さよならより速く、私はあなたに逢いに行く   作:Werther

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第四章 - Koi was lie.

 夜隅に転がる、月を見ていた。

 どうしてそんなところで立ち止まったのか、なんて分からない。

 ふと、立ち止まった。

 子供の時から歩き慣れた道は今や歩幅が大きくなってすっかり短く感じるのに、ある日唐突に驚いたりすることがあるのは、一体どういう訳だろう。もう自分はすっかり、大人になっているというのに。

 どうして────

 思い出し、恋は途方もない気持ちになる。真上の空を見上げる。こわいくらい空っぽで、ただ底なしの穴が空いているみたいだった。

 どうして、こんな気持ちになったんだろう。

 恋は夜闇に目を細める。

 この気持ちをどう表現していいのか分からない。

 かつてはそれは、あたたかいと、苦いの、幸せと、切ないの、間くらいの気持ちだった。物語やドラマの中だけだと思ってた、そのごくありふれているらしい感情には、でも向き合いきれなくて、だから自分は今こんなことをしていた。

 恋は納得がいかない訳ではなかった。でも、全てに頷ける訳でもなかった。だから今日も鞄の中には白衣が入っているのだし、新宿を護る為に上空を監視する光はここからでも眩しかった。

 煌々と光る街のあの中で、恋は暮らしていた。自分が何がしたいのか、何をしようとしているのか、もう何も分からなかった。

 遠い月を見つめながら、恋は思い出す。

 もう遥か彼方の出来事のように思えるあの日。

 全てを決定づけてしまった、あの日を。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 こわいくらい晴れた日だった。

 響き渡る足音、刻まれる手拍子、掛け声。ワンツー、ワンツー。上がる呼吸に周囲の熱が同化していく。

 みんなの声は青天井にぶつかって跳ね返って、何重にもなって聞こえた。眩暈がするほど暑い夏の中。

 その中で、恋はあの子の姿ばかりを、こっそり追いかけていた。

 それは今に始まったことではなかった。多分、あの子が部活に入ってきた時から、ずっとそうで。

「はい、じゃあ今日の練習はここまでね! お疲れ様っ!」

 千砂都がぱんっと手を鳴らして、その緊張感は一気にほどけた。一年生たちは一つの所に固まって、ばたばた倒れていった。

「つ、疲れた、ですの……」

「きな子もっす……」

「私もだ……また元気にしてるの四季だけかよ」

「…………」

 日差しの中、へたり込む一年生たちの、そのうちの一人を、恋は見ていた。

 片方だけお団子にした赤い髪に、帽子を被ったその姿を。でも、その人の傍には青い短髪の女の子がいて。

 恋は胸が苦しくなる前に、すぐに目を逸らす。毎日が最高気温みたいな夏。

 それを誤魔化すように日陰に入る。自分の荷物から水筒を出す。いくら苦しくても喉は乾いてしまうのが、恋にはなんだか情けなかった。

「可可さん、お疲れ様です」

 やるせなさを隠すために、そこにいる仲間にそう声をかける。

「レンレン、おつかれデス!」

 世間話。本当に見たい相手は視界の隅にいるのに、そっちは見れない。

「可可さん、今日の柔軟すごく良かったですね、前よりずっと柔らかくなってます」

 恋はできる限り朗らかに笑ってそう言った。可可は一瞬何かを考えてから、やっぱりにっこり笑ってくれた。

「ありがとデス! レンレンもダンスすっごかったデスよ」

 それから日陰は静かだった。可可はオレンジジュースを飲んでいて、恋は水筒でお茶を飲んでいた。

 恋は、その間ずっと、地面にへたり込んでいる一年生を見ていた。日差しの下にいる方が暑いし熱いと気づいて順番に起き上がるのを、ぼんやり見ていた。その子のことだけ、目で追っていた。

「レンレン、何か……悩み事とか、あるのデスか」

 ふと、隣からそう言われた。

「え」

 思わず漏れた声だけ本音だったような気がする。

 可可を見つめ返すと、でもそれ以上可可は何も言わずに恋の後ろを見つめていた。

 恋が振り返ると、一番嫌な光景が見えた。地面にへたり込んでいるその子に、メイに、四季が何かを言っていた。メイは赤くなっていて、照れ臭そうに笑っていた。あの子は、私の前ではあんな笑い方しないのに。恋は思い、ひどく虚しくなる。

「……可可さんこそ、なにか、悩み事があるのですか」

 それで話を逸らす為にそう言った。恋はその光景から目を逸らして可可と見つめ合った。それなのに、可可はすぐに吹き出してしまう。こっちは真面目に話しているのに、と恋は思う。

「いいえ、ナニも」

 そう言って可可は立ち上がった。風が吹いて、恋はにわかに涼しさを覚える。

「あのさ、すみれちゃん」

 かのんが何か言うのが聞こえた。ものすごく真剣な声だな、と恋は思った。一年生以外みんな、かのんのことを見つめているようだった。

「……一緒に自動販売機、行かない?」

 でも恋はすぐにメイを見ていた。メイのことしか見えなかった。

「いいわよ、そのくらい」

 メイの少し上気した赤い頬。

「なにしてんの、行くんでしょ」

 メイの地面に疲れた手のその指さき。ピアノを弾く手。

「ま、待って、いくから」

 かのんはすみれの後を追って、屋上を出ていった。それで急に静かになったから、恋は言い訳がましく、可可にいくつか質問をした。なんでもいいから誰かに自分の気持ちを悟られたくなかった。

 でも、ようやく歩けるようになった一年生たちが恋の傍を抜けて扉をくぐっていった。

「甘いものが食べたいっす〜夏美ちゃんいいとこ知ってないんすか〜……」

 仲良し。

「そういうのは私の専門じゃありませんの、もっと訊くのに適任な人が、ほら」

 仲良し。

「……呼ばれてるよ、メイ」

 仲良し。

「……ん? わ、私か⁉︎ そ、そんなの私もあんまり詳しくないぞ……」

 ……仲良し。

「じゃあみんなで竹下通り行かないっすか⁉︎ あそこならなんでもあるっすよ〜!」

 わいわい賑やかな声は遠ざかっていき、やがて扉の向こうで静かになった。その時、恋はなぜか千砂都に見られているような気がした。そんなにひどい顔をしていたのだろうか、と恋は思う。

「レンレン」

 不意に振り返った可可から呼ばれた。

「はい」

 なんだかつめたい声じゃなかっただろうか、と恋は思う。

「ちょっと、先に行っててくれマセンか」

 可可に言われて、恋は心底安心した。今日はもう帰ろう、と思った。向こうにいる千砂都と可可の顔を交互に見てから、理解を示すように頷いてみせた。

「分かりました……では、また後で」

 そうして可可の横を恋は通り過ぎて、薄暗い階段を降りていった。ここだけはどんなに真夏でも涼しくて心地がいい。一瞬で通り過ぎてしまうけど。

 そして恋は部室に入ろうとして、手が止まった。

「夏美ちゃーん、制汗剤貸してっす〜」

「自分の持ってこいってこの前も言いましたの! もう貸しませんの!」

「え〜ケチっすよ〜」

「まぁまぁ、きな子、私の貸してやるから、な?」

「メイは、甘すぎ……」

 だって、すごく和やかで穏やかな、笑い声や叫び声が聞こえてきたから。そこに入る気になんてなれなくて、その扉の前でいつまでも立ち竦んでいた。

 だからこっそり、階段の下が見える廊下に隠れて、恋は待とうと思った。一年生が帰ってくれないと、部室にはとても入る気になれなかった。

「なぁ、四季」

 いきなりだった。

 そこに隠れて、数秒か数分か分からないけれど、廊下の上から、色とりどりの足元が切り取られて見えた。

「…………なに」

 やがてその身体が踊り場から出てくる。先頭にメイがいて、その隣に四季がいた。

「夏休み、どっか行くか? みんなで一緒にさ」

「…………」

 メイが四季にそう言っていた。四季はいつもより無表情で、恋はそれがなぜか心に残って、なんと言うのか気になったから、物陰に隠れてじっと見ていた。

 でも、四季は何も言わなかった。ゆっくり四人は階段を下りて、やがて頭も見えなくなり、声も聞こえなくなった。

 恋は、ようやく部室に帰れるようになった、とそう思いながらも、本当はこうしたい訳ではなかった、とも思った。

 その考えを払うように恋は首を横に振ると、部室に戻って荷物をまとめた。そしてそのまままっすぐ家に帰った。

 そこでピアノを弾いていた。言いたい言葉は言えないから、代わりに歌で、と思って。

 いつまでも、いつまでも。日が暮れるまで歌っていた。

 その日が、この世界でメイを見る最後になるなんて、その時の恋はまだ、知らなかった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 その翌日。

 朝から狂ったように蝉が鳴いていた。外のどこにいるのか分からないけれど、雨みたいに叩きつけるように、蝉は叫んでいた。

 メイが事故で亡くなったのは、その日の朝のニュースで知った。

 恋はその時、メイドのサヤの用意してくれたフレンチトーストなんかを食べ終えて、普段は見ないテレビを何気なく見ていた。『次のニュースです』から始まるアナウンサーの神妙な声と共に、よく見知った地名と場所が読み上げられた。

 恋は身体が一気に硬直して、テレビ画面に目が吸い込まれるのが分かった。

『先日夕方、東京都渋谷区神宮前竹下通りにて、大型トラックが逆走し、信号を無視して横断歩道に突っ込み、学校帰りの女子高生が一人死亡したとのことです。辺りの幸せな空気は一変……一体何があったのでしょうか』

