書き割りの月が見降ろす不思議な夢。
ミオリネは幾度も夢を見る。繰り返す夢の中、ミオリネは無数のスレッタ・マーキュリーを追いかける。

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MOON SONG

「スレッタ」

 

 それほど大きな声を出したつもりはなかったが、ミオリネの呼びかけに手を振る姿が遠くに見えた。

 間もなくして芝土を叩く軽やかな足音が耳にも届くようになり、それはミオリネのそばで緩やかにテンポを落とし、やがて完全に静止した。

 ミオリネは月明りの中できらめくその姿に少し目を細めた。

 冗談みたいな定型句が頭に浮かんで、失笑する。

 

「ミオリネさん!」

 

 見上げた先で、スレッタが朗らかに笑う。

 どこか地球の懐古趣味めいた衣装に身を包んだ姿は、こどもっぽい快活さとクラシカルな落ち着きという二つの相反する印象を、奇妙なバランスで同居させていた。

 

「来てくれたんですね」

「ええ……そうね。時間があったから」

 

 時間。

 ミオリネは自分の口からこぼれた言葉に困惑する。

 時間などあっただろうか。いや、あったのだろう。

 どれだけ忙しかろうと、合間くらいは。

 違和感に、すこし舌がもつれる。

 

 だがそれもすぐに忘れる。

 自分の肩口に鼻先を寄せる大きな生き物に。

 

「わ、あっ、と」

「大丈夫ですよ、怖くありません」

 

 生暖かい吐息の温度にのけぞったミオリネの肩を、スレッタの腕が優しく抱きとめてくれた。

 いつの間に?

 隣から腕を伸ばしたスレッタは、白く大きな生き物の面長な顔を親し気に撫でている。

 

 スレッタが先ほどまでまたがって駆けまわっていたその大きな生き物は、確か馬と言っただろうか。

 ライブラリの動画で、見たことがあるような気もする。

 あるいは古い企業のロゴマークに、その動物がモチーフとしてあしらわれていたことがあった。

 

 しかし、本物の馬を見るのははじめてだった。

 高さだけで、ミオリネと同じくらいある。体の大きさは、何人か分は必要だろう。重さは、きっともっと。

 けれどこの四つ足のけものは、その大きさに反して、ひどく穏やかに見えた。

 いまスレッタの手を受け入れ、心地よさげに目を細めるその顔は、優しくさえ見える。

 他に明かりもない夜の草原で、月明りを受けてその馬はきらめくように白く輝いていた。

 

「ほら、ミオリネさんも撫でてあげてください」

「えっ、いや、いいわよ」

「大丈夫です。エアリアルは噛んだりしませんよ」

 

 エアリアル。

 その名前は────なんだっただろうか。

 聞き覚えのある名前に、ミオリネは少し戸惑う。

 だがスレッタに手を取られて、すぐにその困惑も霧散した。

 変わって、この大きな生き物に触れるということに対する少しの、ほんのちょっぴりの不安が頭をもたげる。

 

 だがそのわずかばかりの不安も、手のひらに感じるぬくもりと、すこし湿ったようなしっとりとした手触りにかき消える。

 首のあたりに軽く触れるように誘導したスレッタは、ほら、大丈夫でしょうと少し笑っていて、それがなんだか少しむっとして、ミオリネは肘でわき腹をついてやった。

 

「思ったよりも、あたたかいのね」

「ね、怖くないでしょう」

「最初から怖がってなんかないわ。ただ、ちょっと慣れないだけよ」

 

 大きくて、見たことのない生き物なのだから、慣れていないだけ。

 ミオリネはそううそぶく。

 そうだ。慣れているわけなんてない。動物というものは、ミオリネにとってライブラリの中だけの存在だ。

 愛玩用の小動物や、一部の経済動物を除けば、地球の重力にあらがってまでフロントに動物を送り込むのは現実的ではない。

 ましてや馬のような大きな生き物など。

 

「……………」

 

 ミオリネは足元の芝生を見下ろした。

 しっとりと夜露に濡れた芝の感触。靴越しにも感じる柔らかなそれは、さわやかですこし青臭い夜の空気を散らしている。気温も湿度も調整されたフロントに?

 それはどんな匂いだ?

 それはどんな感覚情報だ?

 

 存在しない感覚に、ミオリネは困惑する。

 

 私は夜露など知らない。

 私は夜の空気を知らない。

 私は本物の芝生を知らない。

 私は、何も知らない……。

 何も知りはしない……。

 

 地球にはそれらがあるはずだった。

 それは知識として知っていた。

 文学やキネマ、ディスプレイの向こう側の存在として。

 けれどミオリネは知らなかった。

 自分が逃げ場として選んだ地球のことを、何一つとして知らなかった。

 

 空には書き割りの三日月が上っていた。

 ミオリネは月を知らない。

 本当の月を知らない。

 地球から見上げる月の形を、ミオリネは知らない。

 知らない輝きが二人を見下ろしていた。

 

「ね、ミオリネさん、ちょっと遠駆けしましょう」

「え?」

「忙しいかもしれませんけど、きっと気分転換になりますから」

 

