「……」
月曜日の朝。少し前までなら、今を時めくトップアイドルと仲良く歩いていたその道を、ユウは一人で歩いている。柔らかな……いいや、ちょっと強くなってきた日差しはどこまでも眩しく、そして小鳥がちゅんちゅんと鳴いているという朝の光景としてこれ以上ないものではあるが、しかし今のユウにはそんな当たり前で愛すべき日常の光景に、少しばかりの退屈に似た何かを覚えずにはいられなかった。
「久方ぶりの、爽やかで落ち着いた平和的な朝だよな」
自分に言い聞かせるような独り言。これこそが自分の求めていたはずの平穏。そのはずなのに、どうしてこうも落ち着かないのか。
「良くも悪くも、染められちまったのかねえ……」
そんなのあえて語るまでもない。ユリが隣にいないからである。
そう──たった数週間、せいぜいが長くても一カ月と少しくらい。ユリと一緒に登校していたのはそれくらいのはずなのに、そのほんの短い時間でユウの価値観はすっかり変わってしまった。
具体的には、ユリが仕事を再開して……毎日学校に通うのが難しくなったというだけで、こんなにも違和感を覚えるようになってしまったのだ。
「……ま、これが普通だ」
いい加減、独り言が多すぎてヤバいな──なんて思いつつ、ユウは学校へと到着する。下駄箱のところで上履きに履き替え、そしていつも通り教室に向かって……そして、いつも通り自分の席に着けば、またいつも通りの日常が始まるのだ。
そう、少なくとも平日の、この日中においてはユウが望む平穏が戻るのだ。放課後のことはこの際考えなくていい。
「……少しくらいは、ゲームできるか?」
朝のホームルームが始まるまで、おそらく三十分近くあるはずだ。うっかりいつも通りの時間に家を出てしまった分、時間にはそれなり以上に余裕がある。
あるいは……いるかどうかは別として、すでに来ている誰かとおしゃべりに準ずるのも悪くはない。今のユウは、ちゃんとクラスの一員として馴染むことができているのだから。
「……お?」
だから。
だからそれは、油断だった。あるいは慢心と言ってもいいかもしれない。
「なんだよ、結構みんな早く来てるじゃんか」
咲島の人間として──いいや、そうでなくとも、教室の前までくれば中にどれだけの人間がいるのかなんて気配でだいたいわかる。ユウのそれは普通の人よりもだいぶ精度が良いわけだが、ともかく低く見積もってもすでに二十人近くはいるのは明らかだった。
「よう、おはよ──」
だから。
だからユウは、いつも通りに教室の扉を開けてしまった。
クラスメイトとおしゃべりできることが楽しみで──朝のこの時間にそれだけの人数が集まっているという異常事態に全く疑念を抱かず、開けてしまった。
「よう、咲島」
「ちょっとそこ座ろっか、咲島」
ユウの目に飛び込んできたのは。
若干据わった目つきをした天野と上村──そして、ユウを逃さないとばかりに距離を詰めてくるクラスメイト達であった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「何してんの? ほら、早く」
やべェぞ、とユウは心の中だけで自分の迂闊さを呪う。
どう見ても、上村の様子がおかしい。表情はいつも通りにこやかなのに、明らかに目だけは笑っていない。全身からはユウが天晴と褒めたくなるほどの有無を言わせぬ気迫を醸し出しているし、口調そのものはいつも通りな分、余計にその圧迫感が強いように思えてしまう。
「あの、その、上村さん……?」
「いいから。そういうのいいから」
クラスメイトの一人が、教室のドアを閉める──ユウの後ろを取って、完全に退路を断った。上村は一歩も動いていないが、どうやらここにいる全員が同じ意志のもとにユウと対面しているらしい。各々がユウの逃げ場を無くすようにじりじりと距離を詰めて囲んできており、気づけばユウと上村の間に奇妙な一本道が出来上がっている。
──逃げちゃダメだよな、コレ。
そもそも、逃げたところであと三十分もしないうちにホームルームが始まるのである。こうなるともう、ユウに取れる選択肢はそう多くはない。
「話し合おう」
「うん、だからそこに座ろうか」
話し合いは、もはや不可能。
