天才ピアニスト琴河玲……その演奏はまさに圧倒的と言っていいものだった。彼女がピアノの演奏を始めた瞬間、観客たちは一瞬で彼女の作り出す音の世界に囚われたように演奏を聞くことに集中する。
その圧倒的存在感が、最高峰の技術によって奏でられる至高の演奏が、聞き入る以外の選択肢を取らせないかのように……。
よく彼女のコンサートに行った人は、気付いた時には終了の時間だったと語る。時間が飛ぶわけでもない、意識がなくなるわけでもない、ただその演奏に魅せられて時間を忘れて聞き入るからこそ、あっという間に終わったように感じるのだろう。
実際ひとりや結束バンドのメンバーたちも、ただただ圧倒されていた。広いコンサートホールに集まった満員の観客たちの視線を受け、舞台上でスポットライトに照らされて演奏する玲の姿は幻想的ですらあり、これがひとつの分野における世界のトップレベルなのだと、強く実感するとともに……ジャンルは違えど、いつかあんな風に人を夢中にさせる演奏をと……そんな風に心に誓った。
コンサートの終わりを告げる最後の曲を玲が演奏し、その最後の音が鳴らされた直後会場は一瞬静寂に包まれる。それは彼女によって、魅せられていた音楽の夢から目が覚めるまでに必要な時間……僅かの静寂の後、観客たちは一斉に立ち上がり割れんばかりの拍手がコンサートホールを包み込んだ。
「……すっ、凄かったです。なっ、なんか感動しちゃったというか、圧倒されました」
「そうですね。やはり玲さんは世界のトッププロだと実感するだけの、圧倒的な演奏でしたね」
「あっ、はい。私たちもいつか……こんな風にたくさんのお客さんを夢中にさせる演奏ができたらいいですね」
「ふふ、そうやって前向きに考えられるのは素敵ですよ。大丈夫です。いつかきっと、玲さんにも負けない演奏ができるようになりますよ」
玲の凄まじい演奏に感動しつつも、前向きに向上心のある発言をするひとりを見て有紗は優し気に微笑みを浮かべていた。
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コンサートが終わった後、結束バンドの面々は玲の居る控室にやってきていた。広く上品な室内には演奏を終えた玲が居て、有紗たちが来たのを見て笑顔を浮かべる。
「あ、有紗に皆~来てくれたんだね!」
「ええ、今日も素晴らしい演奏でした」
「ふふん。でしょ? ピアノに関してはボクは世界一だからね!」
コンサートで見せた寒気を感じさせるほどの雰囲気はすっかり消え失せ、どこか緩い感じで胸を張って自慢げに告げる玲に、有紗は苦笑を浮かべる。
他の結束バンドのメンバーたちとも軽く挨拶をしたあとで、玲は目を輝かせながらひとりに声をかける。
「ひとりちゃん、どうだった? 有紗との結婚式の演奏はドーンと任せてくれていいからね! ああ、でもイメージ固めたいから式場が決まったら早めに連絡が欲しいなぁ~」
「はぇ? けっ、けけ、結婚!? あっ、いっ、いや、それはまだ話が早すぎるといいますか……あっ、いや、その、いずれはそうかもしれないですけど……いっ、いまはまだ、アレで……その……」
「玲さん、式場で演奏する可能性は低いでしょう。ピアノを演奏するとなれば披露宴の席でしょうから、イメージを固めるべきなのはそちらの会場では?」
「あっ、有紗ちゃん、ツッコミどころはそこじゃないです……」
明るい顔で当然のように有紗との結婚式の話をする玲に対し、ひとりは顔を赤くしながら視線を泳がせる。いや、ひとりもいまとなっては有紗への好意を自覚し恋人同士となっているわけで、かねてより有紗が口にしている結婚に関しても現実的になっていることは理解している。
まぁ、頭で理解していても恥ずかしいものは恥ずかしいので、その手の話は可能な限り避けたいとは思っているが……。
「そういえば、玲ちゃんってコンサートが終わった後はすぐにフランスに帰るの?」
「ううん。正月の特番にちょっと出演する予定だからもうちょっとこっちにいるね。だから、結束バンドの年末ライブも見に行くつもりだよ~。前のクリスマスライブもよかったけど、有紗が加わった状態での演奏も聞きたいしね」
「それは、しっかり期待にこたえられるように頑張らないといけませんね」
虹夏に結束バンドの年末ライブを見に行くつもりだと答える玲に、有紗が微笑みながら告げる。玲にしてみても親友であり、己に匹敵するほどの腕を持つと認めている有紗の晴れ舞台は見に行きたいという思いが強い。
玲の明るい性格もあり、しばし結束バンドのメンバーと玲は年末ライブについて楽しく言葉を交わした。
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年末の雰囲気で賑わう商店街を、ひとりのクラスメイトであり仲のいい友人でもある英子と美子が歩いていた。ふたりは幼馴染であり、家も近いということもあって毎年年末には正月に備えた買い物に一緒に出掛けており、今回もそれが目的である。
ある程度の買い物を終えたあとは、人通りの少ない公園のベンチに並んで座り一休みする。すると、そのタイミングで英子が少し探る様な表情で美子に話しかけた。
「そういえばさ、Bちゃんのとこにも連絡きたよね? ひとりちゃんと有紗さんの話……」
「うん。交際始めたんだって、想いが通じてよかったよね」
「うんうん。ひとりちゃん、すごいよね。きっと物凄く勇気が必要だったと思うんだけど……それでも、ちゃんと伝えたんだ」
