「──私、とても興味深いお話を聞いたんですよね」
その声を聞いた瞬間。
俺は他の何をするでもなく、恐らく世界最速であろう土下座を決めた。
「ふふっ、ふふふふっ」
その笑い声は、音声だけ聞けば蕩けてしまいそうな程に強烈な毒性を持った魅惑の声音であると同時に、生で聞かされている俺にとっては身体の震えが止まらない喉元に刃を突きつけられているような感覚にも陥った。
こいつ、ほんとに天使様って呼ばれてんの? ああ、呼ばれてましたね、はい。
◈◈◈◈
年齢詐称VS犯罪者予備軍の試合の翌日。なんか分からないが一時的に監獄から出ることを許された。なんで?
「黙って受け入れろ」
「なんでお前ここに居んの?」
一時的に釈放されたため、とりあえず帰省するかと歩いていたら当たり前のように隣を歩く冴。
方向が同じだけだ、と言い放ったものの本当か怪しい。まあ、どっちにしろ悪影響とかはないし別に気にすることじゃないな、と考えることを放棄する。
「冴は実家?」
「実家には寄るが、すぐにスペインに戻る。元々パスポート更新の為だけに日本に来たからな」
「あそう」
ダウンに身を包みながら口から漏れる息は白く輝き霧散していく。しかし体感はそれほど寒さを感じることはなくキャリーケースがゴロゴロという音を出すこと以外に何も無い。
ピロン、という軽快な着信音とバイブを感じポケットにしまっていたスマホを取り出す。顔認証により表示されていたメッセージが開封され差出人と短文が3件ほど届いているのを確認し、片手で文字を打って軽く返事を書く。
もう一度スマホをポケットに入れると隣を歩く冴からの地味に刺さる視線を感じて何用かと見る。
「ニヤついてんぞ、気持ちわりぃ」
え、マジ? と思い自分の顔を触ってみる。別に普通だと思うけどな。
「ていうかお前、お付きの人みたいなのいなかったけ?」
「マネージャーには先に飛行機のチケットを取らせに行ってる」
「あらヤダ暴君」
サングラスをかけてすました顔で歩く冴は傍から見ればお忍びで歩く有名人の風貌である。流石は日本の至宝様(笑)だ。おっと、ローキックは勘弁。
「そういやこの前ネット見て知ったけど、冴ってプロ選手なのな」
「遅せぇよクソが」
「だってお前の苗字とか知らんかったし」
「だとしてもだろ……はぁ……うちに推薦してやろうか?」
「結構です」
「チッ」
おお、舌打ちほんと上手いなこいつ。舌打ちで飯食えそう。
「世界じゃどれくらいの立ち位置?」
「知らねぇ……まあ、自意識過剰連中をボコれるくらいだな」
「ほーん。分かんな」
あれ、糸師 冴じゃない!? みたいな声でキャッキャしているJKが視界の端にチラホラしだしたために冴からそっと距離を取ろうとすると右腕を凄まじい力で掴まれる。ちょ、本気出しすぎだろ逃げないって!! ギシギシ言ってるるるぅぅ!!
「お前、ノエル・ノアについてどう思う?」
激しい痛みを感じつつ顔には出さないように努めていると不意に冴からそんな質問が飛んでくる。突拍子無さすぎて返答に困るんだが。漠然としすぎじゃね?
