「おいおい。何の冗談だ?」
総指揮ルーム。青い監獄のほぼ中央に位置し、全ての棟の情報、監視カメラ映像、そして各チームの選手のデータ、試合結果。全てを観測し、経過を見守るための一室。
ただ一人、そこにいることが許される絵心 甚八は一日のほとんどを過ごす椅子を反転させ、細く長い腕を天に掲げ三人の訪問者に嘲笑を浴びせる。
「世界一と言わしめるノエル・ノア様がここに何の用だと思えば……もう一度、説明してもらってもいいか? 今の俺の耳はどうやら通りが悪いらしい」
訪問者の一人、ノエル・ノアは絵心からの問いかけに対し、態度を変えることなく淡々と先程と同じ内容の要求を口にする。その顔は真顔のようで、しかし見る人が見れば疲れきった諦めの表情にも見えた。
再度同じ言葉を告げてきたノアに対し、はっ! と絵心は大袈裟なまでに吐き捨てて眼鏡をクイッと指で押し上げる。
「これはこれは。とんだ大スクープもあったもんだ。天下のノエル・ノアが愛人を引き連れて来るなんてな」
「ちょっ……絵心さん!」
「黙ってなよ、アンリちゃん」
冗談めかして罵倒する絵心は、しかし表情に笑みは見えず。憤怒に似た別の感情が見え隠れする様を見て、やはりこうなったかとノアは直立の姿勢を崩すことなく思い立つ。
かつて、U-20日本代表戦において水野悠を引き抜かれた時とも違う空気を感じとったアンリが息を呑むことも横に置き、「あのな」と高圧的に絵心が告げていく。
「俺がアンリちゃん以外に女性スタッフを調理担当以外でこのプロジェクトに参加させていないのはどうしてか分かるか?」
深々と椅子にもたれ掛かりながらも視線はあくまでも見下すように向けられて。その瞳はノアとその隣に立つ女性へと向けられていた。
「──恋愛だなんだと色気づかれて原石共の孵化の邪魔になることが分かりきってるからだよ」
両手を勢いよく組み合わせ、形あるものを粉々に砕くようなジェスチャーを見せる。密閉された空間に瞬間的に放たれた破裂音にアンリがビクリと肩を揺らすがノアともう一人の女性は大した反応を見せずに続きを促す。
「このプロジェクトは299人の屍の上に立つ一人のストライカーを生み出す為のもの。水野悠という存在が浮上してしまってはいるが、俺はあいつの存在がゴールとは思っていない。あの傑物を超える存在が誕生してこそ、このプロジェクトの成就だと今は思う。だからこそ、余計な異分子が個人的なクソしょうもねぇ理由で組み込まれたらプロジェクト自体が破綻する恐れがあるのは……分かるか?」
「コレを女と思うな。そこらの悪魔の方が可愛げがある」
「辛辣ぅ」
ケラケラと、手で口を押さえながら笑う女性にアンリが若干引きながらも、誰かの面影を感じたことで違和感が募る。それは絵心自身も同じだったが、今は捨て置き問題点をあらいだす。
「そもそも、俺はお前の横をテクテク歩くひっつき虫のことなんて知らないんでね。価値を感じなければ話し合いに応じるつもりもない」
「部屋はなくてもいい。廊下で寝させる「おいおい、私乙女ぞ?」こいつの顔を毎日見るのは俺もストレスで胃に穴が開きそうではあるが……利点は大きい。加えて、こいつが関わるのは今のところ一人……まあもう一人自動的に絡まれそうなやつはいるが、影響は絶大で範囲は極小。お前の掲げる理想に一歩近づけるというのならこの程度安いものだろう」
「一応聞いておく。そいつのサッカー歴、プレイヤーとしてでもサポーターとしてでもいい。何年だ」
「皆無だな。積み重ねても一週間に満たないだろう」
「
シッシッ、と両手を使い跳ね除け、要件は終わりだと拒絶を示すようにぐるりと反転し背を向ける。もう居ないものだと断定し、絵心は表示されたデータの隅々を見ていきプロジェクトの進捗具合を観察していき。
「こいつは俺よりも強い」
「────あ?」
決して聞き逃せない言葉を耳にし、半身を翻しグルりと首を回す。
ノエル・ノアという世界一の称号を獲得した男のことを絵心は知っている。同じチームで過し、戦友として高めあったライバルを知っている。彼が嘘をつくような人間でないことを、誇張表現を使うような男では無いことを。
故にこそ、絵心は最初から話を聞く気がなく真剣に取り合わなかったことから軽くあしらっていた女性に対し、もう一度深く観察を始めた。
視線が合い、ニコリと微笑みかけてきた女性の瞳を見て、絵心は感じ取る。
