さよならより速く、私はあなたに逢いに行く 作:Werther
「にしても、千砂都先輩も粋なことしてくれるよな」
「夏美もそう思うですの〜、これでLiella!の新規生の日常風景盗撮計画が捗りますの〜」
「だから盗撮って言っちゃダメっす……」
「ん? おい四季、なんで立ち止まってんだ」
目眩が収まり、平衡感覚と視覚が戻ってくると、メイが私を覗き込んでいた。私の手には学生鞄が提げられていたのだけれど、それを地面に投げ捨てて思わずメイに抱きつく。
「メイ……メイっ!」
いきなり私に抱きしめられたメイは、あたふたしているらしかった。
「ちょっと、四季! ここ外だぞ! 離れろって!」
言われて周りを見てみると、きな子や夏美はおろか、通行人の女子たちまで黄色い歓声を上げていて、それもそのはず、ここは歩行者専用通路のど真ん中だった。私はいそいそとメイから離れる。
「ごめん、メイ……」
「全く、今日の四季なんか変だな、熱でもあんのか?」
メイは言いながら冗談半分、本気半分といったように苦笑して私を見ていた。
陽はさんさんと照りつけ、私は喉が渇いているらしかった。ここは、夕方手前の原宿だ。今日は部活が終わるのが早かったから、一年生で遊びに来たのだった。これももう、何回目だろうか。通りをすぎる制服姿の女子の手のクレープやアイスクリームの色合いさえ、私はもう覚えてきてしまっているようだった。
「あ、メイちゃん、あのお店メイちゃんが好きそうっすよ」
ふときな子がそう言った。きな子の指差す先を見ると、そこにはスフレパンケーキ専門店があった。
私は胸がどくりと大きく脈打つ。そこは、いつだったか、私がメイたちの行動を逸らすために提案したあのお店だった。その時は私がここに行こうと提案したはずだが、この世界では違うのだろうか。ひょっとしてさっきの私の何気なく足を止めたのだけで、きな子の行動が少し変わってしまったのだろうか。
────バタフライ・エフェクト
夜の科学室で、シキは呟いた。私はタイムリープマシンのヘッドホンをつけようとしていたところで、後ろから言われた言葉に驚いて振り向いた。
「この世界では、事象は収束するの」
シキは煙草を科学室の綺麗な机に擦り付けると、地面に放る。
「例えば、メイが死ぬという事象があったとして、その手前の過去を少し変えたとする。でも世界はその事象に向けての進み方が変化するだけで、結果には変わりがない」
「…………」
「ただ、逆もある。それがバタフライ・エフェクト。これは過去のわずかな変化が未来に大きな変化をもたらすケースね」
私は黙ってシキの話を聞いていた。科学室に差し込む月明かりも、もう何度見ただろう。
「要するに、過去改変って何が起きるか分からないの。だから行動がひとつ違うだけで全く違う結果が得られるかもしれない」
シキは言いながらまた胸ポケットから煙草のケースを取り出す。
「私も色々試したけど……どれも思うようにはいかなかった。でも、あなたなら、と、そう思ってる」
煙草をひとつ咥えてライターを擦る。一度、二度。火はつかなかった。
「…………切れた。ライター持ってない?」
シキが訊いてくるので私は呆れてため息を吐く。我ながらえらいヘビースモーカーに育ってしまったものだ、と思いながら。
「ここ、科学室なのでそこら辺のガスバーナーでも使ってください」
私が言い放つと、シキは不満そうにライターを後ろに放り投げた。
「では、行ってきます」
私は言って、ヘッドホンをつけた。
それが今から、時間で言えば六時間後、私の体感で言うなら三十分前の出来事だった。
「あそこは最近SNSでバズってたスフレパンケーキ専門店ですの、あそこでLiella!が食事をすれば相乗効果で人気アップが期待できますの〜!」
きな子の隣にいた夏美がそう言った。私は暑さのせいか、この同じ台詞を何度も何度も聞くという異常な状況のせいか、少し目眩がしていた。喉も乾いている。みんなで列の最後尾に並ぶ。だめ、ここも、この先はだって────。
私が頭上を見上げたら改修工事をしているビルが見える。それは黒い影絵のように夏の空気にゆらゆら揺れている。
店先にいるだけで、果物と砂糖と蜂蜜の混ざった甘い匂いがしてきた。パンケーキの生地を焼いているらしい香ばしい匂いも、もうこれで何回目かを数えるのも私は疲れていた。ふと、もう何十時間も寝ていないことに思い至る。でも、よく考えれば記憶だけを過去に飛ばしているのだから、身体は過去のものだろう。なんだか人間なのに人間ではないような気がしてしまって、私はおかしくもないのに笑ってしまいそうになる。
