さよならより速く、私はあなたに逢いに行く 作:Werther
いつから、こんなにマニーに固執するようになったんだっけ。
遠く広がる青空がまぶしいので手をかざしながら、夏美は思った。ベンチに預けた背中が照らされた日光の分だけあたたかかった。
子供の頃、道端に落ちている百円がきらきらして仕方なかった時期が、あった。公園に遊びに行っても、両親に手を引かれて帰る時も、気がつけばアスファルトに光るものを探していたような気がする。
それはきっと家が貧乏だったからだけじゃない。その頃から夏美は、才能も夢も何も持っていなくて、せめてそれを拾うことで、未来へと何か繋がるような気がしたからだ。
どうしてなんだろう。
あの頃の自分は本気でそう思っていた。
だから、マニーが欲しかった。歳をとってから楽になると言ったのも、半分くらいは本当だった。
はぁ。
空気の抜けた風船みたいに肩を落とした夏美は、ため息を吐くと、今度は反対に思い切り空を見上げた。まぶしいくらい青い空は澄み渡っていて、夏美は少し気分が悪かった。
大学用のそんなに大きくないリュックは今傍らに置かれており、夏美の身体と合わせてベンチを綺麗に占領していた。でも、こんな大学のキャンバス内にある、無駄にたくさん設置されたベンチの一つを独占したくらいで、怒る人はいなかった。そもそも大学という場所のベンチという中途半端な場所を利用している人を、夏美はあまり見たことがなかった。風が吹いて、束の間の涼しさを味わう。
夏だった。
直射日光はアスファルトを溶かすとかいう信じ難いようなニュースでさえ、昨今はまことしやかに囁かれていた。
地球温暖化が世界を滅ぼすだのなんだのは十数年前から言われているが、ここ数年は、それを信じてしまいそうになるくらいには暑いな、と夏美は思っていた。風ばかり涼しくて気持ちが良くて、こうしていると溶けてしまいそうだった。このベンチは隠してくれない向こうの木漏れ日が、風のスピードで揺れる。
「はぁ……」
今度ははっきり声に出して言う。時間というものは滑らかで、でも決して過去には戻らない。ジェンガの終わり際みたいに、ただただ高く積み重なった記憶のその頂上に、片足で立っているような、そんな不安定な気分だった。
夏美はいくつもの木漏れ日がアスファルトに散らばるのを見ていた。
あの日から────
夏美は思う。
あの日から、私たちは過去に囚われたままに、なっていますの。
その日も今日みたいに蒸せ返るような暑い日だった。忘れることなんてできない、深い悲しみの記憶。
……悲しみ。
その記憶を一言で呼んでしまうには、それはあまりにも深くて痛ましかった。でも、ならなんと名前をつけるべきなのかは、夏美には未だに分からなかった。
夏美は目を閉じる。
こうして熱と風と涼しさだけ感じていると、いつだってあの日を鮮明に思い出せる。まるで今、目の前で起こったことのように。
何気ない日々に突然起きた、全てを変えてしまったあの夏の日を────
✳︎
「はい、じゃあ今日の練習はここまでね! お疲れ様っ!」
ぱんっと鳴った手のひらのその音が、雲ひとつない夏空に吸い込まれて消えていくので、気が抜けて、へたり込んでしまった。
「つ、疲れた、ですの……」
夏美が息を切らしながら言うと、隣で続け様に二人が地面に膝をついた。
「き、きな子もっす……」
「私もだ……また元気にしてるの四季だけかよ」
うぅ、だの、あー、だの言っているきな子とメイとなんとなく近寄りながら、夏美たちは健康的な陽の光を逃げ場なく浴びていた。
「…………」
四季が黙って見下ろしているのが、夏美には分かった。四季はもちろんだけれどメイを見つめていた。でも夏美には、今日の四季のその瞳はなぜか、いつものあたたかみがない気がした。
夏美はなんとなく気になって四季を見ていた。すると四季は目を逸らして向こうに歩いていって、日陰の自分の荷物から飲み物を出して飲んでいた。いつも通りの四季だった。今のはなんだったんだろう、と夏美は思う。
「うぅ……今日もハードだったっすね……」
後ろできな子が言った。
「夏休み前だからかな……いつもより千砂都先輩、気合い入ってたな……」
その横でメイも言った。なんとなく二人の声から、上を向いているんだろうな、と夏美は思った。上は、怖いくらいの青空だった。
そのまま夏美たちはその場で呼吸を整えていた。視界の隅ですみれが、その後を追ってかのんが、屋上の扉をくぐるのが見えた。風で声が流れてしまうので、誰が言う言葉も遠くまでは聞こえなかった。
「…………もう行こう」
ふと気がつくと、四季が夏美たちのところまで来ていた。落ちてくる声はとても淡々としていた。
「あぁ……なぁ、行こうぜ」
メイが立ち上がりながら言って、夏美たちを見た。四季とメイが夏空を背景に並んでいるとすごく映えるな、と夏美はぼんやり思った。
「はいっす! はぁ……なんかきな子、お腹空いちゃったっす」
きな子がぴょん、と立ち上がって言った。夏美もゆっくり立ち上がる。まだ慣れない練習量の多さに腰が悲鳴を上げるのが分かった。
誰ともなくみんなが歩き出すので、夏美もその賑やかさに包まれて続く。
「甘いものが食べたいっす〜夏美ちゃんいいとこ知ってないんすか〜……」
隣に並んだきな子が気怠げに言うので、夏美はため息を吐く。きな子は自分が心を許した相手に対してはとことん懐くタイプみたいで、夏美はその感じが嫌いじゃなかった。なんとなく自分だけ、四季やメイより距離感が近いような感じ。
「そういうのは私の専門じゃありませんの、もっと訊くのに適任な人が、ほら」
その人を見る。
「……呼ばれてるよ、メイ」
その人を見る。
「……ん? わ、私か⁉︎ そ、そんなの私もあんまり詳しくないぞ……」
夏美から四季、四季からメイへと会話はするすると回って、まとめるように自然な流れで、今度は後ろから声がした。
「じゃあみんなで竹下通り行かないっすか⁉︎ あそこならなんでもあるっすよ〜!」
夏美の隣で、きな子が言った。
その時、四季の後ろ姿がぴくりと震えた気がしたけど、気づいた時にはもう、やはりいつもの四季だった。
原宿。
まだ夕方というには早い時間のここは学校帰りらしい制服姿の女子たちが多く、その手にはカラフルなアイスやらクレープやらが握られていた。自撮り棒を掲げている人なんかもちらほらいて、それはこの場所が流行の最先端なのだと物語るようで、夏美はいつも立ち止まっては目で追ってしまいそうになる。
「にしても、千砂都先輩も粋なことしてくれるよな」
前を歩くメイが、振り向きながら言った。その隣を四季の後ろ姿が歩いている。
「夏美もそう思うですの〜、これでLiella!の新規生の日常風景盗撮計画が捗りますの〜」
「だから盗撮って言っちゃダメっす……」
夏美は原宿の女子たちに負けないように、大袈裟にインフルエンサーぶって言った。きな子はいつもみたいに夏美のツッコミをしてくれた。変わらない。いつも通りの日々。四季が前をゆらゆら歩いている。
「お、ここじゃないか」
そうしてしばらく歩いた先、メイが立ち止まり、言った。他のみんなもメイが見つけたお店の看板を見つめる。
「そうっす、ここっすね!」
「綺麗なお店ですの〜SNS映えが良さそうな……」
夏美は、やはりフォロワー数の増加こそが放課後の楽しみなのだと思い、目をきらきらさせていた。はっとすると、きな子にジト目で見つめられていた。
「もー、夏美ちゃんはそればっかりっす……」
「いーから、並ぼうぜ」
メイが言ってお店の前にできた列の最後尾に並ぶ。でも、一人足りなかった。
「…………? 四季さん、何してるんですの?」
夏美が振り返ると、店よりかなり歩いた先の道のど真ん中で、なぜか突っ立って真上を見上げている四季がいた。人混みに紛れて消えてしまいそうなその背中は、なんだかとても寂しそうで、やっぱり夏美は、今日の四季はどこかおかしいような気がした。
「四季ー! おーい! 何してんだよ」
夏美の後ろでメイが叫ぶ。
店先にいるだけで、果物と砂糖とチョコレートの混ざった甘い匂いがしてきた。生地を焼いているらしい香ばしい匂いも。
四季が振り向いて、思い出したようにそっと笑った。その口が何か言ったけど、夏美たちには当然それは聞こえなかった。
「いい匂いっすね〜、メイちゃん流石っす〜」
「わ、私はたまたま見つけただけなんだけど……」
「またまた、そんなこと言ってますの〜」
「…………」
「お前らなぁ……」
夏美たちが褒め称えるので赤面したメイが睨みつけてくるけれど、夏美は怖くもなんともなかった。
ここ、行かないか?
詳しくないなどと言っておきながら、メイが差し出したスマホの画面には、スフレパンケーキや色とりどりのクレープが映っていた。それも、きな子の行こうと言った竹下通りにあるお店だった。みんなはそんなやさしいメイのことが、大好きだった。
列に並んでる間も、陽射しはじりじり照りつけ肌を焼いた。人混みの中だからか余計に暑く感じるし、夏美は少し目眩を覚えた。それに日焼けもあまりしたくなかった。見上げた空が高い建物たちに切り取られて影絵みたいに浮いていた。
ほどなくして夏美たちの番になり、それぞれ注文をした。きな子と夏美が先に、メイがその後、なぜかぼうっとしている四季を引っ張って一緒に注文していた。
また少し、待つ。
数分後、夏美たちの手にはそれぞれふかふかでふわふわのクレープが握られていた。夏美はこれぞ青春の醍醐味! と思って自撮り棒を構える。
「みんなで写真撮るですの! はいっ、チーズ!」
夏美がそう言って、数秒後に自動でシャッターが切られた。
「美味しそうっす〜、贅沢な放課後っすね〜」
きな子がクレープをくるくる回して感嘆のため息を漏らしていた。
「…………」
みんなの前だから興奮しているのを必死に抑えてはいるんだけれど、口許の緩みを隠しきれていないメイがクレープを見つめていた。メイのこういう素直なところに、四季は惚れたのだろうな、と夏美は密かに思った。
メイのクレープはブルーベリークレープで、きな子のはストロベリー、夏美のは抹茶、四季はメイの頼んだモンブランクレープを手に持っていた。
夏美たちはクレープ片手に、街を見て回った。この街は店の中に入らなくても、建物やショウウィンドウを見ているだけでも、というか、みんなとお喋りをしているだけでも楽しくていくらでも時間が過ごせた。
歩行者専用道路の両脇にある建物たちを見ていったのだけれど、やがてそれは途切れて車の多く行き交う大通りに出た。夏美ときな子はその頃にはもう、クレープは食べ終わっていた。
「普段この辺までだから、今日もうちょっと向こうまで行ってみないか」
メイが向かいの通りを指差しながら、夏美たちを振り向いて言った。四季が、さっきから何も言わなかった。夏美にはなんだかそれが気掛かりというか、不安だった。なんとなく何か、よくないことが起こりそうな気がした。
「きな子も行きたいっす! 四季ちゃんも夏美ちゃんもいいっすよね?」
メイときな子の視線に夏美は首を縦に振るのだけれど、四季はやっぱり何も言わなかった。夏美は四季の脇を小突いて「ほら、返事」と言った。四季はようやくこくりと頷く。
それから夏美たちは信号を待った。向かいの信号機の赤い点滅が上から減っていく。夏美はやっぱり気になって、振り向いて声をかける。
「ねぇ、四季ちゃん、なんだか今日────」
ピリリリリリリリリ!