 恋は嫌な感じがして、いきなり不快な汗が身体中から噴き出すのが分かった。テレビはもう見慣れた街並みが広がっている。これ、全国ニュースだ、と気がつく。

『トラックと衝突したのは、米女メイさん(16)で、事故後搬送された病院で改めて死亡が確認されました。トラックの運転手は現場にて逮捕されて、現在黙秘しているとのことで警察は事情聴取を進めています。えー、一体なぜ、このような痛ましい事件が起こってしまったのか、現場と中継が繋がっております……』

 恋は頭をぶん殴られたみたいだった。

 一向に話が進まないアナウンサーと現場リポーターのやり取りを、恋は呆然と見ていた。なんて言いましたか、今。でも、変わった名前だから、聞き間違えようもなかった。米女、メイ。

 

 ────私の名前、全部一つにすると『数』って漢字になるんだ、おかしいだろ

 

 いつだったか、二人で音楽室にいる時に、メイがそう言ってくれたことがある。

 話の前後は覚えていない。ただそれを紙に書いてやってみて、本当だ、と驚いて感動したことしか覚えていない。な? と言って歯を見せて笑うメイの姿。

 耳障りなテレビの音を、でも消すこともできずに恋はじっと見ていた。地面が一部水溜まりのように変色しているところが映されて、恋はそれでいきなり、今食べた物を全て吐き出してしまいそうになった。

 その事実を受け止めるのに、それから先ものすごい時間がかかることになるのを、その時の恋はまだよく分かっていなかった。

 メイが死んだ。

 それが自分の全てを狂わせることになることも。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 夏休みは誰とも会わなかったから、すぐに過ぎた。恋の家は一人には広すぎて空虚に思えた。それは恋の心そのものみたいで、居るだけで苦しかった。飼い犬のチビの散歩も最低限度に控えた。

 時々、恋はメッセージアプリを開いてそのグループを見るのだけれど、それはあの日を境に何の報告も何の冗談も書かれていなくて、時間が止まってしまっているようだった。誰も何も言わないのが、かえってその事実を物語っているようで、恋は苦しさだけが募った。

 そうして夏が終わる頃、恋は久しぶりに学校に行った。夏休み中の部活の練習は無かった。そんな空気じゃないのは言わなくても分かった。

 鉛みたいに重い学生鞄を両手で吊り下げて、恋は通学路を歩いた。

 幸いだったのは、恋だけ音楽科だからクラスが違ったことだった。教室には部活のメンバーは誰も、いなかった。

「────っ」

 でも、恋が入ってきた時、明らかに教室の空気が変わった。

 ピリッとしたような、ビリッとしたような、張り詰めるような感じ。何かに気を遣って自分の呼吸さえ止めたくなるほどの、やるせない、居心地の悪い空気だった。

 そのまま席に着けば授業は始まり、お昼休みになり、また授業は続いて、そして終わった。何も頭に入ってこなかった。

 気がつくと教室はざわめきを取り戻し、数人ずつ固まって出ていっているようだった。恋はそれをぼんやりと聞いていた。誰も恋には構わなかった。

「…………あの」

 呟いた声が、今日初めて教室に入ってから発した声であることに恋は気づき、自分ではっとする。

 教室には恋以外誰もいなかった。ただ締め切られた窓と、後ろだけ半開きになったままのドアに囲まれて、けたたましいほどの静けさが満ちていた。

 恋は苦しくて、いたたまれなくて、立ち上がる。教室を後にして、半開きの扉は丁寧に閉めてから、廊下を歩いていった。静かな放課後の廊下に足音が何重にも反響して聞こえた。

 どうしてだろう。

 恋は部活に行くつもりはなかった。当然だろうと思う、でもだからといって、そのまま帰るにはまだ空は青すぎた。

 どうして、そこに行こうと思ったのか、分からない。

 ただ恋は気がついたらそこに向かっていた。部室へ向かうのとも、帰るのとも違う道、そこは。

「────っ⁉︎」

 思わず声が出そうになった。その部屋の扉の手前くらいに、細かい紙切れみたいなものが散乱していたのだけれど、その正体に気づいたから。

『科学愛好会仮部室』

 そう書かれていたらしい紙が、めちゃくちゃに破られていた。鋏で切った感じではなく、素手で破ったような乱暴な感じだった。

 誰がそれをしたのか、すぐに分かった。そんなことをする人は、そんな気持ちになるはずの人は、一人しかいなかった。

 恋はその紙切れを出来る限り踏まないようにしながら、その扉を開く。そこはするすると音もせず、無抵抗に開いてしまう。

 恋にはなぜか、そこの床一面がきらきらして見えた。そしてその真ん中に、その人がいた。

 目を奪われた。

 白衣を着た後ろ姿、青い髪は肩までで、その向こうの窓の外は青空だからこの部屋まで一面青色に見えた。

 そしてその人の左手には試験管が握られていた。それは、しかし、その人がそのまま手の内で、パキンと音を立てて割れた。真っ二つになった試験管は床に落ちてさらに砕け、きらきらしたものの一部になった。

 よく見れば、この床に散らばっているきらきらは、全部ガラスの破片だった。

 恋は呆然と扉を開け放したまま、廊下側に立ち、それを見ていた。その人の左手から赤いものが滴り落ちて、音も立てずに地面を汚していった。

「四季、さん…………」

 無数の破片にこの世界が映り込んでいた。ゆっくりと、恋の目の前で、四季が顔だけで振り向く。

「…………なんですか」

 四季はその血まみれの両目で恋を見ていた。恋はそれを見て、ぞっとした。まるで同じ生き物のように思えなくて。

 恋は何を言えばいいのか分からなかった。

 しばらく続いた沈黙に耐えきれなくて、恋は口を開いた。

「ど、どうされたんですか、これは…………っ」

 言い始めてから、恋は間違えた、と思った。どうしたもこうしたもなかった。恋が知っている情報と、ここで四季が行なっていたことが全てで、それだけだった。説明は不要だった。

 風が吹いて、廊下に落ちていた紙切れを科学室の中に持ってきてしまった。

「…………あなたは、何も思わなかったんですか」

 言いながら、四季はまた窓の外を見ているみたいだった。そっちにはいつもみんなで一緒にいた、屋上が見えた。

 何も思わなかったのか、と、そう問われて恋はかっとした。何も思わない訳がないじゃないですか。だってメイさんが死んだんですよ? 私は、メイさんのことが好きだったんですよ? そんなこと、ある訳が……

 恋は自分の作り出した沈黙に耐えかねて、そこに足を踏み入れる。隠した本音を、誤魔化すように。

「そんな訳……ないじゃないですかっ!」

 ぱきり、足元でガラスの砕ける音。絶対に元に戻らない、美しい景色を映す破片。

「メイさんが死んでしまったんですよ……⁉︎ 何も思わない訳、ないじゃないですかっ!」

 ぱきり、音が止まない。取り返しのつかない言葉の数々が砕けていく。

 ふわり

 そうして恋は気がつくと、四季を後ろから抱き締めていた。一瞬、重力というものを失くしてしまうほどの感覚があった。顔を埋めた四季の白衣はひどくつめたかった。

 そのまま粉々に砕かれた世界の上で、恋は四季を抱き締めていた。好きな人を失った者同士の親近感と、ほんの少しの、でも確かに感じた自分の奥底にある、ざまあみろという残忍な感情をどうにか隠すために。

「恋先輩」

 恋はいきなりのことに、どきっとする。名前を呼ばれたからじゃない、四季の手が、恋の腕を求めるように、引っかかったから。

「私、メイを助けるつもりで、生きています」

 四季はそう言った。それはさっきまでの冷酷な声ではなくて、確かに少しのあたたかみを感じられるものだった。

「…………どういう、ことですか」

 恋は、思わず訊ねる。助ける、なんて、もう死んだ人相手にそんな強い言葉を使える四季の思惑が、恋には分からなかった。

「タイムマシンを作って、過去に行くんです」

 四季が吐く言葉が恋の腕にぶつかって、体温と同化していった。恋はしかし、耳を疑った。タイムマシン、タイムマシン……とは、つまり、そういうものを指す言葉なのでしょうか。

「この世界を放棄して、メイを助ける……それが私の、目的です」

 でも、四季の言葉は揺らがなかった。恋は、まだ抱き締めたままのその四季のちいさなぬくもりを護りたいと、本当に自分勝手に思った。

「四季さん」

「はい」

 世界は少しずつ、壊れていった。割れていない試験管の一本もない科学室の片隅で。

「私も……その計画に、協力させてください」

 その言葉は全て本心ではなかった。ただ精一杯の嘘吐きだった。

 恋はただ四季を抱き締めていた。必死で護るように強く、壊れてしまえばいいのにと、心のどこかで思いながら。

 四季は返事をしなかった。

 割れた宝石をばら撒いたような床が、歩いてもいないのにぱきりと鳴った。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 恋が行く場所は学校。

 学校で行く場所は、教室と、昔なら屋上だった。

 でも、今は違った。

「今日は何の実験をされるんですか?」

 恋はそう訊いた。科学室の奥のテーブルに並んでいた四季に向かって。今日も、ここに来ていた。

「…………」

 四季はそのテーブルに何かを組み立てていた。左側に数字が表示されていて、それはどうやら現在時刻らしかった。中央は何かの構造のモデルのような物、右側はヘッドホンらしきものが引っかかっていた。恋にはそれが、まだ完成していない何かということくらいしか、分からなかった。

「…………いや、まだ、何もしません」

 四季は言うと、今組み立てた何かの装置を逆に分解し始めていった。

「あ……」

 恋は、四季がする実験が好きだったから、もったいなく思った。もっと見ていたかった。ここに来て、ここの空気を吸って、四季のするよく分からない実験を見ているのが恋は好きだった。そんな日々を過ごしていた。

