さよならより速く、私はあなたに逢いに行く 作:Werther
目が覚めると、強烈な眩暈がした。それはなかなか止まなかった。脳ごと揺すられている感覚で、私は脳震盪というものがどういうものなのか知った。とても目を開けていられなくて、なんとか立っているだけで必死みたいな状況。前も後ろも右も左も分からなかった。
やがて砂嵐みたいな音が遠のいていって誰かの話し声がぼんやり聞こえてきた。だんだん焦点も合ってくる。
「こうも暑いし陽が長いと一日が長く感じるな。四季もそう思うだろ?」
気がつくと、そこは部室で、生ぬるい風が吹いていてきな子と夏美がいて、そして何より、メイが目の前にいた。
メイが窓辺に手を引っ掛けて腕と足を伸ばして逆さまに私を見て笑っているのが見える。赤いくせっ毛がぜんぶ逆さを向いている。
「四季でもぼーっとすることあるんだな、かわいい」
「メイ……」
「どうした、四季」
「メイ……メイっ!」
私は言うなりメイに飛びかかって抱きつく。突然の私の抱擁にメイはなす術なく、苦しそうにしていた。
「またやってるっす……」
「あ〜これを撮影したいですの〜」
二人の生暖かい目を感じながら、私はメイを抱きしめるのはやめなかった。メイが生きてる、メイが生きてる。そのことがなにより嬉しかった。
「うぃっす〜! あれ、四季ちゃんとメイちゃんはなんで抱き合ってるの? お熱いね〜」
ふと入り口から声がして振り向くとそこには千砂都先輩がいた。右手で作ったピースサインを掲げるお決まりのポーズをしている。と言うことは次に来るのは……
「あ、ほんとだ、二人とも仲良いね」
その後ろからかのん先輩がひょこっと顔を出した。出てくるタイミングも全くそのまま一緒だった。
その時、扉の向こうの階下から何やら話し声が聞こえてきた。もう誰が来るのか分かった。可可先輩と、すみれ先輩だ。
「だからあんたが飲み物買ってきなさいって言ってるのよ……」
「可可はじゃんけんに負けただけで誰も飲み物買うとは言ってマセン。すみれが買いに行きやがれデス」
「なっ、あんた卑怯よ! 普通あの状況のじゃんけんは負けた方が買いに行くのが当たり前ったら当たり前じゃない⁉︎」
「知らないデス」
がちゃり。と扉が回って頬を膨らませて睨み合った可可先輩とすみれ先輩が入ってくる。
どうなるか、全部見たことがあった。声のトーンから会話の間まで、何もかも一緒だった。
「二人とも、またやってるの?」
千砂都先輩が呆れ気味に言う。可可先輩もすみれ先輩もお互いに引かなくて、それでかのん先輩が間を取り持とうとして何故か三人で一緒に買い物に行くのだ。
「あら、皆さんもういらっしゃったのですね」
三人減った部室が静かになったところで、入れ替わりに恋先輩がやって来る。
「かのんちゃんたち今飲み物買いに行ったんだ、これでメンバーも揃ったし帰ってきたら練習始めよっか」
千砂都先輩が隅の方で軽く柔軟運動をしながら言った。
「ちょっと四季……いつまで抱きついてんだよ」
「あっ、ごめん……メイ」
私はメイを抱きしめていたことも忘れるくらい、ごく自然にメイを抱きしめていたから、言われて驚いて手を離す。メイは私の手から離れると、私を見て笑った。
「今日の四季なんつーか、かわいいな」
メイはにっと歯を見せて笑うとそう言う。私はその声でその言葉をもう一度聞けるとは思ってなくて、嬉しくて頬が赤くなるのが分かった。
「かわいいは、やめてって……」
「いや、だってかわいいだろ」
私は居ても立っても居られなくて部室を飛び出る。恥ずかしさが爆発してしまいそうだったからだ。
でも、頭を冷やそうと廊下を歩いているうちに、さっきのシキとの会話を思い出した。
『私はタイムマシンを使うけれど、あなたはこれで記憶だけ飛んでもらう』
そう言っていたということは、シキもこの時間軸に来ているのではないか。
私は部活が始まってしまう前にそれだけでも確認しておこうと、科学室に走った。
科学室は閉まっているはずなのに、取手に指をかけて開こうとすると無抵抗にがらがらと開いた。私はその中に歩みを進める。
「……うまく飛べたようね」
その少し薄暗い科学室の片隅で白衣姿の長い青髪の女性が肘をついていた。
「顔が赤いようだけど、身体に不調はない」
シキはさほど興味もなさそうに言うと、手元の機械────タイムリープマシン────を指で弄んでいた。
「……問題ない」
私がこたえると、シキはそう、とまた感情の読み取れない声で言った。
「分かっていると思うけど、私たちは遊びに来た訳じゃない。勘違いはしないように」
シキのつめたい朱色がこっちを見ていた。どうして、そんな目をするようになってしまったのだろう。とても彼女が同じ私だとは思えなかった。
「あなたは今後、ここにあるタイムリープマシンを使って、成功するまで何度もやり直すことができる。それと、あなたにひとつ渡しておくものがある」
