後藤ひとりは、現在混乱していた。有紗と一緒に行くことになった2泊3日の温泉旅行。出発して特急の中で駅弁を食べて、穏やかに雑談しながら景色を眺めてと楽しい移動で1時間半という時間もあっという間だった。
ここまではなにひとつ問題はない。しかし、宿の最寄り駅に着き駅の外に出た直後、目に飛び込んできたのは……駅前のロータリーに停車している黒塗りの高級車と、キッチリとスーツを着込んだ運転手らしき人物だった。
(……あ、あれだ!? 絶対アレって、私たちの迎えだ。有紗ちゃんが電車内で、宿から送迎が来るって言ってたし……けど、え? あ、あんな凄そうな車? 温泉宿に行くんだよね……高級ホテルに行くわけじゃないよね?)
明らかに異質な存在感を放つ高級車を見て、これから自分がどんな場所に運ばれるのかを想像すると恐ろしく、つい無意識に有紗の手を取ってしまう程度には混乱していた。
どうも割とひとりは不安になると有紗と手を繋ぐ癖が出来ているみたいである。もちろんそれを有紗が拒否するわけもなく、むしろ嬉しそうに微笑んで手を繋いだ状態で高級車の近くに移動する。
「時花です」
「ようこそお越しくださいました。本日の送迎を担当させていただきます――です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「お荷物はこちらへどうぞ」
運転手は綺麗な礼をしたあとで車の後部を開き、有紗とひとりの荷物を積み込んだのを確認してからドアを開ける。
ひとりと有紗が乗り込むとドアを閉じて運転席に移動して、エンジンをかける前に一声確認する。
「真っ直ぐに向かってもよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
「かしこまりました」
道中に買い物等に寄る必要が無いこと確認して車は発車する。車内でひとりは、ビクビクと周囲を見渡していた。高級さという意味では、何度も乗ったことがある有紗の送迎車の方が上ではある。
しかし、この車も並の車ではない。少なくともタクシーなどよりは広々していて座席にも高級感がある。
「……あっ、あの、ああ、有紗ちゃん? ほっ、本当に宿ってどんな……」
「政界の重鎮なども利用される宿ですね。私たちが今回宿泊する部屋は、通常の方法では予約できない部屋ですね」
「あばばば……」
ひとりも有紗が宿を用意する以上、高級宿であることは覚悟していた。それこそ、前回花火を鑑賞したホテルのスイートルーム程度の部屋が出てくることは想定していた。
だが、その予想すら遥かに上回る場所に辿り着きそうであった。
(有紗ちゃんはともかく、私は場違いすぎるのでは……ど、どんな場所だろ? 金ぴかに輝くお城みたいな場所とか……)
戦々恐々としていたひとりではあったが、直後に少し強めに手を握られる感触がして有紗の方を向いた。すると有紗は、優しく微笑みながら口を開く。
「大丈夫ですよ、ひとりさん。私が傍に居ますからね」
「……あっ……はい」
不思議なもので、そのたった一言で肩から力が抜けていく感覚がした。ひとりにとって有紗の存在は非常に大きく、彼女が傍に居てくれるというのは大きな安心をもたらしていた。
****
車でしばらく移動すると目的の宿に辿り着き、運転手によってドアが開かれる。宿の前には5人ほどの従業員らしき人たちが並んでおり、有紗とひとりが姿を現すと一斉に頭を下げる。
明らかなVIP待遇に再び気圧されるひとりではあったが、有紗の手を握ることでなんとか持ちこたえた。
「お荷物をお持ちいたします」
「あっ、ひゃい!」
言われるがままに荷物を渡しつつ、ひとりは目の前の宿を見る。明らかに高級感が凄い温泉宿であり、外観を見るだけでも凄い宿というのは伝わって来た。
しかし、この宿の部屋があのスイートルームを越えるのかと言われると、少々疑問に感じる部分もあった。
だが、そんな疑問はすぐに解消されることになる。従業員の案内によって宿の中を移動し……なぜか途中で庭らしき場所に出て、石畳を進んでいくと視線の先には大き目の建物が見えた。
「ひとりさん、あそこが私たちの泊まる部屋ですよ」
「あっ、え? いっ、いや、部屋というか……家では?」
「別邸ですね。あの建物……正確には、その手前の門から先が庭も含めて全て私たちの貸し切りという感じですね」
「……」
ひとりは理解した。なるほど絶句というのはこういう時に使う言葉なのかと……。有紗の言葉通りふたりが進む先には木造りの門があり、警備員らしき人も立っていた。そこを通過すると綺麗な建物があった。
普通の家といっても過言では無いサイズだが、あくまで宿としての部屋であり、中は空間を広めに使った部屋がいくつもあり、大きな窓などから絶景を眺めることもできた。
そして、門とは逆の庭の先にゆるい傾斜があり、その先にも小さな建物があった。
「あっ、有紗ちゃん、あの建物は?」
「温泉ですよ。脱衣所も内湯も露天風呂も含めて、全てこの部屋の利用者のみが使える施設ですね。あそこの露天風呂からは、富士山を見ることができて非常に評価が高いらしいですよ」
