「スペシャルウィーク、さん……、入部した時、“日本一のウマ娘になりたい”って、言ってましたよね」
「あ、はい!」
「どうして、“日本一”なんですか?」
苦し紛れに捻り出した話題に、あ、と声を漏らして、スペシャルウィークさんは一瞬顔を緩ませた。
そして、蹄鉄を打ち終わったシューズを傍に置いて、スペシャルウィークさんは私に体を向けて、
「それは……、お母ちゃんとの約束なんです」
「お母、様……?」
スペシャルウィークさんは、懐かしむように、誇るように、私の知らない話を語り始めた。
「スズカさん、私にはお母ちゃんが二人いるんです」
「一人は、私を産んでくれたお母ちゃん。私が産まれてまもなく亡くなってしまったんです…… “
『……今日から、ここが貴女達の家になるの。私がお母さんになるのよ。よくわからないかもしれないけどね』
朧げながら覚えていた。私を産んだ母は、妹を産んだ後に死んだ。“お母さん”に手を引かれて、私達は新しい家に帰った。
「二人目のお母ちゃんは、遺言を守るために、私を必死で育ててくれました」
父は仕事の虫で、いや、仕事に逃げていた。
『仕事ばかりして…… 家事は私一人。誰も何もしない。召使じゃないっつーの……』
お母さんはいつも愚痴をこぼした。聞きたくなかった。
『スズカ!また靴揃えるの忘れたわね!?』
『ご、ごめんなさい!!』
『これで何度目なの!!いい加減、に!』
『ぅぶ!!』
ほっぺを摘まれて、持ち上げられるのが怖かった。痛かった。嫌だった。私はグズで、一回でものを覚えられなかったから、お母さんをよく怒らせた。
それは、妹もそうだった。
『ラスカル!またこんなことして!』
『ぅうう!うううう!!』
怒声で泣き叫ぶ声が、さらに空気を澱ませるのが嫌だった。それに、この時から私はひどい奴だったんだ。
「育てのお母ちゃんは、私のためになんだってしてくれました…… 雨の日も風の日も雪の日も、トレーニング施設の無い田舎で鍛えてくれました」
『スズカ!これ……!』
『はぁっ……! 欲しかった靴……!』
『お前は走るのが好きだからな〜!』
お母さんの笑う顔は、胸を温かくさせた。とっても優しい笑顔。わしゃわしゃ撫でられるのが大好きだった。
そう。私はお母さんが大好き。笑顔のお母さんが大好き。
『そんなこともできないなら玄関で立ってなさい!!』
『……!!!! ……、……はい。ごめんなさい』
『はぁー…… イラつかせんじゃねーよ……』
怖い顔をするお母さんは、私に呆れたような、失望したようなため息を吐いて、日々の愚痴を私達の目の前で垂れるお母さんが大嫌い。
何もしない父が嫌い。助け舟を出すこともしない、父が嫌い。
『食う時くちゃくちゃ音立てんな!』
『んー』
お母さんを怒らせる、妹が、好きで嫌いだった。今は好き。大切な妹。
でも、確かに私は妹が嫌いだった。あの子は、唯一の姉である私に、いつも笑顔で抱きついてきたのに。
最低だ。
「日本一のウマ娘に育てる。その目標が叶ったら、育ててくれたお母ちゃんは、亡くなったお母ちゃんとの約束を守れるって……。見送りの日には、駅に横断幕も作ってくれたんですよ!」
ずっと、好きなお母さんでいてほしい。怖い顔をしないでほしい。怒声を上げないでほしい。
私は、お母さんを助けようとした。
洗濯物を自分の部屋に持っていかないラスカルに、いつも注意した。
ゴロゴロして、家では何もしない父をよそに、洗い物を片付けて、掃除機をかけた。洗濯物を干した。そんな時でも父はあくびをしてスマホを見ているばかり。本気で苛ついて、でも、いつもくたくたになって帰ってくる父を見ているから、私は何も言わなかった。
そして、ある時。私は、まるで自分が、お母さんに都合よく使われているような気分になって、よくわからなくなった。疲れたんだと思う。
私とは反対に、ラスカルはよく母に反抗する様になっていった。
羨ましかった。大好きなお母さんに、反抗するなんて、私は怖くてできない。
父は、いつも座椅子に寝転んでいた。
家の中は日に日に息苦しくなった。
「だから、日本一になりたいんです! 二人のお母ちゃんのために!」
私は逃げ出した。走ることに。何も考えなくてもいい、自分だけに浸れることに。
私がこのトレセン学園に来たのは、自分を変えたいからだと思っていた。でも、本当は違う。
もう、振り返りたくないだけ。逃げたいだけなんだ。
志なんてない。家族が好きなのか嫌いなのかもわからない。宙ぶらりんなのが私。
全然、違うじゃないか。
「…… お母様、二人もいていいですね」
今、笑えてるだろうか。
目の前の彼女は、屈託のない笑みで私を見ている。
「はいっ!!」
ヒビの入っていた中指の爪に、ちくりと痛みが走った。