「…………恋先輩は」

「はい?」

 開け放した窓から風が吹き込んで、するりと足もとにからみついてはほどけていく。

「恋先輩は、どうしてここにいるんですか」

 四季がつめたく言い放つ。

 恋は何も言い返せなくて、わずかに後ずさる。科学室の床が脚に引っかかった。

「……どうして」

 どうしてか、なんて、恋は考えなくても分かった。それは学校に来ても放課後いつも部活に費やしていた時間がないからで、かといってそのまま帰ってもだだっ広いお屋敷で一人、ゲームをする気にもなれなかった────ゲームをしたらむしろ思い出してしまって辛い────から、どうしようもなくて、同級生たちも皆それぞれ自分とその大切な人の心を護ることに必死で、誰も余裕なんてなかった。

 だからここに来た。

 ここに来れば四季がいた。いつも何かよく分からないことをしていて、時にこうして何かの装置を組み立ててみたり、それを分解したりしていく様を見るのが、恋は好きだった。

「……四季さんと、一緒にいると落ち着くんです」

 それは本心かもしれなかった。恋は他にどう言えばいいのか分からなかった。でも本心では、恋はメイのことが好きで、メイは四季のことが好きで、四季はメイを命懸けで救おうとしているほど、好き。

 ずきっ

 そんな音では済まなかった。恋は、喉もとまで込み上げるそれが吐き気であることに気がついて、すんでのところで堪える。

「…………恋先輩」

 そんな恋を、四季がわずかに不思議そうに見つめていた。恋は、自分が四季に、とんでもない本音を隠していることを悟られてしまわないように、必死に喉もとから溢れ出る何もかもを言葉ごと飲み込む。それはひどく酸っぱかった。

「な、なんでもないんです、四季さん……」

「…………」

 四季は何も言わずにしばらく恋を見ていた。もう季節も変わろうかというのに、空気はまだまだ熱を帯びている。でも科学室はクーラーもつけていないのになぜか涼しい。

「恋先輩」

 四季に呼ばれて恋はそちらを見つめる。

 いつの間にか用意されていた実験器具……と思いきや、ろうとにペーパーフィルターを差してそこに黒い粉を詰め込んだそれを、四季は用意していた。

「コーヒー、飲みますか」

 四季は相変わらず平坦な声で言った。でもその声にはわずかに、ほんのわずかに労いの意味が含まれているような気がして、恋は心がざわついた。

「……はい、お願い、します」

 一言ずつ恋が確認しながら言うと、四季はまた無表情のままでそれをいじり始めた。

 隣のガスバーナーを使って丸底フラスコで温めた水を、そのままろうとに通して、その下のビーカーに黒い液体がゆっくり落ちて溜まっていく。ここならではの斬新な淹れ方だったけれど、恋はそれをじっと見ていた。

 やがて落ち切ったコーヒーは二人分にはちょっと少なかったけれど、四季が科学室のどこかから出してきたコーヒーカップは少し小さいものだったので、分けて入れても貧相には見えなかった。恋は四季と座ってコーヒーを飲んだ。

「……あ、おいしい」

「……そうですか」

 四季は恋に対して別に嬉しくもなさそうに言った。二人はミルクもシュガーも入れなかった。

「…………四季さん」

 ふと、恋が口を開いた。思ったより真剣な声が出てしまった、と恋は自分で驚く。四季に対してはそんなのばっかりだった。

「タイムマシンを作る計画は、具体的にはどうするんですか」

 恋が言うと、四季はそのつめたく擦り切れた赤い瞳でどこか遠くを見つめた。

「まずは研究費が必要だから、日本で一番発言力のある大学の研究室に入る」

 四季はいとも容易くそう言った。その言葉には『そうなる』という有無を言わせぬ凄みがあって、恋はその迫力に少し気圧された。

「タイムマシンを開発するには準備が必要……理論ができていても、研究費は要るんです」

 四季は珍しく饒舌に喋った。理論ができている? と思ったけれど、恋はじっと黙って相槌すら打たないでそれを聞いていた。

 四季はすぐに黙った。

 風が吹いてコーヒーの水面を揺らして去っていった。

「……喋りすぎました、今のは忘れてください」

 四季は付け足すようにそう言った。しかし、もう恋には自分のやるべきことが見えてしまっていた。

「……はい、忘れます」

 また、嘘を吐いた。

 四季といると、恋は嘘ばかり吐いているようで嫌になった。それなのに、毎日放課後、ここに来ることは辞められない。こんなどっちつかずの自分、いっそ何かに専念できたらいいのに、と恋は思った。

 そしてそれは、思いのほか早く、見つかった。

(四季さんと同じ大学に行こう)

 恋のその思いつきは、すぐに固い決意になり、心の奥深くに根を張った。

「……四季さん」

「はい、なんですか」

 四季に言わなければならないことが恋には沢山あった。メイを好きだったこと、これからは四季を助けようとしていること。助けようと? していること。

「……いいえ、なんでもないんです」

「……そうですか」

 四季は興味なさそうに呟いた。恋はでも、もう本当は自分のやっていることの異常さに気がつき始めていた。

 好きな人が死んで、好きな人の好きな人が必死に好きな人を助けようとしていて、自分はその邪魔をする為に、好きな人の好きな人を、追いかけている。だから自分は、何がしたいんだっけ?

 だんだんと、倫理とか正義のネジが外れていくのが恋には分かった。それでも、もう恋にはそれしかなかった。

 四季に縋りついて生きること。

 追いかけて、どうしたいのかは分からなかった。協力したいのか、邪魔したいのか。ただ自分にはもうそれしか見えなかった。ついて行って自分が不幸になっても構わなかった。そんなことより大切なことがあった。

「四季さん」

「……なんですか」

 何度も名前を呼ぶと、流石に四季に若干の苛立ちの色が浮かんだ。でも恋は、四季の感情がわずかでも覗くことが嬉しかった。たとえそれが嫌悪や憎悪であっても。

「私、四季さんと一緒に、メイさんを助けたいです」

 またひとつ、嘘を吐いた。もうこれで何個目だろうか。数えても両手では足りないほど、嘘は積み重なっていた。

 四季は何も言わなかった。少し冷めたコーヒーを一気に飲み干して、心底興味なさそうな顔をした。

「……ご勝手にどうぞ」

 そしてそう、言った。

 恋のコーヒーカップに入っている黒い水面だけが、いつまでも静かに張り詰めていた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 恋は、それから放課後、科学室に行かなくなった。

 代わりに図書館に行くか、教室に残るか、もしくは家に直接帰るか、だった。娯楽はクラシック音楽と、チビの散歩だけにした。ゲームはしなかった。するだけ罪悪感と、焦げるような気持ちが胸を満たしていったから。

 そして恋がやることはもちろん、勉強だった。何もかも時間が足りないのは始める前から分かっていた。行こうとしている大学は日本一の誰もが認める名門大学で、ちょっと勉強したくらいで入れれる訳がないのも、よく分かっていた。

 でも恋は必死に勉強した。

 科学室には何度も行こうかとも思ったけれど、なかなか行くことができなかった。

 夕暮ればかり暮れない血まみれの夏はついに逝って、秋が来た。

 秋は風を吹かせ、果てしもなく心の空虚な部分を攫っていった。

 けれどそれも一瞬のことで、季節は冬。辺りは雪景色になっていた。黙っていると何もかも、雪に埋もれて消えてしまいそうだった。

 一度、ふと思い出したように科学室に行ったことがある。

 その時その扉にはもう何も貼られておらず、それが恋の虚しさを増した。ここにいるのがもう、その一人だけであるのを知ってしまっていたから。

 扉を開く。奥にその人がいる。退屈そうに窓の外を見ていた。

 恋はなぜかその時、メイのことを思い出していた。

 メイの手のひら、その細い指さき。ピアノを弾くときに、なぜか構えてから息を吸って弾く癖、その鍵盤が沈み込む時にこぼれ落ちるきらきらした音の粒。

 科学室に来ると、色々なことを恋は思い出した。ほんの半年前の生活、そこにいた人、もういなくなってしまった人、二度と会えない人。

 窓際に、その人の吐いた白い息が立ち昇っていくので、恋ははっとして意識を戻す。

 それが冬だったからじゃない。それは白い息というより、煙のように深く白く、冬の空気に紛れて消えていったから。

「…………四季さん」

 恋が呟くと、四季は緩慢な動作で振り向く。

 その左手に、それが挟まれていた。赤く焦げる葉先から、硝煙のような煙が線のように細く中空に伸びている、それ。

「……どうかしましたか」

 四季はさも当然かのように煙草を吸っていた。それを口から離すと、科学室の床に何も気にすることなく灰を指で叩いて落とした。そこにいたのは、前までの四季とは似ても似つかぬ誰かだった。

「…………」

 恋にはどう声をかけていいのか分からなかった。けれど立ち止まっているのも違う気がして、ゆっくりと科学室の中に入り、後ろ手に扉を閉める。そのまま一歩ずつ、四季のいる窓辺に近づく。

 四季はいつも通りの無表情で、恋を見つめていた。二人の間になんとも言えない沈黙が横たわっていた。四季は今吸っていた煙草を足もとに放って、脚で踏んですり潰す。それから白衣の胸ポケットから取り出したケースから新しいものを一本取り出すと、それを恋に向けた。

「…………吸いますか」

 左手の人差し指と中指で挟んだそれは、ひっそりと恋に狙いを定めていた。恋はそれをじっと見ていた。何を言うべきか考えていた。ここ、学校ですよ。未成年は喫煙しちゃ、ダメですよ。見つかったら逮捕されますよ。

 でも、その全てはどうでもいい指摘に思えた。だって、メイが死んでいるのだ。今さらその程度のことが、なんだっていうんだろう。むしろ、自分達みたいな人の拠り所として、こういうものはあるんじゃないだろうか。