 いつのまにかエアリアルにまたがったスレッタが、手を差し伸ばしていた。

 月明りを背に受け、青白い逆光に切り取られた頬の輪郭が、鋭くミオリネに降りてくる。

 先ほどは一笑に付した定型句が、再度頭に浮かぶ。

 けれどミオリネはそれを口にしてやることはしなかった。

 白馬の王子様などと、似合うとは思えなかった。

 

 差し伸ばされた手を取ると、思わぬ強い力が、ミオリネを引き上げる。

 わ、と少しの驚きを抱いているうちに、ミオリネの体はスレッタの腕の中にあった。

 すこし硬いように感じる鞍の上で、ミオリネの小さく薄い尻は、スレッタの足の間に収まった。

 まるで馬みたいにすこし高めで、すこし汗ばんだ体温が、背中と、そして両腿を左右から包み込んでくる。その温度にミオリネは不思議に落ち着かない気分になった。ゆらゆらとやり場を失って揺れる両足のように、ミオリネの気持ちは揺らぐ。

 

 スレッタの両腕が肩越しに回され、手綱をとった。

 すっぽりと抱え込まれたな、と遅まきに思う。

 何かしたなと思う間もなく、白馬エアリアルはゆっくりと歩き出した。

 

「っ、結構、揺れるのね」

「縮こまると、かえって揺れが伝わるので、背中は伸ばしてください。私を背もたれにしちゃっていいです。リラックスして、っていうのは、難しいかも、ですけど」

 

 スレッタは手慣れた様子でエアリアルをゆっくりと歩かせ、右に、左に曲がって見せた。そのたびにミオリネがバランスを崩しそうになるのを、スレッタの体が支えてくれる。

 ハンドルもペダルもないのに、スレッタは一体どうやって馬を操縦しているのか、ミオリネはいぶかしんだ。スレッタは特別何かしているようには見えなかった。ただ上機嫌で、ミオリネを抱え込んでいるだけだ。

 

「じゃあ、慣れてきましたし、少し駆けてみましょう。気持ちがいいですよ」

「え、ええ、わかっ────これシートベルトは」

 

 返事の代わりに、エアリアルは軽快に駆けだした。

 ぱからっ、ぱからっ、ぱからっ、あの軽快な足音。青白く光る草原が風のように流れ去っていく。

 それはきっと、モビルスーツはおろか、作業用車両よりも緩やかな速度だろうに、頬に受ける風は思いのほかに強く、うねるように揺さぶられて、見下ろせばくらりとするほどの高さで、ミオリネははっきり恐怖を自覚した。

 とっさに背中を丸めて縮こまりそうになったミオリネを、スレッタの腕が力強く抱きとめて支えてくれる。

 

「た、手綱っ!」

「大丈夫ですよ。手綱はほとんど使いませんから」

 

 ミオリネの顔の前で、手品でも披露するかのように両の手が広げられる。

 手綱をはなしてしまっても、エアリアルの足取りはよどみなかった。

 スレッタはただ両の脚と体のバランスだけで、器用にエアリアルに意思を伝えていた。

 

 少しの間、スレッタの腕にしがみつくようにしていたミオリネだったが、しかし速度が上がるにつれてむしろ揺れは大人しくなり、跳ねあがった自分の鼓動が、背中に感じる鼓動とまじりあって落ち着いてくるのを感じた。

 

「エアリアルは賢いから、ミオリネさんを傷つけたりしません。安心してください」

 

 見下ろせば、白馬の目はひたすらに優しく、そして穏やかだった。

 振り向けば、スレッタの微笑みは無邪気で、そして朗らかだった。

 

 学園で見せるどこか卑屈さを思わせる控えめな笑み、その向こう側に見え隠れしていた彼女の素顔。素直で、朗らかで、なにかを信じなにかを夢見る、そんな笑顔がそこにはあった。

 

「……でも、私には馬の言うことはわからないわよ」

「うーん……でも、エアリアルは私の友達ですから」

「……でも、私はあんたを」

 

 ミオリネは胸がつかえたように言葉が出なくなった。

 

 私は、あんたを。

 あんたを、信じても。

 わからない。

 私にはわからない。

 あんたがわからない。

 あんたを信じていいのかわからない。

 私はあんたを信じたい。信じさせてほしい。信じていたい。

 でも私はあんたがわからない。

 言葉にしなくてもわかるでしょって、そう思ってた私自身が、何もわからないで、困ってる。

 

 ねえ。

 ねえ、スレッタ。

 ねえ。

 ねえ、どうして?

 ねえ。

 

 ねえ。

 スレッタ。

 

 抱きしめる腕の温度が、ミオリネにはもうわからなかった。

 その暖かさが、湿りけが、少し硬い筋張った腕が、なぜか今は、とても遠く感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

「スレッタ?」

 

 ミオリネは影の中にいた。

 暗い影の中にいた。

 覆いかぶさるような影に背を向けていた。

 独りうずくまって、唇をぎゅっとつぐんでいた。

 泣き言なんて、すこしだって聞かせてやりたくなかった。

 

 でも、ふと差し込んだ光を見上げて、ミオリネは気づいた。

 その影は人の形をしていた。

 その小さな背中は、まばゆい光からミオリネをかばうように手を広げていた。

 その小さな女の子の名前を、ミオリネは知っていた。

 

 スレッタ・マーキュリーの背中は、いつもより小さく見えた。

 いつも?

