私、後藤ひとりには記憶障害があるらしい。
らしい、と曖昧なのは、私でも抜け落ちている記憶は把握出来ていないから。記憶障害を発症した当人は総じて自覚が無いものだという。
私にとってはいつもと何ら変わりない朝。お母さんに説明されるまで私は普段通りに過ごしていた。
お母さんによると、私には前向性健忘という記憶障害があるらしい。
今までの記憶が無くなる逆行性健忘とは反対に、前向性健忘はこれからの出来事を記憶することが出来ない記憶障害。
高校入学の3日前、私は交通事故に遭ったそうだ。
その事故で私は頭を強打し、脳外傷を負うことになった。損傷した部分は脳のエピソード記憶を司る領域。今の私の脳は、記憶を保存しておける容量が極端に少ない状態になっている。
その状態で睡眠を取ると、脳は容量オーバーした記憶の消去を始める。つまり、眠ると今日の記憶が失われてしまう。
目が覚めると記憶はリセット。昨日の思い出は綺麗さっぱり記憶から消え失せる。記憶が丸ごと抜け落ちるため、記憶が無くなっていることに違和感も覚えない。
そんな状態になってから、なんと一ヶ月半の時が経過しているそうだ。
私はこの説明も記憶することが出来ないので、毎朝この説明をしているらしい。
私からしてみれば、朝起きたらタイムスリップしていたようなものだ。夢遊病患者の感覚にも近いのかもしれない。私には全く覚えがないが、私は最後の記憶から一ヶ月半もの空白の期間を確かに行動しているようだった。
正直、最初は信じられなかった。冗談であって欲しかった。しかし説明をするお母さんは至って真剣な表情をしている。こんな真剣な表情で冗談を言う人では無いことは勿論よく知っている。
記憶が消えている症状は、本人には全く自覚が出来ないそうで、周りとの認識のズレが生じてしまうらしい。
しかし、治らない訳ではないとのこと。脳外傷によって引き起こされた記憶障害は、リハビリを繰り返すことで記憶能力が回復することもある。それに若ければ若いほど、回復の余地がある。
そこでリハビリの一環として、私はノートを書いているらしい。
エピソード記憶に分類されるものは時間や場所、感情などの情報を伴う個々の体験。言わば『思い出』という物。
その思い出をノートに書き留めておく。そうすることで、私は覚えていなくても、記録として私の経験が残ることになる。
私がどんな行動をして、何を思っていたのかを文字という情報に起こすことで、エピソード記憶に意味記憶の側面を持たせることが出来る。それが記憶能力の改善になる可能性がある。
と、長々とお医者さんに説明されたそうだ。
私はノートを読んでみた。私の筆跡で全く身に覚えのないことがつらつらと書かれている。
一番最初のページには私が通っている高校への行き方や、私のクラス、席なども書いてくれている。高校は私の記憶通りの学校。片道2時間かかる距離の学校だった。
日記のページまで読み進める。そこには私の思ったことや、体験が書き綴られている。
今日は学校で誰からも話しかけられなかった……とか、昨日の私が書き忘れただけで、本当は友達がたくさん出来てたんじゃない? ……とか。
悲しい……昔の私と何一つ変わっていない。
高校に入ったら変われると思ったんだけどなぁ……。
それにしても日記の内容が薄い。普通の人なら一日分の出来事を1ページに書くくらいのことは出来そうだが、この日記では1ページに二日分の出来事を書いている。
私が可哀想。日常生活にくだらないことしか起きていないんだ。本当に中学時代と変わってない……。
もう見る価値も無いかもしれない。忘れてしまっても支障がなさそうなどうでもいい出来事ばかり。
後半のページはもはや読み飛ばしていた。
しかし最新のページ、つまりは昨日の出来事まで追いついた時に私は違和感を覚える。
この日の出来事だけで3ページが埋まっている。日記からも分かるように、毎日毎日薄い日々を過ごしている私。そんな私が3ページ分も日記を書いている……?
この日はどれだけ濃い一日だったのか? 期待しながら読んでみる。
……私がバンドを組んでライブをした?