「……はい」

 恋は小さく呟くと、四季の手からするりとそれを摘まみ取った。口に咥えてみる。なんだかこれだけで苦い気がした。

 四季がどこかから取り出したライターを、恋の口もとに近づける。

「……息、吸ってください、火がつかないので」

 シュ、っと火花の弾ける音がして、顔の前が熱くなる。恋は出来る限り息を吸った。

 そして咽せた。

「ゲホッ、ゴホッ⁉︎」

 一瞬だけ口の中に入ってきたその味は恋が人生で体験したことのないもので、思わず持っていたその一本を落としてしまう。

「……ご、ごめんなさい、私……」

 四季は何を見ているのか分からない赤い瞳で恋を見て、それから腰を折って床に転がっているそれをそっと自分の左手で摘んだ。

「────っ⁉︎」

 恋は驚きのあまり息が詰まった。

 四季は、火のついたまま床に落ちたそれを、自分の唇で咥えたのだ。落ちたことなど気にしないように。左手で、口もとを覆い隠すようにして。

 四季は細くゆっくり煙を吐く。四季の幼い顔立ちにそれは似合わないはずなのに、なぜだか恋はそれを受け入れていた。

 何もかもが壊れてしまっていた。それはあの日にメイを亡くしてから、何もかも。四季はもう一度、煙を吐いた。煙と一緒に、言葉も。

「恋先輩はこんなもの、吸わないでくださいね」

 恋はびくっとした。

 その言葉は、やさしい拒絶のように聞こえた。メイが死んでからの半年間、四季は一度も恋の言葉を肯定も否定も、しなかった。恋はだから四季の近くにいるのが心地よかった。ここにいれば泣かなくていい。ここにいれば苦しみは薄れる。ここにいればやるべきことも分かる。

 そんな、気がした。

 恋が二年生の冬の終わり際。

 その日が、四季が高校に来た最後の日だった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 恋は必死に勉強をした。

 試験、勉強、計算、お昼ご飯、勉強、タイマー、お手洗い、アラーム。数えられるほどしかやることはなくて、毎日は消耗品のようにただ擦り切れていくばかりだった。

 四季と同じ大学に行く、という目的だけの為に。

 部活のメンバーには誰とも会わなかった。グループチャットでも誰も何も発言しなかった。その日以前に放たれたくだらないメッセージに誰も返事ができないまま、止まっていた。恋はただメンバーが九人であるそのグループを見ていた。

 大学の不合格通知はぺらぺらの紙でやってきた。

 受かっていれば、新入生説明書などが同封されているから、分厚いのだと噂で聞いたことがあり、恋はポストに投函されていた、見知らぬ茶色の大きめの封筒を見た時にだから、あぁ、と思った。

 恋は頭が悪い訳ではなかったけれど、飛び抜けて秀でている訳でもなかった。一年半必死で勉強しただけで届くほど、そこは甘い大学ではなかった。

 春、夏、秋、冬。

 誰とも会わずに過ぎていった一年だった。話したのはメイドのサヤくらいのものだった。チビの散歩にも片手で数えるほどしか行かなかった。

 恋には将来したいこともなく、でもここにいたい訳でもなかった。

 高校三年生の恋は、そうしてついに、卒業式にも出席しなかった。目的はただ一つ、四季を追いかけること。それ以外はどうでもよかった。

 身も心もぼろぼろになった恋には、もうそれしか見えなかった。

 四季を追いかけて、傍にいたいという、因果関係のぐちゃぐちゃな願い。

 こうして恋は、浪人をすることになった。

 

 それからも季節も時間も落下する水のように呆気なく過ぎていった。

 浪人生活というのは、やらなければならないことは山ほどあるのに、時間をどう使っていいのか分からないから、狼狽えている時間の方が長い。

 無意味な、一年だった。

 恋はこれほど早く、空しい一年を初めて過ごした。

 覚えていることがないくらいに、何もない一年だった。時々勉強をするフリさえした。何かをしているフリ。そうしないと、精神がおかしくなってしまった。自分の異常性を自覚してしまうことが、恋には何より怖かった。

 桜を踏み締めて歩いた。

 夏風は袖を揺らして涼しかった。

 秋は紅葉が赤くて目に悪くて。

 冬は白い雪が降らなかった。

 そして恋はその年も受験に落ちた。

 十九歳だった。翌年は二十歳か、と恋はぼんやり思いながら、不合格通知をその前の年と同じように机の引き出しの一番奥にしまった。

 それからダイニングルームで食事を摂って、なんとなくリビングでテレビを見ていた。するとそこに、知っている顔が映っていた。

『××大学合格としては史上初の満点となる合格ですが、今どのようなお気持ちでいらっしゃいますか⁉︎』

『学内外から神童と呼ばれておられるみたいですが、新聞向けに何か一言お願いします!』

 インタビュアーたちがその人の周りに群がって、その人ばかりが青くて綺麗なので、カメラを持った人たちは、綺麗なものに群がる蟻にしか見えなかった。

『…………興味ない』

 その人は、心底嫌そうにそう言うと、踵を返して歩いていってしまった。あ、待ってください! もう一言だけでも!

 食い下がるインタビュアーたちの後ろ姿を見せられるだけで、その人がどれだけ嫌なのかが分かった。世間から見たその人の扱いは、よく光ってくれるスーパースターだった。

 恋は、テレビを消して、自室に戻る。部屋中に溢れている自分の努力の証。

 もう、やるしかなかった。恋はそうしてもう一年学んで、大学に挑むことを、決めた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それから恋が二十歳になるある日、同窓会に参加しないかと、久々にグループで連絡が来た。夏美から来たそのメッセージを、最初何事かと思った。その時、恋はお風呂上がりで髪についた水気をタオルで押し当てて取っていた。すぐに勉強に戻るつもりだった。

 部屋の机の上に置いていたスマホに表示されるメッセージ。触れられないのですぐ消えて黒くなる画面。

「…………」

 恋は受験前だったけれど、なぜか行こうと思った。もしかしたら、みんなの前でなら、昔みたいに振る舞えるかもしれない。何事もなかったかのように、笑い合えるかもしれない。恋はそう思った。

 そして、そのずっと後の夜。

 ある都内の居酒屋の一番奥の座敷に乗り込んできたその人に、なんて言えばいいのか、恋は分からないはずだった。

 でも、なぜか口はするすると動いた。

 ────四季さん、何か食べませんか

 ────四季さん、生以外は飲まないんですか

 ────ほら、簡単なカクテル類もあるみたいですが

 ────四季さん、ほら、私が注文して差し上げますから

「……結構です」

 四季は恋が言った言葉には、大体無表情で拒絶した。生以外は飲まないのか、という問いに対してだけ、四季は比較的長めに口を開いて、生はどこで飲んでも味がある程度変わらないから、ということを説明してくれた。恋はへぇ、と思って聞いていた。その時に、ふと、恋は自分が二浪して二十歳になる年なのだから四季は未成年なのでは? と思ったけれど、それは言わなかった。そこでは四季は、さも当然であるかのように煙草をふかしていたから。

 ほんの少し、隣の席にいた。

 恋は久しぶりに四季の近くにいられて嬉しかったような気がした。それはまるで昔みたいな、あたたかくて中身のない、思い出そのものみたいな夜だった。ただ違うことは、ここにいるのが八人であること。そして、誰もが理性を失えるお酒というものを片手に、ちょっといい居酒屋の料理をつついたりしていること。そして、煙草の匂いが左肩越しにすることだった。

 恋は、四季と一緒に帰るつもりでタイミングを見計らっていた。

 でも、ある時四季がお手洗いに立ってから、ずいぶん長い時間帰ってこなかった。恋は長い間隣に誰もいなくて、そこにいるそれぞれがそれぞれの空気感で寄り添っているのに耐えかねて、外に出た。

「────っ」

 恋は息が止まった。

 その出てすぐの床に、一万円札が置いてあった。飛んでいかないようにいくつかの小銭を重石代わりにして。

 すぐに四季だと分かった。恋はその場でしばらく、立ち尽くしていた。空になったビールジョッキに残った泡が脳裏にちらついては消えていった。

 もう、四季がここには現れないことは分かっていた。本当に気まぐれなのだ、いつも、いつも。きっと四季は、あの日から、ううんそれより前からずっと、一人のことしか考えていない。

 恋は思い、自分もかつてはそうだったはずなのに、その気持ちがもう薄れていることに、そこで気がつく。

 愕然とする。

 今や、メイへの恋心より、四季への執着心の方が強くなってしまっていた。

 恋は立ちすくんで、遠のいていく居酒屋特有の金具の擦れる音や馬鹿みたいな笑い声、明るい物音の数々を聞いていた。

 恋はしばらくしてから振り返って座敷に戻り、出入り口付近にまとめていた荷物の中から自分のバッグとかけていたコートを取って、誰かに何か言われる前に部屋を素早く出た。

 帰って最後の詰めをしなくちゃ、と恋は気合いを入れ直す。もう三度目の受験は目の前だった。

「…………あ、お金」

 恋はそれを払わずに出てきてしまったことに、靴を履く段階で気がついた。

 それで、自分の財布から一万円を取り出して、恋は腰を屈めた。

 そこに置いてあった一万円をそっと持ち上げて、自分のを滑り込ませる。

「…………ごちそうさま」

 恋は目を閉じて呟いて、くるりと振り向いた。

 がやがやうるさい居酒屋の一番奥の座敷席。その入り口の手前に、二万円とちょっとが、静かに床に落ちていた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 春になっても、恋はいまいち実感が湧かなかった。

 ずっと引きこもって勉強ばかりしていたから、生活での娯楽といえばクラシック音楽を聴くかピアノを弾くかくらいのもので、外界と触れ合う機会など一度もなかった。五線譜より複素数平面の方が見る機会が多かった。

