時間は流れていく、残酷なまでに。警告も何もなく。だから、人は時間の流れに取り残されて、後ろを振り返って自分に苛立つ。
「……」
夕陽がでこぼこな地平線の下に潜り込んでいく。感傷的なオレンジ色が、土手道に立つ私を、芝を、全てを染め上げている。
また、今日も終わりに近づいている。明日になれば、私はレースに出なければならないから、今日は走らない。
でも、私は練習コースにきた。ミーティングは終わったし、部屋に戻ってもやることがない。umatterを惰性で眺めているのは何か違う。
暇つぶしだ。暖かい風を聴きながら、一人でぼうっとしようと思っていた。
だというのに、斜面のオレンジ色の草むらに、あの人が腰を下ろしているのが見える。
何も考えたくなかったのに。
「……」
少し距離の離れたところに、私も腰を下ろして、体育座りする。少し目を前にやると、トレセン学園の校舎の窓に、まだ転々と光が灯っているのが見える。
「とうとう明日か」
そこで、私の現実逃避は早々に打ち破られた。隣に目をやると、沖野さんが、棒付きキャンディを噛んだ口に弧を描いていた。
「辛気臭い雰囲気だなぁ、緊張してんのか?」
「……」
「……悩んでるのか?大逃げ打つか、オハナさんのやり方に従うのか」
私は口を開かない。だって、開いたところで帰ってくる言葉はわかりきってる。
膝の裏に顔を埋めて、中指の爪で親指を掻いていると、隣でガサガサと草が揺れる音がした。
「俺は、やっぱり大逃げをうつべきだと思う。お前のトレーニング見てたけど、他の奴と走る時いつも不愉快そうだったからなぁ」
「……それを克服するために、練習しているんです」
「退屈で、つまらなくて、つらいのにか?」
降ってきた問いかけに、私は思わず反射的に口を開いた。
「勝つためです。そのためなら____」
沖野さんの方に顔を向けると、影になった彼の顔は、まるでオハナさんみたいな顔をしていた。
「スズカ。お前は、何で走っているんだ?」
彼の影が動く。
「ここで勝手気ままに走っていたお前が、本音なんじゃないのか?」
影が草むらに置いていた私の指先に触れた。私は手を引いてしまった。
「……」
口を開けて、閉じた。上を向けない。見ているのがわかるから。
「本音をぶつけることができなきゃ、いずれ後悔するぜ。何事もな」
ガサガサと再び音が鳴って、それが遠ざかって行く。
……
本音は、時に人を傷つける。
私はそれが嫌なんだ。傷つくのは私もだから。
見上げると、赤紫の美しい夜空に、一匹の鳥の影が横切って行った。
あんな風にはなれない。
『お前はレースの駆け引きを覚えることが最優先だ。それに、不安定な大逃げなど聞き入れられない』
オハナさんの、私を想った言葉。
『本音をぶつけることができなきゃ、いずれ後悔するぜ。何事もな』
沖野さんの、私を想った言葉。
確かな重みのあった言葉。だから、わからない。
オハナさんの期待を裏切って、私の思うがままに走ってしまうのか。そうしたら、きっとあの人は……
じゃあ、オハナさんの指示通りに走って、“勝つ”方法を着実に覚えていったら、私は後悔しないのだろうか。
多分、する。
わからない。こんな私には、どうすればいいのか____
「っ!!!」
布が擦れる音がした。
急に、目の前が明るくなって、そういえば、私はパドックに立っていたことを思い出した。親指が中指の爪を外れて、空中を切った。
静けさが私を待っている。急かしているかのように。
“東京第11レース、続いてパドックに登場するのは、このウマ娘!!”
開いた垂れ幕を過ぎて、ゆっくりと見せ物台のようなパドックの中心に出ると、全身が総毛立つような感覚がする。こんな大勢の視線に晒されるのは、いつになっても慣れることがない。
“8枠12番!”
マントのように羽織っていたジャージに手をかける。
“サイレンススズカ!!!”
勢いよく、後方に投げ飛ばす。
その瞬間、私たちを見下ろしている人たちの、感嘆したような歓声が立ち上がった。
羨望、尊敬。そんなの、私を焼き焦がす光でしかない。
“ファン投票一番人気です!!”
地下バ道。薄暗くてひんやりとした雰囲気が、パドックで漣のたった心を平静に戻してくれる。いつもは。
今日は、心が二分されて落ち着かない。
そわそわする。これから走るというのに、高揚している自分と萎えている自分が居る。
壁伝いに行く私の隣を、小走りや早歩きで、一緒に走る人たちが抜かしていく。皆、真剣な表情をして、何を考えているのかは一目瞭然。
なら私は、どんな顔をしているんだろう。
「……」
頭を振って、ほっぺを両手で叩いた。
これで、少しは繕えているだろう。
“ようこそトゥインクル・シリーズへ! このレースは国民全員が楽しめる一大エンターテインメント____”
実況が囃し立て、ざわめく観客席の群衆の視線をひしひしと感じる。
澄み渡る青空、よく手入れされて踏み心地がいい芝。今日の東京レース場は最高のレース日和だ。ゲートが銀色に輝いて見える。
「……」
周りの人たちは、もう勝負の決心がついたのか、むしろ脱力した雰囲気を醸し出しているように見える。
たまに、チラチラ私を窺う人と目があって、目を逸らした。
“いよいよ本日のメインレースが始まります!!”
ファンファーレが壮大にレース場を駆け巡って、人々の声が静まっていく。
続々と、口を開いた暗いゲートの中へ向かって、他の人が入っていく。
勿論、私も。
『お前はレースの駆け引きを覚えることが最優先だ。それに、不安定な大逃げなど聞き入れられない』
『本音をぶつけることができなきゃ、いずれ後悔するぜ。何事もな』
パタン、と閉じる音がして、私はゲートの中に閉じ込められた。
静かで、しかし熱い息遣いが両隣から聞こえる。
……
……
……
私は。
目の前が開けた。
「はっ……!?」
その瞬間、音が消えた。
時間が何倍も引き伸ばされたような気がした。
選べ、ってことなのか。
……
私は、
私は、
私は____
私は、考えないことを選んだ。