に「ええ」と御者は答える。車から降りてきた客は眼前に広がるとんでもない上り坂を目にするや、再び車内に戻っていく。「追加料金は幾ら要る?」にやり。ちゃりんちゃりんちゃりん。がたごとと馬車は石畳を上がっていく。あたかもこの学園に訪れた若者たちに「これよりお前が目指す学問の頂はこれほど高く険しいものなのだ」と教え込んでくるような、途方もなく長い坂道を。

 

 道の脇には、「華やかな」とラベルを貼ることのできる何もかもがある。

 それはたとえば異様に盛りの多い定食屋であったり、防音が十分でないのかうっすら外にまで音楽を響かせている劇場であったり、「こんな服を着る奴が近所に住んでるのか……」と不安を覚えるようなラインナップを取り揃えた古着屋であったり、横一列のカウンターで全員が魔法書の背表紙を見せびらかしながらおしゃべりに夢中のコーヒーショップであったり、他にも色々。普通の馬であれば、あるいは普通の馬にしてもよほど落ち着き払ったダンディな馬でなければ、どこかの店に一目散に突撃して、とても車を引くどころの騒ぎではなかろう。目を奪う色とりどりの景色。それにも負けずに魔法馬車はさらに上へと登っていく。

 

 少しずつ、学園関連施設が左右に現れ始める。

 けれど大抵の場合、初めてこの学園に来た人間はそれに気付くことはない。なぜと言って、坂道の中腹あたりに存在する関連施設の多くは『大学』という高度研究・教育セクターが所有するものであり、非常に地味だからだ。立ち並ぶ店々や、往来で雪の日の犬のごとくはしゃぎまわる学生たちの存在感に勝るほどのものではない。だから結局、最も目立つその建物を目にしたそのときが「おお、これまさしく学園なり」と強く思う瞬間になることだろう。

 

 古城である。

 

 凄まじく古い。とても現代的な建物とは思われず、もしもこのスケールを百分の一にしたものが街の片隅に置かれていたら『お化け屋敷』と称されて、近所の子どもたちの楽しい遊び場に、そして近所の老人たちの危険な怒鳴り場になっていたことだろう。石造りで、風が吹けばその表面から三千年前の土がぼろぼろと零れ落ちそうに見える。上り坂のてっぺんの小高い丘に建つそれは、槍のごとく先の尖った奇妙なデザインも相まって、今にもすってんころりん街まで転げ落ちてきそうに映る。馬車客は感動と不安をないまぜにしつつ、しかし御者の気楽な鼻歌を頼りにさらに進む。がたり、ごとり。

 

 間近で見ると、さらに大きい。近付くにつれてその天辺は見えなくなり、腰や首に不安を抱えた人間でなくともすぐ気付く。何事にも適切な距離感というものがあり、近付きすぎると見えなくなるものがあるということに。流石は共和国における学問の総本山、門を叩く前から様々にお得な学びを提供してくれる。天辺を見ることを諦めて、門前で馬車を降りる。御者に金を払って気持ち良く送り出してもらう。その後にふと「帰りはどうすればいいのだ」ということにも気付くかもしれないが、些細なことだ。人生とは一方通行であり、実は帰り道など存在しない。そのこともまた、学園がいつか教えてくれるだろうから。

 

 さて、もしもこの学園を訪ねた客が。

 正当な理由を持って訪れているなら、ただ門の傍の呼び鈴を鳴らしてみればよろしい。詰所から守衛が出てきて、中へ招いてくれることだろう。また、学内案内ツアーの時期であるなら呼び鈴を鳴らさずともその辺りで所在なさげにふらふらしているだけでコンダクターが話しかけてくれる。ああもしかしてツアー参加者の方ですか毎度アリ!と。

 

 しかし、もしもその観光客が、裏側の事情に通じているなら。

 

 客は口笛を吹くことだろう。メロディはそのときに流行っているポップスなら何でもいい。ただ待ち合わせをしているような格好で、ポケットに手でも突っ込んで待っていればいい。

 

 するとどこからかふらりとひとりの人間が現れて、その口笛に口笛を合わせ始める。

 