 いつもとはいつのことだったろうか。

 けれどそうだ、確かに彼女はいつもの姿ではなかった。

 彼女はいま、未就学児童のように小さく見えた。

 いや、違う。確かにそれは幼い背中だった。

 母に抱き上げられるような小さな少女が、いま、ぎらついた光に両手を広げ、まっすぐに顔を向け、ミオリネをその背にかばっていた。

 

 かばわれるミオリネもまた、小さかった。

 膝を抱えた手は小さく、こぼれる涙も小さく、驚きに弾む鼓動も小さかった。

 子どもの頃の私だ、とミオリネは気づいた。

 今よりも子供のころ、強がることさえもまだできなかった小さなわたし。

 小さなミオリネは、小さなスレッタの背にかばわれて、小さくうずくまっていた。

 ミオリネはそのことが理解できなかった。

 意味が分からなかった。かばうスレッタのことも、かばわれている自分のことも、わからなかった。

 

 呆然と見上げた先で、スレッタは舌足らずな声を張り上げた。

 

「そ、そんなことしちゃ、ダメって、お、おかあさん、いって、ったもん……!」

 

 緊張からくるいつもの吃音以上に、その声は震えていた。

 けれど、その震えも、その言葉も、ミオリネをかばうその背中も、十七歳のスレッタと何ら変わりなかった。

 目を焼くようなぎらついた光にさらされたその横顔は、まるでおびえた子供のようだった。

 いいや、それはまさしくおびえた子供なのだ。

 おびえて、震えて、いまにも逃げ出したいと言わんばかりだ。

 それでもスレッタは、焼け付く光に立ち向かっていた。

 

 ミオリネは不意に恥ずかしくなった。

 かあっと頬に血が上り、涙も引っ込んだ。

 

 自分は強くあるつもりだった。強くあらねばと思っていた。

 自分の足で立ち、自分の足でこの鳥籠から出ていくのだと粋がっていた。

 誰に何を言われても、誰に何をされても、そんなくだらないものにはかかわらず、ただ自分らしくあろうとしていた。

 

 けれど、それはこんなものだろうか。

 こんなものであっていいのだろうか。

 平気なふりをして独りうずくまって、肩を震わせる小さな女の子の背にかばわれて、それでいいのだろうかと、ミオリネは自分を羞じた。

 

 光が激しくなった。

 ぎらついた明滅を繰り返し、焼けるような熱が降り注いだ。

 幼いスレッタの足が震え、その眦には大粒の涙が膨らんだ。

 

 ミオリネはスレッタを思った。

 なにもわからず、なにも知らず、ただ一人で、ひとりぼっちでこの学園にやってきたスレッタを思った。

 読むべき空気も知らず、忖度すべき規律も知らず、ただ己の良心と善意となけなしの勇気でもって声を上げてくれたスレッタを思った。

 

 ミオリネは涙をぬぐい、立ち上がった。

 気づけばミオリネ・レンブランは十七歳の足で十七歳の自分を支えていた。

 その視線の先で、十七歳のスレッタ・マーキュリーは十七歳のちっぽけな勇気で立っていた。

 不格好な手つきで、不器用な勇気で、恐るべき他人という存在に立ち向かってくれていた。

 

 ああ、そうだ。

 その背中だ。そのまなざしだ。

 ミオリネはその姿に、スレッタへの見方を改めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「スレッタ」

 

 呼びかける声に、苛立ちや疲れが混じってしまっていないだろうか。

 声をかけてからそのことに気が付いたが、最初から分かっていても、器用に声を和らげるような真似はミオリネにはできなかった。

 

 正直に言って、子供の面倒は疲れる。

 なにを考えているかわからないし、全然合理的ではないし、真っ当な解決法を模索せずただうじうじと感情に振り回される。

 もっと大人になりなさいよ、とミオリネは何度も思った。思ってきた。いまも思っている。

 けれどそれを口に出しはしない。自分自身こそがまだ子供であるのだという、その程度の学びは得たからだった。

 

 狭い押し入れを覗き込めば、押し込められた梱包箱の向こうに、見慣れた赤毛が震えているのが見えた。

 耳をすませば、押し殺したような鳴き声も、そこには聞こえる。

 潜り込んだスレッタは、すっかり籠城を決め込んでしまったようだった。

 

 スレッタはこんなに小さかっただろうか。

 ミオリネは少し戸惑った。

 いや、そうだ、小さいのも当然だ。

 彼女はほんの小さな子供なのだ。

 スレッタ・マーキュリーは小さな子供だ……。 

 

「ほら、出てきなさいよ」

「………やだ……」

「スレッタ……」

「ひぅっ……」

 

 その悲鳴はどういうことなのだ。

 自分が怖いとでもいうのか。

 ミオリネは問いただしたい気持ちをこらえて、押し入れの住人に忍耐強く声をかけ続けた。

 覗き込んだ姿勢がいい加減につらくなってきていたが、このまま押し入れの先住権を主張されるまで占有を許すつもりもない。

 

 ミオリネはあの手この手でスレッタを引きずり出そうと試みた。

 好きなアニメの主題歌を流してみたり、焼き立てのパンケーキの甘いにおいで誘ってみたり、お気に入りのぬいぐるみエアリアル、は彼女の腕の中だから、謎のマスコットキャラ「クールさんとホッツさん」とやらのキーホルダーで呼びかけてもみた。