結束バンド……虹夏ちゃん……リョウさん……ぼっち……ライブハウス『STARRY』……。
書かれているのは知らない単語ばかり。記憶が消えるのだから知らないのは当たり前なのだが、ここまで固有名詞を出されると分からないものだ。そもそも私がライブをしたなんて信じられない。
この日の日記は今までの日記と違って、浮き足立っているのが伝わってくる。
まるで今日あった出来事を興奮交じりに母親に語る小学生のような……。とにかく情熱が伝わってくる。
この日記を書いた記憶はないけれど、私にはこの日の私の気持ちがよく分かる。
夢への第一歩を踏み出せて嬉しくてたまらない。中学時代に一度も成すことが出来なかった、私にとっての偉業。それを高校入ってすぐに達成出来た喜び、とでも言ったところか。
チャンスは世の中の人間全員に回ってくるんだ。こんな私にもチャンスは訪れる……そう嬉しくなりながら2ページ目も読んでみる。
そこで私はゾッとした。身体中に鳥肌が立つのが感じられる。
『忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない。
明日はバンドミーティングの約束もしたんだ。次ライブする時はもっと上手くなるって約束したんだ……。
でも明日の私はこんな約束も覚えていない……。
明日には虹夏ちゃんの顔も、リョウさんの顔も、声も、二人の担当楽器も、私に付けてくれたあだ名も、全て忘れている。
確かに、ここに書くことで私のしたこと、私が思ったことは明日の私に伝えることが出来るかもしれない。
でもこの気持ちだけは私には伝わらない。私のことだ、私が一番よく分かっている』
痛々しい私の独白。さっきまでは記憶がなくなることに何も感じていなかった。
でも今は記憶がなくなることがどうしようもなく怖い。
文章から私の必死さがひしひしと感じられる。こんなに必死なのに、こんなにも私が頑張ろうとしているのに。
私は何一つ覚えてない。昨日の私が感じたであろう興奮や悔しさ。それがどうしても思い出せない。
進めたと思ったのに、何一つ進めていない。
私だけが取り残されている。相手は私のことを知っているのに、私だけが相手のことを知らない。
震える手でページをめくる。
『私はどうしても明日に行きたい。この記憶だけは忘れたくない。この記憶を明日に引き継ぎたい。
なので徹夜に挑戦してみようと思います。
私は普通の人よりも脳疲労が激しいらしいのです。そのせいで毎日とてつもない眠気が襲ってくるとお医者さんに言われました。
それでも抵抗します。カフェインの錠剤を用意しました。
今、大量に飲みました。それでも眠いです。
もし、私が明日に記憶を引き継げなかったら、貴方が私の約束を果たしてください。
貴方は行きたくないかもしれません。分かります。貴方にとっては初対面の相手ですから。私や貴方みたいなコミュ障からすれば、絶対に行きたくないはずです。
行きたくないなら行かなくても大丈夫です。
それでも、行かなかったら私たちは永遠に取り残されるかもしれません。
私には中学時代までの記憶しかありませんが、私に話しかけてくれた人は記憶の中では初めてだったんです。この機会を逃したら私にはもう二度とチャンスが訪れないかもしれない。
もし行くのならば、学校帰りに下北沢のライブハウス『STARRY』へ向かってください。もちろん、ギターも持って。
虹夏ちゃんとリョウさんの写真は携帯に入っているので、それを確認してください。
それと……私の記憶について、打ち明けた方がいいのかもしれません。私は打ち明けることができませんでした。
目を背けていたのです。あの楽しかった時間を失うという事実から。
ああ……眠い……。忘れたくない……』
そこから先は涙でぐちゃぐちゃになっていて読めない。私は眠ってしまったらしい。
私にとって、大切な人は家族しかいなかった。
朝に記憶が消えたと聞かされた時も、家族のことは忘れていないからいいや、と思っていた。私の人生の登場人物は皆、忘れてもいい様な人物ばかりだったから。
でも昨日の私は家族以外に大切な人を見つけている。忘れたくないと思っている。
分かったよ、昨日の私。行ってみるよ。
私は、私が見つけた大切な人に会ってみたい。人生で初めてそう思えた相手に。
昨日の私が掴んだチャンスを無駄にしたくない。昨日の私が結んだ約束を守りたい。
STARRYに行こう。覚悟が決まった。
服を着替えて、肩にバッグをかけて、ギターを背負って、
ひとまず私は学校に向かった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
残念ながら、日記は正しかった。
学校では誰も話しかけて来ないし、友達が誰一人いない。
今までの私はどうやってページ半分も書いたんだ……こんな学校生活で……。
勉強は難しいけど、今までの私の積み重ねの結晶であるノート。これがあればテスト当日に読んで間に合う……はず……。
そんな中学時代と何一つ変わらない学校生活も終わり、とうとうSTARRYに行く時が来た。
携帯でSTARRYの住所を検索する。そこまで遠くはないようだ。
私はSTARRYに向かって歩き出した。
下北沢みたいなオシャレな街を私一人で歩くのは辛い。昨日の私は虹夏ちゃんという子と一緒に歩いていたらしい。
写真を見てみたけど、すごいオシャレな子だった。絵に書いたような陽キャの雰囲気。
この街ですれ違う人は皆オシャレな人。私には居心地が悪すぎる……早くここから抜け出そう……。私は歩みを早めることにした。
でもそうすると早く目的地に着いてしまう。私はいつの間にかSTARRYの目の前に来ていた。まだ心の準備が出来ていない……。
緊張する……。私には昨日の記憶がない。ここが本当に昨日の私が来た店なのかも確証が持てない。
……もしかしたら下北沢にはもう一件ライブハウスSTARRYがあって、こっちは昨日の私が来ていない方の店なのでは!?
もし本当にそうなら、私が入った瞬間に向けられるであろう『誰?』という視線に耐えられる気がしない……。
もうちょい詳しく書いといてよ……昨日の私ぃ……。
……帰りたい……。かれこれ数十分店の扉の前で立っている。
ドアノブに手をかけて引くだけ……。そう、それだけ……。
あああ! 無理! 絶対無理!
陰キャは一度入ったことある店でも躊躇しちゃう生き物なんです……。誰かと一緒じゃないと入れないんです……。
しかも私は記憶が無いから実質初めてのお店……。
よし、5分。あと5分したら入ろう。いややっぱり10分……いや15分……いや20分したら絶対入ろう……。
「何してるんだろ……? ぼっ……」
「待って、もうちょい見てたい」
「鑑賞するのやめたげて……」
階段の上から微かに声が聞こえた。やばい……このライブハウスの人かも……。
振り返って確認してみる。
「あっ」
「「あっ」」
そこに立っていた二人は写真に写っていた虹夏ちゃんとリョウさん。何度も見直したから間違いない。
そこで、私は二度目の初めての出会いを果たしたんだ。
続けるには執筆時間が足りないのですが、念の為に連載に…。
ちなみに忘却探偵シリーズ大好きです。