 ひどく若い。どう見たって学生だ。彼でも彼女でも構わない。どちらにせよその学生は、目が合えば口笛を止めて、若年性の悪戯心を満面に湛える。にやりと笑う。もしかして、なんて言わない。毎度アリ、なんてことも言わない。学生は手のひらを差し出す。金を受け取ると親指を立てて、無言のままに門から遠ざかっていく。

 

 客は、その後を行く。

 

 ぐるり、と回っていった先。学生が塀の一部を叩くと、静かに音を立てて、人ひとりが通れるだけの隙間が生まれる。

 

 手招きをされる。

 芝生の上をしばらく歩いた先に、古ぼけた扉がある。学生が中に入る。続いていく。

 

 中に入ってみると、外観に相応しい内装が広がっている。

 

 黴を誤魔化したような匂いがする。湿度が高い。夏と冬が入り混じったような奇妙な空気。廊下の床板は古く、一歩ごとに軋む。長い間子どもたちの身体を支えてきたものに特有の、老成した感触が足裏から伝わる。窓枠のほとんどは「決して一筋縄で開けられはせんぞ」という奇妙な偏屈さを備え、棒鍵は触れれば匂いが移るだろう程度に錆びている。全てが色褪せた、思い出のような場所。

 

 何度も曲がりくねって道を行く。階段を上る。下がる。それは人に会わずに進むためのルートであり、誰にも不審がられないための秘密の道であり、また同時に、その学生が生業を営むために見出した手法でもある。二階、三階。また二階。四階、不思議と一階。それから五階。後は上るだけ、と学生が背中で言う。

 

 七階には、ミハロ・クローバの研究室がある。

 

 部屋の中にはたとえば、無言のミハロ・クローバがいる。無言でただ、本棚の前で考えごとをしている。広い部屋だが、広ければ豪華というわけでもない。そんな部屋。壁には大きな大きな、しかしうっすらと埃が積もりかけている杖。各国の首脳の名義で記された数々の感謝状。それに紛れて一枚だけ、一年前が発行日付の、『特例教員免許証』と題された厚紙。

 

 外で、一羽の鳥が鳴く。

 鳶だろうか。甲高い声だ。ミハロはそれにハッと我に返ったように顔を上げる。それから『特例教員免許証』を見つめる。

 

 何かを、呟こうとする。

 

 

 

 そのとき、扉がノックされる。

 

 

 

「はい?」

 ミハロは、言葉にしてから我に返った。そうだ、と。そういえばここは自分の私室ではないのだと思い出して振り返る。誰が訪ねに来たのだろう。一年前のあの日から変わらないオーバーサイズのローブを引きずって、その裾の擦り切れるのを気にもしないで扉に向かう。

 

 警戒もしないで、扉を開ける。

 

「どうぞ――っ」

 そして、ぴたっと固まった。

 

「よ」

 立っていたのは、ひとりの男だったから。

 

「あ、」

 の形にミハロは口を大きく広げた。それからよろよろと一歩下がる。二歩下がる。教室の中に不意に現れたフラミンゴを相手にするように、驚愕で目を大きくしたり、小さくしたり。それからじっと、その現れた男のつむじから爪先までたっぷり視線を四往復させて。

 

「ひ、」

 間違いない、とわかったらしくて。

 

 

「久しぶりですね! ディー・ヨド!」

 

 

 唐突に現れた男。

 一年前に共に世界を救った剣士に、そう語りかけた。

 

 

 

 

 

「久しぶりですねえ。外、寒かったでしょう」

「いや、馬車に乗ってきたからそれほどでもなかった。それより、坂道が随分長いな。通うのも大変だろう」

「そーなんですよ。職員寮に引っ越した方がいいのかなって、毎朝考えてます」

 

 あっという間の出来事だった、とミハロ・クローバは思っている。

 世界を救ってからの、この一年のことだ。

 

 教官室には生徒たちが質問に来たときのために、常にお茶の葉が常備されている。もちろん湯沸かしも。熱魔法石がこぽこぽと水を沸かすのを眺めながら、背中を向けたままで会話をしながら、ミハロは思う。

