下北沢にあるストレイビートの事務室では、都と愛子が仕事を行っていた。8月下旬ということもあり、室内の温度も高く、特に愛子は非常に暑そうに手で顔を扇いでいた。
「あっつ~。このビル空調悪いし、ネズミ出るし本当最悪~」
「口より手を動かしてください。もうすぐ虹夏さんが楽曲の打ち合わせに来るんですから……」
ブツブツと文句を言う愛子に都が呆れた表情でツッコミを入れると、そのタイミングで事務所の入り口が開き虹夏が入ってきた。
今回は楽曲の打ち合わせといっても、進展の報告だけなのでリーダーである虹夏がひとりで打ち合わせにやってきていた。
「お疲れ様で~す。楽曲の打ち合わせに来ました~」
「あ、虹夏さん。外、暑さヤバくない?」
「凄いですよ。死ぬかと思いました」
「あはは、やっぱ外は中以上に酷いか~」
虹夏の言葉に愛子は苦笑を浮かべ、会議室に虹夏を案内したあとでお茶を用意する。そして虹夏の対面に都が座る形になって新曲の進展について打ち合わせを行う。
「……それで、いまメロディは完成して、編曲をぼっちちゃんに頼んでいるところです」
「なるほど、これまでの曲は山田さんが編曲を行っていたと聞きましたが、今回は変えていくのですね」
「はい。予算出してもらえるなら、皆でいろいろな曲を作りたいなって……例えば喜多ちゃんが作詞したり、ぼっちちゃんが作曲したりって感じですね!」
「なるほど、挑戦するのは素晴らしいことですが……いきなりひとりでやって上手く行くものなのですか? 私はマネジメントはしていますが、曲作りに関しては専門ではないので分からない部分も多いので、想像ではありますが……」
都としても結束バンドの面々がいままでとは違う形で挑戦するのを応援したいという気持ちはある。ただ、マネジメントを担当する側としては、新曲の完成時期も気になるところではある。
「安心してください! ぼっちちゃんは、やるときはやるんで……あ、後、有紗ちゃんが手伝うらしいので安心だと思います」
「時花さんが? 確かに非常に頼りになる雰囲気の方ですが、彼女は演奏メンバーではないと聞いていましたが、編曲の心得などがあるのでしょうか?」
「あ、それ、私も気になる! 有紗さんって、なんでもできそうな子ではあるけど、実際のところはどうなのかな~って」
有紗が編曲を手伝っていると聞いて、都と愛子が疑問を口にする。ふたりの認識としては、有紗はマネージャーであり、演奏メンバーではないので音楽的知識に関しては不明な部分が多い印象だった。
「有紗ちゃんは、ピアノとキーボードが得意で、腕前も凄いですよ。というか、やみさんは知ってるんじゃないですか? 有紗ちゃん、ギターヒーローの動画で時々ぼっちちゃんとセッションしてますし……」
「……え? 待って……ギターヒーローさんの動画に出てるキーボードって……キーボードプリンセス!? アレって、有紗さんだったの!? いや、確かに言われてみれば顔は映ってないけどそれっぽい気が……演奏メンバーじゃないって聞いてたから、完全に意識の外だった!?」
「……私はギターヒーローの動画を全て見たわけではないのですが、凄いのですか?」
「凄いわよ! 完全にプロ級! ……え? というか、じゃあなんであの子マネージャーやってんの!? あの腕前なら、演奏メンバーに入ってたら未確認ライオットのグランプリもいけたでしょ!?」
虹夏の告げた言葉に、愛子は驚愕と共に食い気味に尋ねてくる。彼女はギターヒーローのファンであり、当然有紗がセッションしている動画も何度も見ている。キーボードプリンセスとファンから呼ばれる彼女が、プロ級の腕前であることも理解していた。
だからこそ、それならなぜあれほどの腕前がありながら演奏メンバーではないのかという疑問が湧いてくる。