甲高いアラーム音が鳴った。何かと思って音のした方を見ると、メイの手に持たれたスマホから音は鳴っていた。メイは慌てた様子でそれを止めると、ふぅ、と軽く息を吐く。
「おっかしいなぁ、こんな時間にアラームなんてセットしてないはずなのに……」
メイは言うとスマホをポケットにしまった。
でも、夏美が驚いたのは、その突然の爆音ではなかった。四季の身体が、びくり、と震え上がるように持ち上がったから。そういえば、今日今までずっと、四季は下ばかり向いていたことに夏美は今さら気づいた。
「あ、信号もう変わるっすよ」
きな子が言うので、夏美もはっとする。向こうの道の先は、行き交う車たちでよく見えなかったけれど、ここにいたら何か嫌な感じがするような気が、夏美にはしていた。それで、あ! と大声を上げる。みんなに見られているのが分かった。
「あっちに何やら美味しそうなお店がありますの〜突撃してフォロワー数を伸ばすチャンスですの〜!」
それを聞いたきな子も顔を綻ばせた。
待ち切れないというようにきな子と夏美で先頭に立って、四季とメイを振り向く。でも四季は、全然笑っていなかった。
信号が変わる。早足で歩いていくきな子が危なっかしくて、夏美は追いかける。後ろでメイがおい、こけんなよ、と言うのが聞こえた。なんだかメイは時々保護者みたいに思える時があった。
そう、やさしい気持ちで思った瞬間だった。
絶叫。
絶叫だった。最初なんの音か分からなかった。
本能的に、振り向いた。
そしてそれを見た。
一瞬だったと、思う。
横断歩道を渡っていた人は蜘蛛の子を散らしたように逃げて行った。
何かと思って人の叫び声の向かう先を見てみると、大型トラックが逆走して突っ込んでくるところだった。その先には、四季とメイがいた。
トラックの大きさと速度的に、それはもう逃げても間に合わないと夏美は直感で分かってしまった。
四季は動かなかった。メイが何か叫んでいた。きな子が叫んでいた。知らない人が叫んでいた。みんな叫んでいた。身体中が暑くて、地獄みたいだと思った。色とりどりの悲鳴がエンジン音で切り裂かれていく。
夏美にはよく分からない。その瞬間のことを、どう表現していいのか。
メイが四季を思い切り突き飛ばしたのと、トラックがメイを呑み込むように過ぎたのと、綺麗な放物線を描いてメイが吹っ飛ばされるのが、スローモーションのように一瞬に見えた。
そして、りんごやなしを潰した時のような、ぐしゃりとも、ごしゃりとも言えない音がここからでもはっきり聞こえた。
トラックは数十メートル進んでから動くのをやめた。その通った地面には片方だけタイヤ痕がついていた。それは真っ赤な色で、それが何から出た色なのかは、夏美たちからはよく見えた。よく、見えてしまった。
血。赤。水。
ぐちゃぐちゃ、という言葉では足りなかった。夏美はその時、言葉とか気持ちになる前に本能で拒絶する感覚を初めて知った。
向かいの道路のトラックの少し前、頭から落ちたメイの頭部は半分以上ひしゃげて、そこから見たこともないような、異生物みたいなぐにゃぐにゃの何かが飛び出ていた。夏美がそれを言葉にすることは、脳が拒んだ。
静まり返っていたと思ったのに、一人が叫び出したのを皮切りに、人は皆また叫び始めた。
炎天下、トラック、直射日光、絶叫。
眩暈のする頭の端で、人間は頭が重いので飛んだりすると頭から落ちて死ぬことが多いらしい、というネットで聞き齧りの知識を夏美はなぜか冷静に思い出していた。
「あ……う……あ……」
後ろできな子が、立ったまま声にもならない声を口から漏らしていた。何かを指さそうと人差し指を立てているようだったけれど、その手は震えるばかりで、どこに向かうこともできていなかった。
人は皆逃げていくけれど、中にはトラックまで近づいて、何かを叫んでいる人もいた。夢を見ているみたいだった。それか地獄にいるみたいだった。あまりに暑い夏のなか。
夏美はメイから目を背けた。そっちで呆然として叫び声ひとつあげずに純粋に絶望しているような顔の四季。その足もとに、さっき買って全然食べていなかったクレープが逆さにひしゃげて、茶色いクリームが耐えきれず溢れていた。
夏美はそれで、はっきりと吐き気を感じた。
きな子が後ろで呆然とそれを見ているような気がした。世界中が喧騒に巻き込まれていく中、夏美はそこでうずくまった。メイのへんな方向に曲がった頭と飛び出たものの質感が脳にこびりついて離れてくれなかった。
「おい、救急車! あと警察も! 早く!」
「もう助からなくないあの子……?」
「こりゃ騒ぎになるな……」
好き放題言う人々の隙間で、トラックの運転手が取り押さえられるところだった。警察が来る音がした。凄い勢いで辺りが閉鎖されていく。
その白昼夢みたいな世界のど真ん中で、四季がふと、立ち上がった。
その両腕は力無くだらんと垂れていて、右往左往する人だかりの中でただ揺るぎなく立っていた。夏美は何故だか目が離せずに、わずかに唇を開いる四季をじっと見ていた。そしてその唇が微かに動いた。なんと言ったか、今度は夏美にも聞こえた気がした。でも夏美には、見間違いだろうと思った。だって、本当に意味不明だったのだから。
────『助ける』なんて
✳︎
搬送先の病院まで、夏美はきな子と四季と一緒に行った。乗ったのは救急車じゃなくて、パトカーだった。パトカーは後部座席に夏美はきな子と、四季は一人でそれぞれ分かれて乗った。なんだか車内は嗅いだことのないような匂いがしていて、それが非日常感をより煽った。きな子は俯いたまま、何も喋らなかった。当たり前だと思う。
そして病院に着くと、そこの駐車場の車内で状況説明を求められた。
「辛かったら言わなくてもいい、言えたらでいいからね、落ち着いて……」
物腰の柔らかいおじさんの警察官がそう言ってくれた。きな子が何か言おうとしたけど、母音が細切れに漏れるだけで言葉は一つも出なかった。
「……私が、説明しますの」
それで夏美はちょっと落ち着いて、言葉が喋れるようになった。自分より混乱してる人が隣にいると落ち着くというのも聞き齧ったネットの知識だけど本当なのだな、と夏美は思って、自分がなんだかつめたい人間のように思えた。
だって、メイが死んでいるのに、夏美はもう落ち着いてしまっている。
これならマニーより人らしい心が欲しかったな、と夏美はこっそり自嘲する。
搬送先の病院でメイの死亡を改めて言われた時も、夏美はだから、そんなにショックを受けないはずだった。あれだけ脳漿が四方に炸裂していて、生きてる方がおかしい。
夏美はきな子と四季と病院の廊下で並んで座って待った。白いフローリングでずっと続いている廊下は音もなく、長く奥まで続いていて、気持ちが悪かった。天井の照明も白々しく明るくて、照らし出される夏美たちはまるで人目に晒された骨格標本みたいだった。
やがて医師らしき人が警察官と一緒に出てきた。そこで、メイが死んだことを改めて口にされた。
泣かないと思っていた。
分かっているはずだった。
なのに、気がつくと泣いていた。きな子も、泣いていた。それで、なんだか張り詰めていた糸がぷつんと切れてしまったようで、夏美は信じられないくらい、声を上げて泣いた。
びょおびょお泣く情けない声は、廊下中にありえないくらいこだまして、めちゃくちゃに重なって聞こえた。
単語をいくつも割ったように、切れ切れにしか聞こえない言葉の中で、時々「メイちゃん」というフレーズだけ耳に残った。
「保護者に連絡をしたから今日は送ってもらって帰りなさい」
しばらくしてから────しばらくがどれくらいか夏美には分からなかった────警察官は言った。
きな子は両親が北海道なので、夏美の両親の車で送ってもらうことになった。
夏美は立ち上がり、きな子に手を差し伸べる。四季を一人で残していくのが心配だった。四季は一人、少し離れた細長い薄緑の固そうなクッションの椅子に座っていた。
廊下を歩くと、見知った顔と姿形の男の人がいた。夏美は安心して、ゆらゆらと歩いて行ってその人に抱きつく。
「辛かったな……さぁ帰ろう」
夏美の父親は熊みたいな人で、触れるといつもあたたかかった。夏美はこんな時だからこその、そのぬくもりを大切に思った。
「きな子ちゃん、だったかな……君は、一人暮らしなのかい」
夏美を抱き留めてくれながら、夏美の父は後ろにいるきな子に言う。
「は、はい……」
「……きな子ちゃんは今日ウチに泊まっていきなさい、一人だと、辛いだろう……夏美も」
父の言葉に、夏美はびっくりして、でも確かにそれが必然的な気がして、心から安堵したような気がした。
病院の廊下はつめたくどこまでも続いていた。夏美はきな子と後部座席に乗り込んで、シートベルトをしなかった。
息を吸うと、安心する我が家の車の変な匂いで、夏美は心の底から安心した。
まだしゃくり上げるきな子の隣で、夏美は窓の外を過ぎていく街を、遠い空想の都市のように感じていた。
その日、家に着いても夏美ときな子はほとんど会話をしなかった。きな子が先にお風呂に入り、その後に夏美が入った。きな子の入った後のお風呂は、不思議な匂いがした。お湯が肌に絡みつく感覚が気持ち悪くて、わずかな不快感は脳裏にさっきの光景をフラッシュバックさせた。夏美はその度に、襲いかかってくる吐き気を必死に堪えた。
夏美が部屋に戻ると、きな子はその真ん中で脚をぺたんと地面につけて窓の方を向いていた。ドライヤーを渡したはずなのに、その長い髪は背中を包むようにきらきらと照明に光っていた。
よく見れば、きな子のすぐ前の床にドライヤーが転がっていた。夏美はそれだけで途方もなく悲しい気持ちになる。ゆっくり、近づく。
「……きな子」
名前を呼ばれたきな子の肩がびくりと震えたのが分かった。夏美はその顔を見てあげないようにしながら、ドライヤーを手に取った。
「髪、乾かしてあげますの」
夏美はそう言ってきな子の後ろに回り込んだ。ゴテゴテした部屋の、自分好みの人形やクッションがなんだか今はひどく浮いている感じがした。
たまらなくて、ドライヤーをつけた。
辺りの静寂を上書きする風の音は、しかし生活として正しいものだったので、夏美は正当な言い訳を得られて安心して、ゆっくりときな子の髪を梳いていった。ドライヤーの熱があたたかくていけなかった。
