あれは今から数年前。
思い出したくない忌々しい過去。俺にとって人生最悪の邂逅であると同時に『ストライカー』としての俺にとってはこれ以上ない程の幸運。
なんてことは無い昼下がり。世界一の称号をものにし、名実ともに最高のストライカーとなった俺の口添えがあれば休暇を摂ることは容易く、完全なるオフを3日連続で獲得した。
俺にしては珍しくサッカーボールに触れることなく、サッカー関連のことをすることも無い、完全にサッカーから離れた休暇。その始まりとして俺が選択したのはなんてことの無い散歩だった。
良くも悪くも有名である俺が街を歩けばたちまちファンのような奴らがこぞって俺に駆け寄ってくる。ただの休暇のためにファンサービスなんてやってられないとある程度の変装をして街を横切り誰もいないような過疎地へと足を運ぶ。
スラムとまでは行かないまでもやせ細った子供が何人も見えた。しかし彼らの瞳は死んでおらずキラキラと彩りを見せながら複数人とでサッカーを声を上げながら始めている様子を見る。
たいして口角が上がるようなことは無いものの、俺にとってもその光景は良いものだと分かる。人気はないが活気に溢れたこの中心地から離れた過疎地に立ち寄ったのは悪くなかったと思っていた。
……気紛れだった。
ボロボロのベンチに座り、これまたボロボロのサッカーボールらしきもの。器用にリフティングして鼻唄を歌っている少女に意識を割き、普段の俺なら絶対にしないであろう声を掛けるという愚行に走ってしまった。
『おい』
『ん〜……?』
後ろから声をかけたこともあり、少女はぐだりと背もたれに背中を預けて仰け反るように俺を見上げてくる。そして俺の顔を視界に入れると瞼をぱちぱちとし、ボールを上に蹴りあげると『お』と声を漏らして僅かに笑った。
『ノエル・ノア……だっけ? 有名人だ! サインちょーだい〜』
蹴り上げたボールを上を見ずに手に収めこちらを見る少女に俺はなんと表現すればいいか分からない悪寒を感じた。それは長年プロとして生きてきたことで自然と出来上がったファンやサッカー観戦者達から向けられてきた視線を数えられないほど浴びてきたからこそ感じとった違和感。直感が分かってしまった。
この少女は、俺に対してなんの興味も持っていないことを。
『……サッカーで俺に一度でも勝てれば書いてやる』
何故あの時の俺はこのようなことを言ったのだろうか。サイン程度、さっさと書いてその場をあとにすればよかった。いや、完全に無視を決め込み逃げの一手が最適解だったのかもしれない。
無意識に漏れ出た言葉に本人である俺が一番混乱している中、どこからどう見ても普通の東洋人──恐らく日本だろう──の少女は俺の言葉を受けると豆鉄砲を受けた鳩のように目をぱちくりと見開きこちらを見定めた後に笑ってベンチから立ち上がる。
『あははっ。それいいね! やろうやろう!』
右手に持ったボールを人差し指の上で高速回転しながら俺に背を向けて広場の中心に歩いて行く。その少女の姿を目に写す俺の足は不思議と1歩たりとも動くことは無い。
小さな広場であるために中心地に行くことはものの十数歩で事足り、ボールを地面に置いた少女はボールに足を乗せてこちらを見やる。
『ルールはこうしよう。1on1の十本先取。私は十本取れたら勝ち。ノアさんは私から1本でも取れたら勝ちでいいよ?』
少女が提示してきたルールの異様さ。それにすら気づくことの無い俺はようやく見えた少女の感情に戸惑いを見せる。
僅かに顔を見せた少女の内面は、『期待』、あるいは『諦観』。
『ああ、ちなみに私、サッカーの経験は弟と一回遊んだっきりだから──』
────こんな私に、どうか負けないでね?