シキは言うと、白衣のポケットからそれを取り出して私に放った。私は慌ててそれをキャッチする。きゃべつ半分ほどの重さがずしりと両手に加わり目を落とすと、そこには深い黒色の拳銃があった。
「これ……」
「護身用、何かあったら使って、今後の世界ではタイムリープマシンと一緒に置いておくから持って行きなさい」
シキはなんでもないことのように言った。やっぱりいつの間にかシキは煙草を吸っていた。
「色々と命を狙われることもあると思うから」
「……なんでそんなことが分かるの?」
私が訊くと、シキはこたえなかった。ただ目を逸らすということもせず、じっと私を見ていた。
「時間遡行者って、大変なのよ」
シキはそう言うと、白衣を翻して科学室を出て行った。出て行き様に、煙草の焦げ臭い匂いが鼻をくすぐった。
私は渡された銃をスカートのポケットにしまうと、部室へと走り出した。
✳︎
「にしても、千砂都先輩も粋なことしてくれるよな」
「夏美もそう思うですの〜、これでLiella!の新規生の日常風景盗撮計画が捗りますの〜」
「だから盗撮って言っちゃダメっす……」
片手に学生鞄を提げてほどほどに固まって歩いていた。早めに終わった部活後、すぐに出て来られてなんでも揃っていて遊びやすい場所と言えば、ここ、原宿だ。それで、話の流れ的にも初回同様、ここに出てくるのは決まった。ただ、ここからが勝負なのだ。
メイが提示したクレープ屋に行っては、また同じ未来になってしまう。それだけは何としても回避する必要があった。
まだ夕方というには早い時間の原宿は学校帰りらしい制服姿の女子たちが多く、その手にはカラフルなアイスやらクレープやらが握られていた。私たちはその中を歩いていく。
「メイ……ここなんてどうかな」
私がメイを呼び止めて、道の脇にあったお店を指差す。そこはかなりの長蛇の列ができているスフレパンケーキ専門店だった。メイが急に動きを止めて、じいっとそのお店を睨む。
「どうしたんすか? なんかあったんすか?」
きな子がメイの後ろからひょっこり出てきてそう言う。
「あそこは最近SNSでバズってたスフレパンケーキ専門店ですの、あそこでLiella!が食事をすれば相乗効果で人気アップが期待できますの〜!」
きな子の隣にいた夏美も持ち前の現金さを見せてそう言う。なんとなく、皆はそのお店に並びたいという雰囲気になっていた。
「今日は時間あるし、あっちのお店並んでみないか……?」
メイが頬を赤らめて言うときな子も夏美も朗らかに笑って頷いた。
ちらりと私の方を、子供が親におねだりをする時みたいにあざとく見つめるメイ。私はくすりと笑って、頷く。
「いいよ、みんなで並ぼう」
それから四人で列の最後尾に並んだ。
店先にいるだけで、果物と砂糖と蜂蜜の混ざった甘い匂いがしてきた。パンケーキの生地を焼いているらしい香ばしい匂いも。
「いい匂いっすね〜、メイちゃんが見つけたんすか?」
「わ、私は四季に教えてもらっただけで……」
「またまた、そんなこと言ってますの〜」
「うん、メイがすごく行きたいって言ってた」
「やっぱりっす!」
「ちょ、四季、適当言うなよ!」
赤面するメイがこちらを睨みつけてくる。
列に並んでる間も、陽射しはじりじり照りつけ肌を焼いた。人混みの中だからか余計に暑く感じるし、少し目眩を覚えた。私は鞄からスポドリを取り出して一口飲む。見上げた空が高い建物たちに切り取られて影絵みたいに浮いていた。その影絵の上の方を私は見つめて、んん? と首を捻る。
「ねぇ、夏美、この上のビルって取り壊しか何かになるの?」
私が訊くと夏美は上を向いて空との隙間にできた影を見つめた。それであぁ、と小さくこぼす。
「あのビルは改修工事をしているらしいですの、先週からあの状態だとネットニュースで見ましたの」
「へぇ、そうなんだ」
私は特に気にすることもなくその話題を切り上げた。
列は最初いいペースで進んでいたのだけれど、半分を切ったくらいで急に進みが遅くなった。おまけにギリギリ日陰に入れない位置だったので直射日光が私たちの肌を容赦なく焼いた。
「あっつ……これ以上ここにいたら死んじまうぞ……」
「これはきな子たちがパンケーキになるのが先っすね……」
「夏美は食べるのは好きだけど食べられたくはないんですの〜……」
やっとのところで立つのをキープしている三人を見ながら、私はメイのことを考えていた。
そろそろ時間だ。
ここには横断歩道も車もトラックもない。前回メイが死んでしまったようにはならないはずだ。周囲を確認しても、危なそうなものは何もない。甘ったるいお菓子の匂いがそこかしこに充満しているだけだ。
「メイ……もうちょっとで順番だから、頑張ろう」
「あぁ、そーだな……」
私がメイに言って列が進まないか、顔を横にして店先を見つめた、その時だった。
