『いいですか、ここからは落ち着いて読んでください
貴方はバイトをすることになりました』
電車に揺られながらため息をつく。何度読み返しても、そこに書いてある事実は変わらない。
どうしてこんなことになってしまったのか。一週間前の私に小一時間問いただしたい。
私には記憶障害がある。前向性健忘というこれから体験する出来事を記憶出来ない障害。
朝起きた時、今日はもう四月だっけ? と思って携帯を確認したら五月の中旬だった。
さながら浦島太郎状態。動揺していたらお母さんが私の部屋まで来て、私の症状について教えてくれた。
そこで記憶が無い期間の私が書いているというノートがあるとのことなので、私はそのノートを読んでみた。
一ヶ月半ぐらい記憶が無いんだ。何が起きていてもおかしくはない。
も、もしかしたらバンドとか組んじゃったりしてね〜!? そんなことを考えながら読んでみた。
本当に組んでた。
信じられない。最初は私の妄想もこの域まで来たか……と思ってしまう程。
でも読み進めるとどうやら違うようだった。
本気で記憶が失くなることが悔しいのが伝わってくる。バンドを組んだ日の日記は涙でぐちゃぐちゃになっていた。この熱量の文をイマジナリーバンドメンバー相手にやってるなら怖い。だから本当に組んだんだな、と納得した。
その次の日、バンドミーティングをしたらしい。
この日の私はバンドを組んだ日に比べて、非常に理性的というか、落ち着いている。
この日の日記は内容が濃くて面白い。
サイコロトークをしたとか、作詞を担当することになったとか、すごい楽しそうだった。昨日の私が書いたであろう歌詞も次のページにある。
私が青写真に思い描いた青春。それをこの日の自分は謳歌していた。
最後の文がなければ気持ち良く読めたはずなのに。
そう、バイトである。概要には一週間後と書かれているが、その一週間後が今日だ。
バイトが決まった翌日から昨日までの日記には、『バイトに行くのが今日の私じゃなくて良かった……』という旨の日記で埋め尽くされている。
全部私が書いているはずだし、過去の私も今日の私も記憶が無いだけで、同じ人物である。それなのに貧乏くじを引かされた気分になるのは何故だろう。
私は労働が嫌いなんだ。なんでバイトのお誘いなんて受けてしまうんだ……。
ばっくれよう。そんな悪魔のような考えが一瞬だけ頭をよぎった。
ちょうどその時だった。滅多に鳴らない私の携帯がロインの通知を知らせる。誰……? と思い、通知の内容を見てみる。
『おはよう! 今日はバイト初日だね!
不安だろうけどちゃんとフォローするから一緒に頑張ろう!』
私のそんな考えを咎めるかのようなロインが来ていた。送り主は虹夏ちゃん。
文からも伝わってくる陽キャオーラ。私の邪悪な考えは一瞬で消え失せた。
私は忘れてしまっているけど、みんなは私のことを覚えている。そう思わされるメッセージだった。私はみんなの記憶に残っているんだ。
日記越しにも分かる彼女たちの温かさ。こんな私でも必要としてくれている。
期待に応えたいと思っている私がいたはずなんだ。だったら記憶が失くなったって、私は私の意思を尊重したい。
だからバイト、頑張ってみよう……。
これが何の変哲もないコンビニとかだったら普通に飛んでたと思う……けど他のバンドメンバーも働いているんだし、きっと大丈夫……。
そう、大丈夫。記憶がなくても、今までの私が積み上げて来た関係は残っている。
そう自分に言い聞かせると、少しだけ前向きになれた気がした。
毎日毎日、見ているはずの窓からの景色も私にとっては初めての景色。
でも今日はなんだかいつもよりも、空が開けて見えているような気がした。
胸を打つ鼓動、心臓の高鳴りは初めてのバイトへの緊張なのか、日記越しに見てきた二人に会えることへの期待なのか、はたまたその両方なのか。
自分でもよく分からなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「よし、じゃあ仕事始めよっか!」
「あっ、はい!」
学校は何事もなく終わった。そして今はスターリーで初めてのバイト。
店に入るのが一番ハードルが高かったけど、入ってしまえばもう余裕……。
「じゃあまずはテーブル片して、それが終わったら掃き掃除だね。それから……」
全然余裕じゃない……。覚えられる気がしない……そもそも明日になったら忘れてるんだけどね……。
「あっ……! メモ取っても良いですか……?」
「全然いいよ! ぼっちちゃん真面目だね〜」
結局忘れてしまうなら、明日以降の私も見れるようにしておきたい。毎回毎回仕事を教えてもらうのも辛いだろうし。
バッグからいつものノートとペンを取り出す。ついでに今日の日記も並行して書き進めておこうかな。
「ノートにメモ取るんだね」
「あっ……メモ帳は無くしやすいので……」
確かに、メモを取るって言ってB5のノートを取り出すのはおかしかったかも……? ポケットにも入らないサイズだし……。
しかし、メモ帳だと未来の自分の目につかない可能性がある。これが私の生命線なんだから、絶対に無くしちゃいけないので仕方がない。
しばらくは言われたことを文字に起こして、掃除を手伝う。
「よし! 掃除終わったから次はドリンク覚えよっか」
「あっ、はい」
掃除までは何とかついて行けた……意外と行けるかも……!