ユウにとって幸いだったのは──曲がりなりにも、ちゃんとした(?)普通の椅子に座らせてもらえたことだろう。机の一部を退けて作った1.5m四方の小さなスペースに、ユウたちがいつも座っている椅子がぽつねんと置かれている。
「…………」
「よろしい」
とりあえず椅子に座って。最悪の場合は物理的にどうにでもできる──と、心の中で何度も自分に言い聞かせて。まるで判決を言い渡される被告のような気分のまま椅子に座ったユウの両肩を、上村はぽんと叩いた。
──そんな様子をクラスメイト達がただ黙って見つめているのが、ユウには不気味に思えてならなかった。
「天野、ワックス」
「おう」
「……はい?」
ワックス。学校の終業式の後とかに先生が床にかけるアレ。あの特徴的な匂いはユウはあんまり好きではない……のは置いておくとして、いったいどうしてそんなものを上村は要求したのか。そしてなぜ、天野はそれに平然と応えられるのか。
半ば混乱した頭の中で、ユウは自然と天野の動きを追おうとして──。
「動くな」
「う、うっす」
上村にがしりと頭を掴まれ、その動きを断念した。
「でも一つだけ教えてくれ──なんで、ワックス? みんなで床磨きでもするってのか?」
「…………そのワックスじゃなくて、整髪料のほう! さすがに整髪料くらいはわかるよね!?」
「う、うっす……」
逆ギレ(?)されたらもう、ユウは縮こまることしかできない。もとよりユウは、上村のようなオシャレなイケイケの女子とは住む世界が違うのだから。どうしてこんなことになっているのか、どうして怒っている(?)のかもわからないのだから……もう、この嵐が過ぎるのをただただ耐えるしかないのである。
「へえ。天野のくせにいいの持ってるじゃん」
「無香料で柔らかめだけどしっかりセットできる──ちょっと奮発して買ったやつだ」
「咲島の髪質的に、ちょっと多めになるかもだけど」
「構わん。大義のためだ」
「あんたのそういうところ、結構好きだよ」
きゅるきゅる、と上村が整髪料のふたを開ける音が耳元で聞こえて。
まさか、いくらなんでもそんなことは無いだろうという気持ちと。
いや、ここまで来たらもうやることなんて一つしかないだろうという気持ち。
結果から言えば──まぁ、やっぱり整髪料の使い道なんて一つしかないわけで。
「…………上村さん」
「なぁに?」
「なんで俺は、みんなの前で上村さんに整髪料を着けられてるんですかね?」
わしゃわしゃ、わしゃわしゃ。
適量を掌に出して、薄くのばして──そして、髪に馴染ませ揉みこむように。丁寧に、基本に忠実に上村はユウの髪をセットしていく。上村の細い指が髪の間を通るたびになんだかちょっぴりくすぐったいというか、妙に照れ臭いような……あるいは気恥ずかしい気分になるというから、ユウとしては落ち着かない。
そして自分でも酷く信じがたいことに、「あ、なんかちょっと安心するかも」……なんて気持ちさえも生まれつつある。
「咲島、あんた整髪料とか持ってないでしょ?」
「おう、持ってるわけない……けど、上村さんこそ整髪料なんて持ってないはずだろ? なのになんでこんなに手馴れているんだ?」
「……咲島が想像している整髪料、っていうかワックスは女子が使うスタイリング剤の一部でしかない」
「…………?」
「女子のヘアセットは男子の百倍手間がかかってる。咲島にも伝わるように例えると、男子のヘアワックスが足し算なら女子のヘアセットは連立方程式みたいなもん。方程式を解ける人が足し算をできないわけないでしょ?」
「そんなに……!?」
「そ・う・な・の・! 天野だって最低限のヘアワックス持ってるんだからね!?」
衝撃の事実。ユウの友人だと思っていたはずの天野でさえも、ヘアワックスなるものを常備しているのだという。実際、こうして目の前で取り出したのだからそれは紛れもない事実なのだろうが、残念ながらユウは今までに一度たりとも天野がそれを着けていたことに気づいたことは無い。
「ほんっとに咲島はさァ……! 少しは他人に興味を持つって話しなかったっけ……!?」
「すまん、それについては善処したいとマジで思ってる……けど、天野がおしゃれしてたってマジ? 初めて知ったんだけどそれ……」
「お前じゃなかったら嫌味か煽りだと受け取ってたぜ……!? どーせ、些細な違い何て気づかなかっただけだろうけどなァ……!」
わしゃわしゃ、わしゃわしゃ。