「う~ん。去年の夏に一度誘ったんですけど、その時は断られちゃったんですよね。それで、演奏メンバーとして所属する代わりにいろいろサポートしてくれるって形になったんです。まぁ、いつか気が変わったら教えてくれるって約束してるので……もしかしたら、いつか演奏メンバーになってくれるかもしれませんね。というか、そうなったらいいな~って期待してたりします」
「う~ん、そっか……まぁ、本人が望んでないなら無理強いもできないわよね。あ~けど惜しいなぁ」
「まぁ、その辺りのバンドの事情に私たちが深く首を突っ込むべきではないですよ。その辺りは気にせず、新曲の完成を楽しみにしています」
「はい!」
虹夏から話を聞いて、愛子も都もそれ以上深く尋ねることは無く、新曲に話題を変えて穏やかな雑談へと移行していった。
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虹夏がストレイビートで打ち合わせをしていた頃、編曲を任されたひとりは家のパソコンの前で頭を抱えていた。
というのも、普段からギターヒーローのアカウントで弾いてみたを行う際に、カラオケトラックなどをパソコンの打ち込みで行っており、編曲に関しても大丈夫だろうと思っていたが実際にやってみると想像以上に難しかった。
「……うぅ、ここのドラムのフィルはカッコいいと思うんですけど……」
「ですが、このフィルインをこのペースで実行するのは、流石に虹夏さんでも難しいのでは?」
「あっ、うっ、やっ、やっぱりそうですよね。なっ、ならここは、虹夏ちゃんに4本腕になってもらって!」
「ひとりさん、落ち着いてください。人の腕は増えません」
編曲に苦戦するひとりに苦笑しつつ、有紗は麦茶をコップに注いでひとりに手渡す。
「とりあえず、一息つきましょう。焦ってもいいものはできませんよ」
「あっ、はい。ありがとうございます。思ってた以上に難しくて……なかなか上手く行かなくて……」
「当たり前ではありますが、私やひとりさんにはリョウさんのような経験がありませんので、最初から完璧なものは作れませんよ……そうですね。ここは、ひとつ、考え方をシンプルにしてみるのはどうでしょうか?」
「しっ、シンプルにですか?」
渡された麦茶を飲みながら不思議そうな表情を浮かべるひとりに、有紗は編曲画面を指差しながら穏やかに話していく。
「言ってみれば、私とひとりさんは編曲に関しては知識のある素人といった状態です。この場合において、よく失敗するパターンは詰め込み過ぎですね。アレもコレもやろうとして、ゴチャゴチャとしてしまいます。そういう時は、あえてシンプルに作ってみるのがいいですね」
「あっ、でっ、でも、やっぱりカッコいいアレンジとかあった方が……」
「もちろんそういったものも素晴らしいですが、まずはシンプルな形で全体のデモをひとつ完成させてみましょう。それを聞いて、肉付けする形でアレンジを追加していけばいいんですよ」
「なっ、なるほど……」
たしかに、有紗のいう通り現状は序盤のメロディ部分でああでもないこうでもないと、いろいろなアレンジを試しては作り直していたので、全体を一度完成させるというのは非常にいい案だった。
特にひとりの有紗に対する信頼が極めて高く、悩んでいる時に素直にアドバイスを受け入れやすい相手ということもプラスに働いて方向性が決まった。
「コードや音の組み合わせに関しては任せてください。私は耳のよさには少し自信がありますので、おかしい組み合わせの場合はすぐにアドバイス出来ますからね」
「そっ、そこは本当に頼りになります。有紗ちゃんは音の組み合わせを間違えないですし、私が気付かないようなアイディアも出してくれるので、助かってます」
「ひとりさんの助けになれているのなら、私も嬉しいですよ。ともあれ、まだ夏休みは5日ありますし、焦らずじっくり一緒に頑張っていきましょう」
「あっ、はい! あっ、そっ、そういえば、聞いたことなかったですけど、有紗ちゃんて絶対音感があるんですか?」