 

 しかしそれでもスレッタは閉じこもったままだった。

 めそめそと泣いて、うぐうぐとうめいて、キノコでも生えそうな湿っぽさで押し入れを充満させるのだった。

 

 落ち着くまで放っておくのがいいだろうかとミオリネは少しだけ考えて、そしてやめた。

 独りになること、独りにされることは、子どもの情操教育によくないと知っていた。ほかならぬミオリネ自身が、それを体験してきたのだから。

 

 きっと、ミオリネが、もういい、と言い出して背中を向けたのなら、スレッタは慌てて出てくることだろう。ごめんなさいと繰り返して許しを請うことだろう。

 ミオリネがそれを優しく抱きとめて、いい子ねと撫でてやれば、スレッタはごめんなさいもうしませんと謝るだろう。

 けれどそれは孤独を恐れる繊細な心をいたずらに傷つけ、自分に都合のいいふるまいを強要する行いだ。

 それは虐待ではないか。

 優しい言葉と微笑みで縛り付ける、愛情の形をしたおぞましいしつけだ。

 

 スレッタがこうして隠れるように泣くのも、そもそもがネグレクトの結果ではないだろうかとミオリネは思った。

 スレッタは賢い子だ。物わかりのいい子だ。一人でも大丈夫な子だ。そうなるように育ってきた子だ。だからつらいとき、かなしいとき、母がいないとき、彼女は独りで膝を抱えて泣いている。

 たった一人の友達、エアリアルだけを頼りにして。

 

 それはそれとしてミオリネ・レンブランという女は他人の都合に待たされるのは普通に腹が立つ女だったので、荷物を引っ張り出して強引にスレッタを捕まえることにしたのだが。

 

 逃げようともがく小さなスレッタを腕の中に抱え込むことは、ミオリネの腕力では限度があった。あと腰とその他。けれど、しっかりと胸に抱きしめ、その背を優しくたたいてやり、体温を共有するうちに、スレッタはめそめそと泣きながらも大人しくなっていった。

 

 ミオリネは腕の中の体温を抱えなおし、ミルクみたいに甘い子供の頭に頬を寄せて、思いっきりぎゅうっと抱きしめてやった。

 

「いたっ、いたいです!」

 

 悲鳴が上がるまでに締め付けてやって、頬をぐにぐにとこねてやると、キョトンとした顔がミオリネを見上げてきた。

 

 まなじりを濡らし、泣きはらした目をしたその顔は、ミオリネにはとても不思議なものに映った。

 スレッタは気丈な娘とはとても言えなかったけれど、人前で涙をみせたがらない娘だった。それは強がりでもなく、意地でもなく、傷ついた獣が洞穴の中に隠れるような、怯えと不安の表れだった。

 そしてそれは、誰かに涙を見せることのできない、誰かの慰めを得ることができない、そんな環境をミオリネに思わせた。

 

(それは、私の勝手な妄想だけど……)

 

「ほら、言いさないよ。なにかあったんでしょ」

「……………」

「言わないとわかんないわ。私はあんたのママじゃないの」

「……っ……う、くっ……」

 

 それは、ミオリネ自身へと向ける言葉でもあった。

 なんで、どうして、わかんないの、そんな簡単なことも。

 胸の中であふれかえっていた不平不満は、そのままミオリネ自身に刺さっていた。

 わからない。わかるわけがない。

 ミオリネはスレッタではなく、スレッタはミオリネではない。

 他の誰でもないし、世界中を探したって代わりになる人なんていやしない。

 

 ミオリネはスレッタのママではないし。

 スレッタは、ミオリネの母親などではない。

 

 甘えることも、甘えられることも、無償の愛なんかそこにはない。

 

 向き合わずとも通じ合えることはきっと素晴らしく心地よいけれど。

 向き合うことでしか、見えないものだってある。

 

「……ママじゃないから、言ってくれなきゃわかんないし、ママじゃないから、言ってほしいって、そう思う」

 

 ずっとそばにいてほしい。

 私をまもってほしい。

 他の人には言わないことを自分にだけ言ってほしい。

 自分の腕の中でだけ本当に安心してほしい。

 ミオリネが言葉を重ねるうちに、スレッタはゆっくりと言葉を紡いだ。

 

 エアリアルの外は、こわい。

 うん。

 いろんなひとにみられるのが、こわい。

 うん。

 

 言っても大丈夫なのだと確かめるように、スレッタはすこしずつぽろぽろと言葉をこぼしていく。

 

 花婿って急に言われてとても困った。

 まあ、うん。

 決闘とか言われても、わけがわからなかった。

 ごめんって。

 必要とされてうれしかったけど、応えられないのが怖かった。

 そうなのね。

 好きっていう気持ちが全然わからなくて、でも、ミオリネさんに頼られたくて。

 ええ、そう。

 私、ちゃんと、ちゃんとしたくって、でも、わかんなくて。

 大丈夫よ。

 