話している間も上村の手は止まらない。そして当然のことながら、周りにいるクラスメイトもただその成り行きを黙って見守っている。
「……こんなもんか」
体感にして、おそらく三分くらい。長いのか短いのかユウには全く判断できなかったが、ともかくそれだけの時間をかけて上村はユウの頭をセットした。
「誰か、大きめの鏡ある?」
ちょっと大きめの卓上ミラーが女子の手によって持ち込まれる。お化粧用のやつなのだろう、ユウの顔がしっかりばっちり収まるほどの大きさだ。折り畳み式とはいえ、こんなものを毎日持ち歩くなんて女子は大変なんだな──と、ユウは独り言のようにぼんやりと思った。
そして。
「……何か、言うことはある?」
鏡の中。
ユウの後ろに立った上村が、ユウの両肩に手を添えたまま。
ユウの耳元で──囁くように、はっきりと告げた。
「うむ、上村さんのおかげでこんな俺でもイケメンだ。これで俺も今どきの高校生の仲間入りだな」
寝ぐせだけは整えている……否、寝ぐせだけしか整えていない適当な髪型が、美容師か誰かがその腕を振るったかのように、オシャレな感じになっている。具体的には、スタイリッシュな感じで前髪が全部後ろに撫でつけられていて、それなのに横の部分もふわりと良い感じにまとまっていて……と、ユウのオシャレ語彙ではとても言い表すことができないほどだ。
あえて言うならば──【髪型だけならアイドルと言っても通るんじゃないか】……なんて、ユウが思うくらいの出来栄えであった。
「…………」
「…………」
「…………あれっ」
なんかおかしいぞ、とユウは気づく。
マジに、冗談抜きに、上村の腕前は素晴らしいとユウは思っていた。たった数分でオシャレに無頓着な自分をここまで見事に仕上げたその技量は称賛に価すべきだと思ったし、なんなら今の自分は今まで生きてきた中で一番イケてるのではないか、今度からここぞというときは上村にセットをお願いするべきではないか──と、心の底からそう思っていた。
だからさっきの言葉も、決して茶化したりだとかふざけて放った言葉ではない。いや、少しはそういう気持ちもあったが、それは照れ隠しからくるものであり、決して皮肉だとかそういうアレは一切なかった。
それくらいは、ユリだったら言わなくても気づく。だからきっとみんなもわかってくれるはずだ──なんて、思っていたのに。
「…………」
「…………」
鏡の中の上村の笑顔が、ますます冷たいものになっていく。なんなら肩に添えられた指が食い込んできている気さえする。
傍らに立つ天野でさえも、どこかおどろおどろしい気迫を放っていて。
そして──自分を囲んでいるクラスメイトのほぼ全員が、ユウのことを詰問するかのような険しい目で見ていた。
「……す、すべったってやつ?」
そんな生易しいものではない。
ユウは、本能で理解した。
「天野、サングラス」
「おう」
なんでそんなものを神聖なる学び舎に持ち込んでいるんだ──と声を上げる前に。
なんでそんなものを普通に常備しているんだ──と声を上げる前に。
そして──サングラスという言葉の意味を理解してしまうその前に。
「……はい、
上村の手によって、ユウにサングラスが装着される。
そう──整髪料により髪をオールバックにしたユウに、サングラスが装着されたのだ。
当然、鏡の中に映っているのは。
「……あ゛っ」
気づいた時には、もう遅い。
「……やっぱお前じゃねえかッ!」
「どういうことだよ咲島ァ!!」
この前の、ユーリの復帰ライブの時のアクシデント。あるいは、そのアクシデントをほかのマスコミよりもさらに深堀して報道した例のワイドニュース。一部の界隈では、超大人気アイドルの復帰以上に話題となっている──謎のボディガードにそっくりの顔が、この何の変哲もない平凡な高校の教室にあった。
「まさかまさかとは思ったけど! あの咲島が関係者なわけないと思ったけど! というか、咲島があんなオシャレな格好するはずなんて絶ッッ対無いと思ってたけど!」
「背丈も体格も似てたしよォ……!! なにより、あんな芸当ができるのはお前くらいしかいねえよなァ……!? ええおい、ダメもとでやってみりゃまぁ言い逃れができないくらいにそっくりときた……!」