「いい匂いっすね〜、メイちゃんもこういうお店好きっすよね!」
「わ、私は別に……ま、まぁちょっとは気になるけどな」
「またまた、そんなこと言ってますの〜」
みんなの会話も、聞いたことのある言葉ばかりで私は疲れていた。次に誰が何を言うか、大体は覚えてしまった。そして最期に起こることも。
私は鞄に入っていたスポドリを取り出して一口飲む。人混みの暑さも、喉の渇きも何度繰り返しても変わらない。
列は最初いいペースで進んでいたのだけれど、半分を切ったくらいで急に進みが遅くなった。これも、経験した通り。ギリギリ日陰に入れない位置で、直射日光が私たちの肌を容赦なく焼くのも、そう。
「あっつ……これ以上ここにいたら死んじまうぞ……」
「これはきな子たちがパンケーキになるのが先っすね……」
「夏美は食べるのは好きだけど食べられたくはないんですの〜……」
やっとのところで立つのをキープしている三人を見ながら、私はこれから先に起こることを考えていた。
そろそろ時間だ。
この先、私たちの頭上高くから鉄骨が落ちてくる。そして、その時ちょうどその真下にいたメイが下敷きになって死んでしまう。何度見たか分からないメイの死に様がまぶたの裏に焼き付いて離れてくれなかった。
頭上の青空がビルで切り取られている。あのうちのひとつから殺意が落ちてくる。私は、もうどうしていいのか分からなかった。
列は全然進まなかった。きな子も夏美もメイも、直射日光に晒されて怠そうにしている。これから先にメイが死ぬなんて、夢にも思わないで。
ピリリリリリリリリ!
隣で、甲高いアラーム音が鳴った。
「おっかしいなぁ、こんな時間にアラームなんてセットしてないはずなのに……」
メイの手に持たれたスマホから音は鳴っていた。メイは慌てた様子で止めるとそのままそれをポケットにしまった。
私はもう、疲れていたんだと思う。
「メイ、こっちの方が涼しいから、場所変わってあげる」
「そうか……? うん、ありがとう」
叫び声が聞こえたのは、その数秒後だった。
最初は女の人の絶叫から始まる。それが水たまりに波紋が広がるみたいに、叫ぶ人が一人、二人と増えていく。
そして一瞬のうちに。
お店の前にできていた列に並んでいた女学生たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げて行った。数人が空を指差して何かを叫んでいた。
私はそれを見なかった。全部分かっていたから、分かってしまっていたから。
もう手遅れなはずだった。馬鹿な考えだと思う。メイの代わりに私が死ねば、なんてこんなの。
私は繰り返す時の流れに、もうすっかり疲れていた。誰もが同じ道を、同じ歩幅で、同じ足の動きで、同じ手の動きで、同じ台詞で、同じものを持って動いている。狂った映画でも観ているような気分だった。
────メイ、幸せになってね
私はそう思い、今度こそ目を閉じた。黒い影が近づいてきているのが最期に見えた。
「危ない! 四季ちゃんっ!」
私が、備えていた体勢ごと押し飛ばされるのと、目の前で黒くて細長い物体が落ちてくるのと、ごしゃり、とスイカを無理矢理割ったみたいな鈍い音がしたのはほぼ同時だった。
私は何が起きたのか理解できず、体勢を整えて目の前の状況をよく見る。そこには鉄骨が落ちてきている。鈍色に光るそれは、まるでこちらに無関心に転がっていた。そしてその下から、赤い液体が広がってきていた。じわり、じわりと絵筆に水を含ませたペンを紙に垂らした時のように、ゆっくりと広がってきていた。でも、その、下にいるのは、もしかして。
「四季! 大丈夫か⁉︎」
呼ばれてはっとする。顔を上げた私の先には、メイがいた。
「メイ……どうして」
目の前の光景が信じられなくて私は何度も瞬きをする。目を強く擦ってみても、やっぱりそこにメイはいた。しかも、生きて。でも、では、鉄柱の下敷きになっているのは……
「────っ、きな子と、夏美は⁉︎」
私が突然叫ぶので、メイはびくりと肩を震わせる。その後ろで夏美も肩を震わせてこちらを呆然と見ていた。