底無しの深淵、理解不能の悪寒、視られているという恐怖。
────ゾワッ。
身の毛がよだつ寒気を感じ取り、女性の背後になにか巨大なモノが見えたような錯覚。目を見開き、じわりと汗ばむ手のひらを肘掛けを握りしめることで拭い、絵心はニヤリと笑い問い掛ける。
「名前は?」
「水野凛」
え、と間の抜けた声をアンリが漏らす。
「何を望んでここに来た?」
想定外の問い掛けだったのか、キョトンと目を丸くした女性……水野凛は、どう答えるか逡巡し、おふざけに回った回答を10個ほど思い浮かべたものの、真剣な瞳に考えを改め、全てを語らず簡潔に目的を告げる。
「──驚きと刺激」
◈◈◈◈
「バランスが大事だと思うんだよ」
トレーニングルームがこの監獄には何故か五つほど設置されていて。恐らくランニングなりダンベルなりをしていくことが発電へと繋がり、刑務としてみなされているのだろうがノルマはノアが提示してくる量で人それぞれであり、俺の場合は一任するというなんとも天国な内容だったために暇だからトレーニングルームには結局毎日足を運んでいる。
「2つの融和。比率的に見ればこの二種類は同じものであるにも関わらず何故ここまで人気に差が出てしまうのかと考えた時、その形状、配分、調和。原点でありながら至高、アレこそが究極形でありシャープなデザイン。パイオニアにお礼を言いたいほどのプロポーションだろ」
試合やパス練、シュート練は単調作業かつ周りのレベル的に大した運動にならないために汗を流す効率が高いのはやはりこのルームだろう。
「例えるなら整った顔立ちだと認識されやすい黄金比率。美しいと感じる女性のスタイルボンキュッボン。まあ後者に関して言えば俺的にはどうでもいい話だけど」
「嘘つけ。アンリとか言うやつの胸見てた癖に何言ってやがる」
「おいそれ禁句」
かれこれ何十分経過しただろうか。まあまだ30分位だろうが、ランニングマシンは景色が変わらない点に関しては好ましく思わないが友達とやる分にはスピードに差が出ても隣にずっといるために話せるというところは評価していいと思うな。
「つまりは形。そして配置。そして最初の主張に戻るがバランス。二種類の素材をどこに配置し、どのように纏めるのか。それによって俺たちが感じるものは変わってくるのだと教えてくれたこれら二つの存在はもはや教科書として義務教育に導入してもいいレベル。中一の一学期の美術は全てこれの研究に費やしてもいいレベルだろ」
俺がひとつ速度を上げれば隣にいる男も無言で速度を上げ、そして俺があげてまた男が上げる、その繰り返し。目で見ずに音で判断してくるから俺は速度をしれっと落としていき、それに合わせて隣のやつは上げていくものだから俯瞰すればただのコント。
「んで、何の話をしてんだよお前は」
俺と比べて明らかに足の回転速度が速い隣で走る男……冴は、何処までも澄ました顔で俺の方へと横目を向けてくる。汗ばんで額に張り付く前髪を鬱陶しそうに掻き上げてしたまつ毛をパツパツと動かす物だからよく分からない玩具みたいな挙動で面白い。
冴からの質問は全くもってナンセンスな問い掛けで、俺は呆れを溜息という形で表し、冴の眉間にシワが寄せられるほどの馬鹿にした顔を意図して向ける。
「──たけのこの里こそ至高って話だよ」
「お前の彼女にお前が別の女の胸を凝視してたこと伝えてやろうか?」
「おいなんで知ってんだよ連絡先」
「リンさんに押し付けられた」
「あいつほんと真昼の家出禁にしようかな」
「連絡先っつってもSNSアカウントフォローさせられただけだからDM送る気なんてサラサラねぇよ」
こいつSNSとかやってるんだ。意外だ。多分フォロー少なくてフォロワークソ多いんだろうな、想像出来るわ。スペイン英語で書いてofficialとか付けてそう。
「付けてねぇよ」
心の声読むな。セクハラって言うぞ。
再投獄初日に冴も遂に犯罪犯しそうな顔なことがバレて投獄されていたことが判明し、そこから10日以上経過したがこれがここでの初邂逅。今まで気配は感じていたが俺の背後に迫ってきて「ユ」まで声に出していた誰かを黙らせていることしか知らない。誰だよそいつ。
「昨日は暴れたらしいな」
「俺ほど紳士なやつは居ないと思うけど」
適当にはぐらかしてみたら「違ぇよ」と緩めのツッコミが飛ばされてくる。こいつ速度上げすぎてしんどくなってね?