ピリリリリリリリリ、と甲高いアラーム音が鳴った。
「おっかしいなぁ、こんな時間にアラームなんてセットしてないはずなのに……」
メイの手に持たれたスマホから音は鳴っていた。メイは慌てた様子でそれを止めると、ふぅ、と軽く息を吐く。
そのままそれをポケットにしまった。
叫び声が聞こえたのは、その数秒後だった。
最初、女の人の絶叫が聞こえて、それが水たまりに石を投げ込んだ時波紋が広がるみたいに、背後で叫ぶ人が増えていった。
と思った。
一瞬だった。
お店の前にできていた列に並んでいた女学生たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げて行った。数人が空を指差して何かを叫んでいた。
私が空を見上げるのと、空から黒い影みたいな細長い物体が落ちて来るのと、ごしゃり、とスイカを無理矢理割ったみたいな鈍い音がしたのはほぼ同時だった。
それから世界は静かだった。
私は閉じた目を恐る恐る開く。
世界は呆れ返るように真っ赤だった。馬鹿の一つ覚えみたいに赤い絵の具一色で塗りたくりました、とでも言うように地面は、ただただ真っ赤だった。落ちてきたのは二メートルほどの長さの鉄骨だった。鈍色に光るそれは、私は悪くありません、とでも言いたげに、影と同じ色をしていた。その下に、無垢な少女を下敷きにして。
「四季ちゃん! 大丈夫っすか⁉︎」
呼ばれて顔を上げると、不安と恐怖で顔をこわばらせたきな子がいた。
「私は、大丈夫……だけど、メイは」
私が言うと、きな子は答えづらそうに目を逸らした。その後ろで夏美も突っ立っているのが見えた。夏美も、何も言いたくなさそうだった。
鉄骨は重くつめたく、その下からとろとろと樹液でも漏らすみたいに赤色の液体を流していた。メイの頭はスイカ割りのスイカみたいにぐちゃぐちゃに破裂していた。私はメイを護ることができなかった。
私は気がついたら走り出していた。後ろできな子と夏美が何か言った気がしたけど、振り返らなかった。周囲にできた人だかりを掻き分け、パトカーと救急車のサイレンの音に耳を塞ぎ、ただ走った。
「メイ……ごめんメイ……私の、私のせいでっ……」
走りながらこぼれる独り言は、誰に対する贖罪なのかも分からなかった。ただ「ごめん」と、何度も私はそう言った。涙が溢れて止まらなかった。
やがて私は結ヶ丘女子高等学校に着く。正門を抜けて、走って、昇降口を抜けて、また走って、廊下を突き当たって、階段を駆け上がる。
息を切らしてそこに飛び込むと、白い後ろ姿がゆっくりと振り向いた。
「……失敗、みたいだね」
シキは起伏のない声でそう言った。私はシキには構わないまま、科学室の隅に置かれたタイムリープマシンの前に来る。ヘッドホンをつけて、時間を今日の夕方に合わせる。
「あなたがやり直す限り、私も付き合うよ。だってあなたは過去の私だからね」
私は背中から聞こえる声に振り向かない。時間は今日の夕方を指した。飛ぼう。もう一回。
私は装置の真ん中のボタンを押す。電流が装置の中心を走り、バリバリと焼けるような音がして、次に重力が無くなる。激しい眩暈が襲い掛かり右も左も上も下も分からなくなる。
「…………待ってて、メイ、今行くから」
そして白い落雷みたいな電流が網膜に焼き付いて、私の記憶は再び、時を越えた。
✳︎
「四季、しーき!」
耳に手を当てた時の砂嵐みたいな音がしていた。薄い膜一枚隔てた時みたいなこもった音が遠くから聞こえるようで、私は私の名前を呼ぶ声の方へ意識を向けた。だんだん解像度が高くなっていく。声がはっきり聞こえてくる。目も見えるようになってくる。
「おい四季、今日掃除当番じゃないだろ」
ふと頭上から声が聞こえて、顔を上げるとそこには腰に手を当てたメイがいた。
「め、メイ……」
「ん? どうしたんだよ四季、幽霊でも見るみたいな顔して」
メイは私の顔を見て苦笑してそう言った。きっと私は、ひどい顔をしていたのだろう。
「で、四季、今日掃除当番じゃないだろ?」
「そ、そう、だけど……」
私がやっとこたえると、メイは歯を見せてにっと笑った。あぁ、メイが生きてる。メイが、生きてる。そのことが私の胸をいっぱいにした。今度こそ、必ず護ってみせる。
「だよな、ほら、部活行こうぜ」
メイは後ろ手に鞄を下げていて、いつでも行ける様子だった。私たちの席は教室の後ろの方で、そこは人の出入りが激しかった。がやがやと騒がしく人混みが流れていた。
「あ、待つっす〜!」
「待つですの〜!」
元気な声がして振り向くと、そこには部活のメンバーの、きな子と夏美がいた。二人とも、明るい顔久しぶりに見たな、と私は思い、それがこの世界の出来事ではないことに気づいてその気持ちをそっとしまう。
「二人とももう部活行くっすよね! きな子たちも一緒に行きたいっす〜!」