私はようやく歩いて、鉄骨に近づく。その下で頭部をスイカ割りみたいにぐちゃぐちゃにされているのは、淡い栗色の髪の少女で、ここにいたはずの人であることを考えれば、その人が誰であるかなんて簡単に分かった。
「…………きな子、どうして」
「四季、あんまり見るなっ……」
私がふらふら近づこうとするとメイが制した。どうして、メイは死ななかった、なのになんで、きな子が代わりに死んでしまうのだろう。なんで、どうして、私。
私は気がついたら走り出していた。後ろでメイと夏美が何か言った気がしたけど、振り返らなかった。周囲にできた人だかりを掻き分け、パトカーと救急車のサイレンの音に耳を塞ぎ、ただ走った。
「なんで……なんで……なんでなんでなんでっ!」
走りながらこぼれる声は、もはや絶叫と言った方が近かった。道ゆく人たちが私を好奇の眼差しで見ていた。でも私は、そんなの気にせず叫び続けたし走り続けた。
やがて私は結ヶ丘女子高等学校に着く。正門を抜けて、走って、昇降口を抜けて、また走って、廊下を突き当たって、階段を駆け上がる。
息を切らしてそこに飛び込むと、白い後ろ姿がゆっくりと振り向いた。いると思った。私は声には出さずに口の形だけで呟く。
「…………また、メイは助けられなかった?」
シキは起伏のない声でそう言った。私はシキのいる方に向かって歩く。これは、どういうことなのか、シキには訊きたかった。
「メイは、生きてるよ」
私が言うと、シキのぼんやりしていた瞳に明確に色が灯り、私を見つめた。今まで見たことのない生気に溢れた目だった。
「どういうこと、説明して」
「メイが鉄骨の下敷きになって死ぬ世界で、その位置に私が立ったの。そしたらきな子が私を庇って……メイではなくきな子が死んだ」
シキは私の発言を聞くと考え込むように手を顎に当てた。科学室は少し薄暗くて下を向いたシキの顔はよく見えなかった。
私とシキの間を、静寂が支配した。時間が止まったみたいだった。もっとも我々は時間を越える人間である訳だが。
「…………まぁ、いいんじゃないの」
おもむろにシキが口を開いてそう言った。その声は静かな科学室によく響いた。
「え?」
私は何を言われたか分からず、頓狂な声を上げてしまう。今なんて言った?
「だから、メイが生きてるならいいんじゃない、って言ったの」
シキはこともなげにそう言った。それは底なしにつめたい声をしていて、私は背筋が粟立つのを覚える。
「よ……よくない、だって、きな子は死んでるんだよ」
私が言うとシキは私を実験動物でも見るみたいな目で見て言った。
「でもメイは生きてる、それで十分では?」
私は、何を勘違いしてたんだろう。
そう言われた時に、思った。
自分だから、分かってくれると思ってた。自分だから、協力してくれると信じていた。実際、今まではその通りになっていた。
でも違った。
私はタイムマシンもタイムリープマシンも作ったことはないし、物質圧縮なんて知らないし、車にも乗らないし、ましてや煙草は吸わない。目の前にいるこの人は、確かに若菜四季だけど、私とは別の人間だった。
「嫌だ……こんなの、私は」
私はシキの脇を抜けて、科学室の隅に置かれたタイムリープマシンに向かい合う。ヘッドホンをつけて、時間を再び今日の夕方に合わせる。
「やり直すの、また」
「当たり前でしょ、私は誰も死なせたりしない」
「…………ふぅん」
私は背中から聞こえる声に声だけでこたえる。行こう。もう一回、過去へ。
「つまり、きな子が死ななきゃいい訳ね」
シキが何か呟いたけれど、私はヘッドホンをつけていたからよく聞こえなかった。
私は装置の真ん中のボタンを押す。電流が装置の中心を走り、バリバリと焼けるような音がする。もう何回目か、数えるのも忘れた。次に足元が割れて重力が無くなる。激しい眩暈が襲い掛かり右も左も上も下も分からなくなる。私は歯を食いしばってその感覚に耐えながら呟いた。
「…………待ってて、今度こそ、みんな助けてみせる」
そして視界が真っ白になった。意識がだんだん遠のいていって、私はまた、音も色もない時間の隙間に彷徨い落ちていった。
✳︎
目を覚ますと教室だった。
先生が授業終わりの号令をして、チャイムが鳴って、私たちは四人で部室に行くことになった。もう何度やったか分からないやり取り。
しかし私はトイレに行くからと断って、科学室に行った。そこにある凶器をとりあえずポケットに突っ込んで、私は部室へと向かった。もう何回繰り返したか分からない動きだ。