 体温を分け合ううちに、スレッタの体は少しずつ年を重ねる。

 コクピットの中で膝を抱えていた幼い少女は、十七歳の、少なくとも肉体的には健やかな少女へと育っていく。

 いよいよ抱えきれなくなって、ミオリネは床にごろんと横たわった。

 その身体を圧し潰すようにして、スレッタは言葉を重ねる。涙を重ねる。

 ほとんど言葉にもならなくなった言葉を聞きながら、ミオリネはその涙をじっと見つめていた。

 

 その涙の温度を知っているのは、きっと私だけなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「スレッタ……?」

 

 呼びかけたものの、自信はなかった。

 少し時間ができて、ふと足を延ばしたのは温室だった。

 あの花婿はちゃんと世話できているだろうか、そんな建前を誰にともなく掲げながら出向いた先で、てちてちと歩いていたのは茶色い毛玉だった。

 

 もふもふとした茶色い毛並みは、触れればどこまでも沈んでいきそうなほどに柔らかく見えた。

 円い耳に、つんと尖った鼻。短い脚はぽてぽてと頼りない足取りで温室をさまよっている。

 

 なにこれ、という気持ちで恐る恐る近づいてみれば、その毛玉はミオリネを見上げて、はたはたと尻尾を振って見せた。

 とぼけたようなその顔。なんだかちょっと笑っているようにも、逆におどおどしているようにも見える。

 

 ミオリネが恐る恐る手を出してみると、その毛玉はすんすんと指先の匂いを嗅いで、それからするりと自分から手の中に頭を突っ込んできた。

 思わぬ生暖かさとふわふわした感触に、ミオリネは思わず手を引っ込めた。

 驚いたミオリネと同じくらい、その毛玉も驚いて、ぶわっと毛を逆立ててよたよたとよろめいた。

 その膨らみようと言ったら、一回り体が大きくなってしまったみたいだった。

 

「わ、悪かったわよ」

 

 改めて手を出してみると、毛玉は恐る恐る近づいてきた。

 ミオリネが慎重にその毛並みに手を滑らせると、びびびびびん、と毛玉の背中が震える。

 それはどういう反応なのだろうかとミオリネが悩んでいる間も、毛玉はミオリネの手が撫でまわすのに反応して膨らんだりへこんだりした。

 そうして撫でまわしているうちに、ミオリネもなんだか慣れてきて、わしゃわしゃと適当になぜてみると、これがまたふわふわもこもこ、気持ちのいい手触りをしている。

 毛玉のほうでも慣れてきたのか、最初の緊張もどこへやら、撫でまわすたびにリラックスしていき、いまでは腹まで見せて撫でて撫でてとせがむ始末だ。

 

 もはやこれは液体なのでは。

 そう思うくらいにでろんでろんにとろけた毛玉をなでながら、ミオリネは悟った。

 

「これは夢ね」

 

 これも、というべきか。

 なんとなくパターンがつかめてきたところにはしごを外された気分だが、あれも夢、これも夢、ならばこれがこの夢のスレッタなのだろう。

 とぼけた顔をという、臆病なところと言い、妙な人懐っこさと言い、スレッタ・マーキュリーのどこか間の抜けたところを想像させた。

 

 口を半開きにさせてでろんでろんになった毛玉を、ミオリネはそっと抱き上げて、そっと、そっ……思いのほかに重くて、結構頑張って抱き上げて、何とか膝の上に抱えた。重たいのもあるが、まるで軟体生物みたいにつかみどころがなくて、うまく支えるのに苦労した。

 

「……うーん……普段からこのくらい捕まえやすいと楽なんだけど」

 

 スレッタ・マーキュリーは臆病で繊細だが、馴染めば気も優しく、人懐っこく、地球寮でも笑顔をよく見せるようになっていた。

 どうしてもエアリアルの外では気弱な面があるが、それは彼女の生来の性質とは思えなかった。環境が形作ってしまったもののように思えた。

 朗らかに笑い、健やかに駆け、喜びも悲しみも素直に表現する、それこそが彼女の中に眠る素朴なスレッタのように思えた。

 

 いつかはそんな彼女を見ることもできるだろうか。

 ミオリネにはその道は遠いように思えた。

 今のスレッタは、ひとりの時にしか涙を流せない。

 エアリアルの中でしか安心を得られない。

 母親の言葉がなければ、ささやかな自信さえもすぐに崩れてしまう。

 

 ミオリネがその代わりになれるだろうか、という考えは、傲慢だろう。

 第一、代わりになりたいわけでもない。

 スレッタはエアリアルを求めている。

 スレッタは母親を求めている。

 

 けれどミオリネはスレッタの求めに応えることはできない。

 応えたくなんてない。

 代わりのものなんてあげられない。

 代わりのないものしかあげられない。

 代わりのないスレッタだけが欲しかった。

 代わりのないミオリネだけを求めてほしかった。

 

 ミオリネは心のどこかでスレッタに甘えていた。

 自分を守り支え助けてくれる、そこに無償の愛を錯覚していた。

 けれどスレッタはそうではない。そんなものではない。

 どんな時でもミオリネを愛し慈しみ理解してくれる母親などではない。

 

 ミオリネがスレッタの母親の代わりにはなれないように、スレッタをミオリネの母親の代わりになんてしてはいけない。

 

 腕の中のもふもふを抱きしめて、ミオリネはその体温を求めた。

 