きな子の髪は長いので、乾かすのには時間がかかってよかった。それでも、全てふんわりとあたたかくなってしまうと、夏美は仕方なくドライヤーを切った。
突然、気持ち悪いくらい静かになった。耳が痛くなるくらい、けたたましい静寂が辺りに満ちていた。
「…………」
これからどうすればいいのか、夏美には分からなかった。きっときな子も、そうだったと思う。二人は何も言わずに────ううん、きっと言えずに────部屋の真ん中でじっとしていた。
どれくらいの時間が経っただろう。
夏美は思い切って立ち上がると、普段用事のないふすまを開けて、布団を取り出した。
「ほら、そこどけるですの」
夏美が言うと、きな子はうんともすんとも言わなかったけれど、部屋の隅に退いてくれた。夏美は手早く布団を敷いていく。
「今日は、もう寝ましょう」
夏美にはそれだけしか言えなかった。慰めの言葉とか、それかいっそもう一度泣くとか、どれも違う気がした。全てがちぐはぐなまま編まれた、穴だらけの布の上。そのかろうじて安全な部分で、自分の身体の重みに耐えているような、そんな気分だった。
きな子はそろそろと、夏美の敷いたベッドの上までやってきた。夏美はその時も、きな子の顔を見る勇気がなかった。
「電気、消しますわよ」
きな子が頷いたような気がしたので、夏美は電気を消した。そのままベッドに滑り込む。なんだかシーツがいつもより冷ややかな気がした。自分の呼吸音が耳について、胸が一定のリズムを刻んで拍動することが生きているので死ぬことを思わせた。血。血。血。アスファルトの上に巻き散らかされたべちゃべちゃの脳漿。
「うっ…………」
夏美は明確にその光景を思い出して吐きそうになる。出そうと思えば出せたかもしれないくらい、喉元まで酸味が込み上げてきていた。
暗い部屋、静かだった。夏美は、自分の生きている証の音と熱のその全てが''死''というものを想起させるので、逃げ場なく壁際を向いて自分の身体をぎゅっと抱いていた。一秒一秒の重みに耐えかねて、身体中が悲鳴を上げていた。
「…………夏美ちゃん」
だから、気がついた時には、そうなっていた。
「え……」
夏美の首と胸の間くらいに、何かあたたかいものが回されていた。それがきな子の腕だと気がつくまでに、どのくらい時間がかかったかは、夏美にはよく分からなかった。
「きな子……」
夏美は無抵抗に抱かれていた。
「このまま……」
「え」
すぐ首の後ろできな子の声がしてくすぐったかった。
「このまま、近くにいさせて、欲しいっす……」
その声が泣いていることになんて、気がつかないはずもなかった。夏美は不恰好に、首元のきな子の腕に指を引っかけた。わずかに抱きしめられる力が強くなって、その切なさが夏美の胸を灼いた。
そのまま、夏美は背中越しに感じるきな子のとくとくいうぬるいリズムと自分のそれが混ざって、境界線が曖昧になっていくのを感じていた。
✳︎
きな子はそれからもしばらく夏美の家から帰らなかった。学校が夏休みだったのもあり、着替えさえあれば生活できた。部活のグループは、誰も何も言わなかった。でもその沈黙は、誰も現実を受け止められていない何よりの証拠であるような気がして、夏美には見るのもしんどかった。
『Liella!(9)』
スマホに映し出されたその変わらない数字を見るだけで、夏美の脳裏にはいくらでもあの炎天下の悪夢がまざまざと蘇ってきた。夏休みの練習はどうなったんだろう、とふと夏美は思った。
きな子とはあまり喋らなかった。でも四六時中一緒に行動するようになった。離れているのはお手洗いとお風呂くらいのもので、後の時間は一緒にいた。ただ触れ合うことはあまりせず、傍にいるだけだった。でもそうしないと夏美たちは自分が壊れてしまうことを、なんとなく知っていた。夏美の両親もきな子がずっといることについては何も言わなかった。あの日に夏美の父が言ってくれた通りに、きな子と一緒にいさせてくれた。
夏美はきな子との歪な夏休みを過ごした。きな子は半ば廃人のようにずっと体育座りで俯いていて、何かを思い出したように時々叫び出したりした。夏美はその度に傍に行って抱きしめてあげた。きな子が落ち着くまでいつまでも、いつまでも。
日中はせめて夕飯の買い物に行ったりした。普段生活している場所からなるべく遠くにいたかった。
その年の八月は本当に暑かった。毎年最高気温というものは過去最高を記録するのがお決まりらしい。テレビから絞ったボリュウムで流れる夕方のニュース番組を見ながら、父と母の向かいできな子と並んで冷奴を箸で切っては口に運ぶ、お通夜みたいな食卓が夏美には一番苦痛だった。
雨。
ある日、雨が降ると、外に出る理由が無くなるので部屋の中でじっとしていた。でもじっとしているのも苦痛だった。夏美はパソコンの前に座り、でもその画面ではデスクトップの待機画面が映っているばかりで、きな子は部屋の隅でいつも通りうずくまっていた。
「きな子」
久しぶりに名前を呼んだ気がした。初夏のつめたい雨に濡れないものが、ボロ臭い鬼塚商店の二階に二人分、静かに灯っていた。
「これ、聴いてみるですの」
夏美は言いながら、小さなゲーミングチェアを降りて、きな子の傍に腰を下ろす。そして、無線のヘッドフォンをきな子に手渡す。
「…………なんっすか」
きな子はその手に持たされたそれを見て、無気力そうに怪訝な声を出して夏美を見た。
「いいから、聴いてみるですの」
夏美は言って、きな子にそれをつけるように促した。渋々といった様子できな子はそれをつける。
夏美はパソコンのモニターの前まで戻って、マウスを動かして、画面に映る三角形のボタンをクリックする。夏美にはそれがちゃんと流れ始めたのか、分からなかった。
振り向いて、きな子を見つめる。きな子はじっとしていて、開いたままの窓から、はたはたという雨音ばかりが部屋に流れ込んできていた。呼吸するのさえ躊躇われるような、辺りは雨音に満たされてそんな気配だった。
夏美はなぜか、あんなに凄惨な事件から始まったきな子との今のこの関係が、なぜだかとても懐かしく思えた。どうして懐かしい、と思ったのかは分からなかったけど、この気持ちは確かに懐かしさだった。雨、ヘッドフォン、八月。
夏美はきな子の隣にもう一度腰を下ろす。室内用の音漏れを気にせずに選んだそれから漏れる細切れのシンセサイザーの音が、夏美の耳の一つ手前で雨音と同化して飛び込んできた。
きな子は膝に顔を埋めてそれを聴いていた。夏美にそれは聞こえなかった。きな子がちゃんと聴こえているか、夏美は訊こうとも思わなかった。
静かな時が水のように流れていた。
「…………いい歌っすね」
ヘッドフォンを外しながら、きな子が言った。そう言うまで、何分経ったのか夏美にはよく分からなかった。
「なんて歌なんすか」
きな子が続けて聞く。それは会話というより、重なり合った独り言みたいな感じだった。
「きみも悪い人でよかった……という曲ですの」
夏美は静かに言った。ヘッドフォンからは夏美の好きな全然違うジャンルの曲が流れ始めていた。
「…………そう、っすか」
そう言ったきな子の声が、雨のように聞こえたのは、でも夏美の思い違いでもなんでもなかった。
「────っ⁉︎」
きな子は、泣いていた。ぼろぼろぼろぼろ透明な涙を流していて、その顔は悲しみというより、やるせ無さみたいなものが滲んでいるように夏美には思えた。
「夏美ちゃん」
「……きな子」
夏美は、ごく当たり前にきな子を抱きしめていた。肩がじんわりと濡れて、そういえばきな子が涙を見せるのはあの日以来だな、と気づく。
音楽は時として人と人の心を結ぶことがある。
夏美はそれをこの部活で、あの人に、教えてもらった。歌の素晴らしさ、その先にある、尊い感情。
思うと、夏美の視界は歪んでいた。あれ、と思った時には、夏美はもう泣いていた。涙が溢れて止まらなかった。心に穴が空いたように、そこから無力感がとめどなく溢れてきた。
メイが、死んでしまった。
私たちの友達のメイが、死んでしまった。
ようやく状況が飲み込めてきた。堪えていたものが堰を切って溢れてしまって、そのまま夏美たちはいつまでも互いの涙雨に濡れていた。
それからきな子は少しずつだけど喋るようになってきた。一日の大半を、夏美と音楽を聴いて過ごした。夏美の作っていたプレイリストやストックしていたエルチューブ用のネタ動画なんかを端から見ていった。
そんな日々が続いた。何かがおかしいような、何もおかしくないような、平和すぎて狂ってしまいそうに当たり前が続いた。
ある日、夏美はお手洗いに行った時にふと、思った。狭い木造のトイレの中、自分達は、ひとりぼっちではない、と。そしてきっと今一番苦しんでいる人がいることに、気がつかないふりをしていたことにも。
気づいてしまっては、夏美にはもう放っておけなかった。スマホを取り出して、メッセージアプリを開いて、下の方に流れていたその人とのメッセージを開く。あの日から一度も連絡をしていなくて、だからそこにはあの日以前の日常の気配がそのまま残っていて、痛ましかった。フリック入力で素早く、思うがままに文字を打つ。
『大丈夫、ですか』
違う、削除
『ご飯は食べてますか』
これも違う、削除
『元気に、してますか』
元気なわけないじゃない、馬鹿なのですか私は。
結局、当たり障りない言葉さえ送れなくて、通話ボタンさえ押せずに、スマホを暗くした。
きな子の傍にいるだけで、今の夏美には精一杯だった。
「四季ちゃん……あなたは、今どうしてますの」
トイレの木目のついた扉に額を押しつけて、夏美は呟いた。
今年の夏は狂ったように蝉が鳴いていた。
吐きそうなくらい晴れた空が、その日もおもてで澄み渡っていた。
ジィ。
後ろについていた小さな窓に、蝉が一匹ぶつかって、落っこちていった。
✳︎
制服の袖を通すのは、なんだか数年ぶりな気がした。
快晴、学生鞄、通学路、など。
全て当たり前みたいな顔をして夏美たちの前に開かれていたけど、それはどこか隔てられたもののようにしか感じられなかった。
始業式には行かなかった。
二週間くらいこの日々を壊さないように粘ってから、でも行かなくてはいけないと思って、行った。