「はっ、はは……なな、なるほど……専用の温泉……もっ、もう凄すぎて、頭がショートしそうです」
答えつつもひとりは少し前の有紗との会話を思い出していた。政界の重鎮なども利用することがある宿ということで、有名人が利用することを前提として一般客と遭遇しないような構造になっているのだろう。
この別邸までも専用の通路で移動し、途中には門があって警備員もいる。有名人がお忍びなどで利用するのに適した場所という印象だった。
「ひとりさん、それなりに長旅でしたし、温泉街に行く前に少しお茶でも飲みながら、ゆっくりしましょうか?」
「あっ、そっ、そうですね。ゆっくりしたいです……本当に……」
「説明では、こちらの部屋からの景色が絶景らしいですよ」
「へっ、へぇ……あっ、す、凄い……本当に絶景」
有紗に手を引かれて移動した部屋は、畳作りの高級感ある和室であり、山の中腹付近にあるこの宿の利点を生かした見下ろしの景色になっており、雄大な箱根の山々を一望することができた。
部屋にはお茶菓子なども何種類も置いてあり、有紗はそれを軽く手に取りながらひとりに声をかける。
「お菓子もありますし、お茶を淹れて景色を見ながら食べましょうか? どれがいいですか?」
「あっ、えっと……温泉饅頭、食べたいです」
「では、温泉饅頭で」
温泉饅頭をいくつか取って窓の近くのテーブルの上に置いたあとで、有紗は手慣れた様子で備え付けの道具を使って緑茶を淹れて、同じようにテーブルに置いた。
「……あっ、あの、有紗ちゃん」
「はい?」
「こっ、こっちに座る感じじゃ……駄目ですかね? あっ、あの、いまはちょっとその、高級感に気圧されてて……あんまり離れたくないなぁって……」
「ふふ、分かりました。それじゃあ、こちらの席に並んで座りましょう」
「あっ、はい」
窓付近にはテーブルと向かい合う2席ずつ向かい合う形の座椅子があり、普通にふたりで利用するなら向かい合う形が定番だ。
しかし、桁外れの高級宿に気圧され気味のひとりとしては、有紗と手を繋いでいたいので衝動的にそんな発言をした。
(……いやいや、よくよく考えたら私はいったいなにを!? 離れたくないとか、へ、変なこと言っちゃった……有紗ちゃんは気にしてないみたいだからよかったけど……うぅ、恥ずかしい)
後になって己の発言の恥ずかしさに気付くというのはよくあることで、少し前の発言を気恥ずかしく感じて少し顔を赤くしつつ、ひとりは有紗と並んで座る。
「ひとりさん、宿の部屋はどうですか?」
「すっ、凄すぎます」
「サプライズは成功ですかね?」
「せっ、成功し過ぎて心臓が飛び出しそうでした。ほっ、本当に有紗ちゃんはもう……けっ、けど、落ち着いてくると広々としていい部屋ですね。景色も綺麗で……富士山も見えますし」
「気に入ってもらえたならよかったです。今日は天気がよくて、本当に富士山が綺麗に見えますね。この部屋からだと真正面では無いですが、それでも雄大ですね」
ふたり並んで窓の外の景色を眺めつつ言葉を交わす。有紗と手を繋いでいることもあって、ひとりも徐々に精神的に落ち浮いてきた様子だった。
「……あっ、けど、やっぱり、この高級感にジャージ姿はあまりにも不釣り合いな気がしますね」
「私はひとりさんらしくて、そのジャージ姿も好きですが?」
「あっ、有紗ちゃんは、すぐにそうやって恥ずかしいことを平気で……あっ、その……ありがとうございます」
「ふふ、ちなみに他の服も持ってきたりしたんですか?」
ひとりはいつも通りの桃色のジャージ姿である。不釣り合いといえば不釣り合いだが、基本的に一年中その恰好であることもあって、有紗としても見慣れているためにあまり違和感はなかった。
「……あっ、一応一着だけ念のために……持ってきました」
「そうなんですか? どこかで着るつもりで?」
「うっ、う~ん。あ、あくまで、必要になった時のための予備です」
そう答えるひとりだったが、なぜか頬は赤くなっており有紗は不思議そうに首を傾げていた。
(……い、言えない。旅行の準備をしている時にたまたま見つけて……有紗ちゃんが喜んでくれるかなぁとか考えて、気付いた時には鞄の中に入れてたとか……恥ずかしくて絶対に言えない)
そう、ひとりがジャージ以外の私服を持って来た理由は単純で、以前に虹夏たちが訪れた際に私服を着たときや、メイド服を着た時の有紗の嬉しそうな様子……用意をしている際にそれを思い出して、衝動的に私服を鞄の中に入れてしまっただけだった。
そしてその私服は例によって母親が選んだもので、白い上着に黒いロングスカートと清楚で甘めの服でありひとりの好みではない服だ。
(……ただ、ま、まぁ……有紗ちゃんが見たいなら……少しだけ、一瞬だけなら……着ても……いいかな?)
ある意味では自爆でもあったが、そんなことを考えて先ほどよりも顔を赤くしたひとりは、顔を左右に振ったあとで誤魔化すように温泉饅頭を食べ始めた。
時花有紗:ひとりとの旅行にはしゃいでいる様子で、いつもより少しテンションが高めな感じで幸せそう。
後藤ひとり:……お前、ぼっちちゃん……デレデレじゃないか。今回はほぼ最初から最後までずっと有紗と手を繋いでいちゃいちゃしていた。