あのユウが。アイドルになんて欠片も興味を持っていないユウが、ほかでもないアイドルの関係者であるはずがない。ましてや、整髪料で身嗜みを整えるなんて天地がひっくり返ってもあり得るはずがない。
少し前であれば、みんなそう考えたはず。けれど今は──ユウの驚異的な身体能力のことを、みんなが知ってしまっている。そのうえで、想像することすら難しかったユウのヘアセット姿とサングラス姿を見てしまえば……疑惑はもはや、疑いようのない真実となるのだ。
「この前の復帰ライブも……! ううん、最初の事件の時から! 咲島はずっと、ユーリちゃんの関係者だったってことじゃん……!!」
「どういうことだよ咲島ァ……!? お前、なんとなく仲が良いだけじゃなかったのか……!? というか、正義の極道以外にも隠しごとがあったってのかよ……!?」
上村と天野の激しい追及。これが暴力であればユウはいくらでも受け流し、防御し、反撃していただろうが──悲しいことに、これは暴力ではない。ゆえに、ただただ沈黙を貫くことしかユウにはできない。
が、もちろん。
沈黙していたところで、追及の手が止まることは無いわけで。
「まさか、ユーリちゃんがウチに転校してきたのも咲島が理由なの……!?」
「いつから……!? いつからだ!? お前、一体いつからユーリちゃんと知り合った……!?」
「アイドルに興味が無いってのも嘘だったのか……!?」
「ユーリちゃんが妙に咲島と仲が良かったのも、最初から知り合いだったってこと……!?」
「どうなんだそこんところ!」
「答えろよ咲島ぁ!」
クラスメイト達からの滝のように浴びせられる質問。いや、これはもはや質問というレベルを超えているだろう。ちゃんと答えない限り絶対にここから帰さない、答えるまではどんな強硬手段を取ることも辞さない──そんな鋼のような意志が、彼らの言葉の端々から感じ取ることができるのだから。
「ひ、人違いじゃね……?」
「嘘だね」
「お前、さすがに俺たちを舐めすぎだろ」
精一杯の反抗も、あっという間に切り捨てられて。
「例のボディガード、舞台袖からユーリちゃんのところまで一瞬で移動してたよね」
「お前もドッジボールの時、同じことやってたよな……そんなことができる人間が何人もいて堪るかよ」
「五郎丸さんたちも言ってたよね……そんな達人が二人といるはずがないって」
そもそもが、上村たちの言及しているすべてがマジの話なのだ。正しいのはどこまでいっても上村たちなのだから、分は完全に上村たちにある。もし上村たちの言っていることが間違っていたのなら、まだ少しくらいはユウでも対抗できたのかもしれないが……もはや今の状況では、そんな仮定に何の意味もない。
「どうなんだよ咲島ァ!」
「答えろよ咲島ぁ!」
逃げるのも隠れるのも不可能。
当然、嘘をつくのも無理。
「う……」
そんなユウにできることなんて、たった一つしかなかった。
「……しゅ、守秘義務があるので」
こいつ、逃げたな──と、全員が思った。
同時にまた、守秘義務違反があったら巡り巡ってこちらの不利益になるのではないか……とも、思えてしまった。
「逃げたなぁ……!」
「くそっ! それを出されたらどうしようもないじゃないかよ……!」
とはいえ、守秘義務という言葉が出た時点で半ば事実は確定したようなものである。明言はしなかったが、否定はしていない以上、この場においてはそれは暗黙の事実となる。加えて言えば──仮にユウがこの場ではっきりと自らの立場を公言したとして、「そのあと」に彼らが具体的にユウをどうこうすることはできないのだ。
「まぁ、察してくれると助かるぜ……何も、俺だって意地悪したいわけじゃないんだ」
「そりゃそうだろうけどさぁ……俺らのこの言葉にできない気持ちを多少なりとも慮ってくれよ……。というか、俺はマジにお前のことがますますわかんなくなったよ……」
「……」
がっくりと、力の抜けたように天野が椅子に座る。さすがにここまで憔悴(?)した姿を見るのは友人としてあまりにしのびなく、そしてユウだって人の心を持つ人間だ。だから、ほんの少しだけ……そう、ほんの少しだけ、気づけば独り言をつぶやいていた。
「天野さぁ……」
「……うん?」
「春先に俺が呼び出し喰らったときに、不良に絡まれてるヤツを見つけたって話したろ? あれ、その……あっくんのアレなんだよ」
「…………あっ!? そういうこと!?