夏美はきな子と並んで、九月とはいえまだまだ暑い夏空の下を歩いた。地獄で閻魔様の前に出て行く罪人みたいな気持ちだった。
昇降口、階段、廊下、越えて。
「────っ⁉︎」
そして言い訳がましく後ろから入った教室で、それを見た。
入って一番すぐの机に、白い花瓶に赤い花が三本生けられていた。
メイの席だった。
夏美は愕然として、その場に立ち竦む。きな子も後ろで、じっとしているみたいだった。
その先に、青い髪の、赤いピアスの人が見えた。あ、来ているんだ、と思った。夏美はその人に話しかけたかった。
でももう、ここにある全てが取り返しのつかないことが起こったと、物語っていた。何気ない真実に夏美たちは何度でも心をズタズタにされた。現実はあまりにも耐え難かった。
「四季、ちゃん……」
夏美がこぼすと、その人は緩慢な動作で振り向いて、夏美を見た。その瞳はもっときらきらしていたはずなのに、その時夏美が見たのは擦り切れてくすんだ赤黒い瞳だった。
「構わないで」
四季は短くそう言った。その言葉は有無を言わせぬ響きを含んでいて、夏美はびくっとした。強い拒絶だったからじゃない。その言い方が、四季らしからぬものだったから。
「あ、あの……っ」
「夏美ちゃん」
振り向くと、きな子がその瞳を潤ませて夏美を見ていた。きな子の言いたいことが、夏美には痛いほど分かった。そしてそれを受け入れるべきだということも。
「……行きましょう」
四季の後ろを抜けて、夏美はきな子を連れて席に着いた。教室中に澱んだ空気が満ちている気がした。
それ以来、夏美は四季とは全く喋らないことになる。
残暑と言うには暑すぎる夏だった。
悲しみばかり鮮やかな夏。
夕暮れが暮れてくれない、血まみれの世界。
それ以来、夏美は夏が苦手になった。
✳︎
日々は淡々と進んでいった。
そこにいたはずの人が一人いなくなっても、そこは初めから穴が空いていただけみたいに、みんな避けて通っていくだけだった。そのうち花をかえる人も誰か分からなくなって、萎れた花が飾られているのが、何もないより悲しかった。本当に大事なのは花をかえる人であることを、誰も言おうとしなかった。
部活には、行きたい人だけが行っているような状態だった。夏美はきな子と一緒にいたので、誰が出ているのかは知らなかった。けど、四季も行っていないのはなんとなく同じクラスにいれば分かったので、必然的に先輩方が行っているのだと夏美には分かった。
きな子は冬には少し元気になってきて、自分の家で暮らすようになった。夏美の部屋はいきなりがらんとして淋しいだけの空っぽになった。
四季は学校にこそ来ているものの、心ここに在らずといった感じで、ずっとどこか別の世界を見ているみたいだった。夏美には声をかけることができなかった。
季節は飛ぶように巡っていった。同じようであるのに、何もかも違う春がきた。夏風が頬を滑り、秋惜しむまま世界は冬に落ちた。
「音楽大学、行こうと思うんっす」
「え?」
だからそう言われた時は、一瞬何のことだか分からなかった。
「かのん先輩の行ってるところとは違うとこなんすけど……」
きな子は照れ臭そうに言った。帰り道の公園で、寒空の下、背もたれのないベンチに詰めて座っていた。
「きな子、やっぱり歌が好きなんっす……その気持ちに気づかせてくれた夏美ちゃんには、感謝してるっす」
きな子が言うことを、夏美はぼんやり聞いていた。そうか、もう、そんな決断をしないといけない時期だったんだな、と。本当に心が弱いのはきな子じゃなくて、一年以上が経ってもまだうじうじしてる自分の方かもしれない、と夏美は思った。
「そう……ですの」
「……夏美ちゃんは、進路、どうするんすか」
きな子に訊かれてようやくはっとする。
進路。
誰しもの前に等しく開かれた、一方通行の時の流れ。山から海に流れ出る水たちのように、何があっても戻れない。
夏美にもその時が迫っているのだった。白紙の進路希望書を提出するのも、もう言い訳は時効らしかった。
「……きな子」
「はい……? なんっすか?」
裸の枝を伸ばした木の向こうが夕陽を隠そうとしてくれていたのに、隠しきれていなかった。
「大学受かったら、一緒に暮らしませんか……ちょっと離れてもいいから、二人で住める場所探して」
夏美が言うと、遠くからザァ、と何かを攫うような音がした。木枯らしと呼べばいい季節だった。
黙ってしまったきな子を、夏美はたまらず見つめる。そして、息が詰まった。
きな子に泣きそうなほどやさしい顔で見つめられていたから。夏美は胸がぎゅっと締めつけられる。
「……はいっす! よろしくね、夏美ちゃん」
そう言うきな子に対して、なんだかこの人とは長い付き合いになりそうな、そんな気がした。
冬が始まっていた。
でも進路をどうするかについては、夏美は、どうしても言うことができなかった。
✳︎
そうしてまた季節は巡り、夏美たちの生活スタイルはそれぞれがらりと変わった。
きな子は都内のそこそこ名の知れた音大の声楽科へ入った。夏美は都内でもあまり知られてない大学の理工学部に進学した。理系の勉強より現代文とか、文系の方が好きだったけれど、今を生き抜く為にはやはり理系だと思った。物理や化学はある程度一年生の頃から意識して学んでいたので、それが功を奏した。文系の勉強が社会に出てなんの役にも立たないことは、ネットの聞き齧りの知識でなんとなく知っていた。
家は原宿からだと電車で四十分くらいの、やや離れた場所に借りた。家賃の割に綺麗な二階建てアパートの一階の角部屋は、ちょっと築年数が古い代わりに部屋が二つもあってそこそこ広かった。
夏美はきな子と二人でそこそこネットの評判が良い賃貸住宅センターを訪ねて、その家の資料を見せられた。きな子と顔を見合わせて「内見させてください」と頼んだけれど、しなくてもここに決まっていた。夏美たちの思い描く二人暮らしというものに、本当に適した物件だった。
「ねぇ、夏美ちゃん」
「なん、ですのっ……」
引越し代を渋って父に無理を言って出してもらったトラックから荷物を降ろしながら、きな子が声をかけてきた。夏美は手にぎりぎりの重さの段ボールを抱えていたので、そっちは見ずに返事をする。
「きな子、ほんとは実家帰ろうか迷ってたっす」
「え?」
思わず持っていた段ボールを落としそうになるのを、すんでのところで堪える。
「でも夏美ちゃんがいてくれたから、夢を諦めずに今もここにいられるっす」
きな子が空っぽのカラーボックスを抱き抱えながら、隣を過ぎていった。
「だからきな子は、嬉しいんす。夏美ちゃんと……ここに来られて」
振り向いたきな子が言った。夏美はそれを綺麗だと思って見ていた。
やわらかい風が吹いて、二人の隙間をとめどなくあたためていった。耐えきれなくて手を伸ばそうとして、自分が荷物をいっぱい抱えたままなことに、夏美は気がつく。
「……夏美も、ですの」
夏美が訳もない罪悪感を覚えるようになったのも、この頃だった。
春はなかなか消えてくれなかった。
その夏も、だから春に晒されたままのような夏だった。
吐きそうなほど晴れた空だけが記憶に刻み込まれていった。
それでも上書きされないあの日を、夏美は思っていた。
それからも日々は早かった。
夏美は大学ではプログラミングを学んでエンジニアやFXでお金を儲けようと思っていたから、単位はしっかり取った。研究室に挨拶に行っておくと三年次の研究所編入がいいところになるという噂を聞いて、その通りにした。でももう三ヶ月も経つのに、理系の勉強は慣れなかった。
きな子も声楽科で頑張っているらしかった。
ある日、夏美が帰ってくると、リビングのラグマットの上で涎を垂らしてきな子が寝ていた。その近くに置いてあったノートを何気なく開いてみて、夏美は驚いた。
全然何が書いてあるのか分からなかったのだ。五線譜に似たような和音が書かれていて、そこにいくつも注釈がしてあったり、赤線が引いてあったり、した。きな子はこんなことを毎日しているのか、と夏美はそのだらしのない寝顔を見ながら思った。
「かのん先輩と比べたら全然っすよ〜」
きな子はよくそう言った。確かに、かのんは日本でも一番レベルの高い音大に行っていたことは、夏美も知っていた。
「…………きな子も、頑張っているじゃないですの」
夏美は寝ているきな子に聞こえないように呟いて、ノートを元に戻す。
きな子とは何か、深いつながりが出来つつあるような気が、夏美にはしていた。
ちょっときな子の横に同じように寝てみると、ラグマット越しの床がやっぱり固くて、でもそれが不思議と心地よかった。黙っているとゆっくり眠気が頭を包んできた。
夏美はそっと目を閉じた。
✳︎
「夏美ちゃん、同窓会しないっすか」
ある時、きな子が言った。二人が一緒に暮らして、色々なことが落ち着いて、ようやくゆとりができてきた頃だった。
「……なんですの、いきなり」
夏美はリビングのテーブルの真ん中に置いた赤色の汁の鍋から、豚バラ肉を掬いながら言った。
「きな子、なんかもう何年も先輩たちに会ってない気がするっす……」
貧乏学生の夏美たちが安くて早くて美味しいからとよく食べるのが、鍋だった。それもなぜか大抵辛いやつ。
「まぁ……それには同意ですの……みんなずいぶん昔みたいな気がしますの」
きな子が野菜が好きだから、白菜に加えてじゃがいもとか玉ねぎも入っていた。いつもレジに持って行く時、カレーの材料みたいだ、と思っていた。夏美はおたまをきな子に手渡す。
「そうっすよね、そこで夏美ちゃん! お願いなんっすけど……」
夏美は豚肉にかぶりつく。電気代節約のために開け放した窓から夏風が吹き込んでカーテンを膨らませた。
「嫌ですの」
豚肉は暴力的なくらい旨みが凝縮されている。夏の気怠い午後に食べる鍋はどこか退廃的だと夏美は思う。
「えー、まだ何も言ってないっすよ」
きな子はじゃがいもばかり食べる。だからそんなにぷにぷにの頬に育ったんだろうか……関係ないか。
「どうせグループでみんなに連絡しろ、とか言うんですの。日程とか場所とか、段取りとか」
じゃがいもを口に放り込む。キムチ鍋の素、ちょっと今回は入れ過ぎたみたいで辛かった。
「な、なんで分かったんすか⁉︎ きな子まだ何も言ってないのに……」
夏美は目を丸くしたきな子をようやく見つめる。カーテンが揺れて部屋のスペースをやさしく奪っていた。