俺はこの日、この瞬間からでも逃げ出すべきだったのだ。
そうしなかったから折角の休暇の全てがこの世の地獄を見るようなトレーニングという名の極刑に様変わりしてしまった。
そして、俺がこの魔女に名前を覚えられるようなことも無かった。しれっと連絡先を交換させられるような事態は回避出来たはずだ。
そうだ。
俺がこの経験を境に世界一のストライカーという地位を揺るがないものとした急成長を見せてマスコミをざわつかせるようになったのもあの女のせいだ。
その数年後に遠征でたまたま目が合った糸師 冴とお互いに労いながら手を組み合わせ共感を覚えたのもあの魔女のせいだ。
あの邂逅が俺を変えた。俺の基礎能力値の全てが跳ね上がった。感謝してるからもう俺の前に現れないで欲しい。俺が唯一願う神頼みだ。
だから────
『ノア〜。ちょっとお願いしたいんだけど〜』
──もうこれ以上厄介事を押し付けてくるのはやめてくれ。
◇◇
あの出会いが俺を変えたのは事実だろう。
ストライカーとしてもMFとしても、才覚の激上はあの人に出会ってから俺の想像を遥かに凌駕する飛躍的進化と言えるものだった。
『やっほ〜』
『……うっわ……』
まだおれがあの人の存在を知らなかった時。
悠と出会い、いつものように空き地でサッカーを強要させて1on1を続けていた時にその人は突然現れた。
気さくに手を振りながら悠へと向かうその人は女に興味のない俺からしても整った容姿だなと感じるだけのものはあり、そして既視感というか、似てるなと漠然とした感想を抱いた。
あの人に声をかけられた時の悠の表情は相手が嫌いだからとかではなく、むしろその人の姿を見た後に俺の方へと憐れみの目線を送ってきたことが当時の俺には理解出来ていなかった。
『おいおーい、愛しの姉君との一年ぶりの再会だぞ〜? 何その反応、傷つくなぁ〜。あ〜、傷ついた〜』
『じゃあ病院行け』
悠の手元にあったはずのサッカーボールは瞬間的に消え、ついで聞こえてきた弾ける轟音に何事かと目を見張ればあの人がボールを悠の横腹目掛けて蹴り飛ばしていた。
ギョッと目を見張る俺を置き、『グエッ』と呻き横腹を抑える悠に追い打ちをかけるようにスパンッ、と頭を平手打ち。
『これでチャラね』
『釣り合いが成り立ってないんだが』
『心の傷は身体的なものの数十倍辛いんだよ? むしろ少ないくらいね』
『心に傷負った人はそんなこと言わないんだよ』
『お黙り』
二人の会話には着いていけなかったし割り入ろうとも思わなかった。
でも、たった一つだけ俺の興味がそそられることがあった。
たった一度の、それもゴールに向けてではなく悠に向けて無造作に放たれた一発のシュート。
それは一度見ただけで脳が震えるほどに完成された芸術的なシュートの究極形だったから。
『独り身が寂しいのかね〜? 悠も彼女の一人くらい作ればいいのにね〜』
『男性経験ゼロが何言ってんだぁああっぶな!?』
『ははは。ねぇ、今なんか言った?』
『男性経験ゼ────』
俺の、いや、全サッカープレイヤーが求める究極の形。
悠こそが至高だと思っていた俺の世界に割り込んできた超ド級のダークホースで、しかも女。
悠に勝るとも劣らない頂きの片鱗に普段動かない口角がぴくりと反応したのを感じた。
音もなく地面へと倒れ伏したアホを放置して俺はその人へ向けて一歩踏み出す。
ゲシゲシと悠の頭をつま先で突いていたその人は俺の足音に気付いてか、ゆっくりと俺の方へと顔を向けた。
瞬間的に感じた悪寒。
悠と話していた時の表情と雰囲気が嘘のように消し飛び、仮面を被ったかのように色が無くなったその人は心底興味のないような表情を向けてきて。
それはまるで、俺の存在に今の今まで気づかなかったかのように、道端の草を何となく見るように。
『……なぁ、俺とサッカーしてくれよ』
『俺、知〜らねっと』
ここでなにかを残さなければ俺はこれ以上成長できないかのような予感。
危機感にも似た思いから咄嗟に出た言葉にその人は意表をつかれたように目を丸くして俺を見てくる。それを見て、ようやくこの人の顔を見ることが出来た、なんて言う感想が過ぎった。