ほどなくして話し声が聞こえてくる。
「夏美のインフルエンサーパワーをフルに活用したLiella!日常風景盗撮計画が〜……」
「盗撮って言っちゃってるっす……」
「成功すればマニーががっぽり入るのですよ! それをLiella!の資金源にしてもっともっと人気を獲得しますの〜!」
夏美ときな子の声だ。私は部室の扉をくぐる。窓は締め切られでいて電気もついていない静かな部室では、埃だけがきらきらと宙を舞っていた。
「先輩たち、まだみたいだな」
奥の方でメイが言って、私はそれにはこたえずにそこまで歩く。メイはカーテンと窓を開けてそこから顔を出した。
「あちぃ……まだ夏になったばっかなのにこの暑さはなんなんだよ……」
私はメイを、きな子を、夏美を、順番に見ていた。さっきの世界ではみんな絶望と苦悩に歪んだ表情をしていたけど、もう二度と、そんな顔させないと強く思った。
「こうも暑いし陽が長いと一日が長く感じるな。四季もそう思うだろ?」
メイが窓辺に手を引っ掛けて腕と足を伸ばして逆さまに私を見て笑っているのが見える。赤いくせっ毛がぜんぶ逆さを向いている。でも私は、何もこたえることができなかった。
「どうした四季、調子悪いのか?」
メイが私を覗き込んでいて、上の空だった私はどきりとする。もしかして、私がこの時間軸の人間じゃないって、バレちゃったんじゃないか、と思って。
「う、ううん、大丈夫」
「そうか? ならいいんだけど」
でも、そんなことはなく、メイは普通に私を心配してくれているだけだった。私は胸を撫で下ろして、ほっと息を吐く。
「うぃっす〜! おや、一年生諸君早いね〜」
ふと入り口から声がして振り向くとそこには千砂都先輩がいた。右手で作ったピースサインを掲げるお決まりのポーズをしている。私以外の一年生三人がそのポーズでこたえる。私も慌ててそうする。
「あ、ほんとだ皆来てる。早いね」
その後ろからかのん先輩がひょこっと顔を出した。これも変わらない。ひとつも変わらない。
「だからあんたが飲み物買ってきなさいって言ってるのよ……」
「可可はじゃんけんに負けただけで誰も飲み物買うとは言ってマセン。すみれが買いに行きやがれデス」
「なっ、あんた卑怯よ! 普通あの状況のじゃんけんは負けた方が買いに行くのが当たり前ったら当たり前じゃない⁉︎」
「知らないデス」
それから頬を膨らませて睨み合った可可先輩とすみれ先輩が入ってくる。同じ、全部同じ。私は壊れた映写機みたいに同じところを何度も見せられるのにいつしか吐き気を覚えるようになっていた。
「二人とも、またやってるの?」
千砂都先輩が呆れ気味に言うと、可可先輩もすみれ先輩も一歩も引かない様子だった。その先の台詞を、私は口の中だけで転がす。もう全部覚えていた。覚えたくて覚えた訳じゃなかった。
「可可と暑いし喉乾いたしどっちかが飲み物買いに行こうって話になってじゃんけんしたの、それで私勝ったんだけど可可は知らないってシラ切るのよ!」
「だって可可は一言も負けた方が買いに行くなんて話してないのデス、すみれが勝手にそう思っただけではないのデスか」
「なっ……あんた卑怯よ!」
また睨み合いを始めた二人を見て千砂都先輩はやれやれとため息をついていた。かのん先輩が恐る恐るそんな二人に近づいて、あのー、と声をかける。私はそろそろ、これが現実なのかも怪しくなっていた。
「私ちょうど自動販売機行くつもりだったから、よかったら二人の分も買ってこようか?」
かのん先輩が言うと、すみれ先輩が眉を下げて「あんたねぇ……」と言う。
「いや、いくらついでとはいえ申し訳なさすぎるわ、私も行くから」
「なら可可も一緒に行きマス!」
すみれ先輩が言うと可可先輩も続け様にそう言った。
「あの」
私は突然手を上げる。二年生の視線がこちらに集まる。これは、私が崩した流れだ。だからようやく現実が動き出した気がした。
「ちょうど私も飲み物買いに行こうと思ってたんで、かのん先輩と一緒に行きますよ、すみれ先輩と可可先輩、今きたばかりで疲れてるでしょうし」
私が言うと、すみれ先輩と可可先輩は顔を見合わせて「まぁ……」と言っていた。
「私も、今日は四季ちゃんと行きたいかも、二人とも、どうかな?」
かのん先輩が追い討ちをかけたことにより、二人は完全に折れた。
「じゃあ二人にお願いするわ……なんでもいいわよ」
すみれ先輩が机に肘をついてそう言った。