「ゾーンに入ったらしいな」
「ああ、それね。別に。ノアに全力出せって言われたからしただけだよ」
やはり景色が変わらないというのは重要で。話しているだけでは紛れることの無い飽きが遂に頂点に達したために走ることをやめてマシンを停止。近くに置いていたタオルで程よく流れた汗を拭いスポドリを飲む。
そうすれば冴も真似してやめ、隣に置かれたベンチにどかりと座り込み息を吐き出した。しんどかったのね。
「試合動画見た。クソつまらなそうな顔しやがって」
「実際面白くも何ともなかったからな。もう此処でゾーンに入ることは無い」
「辞めんのか、サッカー」
間髪入れずに告げてきたなんてことないような言葉の抑揚。それでも、ああこれが本題か、と思わせる熱は篭っていた。そして冴の体からは湯気が出ていた。そっちの熱は要らないんだよ暑苦しい。
「辞めるって言っても、活動自体で遊び程度にはたまにはやると思うぞ」
「それを辞めるって言うんだよ」
はぁ、と一呼吸置き、からになったボトルをぎしりと握りしめる。おい、再利用。
「もう決めてんのか」
「前から言ってたことだろ。時期が早まっただけだよ」
「撤回は?」
「俺のこれってそんなに重大発表なん……?」
そこまで詰められるとなにか思い違いからのすれ違いが起こっているような気がしてきたがサッカーを辞めることについてという前フリがあったためにそれは無く、ということはと、俺は冴がここまでこの話題について気にしている点をあげていけば自ずと答えに辿り着き、それはどうしようもなく冴らしいものだと笑いそうになる。
「サッカー友達が減って悲しいのか? ん?」
「黙れ」
此処で否定しない辺りツンデレモード炸裂な訳で。
「減るんじゃなくて、無くなるんだよ」
ギャップが爆発した。
それはもう、ギャロップもびっくりの火力、ポニータがツインテールにするくらいの衝撃。
こいつは誰だ? 泉に突き落として新しい冴になったのか? 頭冴えちゃったのか?
チワワにしか見えなくなってきた。クゥーン、と涙目に見上げて来る小動物を俺はどう対処するべきなのか。抱きしめる、抱きしめないよ、抱きしめよう。ダメだ、汗びっしょりでセーブかかっちまった。あと絵面がグロい。
そして悲報、サッカー友達俺以外居ない。
俺は静かに涙を流した。
「……まぁ、あれだ。偶にくらい相手してやるし。なんなら姉さんと付き合うなり結婚するなりしたら頻度も上がる────」
ガシッ、と力強く肩を握りしめられ、強引に顔を合わせられる。やば、眼力凄すぎて眼球飛び出そう。
「付き合うとするなら俺は人間と付き合いたい」
「お前結構なこと言ってること気付いてる?」
そのうち昆布茶と付き合うとか言い出しそうなくらい目がマジでガチだった。
遠回しに俺の姉を人外だと言ってることに気づいてね? あ、気づいて言ってるのか。一応俺その人外の弟ぞ?