気配を消して匍匐前進でその場を去ろうとした悠の背中を踏みカエルの鳴き声のような奇声を悠があげるもそちらに顔を向けることなく、その人はゆっくりと微笑みと呼べる程の表情の変化を見せた。
『キミ、名前は?』
魂に直接語りかけるように浸透してくるその人の声。
悠の声に似た何かを感じ、後に調べ「1/fゆらぎ」と呼ばれる悠と同じ才覚を秘めていることを知るがずば抜けて頭がいい訳では無い俺には関係の無い話で。
『──糸師冴』
普段の俺なら無視するその問いかけ。
けれど、その人から発せられた言葉と声には絶対君主のカリスマというか、強制力のようなものを感じ俺は素直にその質問に答える。
『私は凛。ソレの実の姉ね』
『ソレで〜す』
身体の震えは武者震いと解釈した。謎の悪寒は悠とのサッカーで汗ばんだ濡れた服が冷めてきたからだと誤認することにした。
『えーと……なんだっけ?』
『サエサエ』
『そうだそうだ! そんな名前だった』
悠の姉というその人……凛さんは弟と同じ名前で、そこになにかリアクションをすることは余裕がなくて出来なくて。
『サッカーやってくれ、だっけ?』
完全記憶能力を持っている凛さんが一度聞いた名前を忘れるはずもなく、仮に忘れたと言うのならそれは覚える必要が無い相手と彼女が認識したからだという証拠に他ならない。
そういうところにも、悠の姉なんだと似通った部分を見いだせるが、悠に比べればこの人は何十倍もタチが悪い。
『この前もおんなじようなこと言われたよ』
近寄ってくる凛さんに俺の体は動いてくれなくて。
唯一心臓だけが生命活動の為だけに鼓動を続け、それ以外の機能は停止したままに近寄る凛さんに視界を奪われる。
トン、と人差し指を俺の胸へと押し当て、下から見上げてくる凛さんの表情は笑っているようでいてやはり色が見えなくて。
『────頑張ってね?』
魔王からの労いの言葉。
それが意味することを、俺は正しく理解出来ていなかった。
『……お前も大変だな』
それでも、俺は凛さんの中でのボーダーラインを越えたようで。
その日を境に、俺は悠との練習で培った技術の開花をさらに花広げ、世界でも有数のプレイヤーとなった。
付随して手に入れた、『同類』を一目で見抜く技術。
それは俺だけが獲得したものではなくあの人に関わって見初められてしまった人に付与されてしまうもののようで、たまたま目が合ったノエル・ノアと互いに手を取り合い互いの境遇を慰めあった。
これが俺の、世界一のストライカーとの初邂逅である。
──俺の中身は、サッカーで埋め尽くされていた。
それ以外はどうでもいいと切り捨ててきた。サッカーを突き詰め、俺の欲求を満たさんがために。
他人に興味を持つことが少なかった。興味が出てくるのはサッカーが上手い選手や見込みのあるヒヨコども。俺が定めているラインを超えるか超える可能性があるかだけが俺の興味の矛先の基準だった。
そのラインを易々と置き去りにし、遠くで俺を見ながらタップダンスを踊っているのが悠だった。
俺の全力は、あいつにとっての遊び相手でしかなくて、世界に出て感じた国境の壁以上の隔絶された才能と言うやつを一個下の、しかも日本人に突き出された。
生まれた時からサッカーボールを触り続けていた俺が、サッカーを始めて二年そこらの奴に追い縋ることも出来ない。
あの瞬間、俺の中で何かが砕け散ったんだ。
当の本人はサッカーに興味がなかった。続けるのも進学する高校にサッカー部があれば入るけどそれまでだとかほざきやがる。
巫山戯るなと言いたかった。お前の才能が辺境で燻るのが耐えられないからと。俺の人生を捧げてもいいと思えてしまったストライカーを手放したくなくて。
あいつと関わって、俺の観察眼に磨きがかかった。
それはもはや、試合の結末までもを見通す予見眼と言える、全てを見通す神の視点。
俺には試合のビジョンが見えた。誰が決め、誰にボールが渡るのか。誰よりも一歩二歩と先に動く俺はいつしか新世代11傑入り確定まで言われていた。それほどまでに、俺の技術はあいつとの出会いで向上していたんだ。