 だから実感が湧かないまま、恋は入学式に臨んだ。大きな大学、並び立つ人の中、恋は自分の学校とはすごい違いだ、と思った。

 恋は、努力に努力を重ねてついにここに入った。

 でもここに受かったことが嬉しいのではなかった。

 ここには、あの人がいるから、私がここまで興味もない理系の勉強を必死にやった理由の、その全てが、ここに。

 恋は胸がざわめき立つのを抑え込むように控えめな呼吸をして、人波に耐えていた。ここに、この学校に、このキャンパスのどこかに、あの人がいる。あの日以来、ずっと会えなくて、連絡さえ怖くて出来なかったあの人が。だから恋はこんなところまで来なくてはならなかった。

 恋はキャンパス内の、少し太い木の周りを囲うように設置された背もたれのないベンチに座りながら、そう考えていた。

 夏。

 でもその人とはすれ違いすらしないまま、日々は過ぎていった。

 学食に行けば会えるんじゃないかと思ったけれど、そんなことはなかった。木漏れ日がそこかしこで風に揺すられて、サァサァ葉の擦れる音を立てているだけで、日差しはじりじり肌を焼いた。果てしなく続いていきそうな夏の中で、毎日やるべきことをこなしていった。ただ成績だけは良いものを取ろうと思って、勉学は怠らなかった。

 秋。

 でもその人のことは風の噂で聞くこともなく、日々は過ぎていった。

 あんなに蒸し暑かったのに、その風はどこへ行ってしまったのか、今や木枯らしとも呼ぶべき乾いた風が、落ちた紅葉を攫っている。代々木公園にでも行けば紅葉を見ることができたかな、と恋は思って、ベンチから空を見上げた。青い空が抜けるように広がっている。ふと目を落とすと、最近勉強していく中で興味を持っている量子力学の本が膝の上に開かれて乗っていた。あの人に近づく為、最初はそれだけだったはずが、どうしてか、勉強そのものが楽しくなってきていた。恋は今や同学年では五本の指には入るほどの優等生だった。丸底フラスコでコーヒーを淹れてもらって喜んでいたあの頃とは訳が違った。身体も、心も。

 はぁ。

 吐いたため息が白い空気になって立ち昇っていくのを見ていた。

 気がつくと、息さえ白く染まってしまうほどに辺りは冷え込んでいた、冬。

 あの人には会えず終いだった。でも恋はその頃もう自分の勉強で充実していたし、生活のサイクルも完成していた。全てはだんだん過去の出来事になってきていた。かつては恋は、自分の好きな人の死から、訳も分からずここを目指した。縋りつくべき人へのそのぐちゃぐちゃに黒ずんだ感情だけを胸に残したまま、吐く息は白く透明だった。

 恋は、道行く人が皆服を着込んでいるのを見て、今自分の着ているコートが、去年の同窓会に着ていったものだな、と思い出した。なんだかそれは少しだけ前のようでもあり、もうずっと昔のことのようにも思えた。果てしもなく続いていく道の、ほんのわずかな出来事のように思える不可逆の変化。これを人は思い出と呼ぶのかなと、恋はぼんやり考えていた。

 こうして巡っていく一周、二周。

 変化し続けながら何も変わり映えしない日々を辿りながら、恋は生きていた。

 だからその時まで忘れていた。

 理系は三年次に大学の研究所に入ることになっていて、恋はすっかり大人びてしなやかになった指なんかを携えて、大学のあまり行ったことのない棟の行ったことのない部屋の扉を叩いた。講義室のような大部屋じゃないので、当たり前だけれど狭く感じた。

「失礼します、私、葉月恋と────」

 言いかけて、恋は言葉を切らせた。

 忘れてたのだ。自分が何の為にあれほど執着をしたのか。この何年も、四季が過ぎ去ることさえ忘れていたのか。

「…………え」

 その人は一瞬驚いたような顔をして、恋を見た。でもすぐに無表情に戻る。驚いたような声を初めて聞いたような気がして、その一文字が耳の奥に響いてよく残った。

 その人の青い髪は相変わらず長過ぎてぼさぼさで、白衣を包み込むように垂れ下がっていた。その人の赤い瞳に見つめられるのは、なんだかものすごく久しぶりな気がした。

「…………四季、さん」

 恋がようやく呟くと、立ち止まったその人が胸もとに抱えていた何かの書類から、何枚かが抜け落ちて、ひらひらと宙を舞った。

 地面に落ちた紙切れを踏まないように、恋はその人に近づく。じりじりと焼ける距離を、やっぱり誰も止めることができない。

「今日から当研究所配属になりました、葉月恋です……よろしくお願い致します、四季、先輩」

 そう言って恋は頭を下げた。精一杯の本音のつもりだった。でも何の反応もなかったので、恋は下を向いたまま、なかなか動けなかった。

「…………はぁ」

 やっと空気が動いたので恋が顔を上げると、わずかに眉を顰めるその人がいた。

「何しに来たんですか……恋先輩」

 そうして、また時計の針は動き出す。時間というものはある日突然止まったり、ある日突然猛スピードで動き出したりする。

 恋は果てしない気持ちで、またひとつ、嘘を吐いた。

「……四季さんを、助けに来ました」

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 出逢いと別れ。

 時間と空間。

 記憶と思い出。

 自然対数と現実世界。

 位相空間の連結空間。

 別に知らなくてもいいけれど知っておいた方がいいいくつもの常識。

 その中、この中、いつもの中。

 あり得ないくらい何もない中で何もかも起こってくれればいいのにと、恋は半ば本気で思っていた。

 恋と四季は、それからその研究所で、一緒に学校生活を送った。恋は、四季と同じように白衣を着た。まだ新品で、パリッとした白衣だった。

 ある日、四季がお昼ご飯を毎日栗オ・レ一パックだけで済ませていると知って、恋は大慌てで四季を学食に連れ出した。

 四季は最初、物凄く嫌そうな顔をしていたけれど、いざその日替わりのとんかつ定食とかが出てくると一瞬だけれど確かにその瞳に光を宿して、それから席について静かに食べるのだった。恋はそれを向いの席で見つめていた。はたまた隣の席で、安堵したように、いつも。

「……恋先輩」

「はい、なんでしょう」

 別の日、他のメンバーや教授たちは帰ってしまって誰もいない研究所に、二人ともそれぞれの用事で残っている時だった。四季が自分のデスクの椅子を回転させて身体ごと向き直り、歩いていた恋を呼び止めた。

「…………」

 四季がじっと恋を見ていた。

 四季にしては珍しく、何かを言いたげな様子だった。この研究所に来てから二ヶ月ほどだが、四季から何かを言ってきたことはなかったので恋は驚く。

「…………ど、どうかしましたか、四季先輩……?」

 恋が言うと、四季はまた一瞬だけ嫌そうな顔をした。

 どうしてなのかは分からない。ただ四季といるうちに、四季がどう思ってるのかが、何となく恋には分かるようになってきていた。表情とかも、ほとんど変化がないのに、空気だけでそう思えるのが恋自身にも不思議だった。

「その……」

「…………はい」

 四季は自分の投げ出した足もとを見ているみたいだった。恋は真面目な話かと思い、ごくりと喉が鳴るのが分かった。

「…………それ、やめてくれませんか」

「……それ?」

 恋が首を傾げると、四季はゆっくり顔を持ち上げて、言った。

「その、私のことを先輩って呼ぶの、調子狂うんで」

 四季は恋を嫌そうに見つめていた。でもその表情は完全な嫌悪だけではなくて、確かに別の感情が混ざっている気がした。それが何かは、恋には分からなかったけれど。

「……では、どうすればいいでしょうか」

「今まで通り、四季さんでいいですよ……」

 四季はどうもこうもないだろうと言いたげに吐き捨てた。でも、それはいいけれど、それなら恋にだって納得がいかないことがあった。

「じゃあ、四季さんも」

「……は」

 恋は四季に一歩近づいて、言う。四季に強気に出たのなんて、本当にいつぶりだろう、と恋は思った。

「四季さんも私のこと、恋さんって、呼んでくださいね」

 恋が言うと、四季の目尻がぴくりと動いた。それは今までで一番、四季の表情が動いた瞬間だと、恋は思った。

 二人とも何も言わないので、二人きりの部屋に恋の言葉はなかなか消えなかった。

「…………はぁ」

 四季はため息を吐くと、自分のパソコンをシャットダウンして立ち上がった。そのまま四季は恋の横をすり抜けて、入り口の方へ歩いていった。研究所の横開きのドアに四季は左手を引っ掛けて開く。

「…………あっ」

 恋はそこで、四季はいつも何も荷物を持たずにここにやって来ることに気づく。

 こちらを振り向いた四季の顔が、いつもより少しやさしいような気がした。

「……早く用意しないと置いていきますよ、恋さん」

 そう言って開いた扉が閉まらないように、四季は自分の背でそこにもたれていた。

 外の空気はもう夏のそれに近かった。

「はい! すぐ用意します! ちょっとだけ待っていてください!」

 恋は大急ぎで片付けを始めた。

 この後は、どうせ晩ご飯もちゃんと食べない四季に、晩ご飯を食べさせなきゃな、とそう思いながら。

 そのわずか二ヶ月後、追いついたはずの四季にまた置いていかれることになることを、この時の恋はまだ、知らない。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 軋むように蝉が鳴く声が、起きた時から窓を叩いていた。

 その日、いつも通り、電車を何本か乗り換えて行ったそこが、何かおかしいことに恋は気づいた。

 最初はただ人が多いだけかと思った。

 でも、歩いているうちに、どんどん人が多くなっていって、最終的には目的地はほとんど人だかりで封鎖されていた。

 しかも、そこにいる人たちは民間人ではなく、大きめの軽バンみたいな車からいくつもの肩に抱えるような大きなカメラを取り出した、マスメディアたちだった。

 何か大事件か大事故でもあったみたいな物々しい雰囲気に、恋はどうしようかおろおろするばかりだった。道端に寄って、自分の大学名を検索ボックスに入れて────目を疑った。