「分かりますの、何年来の付き合いだと思ってますの、もう」
夏美は大袈裟にため息を吐いてみせた。きな子に見られている気がしていた。
「…………まぁ、やってあげますの、その程度のセッティングくらい」
遠くで車の通る音が聞こえた。このアパートは車道が近い。でも音漏れはほとんどしなくて、そこも気に入っていた。
「…………夏美ちゃん」
呼ばれて、顔を上げてはっとする。
「ありがとうっす、夏美ちゃんはいつも、やさしいっすね」
きな子がふにゃりと笑って言った。
夏美は返答に困って下を向くと、赤いスープがぐつぐついっていた。別にそれでよかった。
「火……弱めないと溢れますの」
「あ、ほんとだ」
カチッ
瞬間、音が、消えた。
✳︎
その日夏美が一番驚いたことは、別にきな子が平気で未成年飲酒をしたことでも、当人たちは気づかれてないふうだったけれど、かのんが千砂都とキスをしている瞬間を目撃したことでもなかった。
その人が、あまりにも変わり果てた姿で、夏美たち全員の前に現れたから。
「……お久しぶりです」
都内の居酒屋の奥の座敷にその綺麗な声は浮いていた。夏美はその人の声が好きだった。久しぶりに会えて、嬉しくて、でも悲しかった。
よれた白衣はところどころ黒く汚れていて、それを知らない間に長く腰くらいまでになった青い髪が隠していた。耳の赤いピアスは、それでも髪が揺れると見え隠れした。
そこにいる誰も喋れなかった。その人は、あの日からずっと、無気力な亡霊のようになっている人で。
「四季、ちゃん……」
四季は、かのんの声を無視すると、夏美の向かいの右前の席にすっと座った。千砂都の隣の隣の席だった。当然みたいに煙草を取り出して火をつけて、左の人差し指と中指でそれを挟み、口全体を覆い隠すように吸った。その動作はあまりに手慣れていて、夏美は大きな隔絶を感じた。
「夏美、ボタン押して」
そう思っていると、名前を呼ばれた。夏美は身体がびくっと震えたのが分かった。本当に、本当に久しぶりに名前を呼ばれた気がした。あの日以来、一度もなかったのに。
「は、はいですのっ……」
ボタンを押す。ピンポォンと間抜けな音が鳴る。かのんに見られているのにも、夏美は気づいていた。
「生十杯ください」
やって来た店員のお姉さんに四季は短くそう言った。
「……かしこまりました」
お姉さんは誰が飲むのか困惑した様子だった。そもそもここには未成年がまあまあ紛れている。それでも四季は涼しい顔をしていた。飲む気満々なのだ。
「…………」
かのんがすみれを苦しそうに見ているのを、夏美はこっそり見ていた。
それから座敷には人が減り、代わりに馬鹿みたいにたくさんの生ビールのジョッキが四季の前に展開された。四季はそれに特に感想も述べず、端から一杯ずつ一気に飲み干していった。その間に煙草を吸っていた。心の底から美味しくなさそうだった。
そうして、酔い潰れた人の肩を抱えて歩く人や、勝手にお金だけ置いて帰る人なんかがいて、同窓会は幕を閉じた。
その時はまだ、夏美は声をかけられなかった。
吸い殻の溢れる灰皿の、まだ使えそうなところに煙草の先を押しつけて、無表情で親指と人差し指を擦り合わせる四季を見ていると、とても声をかけられそうにはなかった。
きな子の肩を抱いて帰る、帰り道。
ふたりぼっちの街灯が照らす影が、繁華街に短く溶けていた。
「…………夏美ちゃん、砂肝取ってぇ……」
まだどうすればいいのか分からなかった。きっとまだ四季が、一番辛いはずなのは夏美にだって簡単に分かった。
「…………私は、本当は何がしたいんでしょうか、ねぇ、きな子」
今はふらふらだけど、ひたむきで努力家な同居人にそっと声をかける。
夏美は、夜の匂いで胸が苦しかった。
歩いて帰るしかなかった。ただ、自分たちの家へ。
目を閉じた記憶はなかった。ただ目が覚めると、白い天井が見えた。いつもの自室の天井だ。夏美は息をふーっと吐いて、倍以上の時間をかけてゆっくりと吸う。肺に空気がつめたく染みた。
昨日はなんだかお祭りみたいだったな、と夏美は思った。
久しぶりにあんなに笑った気がする。久しぶりにあんなに冗談を言えた気がする。視聴者数もうなぎ登りで、夏美は自尊心がそれで保たれているのが、なんだか虚しかった。
春の日。
みんなで行った飲み会の会場がどこにあるのか、もう夏美ははっきりと思い出せなかった。
「夏美ちゃーん、ご飯っすよー」
寝室の扉が開いて、きな子が入ってきた。寝室にはダブルベッドが一台置いてあって、それで一緒に寝ている。別々に寝る方が夏美たちには不自然だった。それはあの夏、狭いベッドで泣きながら抱き合っていた日々があったからかも、しれなかった。
「なーつーみーちゃん」
きな子が覗き込んでくる。この子はいいお嫁さんになるな、と夏美はぼんやり思った。
「…………もう、これ以上起きないなら今日一日オニナッツって呼ぶっすよ」
それは脅しになっていない、と夏美は思ったけれど言わなかった。きな子のこういうよく分からないズレ方が、夏美は好きだった。
「…………じゃあ私もきなきな、って呼びますの」
夏美が言うと、きな子はリスみたいに頬を膨らませて、どうやら怒っているようだった。
「ふん! そんなならもう次の動画では歌歌ってやらないっす」
あ、じゃあ動画には出てくれるんだ、と思ったことは夏美は言わなかった。昼らしくあたたかい陽射しがカーテンの下から漏れていた。
「きな子」
「……なんっすか」
夏美はシーツがとてもつめたいと思っていた。
「……ありがとう、すぐ行くから、待ってて」
夏美の言葉を聞いたきな子は、目を丸くして、それからふっと笑った。
「……もう、待ってるんすからね」
そう言うときな子は寝室を出ていった。夏美はなんだかはっきりしないような気持ちで、ベッドから降りた。
床につま先が触れた時の冷ややかさを、とてつもなく鮮やかに感じた。
もうみんなの声もよく、思い出せないのに。
お昼に近い時間であることをきな子に説教されるまで、夏美はそこに突っ立っていた。
✳︎
二十歳。
夏美は学業の傍ら、家ではバーチャルアイドルとしてDJやグルメの紹介や独自の企画なんかをして、そこそこの広告収入を得ていた。
あの事件があってから、Liella!は悲劇のスクールアイドルとしてその名が世間に知れ渡ってしまったので、当然夏美は名義を変えた。だが、本人の声があまり変わらなかったばかりか、キャッチフレーズや動画の方向性なんかはあまり変わらなかったので、すぐに特定された。何度かアカウントごと変えてみたけれどその度に何者かに暴かれたので、夏美は今は腹を括って素性を明かして活動している。
「……きな子も、エルチューブ、出てみたいっす」
一ヶ月ほど前のこと。
いつものように音楽雑談配信を夏美はしようとしていた。すると珍しくきな子もしたいと言ってきた。
「……別に、いいですのよ。声だけなら、すぐにできますし」
そこで、成り行きできな子の生歌とkawaii future bassを即興でリミックスしてやった。きな子は目をきらきらさせて、画面を下から上に流れるコメントを見ていた。そういえばこの子、エルチューブに興味あったんだっけ、と夏美はふと思い出した。
そしてそれが思いの外ウケて、以来音楽カップルチャンネルみたいに扱われることとなる。
『ゆーしえさんの Sunset tea cupを歌ってください!(2,000)』
『Yunomiのサンデーモーニングコーヒーをお願いします!(10,000)』
『somunia様のtwinkle nightをきな子ちゃんの声で聴きたいです。高校生ですが受験勉強の合間にいつも配信見ています、私にとっての心の支えです。ありがとうございます(500)』
『(50,000)』
そんなメッセージがたくさん届いて、夏美ときな子は張り切って歌った。
しかし、リクエストを消化する速度を増える速度が上回っていたので、そのうちあまりリクエストは求めないことにした。コメント欄で喧嘩が起きてしまうからだ。
ふぅ。
思い出し、夏美はため息を吐く。
傍に置かれた大学用のそんなに大きくないリュックを拾い上げて、夏美はそれを背負う。
人を待っている時、夏美は大抵、いろんなことを思い出していた。少し早く来すぎてしまったのかもしれない。
ザァ、と夏風が夏美の髪にからまってはほどけていった。
「夏美ちゃーん!」
風に乗って聞こえてきたみたいな声は、夏美を何より安心させるものだった。
「遅いですの」
夏美が短く言うと、きな子はうぅ、と申し訳なさそうに頭を垂れた。
「申し訳ないっす……テスト終わった後友達に捕まっちゃって……」
まぁそんなところだろうと思った、と夏美はため息を吐いて気持ちを切り替える。
「そんなことはいいですの。早く行きましょう、今日から夏休みですもの……ほら」
夏美が手を差し出すと、きな子は一瞬ぽかんとした。きな子は口を半開きにしていることがよくあって、夏美はそこにトッポとか細長いものを突っ込んでやりたいと、ずっと前から思っていた。
「…………はいっす!」
きな子は夏美の手をぎゅっと握って、隣に滑り込んできた。カップルチャンネルなどとネット上で呼ばれていることが、夏美の脳裏を過った。
夏美は、自分は何がしたいんだろう、どこへ向かっているんだろう、と思うことが最近になって増えた。
日々投げつけられるスーパーチャットは遅効性の毒のように夏美のアイデンティティを破壊していった。有名になればなるほど。フォロワーが増えれば増えるほど。何のために、あんなにフォロワーが欲しかったんだっけ。
「夏美ちゃん、どこ行くっすか?」
きな子が純粋で羨ましかった。株でもFXでもシステムエンジニアでも、お金さえ、マニーさえあればなんでも良い自分は、薄汚れている気がした。あの日に喪った数多くのものの中には、夏美の夢もあったはずだった。きな子は果敢に、今日も現実と闘っているのに。
配信窓を一回開くだけで一週間分の生活に困らないような広告収入を得ることができる夏美は、何が正しいのかもう、よく分からなかった。努力より単位より、視聴者の望むものを提供するクリエイターという名の奴隷。夏美は、すっかり疲れ切っていた。
「…………海月でも見に行きましょうか」