「夏美もLiella!の日常風景を撮影しながらお供しますの〜」
「やーめーろ」
夏美が取り出した自撮り棒とスマホをひょいと片手で取り上げながらメイは言う。
「あ〜返すですの〜!」
夏美はメイからスマホを取り返そうとしていたが、メイがくるくる動くから夏美はメイの周りを回りながらしまいには目を回していた。
「ふふん、まだまだだな、夏美」
メイは得意そうに鼻を鳴らしていた。その自慢げな笑顔のメイを護りたいと心から思った。私は気がついたら、メイの手を取っていた。
「私と一緒に来て、メイは私が護る」
「はぁ? 何の話だよ、お前なんか変だぞ、そもそもこれから部活じゃねーか」
「いいから、来て」
「ちょっと、四季っ……」
私は思いっきり怪訝そうな顔をするメイの手を取って、走り出す。夏美ときな子が後ろで何か言った気がしたけど、私はそれどころじゃなかった。おもてに出ると生暖かい夏の空気が手足に絡みついて心地悪かった。
談笑しながら帰る生徒たちの合間を縫って私たちは駅まで走った。どうすればいいのかなんて分からなかったけれど、とにかく遠くに行こうと思った。ここにいたらメイは死んでしまう。だからなるべく遠くに行けばもしかしたら……そう思った。
駅の改札にメイを押し込んでから、私もICカードをかざして中に入る。メイはまだ何が何だか分からないという顔で私を見ていた。
「おい、四季、何の真似だよ」
「後で説明する、今はまず、電車に乗ろう」
「はぁ? どこ行くんだよ、こんな時間から」
メイの疑問はもっともだったろう。部活に行く途中にいきなり駅に連れ出されたら、誰だってそう思うはずだ。ただ今は全てを説明するだけの時間の余裕も心の余裕もなかった。
「後で説明するから、今はついてきて」
私が必死にそう言うと、メイは切迫した感じを汲み取ってくれたのだろうか、ため息をついてから短く頷いた。
「約束だぞ、後で絶対説明してもらうからな」
メイはそれだけ言うと、もう私に従ってくれるようだった。私はメイの手を握り、足早に歩きながらホームの方へ歩いて行った。
駅のホームは帰宅する学生や社会人でごった返していた。私たちがそこに着くなり構内にアナウンスが流れて隣の三番ホームに電車が来るらしかった。
行く宛はなかった。とにかく遠くに行こうと思った。都会だから危険が多いのであって、遠く離れてしまえばもしかしたら大丈夫かもしれない。そんな一縷の望みを私は抱いていた。
やがて電車がホームに滑り込んでくる。人が吐き出されて、入れ替わりに人が吸い込まれる。私たちも手を繋いだままその流れに乗る。
電車は当たり前だけど混んでいて、座れるところはなかった。私たちはドアの端の方で固まってじっとしていた。ふとドアに『痴漢注意』と『不審者注意』を促すシール状の貼り紙が目に入った。
私は目の前のメイを見つめる。メイは今の状況がよく分からないとでも言うように目を泳がせていた。
繋いだままの手があたたかかった。このぬくもりを離したくない、護りたいと、心から思った。
「四季、ちょっと、痛い」
メイが小声で言ってきて、そこで初めて私は自分が握ったメイの手に力を入れすぎていたことに気づく。
「ごめん、メイ」
「ほんとに大丈夫か? 顔色悪いぞ」
メイは私の顔を心配そうに覗き込みながら言った。
「ううん、私は大丈夫」
私がこたえると、メイはあまり信じてなさそうにこちらを見た。
それから電車はいくつもの駅に停まり、その度に人は入れ替わり、そしてだんだんと少なくなってきた。私たちは一度電車を乗り換えた。電車はいつの間にか東京ではなく、神奈川を走っているようだった。
私たちは空いていた席に二人並んで腰かけた。クッションはごわごわしていて、指で触れると静電気をわずかに感じた。窓の外はまだ明るいけれど、なんとなくもうすぐ夕方になりそうな気配がする。
「なぁ、そろそろ話してくれてもいいんじゃないのか」
メイが私に声をかけてきた。私も隣のメイを見つめ返す。
「四季は、一体何を隠してるんだ?」
メイの群青が私を見据えていた。私は言葉に詰まり、何も言えなくなる。
「ひょっとして、海見たかった、とかか? それなら今日じゃなくても夏休みに行けばよかったのに」
メイは首を傾げながらそう言う。
「まぁ、私は四季が言うならいつでも付き合うけどさ」
「…………」
「もし四季がよかったらさ、今度二人で海見に来ようぜ、晴れてる海は綺麗だろうから」
「……うん、私も」
照れくさそうに笑うメイを見て、私もそうこたえていた。私はそれでふと思った。
もしかしたらメイはこのまま死なないかもしれない。死んでしまうというのは杞憂で、メイはこのまま生きていて、全部私の思い過ごしかもしれない。そうだとすればメイにあなたはこれから死ぬの、なんて馬鹿げた話をするのはおかしいんじゃないか。
「メイ、あのね、実は────」
ピリリリリリリリリ!