 

 あれからは、ひどく目まぐるしい日々だった、と。

 

 伝説の魔巨鼠ヌゴゴプロヌス・プロクトマギカ。それを倒すためにふらふらどこからともなく現れ、結束し、打ち倒した四人。世界は多大なる敬意と喜びを以てその帰還を祝福し、そのひとりとしてミハロもまた、様々な方面からの感謝の嵐に晒されて、気付けばこうして共和国最大の『学園』の『教授』として席を与えられることになった。

 

 十九歳。一年経ってもまだ二十歳。当然、慣れないことばかりだった。

 全く一年が……何百日も経ったとは思われないほど、忙しない日々だった。

 

「それにしても、」

 けれど、と。

 

 穏やかにミハロは思う。テーブルの上にふたり分のお茶を置きながら。目の前のディー・ヨド――かつて肩を並べて戦った四人のうちのひとり。あの万人無双の剣の使い手の顔を見ると。

 

 ああ。こんなに懐かしく感じるのだから。

 本当は随分と、長い時間が経っていたのだろうな、と。

 

 思いながら彼女は、切ないような気持ちでカップのお茶に唇を近付けて、

 

 

 

「どうしたんですか。突然訪ねてきたりして」

「破産した」

「げほっ!!!!!! ごほっ!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 盛大に噴き出した。

 

 

 

「んなっ、」

 ず、と鼻を啜る。溺れたみたいにつーんとする。一掴みいくらの茶葉の安っぽくフローラルな香りが目の奥にぶわっと広がる。悲しくもないのに涙目になる。今後の話の展開によっては悲しくもなりうる。

 

「な、何!? 何々何!? どういうこと!?」

「タカりに来た」

「いやもうここに来た動機の方はどうでも――良くないわ!」

 

 タカりに来たなら帰れ!と気丈にミハロは言い放った。この一年ですっかり生まれつきのもののように身に着けてしまった、悲しい冷たさの発露として。

 

「帰れ! 帰れ帰れ帰れ! 金ならないぞ! 塩撒くぞ!!」

「この茶、美味いな。趣味が良い」

「褒めて機嫌を取ろうとしたって無駄だ!」

 

 グルルルルル……とカバのようにミハロは唸った。しかしディーはまるでそれに頓着しない。あまつさえこんなことを言う。

 

「まあ落ち着け。語れば長い話だ」

 ディー・ヨドは、今年で二十九だか三十だかになる男である。

 

 年齢の正確なところをミハロは覚えていない。二十九も三十も二十五も三十四も大して何も変わらないだろうと思っているからである。

 

 しかし何のかんのと言って十も年齢が上の相手である。ゆえに、その声の調子にはほのかに説得力のようなものが宿っているように思えた。すっ、とディーが手のひらでソファを指し示したのに促されるまま、つい再び腰を下ろし直してしまう程度には。

 

「会うのはいつ以来だ? 結局、ちゃんとした別れの言葉もないままだったな」

「いやいいです。そういう順を追って話すとかは。結果からお願いします。論文みたいに」

「遊園地が爆発したんだ」

「やっぱ順を追って話してください」

 

 やれやれ、と彼は肩を竦める。

 こういうところは相変わらずだな、とミハロは思った。

 

 ディー・ヨド。

 傲岸不遜を絵に描いたような面つきの男である。何なら文字で書いたような、と言い換えても構わない。それで行こう。ディー・ヨド。顔に文字で『傲岸不遜』と書かれており、その他には特に何らの特徴もない男である。これで行こう。

 

 顔に文字で『傲岸不遜』と書かれた男は、茶を優雅に一口飲むと、それから語り出す。

 

「俺の生まれのことは、確か一度話したことがあったな」

「ある日空から落ちてきたんでしたっけ」

「ああ」

「『ああ』で済ますなよ」

「それで俺は落ちた先の村で様々な人々の厚意のもとに育ったわけなんだが……」

「『ああ』で済ますなよ」

 