「トニックウォーターはここからね、ビールサーバーはここ、カクテルは後ろの棚ね。右端からテキーラ、ウォッカ……」
あ〜〜覚えられない……。早すぎ。もう歌にして覚えこむしかない! と思ったけどギター持ってきてない。
「す、すいません、もう一度最初からお願いします……」
「ごめんごめん、早かったよね? ここがトニックウォーターで……」
急げ! メモを取るんだ……。
文字だけじゃ意味分からないだろうし、軽いイラストもつけておく。カクテルはこっちの棚で……、こっちが……
「ぼっちちゃん、そんな完璧に書かなくてもいいんじゃない? また分かんなくなっちゃったら教えるよ! しばらくはドリンクスタッフも一人にさせないし!」
「あっ、いや……これは趣味みたいな感じで……」
「趣味なの!?」
「教えて貰ったことは完璧に記録しておきたいと言いますか……」
「……ぼっちちゃんって結構独特な感性してるよね……」
自分でも驚くほど自然に嘘をついていた。
多分、虹夏ちゃんを悲しませたくないから嘘をついたんだ。
記憶障害なんて伝えた方がいいに決まっている。
それでも、虹夏ちゃんが今までの記憶がないと知ったらどうなるだろうか。
まだ会って間もないけど、初ライブの日もバンドミーティングも覚えていないと知ったら悲しむに決まっている。
自分が悲しいのは別にいいけど、周りの人を悲しませるのは違う。
「じゃあドリンク渡す流れを教えるね!」
「あっ、はい!」
そう、それでいいんだ。どんなに私が悲しんでも、明日にはどうせ忘れるんだから。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お客さん入ってきたね〜、ぼっちちゃん今から忙しくなるよ〜」
開場時間になり、お客さんが入ってくるようになってしまった。
ああ……終わりだ……お客さんがいない状態のイメトレでもまともに出来なかったのに、お客さんアリでやったら結果が目に見えてる……。
そうこうしてるうちにも増えるお客さん。そしてとうとう一人目のお客さんが来た。
「すみません、コーラ下さい」
「はーい、ぼっちちゃんコーラね」
「あっはい!」
「私ジンジャーエール」
「あっはい!」
「ぼっちちゃんお客さんに失礼でしょ!」
「こここ心の準備がぁ〜……」
ああ、普通に立つこともままならない……。お客さんに見つめられただけで死ぬ自信がある……。
あれからお客さんは何人も来たけど、結局虹夏ちゃんに任せっきり……。
カウンターの裏、落ち着くなぁ……。私はここで一生蹲ってるのがお似合いなんです……。
「ぼっちちゃん、見てみて」
虹夏ちゃんがステージの方を見るよう促す。言われた通りに立って見てみる。ライブが始まるらしい。
「あのバンド、結構良いんだよね〜」
「……」
「力抜いて大丈夫! ライブ始まったら暇になるから!」
「お疲れ」
「お疲れー! あれ? 受付は?」
「店長が代わってくれた。今日のバンドはどれも人気あるし勉強になるからって」
リョウさんが受付の方からやってきた。店長って意外と優しいんだ……。
「うちのお姉ちゃんあれなの、ツンツン、ツンツンツンツンツンツン、デレ〜みたいな?」
「ツン多い」
この二人仲良いなぁ……。
「す、すいません……戦力にならないどころか、お客さんと目も合わせられなくて……」
「これ使う? マンゴーじゃないけど」
リョウさんが取り出したのは烏龍茶のダンボール。なんでみんなダンボール推してくるの……? 店長さんもさっき私にダンボール被ったとか、マンゴー仮面とか言ってたし……。
「使わない使わない」
日記には些細なことは書かれていない。普通の人なら些細なことも思い出せるけど、私にとっての記憶はノート。過去の私が必要ないと判断した些細なことから話が来ると全く分からない。
はあ……辛いなぁ……。
「大丈夫! 今日は初日なんだし、すぐ慣れるって!」
私のため息を聞いた虹夏ちゃんが励ましてくれる。
違う、明日も明後日も、もしかしたら一生。私は初日の私のまんま。
「私みたいなミジンコ以下にどうしてここまで優しくしてくれるんですか……?」
思っていたことを口に出してしまった。私みたいなの、優しくする価値なんてない。仕事も覚えられない、人と目も合わせられない。
ふと思う。私みたいな欠陥ギタリストよりももっと相応しい人がこの人たちにはいるのではないだろうか。
「私ね、このライブハウスが好きなの。だからライブハウスのスタッフさんがお客さんと関わるのって、ここと受付ぐらいだし、いい箱だったって思ってもらいたい気持ちがいつもあって」
「すすすすいません……そんな場所でド下手な接客を……」
「いや、違う! そうじゃなくてさ、ぼっちちゃんにもいい箱だったって思って欲しいんだ。楽しくバイトして、楽しくバンドしたいの、一緒に」
一緒に。その言葉が私の中で反芻する。私はこんなに輝いている人の隣に立っていてもいいのだろうか?