 望めば守ってくれる存在が欲しかった。

 求めれば愛してくれる存在が欲しかった。

 自分を決して否定しない存在が欲しかった。

 自分を理解し助けてくれる存在が欲しかった。

 

 でもスレッタにそうしてほしくなかった。

 守ってほしくて、愛してほしくて、否定しないでほしくて、理解して助けてほしくて、でもそれだけの存在になってほしくなかった。

 無償の愛などほしくなかった。

 エゴイスティックに求めてほしかった。

 そばを離れないでほしかった。

 独占してほしかったし、独占されてほしかった。

 わかってほしかったし、わかったつもりにならないでほしかった。

 

「……自分勝手よね」

 

 そんなことはわかっている。

 わかっていて、でも、ミオリネはいま、スレッタが欲しかった。スレッタ・マーキュリーが欲しかった。

 彼女に、欲しがってもらいたかった。

 ミオリネ・レンブランが欲しいのだと、そう言ってほしかった。

 愛情なんてわからないでよかった。恋なんて知らないままで構わなかった。

 花嫁と花婿なんて形だけの言葉じゃなく、ただふたり隣り合っていたかった。

 

 ほかに、なんにもいらなかった。

 

「……あんたが、欲しい」

 

 明日も、次の日も、その次の日も。

 ずっとずっと未来まで、あなたといたい。

 

 間の抜けた茶色い毛玉を抱き上げ、そのつぶらな瞳に映る自分自身を見つめていると、がごっごとん、しょろろろろ、と何かの落ちる音、水の流れる音が聞こえてくる。

 

 振り向けば、そこには愕然とした顔でじょうろを取り落としたスレッタ・マーキュリーがいた。

 

「た……」

「えっ」

「タヌキ相手でも、う、浮気、は、絶対! 嫌! ですっ!!」

 

 悲痛な声を残して走り去っていく背中に、ミオリネはとっさに手を伸ばした。

 

「えっ、これタヌキっていうの!? これなに!? どこから!?」

 

 迷い込んだ哺乳綱食肉目イヌ科タヌキ属タヌキは、我関せずとよく熟れたトマトをあぐあぐ食べるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「スレッタ!」

 

 通信機越しに返ってきたのは、自信に満ちた「大丈夫です」だった。

 画面内で小刻みに射撃を繰り返すモビルスーツ。名も知らぬ有象無象とはいえ、決闘に名乗りを上げるだけの機体と腕前は確かなものだった。

 もっとも、それは最初から勝つ気がないからの余裕ともいえるかもしれない。

 株式会社ガンダムが名前だけは知られるようになり、ガンダム=エアリアルの存在が市場に大きなインパクトを与えてからしばらく。

 学園では単なる派閥対立以上に、そのネーム・バリューを利用しようとする連中からの決闘の申し込みが途絶えなかった。

 つまり、エアリアルと戦ったという箔をつけるための決闘。

 

「気を付けて。狙いが明らかに消耗狙いよ。連戦続きで疲労したところを、本命で挑むつもりでしょうよ」

「大丈夫です。エアリアルはこの程度じゃへっちゃらです」

「エアリアルだけじゃない。あんただって……」

「大丈夫、です! 格好いいところ、見せますから!」

 

 生半な機体やパイロットに負けることなど、ありえない。

 そんなことなどわかっている。

 記念受験めいた記念決闘気分の緩い連中など鎧袖一触もいいところだ。

 今も画面の向こうでは、相手のモビルスーツが余裕をもって処理されたところだ。

 

 けれどスレッタの自信は、時々危うく思えた。

 エアリアルに乗り込んだとき、彼女はあらゆる不安に対して打ち勝ってみせる。そのように見せる。

 けれどその万能感は絶対のものではない。

 今までにだって苦戦することはあった。そのたびに勝ちをつないできたから、折れることなく来ただけだ。

 水星での過酷な働きが、スレッタにエアリアルへの強い信頼感を抱かせ、そしてその信頼こそが確かな強さと勝利を見せつけてきた。

 

 いつかその強さにひびが入った時、スレッタはどうなる?

 エアリアルが絶対安心の聖域でなくなった時、彼女はそのままでいられるのか?

 

 ミオリネはその思いを「調子に乗るんじゃないの」と短くたたきつけた。

 

 

 

 

 

 

 

「スレッタ……」

 

 スレッタがエアリアルにこもるようになって一週間がたった。

 食事も排泄も、全てエアリアルの中で済ませる。積み込んだ携帯糧食や携帯トイレの恩恵は大きい。

 けれど風呂ばかりはどうしようもない。がりがりと頭をかけば、伸びてきた爪の間に皮脂がたまった。脂っこくべたついた髪の感触が不快だ。

 そしてスレッタがこもって一週間ということは、そのスレッタに拉致られて監禁されているミオリネもまた、一週間をこの狭苦しい密室で過ごす羽目になっていた。

 

「もう食料も尽きる。シャワーだって浴びたい。あんたも満足したでしょ」

「い、い、いやです」

 

 湿った腕がミオリネの体をきつく抱きしめた。そんなにしなくても、逃げられやしない。

 三日目にスレッタの寝込みを狙って脱出しようとして、失敗した。スレッタはミオリネの服をすべて脱がせたうえで、引き裂いた衣服で手足を縛って、腕の中から出られないようにしてしまった。