有紗の耳のよさはひとりもよく知るところだ。有紗は音を間違えないし、チューナーを使わず正確なチューニングを行うことができる。なので、絶対音感を持っているだろうとは思っていたが、直接聞いたことはなかった。
「ええ、先天性か後天性かは分かりませんけどね」
「あえ? 絶対音感に、後天性とかあるんですか?」
「絶対音感に関しては未だ完璧に解明されたわけではなく謎が多いみたいですが、最新の研究では概ね2歳から6歳まで、脳の神経細胞が増える幼少の頃に正確な音階を何度も聞いて覚えることで、脳の奥深くに正確な音を記憶させて絶対音感を獲得できるとのことです。なので、現在では絶対音感に才能や遺伝は関係なく、後天的に身に付くものと言われ始めています」
「なっ、なるほど……」
「ただ、一部先天性ではないかと思えるような人も確認できているので、全てが後天的かどうかまでは、断言できないみたいですけどね。ただ基本的に絶対音感は幼少期の英才教育で身に着ける技術という見方が、最近の主流ではあります」
有紗の説明にひとりが感心したように頷くと、有紗はそこでふと思いついたように口を開いた。
「そういえば、少し話は変わりますが、私の友人の玲さんは絶対音感だけでなく共感覚を持つ方でして、音を色として認識できるらしいですよ。なので、玲さんは常人にはまったく同じに聞こえる音でも、正確に聞き分けることができるらしいです」
「そっ、そうなんですか? 共感覚……漫画とかでは見たことありますけど……」
「こればかりは完全に本人にしか分からない感覚なので、私も正確なところは分かりませんが……」
そのまま有紗は休憩も兼ねてひとりに玲の話をしていき、ひとりも興味深そうに相槌を打ちながら聞いていた。
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フランスのパリ、高級住宅地として知られるAvenue Foch……フォッシュ通りと呼ばれる場所にある一件の高級住宅で、ひとりの小柄な少女が電話を行っていた。
「うん。そういうわけだから、年末に日本でコンサートを開くことが決まったからさ、それに合わせて日本に帰るよ。うん、それで、お願いなんだけど……有紗には内緒にしといて、ビックリさせたいんだ。いや、まぁ、コンサート告知とかで分かっちゃうだろうけど、帰国の時期までは分からないだろうしね」
右目だけ色素が薄いのか、黒と灰のオッドアイの目を持つ空色の髪の少女……若くして世界的ピアニストである琴河玲は、日本に居る母親と電話で話していた。
「え? いや、別に悪いことなんて考えて無いよ。いやいや、いっつも有紗に迷惑をかけてるとか言われると、否定するのは難しいんだけど……ボクも子供じゃないんだから、その辺は信用してよ。ピアノに関して以外はポンコツだから信用できない? 実の娘に言う言葉じゃなくないかな、ママは厳しいな~。まぁ、そんなわけだから、有紗には内緒にしといてよ!」
そう言って苦笑しつつ電話を切った玲は、壁にかけてあるカレンダーを捲って、12月のとある日に印を入れた。
「……たしか、STARRYってライブハウスだったよね? で、相手の名前が後藤ひとりちゃんと……ふふ、楽しみだな~。早く会って話したいなぁ、有紗の恋人と……」
楽しげに日本を訪れる日を思い浮かべて笑う玲……彼女の来訪が、有紗とひとりの関係をひとつ大きく進展させることになるとは、この時はまだ本人も含めて誰も知らなかった。
時花有紗:ひとりと一緒に編曲中。これまで曖昧ではあったが、明確に虹夏の勧誘を一度断っていることが判明。
後藤ひとり:なんか、12月に関係が進展するらしい。ということは、ぼっちちゃんが気付かない振りを止めるのもその辺の時期ということ……原作を考えると、どう考えてもクリスマス辺りになにかありそう。
琴河玲:小柄、オッドアイ、ボクッ娘と、大した出番がないので作者の性癖が詰め込まれている。12月の登場まで出番はないが、有紗とひとりの関係進展の切っ掛けになるとかならないとか?