 旅の道中で、一度聞いたことがあった。俺は空から落ちてきた。俺の生誕に歓喜した世界が竜巻を起こし、それに巻き込まれる形で飛翔したのであろう。飛び立つことが約束された人生だ。俺はすごい。ワハハ。場を和ませるための冗談だと思っていた。

 

「各方面からの褒美を手に取ったとき、俺が最初に思ったのはやはりその故郷と育ちのことだった」

「いや、その前にもっと気になることが……」

「いくら完璧な俺とあっても、幼い時分は人の手を借りて歩んできた。大切なのは……。気付いた俺は、ありとあらゆる剣の道の誘いを断り、別の道を行くことにした。そう。人を楽しませ、『この世には生きる価値がある』と伝えていく道だ」

「お、おう」

 

 ミハロは怯んだ。

 前段から「どうせとんでもないトンチキみたいな話が出てくるのだろうなあ」と呆れた気持ちでいたら、思いのほか立派な志が出てきてしまったからだ。

 

「そして人を楽しませるものと言えば遊園地だ。ここまではいいな?」

「いや、他にも色々あるのでは……」

「遊園地にも色々あるだろ。観覧車とかジェットコースターとか」

「何言ってんの?」

「というわけで建てた。ここで財産の九割を吹き飛ばした」

「何してんの?」

「あと折角この世に生を受けたからには一度くらい莫大な借金もしてみたいということで、そのへんで借金もしてみた」

「何を言って何をしてんの?」

 

 すると不思議なことにな、と。

 ディー・ヨドは顎に手を当てた。本当に不思議そうな表情と声音で、彼は。

 

「素寒貧になっていた」

「当然の帰結だよ」

「あとパレードのリハーサルで張り切りすぎて遊園地の一部を爆破してしまい、投入資金の回収が不可能になった」

「良かったですねお客さんが入る前で」

「俺はもしかして馬鹿なのか?」

「そうだよ」

 

 そうだよ、と二回ミハロ・クローバは言った。言い捨てた、と表現してもいい。そして言い捨てた瞬間に、やり切れない虚しさのようなものを感じた。

 

 在りし日のディー・ヨドのことを思い出したのだ。

 剣力無双。向かうところ敵なし。あの途方もない荒野に向かう道中で初めて出会った仲間。あのとき――颯爽と空から現れて、大地を裂くような一撃で助太刀してくれたあの瞬間、彼は間違いなくこの世で一番輝いていた。

 

 それが、今はどうだ。

 

「荒野から出るべきじゃなかった人ですね……」

「まあな」

「まあなて」

「しかし仕方がない。荒野から出てしまったのだからな。で、素寒貧で鳩とか食いながらそのへんを歩いていたら、ふと思い出した。昔、『困ったことがあればいつでも自分を訪ねてこい』と言ってくれた人物がいるではないか、と」

「在りし日の愚かな私のことですか?」

「そう卑下するな。在りし日の優しい自分と呼んでやれ」

「優しさって自分じゃなくて他人にとって都合の良いものなんだなあ……」

 

 しかし残念ながら、ミハロは思い出してしまっていた。

 そうだ、確かに言った、と。

 

 言っている。記憶を探ってみたら、確かにちょうどそういうことを言ったシーンがある。何かの妄想である可能性もあったけれど、その後三日くらい「もしもみんなが困ったらこんな風に対応しよう」「そして自分が善良であることを誰が見ているわけでもないけれど世界にアピールしよう」と考えていたことも覚えている。浅ましい考えほど長く記憶に残り、ゆえに人は年々浅ましくなっていく。

 

「わかりました」

 そう言って、ミハロは席を立った。過去の自分に責任を取るのだ。そう思い、机の裏側に回った。鍵付きの引き出しを指を振って開けて、中から財布を取り出した。

 

「いくら要りますか」

 あんまり手持ちはないんですが、と。

 

「…………」

「ディー?」

 問いかければしかし、ディー・ヨドは沈黙した。

 

 じっ、とこちらを見ていた。彼の眼力は素寒貧になってもなお強い。居心地が悪くなって、さらにミハロは言葉を重ねる。

 