私が口を開こうとしたその時、甲高いアラーム音が鳴った。その音にも聞き覚えがあった。メイのポケットのスマホから音は鳴っていた。メイは慌てた様子でそれを取り出して止める。
「おっかしいなぁ、こんな時間にアラームなんてセットしてないはずなのに……」
私は一気に背筋が冷えていくのが分かった。そんなはずはない、と思いながらも、目の前でそれは起こっていた。
『次は、新松田、新松田です。御殿場方面にお越しのお客様はお乗り換えです。お出口は左側、降りましたら黄色い点字ブロックの内側をお歩きください』
電車内にアナウンスが響く。あまり聞かない名前の駅名ばかりだった。
電車は高い音を立てて徐々に速度を緩めていく。いくつもホームのある大きな駅が現れて、そのうちのひとつに電車はぴたりと収まる。
私は行く宛もなかったし、これに乗ったまま行こう、と思っていた。扉が間の抜けた音を立てて開いて、何人か降りていく。乗ってくる人は誰もいなかった。
ふと、ホームの中央に設置された濃い青色の椅子に黒いローブ姿の人がいるのが見えた。
「…………?」
その人をどこかで見たことのある気がしたけど、なぜそう感じたのか私はさっぱり思い出せなかった。その人は俯いたような姿勢で、ぴくりとも動かなかった。
「四季? どうした?」
「いや、なんでも……ただ、あの人……」
私は言いながら、もう一度ホームを見る。そこにはさっきと同じ姿勢の黒いローブの人がいる、さっきと違うのはその手がこちらを向いていること、そして遠目からでも分かる、その手に黒い拳銃が握られていること。
「逃げて! メイっ!」
私は叫びながら立ち上がってメイの手を取って連れて行こうとする。メイは困惑して座ったままでいた。
「どうしたんだよ四季、やっぱお前おかしいぞ」
「いいから……早く逃げ────」
て。と言おうとして、タァンと火薬の弾ける音が電車内まで響いた。私は握ったメイの手の抵抗がなくなるのを感じた。
私が振り向いたのと、同じ車両にいた女性が叫ぶのと、電車の扉を閉める場違いなアナウンスが聞こえたのは、ほぼ同時だった。
メイの頭は形は残っていたけれど、血でできた水風船を投げつけた後みたいな座席の上で、脳漿がべちゃべちゃに垂れていた。鉄錆のようなすえた匂いがして私は一気に吐き気が上がってくる。メイは、ぴくりとも動かなかった。私はそのままうずくまって地面に吐いた。
『扉が閉まります、ご注意ください』
叫び声は伝播していった。さっきまで静かだった電車内は今や混乱と絶叫の渦だった。電車はゆっくりとホームを去っていく。私は地面に転がるメイを見ていて、はっとして窓の外を見る。
黒いローブのそいつは、まだそこに佇んでいた。右手に構えた銃を胸元にしまうのが見えた。
「…………許さない」
私は呟いて、奥歯をぐっと噛む。お前が誰であろうと、なんの目的であろうと、メイを殺すことは許せない、絶対に許さない。そう思った。
私とメイ以外誰もいなくなった車内で、私はメイの血まみれの頬に触れる。まだわずかにあたたかく、手触りはぬるりとしていた。
「ごめん、次は必ず、助けるから」
私は泣かなかった。早く、はやく学校に戻ってタイムリープマシンを。
その気持ちだけだった。
ひどく蒸し暑い夜が、始まろうとしていた。
✳︎
「四季、しーき!」
タイムリープをするのはこれで何度目だろうか。何度目かも分からない『今日』を繰り返して、私は夢を見ているみたいな心地だった。ぼんやりする意識の中、私を呼ぶ声が聞こえていて、徐々に目が覚めてくる。話し声や歩く音が聞こえる。今回も、無事に飛べたらしい。
「おい四季、今日掃除当番じゃないだろ」
ふと頭上から声が聞こえて、顔を上げるとそこには腰に手を当てたメイがいた。私は何も言えずにメイを見ていた。メイの身体が潰れていたり、メイの頭が赤色を吹いているのだったり、を思い出して、どうすればいいのか分からなかった。
「ん? どうしたんだよ四季、そんな難しい顔して」
メイは私の顔を見て苦笑してそう言った。きっと私は、ひどい顔をしていたのだろう。
「で、四季、今日掃除当番じゃないだろ?」
掃除当番。あぁ、そういえば、そんなのもあったっけ。なんだかずいぶん昔のことな気がして私はため息が出てしまいそうになる。
「メイ」
「なんだよ」
「私についてきて」
「はぁ? 何いきなり、それにこれから部活じゃねーか」
私は言うと、鞄を引っ掛けてメイの手を掴んだ。走り出すと後ろからきな子と夏美の声が聞こえた気がした。人が行き交う廊下をすり抜けて、階段に着く。そこで、ふと、前の世界でシキに言われたことを思い出した。