 よく知った人が、大講義室の壇上で、何かを発表している映像が映っていたのだから。

『物質圧縮というこの技術は最先端の物理学、化学、量子力学を以ってしても到底実現不可能な技術であることは説明せずとも皆様にも伝わるかと思います……ですが実際にそれが成されている様子を、我々メディアに公開しようというのです……』

 リポーターの困惑したような声に、世論も同様の様子だった。

 恋もまた同じだった。だってその人は、そんなこと誰にも、一言も言っていなかったから。恋たちがしている研究内容は、もっと範囲の限定的な、物質をどれだけ引き伸ばせるか、という最先端の医療用の技術のはずだった。

 だから、四季が裏で進めていたことなど、恋は少しも知らなかった。

 スマホの小さな画面を見つめながら、みしみし言う蝉の鳴き声を、いつまでも聴いていた。

 

 結局恋が研究室まで辿り着いたのは昼下がりと呼ぶにも遅い時間だった。

 大学はまだ内外共にすごい騒ぎで、当然メディアもネットも、そのまま大騒ぎだった。

 恋が廊下を駆け抜けてそこの扉を開くと、そこに、最初にここを訪れた時と同じ場所に、同じ人が立っていた。

「……はぁ、はぁっ、っ…………」

 恋は肺に入ってくる八月の生ぬるい空気が、いつもついている研究室の冷房によって冷やされた空気と入れ替わっていくのを感じた。でもいつもみたいに、それは落ち着いた感じではなかった。

「…………っ、四季、さん」

 恋が言うと、四季はゆっくりと身体を恋に向けた。奥の四季の荷物の少ない席が、いつも以上に空っぽに見えた。

 その時の四季の右手に、いつも四季が吸っていた煙草のケースが握られていた。喫煙禁止のはずのここで、先の焼けたそれを四季は咥えていて、それを空いた手で外すと、足もとに無造作に放った。

「…………ここも」

「え?」

 四季の言葉はその口から吐かれた薄い煙に紛れてよく聞こえなかった。

「ここも、もう、私には用事がなくなりました」

 四季はそう言って、研究室のピカピカに磨かれた床に落とした煙草を踏み潰してみせた。そのまま四季はそれを見ることもせずに、恋に向かって歩き出す。

 用事がなくなった? 四季さんは何をするつもりなの? 今朝の発表は一体何? 何をしようとしているの? あの、四季さん、私は────

「待って、ください」

 恋は言うと、扉の前に立ち塞がった。会わない間に身長は逆転されていて、高校生の頃は恋の方が高かったのに、今や四季の方がわずかに高いほどだった。

「……四季さんは、何をしているんですか、何であんなものを、作れたんですか、何をする、つもりなんですか」

 細切れに恋は言った。それは自分が動揺していることを、自分と目の前のこの人はもう違う世界にいるのだということを、自分で自分に教えているようだった。

「…………」

 四季は黙って右手に持っていた煙草のケースを白衣の左胸にあるポケットにしまった。

「……昔、恋さんに言った通りですよ」

 恋は言われる。考える。言われたこと、積み重ねてきた時間、自分達が何をしようとしてきたか、楽しくお勉強をする為に? 人々の未来に貢献することが私たちの願いだったはず……ですよね、あれ?

「私は、タイムマシンを作る為に、政府の研究機関に身を置きます……もう二度と、会うこともないでしょう」

 恋はそれを聞いて、いきなり死刑宣告をされたような気持ちになった。

 タイムマシン。

 遠い日に科学室で言われてから、聞いていなかった言葉。恋はあの時は四季の言葉を信じたはずだったのに、時の経過と共に、なぜか都合よく、それを忘れてしまっていた。そんなことは過去のことだと思い込んでいた。

「し、四季さ……」

「私はメイを助ける為だけに、生きています……そこを、退いてください」

 四季の放った言葉は、今まで恋と交わしてきたどんな言葉より熱がこもっていた。その熱の中心にいる、その人の名前。それを聞いた瞬間、恋は一気に身体が熱く脈打って、世界が大きく揺らめいた。

 何とか身体を支える為に、開いた扉を押さえ込むように恋は手を引っ掛けてもたれかかった。

 そんな恋の横を、四季はいとも容易く通り過ぎて行った。すぐに足音が遠ざかって、静かになる。遠くでつくつくぼうしが鳴き始めていた。

 

 ────私の名前、全部一つにすると『数』って漢字になるんだ、おかしいだろ

 

「────っ‼︎」

 ふと、ずっと昔、冗談めかして音楽室で話してくれた人のことを、恋は思い出した。その人に自分が抱いていた感情も、一気に。

 記憶の雨が降っていた。遠くの蝉時雨。だから時の雨と書くんだな、と恋はぼんやりした頭で思った。ミィん、ミィん、ジィィ。

 そうして恋は思い出浸しになりながら、ぬるい空気とつめたい空気の混ざり合う研究室前で、じっとしていた。

 踏み潰されて生き絶えた吸い殻が、すぐそこに転がっていた。

「…………私、メイさんの、こと」

 恋は言いながら、それがもうかつての感情とはまるで違うものであることに気づいてぞっとする。

 メイのことが好きか? 恋にはよく分からなかった。メイが好きな四季が好きか? 恋は首を縦には振れなかった。じゃあ四季のこの計画に賛成か? 恋の胸の不快感がそれを否と叫んでいた。

 そうして恋は気がついてしまう。

 四季が自分ではない人をずっと見つめていたことに。

 四季があの日に失ったもの全てを、本気で取り戻そうとしていることに。

 自分はその四季の壮大な計画の、ただの駒でしかないと言う事実に。

 恋はいつまでも動けないまま、そのことについて考えていた。

 あ。

 そして恋は突然思った。

 猛烈に、どうしようもなく、四季を不幸にしてやりたい、と。

 それは今まで胸の中に渦巻いていて、不定形だからずっと名前をつけずに誤魔化していた感情だった。次々と、それらに名前がついていった。共感、羨望、嫉妬、逆恨み。醜い感情が吹き出し、恋はこんなに高い場所まで羽ばたいてしまったことに、自分で勝手に絶望する。

「私ってば、最低、ですね……」

 呟いた声を慰めてくれる人は、もう別の人を追いかけて、今去ったばかりだった。

 つくつくぼうしが息絶えるまで、叫び続けていた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それから四季は本当に研究所には現れなかった。

 季節は呆れるほど早く通り過ぎていった。

 夏はあの夏のように逝った。

 秋はあの秋のように枯れた。

 冬は深々と音もなかった。

 春にはそこらじゅう桃色が落ちていた。

 瞬きひとつすればもう、夏だった。何度目かも分からない、けれど今までのどれとも違う、夏。

 変わり映えしない日のうちに、四季は時の人になっていた。ノーベル賞を取り、その発明は軍事的利用価値が高すぎたせいで日本政府によって独占され、一部の人間の地位が極端に向上し、持つものと持たざるもので格差はみるみる増していった。

 恋はそれでも、やるべきことをこなしていった。日々は淡々と過ぎていった。自分が何をしているのかは、何も分からないまま。

 恋は自宅と大学の研究室を行ったり来たりした。季節の足音がする度に、新宿ばかり明るくなっていった。それは星の光を吸い込んだみたいで、その分他の街は暗くなっていった。

 そして恋が家に帰ると、何やらリビングの方が騒がしかった。

 恋はなんだろう、と思ってそちらに歩いていく。ちらりと顔だけ出してそちらを確認する。

「…………わ、わぁ……」

 そこで恋は、テレビの前に膝をついて画面に見入っている、メイドのサヤを見つけた。

「どうしたのですか?」

 恋が言いながら、リビングに入っていく。サヤが驚いたように恋を見つめて、それからまた画面を見て言った。

「……お嬢様の同級生ですよね、この方」

 サヤが見ている画面を恋も見た。そして、息が止まった。

 フラッシュを浴びるその姿。人々は阿鼻叫喚といった様子で、何を叫んでいるのかも分からなかった。それは記者会見というよりはもはや暴動に近かった。よれた白衣を着て退屈そうにその人はその渦の中心にいた。

「────っ」

 恋には、何も言えなかった。続々と投げつけられる非日常の嵐は、いつしか恋のいる日常さえ薄れさせていった。そして四季は、本気でタイムマシン開発に近づいていた。

 物質圧縮、空間転移。

 それが可能なら、後は膨大なエネルギーと光速移動ができれば、理論上はタイムマシン開発は可能だった。しかしもう自分は、それに関わることができない。恋はただ一人の無関係な傍観者であることしかできなかった。

 その瞬間だった。

 恋はこの世で一番最悪なことを思いついた。

 四季は、今までもずっと、世界を利用してきた。高校も、大学の研究室も、恋のことでさえ。そして四季は、研究をするには研究費が必要だと、ずっと昔に言っていた。四季の目的はただひとつだ。恋のことなど眼中にないくらい。それならきっと、次も同じだろう。

 恋は、四季がタイムマシン開発を中途で終わらせて、お金と場所だけ使って政府を裏切るつもりであることを、密告しようと思った。

 それは最悪の発想で、最悪すぎて思わず自分で乾いた笑いが漏れた。テレビ画面には地獄が映っている。恋はそこに飛び込む正義の執行人か、はたまた地獄の水先人か、まぁ、なんでもよかった。