 

 スレッタはミオリネを傷つけようとはしなかった。

 食事も手ずから与えられ、トイレの世話までされ、ミオリネの自尊心というものを踏みにじりながらも、スレッタはミオリネをただ抱きしめ、痛めつけるようなことはなかった。

 

「外は、ダメです。み、ミオリネさんが、危ない、です」

「いま一番危ないのはあんたなんだけど」

「も、もう、絶対、ぜっ、たい、ミオリネさんを危ない目に、合わせないから。わた、わたしが、守る、からねっ……!」

 

 首筋に湿った鼻先が押し付けられ、生暖かい吐息がはだえをなぜる。

 ミオリネはどうしようもない不快感と奇妙なほどの充足を同時に感じながらつぶやいた。

 

「……くさい」

「わ、わたしはっ、すき、です……ミオミオのにおい……」

「きもい」

「え、えへへぇ」

 

 

 

 

 

 

 

「スレッタぁー?」

 

 スレッタ・マーキュリーの姿が見えないとき、ミオリネは低重力区画を探すことを覚えた。

 水星での生活が長かったからか、あるいはエアリアルの中で過ごすことが多かったからか、スレッタは低重力環境のほうが落ち着くことがしばしばあった。

 そして低重力区画の中でもスレッタが好きにできる場所など限られている。

 

 スレッタはいつもの貸倉庫の中で丸まっていた。

 文字通り、丸く、まるで惑星のように宙に漂っていた。

 シーツに、ブランケット、パジャマに、制服、もしかしたら靴下や下着、そういったもの集めて丸めたミオリネ星にくるまって、スレッタはふーすーとこもった寝息を立てていた。

 クリーニングからの返却パッケージがやけに少ないと思っていたら、やはりだ。

 

 巣作りをするなとは言わない。

 でも盗むな、隠れるな、あと下着と靴下はホントやめて。

 

 ミオリネは容赦なく番を発掘し始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「スレッタ・マーキュリー!」

 

 ミオリネには自分の気持ちがわからなかった。

 整理がつかなかった。

 怒り、憎しみ、困惑、動揺、悲しみ、疑問、ネガティブな気持ちが渦巻き、波打ち、ミオリネの中で荒れ狂った。

 

 心強く思っていた白い機体は、宇宙の黒を背中にこちらを見据えていた。

 いつも見ていた背中ではない。見たことのない武装が、他でもないこちらに向いていた。

 

「お母さんが言うんです。ミオリネさんのお父さんは悪い人だったんですね」

「なにを、なにを言ってんのよあんたは!」

「ミオリネさんも悪い人の子供なんですね」

「ちがう、ちがう、私は!」

 

 エアリアルの砲口が、まっすぐにミオリネに向けられた。

 

「あなたなんて、きらいです」

 

 

 

 

 

 

 

「……スレッタ」

 

 照れたように笑って、スレッタは指輪を差し出してくれた。

 安物だけど、と恥じらうように言うけれど、ミオリネにはその指輪が何よりも輝いて見えた。

 デリングの娘のミオリネでもなく、ガンダムパイトロットのスレッタでもなく、ただのミオリネとスレッタ間に交わされる契約。どこにでもあるありふれた約束の形。それがどうしようもなくうれしくて、

 

「スレッタっ」

 

 ちょろちょろと走り回る小さな娘を、ミオリネは何とか抱き上げた。

 臆病な癖に好奇心旺盛で、ゼンマイ仕掛けのおもちゃのように一心に走っていく子供を追いかけるのには苦労する。そのくせ、それこそゼンマイが切れたようにこてんと眠りに落ちてしまうのだから、躾ける暇だってありはしない。

 けれど、その暖かな重みが、

 

「スレッタ」

 

 呼びかける声はむなしい。

 彼女を失ってからもう何年が経っただろうか。あまりにもくだらない、けれど当事者たちにとっては命よりも重い呪いの果てに、彼女は

 

「スレッタ……?」

 

 泣きそうな顔をしていた。泣きそうな顔で見ていた。泣きそうな顔で、泣けないままで。

 誰があんたを泣かしているの。そう尋ねようとして、その視線に射すくめられる。

 ああ、そうか、私が、私こそが、

 

「スレッタ!」

 

 拍手喝采の大音響が、彼女を緞帳の向こうにさらっていく。

 まばゆいスポットライトに照らされたまま、彼女は舞台の向こうへ去っていく。

 終わらせない、終わらせてなど、

 

「スレッタ」

「スレッタ!」

「スレッタ?」

「スレッターっ」

「……スレッタ?」

「すれった!」

 

「スレッタ・マーキュリー!」

 

 

 

 

 

 

 

「……ちょっと、スレッタ」

 

 ミオリネは走っていた。

 走るスレッタを追いかけて、どことも知れぬ暗闇を走っていた。

 

 天頂には書き割りの月がぼんやりとした光を投げかけており、その曖昧な光だけが二人を照らしていた。

 

「ちょっと!」

「ああ、急がなきゃ! 急がなきゃ!」

 

 追いかけるミオリネ。

 けれどスレッタは足を緩める様子すらない。

 足元も定かではない闇の中を、スレッタは走り、ミオリネは追いかけていく。

 