「……自分で話しておいてなんだけど、よく今ので伝わったな?」
「バカやろ、お前の言いたいことくらいすぐわかるわ」
「……な? あっくんのアレを自慢げに話すなんて、どう考えたってヤバいやつじゃん?」
周りのクラスメイトは、たぶんわかっていない。【あっくん】がいつぞやのカラオケの後の不良だということには気づいたかもしれないが、その不良がなぜ今この場で話に上がったのかまでは気づけるはずがない。
ユウの言葉の裏の意味を理解し得るのは、あの呼び出しのあった日に──ユウが不良に絡まれた女の子を助けたという話をした天野だけだ。
「なるほど、それなら時系列的にも辻褄があうな……なんとなく流れもわかってきた」
「独り言だからな?」
これで、最低限の義理は果たした。この後のことはもう、全て天野に任せようとユウは心に決める。天野だったら何をどこまでどんな風に話すのかも弁えているだろうし、そしてどこまで行っても天野の口から放たれるそれは天野の「想像」でしかないのだ。おそらくこれが、この場における最適解のはずなのである。
「……ところで」
で、だ。
半ば成り行きとはいえ、秘密の一端を匂わせたユウは……純粋に、疑問を覚えた。
「……なんでまた、上村さんは俺の髪を弄ってるんだ?」
わしゃわしゃ、わしゃわしゃ。
ユウはまだ、椅子に座らされている。そしてユウの後ろにはやっぱり上村が立っていて……どういうわけか、先ほどから再びユウの髪を弄りだしていた。
「いや……どうせなら、ちゃんとマジにオシャレさせてみようかなって」
テレビの映像の中の怪しい人物が、オールバックだったから。だから上村はワックスでユウの髪をオールバックにセットしたわけだが……はっきり言って、普段のオシャレのチョイスとして、オールバックはあんまり選択肢に入らない。もちろん、似合う似合わないは人それぞれかもしれないが、少なくとも一般的とは言い難いだろう。
「せっかくの機会だし? こうでもしないと咲島は一生ワックスなんてやらないじゃん」
「いや、そんなことは……」
「やらないでしょ?」
「そんなわけ……」
「やらないよね?」
「…………うん」
やるはずがない。普段の洗髪の時でさえ、ユウは特売のリンスインシャンプーを使うような人間だ。それだって、「リンスも入ってるんだからお得だろ」くらいの適当な理由で使っているだけで、リンスが無いなら無いで別に構わない人種なのである。そんな人間が、ワックスを使ってヘアセットなんてするわけがないのだ。
わしゃわしゃ、わしゃわしゃ。
丁寧に丁寧に、上村はユウの髪をセットしていく。
ややあってから──鏡の中に、いつのも五割り増しくらいカッコよく見えるユウが現れた。先ほどまでのセットと違い、今回はあくまで高校生のおしゃれとして現実的なものだ。それこそ、やり方を少しレクチャーすればユウ一人でもなんとかできそうなレベルではある。
「お、おー……なんか俺、こっちのほうが好きかも」
「…………悪くない」
「……あの、上村さん?」
「染め上げるっていうか、一から育て上げるのもアリだな……」
「……あの?」
悪寒。あるいは、たとえようのない不安。
本能が得体のしれない恐怖に警鐘を鳴らしているのがはっきりとわかる。
何よりヤバいのは──それが、一体何に起因するものなのか、ユウにはさっぱりわからなかったことだ。
「咲島」
先ほどと同じく、鏡の中の上村がにこりと笑ってユウの両肩をがっしりとつかむ。
「今日はずっと、それで。これ、命令だから」
「アッ、はい」
──その目は、どこか捕食者を思わせるものであった。