高級温泉宿らしく、品数も多く豪華な和の朝食が並ぶ机の前で、ひとりは赤みの残る顔でため息を吐いた。
「……えっと、ひとりさん? 原因である私が言うのもなんですが、大丈夫ですか?」
「だっ、大丈夫です。おっ、思ったより延長が多かったので、ちょっと疲れただけです」
「申し訳ありません。つい、自制が効かずに……」
「あっ、でも、こうしてたまに有紗ちゃんが失敗してるところをみるのも、新鮮でちょっと嬉しいです。完璧そうに見えても、やっぱり有紗ちゃんも同じ人間だなぁ~って」
あと5分といってひとりを抱きしめていた有紗だったが、5分後にさらに5分が追加されるというのを繰り返した結果。30分ほどひとりを抱きしめていた。
不快感などは無かったが、やはり恥ずかしさによる気疲れはした……ただまぁ、いま口に出した通り、ひとりはたまにある有紗の暴走もそんなに嫌いではなかった。
普段は落ち着いていて、なんでもできる完璧超人のような有紗も自制が効かなかったりと失敗するところはあるのだと思うと少し安心できる上、基本的に有紗が暴走するのはひとり関連の時だけなので、それだけ己が有紗にとって特別な存在だと実感できるのは……嬉しかった。
「あっ、そっ、そういえば、今日は芦ノ湖で遊覧船に乗るんでしたっけ?」
「ええ、名称は海賊船ですが、遊覧船のようなものですよ」
「かっ、海賊船?」
「ええ、箱根の芦ノ湖には遊覧船と海賊船とふたつの船があります。遊覧船は本当に芦ノ湖周りの景色を楽しむ目的のシンプルなもので、海賊船はその名の通り、海賊の船をコンセプトにした遊覧船です。芦ノ湖の観光としてはかなり有名で、内装なども含めて拘り抜いた船とのことです」
「へっ、へぇ……それはちょっと、面白そうですね。海賊とか、そういうデザイン、結構好きですし」
ひとりは服なども含めて思春期の中学生が好むようなカッコよさが好きであり、海賊船というのも好みに合致していた。
少なくとも普通の遊覧船よりは確実に興味を惹かれていた。もちろん有紗は、そういったひとりの趣向を理解した上で海賊船を選んだのだが……。
「ちなみに往復券で予約していますが、湖の端の港から反対の港まで行って、一度降りて観光をする予定です。理由は単純で、港のすぐ近くにロープウェイ乗り場があるのでそちらを観光する予定だからですね」
「なっ、なるほど……」
「ザックリと私が立てている予定を説明すると……海賊船に乗って桃源台港に向かって、そこのレストランで芦ノ湖を見ながら昼食、ロープウェイを使って早雲山に向かって観光、戻って再び海賊船に乗って……時間があれば、元箱根港から九頭龍神社新宮へという形ですかね」
有紗は下調べもしてしっかり観光のコースも考えているが、それなりに時間には余裕を持って予定を組んでおり、ある程度柔軟に対応できる余裕はある。
その話を感心した様子で聞いていたひとりだが、ふとなにかを思いついた様子で口を開く。
「あっ、でも、早雲山は必要なら早めに切り上げましょう。あっ、有紗ちゃんが行きたがってる九頭龍神社へは、絶対に行けるようにしましょう!」
「……ありがとうございます。では、九頭龍神社新宮に行く前提で時間は考えますね」
「あっ、はい!」
ひとりにしてみれば、観光に関しては有紗に任せっきりであり、これといった意見は無かった。有紗と一緒に行けるならどこでも楽しいだろうという思いもあり、有紗のことも信頼しているため安心している。
ただ、有紗が行きたいと言っていた九頭龍神社にだけは絶対行きたい。有紗の希望を叶えてあげたいという思いが強いので、念押しするように神社へは絶対に行こうと口にしていた。
「とっ、ところで有紗ちゃん。その、新宮ってなんですか?」
「新宮というのは簡単に言えば本宮から神霊を分けて別の場所に新しく建てた神社のことですね。今宮や若宮という場合もあります」
「あっ、えっと……つまり、本来の九頭龍神社じゃなくて、支店みたいなものってことですか?」