「ノエル・ノアに勝てる勝てないで言えば、どっちだ」
急にそんなことを聞いてくる。何故に? そもそもノエル・ノアに会ったことないし。動画もそんなに見てないから正確な分析できてないし。あんま興味無いし。
会話の延長のように聞いてきたが、割と力が籠っていたのでしょうがないと真剣に考えてみる。俺でも名前は知っている、世界一と言われているサッカー選手。サッカーに興味がなくても名前を聞くであろうビッグネームだ。
3秒くらい悩んだが、何しろ会ったこともないし正確な回答ができるはずもない。冴も本気の答えを求めているわけではなさそうなので、俺は思っていることを口にする。
「まあ、負けは無いだろ」
あの人以外に負けるつもりは無い。別に俺は自分が天才だなんだと思っている訳では無いし、世界一だとか言うつもりもない。けれど、ノエル・ノアが称されている世界一という範囲は文字通りのものでは無い。サッカーをしていて、表舞台に姿を出し、プロと契約した上で実力を見せているから世界一と呼ばれているに過ぎない。
あの人のように、自分の実力を見せびらかすことの無い実力者は世界にも数える程とはいえいるはずだ。そう思えば、ノエル・ノアは比較的狭いグループの中で1番だと言われているだけに過ぎず、そのグループに俺が入っていることもない。
勝てるかは知らん。相手を生で見てみない限りその判断はつかない。それでも、負けは無いと断言出来た。
俺の答えに満足いったのか、少しだけ口角をあげた冴は「そうか」と漏らしタクシーへと乗り込む。
「じゃあな」
口角上がったままに、こちらに軽く手を振りタクシーが出ていく。
方面一緒なら俺も乗せろよ、なんて言い出せる空気じゃなかったために空気を読んで俺はすぐ後ろにあった駅へと歩いていった。
◇◇◇
空港に着き、マネージャーと合流。まだ少し時間があるためにエントランスに置かれてあるソファに深く腰掛ける。
別にカフェに行っても良かったが今はそういう気分ではなかった。
ふぅ、と一息。どこを見るでもなく、斜め上をぼーっと眺めリラックスの状態を保つ。今の時間飛行機利用の客は少ないのかあまり人は見られず、自分の姿を見つけて騒ぐ厄介な連中が居ないことに肩が軽くなる。
脳裏に過ぎるのはやはり青い監獄との試合。
前半戦の日本代表側への落胆と、それ以上に期待を抱かせた潔 世一のプレー。それでも、後半に悠が投入されれば試合が成立することは無いと思っていた。
事実、悠を止められたヤツはやはり居なかった。ハナから期待してない、と言うより今のアイツらでは不可能という事実。世界的に見ても悠を止められる存在はいるのか怪しい。故にあの試合は悠がボールを持った瞬間、全ての生殺与奪権は悠に一任されていた。
悠は己のゴールこそ全てというエゴイストでは無い。故に生じる隙。それを偶然の積み重なりで掠めとって行った結果が同点という形に納まった。
そこまでは、まあ予想通りではあった。これくらいはやってくれないと困るとまで思っていた。白いモコモコ頭も、光るところはあったが想像を上回ることは無かった。
他の奴らもそう。凛はあの癖を越えてスタートラインに立ってはいたが結局後半に得点はなかった。潔 世一もまだ眼の使い方になれてないのか体が出来上がってないのか、スタミナが少なすぎる。
片鱗を見せる奴らはいたが、それ止まり。悠はおろか、俺の驚異になる存在すら現れない。やはり日本はダメだと思った。接戦に見えたのは悠の気紛れ。そして俺が悠のゴールに拘っていたからに過ぎない。
けれど、違った。青い監獄の中でも、満身創痍と言えるほどに弱々しい光。風前の灯と言っても誇張にはならないほどに、手で仰ぐだけで消えてしまうのではないかという小さな存在。しかし、内包する熱量は他と一線を画していた。本能が警鐘を鳴らしていた。今のあいつ……潔 世一は、魅せてくれるのでは無いか、と。
それは、警戒。そして期待。俺以上に他者に期待していない悠に強烈な印象を与えられる存在が現れたのかもしれないという一方的な希望の押しつけ。
潔 世一だけではなかった。期待はしていたが、希薄で強烈な存在感を放つ潔 世一の陰に隠れてしまっていた凛が俺との1VS1を踏破した。その後に潔 世一が勝利のゴールを決めてはいたが、俺にとっては凛のプレーも印象深かった。
実力は俺の方が圧倒的に上だった。にも関わらず、あいつはあの瞬間、運や奇跡でもなく確実な勝利をたたき出していた。
油断はしていない。けれど敗北のレッテルが俺に貼られる。
歓喜した。やはり凛の潜在能力は凄まじい。このまま青い監獄で揉まれていれば、今の俺の背中に触れることは出来るかも知れない。
「はぁ……」
けれど、それではダメだ。確実な成長は見込めるだろうが、それで止まる。凛が成長するには、強烈な出会いが必要だろう。それこそ、俺が出会ったような──