だから、とは言わない。本当は分かっていた。
悠が、プロとして世界と戦う姿を俺は想像することが出来なかった。
悠の才能は世界トップだ。
あいつに勝てるやつは誰もいないと断言してもいい。ノエル・ノアも、あいつには勝てないだろうと分かる。
世界のトップ層と戦えば、悠はゴールを量産していることだろう。
世界の注目を一身に浴び、一躍時の人となって取材が殺到するのだろう。
けれど、悠がそのコートに立っているという事実が、その前提条件自体が思い描けない。
俺では悠の気持ちを変えることは出来ない。俺は悠が望む実力者になることは出来ない。あいつを脅かす存在になることは出来ない。
『ユウにパスを出すのは俺なんだよっ!!』
『黙ってろ、ザコ』
俺に出来るのは露払いと勘違いしたゴミの処理。
勘違いした餓鬼を完膚なきまでに叩きのめしたのはスカッとした。
悠の意識を変えるという事は、悠をどんな要素でもひとつ超えなければならないということに他ならず、悠に勝つというビジョンを描けない俺では絶対に不可能な条件だったから。
『この子いいよねぇ〜。面白そう』
────だから俺は賭ける。
悠がサッカーを辞めるタイムリミットはすぐそこまで来ているから。
青い監獄という化学反応によって生じる稀代のエゴイストに。
凛さんが見初めた……見初められてしまった犠牲者に託す。
俺に出来るのは、土台を作ること。
劇的に、刺激的に、強烈なまでのインパクトをあいつに与えるために。
『……あの、今、なんて……?』
次がラストチャンス。ここで何かを残さなければあいつは永久的にサッカーから離れる。
空港で凛さんから聞いた言葉を聞き、飛行機をキャンセルした俺はとある場所へと電話する。
端的に告げた内容を理解出来なかった女が聞き返してきて、それに僅かな苛立ちを感じるも必要な作業であることから割り切りもう一度同じ内容を告げる。
「──次のプロジェクトに俺を組み込め」
この時、俺は知らなかった。
知っていれば絶対に参加することは無かったのにと後悔もするだろう。
「ついでに鍛えてあげる☆」
「──」
回れ右の全力ダッシュは、ノアの哀れみの視線を最後に一歩で追いついたその人に組み伏せられ失敗することとなる。
◇◇◇◇◇
来ました、ボウリング場〜。
「どんどんぱふぱふ〜」
「急に手を叩いて何を言っているのですか」
「言わなければいけないという使命感に駆られまして」
「そうですか」
「冷たっ」
真昼の家であれやこれやキャッキャウフフと過ごして数日。あれ、外出て無くね? という事で真昼の提案に則り某ボウリング場に来ましたぞっと。
「二人でこういうとこ来るの初めてだな」
「そうですね。私はどちらかと言うとインドア派ですから」
「運動出来る方だけどな」
「悠くんに言われるのは嫌味に感じてしまいます」
え、ごめんね? と声に出さず心の中で謝罪。
世間では今は冬休みに突入していることもあり平日の昼間だが学生で埋め尽くされている。
全てのレーンに人がいるという訳では無いが空いているのは2つほどだろうか。高校生集団と思わしき男連中が一人がスマホを片手に動画を撮影し、ボールを持つ男がわざと後ろに投げて観客役の三人が直立のままジャンプするという既視感が凄い遊びをしていた。多分あいつらは胴体と手が離れているのだろう。チャンバラとか適当に振りそうだ。
そして常連と思わしきおじいちゃんがグローブをはめ、マイボールを片手に独特のフォームでピンへと転がしている。いやおもろっ。
「1号球は無いぞ」
「馬鹿にしてます?」
二人でボウリング玉を選びに行き、俺は9L、真昼は5Sをチョイス。十分小さいよ。
真昼が選んだ玉をそれとなく持ち、俺たちに宛てがわれたレーンへと向かう。トテトテと後ろから駆け寄って隣に並ぶ真昼は何やら嬉しそうに微笑んでいた。
「え、あれってっ!」
「嘘っ!!」
「本物!?」
周りの女性が何やら騒ぎ出したところで真昼の微笑みタイムは終わりを告げ、代わりに俺の右腕に腕を絡めてきた。怖い。
「どした?」
「露払いです」
何事?