「お嬢様、夕食の支度ができていますよ」

 サヤに呼ばれてはっとするまで、恋はぼうっと突っ立っていた。

 また、やるべきことが決まってしまった。

 恋は静かに息を吐いて、テレビを消す。

 音が、消えた。

 耳が痛いほど。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それから恋は、現内閣の閣僚である法務大臣や文部科学大臣なんかを両親に持つ子に連絡をして、なるべく内閣総理大臣に近い人に連絡を取ろうとした。幸いというか恐るべきことに、日本を動かしているのはほぼここの大学出身のエリートばかりだったので、コンタクトを取ることは難しくなかった。おまけに恋は()()若菜四季の研究室にいた人間なのだ。怖いくらいするすると、恋の話は内閣まで運ばれていった。秘密裏にそれは行われて、恋は自分がとんでもないことをしようとしている感覚だけはあったけれど、止まることはできなかった。

 治安は目に見えて悪化していた。新宿に近い街にはかろうじて背の高いビルも残ってはいたが、それは新宿という名前の異常なまでの未来都市の下で、くすんでいた。

 そんな擦り切れたある日のことだった。

 恋が大学の卒業式から帰ってきた、その日、荷物は丸い筒一つだった。

 チビが死んでいた。

 玄関で、その白いもふもふの毛並みに指を埋めて、抱き抱えるようにサヤが泣いていた。サヤは帰ってきた恋を見ると、痛ましそうに目を逸らした。

 でも恋は泣けなかった。

 あの日、大切な人を失うという経験をして、それにずっと囚われて生きてきた恋にとって、生き物が死ぬのは当たり前だったから。

「……お嬢様」

 玄関で俯いていると、サヤに声をかけられた。

「お嬢様も、最期に撫でてやってください……チビは、お嬢様といるのが、大好きでしたから」

 恋は呆然としてそれを聞いていた。ふと思い出したように歩いて、サヤの隣に腰を下ろした。

 そしてその白い大きな生き物だったものに触れる。

「────っ」

 つめたかった。

 すごくすごく、冷ややかだった。

 それでふと、思い出した。

 チビはすごく小さかったことを。

 チビはすごく人懐こかったことを。

 チビはすごくあたたかかったことを。

 どうしてだろう。

 気がつくと、恋は泣いていた。さっき強がって泣かなかった分、余計に涙が溢れて止まらなかった。ぼろぼろぼろぼろ、涙が落ちてチビの毛並みを濡らしていった。

「……お嬢様」

 サヤが肩を抱いてくれた。恋は目の前のつめたい、かつて生き物だったなにかに触れながら、時間と空間について考えていた。どうして生き物は死ぬんだろう。どうして別れは訪れるんだろう。どうして、人はそれを選べないんだろう。

 恋は泣いた。サヤと一緒に、二人と一匹でいっぱいの、決定的に何かが欠落している玄関で。

 恋のポケットに入れていたスマホが震えて、恋は泣き疲れたのでそれを見る。

「────っ⁉︎」

 そこに、とある住所が貼られていた。恋がずっと知りたくて、ついに辿り着いたそこ。でも、どうしてこんな悲しいタイミングなんだろうか、と恋は思わずにはいられなかった。

 人生は何もかも変わっていく。生き物には寿命がある。時間には限りがある。

 それを越えようとするのは、冒涜かもしれなかった。

 でも恋にはもう何も残っていなかった。あるのはただ、四季を追いかけたいという、手段なのか目的なのかも分からないぐちゃぐちゃの感情だけで。

「サヤ」

「……はい」

 恋はゆっくり、口を開く。

「チビは庭に埋めましょう、綺麗な花を供えて」

 かろうじて、そう言うことができた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 春は嘘みたいに綺麗だった。

 恋はよりいっそう静かになったような自宅で、いつも通りサヤの作ってくれた朝食のハムエッグなんかを食べて、用意をして出かけた。朝食は美味しかったけど味がしなかった。

 恋は今日行く初めての場所への道を歩きながら、今までの何もかもを考えていた。自分がこの一年でやってしまったことも。

 もう後には引けなかった。

 改札にICカードをかざして、前はこんなに空いていなかったはずのガラガラのホームから山手線に乗り込む。たった一駅分しかないのに、無限にも長く感じられた。扉のところのガラスに自分の姿が映っていた。それはとても自分とは思えないほど悲しい顔をしていた。

 歩いて、恋はじりじりとそこに近づいていった。そこだけを求めていた。街中に木は一本もなくて、人工的に空間は統一されていた。

 新宿の内側。限られた人間しか入ることが許されない地域。

 やがてそこに辿り着く。

 ビルの入り口には何重にも認証装置がついていた。指紋、瞳孔、顔。

 恋はそれを淡々と受けて、ピーという音だけ鳴らして沈黙したそこを抜けた。入ってすぐの一階にはエレベーターが二つあるだけで、他には何もない。

 しかしその間にあるのは階数を押すボタンではなかった。そこには0から9までの数字が押せる電卓のような板が埋まっていて、恋はそこに数字を入力していく。

 最後まで押すと、いきなり左隣のエレベーターが開いた。恋はそこに乗り込む。このビルは上はもぬけの殻で、地下に行くしかないのだと、事前に説明されていた。

 ただ二つ『1』と『B5』しかない、そこの灯りが入れ替わるまで、ものすごい時間がかかったような気がする。小さな箱の中で、恋はじっと、扉に頭をつけて、待っていた。

 チィン

 緊張感のない音が響いて、ようやくそれは止まった。恋は扉が開いたのを確認してから、足を踏み出す。コツン、と高い靴音が何重にも反響した。

 恋は歩いた。薄暗くて長細い廊下を、奥まで。

 そしてそこにあった扉に手をかける。回して開くタイプのドアは、最近ではもう見ることがなくなっていたから、珍しいな、と思った。

「…………お邪魔します」

 恋がそう言ったのと、扉を回したのと、白い光が溢れたのと、その部屋の中心で、その人が振り返って恋を見たのは、順番に起こったようでもありながら、連続性がないようにも思えた。

「…………え」

 その人ははっきりと驚いた顔をして、恋を見ていた。

 その人の青い髪は相変わらず長過ぎてぼさぼさだった。白衣は前よりずっと汚れていて、ところどころに穴さえ空いていた。その人の赤い瞳は、実に二年ぶりだった。

「今日から当研究所配属になりました、葉月恋です……よろしくお願い致します、四季、さん」

 そう言って恋は頭を下げた。なんだかいつかも似たやりとりをしたことがある気がするな、と恋は思って、こう思う。私たちはひょっとして同じことを繰り返しているだけなんじゃないか、と。

「何しに来たんですか……恋さん」

 四季の問いに、恋はわずかに怯んで、でもすぐに体勢を立て直す。それから息を吐くように、そう言うのだった。

「……私もメイさんを、助けに来ました」

 ほら、また。

 言っちゃった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それから恋の生活はほぼ全てそこでされることになった。シャワーがついているばかりか、仮眠室までついていたので、後は食事さえ摂れれば生活の大部分は成り立ったが、二人はあまり食事をしない生活習慣になっていたので、それも気にならなかった。それに近くにコンビニくらいはあった。

 恋は四季と、地下深くで一緒に過ごした。四季は寝る時間は三時間にも満たなくて、いつ寝ているのか恋にはさっぱり分からなかった。相変わらず煙草ばかり吸っていたので、研究室は煙臭かった。

 四季は恋の知っている通りタイムマシンの研究をしていて、もう構想は出来ているらしかった。後は現物を作るために様々な必要なパーツを揃える必要があるくらいだったので、恋が積極的に何かをすることはなかった。必然的に恋は四季の健康管理とか、進んでやろうとしない部屋の片付けや洗濯なんかをすることになった。

 恋は四季とあまり会話をすることがなかった。四季のしている諸々の作業を隣で見ていて、ただ時々小さく歓声を上げるばかりだった。四季がやることは全て、正に天才の所業で、必死に勉強してここまで来た恋でも、理解するのでやっとだった。

 恋はまたしても、その日々に慣れ始めていた。人間は自分の心地いい環境から動きたくなくなる生き物なのだと、恋はそこで知った。

 だから、その日、スマホのニュースが大騒ぎしているのを見て、恋は背筋が冷えた。

『渋谷付近の建物が一部消滅‼︎ 原因は昨年発表された悪魔の科学者の持つ空間転移装置を利用したものと思われ……』

 それは、四季に見せるべきニュースなのか、そうではないのか、もしかしてもう四季は知っているのか、恋は仮眠室のベッドの上でスマホ片手に逡巡していた。

 でも、恋には四季に言わなければならないことがあった。それは自分が、ここにいられる理由でもあった。

 ベッドを抜け出して、着替えなどを全て置いている研究室の中心の部屋へと向かう。人が暮らすことを想定して作られた場所ではないから、物を置く場所はそこしかなかった。薄暗くて、夏なのに肌寒い通路を抜けて、すっかり見慣れたそこに着く。

「……おはようございます」

 四季は今はパソコンに向き合って、何かの作業をしていた。まだ早い時間なのに。

「おはようございます、四季さん」

 恋は言うと、置いていた自分の持ち物の中から着替えを取り出して、躊躇なく寝巻きを脱いで、それを着た。ここには四季しかいなかったし、恥じらうことは最初の数回だけで、四季も何も気にしていない様子だった。だからお互いの前で下着姿になることも、自然に恋は気にしなくなった。

 その最後に腕を通すのは、もちろん、白衣だった。大学でそれは着ていたから、二年分だけよれていた。恋はここではこれを着て四季と過ごした。

 恋はそれからさっきの事件を思い出して、呼吸を整える。四季に向かって、呼びかける。

「四季さん」

 思ったより真面目な声が出て、恋は自分でその響きにびっくりする。

 いつも言葉には気づかされてばかりだ。言ってから、気がつく。

「……はい、なんですか」

 四季はそれを感じ取ってくれたのか、キーボードを打つ手を止めた。部屋は急に静かになる。この部屋は円形で、中心に、試作段階のそれが鎮座していた。その周りをデスクが囲んでいる。

「四季さんの発明は、軍事的利用価値が高いとされています……いつ戦争の引き金となってもおかしくないと」

 恋は自分が今から言う内容を、もう一度頭の中で整理し直していた。静かな二人きりの研究室に恋の声はよく響いた。

「だから今も四季さんは政府の監視下……私は、本当は、四季さんを監視する為に、政府から雇われて、ここに来たんです」

「…………」

 恋がそう言うのを、四季は黙って聞いていた。恋は口が動くままに、続けた。

「今まで黙っていたことは、謝ります……私が何の目的で来たかについては、言っていませんでしたもんね」

 恋が言葉切らすと、四季は珍しく興味を示した様子で、恋を見て言った。

「…………それで?」

「私は……メイさんを助けたい……だから、四季さん」

 本当に?