『護身用、何かあったら使って、今後の世界ではタイムリープマシンと一緒に置いておくから持って行きなさい』
『色々と命を狙われることもあると思うから』
そう言ったシキは真剣な顔をしていた。私は思い立って、メイの手を離す。振り向くとメイは困惑したような顔をした。
「お、おい、四季……」
「ちょっとだけ待ってて、すぐに戻るから」
私はそれだけ言うと、階段を駆け上がる。そのまま走って廊下の突き当たりにある科学室に飛び込んだ。
そこはいつも通りだったのだけれど、私は何かが違うことに気づいた。なんとも言えない苦い匂いがしていて、それは科学室特有の匂いとは別物だった。
床に何か落ちていたので拾い上げる。それは、踏み潰されて消されて先の黒ずんだ煙草だった。その匂いには覚えがあった。
「…………シキ」
もう来てるんだ、と思った。私は部屋の隅で沈黙しているタイムリープマシンの前まで来て、その周囲を探る。シキの言葉通りならそれはここにあるはずだった。
「……あった」
その機械の後ろに沿うように、黒い凶器はじっと身を潜めていた。持つときゃべつ半分ほどの重さがあった。私はそれを鞄に放り込んでまた急いで駆け出す。
階段を降りていくと、さっきと同じ場所にメイが居心地悪そうに立っていた。
「メイ」
「し、四季」
「私と一緒に来て、お願い」
「はぁ? 何の話だよ、そももそも一緒に行くってどこに」
「いいから、来て」
私は思いっきり怪訝そうな顔をするメイの手を取って、走り出す。私はメイの様子を確認する余裕もなかった。おもてに出ると生暖かい夏の空気が手足に絡みついて心地悪かった。
談笑しながら帰る生徒たちの合間を縫って私たちは駅まで走った。さっきは南に逃げてダメだったから、今度は北に行けるところまで行ってみようと思った。行く宛なんてなかった。
駅の改札にメイを押し込んでから、私もICカードをかざして中に入る。メイは、つい数時間前そうであったように、まだ何が何だか分からないという顔で私を見ていた。あぁでも数時間前って、あなたは覚えてないんだっけ。
「おい、四季、何の真似だよ」
「いいから……いいからっ! 早く電車に乗ってっ!」
「どうしたんだよ四季、ほんとに変だぞ」
メイはそう言ったけれど、私には時間の余裕も心の余裕もなかった。
「早く! お願い……」
私が必死にお願いすると、メイは小さくため息をついて頷いた。
「分かったよ、でも後で絶対説明してもらうからな」
私はメイの手を握り、足早に歩きながらホームの方へ歩いて行った。
駅のホームは帰宅する学生や社会人でごった返していた。
私たちは埼玉の方を目指した。理由はなかった。ただここから遠ざかりたかった。
電車は当たり前だけど混んでいて、座れるところはなかった。私たちはドアの端の方で固まってじっとしていた。ふとドアに『痴漢注意』と『不審者注意』を促すシール状の貼り紙が目に入った。
「四季、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
メイは私の顔を心配そうに覗き込みながら言った。
「ううん、私は大丈夫」
私がこたえると、メイはあまり信じてなさそうにこちらを見ていた。
それから私たちは二度ほど電車を乗り換えた。電車はいつの間にか東京ではなく、栃木を走っているようだった。
私たちは空いていた席に二人並んで腰かけた。窓の外はまだ明るいけれど、なんとなくもうすぐ夕方になりそうな気配がする。なんだかずっと夕暮れの中にいるような心地だった。終わることのない、抜け出せない、夏の夕暮れ。
「なぁ、そろそろ話してくれてもいいんじゃないのか」
メイが私に声をかけてきた。私も隣のメイを見つめ返す。膝の上に置かれた鞄の中身がかたかた鳴った。
「四季は、一体何を隠してるんだ?」
メイのその声にも、訊き方にも、覚えがあった。さっき別の時間軸でも、あなたはそう私に訊いたんだよ。
「この辺だったら餃子とか、温泉とかあるよな、ひょっとして、そういうのに来たかったのか? それなら今日じゃなくても夏休みに行けばよかったのに」
メイは首を傾げながらそう言う。
「まぁ、私は四季が言うならいつでも付き合うけどさ」
「…………」
「もし四季がよかったらさ、いつか二人でこの辺旅行に来ようぜ、四季とだったら楽しいだろうな」
そう言って照れくさそうに笑うメイを見て、私は何もこたえられなかった。私はふと思った。これ以上、隠す必要もないだろう、と。
「……メイ、あのね、私、あなたを助けに来たの」
口が滑るように話していた。そろそろ、メイにも本当のことを伝えたかった。
「助けるって、何を?」
「それは、メイがこれから死────」
ピリリリリリリリリ!