てか、何気に冴が誰かと結ばれるところが想像つかないな。こいつから好きになることとかあんのか? もしや男か。
「一日に二回ゾーンに入って疲れてねぇのか」
「全く。合算しても数十分そこらだぞ。てか、二回目も知ってんのな」
「見た訳じゃないがな。SNSが騒いでんだから嫌でもわかる」
こいつ、人間の友達が居ないから遂にSNSを擬人化しだしてやがる。
あとで友達紹介してやるか。刺青オネエでも紹介してやればハッピーエンドだろ。
『潔世一選手。ノエル・ノアがお呼びです。至急マスターストライカールームまでお越しください』
何度聴いてもクソダサいネーミングの部屋。そしてよく呼び出されるやつだな潔は。もしやあの部屋の名前考えたのは厨二病モードの潔では?
「──潔世一」
オウム返しのように名前を告げる冴。意味深なように口調を落としていたためにそういう年頃なのだろうと触れないでおいてあげるのも一種の優しさなのだろう。
一息置き、徐に立ち上がった冴はタオルを肩にかけて頭に手を置き傾けてバキバキと首を鳴らす。その後腰を回しまたもやバキバキ……こいつ凝りがすごいな。マッサージしてきた方がいいんじゃない?
「ノエル・ノアと戦ってみた感想は?」
もうトレーニングは終わりと言うように出口へ向けて歩きだし、すぐに立ち止まり半身でこちらへと視線を向けてくる。
その問いかけは、いつかの答え合わせのようなもので。それに対する答えを俺は持っているのかは分からないけど、「強かったよ」と口にしたあと、少し考えてその感想を上書きするようにもう一度宣言をする。
「──まあ、あんなもんだろ」
やっぱり言わなければよかったかもしれない。少し、ほんの少しだけ覗かせてきた冴の悲しげな表情。それは直ぐに消えてしまっていたけれど、確かに俺の目に刻み込まれてしまったもので、冴は何かを決心したように「そうか」と言い部屋を出ていく。
今はこのルームを出る気になれなかった俺はなんてことはなくベンチに座り続けスマホに触れることなく天井を見上げる。
思えば、冴は俺を過大評価しすぎなのではないかと思う。ノエル・ノアに勝ったからどうした。たった一人の身近な存在である姉に勝てない俺よりも強い人なんて世界にはゴロゴロといるに決まっている。そうだ、そうに決まっているんだ。
だって、そうでないといけないのだから。
数分してからルームを出て、気分転換に遠回りして歩く。その途中に、自動扉がゆっくりと開き冴が顔面から地面へと倒れ、誰かにゆっくりと引きずられて行く姿に俺は理解しないながらに合掌した。
◇◇◇◇
俺は悠の全てを知っている訳では無い。
あいつの内心を全て理解できるほどに俺はあいつと関わった時間は多くは無いだろう。それでも、さっきの会話で分かってしまった、感じてしまった違和感は良くないものだと分かる。
悠は壊れている。
これはただの俺の推論で、当たって欲しくは無いもので。
ただの勘違いクソ野郎の方が何倍マシだろうか。けれど、あいつは自分の発言が日に日に矛盾していっていることに気づいていないだろうから。
多分、それに拍車をかけたのはこの新英雄大戦などという最前線で世界と戦うレベルの高い選手が集まってしまっている環境に身を置いてしまっているから。そして、スペシャルマッチなどと銘打って行われた五人のトッププレイヤーとの1VS1に完勝してしまったことなんだ。
あいつはそれを理解してないだろうけど、何かを感じとってしまったからこその引退宣言なんだと思った。
けど、今の状態であいつがサッカーを辞めてしまうのは何かが崩れ落ちてしまう予感が絡みついて離れない。
これは全て俺の勝手な妄想だけど、それでも俺は全てが当たっていると仮定して勝手に動く。
この限られた期間で悠にとってのJOKERを育て上げて、アイツにぶつける。アイツに驚きと刺激を与える。
倒せなくていい、敗北を味わわせなくてもいい。ただ、何か一つでも、再現性がなくてもいいから、一瞬だけでも悠の想定を上回るモノをぶつけたいんだと、俺は俺個人の思惑に一人の犠牲者を選ぶ。
トレーニングルームから見えた。ノアが潔世一を連れて歩いていく姿。俺は2人がいるであろう数ある中のひとつのコートへと向かう。
この短期間、失敗は出来ない。俺の全てを潔世一という希望に注ぐ。俺では無理なのだと分かってしまっているからこそ、俺では成れないのだという怒りも全て込めて、半ば八つ当たりのように潔世一を鍛えてやる。
自分自身の弱さへの怒りに汗が滲み出る。心做しか、身体も僅かに震えているようだ。ここまで怒りを感じていたのかと俺は驚きを覚える。
トレーニングを終え、汗が引いていくからか、身体が冷えきって寒気を感じる。もう少し念入りにシャワーやタオルで拭えば良かったなと思ったが、すぐに行動したいという欲がそれをさせず、結果として体調に影響が出てしまえば元も子もないだろうと自嘲する。
──本当に?