「ちっ」
思い出し、思わず舌打ちを零す。嵐と大噴火、地震、津波が同時に襲いかかってきたかのような衝撃。確実な成長の要因になったものでもあり、二度と体感したくない苦行。1週間という短い期間にも関わらず覚えているのは苦のみであり、喜怒哀楽のどれも思い出すことは出来ない。
まさに災害、まさに劇毒。あの人に出会わなければ今の俺の実力は無いと思えるものの、決してハイリターンとは思えないハイリスクローリターンのクソゲー。
仮に。そう、仮の話だ。
もし万が一、億が一に。俺がもう一度あの人に出会ったとするのなら。俺はどう言った反応をするのだろうか。
今の実力を証明すべく立ち向かうのだろうか。それとも、なんてことのないように世間話でもするのだろうか。
あるいは……
「あっ。サエサエじゃーん!!」
俺はこの時、恐らく世界最速で男子トイレに逃げた。
◈◈◈◈
電車に揺られてどんぶらこ。乗り換え続けて二時間経っちゃいました。なが。
中途半端な時間帯だったために席が空いていたのは幸いだった。あの監獄に収納されるのも突然決まったのもあり手荷物は少ない。キャリーケースを支給されたために使ってはいるがボストンバッグの方が良かったかなと思い始めていた今日この頃。
着いた駅は実家からは遠く離れた場所。というのも、収監されるなんて思っていなかったために実家の鍵なんて持っておらず、さらに今家に誰もいないことも重なって帰ることの出来ない可哀想な男子の構図が出来上がっていた。
目的地までは駅から徒歩で向かう。少し距離があり手持ち無沙汰なためにスマホを片手にLINEを開いて軽くやり取り。片耳にワイヤレスイヤホンを装着して日本の月間ランキングTOP100を垂れ流しにする。
一軒家が立ち並んでいる区域を抜け、次第に比較的大きなマンションが並び立っている地域へと進んでいく。実家とは全く関係の無い場所とは言え、頻繁に訪れていたためにもはや見慣れた町並みである。
寒い風が強めに吹いていることもありマフラーを深めに巻いて風を凌ぐ。靡く前髪がたまにまつ毛に触れてなんとも言えない擽ったさを感じた。
そして辿り着いたひとつのマンション。玄関口を抜けると慣れたようにエレベーターの前に進み降りてくるのを待つ。ちょうど直前でエレベーターが上昇し始めていたのもあり思っているよりも待ち時間が長かったがあまり気にはしなかった。
上矢印が下矢印に変わり、どの階層にも止まることなく1階まで降りてくる。誰もいない室内ということでキャリーケースの音が目立つが気にせず目的の階の数字を押す。
新築なのか改装済なのか、エレベーターの揺れも音も少なく快適に進む。そして電子音により目的階に着いたことを知らされるとドアが開きゆっくりとエレベーターから出る。
エレベーターから比較的近い一室。直前に『着いた』と連絡していたからか、インターホンを鳴らす直前にドアの向こうから足音が聞こえ鍵が開かれる音と共にドアが空いていく。
瞬間、ふわりと香る甘い香り。菓子を焼いているのかバターの香りが僅かに混じり、そしてこの部屋の主である目の前の女性から香るフレグランス。
香水でも、洗剤とも表せない、女子特有の香りと言うべきか。
部屋着にしては少し着飾っているようにも見えるワンピース姿の少女は、長い髪を団子に結んでおり、俺の姿を目にした途端柔らかく頬笑みを浮かべる。
「おかえりなさい、悠くん」
100人見れば、100人が振り返るほどの魅惑の少女。『天使様』という嘘のような肩書きは誇張では無いと納得してしまう美貌。
「ただいま、真昼」
高校こそ離れてはいるものの、中学での出会いを機に交際を始めた少女。
椎名真昼がそこに居た。
俺の言葉に首を傾けて微笑む真昼。なんとも自然な笑み。恐らく彼女のクラスメイトが今の表情を見れば何人かはハートを撃ち抜かれるのではないかと思うその威力を見て、俺は思う。
────違和感。
2ヶ月ぶり程の再開。にも関わらず、俺の体は謎の震えが襲っている。体の芯から、という程ではない。しかし確実に、俺の指先は痙攣を起こしている。
汗が流れる。暖房の効いた部屋に入ったからだろうか。きっとそうだ、そうに違いない。さっきから妙にフフフと笑っている真昼はいつも通りの彼女なのだろう。
考えることを放棄し、俺は部屋へと一歩踏み出し部屋に上がるために靴を脱ぐ。すると背後からカチャリという音が聞こえ振り返るといつの間にか俺の背後に回っていた真昼がドアの鍵を閉めていた。いやはやっ。
「どうした……ん、ですか」
真昼の纏う怪しげな気配に気付き、思わず敬語。その間も彼女の頬笑みは途切れることなく、不気味なまで彼女は自然であった。
喉が渇く。何かがおかしい。分からんが、怒ってらっしゃる? 俺なんかやっちゃいました???