「その捉え方で合っていますよ。九頭龍神社の本宮は遊覧船の港からですと少々アクセスが悪く、参拝する場合は月次祭と呼ばれる月に1回の行事以外だと、有料のモーターボートを利用する必要があるんです。対して新宮の方は箱根神社にあるので、元箱根港からバスで4分、徒歩でも15分ほどで行けるのでそちらの方がいいかと」
「なっ、なるほど……有紗ちゃんは物知りですね」
「たくさん調べましたので」
そう言って有紗は軽く苦笑する。そう、縁結びのスポットに関しては入念に調べているので、九頭龍神社にやけに詳しいのはそのおかげでもあった。
有紗としてはひとりと縁結びのパワースポットに行けるのは非常に喜ばしく、なんとか九頭龍神社に行く時間を作ろうと提案したひとりの気遣いも心から嬉しかった。
有紗はニコニコと嬉しそうな笑顔のままで、ひとりと共に今日の予定を話しながら朝食を楽しんだ。
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朝食を食べ終えたがまだ時間的には早く、出発予定の時間までは1時間ちょっとあったため、ふたりは昨日は使わなかった別邸の一室に移動していた。
「ここがレクリエーションルームですね」
「あっ、す、すごい。卓球にエアホッケーにビリアードに、いろいろありますね。流石超高級宿、設備が充実してます」
「出発の時間までまだ少々あるので、なにかで軽く遊んで時間を潰しましょうか」
「あっ、はい」
出発予定の時間までレクリエーションルームで遊ぶことにしたふたりは、なにで遊ぶかを相談していた。その際に有紗が卓球台を興味深そうに見ているのに気づいたひとりが口を開く。
「あっ、有紗ちゃんは卓球はやったことあるんですか?」
「いえ、それが、まったく経験がないんです。なので、少し興味がありますね」
「あっ、私も少し……小学生の時とかに家族で1回やったくらいです。でっ、でも、せっかくですし、やってみますか?」
「いいですね。では、やってみましょう」
卓球をやることに決まり、それぞれラケットを手に持つ。その際にひとりは有紗に気付かれないように小さく笑みを浮かべたあとで、ある提案をした。
「あっ、有紗ちゃん。私と有紗ちゃんは、そんなに実力に差はないと思うんです」
「そうですね。未経験と少しだけの経験なので、同じぐらいかもしれませんね」
「なっ、なので、せっかくですし……勝負、しませんか?」
「勝負ですか?」
「あっ、はい。10点先取で、負けた方が勝った方の言うことをひとつ聞くという感じで……あっ、でっ、でも、相手が嫌がるようなことは無しで」
ひとりからの珍しい提案に有紗は少し驚いたような表情を浮かべたが、特に断る理由もなく了承しようとしたのだが……そこで、ふとあることに気付いて口を開いた。
「構わないのですが、そう言い出すということはひとりさんは私になにかしてほしいことがあるのでしょうか?」
「え? あっ、いえ、特には……単に、友達とそういう賭けをして勝負するのに憧れてただけです」
「ああ、なるほど、確かに創作などでも定番の賭け事ですね」
事実として言葉通りひとりは特に勝ったとしても有紗にこれをさせようというような案は無かった。というか、そもそもの話、そんな権利など使わなくともひとりが頼めば有紗は大抵のことであれば応じてくれる。そしてそれは逆もしかりであり、ひとりも有紗が頼み込んでくれば大抵のことに応じるだろう。
なので、この賭けは実質大して意味はないものだった。
ともあれ有紗が了承したことでふたりは卓球での勝負を開始する。そして、この勝負を提案したひとりには、当然ではあるが勝算があった。
(ふ、ふふ、騙してごめん、有紗ちゃん。家族でやったのが1回だけっていうのは本当だけど、私はそれ以外にも中学校の授業で2回卓球を経験している。このアドバンテージは、そうそう覆せるものじゃない)
それでも計3回程度の経験であり、元々の運動神経も合いまって下手ではあるのだが、根が優しいためか若干の罪悪感を覚えつつひとりは、有利な勝負に挑む。
最初のサーブは有紗から……。
「えっと、たしかワンバウンドさせてから相手のコートに入れるんでしたね?」
「あっ、はい。そうです」
「では、行きます」
