有紗とひとりは軽井沢の別荘に2泊する予定であり、夜もまた1日目と同様にふたりで夕食の準備をしていた。有紗が用意した麺つゆと生姜を見て、ひとりは不思議そうに首を傾げた。
「あっ、あれ? 麺つゆと生姜ですか?」
「ええ、唐揚げの隠し味は多種多様ですが、今回は漬け置きをしていないので短時間でしっかりと味を付けられるものを選びました。摩り下ろした生姜と麺つゆを混ぜて、そこに肉を少し漬けるだけで味付けはOKです」
「なっ、なるほど」
「オールスパイスなどでじっくり時間をかけて下味をつけるのも美味しいですが、どうしても手間がかかりますので、あとはかなり難しいですが砂糖を隠し味に入れるのもいいですね」
「かっ、唐揚げに砂糖ですか?」
「ええ、砂糖を入れることで鶏肉が柔らかくなって旨味が引き立ちますし、蜂蜜を隠し味にした時ほど甘さが出ないのでカリッとした後味のいい唐揚げが作れます……ですが、砂糖を入れると焦げやすくなりますし、色も黒くなりやすいので少し難しいですね」
ふたりが夕食に作ることにしたのはひとりの好物でもある唐揚げであり、有紗がメインで料理をしてひとりがサポートする形になっていた。
大きめにカットした鶏肉にフォークで小さく穴をあけて麺つゆと生姜に漬け、少し置く間に副菜などの準備と唐揚げを揚げる油を用意する。
「衣は片栗粉と薄力粉を半量ずつ混ぜて使おうかと思います。片栗粉はカリッとした硬めの衣に、薄力粉はしっとりとした柔らかめの衣になります。半量ずつ混ぜると程よい硬さと柔らかさになりますね」
「あっ、そうなんですね。衣によっても違いが……」
あまり料理をしないひとりにとって有紗の説明は新鮮らしく、感心した表情で興味深そうに話を聞いてた。そして有紗に教わりながら鶏肉に衣をつけている時に、ふとひとりはあることを思い出して尋ねる。
「あっ、そういえば有紗ちゃん。よく油に菜箸を入れてるのをテレビとかで見ますけど、アレってなにか意味があるんですか?」
「油の温度の確認ですね。唐揚げは一気に揚げるのなら180度、2度揚げを行うなら1度目が170度で2度目が190度が適しています。そしてその温度はおおよそですが菜箸で確認できます。例えば180度であれば菜箸を入れた際に箸全体から気泡が勢いよく出るぐらいが目安です。その上の190度だと、箸の先から大きな気泡が出るぐらいが目安ですね」
「あっ、なっ、なるほど……」
「まぁ、最近であれば料理用の温度計が安価で購入できますし、そちらを使うのが確実ではありますね。特に唐揚げは低い温度で調理するとべちゃつくので、温度は重要ですね」
実際に菜箸を油に入れたりしながらひとりの質問に説明をしつつ、有紗は手際よく唐揚げを揚げる用意を行う。今回は2度揚げを行うようで170度に調整した油で4分ほどあげてから一度取り出して数分おいて余分な油を切り、190度の高温でもう一度揚げていく。
「ひとりさん、一口サイズのものがあるので味見してみてください。熱いので気を付けて、はい、どうぞ」
「あっ、はい。いっ、いただきます……あっ、あふっ……あっ、おっ、美味しいです!」
「気に入ってもらえたならよかったです」
ひとりが目を輝かせて美味しいと口にしたことで、有紗も顔を綻ばせ残る鶏肉を揚げていった。
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ふたりで一緒に作った唐揚げを美味しく食べたあとは、風呂の準備を行い湯が入るまでに少し空いた時間ができた。
なにかをして遊ぶほど長い時間ではないので、雑談をしながら湯が入るのを待つはずだったのだが、そこで有紗が唐突に行動を起こした。
「ひとりさん、質問があるのですがいいでしょうか?」
「はえ? あっ、はい。なんでしょうか?」
「私に甘えたい状態というのは継続中でしょうか?」
「あえ? あっ、ああ、えと、その……けっ、継続中……です」
唐突な有紗の質問に、ひとりは恥ずかしさから頬を赤く染めて視線を泳がせつつ返答する。有紗に甘えたいという気持ちがあるのは事実であり、甘えたいモードが継続中なのも自覚していた。だが、それを口に出して言うのは言いようのない恥ずかしさがある。
ただそれでも素直に答える辺り、ひとりの有紗に対する高い好意がうかがえた。
「なるほど、それなら大丈夫そうですね……では、どうぞ」
「……あっ、あの、有紗ちゃん? なぜ、両手を広げているんでしょうか?」
「私もひとりさんを甘やかしたい気分なので、お風呂の準備ができるまでひとりさんを胸に抱きしめて、頭を撫でたいと思うので、ひとりさんが嫌でなければどうぞ」
「……」
いっそ清々しいほど堂々と宣言する有紗の言葉を聞いて、ひとりはなんとも言えない表情で思考を巡らせる。
(……あっ、相変わらずな有紗ちゃん……でっ、でも、この誘惑は抗いがたいというか……心の奥から有紗ちゃんに甘えたい欲求が湧き上がってくるみたいで、うぐぅ、そっ、そんな優しい顔で見られると……あぅあぅ)
両手を広げ優しく微笑む有紗の表情は、母性や愛情を感じさせ、ひとりは気恥ずかしさを感じながらも引き寄せられるように体を近づけていく。
そしてひとりの体が十分に近づいたタイミングで、有紗はひとりの頭を優しく抱えるように抱きしめて、宣言した通りに頭を撫で始めた。
(あわわわ……やっ、やっぱりこれは、ちょっと幸せ過ぎるというか、蕩けそうというか……柔らかいし温かいし、いい匂いはするし気持ちいいし……うあぁ、これ……好きだぁ……)