「ありがとうございます、すみれ先輩はスプライト、可可先輩はオレンジジュースで良かったですよね」
私が言うと、可可先輩とすみれ先輩は目を丸くして私を見ていた。
「なんで可可欲しいものが分かったのデスか?」
「私も……スプライト欲しいなんて言ったかしら……? 言われてみれば欲しいような気もするけど」
私は内心しまったと思いながら、曖昧に微笑む。
「……なんとなくそう思ったんです、たまたま、ですよ」
「四季ちゃんすごいね〜、未来予知みたい! エスパー?」
千砂都先輩がそう言って私はどきりとする。こういう人って動物的な勘みたいなものが冴えてるのかもな、と思う。
私はこたえることができずにかのん先輩のすぐ隣まで来た。
「行きましょう」
「うん、行こっか」
私たちが部室の扉を開けると、入れ替わりでやって来たのは恋先輩だった。
「あら、お二人はどちらに行かれるんですか」
長い黒髪のポニーテールが振り向き様に揺れて、ふわりと宙を舞う。
「うん、ちょっと買い物に! もうみんな来てるから私たちが帰ってきたら練習始めよっか」
かのん先輩が朗らかな笑顔でそう言って、恋先輩も頷く。いつもの、日常だ。今日でメイが死ぬことを除けば。
✳︎
自動販売機は買うとがこんと音はするくせによく上の方で引っかかって取れなかった。今日もかのん先輩が自分の買ったスポーツドリンクを取り出すのに苦戦していた。
「ごめんごめん! お待たせ〜」
かのん先輩はスポドリとスプライト、私は同じスポドリとオレンジジュースを持っていた。
「一学期も終わるね、四季ちゃんは夏休み、どこか行きたいところとかあるの?」
かのん先輩は何気なくそう訊いてくる。でも、その言葉は、うまく私の中に入って来なかった。私はもう何十時間も今日という日を過ごしている。夏休みなんて、一生やって来ないような気がした。
「かのん先輩、私……」
「ん? なに?」
私は未来から来たんです、と言おうとして、何を言おうとしているんだ私は、と思って口を噤んだ。そんなの言ったって何にもならないし、そもそも信じてもらえる訳がない。かのん先輩の春の木漏れ日みたいな優しさに触れて、口が滑ってしまいそうになった。
「……夏休みは、海とか行きたいですね」
「いいね、海! よかったらLiella!みんなで行っちゃう?」
私が言うと、かのん先輩は目を輝かせてそう返した。私は、でも、きっとその約束は果たされないだろうなとぼんやり思った。
「…………はい、いつか」
でも、そうこたえた。それはきっと私の祈りだった。この長すぎる日を越えて、夏休みをみんなで迎えるんだ、という。いつかの時間軸でメイが私に言った言葉を思い出した。
────今度二人で海見に来ようぜ、なぁ四季
私は胸がずきりと痛む。いつか、いつかこの闘いが終わったら、メイと二人で海に行きたい。そう思うと涙が出てしまいそうになった。手に持ったペットボトルがひどくつめたかった。
その時だった。
タァン、と軽い重い音が空から響き渡ったのは。
私が本能的に顔を上げると、その上はちょうど、部室がある位置だった。隣を見るとかのん先輩もそっちを見上げていて、私が見つめているのに気づくとこちらを見て言った。
「今の……何の音……? 部室のある方からだったよね」
私はかのん先輩の言葉に無言で頷く形でこたえる。嫌な予感がした。背筋を悪寒が走り、全身が不自然に緊張してこわばっている。
「行きましょう」
私は言いながら気がついたら走り出していた。メイは、メイは無事だろうか。まさかもうあいつらが来たの。いやそんなはずはない、まだだって早すぎる。それともこの世界ではこうなるのが決められていたのか。
ぐるぐる回る思考回路を何とか抑えつけながら私は階段を登っていく。さっきの音が、私の思うものではありませんように、と切に願いながら。
最後の階段を登り切り、私は部室の扉の前に立つ。そこは恐ろしく静かで、私はそこに入る勇気がなくて立ち竦んでいた。そのうちかのん先輩が息を切らして上がってきて、私の隣までやってくる。そして、かのん先輩は私に一度目配せをすると、躊躇いなく扉を開けた。
私はかのん先輩の後を追い部室に入っていく。入っていき、息を呑んだ。手に持ったペットボトルが床に落ちて鈍い音を立てる。
ホワイトボードの隅に、すみれ先輩が可可先輩を抱き抱えて座り込んでいた。千砂都先輩は、立ったまま俯いて放心状態だった。部室の奥ではきな子と夏美が目を瞑って抱き合い肩を震わせていた。そして、そして。