「私と、政府を裏切りませんか、私と四季さんの、二人で」

 それはでも、本当な気がした。恋はもはや、自分が何がしたいのかよく分からなかった。

「…………まぁ」

 四季が無表情で呟く。部屋の灯りがまぶしくて四季のピアスが一瞬きらめく。

「まぁ、いいですよ。私としても、政府側に内通者がいるのは助かりますし」

 四季は目を閉じて首を左右に捻っていた。恋はそのうちに自分が何を言われたのか理解する。

「で、ではっ…………!」

 四季が目を開く。その赤い瞳に恋が映り込んでいた。

「はい、よろしくお願いします、恋さん」

 そう、四季は言った。

 こうして、恋は四季と共闘戦線を組んだ。

 内容はこうだ。

 日本政府はタイムマシンを利用して国力を上げることに躍起になっている。今や『若菜四季』というたった一人の人間は、圧倒的な科学力を持っていて、所有している国が圧倒的に強い、という認識にまでなっていた。だから四季は政府によって新宿の地下研究所にいたのだ。

 だから、まずタイムマシンを作ったフリをする。

 しかし完成直前で、完成はさせない。それとは別に組み立てて置いたもう一つのタイムマシンで、恋たちは過去に飛んで、それで過去改変を行う。

 そのための隠れ蓑として、政府側に過去に行けると思い込ませる為の、恋と四季は協力しているんだと思わせる為の組織を作っておく────

「……こんな計画なのですが、どうでしょうか」

 恋が言うと、四季は左手を自分の顎に当てて、それから頷いた。

「悪くないんじゃないですか、成功の可能性も低くない」

 二人は向かい合って床に座っていた。書類を広げる場所がないから、研究室の片隅で。

「じゃ、じゃあ……っ!」

 恋は思わず立ち上がり、四季を見つめる。

「えぇ、それでいきましょう」

 四季も、恋を見上げてそう言った。心なしか四季の様子がいつもより楽しそうな気が、恋にはした。

 それから計画は緻密に練り上げられていった。

 でも恋は、だんだん胸の内に重苦しいものが溜まっていった。だって自分は、ひどい過ちを犯そうとしていた。この胸に蔓延ったイバラみたいな気持ちが、それを忘れさせてくれなかった。

 政府側に恋と四季が提案した、タイムマシンによる時間超越特殊部隊は、クロノダイバーと名付けることにした。恋は自信満々にそれを四季に言った。

「……いりますか、その名前」

 四季が嫌そうに顔をわずかにしかめて言った。

「え……なかなか格好良いと思ったんですけれども……」

 恋が言うのに、四季が小さくため息を吐くので、名前については決定となった。

「……じゃあ、私からも、恋さんに」

 床に書類やメモを広げている、その紙束の隙間で四季は恋に言った。

「……はい? なんでしょうか」

 四季に言われることなど何も覚えがなかったので、恋はきょとんとした。

 すると四季は自分の両手を前に掲げた。すると、音もなくそこにカラフルな服が出てきた。

 恋は驚いたけれど、すぐにそれが四季の規制された技術のうちのひとつだと気づく。物質圧縮。

「……これは?」

「パワードスーツです、着ると人間の限界を超えた力が引き出せます……まだ強い磁場下で機能しなくなることや、連続運用ができない問題点はあるんですが……取り急ぎ」

 四季はそう言うと、恋にそれを丁寧に差し出した。

 それは、恋には、昔初めてみんなで学園祭に出た時の衣装によく似ているように思えた。ビタミンSUMMER!という曲で、もう何年も前のことなのに、それを見ているだけで振り付けも歌詞も思い出してしまいそうだった。

「…………ありがとう、ございます」

 恋は言いながら、四季の手からそれをやさしく貰う。

 きらきらのスーツにはお星様が散っているみたいだと、恋は思った。

 二人はそうして毎日一緒に起きて、時に恋は家に帰ったりしながら、でもほとんどは四季と一緒に過ごした。とんかつ定食を頼んでは、研究所の隅の床に座って二人で食べた。洗濯物は近所のコインランドリーで一緒に回すので、いつの間にか同じ匂いがした。四季は恋の用意したセーフハウスにいることもあり、秘密裏でタイムマシンを作っていた。

 でも恋にはもう、苦しくて仕方がなかった。

 この全ての出来事の根っこにある自分の感情が、あまりに醜く恐ろしいから。

 そしてまた地面の上では四季が巡った。地下にいる二人には、それは別に関係のない話だった。

 

 それでも、ある日。

 それは唐突に起きてしまった。

「恋さん、ちょっといいですか」

 恋はいつものようにパソコンと睨めっこしていた四季に、ふと呼ばれた。

「はい……? なんでしょう」

 恋は、自分の席を立って四季の隣に行く。

「少しだけ、外に行きませんか」

 四季はそう言うなり、立ち上がった。普段四季は自分からはコンビニにすら行かないから、恋はそれには驚いた。

 恋が監視役をしているから、四季はこうしてある程度の自由が認められていた。その状況を作り出したのも恋だった。政府直接の内通者。恋にはだから、自分が誰の味方をしているのか、もうよく分からなかった。

 二人でエレベーターで地上に出た。

 いつの間にか夜はすっかり寒くなっていた。辺りは無駄に明るくて、街並みは全て数年前に整備されていていた。

 この世には直線というものは存在しなくて、人間は完全な直線で作られたものには生理的不快感を覚える、と恋は昔どこかで聞いた話を思い出す。

 そういう感じの街並みだった。切り貼りを繰り返しただけのような、正常に狂った街。

 その下を、恋は四季と一緒に歩いた。四季の白衣の裾がゆらゆら揺れるのを見ていた。監視役だから。会議で四季の様子を報告しないといけないから。

「…………恋さん」

 四季はおもむろに立ち止まる。

 振り向いたその顔を見て、恋は心から絶望することになる。自分達がなんのために、こんなことをしていたのか。自分はなんで、毎月、国の機密機関であるクロノダイバーのリーダーとして、会議に参加していたのか。

「タイムマシン、完成しました」

 四季は短くそう言った。

 がらがら、と。

 足もとが崩れていくような、音が聞こえた。

 四季が言ったその一言は、恋の世界を大きく変えてしまった。恋は、分かっていたはずなのに、それに加担していたのは他でもない自分なのに、それが起きることを、本能的に嫌だと、思ってしまった。そんな自分を嫌だと思った。

「……恋さん?」

 すぐ目の前にいる、四季が振り向いて言う。この辺りは若菜四季を捕えるための無人都市で、本当は四季はこの指定範囲内から外に出てはいけないことになっている。それを突破するための、パワードスーツだった。

「…………っ」

 恋は考えて、何かを言おうとする。

 なのに言えない。言葉が出ない。

「……タイムマシンは、九人乗りにしました」

 四季の言葉がいつもより色味を帯びている気がした。それが恋には嫌だった。だって、だって。だって?

「みんなにも声をかけてみようと思っています……恋さんからも、お願いできませんか」

 四季の行動は全て、今この時のためにあったことは、あの科学室で不恰好に抱きしめた時から、恋には分かっているはずだったのに。

 四季はもうすぐ、行ってしまう。この世界を捨てて、過去のターニングポイントに戻り、世界を変えるつもりでいる。

 恋にはもうどうしていいのか分からなかった。風が吹けばそのままなびいてしまいそうだった。

「……恋さん、どうかしましたか」

 四季にじっと見つめられていた。見破られてはいけないことが、恋にはたくさん、たくさんあった。

「……分かりました、私からも、連絡してみます」

 恋は、全員集まらなければいいのに、と思っていた。だって、そうなったら奇跡だって起きてしまうに決まっている。でも誰にも連絡しないのも違う気がした。恋は、なぜかここ数ヶ月でよく連絡をするようになったすみれに、電話をしようと思った。平和に生きている人の声を聞くと、恋は落ち着いた。

 黙っていると四季は歩き出した。恋もその長く揺れる髪を追いかける。もう何が正しいのか、何が間違っているのか、恋には分からなかった。いっそスクールアイドルを敵対視していた高校生の時くらい、盲目的で攻撃的なままでいたら、何か一つくらいは、守れただろうか。

「恋さん」

 いつの間にか、恋のすぐ隣を四季が歩いていた。その唇がいつになくやさしく開く。

「私、恋さんのこと、結構好きですよ……いつも、傍にいてくれて」

 四季はそう言った。

 その言葉は今までで一番、四季らしい口調だった。恋は、息が、しにくくなる。ほんとはあなたは、メイさんのことしか見ていないのに、私はこんなところまで来てしまった。もうどの感情も、遠のいて曖昧なのに。残った心に絡まった、黒い糸。

「恋さん?」

 四季は首を傾げていた。

 何を煩ったのか、恋は分からないまま。

 この夜空の隅っこに月が転がっているのを、恋は見た気がした。

 この狂ったように青い光を放つ新宿の空に、そんなもの見えるはずがないのに。

 全てはもう、おかしくなってしまっていた。

 もう何も、見えなかった。

 

 

 

「…………私も、四季さんのこと、好きですよ」

 

 

 

 それは、ひどい嘘月だった。

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