気恥ずかしさはあるがそれ以上に、優しく包み込まれるような温もりにひとりの表情は蕩けていき、有紗の背に手を回してギュッと抱き着く。子供が甘えているかのような仕草で密着することで、有紗に甘えたいという欲求が深く満たされて幸福感が湧き上がってくる。
言葉で表現するのが難しいほどの幸せと、癖になりそうで怖いという少しの恐怖の中……ひとりはしばし無言で有紗に甘え続け、有紗もそれを優しく受け止めてひとりを甘やかしていた。
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しばらく経ち、湯張りの完了を知らせる音を聞いたことで有紗とひとりは入浴することにして浴室へ移動する。
前日と同じように互いに背中を流して、髪を洗い合ってから湯船に浸かり、並んで座る。先ほどまで甘えていた影響だろうか、湯の中で自然とひとりは有紗の手を取っており、有紗もその手を握り返して互いにもたれかかる様にして身を寄せ合う。
「明日は昼前にここを出て、パーキングエリアなどで土産などを購入しましょう」
「あっ、はい。けっ、けど、アレですね。8月はライブもないし、夏休みの課題も終わってるので時間にかなり余裕がありますね」
有紗とひとりは、夏休みが始まった直後からふたりで一緒に課題を進めたりしていたこともあって、既に夏休みの課題は全て終了している。
未確認ライオットも終わり、今月はSTARRYでのライブもない。ひとり個人の話で言えば、リョウがバイトのシフトに入りまくっている影響で、今月はバイトも少ないので時間的余裕はかなりあった。
「新曲の製作やスタジオ練習もあるので完全にフリーとはいきませんが、それなりにのんびり過ごせそうですね。また結束バンドの皆さんと一緒にどこかに出かけるのもいいかもしれませんよ」
「あっ、いいですね。去年も皆で江の島に行きましたし……ただ、リョウさんや虹夏ちゃんが忙しいですかね?」
「教習所があるとはいえ、ある程度余裕はあるはずですよ。虹夏さんは冬休みになると大学受験であまり遊ぶ時間はないでしょうし、夏に遠出しておくのはいいですね」
「あっ、大学といえばリョウさんは行かないみたいですね。作曲に専念したいって……ひっ、昼まで寝てたいからとも言ってましたが……」
虹夏とリョウは高校3年生であり、進学するならば大学受験が控えている。リョウは大学には行かないことを決め、虹夏は進学の予定でコツコツ受験勉強をしていた。
「まだ先ではありますが、ひとりさんは進路はどうしますか?」
「あっ、うっ、う~ん。まだ決めてないです。まっ、前までだったら、そもそも大学に合格するわけがないので一択だったんですが……」
「まぁ、焦って決める必要はありませんよ。急いても可能性を狭めるだけですからね。後悔しないようにじっくり考えればいいです。悩んだら、私も相談に乗りますよ」
ひとりは、以前は惨憺たる成績であり、そもそも高校に入れたのは定員割れのおかげ……大学受験など、夢のまた夢どころか、家族も含めて大学は無理だと最初から諦めているレベルだった。
しかし、高校1年の最初の期末テスト以降有紗がひとりに勉強を教えていることもあり、ひとりの成績は劇的に上昇していた。
そもそも有紗が教え上手であり、ひとりの方も有紗をかなり信頼しているため教え学ぶという関係の相性がいい。それでも最初は赤点の回避がやっとではあったが、1年経ったいまは大きく変わっている。
繰り返し指導をしてもらったり、テスト以外の場面でも勉強のコツなどを教わっているためか、現在のひとりの成績は中の上ほどになっている。定期テストでも安定して平均点を上回る点数が取れているので、大学受験も現実的に可能というレベルにまで成長していた。
「あっ、ありがとうございます。心強いです……有紗ちゃんは、進学ですよね?」
「私の場合はそもそも、大学までエスカレーター……学内試験が軽くある程度で、3年生になれば大学で学ぶことを先んじて学んだりしますね。もちろん必ず大学に行かなければならないというわけでは無く、就職する方や他の大学に進学する方も居ますけどね」
「じゅっ、受験なく大学に行けるのは羨ましいですけど、それ以上に有紗ちゃんの学校は勉強のレベルが高すぎて大変そうです」
「そんなことは無いですよ。範囲が広いだけで、順序立てて学べば難しくはありません」
「……あっ、頭のいい人の台詞です」
当たり前のように語る有紗ではあるが、有紗の頭の良さを知っているひとりは思わず苦笑を浮かべていた。いまのことを語るのも楽しく、未来について語るのも楽しい。
進学かバンドに専念するか、現時点ではハッキリとした答えは出してはいないが、それでもひとりの心に焦りはなかった。
どんな道を選んだとしても、有紗が傍に居てくれるというのを確信しているから……。
時花有紗:入学から全ての定期テストで学年1位であるが、本人は特に気にしている様子もなくそれを吹聴したりすることもない。ひとりが甘えたいモードに入っているのと同じように、ひとりを甘やかしたいモードに入った模様……需要と供給がバッチリである。
後藤ひとり:有紗のおかげで実は普通にそこそこ成績がいい。そもそも有紗がひとりのことを深く理解しているため、誰よりもひとりに適した指導方法で教えてくれるので理解しやすく、成績も上がりやすい。学校自体への苦手意識も、喜多やABコンビと始めとした友人の獲得でほぼ解消しており、普通に大学進学も視野に入れて進路は考え中である。
伊地知虹夏:まったく関係ない話ではあるが、原作4巻でリョウが大学に遊びに行くと発言した際の虹夏ちゃんは大変可愛い。