「所有権を誇示しようかと」
「なんかわからんけど怖い」
念の為にと選んだ玉と同じものを一つずつ計四つのボウリング玉を運び、席に座りタッチパネルを操作して二人の名前を決める。
「……一応聞きますけど、どっちが私なんですか?」
「『女王』が真昼で、『ポチ』が俺」
「何故この名前にしたのか詳しく聞きたいところですが」
だって所有権がどうのこうの言ってたし。
着ていたダウンを脱ぎ、几帳面に畳んで余白スペースへと置いた真昼は上はニットで下は動きやすい冬用のスポーツウェア。黒いウェアと白いニットが掛け合わさり結論真昼は可愛い。
ポケットからヘアゴムを取り出し口にくわえ、慣れたように後ろに手を回し長い髪をひとつに束ね片手でヘアゴムを取り、一瞬にしてポニーテールの出来上がり。
「手を合わせてどうしたんですか」
「ポニテ最高。眼福です」
「もうっ……これぐらいいつでもしてあげますよ」
結婚したい。
俺の視線に耐えられなくなったのかぷいっと視線を逸らし立ち上がってボウリング玉を取りに行く真昼の耳が赤かったのを俺は見逃さない。後で弄ろ。
それにしても……ボウリングか。
経験はあるが、小学生の時に1、2回といったところか。中学は半分スペインで潰れて、もう半分は色々あってそういうところに行けなかったからなあ。謎の新鮮さを覚えている。
まあ、ボウリングとは競技の一環ではあるもののここで行うのは試合では無いし、楽しくやれればそれでいいかと周りの様子を見ることなく素の状態で臨んだ。
「こうして数値に現れると悠くんの運動神経の良さを再確認してしまいます」
「真昼とそんな変わんないけどな」
1ゲーム目の結果は俺が175で真昼が140。
ボウリングとは異常に曲がるものだという謎の先入観から一投目をボールを一周させようとしてガター一直線だったのはいい思い出。
思ってたよりも1ゲーム終えるまでの時間は長いもので、服のせいかじわりと汗ばむ真昼へと念の為に持ってきておいたハンカチを手渡す。
にこりと笑って受け取った真昼は後ろ髪をかきあげて首筋を拭うという無料で見ていいのか分からないことをしていたので特等席で眺めさせていただいた。
「トイレ行ってくる」
「はい……あ、ちょっと待ってください」
今では空いていたレーンにも客が入り満席状態。打ち放題で入ったもののこの時間にこの人数なら制限を設けられるかもしれないなと考えながら立ち上がったところを真昼に手を引かれる。
クイッと引かれた俺は立ち止まると正面から真昼が俺の体に抱き着いてくる。ふわりと鼻腔をくすぐるいい匂いは香水や洗剤の匂いだけでは表現出来ない真昼の香り。強めに抱きしめられ色々当たっていたりいい匂いがしたりと大忙しではあるが俺の感想は(なんか怖い)一択。
「ふぅ……よし、もう大丈夫です」
「だいじょばないが? 今日のお前なんか怖いんだけどどうした?」
「なんでもありません。私の匂いを悠くんに付けただけです」
「マーキングすな」
にっこり笑って座り見あげてくるこの子の笑顔が今だけは怖い。まじでどうした? たまに横目で鋭く牽制してるの見えてるからっ。相手誰。
とりあえず怖いから触れることなくトイレへと向かう。何やら複数の視線がウザったらしいことこの上なかったが無視して歩く。
「あれ、水野?」
手を洗っているところを隣にいた男に声を掛けられる。
「すいません。俺ノーマルなんで」
「ちっげぇよ!! 俺だよ、俺!」
オレオレ詐欺もちょっと、と思いながらも考えてみれば聞き覚えのある声にふと顔を上げてみる。オッドアイの髭。なんて言ったっけ?
「天空……あぁ、愛空だっけ」
「なんだその思い出し方……つか、お前もここに居たのかよ」
そうだそうだ思い出した。年齢詐称グループの筆頭だ。気さくに話すほどの仲じゃないと思ってたけどなんだコイツ、ズケズケ来るタイプか?
「まあ、たまたまだな。何、お前以外にも居んの?」
「チームメイトと来てたんだが、ばったり青い監獄メンツと会ってよ。今勝負してんのよ」
「あそう」
「お前も参加するか?」
「いいわ。連れが居るし」
「へぇ。彼女か?」
ニヤニヤしながら聞いてくる。なんだコイツ気持ち悪いな。
「そうだけど」
「マジかよ、冗談のつもりだったんだが……そういやお前から女の匂い結構するな」
何か知らんが一緒に歩くことになり短い距離ながらに会話を続ける。
「あのっ、もしかして水野選手ですか!?」
「違います」
誰だよ水野選手。別にプロじゃないんだが。他人の空似にしても名前は変えろよ水野選手。
「U-20と青い監獄の試合観ました!!」
「人違いです」
「私、糸師冴選手のファンで試合見てたんですけど、水野選手のプレーを見てて最推しになっちゃいました!!」
俺じゃねぇか。水野選手俺だったよ。糸師冴とか言う名前あいつ以外居ないだろうし。横で愛空が爆笑しながらファン対応という器用なことをしているのか腹立つ。
「握手してくださいっ!!」
断れない空気が漂っていたために仕方がなく軽く触れる程度に握手を交わすと触れた瞬間にその女性は飛び上がり悲鳴をあげながらどこかへ走っていった。いじめかなにかですか?