やっと開いた口からは、そんな言葉が出た。きな子の手にきゅっと力がこもる。それが同意のサインであることを、夏美はよくよく知っていた。
「行こ、夏美ちゃん」
このマニー塗れの世界で、夏美にはきな子だけが汚れていない唯一の美しいもののように思えた。
いつから────
夏美の見上げた空に、飛行機がひとつ、滑るみたいに飛んでいた。
一体いつから、こんなにマニーに固執するようになったんだっけ。
夏美は自分のことを本当に不思議に思った。
木漏れ日が風の吹くままに揺れていた。
夏が夏美は苦手だった。
記憶にへばりついた血まみれの夕焼けが、剥がれて消えてくれないから。
✳︎
幼稚園の時には夢があった。
「私の夢は将来オリンピックで金メダルを取ること!」
別に走るのは早くなかった。
小学校の時もまだ夢があった。
「私の夢はノーベル賞を取れるような科学者になること!」
算数さえまともに出来なかった。
中学校の時はせめて出来そうな夢を選んだはずだった。
「私の夢はモデルさんになって世界を駆け回ること!」
でも別にスタイルが良い訳でもとびきりかわいい訳でもなかった。
諦めるくらいなら夢なんて語るなと人には大口叩いてた癖に、自分にはいつもどこか諦めている、そんな自分のことをなんて都合がいいんだろうとも思っていた。
「はぁ…………」
夏美は深いため息を吐いて、キーボードの上に頬を預ける。
自分は何がしたいのか、夏美にはもうよく分からなかった。大学四年生になって、日々の努力と軋轢のさなか、判断をするだけの余裕も時間もないまま、ただ日々だけが過ぎていった。
でも今日夏美が重たい気持ちなのは、それだけではなかった。
デスクトップ上に表示される今日の日付。忘れられなくても忘れられない、あの日がもう六年も前であることに夏美は途方もない気持ちになる。
今日、さっき、原宿まで行ってきた。
夏美は人の多い、相変わらずカラフルなアイスやクレープを食べている、自撮り棒を構えた女の子たちの間をすり抜けて歩いた。道行く人たちは皆、夏美を訝しげにちらっと見た。それは、夏美が暗い顔をしていたからじゃない。その両手に、花束を抱えていたから。
夏美は竹下通りを抜けてそこまで歩いて、立ち止まる。炎天下のアスファルトに陽炎がゆらゆら揺れていて、遠い夏の日が見える気がした。
夏美は横断歩道が赤になるまでその端に寄って、待った。そしてあの日のように辺りを見渡して、もう誰もそんなこと気にしていないのだと言われているような気がして、夏美は虚しくなる。これだから夏は嫌いだ。
夏美は思いながら、近くの電柱にその花束をそっと置く。そのまま両手を合わせて、目を閉じる。上空からカッコウの鳴き声が聞こえ始めていた。
そのまま、信号が二回変わるくらいの時間そうしてから、夏美は目を開いた。夏に長い時間目を閉じてから開くと、世界の彩度が落ちてうす緑色に見える気がする、と夏美は子供の時から思っている。
夏美はそれから人混みに紛れるように歩き始めた。陽炎を踏みしめながら。
道端に置かれた精一杯の花束を、誰も見ることなく歩いていった。
はぁ。
夏美はため息を吐く。
原宿から電車を三つ乗り継いで帰ってきて今、時刻は昼下がりと呼ぶには遅すぎる時間を指していた。
夏美は配信をしようかとも思った。目の前には歌配信をするようになってから買ったTHE FIRST TAKEみたいなコンデンサーマイクや、白いVRヘッドセットが所狭しと並んでいた。それも、二人分。
「────っ」
夏美は、ふいに自分はきな子を利用してお金儲けをしているような気がした。楽に稼げて褒められるから、自分のそんな欲求の為に自分はきな子の夢を都合よく使っているような気がした。
「はぁ…………」
ため息を吐くことが多くなったな、と夏美は思って、黒いモニターに映る自分を見つめていた。そんな時。
「…………背中がガラ空き、っすよ?」
いきなり声がして、驚いて振り向くと、夏美の額に銃口が突きつけられていた。やわらかいその銃口。
「ばーん」
きな子はおどけて言うと、その立てた人差し指の先を吹いてみせた。辺りに意味もない静寂が流れる。
「…………なんですの、それ」
夏美が呆れてそう言うと、きな子はふふっ、と悪戯っぽく笑った。
「なんでもないっすよ」
いつの間にきな子が帰ってきたのかは訊けなかった。ただ部屋にはきな子と暮らした証がたくさん並んでいて、夏美はそれを遠い現実のように感じていた。
「……ねぇ、夏美ちゃん」
「なんですの」
そろそろ部屋は狭いような気もした。
「きな子たち、いつまでここにいられるんすかね」
「────っ⁉︎」
いきなりの言葉に、夏美は胸がどくんと跳ねた。それは頑張って、考えないようにしていたことだった。いつまで経ってもつきまとう、進路、就職、面接、勉強。落ちぶれて取り残されないように、必死に輝こうとする星くずのように、夏美たちはいつまでも必死に輝き続けなればならなかった。悲しい記憶だけが歩いてきた道に
「夏美ちゃんの夢って、なんなんすか」
きな子がひどく穏やかに言った。いつかも似たことを訊かれた気がした。風のつめたい冬枯れの公園で、その時二人はまだ高校生だった。
「……歳をとった時に困らないように、お金を稼ぐことですの」
いつかも似たことを言った気がした。夏美は、椅子に座ったまま、首だけで後ろのきな子を見ていた。
「夏美は気づいたんですの。この世の中はマニーだけでは、生きていけない……だからせめてマニーくらいは、困らずにいたいんですの」
夏美が言うと、部屋には沈黙が降り、なかった。
「ウソっす」
きな子が短くそう言った。夏美は、そんなきな子を見つめる。その表情がみるみる悲痛なものへと変わっていく。
「夏美ちゃん、気づいてないかもしれないけど、ずっと、ずっと苦しそうなんっすよ……? 本当はどう思ってるのか、きな子にも聞かせて欲しいっす」
「それ、は……」
もう進路を決めて次の場所へと行く時間だった。きな子は、どこに就職するんだろう。音大の声楽科なんて、どこにも就職できないと、ネットで聞き齧りの知識を夏美は思い出していた。
「ゆうやけがきれいで
いぬーはーかわーいくて」
ふと、きな子が小さな声で、歌い始めていた。
夏美ははっとする。知っている歌だったからじゃない、きな子のその声が、泣き出してしまいそうに濡れていたから。
「やぼなーニュースにいーっしょに
むーかーつーいてー」
夏美はなぜか、きな子と歌ったtwinkle nightを、思い出していた。撮影環境としては不十分過ぎるこのアパートの一階の角部屋で。視聴者のリクエストに応えて歌を歌っていた毎日。
「だめえいーがでーわらあってー
ばーらえてぃーみーてーないて」
きな子と歌を歌うのが楽しかった。
本当は、一番になるより、誰に褒められるより、好きなものを好きにやることがいいのだと、とっくにきな子に、気付かされていたのに。
「はしゃぎーまわるーすこしーさみしい
ふたりーがいたー」
カメラが回っていないので視聴者は一人だった。それがすごく素晴らしかった。寂しいくらいこの部屋は満ち足りていた。
「きみもーぼくとーおなじくらーい
わるいひーとでよーかあったー」
本当はずっと前から気づいていた。
夏美の本当に欲しかったものは、お金じゃなかった。
本当はお金じゃなくて居場所が欲しかった。
本当は居場所じゃなくて、ただ傍にいてくれる人が欲しかっただけだった。
分かってたはずだった。そんな簡単なこと。
「あしたーもまたーいきていたーい
きみをすきでよーかあったぁ……」
ゆっくり声だけのアウトロが消えていった。きな子の声は、出逢った頃よりずっと伸びやかに、しなやかになっていた。
「…………夏美も」
「うん」
きな子の綺麗なエメラルドの瞳が夏美を映していた。歌の続きを歌うように、夏美はゆっくり口を開く。
「…………夏美も、本当は音楽がやりたいんですのっ……」
口を開けば、自分の声もぐずぐずだった。きな子の歌は人を惹きつける不思議な魅力があると、出逢った時から思っていた。
「…………夏美は、きな子がっ、羨ましかったんですのっ……まっすぐで、努力家でっ……」
夏美の口からぽろぽろこぼれ落ちる言葉を、きな子はそっと拾い集めて聴いてくれているみたいだった。
「夏美はっ……きな子みたいに、なりたかったんですのっ……」
夏美が言うと、部屋は処理落ちした画面みたいに動かなかった。ゆっくり、ふりをつけて、呼吸をするのに時間がかかった。
「夏美ちゃん」
「なんですのっ……」
泣き腫らした顔で見上げて、言葉が途切れた。きな子がとんでもなくやさしく笑っていたから。
「一緒にしよう? 夏美ちゃん……夏美ちゃんと、きな子の、二人で……二人だけの会社」
きな子は冗談めかして、安心した子供のように泣きながら、大袈裟に手を開いてみせた。
「ね……CEO」
きな子の声が、この部屋の静寂と似ても似つかぬやさしいそれに溶けていくのを、夏美は中途半端に身体だけ振り向いたままで聞いていた。
「……久しぶりに聞きましたの、それ」
「夏美ちゃんが最初に言ったんじゃないっすか」
夏美が言って、きな子が言って、声はしっかりお互いに届いていた。
夏美は少し胸の
「夏美ちゃん、辛かったんすよね……今日も、メイちゃんのところに、行ってたんっすもんね」
いきなりそう付け足されて、夏美は心底驚いた。ずっと抱えてて、でもきな子には見せないようにしてきたのに。
「な、なんできな子がそれを……」
夏美がうろたえていると、きな子は得意げににっと笑った。
「何年来の付き合いだと思ってるんすか」
夏美ちゃん。
そう言い加えて、きな子は笑っていた。多分今私たち、すごく清々しい顔をしてるだろうな、と夏美は思った。
窓の外で、日が暮れていた。アパートの一階と向かいの建物のわずかな隙間に覗く空。
その夕焼けはでも、もう汚れた血の色ではなくて、やさしく綺麗なものに、夏美には思えた。
「……夏美ちゃんみたい」
きな子が窓の外を眺めて、言った。
「え」
「……美しい夏、って書くじゃないっすか、夏美ちゃんの名前」
部屋の隅にひだまりができていた。そこだけとても、やさしくてあたたかい気がした。
「きな子、夏美ちゃんに逢えて、嬉しいっすよ」
きな子が言った。