私は部屋の真ん中にある机が邪魔で見えないその子を探しに奥へと走る。私は何度も見た最悪の光景が頭を過った。
「メイ……メイっ!」
私が叫ぶと、足元で何かが震える気配があった。目を落とすと、そこには赤髪の少女が頭を抱えて小さくなっていた。
「……し、四季?」
私が目線の高さまで足を曲げて見つめていると、メイは恐る恐るといった風に顔を上げた。その目には恐怖と混乱の色が浮かんでいた。
「大丈夫、どこも怪我はない?」
私が言うとメイはこくこくと頷いた。
「でも、でも私じゃなくて……先輩がっ……」
メイは部屋の奥まったスペースを指差しながら言う。かのん先輩がメイの指差す方を見て呆然としているのが見えた。足元にペットボトルが二本、転がっている。
「恋、先輩がっ…………!」
メイの悲痛な声の向く方に、私は目を遣る。
真っ赤だった。
鮮血、と言ってよかった。辺り一面赤い花が咲き乱れるように一色に塗られていた。壁とか、ソファとか、床とか、が。
その中心に、恋先輩がいた。目を閉じてソファに横たわるその姿は、かわいらしく昼寝をしているようにも、或いは見えたかもしれない。しかしそうではないことは、誰が見ても分かった。だって彼女は、頭に風穴が開いていて、そこから赤い液体が、たらたらと垂れていたから。その秩序の崩壊そのものみたいな赤色は綺麗な部室の壁を、ソファを、床を、我が物顔で汚していった。
私は何が何だかよく分からなかった。なんで恋先輩が? 部室でなぜこんな死に方を? 誰がやったの? あの未来から来た奴ら? ううん、でも動機がない。一体じゃあ、誰が。
私が考えを巡らせて恋先輩を見つめていると、後ろで声が聞こえた。振り向くと、そこにはすみれ先輩がいた。なぜか恐れるような、憎むような目で私を見ていた。
「あんたじゃ、ないの…………」
「え?」
すみれ先輩が何を言ったのか聞き取れなかった。すみれ先輩は拳をぎゅっと握りしめて唇の端を噛んでいた。
「だから、なんで恋を殺したのよって訊いてるのよ!」
すみれ先輩はやけくそに言葉を投げつけるみたいに言った。
「…………え?」
私は何を言われたのか理解できずに、間抜けな声を上げてしまう。すみれ先輩はまくし立てるように続けた。
「だってあれあんたでしょ! 白衣に青髪であの雰囲気……どう考えてもあんたしかいないのよ!」
「ちょ、ちょっとすみれちゃん、四季ちゃんがそんなことする訳ないよ……」
すみれ先輩の主張に、千砂都先輩がそう言う。でもすみれ先輩は止まらない。
「説明してもらうわよ、あいつがあんたじゃないなら何者なのか、どうして恋を殺したのか、あんた自分が何やったか、分かってんでしょうね」
すみれ先輩は敵意のある眼差しを向けてきていた。その目には私に対する明確な憤りが浮かんでいた。
私は、ようやくここで何が起きたか理解してくる。私は恋先輩を殺してなんかいない。でも、私と同じ姿形をした人間になら、覚えがあった。
「何とか言いなさいよっ!」
すみれ先輩が叫ぶ。私は何も言えずに目を逸らす。目を逸らした先、メイが私を見ている。その目は恐怖と不安に揺れている。私を見て、怖がっている。それは私の胸を抉るように辛かった。
部室にいるみんなが、私を見ていた。不安の、恐怖の、忌避の対象として。誰も何も言わない部室は不気味なほど静かだった。開け放たれた窓から夏風が吹き込んで首筋に触れていった。
「で、でも、四季ちゃんは私とずっと一緒にいたんだよ⁉︎ 部室に来れるはずないよ!」
かのん先輩がそう言ってくれる。でももう、私は疲れていた。そんなのどうでもよかった。
「かのん先輩、いいんです」
「し、四季ちゃん……?」
「私が、恋先輩を殺しました。それは、間違いありません」
私が言い放つとかのん先輩が肩を震わせて立ち止まり、すみれ先輩も可可先輩も千砂都先輩も目を見開いて私を見た。振り向くと、きな子と夏美、そしてメイも私を見ていた。幽霊でも見たみたいな顔をして。
「だから、私が何とかします。恋先輩も、必ず助けて見せます」
私が言うと、すみれ先輩はため息を吐いて机に手を置いた。
「あんたねぇ、何とかって、どうすんのよ。死んだ人間は生き返らないのよ」
「でも、私が、何とかします」
頑なにそれだけ言うと、私は部室の扉をくぐろうとした。行くべき場所があったから。