ルールを確認して球を打つ有紗だが、有紗の打ったピンポン玉は大きく跳ねてひとり側のコートに入ることなく床に落ちた。
「むっ、力加減が難しいですね」
「さっ、最初は仕方ないですよ」
さすがの有紗もまったくの未経験では狙った通りに打つことはできない様子で、2度目のサーブはギリギリひとりのコートに入ったが、チャンスボールでありひとりでも簡単に打ち返せた。そして、その球をさらに有紗が打ち返したのだが、大きくコートをオーバーした。
サーブ権がひとりに移り、ひとりはゆっくりとサーブを放つ。そのサーブも多少なりとも卓球ができる人にとってはチャンスボール以外のなにものでもないようなサーブだったが、有紗が打ち返した玉はネットに当たり、これでひとりが3点先取となった。
(す、凄い。私が有紗ちゃん相手にリードしてる……ま、まぁ、ズルしてるからだけど……さすがの有紗ちゃんでも、初めての卓球じゃどうしようもないみたいだね。ふへへ、でも、このまま圧勝すると可哀そうだし、5点ぐらい取ったら少し手加減しようかな……)
有紗に勝っているという状況は、ひとりにとって極めて珍しい事態であり、内心でかなりはしゃいでいた。経験上の有利ありきとはいえ、こと運動においてひとりが有紗を上回る機会など普通ならまずありえない。
だが、しかし……人の夢と書いて儚いと読む様に、ひとりが思い描いた圧勝劇が現実となることはなく、有紗が小さな声で呟いた。
「……なるほど、だいたい分かりました」
浮かれていたひとりはその呟きを聞き逃し、意気揚々と2本目のサーブを放つ……そして、ひとりのコートに閃光のようなリターンが突き刺さった。
「………………え?」
「少しコツが分かってきました。手首のスナップが重要なんですね!」
嬉しそうな笑顔で告げる有紗を、ひとりは呆然とした表情で眺める。
(え? いまの返球、滅茶苦茶速かったんだけど……ぐ、偶然だよね? たまたま、上手く返せただけだよね?)
少し血の気が引いていくのを感じつつ、ひとりはラケットを握りなおす。再びサーブ権が移って有紗のサーブ。有紗が放ったサーブは、やはり遅く大きくバウンドするチャンスボールだった。
(よっ、よし! 大丈夫……ここで取り返す!)
そのサーブに安心したひとりは、点差を3点に戻すべく力強いスイングで球を打ち返し――直後にまたも閃光のような早いリターンが、ひとり側のコート端に突き刺さった。
「…………はぇ?」
ギギギっと壊れたブリキ人形のような動きで首を動かし、ひとりは球が通過していった方向を見る。早く鋭い球だった。少なくとも、万全の状態で待ち構えていてもひとりが返球できないであろうレベルの……。
「ふむふむ、球の回転を調整することで方向や角度を変えられる。奥が深い競技ですね」
「……」
そもそも、である。根本的な話としてひとりの卓球の実力は低い。相手が同じぐらいの経験値を持っていれば、簡単に負けるレベルである。
あくまで3点先取は、有紗が完全に人生初の卓球であったからこその成果である。
しかし、残念なことに有紗は飛び抜けた天才であり、持ち前の運動神経や器用さも相まって、大抵のことは少しコツを掴むだけで人並み以上にこなせてしまう。
もちろんその道の一流となるには多くの練習が必要ではあるだろうが、人並み以上レベルにはすぐに到達してしまう程度には才能に溢れる存在である。
その結果がどうなるか……それは火を見るより明らかだった。
「……いっ、いい、イキって……すみません」
結局、ひとりは最初の3点以降、1点も取ることは出来ず3-10でボロ負けすることとなった。
時花有紗:ちょっとやれば何でもできるレベルの超人。ひょんなことで、ひとりに対する「1回の命令権」を獲得。まぁ、でも、別に使わなくても大体いうことは聞いてくれそう。
後藤ひとり:イキった結果わからせられた。例によって根はいい子なので、3回の経験を1回と偽っただけで結構罪悪感を覚えていた。まぁ、基礎スペック差により意味は無かったが……そもそも、最初から有紗はひとりの打った球には全て反応しており、力加減が分かってなかっただけである。