そんな嬉しい言葉に返す言葉は、ネットの聞き齧りの知識では知らなかった。部屋の隅のひだまりに世界の秘密が隠されている気がした。
「……夏美も、嬉しいですの」
呟いた声が言葉以上の意味を抱えている気がして、夏美は自分でびっくりした。
やさしくてぬるい、あの頃の放課後みたいな時間だった。
✳︎
「オニナッツ〜、あなたの心のオニサプリ、オニナッツこと、鬼塚夏美ですの〜! 今日も相方のきな子と一緒に、歌っていきますの〜」
「みんなには悪いんすけど、今日はきな子たちの思い出の曲を歌っていこうと思ってるっす。だからリクエストは今日だけナシっすよ」
「じゃあ、さっそく一曲目から、聴いてください」
夏美は配信のNGワードから『リエラ』を外した。
だけど今日はLiella!の曲ではなく、夏美たちだけの軌跡の曲を歌いたかった。あの日ぼろぼろで、初夏の雨に濡れないように身を寄せて聴いたあの歌を。
「────きみも悪い人でよかった」
美しいイントロが流れ始める。家賃の割に綺麗な、二階建てアパートの一階の角部屋に。
音楽は時として人と人との心を結ぶことがある。
夏美は透明で果てしない気持ちになりながら歌を歌った。何もかも抱えて生きていかなければならないけれど、それでも日々の隙間にこうしてわずかな喜びを見つけて、生きていくんだ。
夏美はこっそり続けていた、誰の興味もないような自作のスムージーの動画もまた出してみた。再生回数はやっぱり微妙だったけれど、良いと言ってくれる人も少数だけどいた。夏美はきな子と配信や動画投稿の、その喜びも収益も、誹謗中傷もはんぶんこした。
きな子は歌だけじゃなくて、作曲も出来るようになっていた。夏美は、プログラミング言語から情報工学系のことはなんでも出来るようになっていて、自作でパソコンを組み立てたり必要なソフトウェアを作成したりしていた。
卒業の日は思ったより早くやって来た。
「あっ! きな子! だからお店で呼び出しボタン何度も押すなって言ってますの!」
考えなきゃいけないことはたくさんあった。
「内見はいいっすかね……ね、夏美ちゃん」
部屋は都内の完全防音の白い部屋になった。
「あーあー、マイクテスト、マイクテスト……夏美ちゃん! 早く歌おう!」
「わーかってますの! もう、ステイステイ!」
VRヘッドセットはちょっといい黒いのになった。ショックマウントもマイクスタンドもコンデンサーマイクも全部性能の良い物に新調した。THE FIRST TAKEみたいだ、と今度は本当に思った。
「はい、じゃあ配信始めますわよ……いいですの、きな子」
「はいっす! いつでも!」
そうしてゆっくり時間を重ねていくことを、人は人生と呼ぶのだと、夏美はだんだん知っていった。
「みなさんこんばんは! 今日もきな子たちのチャンネルにようこそっす!」
「早速一曲目、行きますの〜!」
いつかも歌ったあの歌を。
いっぱい笑おうってさ、歌おうってさ、伝えたいから、まだまだ遠くへ行こう。広がる、世界。
「Liella!より……追いかける夢の先で!」
イントロの鐘の音が、流れ始めた。
世界中を駆け巡る、流れ星になって。
✳︎
何かを創ることは楽しかった。
夏美はそんな日々を過ごしていた。
ずっとこんな当たり前な日々が続いていくと思っていた。
夏美が二十二歳になった晩夏のことだった。
いつもみたいにネットサーフィンをしていた。エルチューブのAIが自動でおすすめしてくる動画の一つに、見たことのある人がいた。
心臓がばくんと脈打った。
大型モニターに映るその人は、サムネイルだけでも誰か分かった。とんでもない世紀の大発明をしたと、書いてあった。
夏美は手の動くままにその動画をクリックしていた。
瞬くフラッシュ、尋常じゃない人だかり、その注目を一身に浴びる、長く青い髪のくたびれた白衣を着た人物。
────圧縮技術の発明は、どのようなご経緯で!
────ノーベル物理学賞としては最年少での受賞となりますが、ご感想を!
────世界中の科学力を以ってしても半世紀以上を超える発明だと言われていますが!
好き勝手言っているインタビュアーたちに、その人はつまらなさそうに赤い瞳を向けているばかりだった。早く終わってくれ、と全身でそう言っていた。
夏美はそういえば昔、自分はノーベル賞を取るような科学者になりたい、と言ったことをふと思い出した。
どうしてだろう。
ふと、たまらなく会いたくなった。
向こうは覚えてないかもしれない。相手にしてくれないかもしれない。今やあの人は時の人で、一方の夏美はフリーターでしがないエルチューバーをやっている。まるで共通点がなかった。
でも、ふとスマホを取り出してメッセージアプリを開いて、そのアカウントをタップする。
六年前、まだ夏美たちが高校一年生だった時のまま、そこは時間が止まっていた。胸が軋むのが分かったけど、なぜか簡単に電話ボタンを押せた。アカウントが変わっている可能性の方が高いだろうと、そう思ったからかもしれない。勇気が出たのが遅すぎることへの言い訳かも。
コールは永遠に続いていくようだった。配信部屋は防音室なので、音が吸い込まれて、黙っていると耳が痛いくらいだった。
『────プツッ』
だから、それが途切れた時は通話が途切れたのだと、そう思ったのに。
『…………はい』
全身を地面とか壁とかに強く叩きつけられたような、凄まじい衝撃だった。とてもこの世のものとは思えなかった。それが、その声が、変わらなさすぎて。
「……元気、でしたの」
夏美は自分から出る声の神妙さに自分で驚いた。いちいちものすごい時間が経った気がした。
『元気か……分からない』
色も起伏もない声が受話器から聞こえてきた。胸が刺されたように痛かった。
「……夏美の方は、色々ありましたの、本当に、色々」
何を言うべきか夏美はよく分からなかった。
だから、夏美は四季に、四季と別れてからのとびきり長い近況報告をした。
きな子と一緒に暮らしたこと。大学に行ったこと。自分なりの生き方を見つけたこと。住む場所は二回変わって、マイクは三回変わったこと。それから────
「メイちゃんの命日には、毎年花を、供えてますの」
夏美が言うと、スマホの向こうで初めて、息を吸うような鋭い音がした。
『……あれ、夏美だったの』
四季の声が、ほんの少し色味を帯びた気がした。
「はい……私には、忘れないことくらいしか、できませんので」
『夏美、私はね』
「はい」
また、
『私は、メイを助ける為の、研究をしてるの』
「…………え?」
ちょっと、
「な、何言って……だってメイちゃんはもう……」
『分かってる』
ま。
ま。
ま。
『だから、研究をしてるの。私は日本政府を利用することも、厭わないつもり』
ううん、そうするんだけどね。
そう言い加えて、四季の乾いた笑い声が遅れて聞こえた。何を言っているのか、全然夏美には意味が分からなかった。
「なんです、のそれ……四季ちゃんの言ってることが、よく分かりませんの……」
そして決定的な沈黙があって、夏美は数年越しに四季の思惑を知ることになる。ある日見た炎天下の下、四季の横顔が呟いた言葉の意味を。
『タイムマシンを、作ろうとしてるの。私はね』
これが世界の崩壊への第一歩であることを、この時の夏美はまだ知る由もない。
四季の声が冗談を言っているようには聞こえなくて、ただ夏美は、薄い板切れを耳に押し当てていた。
永遠みたいな
それからも日々は不可逆な変化を辿る一途だった。
夏美はきな子とバーチャルエルチューバーとして歌やトークをするだけで生活ができるくらいの知名度を獲得していた。日中や空いている時間はきな子と一緒に公園に行った。
夏。
今まで見えていた陽炎の向こうの日々は現在とは違う場所だった。二度と戻れない場所だと思っていた。
夏美はゆらめくアスファルトの先を見つめながら、思う。
(でも、四季ちゃんは戻ろうとしていますの。本気で、あの夏に────)
「ん? 夏美ちゃん、どうしたんすか?」
アイスクリームの木の棒を咥えたきな子に言われた。夏美はそっちをちらっと見てから、また目の前を見つめる。
夏美たちの生活はネット上でほとんど完結しているので、時々郵便局に行って現金を引き出して、近所の自動販売機で買い物をする以外では現金を目にする機会もまずなかった。
「あー、夏美ちゃん! アイスアイス! 垂れてるっす!」
「え、わ」
きな子に言われて、慌ててそれを咥える。ソーダ味のアイスは、舌につめたくて美味しかった。
日々は水のように、一方通行の流れを辿っていった。
この先に待ち受けることなど思いもせずに、その晩も、夏美はきな子と冷奴を切り分けては口に運んでいた。
ひどく懐かしい味がした。
「美味しいっすね、夏美ちゃん」
「……ですね」
変わっていく世界を受け入れながら、なす術なく二度と戻れない道を流れていく。
夏美は麦茶で、出かかった言葉ごと何かを流し込んだ。
✳︎
その翌年、またある日、ネット上を震撼させるニュースが夏美の耳に入った。
その時は夜になろうかという時間で、ちょうど休日だったのできな子と長めの歌配信をやっていた。コメント欄が珍しく違う話題でいっぱいになっていて、言い争いまで起きているので、何事かと思って配信を中断して見てみると、その人が映っていた。
『空間の点と点を結んで人や物体を自由に任意の場所に移動することのできる技術を発表した世紀の天才科学者────若菜四季が今記者会見会場に現れました。この技術はノーベル物理学賞、化学賞の受賞が囁かれているばかりか、前年度の物質圧縮の技術同様に現日本政府で技術の独占をするとの方針を内閣総理大臣が発表したことで世論では疑問の声も上がっており、他国との緊張感の増す中でこのような技術が公表されたことによるより一層の戦争への不安が高まっております。繰り返します、任意の空間を自由にワープすることのできる技術が────』
モニターに映る映像は阿鼻叫喚の渦という感じで、それは夏美の知っている日本語にすると、まさしく地獄だった。
多分もう色々なことが手遅れになってきていた。夏美は定期的にネット上で囁かれる20××年世界滅亡説が頭を過った。
「ちょっとトイレ行ってきますの」
「え、夏美ちゃ────」