甲高いアラーム音が鳴った。メイのポケットのスマホから。それはまるで、焼き増したフィルムの映像を見ている気分だった。
「おっかしいなぁ、こんな時間にアラームなんてセットしてないはずなのに……」
私は一気に全身が緊張する。もう誰にもやらせない。ここで護りきってみせる。
電車は高い音を立てて徐々に速度を緩めていく。ゆっくりになっていく景色に焦点を合わせる、その景色がじわりじわりと近づいてくる。そこにあいつが、いた。
ホームの中央にぼんやりと突っ立っているのは、黒いローブ姿の長身の人。それは前の時間軸でメイを殺したあいつに違いなかった。
電車がホームに停止する位置に近づく。私は鞄を開いて、その中にあるそれのつめたい持ち手をしっかり握る。手が震えていた。今から自分がしようとしていることが、恐ろしくて仕方なかった。
電車が止まる。扉が開く。人が吐き出されていく。入ってくる人はいない。あいつが胸元に手を入れる。取り出された黒い銃口がこっちに向けられて。
「四季? どうしたんだよ」
「メイ! 伏せてっ!」
私は言いながらメイを突き飛ばすと、鞄から銃を出して構える。メイが小さく悲鳴を上げる。そして、窓越しにあいつを狙い、躊躇なく引き金を引いた。一発、続け様にもう一発、二発。
銃声よりもガラスの割れる音の方が大きかった。銃弾の当たったところから窓ガラスは円形にヒビが入り、一瞬遅れて粉々に砕けた。同じ車両にいたOLらしき女性が私を見て何か叫びながら一目散に逃げて行った。
「……あいつは」
私は呟きながら、割れたガラスの向こうを見つめた。あいつはホームで膝をついて、おそらくだけど左肩から血を流しているようだった。黒いコンクリートに赤い染みができていく。
「ねぇ、メイ、もう大丈夫、こっちに────」
来ていいよ、と言おうとして、その声はタァン、という軽くて重い音にかき消された。
私が振り向いたのと、電車の扉を閉める場違いなアナウンスが聞こえたのと、銃声が響いたのは、ほぼ同時だった。
メイの頭は後頭部から割られたように綺麗に血が噴き出していた。地面には水溜まりみたいに血が広がり、冗談みたいにメイはうつ伏せでぴくりとも動かなかった。
ふとメイの後ろを見ると、その先の車両にもう一人、別の長身の黒いローブ姿の人が歩いていくところだった。
私はそいつを追いかける。許せなかった。私のローファーには血がべったりついていて、歩くとねちゃりとしたし、赤色の靴形がついた。
「待て!」
私が隣の車両に銃を構えたまま押し入ると、左右の座席から悲鳴が上がった。長身は背中を向けたまま立ち止まった。
「私は、お前を許さない」
「……若菜四季」
私が言うと、長身は振り向いて、あろうことか私の名前を呼んだ。
「我々の目的はただ一つ……過去の保存、即ち米女メイの抹殺、邪魔だてするなら、貴方も敵と見做します」
その声は女とも男とも取れる歪な声で、おそらく変声機を通じているのだろう、少し機械っぽい声だった。
「お前たちは、誰? どうしてメイを狙うの?」
「……こたえる必要はありません」
長身はそれだけ言うと、また踵を返して向こうに歩いて行った。
「ま……待て!」
私はもう一度銃を構え直して、声を張り上げる。長身は今度は止まらなかった。
「あぁ、そうだ」
さらに隣の車両に移る間際、長身は振り返って私に言った。
「ここ公共交通機関だから、そんな物騒なもの振り回してたら捕まりますよ?」
長身が私の後ろを指差すと、そこにはドア越しにすでに駅員と警官らしき姿があった。
「では」
長身はそれだけ言うと歩いて去って行った。私は呆然としたままそこに取り残された。
メイを、私はまたしても護ることができなかった。その哀しみと、絶望に私はただ怯んだ。早く、タイムリープマシンまで戻らなきゃ、もう一回、やり直さなきゃ。
「おい、そこのお前、手を上げろ」
そう思って、ふらふら電車を降りようとしたところで、声をかけられた。
振り向くと、体格のいい男二人がこちらに銃を向けていた。服装から、警官だとすぐに分かる。
まずい。
と思った。私は今銃を持っている。冷静に考えなくても、これが法律違反であることは分かる。それに電車の窓を壊したのは私だ。言い逃れできない罪が、いくつもあった。
ただ、捕まることが問題なのではない。今のこの状況においてはタイムリープマシンまで辿り着けなくなることが問題だった。タイムリープマシンまで行くことができれば、私の罪はそもそも無かったことになる。ならば私が今やるべきことは、ひとつしかなかった。
「おい、聞いてるのか」
警官のうち一人が怖い声で話しかけてくる。私はそれを見て、幸いまだ右手に握られたままになっている銃を思いっきり地面に向けて、引き金を引いた。
コンクリートの削れる甲高い音がして、警官たちは怯み、手に持った銃をわずかに緩める。