「言ったことは言ったことですから。ちょっとくらいなら貸す――というか、あげます。お金だけなら正直唸るほどあるので。別に当分の生活費くらいなら、」

「いや」

 

 言って、ディー・ヨドは立ち上がった。

 薄い微笑みをたたえて彼は、あの日と変わらない颯爽とした立ち姿で。

 

「それには及ばん。帰るよ。いきなり押し掛けて悪かったな」

「え、」

 

 いや、とミハロは彼に手を伸ばす。中途半端に。

 

「いいんですよ、本当に。自分の言ったことくらい責任取れますって」

「政治家なんてみんな責任取ってないだろ」

「それはそうだけどそれが何だよ」

「『気にするな』ってことだ」

「いや政治家は気にすべきだよ」

 

 ひいては私も気にしますよ。そんなミハロの言葉に対し、しかしディーは止まらない。部屋に入ってきたときに脱いだジャケットに袖を通す。一見高級なそれの、肘のところが擦り切れているのがミハロの目に映る。あの荒野では、服の解れなんてひとつも気にならなかったのに。

 

 今では。

 

「ちょっと待って――」

 

 言葉にすると、グロテスクになる。

 しかしそのときミハロ・クローバが。かつての仲間で、颯爽として、誰より気高かったあの剣士に。今、ドアノブに手を掛けてゆっくりと扉を開くその背中に抱いた感情。それにもし、名前を付けてしまうなら。

 

 彼女は彼を。

 哀れ、と――――

 

 

「お」

「失礼。ミハロ・クローバ教授は在室していますか?」

 

 

 がちゃり、と扉が開いた瞬間に。

 廊下からもうひとり、この部屋に介入する人物が現れた。

 

「あ、は、はい。何かありましたか」

「ああ、ちょうどよかった。……こちらの方は?」

 

 ミハロは、その人物が誰かを知っていた。

『几帳面』や『規則主義』を絵に描いたような、あるいは文字で書いたような人物である。三十代中盤。女性。役職は教務主任。名前はナノ・カッツェ。

 

「あー……えっと、古い友人で――」

「近くに立ち寄ったので、挨拶だけ。すぐに失礼します」

 

 ミハロの説明に被せるように、ディーが言う。

 ナノ・カッツェは少し不審げに彼を見た。それからこちらに「本当か」という目線も。こくこくと頷いて返せば、「まあいいでしょう」という顔で彼女はディーから視線を外す。

 

 それから。

 

「用件があるのは、こちらの方ではなくあなたです。クローバ教授」

「は、はいっ?」

 

 溜息を吐くような声で、彼女は言う。

 

 

 

「前回の中間試験に関して、あなたの担当する生徒たちの成績不良が次の教授会で議題にかけられることになりました。

 

 会議の結果によっては解雇もありえますので、十分な説明の準備をしておいてください」

 

 

 

 このとき、ミハロ・クローバは思っていた。

 この部屋の壁掛け時計の秒針は、意外としっかりとした音を立てるのだなということを。かち、こち。かち、こち。やけにはっきり耳に届くなあ、ということを。

 

 それに影響されたわけでもないだろうが、ナノ・カッツェは自らの細い腕時計を見た。「失礼」と彼女は言う。

 

「これから出張の予定がありますので、取り急ぎそのことだけ。詳細については教務課に問い合わせてください」

 

 それでは失礼します、と言って彼女は踵を返す。きぃ、ばたんで扉が閉まる。その向こうでコツコツとくぐもった靴音が遠ざかっていくのが聞こえる。

 

 残されたのはふたり。

 ミハロ・クローバ。ディー・ヨド。

 

 前者は天を仰ぐように顎を上げて、茫然と。

 

 後者はジャケットを再び脱いで。ハンガーにかけて。それから勝手に湯沸かしを使って、もう一杯ずつのお茶をカップに注いで。

 

 それからどっかり、ソファに腰を下ろして。

 にやりと笑って、こう言った。

 

 

「荒野から出るべきじゃなかったな」

 

 

 


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