「ちょっと! 待ちなさいったら!」

「待てないよ! 待てません! とにかく走らなきゃ! 急いで急いで!」

 

 わき目も振らずにスレッタは走る。

 ミオリネはもう、全速力でそのあとを追いかけた。

 おいていかれるものかと、腕を振るい、足を上げた。

 ぜえはあと息は荒く、どきんどきんと鼓動は激しく胸をたたいた。

 

「どこに行くのよ!」

「わかりません!」

「はあ!?」

「でも走らないと! 走らなきゃ!」

「わ、わかったから、でも、ちょっと休憩させて……」

「ダメです! 走らなきゃ、どこへも行けない!」

 

 弱音を吐くミオリネに背を向けたまま、スレッタは走り続ける。

 ふいごのように激しく熱い息を吐いて、猛然と走り続ける。

 

「私は、どこかへ行かなくちゃいけないんです! なにかにならなくちゃ! だから走らないと! 走り続けないと!」

「なんでよっ。別にそんなに急がなくっても」

「だって、だって私は、私には、なにもないから、なんにもないから、だから、走らなくっちゃ! どこかへ! どこかへ! なにかにならなきゃ!」

 

 スレッタはますます走り、ミオリネはそのあとに追いすがった。

 けれどその背中はどんどん遠くなり、ミオリネを置いて行ってしまう。

 ミオリネは叫んだ。叫び続けた。その背中に、その名を呼び続けた。

 どこかへと言ってしまう前に、なにかへとなってしまう前に。

 その手をつなぎ留めなければいけないのだと、ただ、必死に。

 

 ただ、必死に。

 

 

 

 

 

 

 

「スレッタ……?」

 

 瞬き。

 視界に映るのは、あの背中ではなかった。

 

 ガラス越しに見えるベッドに、見知った男の見慣れない姿があった。

 デリング・レンブラン。古い言葉で「曙光」を意味する名前。

 期待を背に追い、決意と覚悟を胸に、歩み続けてきた男。

 そして、ミオリネ・レンブランの実父。

 

 彼はいま、おびただしいほどの機械につながれて、かろうじて息をつないでいた。

 枕元に張り付いて文句を言ってやるつもりだったが、無菌室での安静処置ではそれもかなわない。

 こうしてガラス越しに見守ることさえ、ミオリネが唯一の肉親でなければ許されなかったことだろう。

 

「……夢?」

 

 時刻は、ほとんど変わらなかった。

 ミオリネは立ったままに、ほんの数分、あるいは数秒ばかりの白昼夢を見ていたようだった。

 夢の内容は、すでに薄れ始めていた。荒唐無稽で混沌とした世界は、現実に希釈されて均されていく。

 

 ただ、その中でも、自らが口にした名前は、いつまでも薄れなかった。

 

 スレッタ。

 スレッタ・マーキュリー。

 

 自分を助けてくれた彼女を、動揺のあまりとはいえ、激しい口調で非難してしまったことを、ミオリネは今更ながらに後悔した。

 はじめてその内心に触れたように思えた父。その深刻な負傷。自分自身も危険にさらされた限界状況。

 様々な要素が重なったうえでの、スレッタの見せた笑顔。

 ミオリネは平静ではいられなかった。唯一信頼できる、信頼したいと願った相手の、信じられない行動に、ミオリネの未熟な心はたやすく決壊した。

 

 落ち着いた──最悪と比べれば──いまなら、わかる。

 あの時のスレッタは、普通ではなかった。普段通りではなかった。

 人を傷つけることをよしとしない彼女が、人を殺すことをためらわず、血濡れた手で笑って見せるなど、おかしいことばかりだ。

 そしてその異常は、必ずしもスレッタ本人のものではないはずだ。

 ミオリネが触れてきた、ミオリネのこころに触れてきた、スレッタ・マーキュリーのふるまいではないはずだ。

 

 ミオリネはスレッタのことを知らない。まるで知らないと言っていい。

 けれど、知っていること、わかっていることもある。心の深いところで、触れ合ったはずなのだから。

 

 誰かを助けることをためらわないスレッタ。

 慣れない環境におびえて縮こまるスレッタ。

 良心と善意のまま声をあげられるスレッタ。

 勇気を振りしぼって立ち上がれるスレッタ。

 ひとりの部屋でうずくまって泣くスレッタ。

 勇ましく戦い勝利をたたえられるスレッタ。

 友人に囲まれて笑いながらすごすスレッタ。

 母の言葉に従いこころを左右するスレッタ。

 ミオリネを欲して、求めてくれるスレッタ。

 

 どれが本当のスレッタなのか、ミオリネにはわからない。

 どれもが本当のスレッタなのかもしれないし、いまもまだ本当のスレッタを見つけられていないのかもしれない。

 けれど、いまはまだ、手の届く範囲に、彼女はいるのだ。

 いいや、どこか遠くへ離れてしまっても、ミオリネはもう追いかけることをためらわない。

 

 本当のスレッタを、必ず見つけ出して見せる。

 本当の彼女の手を、もう決して離しはしない。

 

 たとえいまはまだ見えなくても、逃げずに進んだ道のその先に、掴めるものがあるはずだから。

 

 

 

 了


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