私はその隙に走り出す。幸い私のすぐ近くに階段があり、逃げやすかった。流行りの広告が立ち並ぶコンコースを抜けて、改札は、ICカードをかざす余裕もなかったから飛び越えて抜けた。全てはこの世界をリセットするために。
駅を抜けると、すぐそこはバスの停留所になっていた。少し遠くで、タクシーが列になって並んでいる。
私はどうやって高校まで戻ろうかを考えた。もう公共交通機関は使えない。お金もないからタクシーもアウト、ヒッチハイクは、今から行うには遠すぎるし無理があるだろう。
そうこう考えていると、さっき撒いた警官が駅から出てくるのが見えた。気づかれるのも時間の問題だろう、と思い、唇を噛みながらとりあえずここを離れようと走り出そうとした。
その時だった。
駅前のバスとタクシーばかり並ぶ道に相応しくない、黒のスポーツカーが優雅に滑り込んできたのは。
「Any problem?」
その窓が開いて、やたら流暢な英語が聞こえた。馴染みのある声だった。ついでに煙草のニコチンとタールの強そうな匂いも。向こうで、いたぞ、急げ! という声が近づいてくる。
私は考えるより早く、その車の助手席に乗り込む。
「追われてるの、助けてくれない」
私が短く言うとサングラスをした運転手は相変わらず不味そうに煙草を吸っていた。
「オーケー、ちょっと揺れるから、その辺に掴まってなよ……Do you understand?」
「Of course.」
私がシートベルトをしているうちに、車はすごい急旋回をして車道に飛び出た。
「シートベルト、しないと捕まるよ」
私が言うと、青髪ロングの彼女は携帯灰皿に灰を落として煙を吐いた。していたサングラスを窓から投げ棄てる。
「いいのよ、どうせこの世界にももう用事はないんだから」
シキのつめたい声が、夜の宇都宮の飲み屋ばかりの通りに紛れて消えて行った。
「……どうして、知ってるの」
私がシキを見て訊くと、シキはまるでこっちを見ずにアクセルを踏み込んだ。
「伊達に未来から来てないから、よ」
窓を開けたままだったから、風が吹いてシキの髪を後ろに靡かせた。時々耳のピアスが覗いた。シキのそのピアスだけが、私とこの人を繋ぐ標であるように思えた。
「さっき、黒いローブの人たちに襲われたの。一度だけじゃない、前回も、ずっと前にも同じことはあった。あいつらはメイを殺すのが目的だと言っていた。一体、何者なの?」
私があったことをかいつまんで話して訊くと、シキは無表情のままだった。じっとその横顔を見ていると、観念したようにシキはため息をつく。
「……やっぱりあいつらとは闘わなきゃならないのね」
「あいつら……?」
シキは遠くを見るような目で、そう口にした。ぬるい夜気が車内に滑り込んでくる。
「教えて、あいつらって、誰なの」
「あいつらは、私と同じ、未来からやって来ている奴ら。政府によって組織された過去保全主義者による時間超越特殊部隊、通称────クロノ・ダイバー」
シキは面白くなさそうに続けた。
「人を一人生かすか殺すかだけでも、未来には多大な影響が出る……バタフライ・エフェクトって知ってるでしょう」
私は声には出さずにこくりと頷く。
「それを危惧して過去には特例事項を除いて干渉してはいけないとされているの、タイムマシン開発も政府の管理下で行われていたし、ましてや使用なんて以ての外だった。現存するタイムマシンは全て政府の管理下にあるとされているわ」
シキは夜空に浮かぶ消えかけの星みたいにぽつりぽつりと話した。シキのその唇や、視線や横顔が哀しみに満ちていると思うのは、たぶん気のせいでもなんでもなかった。
「でも……じゃあどうしてシキはここにいるの」
私は至極まともに疑問に思ったことを聞いた。車内を沈黙が包み、赤信号に突き当たり止まる。
「……それは、私が決まりより何より優先するものがあったから。私が何の目的で来たか、忘れた?」
シキが言うと信号は青に変わり、ゆっくり車は進み始めた。私は、未来の自分の信念の強さを思い知って、それが自分自身であることに言いようもない戸惑いを覚える。でも、自分も確かに同じ気持ちだった。
「何としても、メイを助ける。それだけ」
「あなたなら分かるはず、私がどんな気持ちでこの時代にやって来たか」
ごちゃ混ぜのネオンが、耳障りな喧騒が、私の肩を通り過ぎて行った。さっき法律を犯してまでメイを助けたかったことが思い出され、政府を裏切ったシキの気持ちが分かった気がした。
「…………シキ」
「ん」
「急ごう、メイを、助けに行かなきゃ」
「……そうね」
私たちはそれから、一言も話さずに結ヶ丘女子高等学校まで戻ってきた。
ひどくぬるい夜だった。
科学室に白い稲妻が走って、そして静かになった。
ねぇ、メイ、待ってて。
私が、何回だって、あなたを助けに行く。