「ガチ恋勢ってやつだな!」
何言ってんだこいつ。
そしてしばらく……と言っても数十秒だが、俺の知るメンツの集まっているレーンに辿り着いたらしい。
「ここが俺らのいる場所な。ほら、みんな居る……て、どうした?」
ああ、ゴミがいるな。
俺は慌てることなく、急ぐことなく。けれど迅速に真っ直ぐに目的地へと歩いていく。
「ねぇ、俺らとカラオケでも行かない?」
肌を舐め回すような意図して甘くしている声が気持ち悪くて仕方がない。そいつの顔なんてどうでも良くて、俺は声を掛けられている存在の方を軽く叩く。
「悪い、遅くなった」
「……いえ、それほど待ってはいませんよ」
声をかけられていたのは真昼で、どうやら状況的に飲み干してからになったコップにドリンクを注ぎに行った帰りに捕まったんだろう。
「水野……!?」
勘違いナンパゴミカス野郎が俺の名前を口にする。生憎と俺はそいつのことを知らないからこそ俺の名前を知っていることも嫌悪感の増幅にしかならない。
「お前らが誰か知らねぇけどさ」
ビクリと相手の肩が跳ね上がる。不安そうに見あげてくる真昼の髪を優しくとき、俺の体で真昼を相手から見えない位置へと隠す。
何人もこちらを見てくるが誰一人知らない。軽薄そうな見た目のやつがナンパして、その相手が真昼だという事実だけで十分だ。
「こいつは俺のだから」
ダメだな、制御ができない。
頭では分かっていても理性が許してくれない。これ程口が悪くなるのは何時ぶりか。中学最後に真昼の親に会った時に近いかもしれない。
真昼という女の子は繊細な子だから。けれど傷ついてしまった部分を隠すことには長けてしまっている強い子だから。
この一件が表面的では小さなことでも内心では深いトラウマになっているかもしれないと考えるだけで腹が立つ。
「手ぇ出したら──殺すぞ」
ギュッと手を握られる。そこから感じる仄かな温もりにハッと理性を戻して真昼を見れば慈愛のこもった笑みを向けてくれていて。
こんな顔をさせてしまったのは自分自身なんだと自己嫌悪に陥りかけたがそれは真昼が望むことでは無いために抑える。
「
「おまっ……」
「マスター??」
視野が狭まりすぎて気づかなかったがどうやら凪もその中にいたようだ。よく見れば潔もいる。あとは……うん、知らん。
それはともかく。凪がマスター呼びしたことが先程の俺がここを静寂の世界としてしまった為にやけに響き真昼に届いてしまった。
これはまずい。俺が自分のことをマスターと呼べと要求している痛いヤツに見えてしまう。
「ふふっ……」
「凪お前死刑な」
「え」
絶対後でネタにされるやつ。なんなら姉さんに伝わるまでがセットなまである。
小さく「マスター、マスター」と呟き煽る真昼の頬を摘みながら凪と愛空に別れを告げて俺たちのレーンへと歩いていく。その際すれ違った潔に思い出した案件を言おうと空いた手で潔の肩に手を置く。
「え、なに?」
「……どんまい」
「なにが!?」
いやだって、姉さんから聞いた特徴で最近会ったやつの中から主人公っぽいやつって言ったらお前が最有力だし。なんか姉さんに見初められる気配感じるし。あの人の運命力は神超えてるから多分すぐに絡まれるんだろうなぁ、とか、俺は巻き込まないで欲しいなとか思ってる。
そうして家に帰りキャッキャウフフと過ごし、朝が来て夜が来てと過ごしていたら家に手紙が届いていたようで真昼との共同生活が終わりを告げて渋々家に帰り手紙を開くとまさかの再投獄のお知らせ。はっや。