「……そうだね。凄いと思う」
しんみりと呟く英子に、美子も軽く頷き同意する。英子と美子は互いに互いを恋愛対象として見ており、恋心を抱いているが……両者ともに己の片思いであると思っていた。
だからこそ、現在の仲のいい幼馴染という関係が壊れるのが恐ろしくて想いを伝えられないでいた。しかし、そんな中で、ひとりが想いを伝えて有紗と恋人同士になったということは大きく……そう、大きく背中を押す出来事だった。
「……ねぇ、Bちゃん」
「うん?」
「私ね、Bちゃんの……みっちゃんのこと……好きだよ。友達としてって意味じゃなくて、その、そういう意味で……」
「ッ!?」
中学でABコンビと呼ばれるようになる前に呼んでいた呼び名を口にしながら、好きだと告げた英子に美子は驚愕したような表情を浮かべる。
それを見て、英子はなんとも気まずそうな表情で苦笑を浮かべる。
「あ、あはは、ごめん。いきなりこんなこと言って気持ち悪いよね……でも、ずっと、昔から好きで……これ以上我慢するのも辛くて、困らせちゃうって分かってたんだけど……ごめん。忘れ――」
「私もえっちゃんのことが好き!」
「――え?」
唖然とした表情の美子を見て、引かれてしまったと思った英子は目に涙を浮かべながら慌てて取り繕おうとしたが、その言葉を遮るように美子も好意を伝えた。
信じられないといった表情に変わった英子に対し、美子もまだ現実に思考が追い付いていない感じではあったが、それでも必死に言葉を紡ぐ。
「……こんな気持ちになってるのは私だけで、言えば引かれちゃうって……えっちゃんと気まずくなっちゃうんじゃって、ずっと言えなかった。だけど、私もずっとえっちゃんが好きだった」
「みっちゃん……あはは、そっか、そうなんだ……じゃあ、私たち両想いなんだね?」
「うん」
「みっちゃん!!」
「わっ、とと……」
美子が頷くを見てこらえきれないと言わんばかりに英子は美子に飛びつく。それを抱き留めながら、美子もどこか安心したような、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「……あ~なんか、遠回りしちゃったね。こんなことならもっと早く言えばよかったよ」
「うん。けど、過去の後悔より……いまの嬉しさの方が大きい」
「うんうん! あ、えっと、じゃあ、これからは恋人同士ってことで……いいかな?」
「うん。これからも、よろしくね」
互いにずっと秘めていた想いを伝えあい、英子と美子は幸せそうに笑ったあとでぎゅっと抱き合った。
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コンサートが終わり、結束バンドの面々と別れた有紗とひとりはゆっくり街中を歩いていた。まだそれなりに時間があるため、どこかに寄っていこうという話になりどこに寄ろうかと相談しながら歩いていた。
するとそのタイミングでひとりのスマホがロインの通知を知らせた。
「あっ、ちょっとすみません……え?」
「どうしました?」
「あっ、えっと、AちゃんとBちゃんが付き合い始めたって……」
「英子さんと美子さんが? そうですか、確かに互いに想い合っている雰囲気がありましたが、関係が進展したんですね」
英子と美子に関しては、有紗も以前偶然に顔を合わせる機会があったので知っている。話した時間は短かったが、鋭い有紗は両者の微妙な関係を察しており、両者が交際を始めたと言われてもそれほど驚いた様子は無かった。
「……よかったですね」
「あっ、はい。ふたりとも互いに好きな感じで、それでも言い出せてなくって……ちゃんと想いを伝えあえて、よかったです」
ひとりも仲のいいクラスメイトということで、ふたりの関係は分かっていた。というか、英子と美子がひとりも自分たちと同じように同性に恋をしていると思い込んでいたため、積極的にその手の相談を持ち掛けてくることが多かった。
……結果としては両者の想いは正しく、ひとりとしても今年の夏を超えた辺りからは両者の想い……好意は有れど現在の関係が変わってしまうのが怖いという思いも理解できていたので、それがいい方向に進んだというのは本当に朗報であった。
ロインでの報告と一緒に肩を寄せ合って笑うふたりの写真が送られてきており、その仲のいい雰囲気にひとりと有紗は顔を見合わせて笑い合う。
「あっ、ふたりとも、すごく仲良さそうですね」
「ええ、見ていて微笑ましいですね。せっかくですし、私たちも同じような写真を撮って送りますか?」
「あっ、そっ、それちょっと面白そうですね」
有紗の提案にひとりも乗り気であり、英子と美子と同じような構図で写真を撮ってロインに返信する。その後のロインでは、互いにそれぞれのカップルを微笑ましいと賞賛し合うような、そんな温かいメッセージが行き来していた。
時花有紗:英子と美子の関係に関しては、初見でほぼ正確に把握していたが、あまり交流は無かったため口を挟んだりはしていなかった。今後は百合ップル同士で交流も増えるかも。
後藤ひとり:最初はABコンビの勘違いではあったが、最終的には本当に互いに共感し合っていたこともあって、両者が付き合ったことは己のことのように嬉しかった。今後は学校では惚気合ったりしてそう。
ABコンビ:ひとりと有紗が付き合ったことに背中を押される形で交際を開始。新たな百合ップルの誕生は大変めでたい。