でも、そうできなかった。
私の手は掴まれていた。その腕から肩を伝って、顔に視線を移す。その人はすみれ先輩だった。
「逃さないわよ」
短くそう言うと、すみれ先輩はぐいと私の腕を引っ張った。
「あんたは今から警察に行くの、今自白もしたばっかりだしね」
すみれの目はつめたく、でもある種の正義感が宿っていた。この人の眼差しは強いな、とぼんやり思った。
「ちょっとすみれちゃん! だから四季ちゃんじゃないって!」
「あんた今こいつが自分がやったって言ったの聞こえなかったの? あれは四季なのよ」
かのん先輩が言っても、すみれ先輩は聞こうとはしなかった。私を掴む腕は力強かった。
「……離してください」
「嫌ったら嫌よ、大人しくしてなさい」
「そうですか……では、仕方ないです」
私は言うなり、掴まれた手と逆の手でポケットからそれを取り出してすみれ先輩に向けた。どこからか悲鳴みたいな声が小さくする。私は何の躊躇いもなく、すみれ先輩に銃を向けていた。
「…………あんた」
「もう一度言います、手、離してください」
だってどうせこの時間軸は棄てる。もう一回やり直すのだから、何をしたって同じだ。問題は、タイムリープマシンを使えないことだけ。ここですみれ先輩に止められることの方が、よっぽど問題だった。
「……離さないって言ったら、あんた撃つの?」
すみれ先輩は呆れ半分といった様子で私を一笑する。もうこの部室はまともじゃなかった。それはそうだ、仲間が一人撃ち殺されて死んでいるんだから。
「…………ごめんなさい」
私はそれだけ言うと、銃を天井に向けて、二回放った。鼓膜を突き破りそうな高い音が響いて、そこにいる人は皆驚いて耳を塞ぐ。それはもちろん、すみれ先輩も例外ではなかった。
私は扉を開けて階段を駆け降りる。後ろで何か声が聞こえた気がしたけど、立ち止まることも振り向くこともしなかった。
銃を手に握りしめたまま、放課後の廊下を駆け抜けた。それはアンバランスで、説明のつかない、非日常だった。
ややもすると私の前に現れたのは科学室。私はその『科学愛好会仮部室』と書かれた貼り紙を指でなぞり、思い出に目を細める。そう、メイだけが生きてればいい訳じゃない。私は、みんな、助けたい。誰一人死なせはしない。
扉を開けると、そいつはいた。骨格標本と亀の水槽の間で、片手に煙草を持って窓の向こうを見ているようだった。
「シキ」
私は両手を後ろを隠して、彼女の名前を呼ぶ。シキは呼ばれるとゆっくり振り向いた。咥えた煙草の先が赤く焼けている。
「恋先輩を殺したのは、シキなの」
私が言うと、シキは無表情で煙草の灰を落としてからゆっくり私を見た。
「そうだけど」
シキはなんでもないことのように言った。私は頭をぶん殴られたような衝撃を受けて、ふらりとする。もしかしたら、何かの間違いじゃないか、そう一縷の望みに縋る気持ちはいとも容易く打ち砕かれた。
「なんで……なんで、こんなことしたの、恋先輩を殺したって、何にもならないのに」
私は後ろ手に隠した静かなる凶器がべたついていくのを感じていた。科学室は昼でも少し薄暗い。
「ううん、違う」
「…………」
「今まで多くの世界線を見ていると、どうやらこの世界は若菜四季……あなたの周りで誰かが一人死ぬ、という事象に収束しているように思う。メイが死ぬ未来が大多数だけど、では先に誰かが死んでおけば?」
シキは短くなった煙草を投げ棄てて足で踏み潰した。私は声を出すことができない。
「前回、メイの代わりにきな子が死んだ。あなたはそれが嫌だと言うから、だからこうしたの」
シキは何も悪気ないようにそう言った。
「……つまり、恋先輩だったら、死んでもいい、と言いたいの」
「あなたは部活でもあの人とは一番距離があった。きな子が死ぬより、ずっといいと思うけど」
「だからって……殺すのは違うでしょう! それにこの後あいつらがメイを殺しに来る可能性だってある! そうなったらどうするの⁉︎」
私が言うと、シキは退屈そうに私を見ていた。その瞳の赤色は寂れた色だった。それはシキの心そのものみたいな気がした。
「あいつらって……あぁ、クロノダイバーのこと。あいつらはこの世界にはもう干渉できないよ、私が葉月恋を殺したから」
シキはそう言った。私はシキが何故そう言い切れるのかが納得できなかった。シキの言動は時々不可解だった。シキは一体、この世界の何を知っているの?