モヤモヤと積み重なる違和感。しかしそれを振り払い、俺は俺のなすべきことを完遂するための第一歩として、2人がいるであろうルームへと辿り着く。
あとは正面に立つだけでセンサーが反応し、扉が自動で開いて中にいるノアと潔世一の姿を確認できるだろう。だから俺がすることは正面に立つだけでいいと言うのに、緊張からか一歩を踏み出せない。
────本当に?
いや、気の所為だ。そんなことはあるはずないんだと、俺の中で生まれた疑問をそうそうに捨てる。
……とりあえず、深呼吸だけしとくか。そう思いつき、念入りに三度の深呼吸をゆっくりと行い、そしてもう一度深呼吸をする。震えは止まらない。よし、大丈夫だ。
こんなところでうじうじしていたとしても何も変わらない。それにありえない事だ。そう思い込み、俺は一思いに歩き機械音とともに開く扉をくぐる。目は閉じたまま。
目を開けるか? いや、現実を見たくない。潔世一が俺の名前を呼ぶ声が聞こえたからあいつがここにいるのは確定だとして、ノアの憐れみを込めた溜息だけが俺の不安を加速させる。
いや、落ち着け。大丈夫、いるはずが無い。開くか、見るか、いや、辞めとこう。
よし、開く。そう決意し、俺は一気に瞼を開く。明るさに一瞬チカチカと視界が光るがすぐになれ、視界がクリアになり、瞳に映るのは二人の男だけ。
問題無い。いや、当たり前なんだ。二人以外がここに居るはずなく、だから俺は安心感から胸をおろし、俺の横を見る潔世一の元へと歩みを進める。
「──アハッ。来ると思ってた♪」
耳元で囁かれた女性の声。艶があり、至近距離だからこそこそばゆい感覚に耳が震え……トラウマが蘇り、最速の切り返しを行う。
人間の限界を超えろ。逃げることにだけ意識を費やせ。出口はそう遠くない、四歩あれば届く。センサーが反応して扉が開かれる。勝った────
「ゴギャッ!?」
両足を掴まれたことにより勢いそのままに地面へと倒れ込む。受身が間に合わず顔面を強打したことから身動きが一時的に取れない痛みに襲われ思考が停止。
「逃げるなよサエサエ〜」
誰かに手を合わされたような気配を感じながら、俺は足を引きずってルームへと戻される。うつ伏せだから顔面が擦れて痛いがそんなこと言っている場合では無い程の事態が起こっている。
抵抗は無意味だと知り、諦めて現実逃避から引きずられることを許容し止まるのを待つ。
「ノア、あんたまさか……」
「居るはずのない奴が当たり前のように徘徊していたのを見つけた時の感想を聞かせてやろうか?」
「……」
災害というのはいつ来るのか分からないもので、地震なんかはその予兆だとか、規模とかの推定はできるのかもしれないけれど、この人は本当に予測不可能のイレギュラー。どんな世界で生きていようと、この人は災害として恐れられていくのだろうなと不意に思ってしまった。
「耳元で囁かれた感想は?」
「……最悪だ」
此処で俺は思い至る。やはり悠に告げた言葉は俺の本心だったのだと。それを再確認させてくれたことだけは感謝したいと、そんな思考になるほどに犯された脳内はめちゃくちゃになっている。
「ついでに鍛えてあげる♡」
この人の思考は分からないけれど、目的が俺と同じであることを願うばかり。
「……人間の女と付き合いたい」
何言ってんだこいつ、という潔世一からの視線はスルーした。