「──私、とても興味深いお話を聞いたんですよね」
警鐘が鳴り響く。本能が死を察知する。なんてことない言葉が死の風となって肌を撫でてくる。俺はほぼ条件反射で土下座を繰り出した。
いや、待て待て。俺は何もしてないはずだ。え、記念日あった? いやもうちょい先のはず。だよね?
「帝襟 アンリさん、でしたっけ? とても魅力的な女性のようですね」
「ヒュッ」
おいおいおいおいおいおい、死んだわ俺。
生存本能が産声をあげる。血が脳に回されるのを感じ、思考が加速する。
「いや違うんですなんか監獄に入れられてそこのトップがすんごい腹立つやつで周りも犯罪者予備軍の男だらけでそこに愛想の良い女性いたら癒されるじゃないですかいやいや決して好きになったとかではなくてマスコット的な癒しという意味でして俺には真昼さんしか見えてないじゃないですかホントのホントにまじのまじまじで邪な意味合いは無くてですね」
「フフフ」
「ごめんなさい」
頭を強く床に叩き付ける。よし、これで水平よりもさらに下に頭を下げられたことだろう。額がとても痛い。
真昼はスリッパを履いているだろうに、静かな空間ではスリッパの足音でさえも敏感に捉えてしまう。ゆっくりと近づいてくる死の気配に震え上がる中で土下座している俺の頬に手を添えられることで全身がビクッと大きくふるえると震えが止まる。心臓も止まってないですかね?
「────許しません」
耳元で囁かれる声は、耳から全身に駆け巡りゾワリと気持ちのいい寒気が走る。怒気は感じず、面白可笑しそうに、悪戯心を添えたような声は顔を見ずともに笑顔を浮かべているだろうことが分かる。
きっと、学校など他人がいるところでは決して浮かべることの無いような悪魔的な笑みなのだろう。
「私、とっても傷付いてしまったんです」
この時点で俺は敗北を悟る。ああ、全て計画通りだったのだろう、と。やはり、真昼にはどう頑張っても勝てる気がしない。
真昼の顔がさらに近づいてくる。俺の耳に唇が着くのではという距離まで近づき、熱い吐息が耳を擽る。
「──責任、取ってもらいますからね?」
頬に添えられた手にとは逆の手が反対側の頬に添えられ、ゆっくりと上へと持ち上げられる。床一面真っ暗の視界が光が刺し、遂には真昼の顔の前まで持ち上げられた。
──ああ、やはりというか。彼女のこんな顔は俺以外には見せることは出来ない。
これはもはや凶器、あるいは兵器。
男性特攻でも着いているのか、こんなにも魅惑的でトロンと蕩けるような表情を見て誰が耐えられるというのか。
俺の瞳を射抜いて離さない彼女の瞳を見て、俺に残された手段はなかった。
今日一日は、確実に真昼の言う『責任』とやらを取らされるのだろう。
彼女を天使様なんて言い出したやつに俺は心の底から物申したい。
真昼は天使様なんかじゃない……人をダメにしてしまう、小悪魔である、と。
◇◇◇◇
「なん、なんだ、お前……っ!!」
地面にたまる小さな水溜まりは全て彼……糸師 凛が生み出したもの。流れる汗は滝を越える。残された体力は僅か。体を動かし始めて10分経たずにこの様である。
「君、サエサエの弟でしょ〜? 試合見てたよ、やるじゃん! サエサエから一本とってた」
膝に手を付き胸を上下に揺らす凛の前で、余裕の表情でケラケラと笑う女性はスポーツウェアのような動きやすい服装では無くデニムパンツにブーツ。この服装で、凛を圧倒して見せた。
見知らぬ人物に声を掛けられ、突如始まった蹂躙劇に流石の凛も相手が女性とはいえ睨みつける。
既視感。この理不尽なまでの強さ。何より、顔付きにどこか既視感を覚えた。
「弟が世話になったでしょ? あいつどんな感じだった?」
ああ、自己紹介がまだだったか。と大袈裟なジェスチャー付きで思い出したかのように言う女性は胸を張ってムフフん! と言う勢いで腰に手を置き凛を上から見下ろす。
「君にはシンパシー感じたんだよ〜。私と名前一緒だもん〜!」
大胆不敵。神が創り出した異物であり世界のバグ。
理不尽の象徴。才能の権化。水野悠の自尊心を破壊し、糸師 冴にトラウマを植え付けた歩く災害。
「水野 凛──ああ、」
────憶えなくていいよ。
悠「てか、誰から聞いたのその話?」
真昼「お義姉様から聞きました」
悠「いつ繋がったの君たち」