「ま、いつかは笑顔で接客出来るようになって欲しいってのもあるけどね!」
いつか。いつかは記憶を忘れないようにして、この人たちの言ったことを忘れたくないな……。
「あっ! ぼっちちゃん始まるよ!」
ライブが始まった。
会場が一体になって、お客さんも演者も楽しそう……。
私たちもいつか、こんなライブできるのかな。私は成長出来るのかな。
今日の私が進めるだけ進んで、また振り出しに戻っての繰り返しでも掴めるものはあるのかな。
バンド自体が成長することには個々の成長も必要。
その中でも結束バンドで一番変わらなきゃいけないのは私だ。少しでも変わりたい。
「すいません、オレンジジュース」
「あっはい!!」
笑顔でお客さんの目を見て接客……笑顔でお客さんの目を見て接客……。
笑顔で……お客さんの目を見て……接客……。
「ど、どうぞ〜」
「ぼっちちゃん! 目! 目!」
「ふふ、ありがとう」
やった……初めて顔だして接客出来た……。
「いやー、ドキドキした〜。でもすごい! ちゃんとカウンターから顔だして接客出来たね!」
「あっ、頑張りました……」
「ぼっちちゃんのおかげで、きっと今日のライブがもっと楽しい思い出になったよ! これでぼっちちゃんも一歩前進だね!」
……一歩? 私にとっては千歩くらい進んだと思ったんだけど!?
しかし結局は忘れてしまう。ゼロ歩と何も変わらない。
でも今はそれでいい。今までの私が出来ないことをやってのけた。今はその事実だけで良い。
一日でここまでのことが出来たんだ。明日の私も一日でこれくらい成長出来ない道理は無い。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「じゃあ今日はお疲れ、気をつけて帰れよ」
「バイバイ」
「あっ……お疲れ様でした……」
見送ってくれる店長と虹夏ちゃんとリョウさん。
「ぼっちちゃん!」
「あっ、へっ、はい!」
「またね!」
「あっはい! まままた明日!」
こうして私は帰路に就く。
初バイトを終えた帰り道。色んなことが思い浮かぶ。
でも一番は、バイト頑張って偉いぞ! 私!
自然と歩みはスキップになった。
意外とやっていけそうな気がする! 明日からも頑張るぞ〜!
今日の私には明日は訪れないけど、『また明日』って言ったんだ。明日の自分も頑張るぞ〜!
そうだ! 今日あったことを日記に今すぐにでも書きたい!
電車で書こう、そう思って歩きながら肩にかけたトートバッグから取り出そうとした。
おかしい、ない。記憶を思い起こしてみる。
最後に触ったのは仕事内容をメモった時……。
あっ、ライブハウスに忘れた……。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ぼっち、頑張ってたね」
「そだねー、それにまた明日って言ってくれたね〜」
「うん」
「バンド組めて良かったよね〜」
本当に、心の底からそう思う。ぼっちちゃんに会えて良かった。
「そだ、ぼっちちゃんにロインしとこ、明日も頑張ろうって」
「ていうかこのノートは何」
「あっ、ぼっちちゃんのノート。忘れちゃったのかな、それもロインしよう」
「覗いちゃおう」
「いやいや良くないよ、プライバシーの侵害だよ!」
「でも表紙に書いてあるタイトルが超気になる」
「どれどれ〜? 『明日の後藤ひとりへ』?」
私は何気なくページを開いた。開いてしまった。一番最初のページに目を通す。
「なになに……『私の名前は後藤ひとり、
秀華高校の一年生。
突然ですが、貴方には記憶障害がある。前向性健忘の一種で、貴方はこれから体験する出来事を記憶することが出来ません』……」
そこで初めて私はぼっちちゃんの抱える苦しみを知ることになった。
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