「さて、じゃあ私は帰る」
シキは言いながら、煙草のケースを取り出して、そこに一本も入ってなかったのか、ケースごと棄てると奥へと歩いて行った。そっちには、タイムリープマシンがある。
「帰る……って、どこに」
私が訊くと、シキは私を横目で見てこたえた。
「もちろん、未来に。もう私の目的は果たしたから」
「…………それ、どうするの」
シキは歩みを止めない。私は首を嫌な汗が這うのが分かった。選択の時間が迫っていた。
「もちろん、持って帰る」
カァン! と。
金属の弾ける高い音がした。シキがこちらを振り向いて、私はシキに向かって銃を構えていた。
「…………行かせない、タイムリープマシンは、私がもらう」
シキはわずかに驚いた素振りをしてみせたけれど、すぐに平静を取り戻して笑みを浮かべて言った。
「……嫌だと言ったら?」
シキはつめたく、擦り切れた赤い瞳で、私を見ていた。シキはそれからまたタイムリープマシンに近づく。
そして、銃声が響く。
今度はシキの足元目がけて、弾を撃った。弾痕からうすく煙が立ち上る。
「あなたを撃ってでも、止めてやる」
私は銃口をシキから逸らさないまま、じりじりと距離を詰めていく。世界は、硝煙と煙草の不愉快な匂いでいっぱいだった。
「私は誰も死なせない、メイもきな子も、恋先輩だって、他のみんなだって、護ってみせる」
シキは相変わらずのポーカーフェイスで私を見ていた。今、私とシキは、明確に敵だった。どうして、こんなことになってしまったのだろう。同じ自分のはずなのに。
「……あなたの考えは素晴らしいと思う。でもね、世の中そう都合良くはできてないの。だから、ごめんなさい」
「どういうこ、と────」
シキが一息にそう言うのと、その胸元から銃が出てくるのと私の右手に鋭い痛みが走ったのは、ほぼ同時だった。
かしゃん、と音がして私の持っていた銃が科学室の床に転がる。右手を見れば、そこからは赤い血がとめどなく溢れていた。シキが私に銃を向けていた。理解するまでに数秒かかった。
「私はメイさえ助かればいい、それ以外の人なんて知らない、それでいいの」
シキは淡々と話す。まるで機械が喋っているみたいだった。
「あなたは……私なのに、どうして、そんなことを言うの」
私が言うと、シキはわずかに目を細めて、私のいる辺りを漠然と見つめた。
「……長い時間が経ったのよ、あなたが想像もつかないような、長い時間が」
索莫とした声は空っぽの科学室に響いて、沈んで、溶けていった。私は一体、何を見てきたんだろうか。そんなの知る由もなかった。
私はタイムリープマシンに触れる機会を窺っていた。でも右手は撃ち抜かれ、銃も床に転がっている、おまけにシキがこちらに向けて銃を構えている始末だ。正直お手上げだったけど、でもここで諦めてはいけなかった。せめて十秒、タイムリープマシンに触れさえできたら────
「おーい、四季、いるか……?」
その時だった。
入り口に赤いくせっ毛のあなたが現れたのは。
私もシキも驚いてそちらを見た。そこにいる、生きてるメイを見て、シキは動きが止まる。
今しかない、と思った。私はシキめがけて全体重をかけてがむしゃらにタックルをした。シキはバランスを崩し、白衣の裾が床に擦れて、そのまま背中から倒れ込む。シキの右手に持たれていた銃も床に落ちて乾いた音を立てた。私はそれを蹴り飛ばし、代わりに自分の銃を拾い上げる。
「お、おい四季、何やってんだよ」
メイが声をかけてくるけれど、それにはこたえない。タイムリープマシンを左手で操作して、日付を入力する。ヘッドホンをつける。よし、これでいい。飛ぼう。
タァン!
と音がして、何かと思って目を落とすと、自分の制服のお腹の辺りが真っ赤に染まっていた。顔だけで振り向くと、少し離れたところでシキが、銃を私に向けて立っていた。
「四季!」
メイが叫びながら私の元に駆けてくる。私はつん裂くような激痛で意識が朦朧として立っていられない。でも、しなければならないことがあった。行かなければならない場所があった。
私はポケットに隠した凶器に上からそっと触れる。そして決意すると、それを音を立てないように取り出し、まだ使える左手で握りしめ、素早く振り向いて、引き金を引いた。
「Last Bullet……」
私は短く呟いて、左手を下ろす。白衣の青髪の女性は、どこに弾が当たったかは分からなかったけれど、お腹辺りを赤く染めて、それから膝から崩れ落ちて倒れ伏した。
私は、ようやくヘッドホンを耳につける。装置の真ん中のボタンを押す。白い電流が装置の中心を走り、バリバリと焼けるような音がする。それから、足元の地面が割れて重力を失ったみたいな感覚になって────
銃声が響いた。
鈍い痛みが胸を走ってそこを見れば、心臓がある場所から鮮血が噴き出している。
「四季っ!」
振り向くと、メイがこちらに走ってくるところだった。その視界の隅、シキが血まみれの両手で銃を私に向けているのも見える。
吐きそうになる。メイが何か言っていたけれど、聞こえない。
意識が薄れてゆく。霞む視界の遠い意識の中、どうかお願い、飛んでください、と祈るみたいに目を閉じた。