夏美はきな子にVRヘッドセットを預けて、急いでトイレに駆け込む。スマホを取り出して、四季に電話をかける。コール音。出ない。切れる。もう一度……コール音、出ない、出ない、ぷつん。
夏美が四季に何度電話をしても、繋がらなかった。
その日以来、世界は大きく二つに分かれることになる。
四季の技術を使う権利と地位と力を持つ上の人間と、夏美たちのように何も持たない人間。その中で必死に生きていく人たちは、新宿を中心に大きく発展した未来都市としか言いようのない圧倒的な技術力で造られた大都市と、その出涸らしとして周囲を取り囲む低所得者たちの暮らす昔ながらの街だった。
その更に翌年だった。
空間転移で新宿以外の街の邪魔な高い建物を平坦にして上空で交通網を整備する動きが起きて、その日渋谷付近の四階以上の高さの建物が全て消滅した事件は、思えば決定的だったと思う。それ以来、高い建物は恐れられていて取り壊しが多くなっていたばかりか、入居者もあまりいなかった。
季節は飛ぶように過ぎていった。ネット上には若菜四季を崇拝する人や、悪魔だとなじる人や、関係なさそうに好きな音楽を出している人なんかがいて、今や世の中は、自分のやりたいことをするのが何よりだという考えだった。
一度、何の気なしにつけたテレビに知り合いが映っていて、夏美は驚いたことがある。
その人は世間の喧騒や絶望に呑まれることなく、凛々しい佇まいでそこにいた。今をときめくスーパースター────平安名すみれ、先輩。
「わ! すみれ先輩っす! モデルさんになってたんっすね〜綺麗っす〜」
きな子がご飯を食べる手を止めてそう言った。食事は質素なもので、ご飯に味噌汁に、おかずはシャケの塩焼きとか……それさえなければ納豆とか。
きな子みたいに結構楽観的にしている人もいたけれど、夏美にはそんなことできなかった。だって消費税も所得税も、住民税でさえ倍以上なっているのだ。物価は大して上がっていないのに。
「…………かのん先輩たち、元気ですかね」
「ん? なんか言ったっすか」
きな子が首を傾げていた。
「い、いえっ! 何も!」
夏美は大きく首を振る。なんとなく、この家では昔の人に関する話はしたくなかった。
…………特に若菜四季の話は。
✳︎
ある日の夜だった。
夏美はもう二十六歳になったというのに、生きるのはやっぱり難しくて、悩みの種が尽きることはなかった。
でもきな子と一緒に暮らすのは楽しかった。家族と過ごすのとも違う、多分恋人とも違う、親友と言ってしまうには深過ぎる気がするこの関係は『きな子といる』という言葉以外では説明がつかなかった。
そんな日々。
その時夏美は、晩ごはんを食べた後のやんわりした空気感のリビングから出て行って、玄関近くの台所で、じゃんけんに負けたので洗い物をしていた。リビングから馬鹿笑いが聞こえてくる。きな子は世紀末だからかやけに増えたお笑い番組に夢中らしく、楽しそうに笑っていた。
夏美はその声を聞いて、胸があたたかくなる。きな子の声はなんて人を幸せにするんだろう、といつも思う。時々煽られるけど。
その時だった。何気なくポケットに突っ込んでいたスマホが震えたのは。
何気なく気になって、水道水を止めて、Face IDで開けたスマホの、メッセージアプリのトーク画面に、
『今から来れる?』
と表示されていた。
そのスマホが手から滑り落ちて、床とぶつかって、かつんと音がしたのを、夏美はどこか他人事みたいに聞いていた。
それを送ってたのが、なんでもない大学の上部だけの付き合いで連絡先を交換した子ならよかった。かつての先輩でもよかった、あるいは後輩でも。ううん、あなたじゃなければ、誰でもよかったはずなのに。
夏美は笑い声の聞こえるリビングには戻らないで、コートも羽織らずに着ているままの服でおもてに飛び出た。
外はすっかり寒くなっていた。でも夜の闇には星一つ見えず、黒い穴が空いただけみたいになっている。夏美はその冬空の下を走った。
この時間に外に出ることは、ここ最近ではなくなっていた。それは外に出る必要が、そもそもあまりなかったからなのもあるが、それ以上に犯罪が多くなっていたからだった。
三年前から、地域差はかなりあれど、元々そんなに裕福ではない夏美たちの住むような場所は特に治安の悪化が激しかった。見ないふりしてネットに篭るのは、だから都合がよかった。
慌てて切符を買って改札をくぐり、やって来た電車にそのまま飛び込む。山手線の外回り。目的地はちょうど環状線の反対側にあったから、どちら向きに乗ってもそんなに変わらなかった。
夏美は閉まったドアに背を預ける。手元の『痴漢注意』と『不審者注意』を促す黄色いシール状の貼り紙がぼろぼろに剥がれかけていた。そのまま座る気にもなれずに、なぜか青い光が空に何本も、何かを探すように照射され動いている新宿の方を見ていた。そこに近づくのを怖いと思った。
その手前の、相対的に暗く見える街で夏美は降りた。誰もこの駅では降りないみたいだった。昔はあんなに人で溢れていたのに、いつの間にこんなになったんだろう。
夏美は思いながら、人のまばらなコンコースを駆け抜けた。
送られてきていた位置情報をマップで開いて、しばらく薄暗い繁華街を走る。もう、すぐそこみたいだった。
裏通りに入るようにスマホに言われるがままに入る。一本道を入るだけで、景色はネオンの色が深く、ぐっと怪しくなった。店名が中国語で書かれていて、何のお店か分からないお店もちらほらあった。
その中の建物の、外に螺旋階段のついた、一見して廃ビルにしか見えないところを、マップは指していた。夏美は間違いじゃないのかと思ってスマホを見つめ直した。
『そこの二階の奥のドア』
見られているかのようなタイミングでのメッセージに、夏美はどきりとして辺りを見渡す。暗くて誰もいなかった。何もない、ように見えた。
「…………なんですの、もう」
夏美は言われるがまま階段を登った。
そのまま奥まで歩いていって、立ち止まる。暗闇の中でも分かるほど鉄錆の浮いたドアノブを見つめる。深呼吸する。ゆっくり吸う、そして吐く。ものすごい心臓がばくばくいってるのが分かった。
夏美は勇気を出してそれを握り、回した。しかし思いの外それは容易く回った。
そして足元を気にしながら、薄暗い廊下を歩いていった。すぐに、トンネルから出る時みたいに光が見えた。そこに足を踏み入れる。
「────っ⁉︎」
夏美は息を呑んだ。
バーだった。
壁には一面にお酒のボトルが立って立体的に並んでいて、取りやすいように上下二段に分かれており、その下から青い光で照らされていた。この場所自体は薄暗い暖色系で照明も整えられているので、お酒だけがぼんやりと青く見えた。
そしてその手前にある五席しかないカウンターの、その一番奥の席に、その人はいた。店内にはその一人しか姿が見えなかった。
白衣の裾は椅子に座ると、地面にまでもついてしまいそうなくらい長かった。最後に見た時よりさらに長くなった青髪は、手入れも何もしていないのかぼさぼさだった。そしてその手には、煙草が
「あ、あのっ…………」
夏美がその後ろ姿に言おうとすると、その人は空いている右手で空いている席の椅子をトントンと叩いた。
「ここ、座って」
そして夏美は言われるがままに、その人の右隣の席に腰かけた。椅子は座る時に軋んでキィと鳴いた。
無言。
「あのっ、久しぶりですねっ…………」
また、無言。
その人は手で口全体を覆うようにして煙草を吸うと、近くの灰皿に灰を落とす。それから心底不味そうに煙を吐いた。
「…………久しぶり」
四季は、出会った頃より更に起伏のない声で言った。すでに吸い殻でいっぱいになった灰皿に、煙草をすり潰す。
四季の前には緑色のボトルが置いてあった。手元にはロックグラスに注がれた琥珀色の液体。ウイスキーだ、と無知な夏美でも分かった。
「…………飲んでみる?」
じっと見つめていると、四季に言われた。
「えぇ、いただきますの……」
夏美が言うと、四季はグラスを手のひらですっと滑らせた。夏美の前にちょうどそのグラスが来る。そういうのはどこで覚えてくるんだろう、と夏美は思いつつ、目の前のグラスを両手で持ち上げる。そして一口飲んだ。
「────うえっ⁉︎ 不味っ……⁉︎」
それは、夏美にはめちゃくちゃに不味かった。スモーキーというのがウイスキーの売りの一つだということはなんとなく知っていたけれど、これはスモーキーを通り越して、もはやゴムみたいな味がした。
「……よくこんなの飲めますわね」
夏美が言う頃には、すでに四季は煙草を取り出して火をつけているところだった。ジッと葉の灼ける音がした。
「私、ウイスキーはこれしか飲めない、他のは味が、もうよく分からない」
四季は言い終わる頃にはまた煙と戯れていた。
ラフロイグ10年。
それが四季の前に置いてあるお酒の名前だった。夏美は、どこでこういうのを見つけてくるんだろう、と心から疑問に思う。
「……そういえば、店員さんの姿が見えませんの」
夏美はふと当たり前なことに気がついて、四季に訊ねる。
「……あぁ、ここ、私のセーフハウスだから、誰もいない」
四季が顎で後ろを指し示すので、夏美はそちらを振り向く。思わず声が出そうになった。
どこにも道がなかったのだ。
初めから何もなかったかのように、そこは平坦な灰色の壁が続いていた。魔法にでもかかったみたいだった。夏美はもう、自分がいつもの世界にはいないことに、ようやく気がつく。
「夏美」
顔を戻すと、今度はカウンターの内側に四季が立っていた。物音ひとつしなかった。隣に座っていたはずの四季の座っていた席には誰もいなくて、灰皿ではまだ煙が薄く立ち上っていた。四季の髪が揺れて、その耳に赤いピアスが覗いて見えた。
「…………協力して欲しい、話がある」
四季はカウンター内側の、お酒を客に見せる用の高い部分に両手をついて、言った。
夏美はごくりと唾を飲む。もうのっぴきならないところまで来ているのが分かった。でも、来るまでの不安な感じはもう少しもなくて、代わりになぜか、包み込まれるような安心感があった。
「…………聞きますの、四季ちゃんの、話」
そして夏美はこの時には既に、不思議なことに四季に協力するつもりだった。
目の前の高身長の四季が、初めて、微かにだけれど、唇の端を吊り上げた気がした。
終わらない夏の物語がこうして、静かに幕を開ける。
「……