さよならより速く、私はあなたに逢いに行く 作:Werther
屋上の沈黙は一秒にも十分にも思えた。
メイは撃たれて、鮮血を撒き散らし、そのアスファルトの上に倒れ、私は……そのはずだった。
恋先輩の銃声が響き、みんなは構えた銃を撃つことも投げ棄てることもできず、ただ不恰好に状況を見ているだけだった。
やがてその真ん中で、恋先輩の銃からは薄く煙が上がっていた。そして私の前にはメイがいた。メイは撃たれて死んでいる……はずだった。でもそうはなっていなかった。メイは怯えたように前を見て立ち尽くしていた。
その、メイと恋先輩の間に、両手を広げて立っている人がいた。見慣れた気のする白衣の後ろ姿。その人の束ねてもいない髪はぬるい風に吹かれて無抵抗に揺れていた。
その人は顔だけでゆっくり振り向いて、メイを見てほんの少しだけ微笑んだ。私は初めて笑った顔を見たな、と思った。
「久しぶり、メイ」
風が吹いて、彼女の真っ青な髪が横に靡いてその耳が露わになる。低い位置にある、赤とオレンジの間くらいの色のピアス。それは────
「…………四季?」
メイが信じられないものでも見るかのように呟く。そこにいたのは、シキだった。その白衣の背中姿の真ん中辺りが広く赤黒く汚れていた。それは今撃たれたものでないことは分かった。それを撃ったのは、私だ。
「四季さん、お久しぶりです」
恋先輩が嬉しくなさそうに言って、シキはそっちを振り向く。
「恋さんも、お元気そうで」
屋上にいる他のみんなは張り詰めた空気のまま二人を見守っていた。二人は言葉を選ぶようにぽつりぽつりと喋った。
「どうやって現れたんですか、パワードスーツは無力化しているはずですが」
「磁場の解除に思ったより時間がかかった、厄介でしたよ……でももうみんなのスーツも使える」
恋先輩はそれを聞くと歯噛みしてシキに銃口を向ける。
「あなたは……いつも私の邪魔ばかりする…………何故なのですか⁉︎」
恋先輩は初めて感情的になって叫んだ。シキの背中からは、赤黒い染みを塗り替えるように純粋に赤いものが溢れてきていた。どうやらシキはそこを撃たれたらしかった。
「恋さん、ひとつだけ、訊かせてください」
シキは言いながら白衣を脱ぎ捨てる。その下から、他のみんなと同じ衣装が姿を現した。初めて九人でステージに立った学園祭の時の衣装にやっぱり似ていた。
「私は、メイが死んでから、傍であなたに支えてもらえて救われた。政府の研究室でも、あなたは一緒にいてくれて、私は少し、あなたのことをお姉さんみたいだと思っていた……それは、全部、こうするためだったんですか」
シキが言うと、恋先輩は哀しそうに目を細めて吐き捨てるように短く言った。
「そうです」
「どうして…………」
「あなたがっ!」
シキが困惑したように恋先輩を見ていると、恋先輩は突然堪えていた感情が堰を切って溢れ出したように叫んだ。
「あなたが、メイさんに必要とされているのが、憎かったんです」
私はそろそろとメイに近づいて、その手に触れる。メイが驚いて私を見る。私は大丈夫だよ、と言うようにその手をぎゅっと握る。
「私はメイさんに見てもらえないのに、四季さんはいつもメイさんの隣にいる…………私はメイさんが死んで正直、ほっとしました。でも、四季さんはすごかった。タイムマシンを作ろうとするなんて、そしてまさかそれを完成させてしまうなんて……私は、四季さんの目的を察して、政府側に取り入りました」
みんなは恋先輩の告白を聞いていた。『四季』の名前が出る度にメイがちらりと私を見るのが分かった。
「恋さん……メイのこと、好きだったの」
シキは私たちを庇うように立ち塞がっていた。その背中は自分のはずなのに、とても同じ自分だとは思えなかった。あまりに多くの哀しみが刻まれている気がして。一体私は、どれだけの苦しみを越えてきたのだろう。それは私には想像もつかない時の長さだった。
「えぇ、最初はただのかわいい後輩でした……でも二人で話したり、一緒にゲームをしたりしているうちに、気づけば私はメイさんに惹かれていました。そんな気持ち、初めてだったんです……でも、メイさんは四季さんといつも一緒だった。私が入る余地は最初からなかったんです。だから…………」
恋先輩は着ていた黒ローブを片手だけで脱ぎ捨てると、シキに向けて両手で丁寧に拳銃を構えた。
「手に入らないなら、壊れてしまえばいいと、思ったんです」
恋先輩は、私とメイを除く他の屋上の面々と同じ衣装を着ていた。それは、シキが作ったとかのん先輩が言っていたものだ。それなら、恋先輩がそれを着ているのは、どうしてだろう。シキと恋先輩がどういう関係なのか、私にはさっぱり分からなかった。
「分かりました、恋さん」
シキは決意したように呟くと、拳銃を構えた。その背中の低いところに小さく穴が開いていて、そこから血がたらたらと流れてきていた。さっき恋先輩の撃ったところに違いなかった。
「私はメイを必ず助ける、あなたはその邪魔をする敵です、どちらかがここで倒れなきゃいけない」
「えぇ、そうですね」
シキと恋先輩は、お互いに銃を向け合っていた。私とメイは手を繋いだまま、それを見ていた。かのん先輩もすみれ先輩もきな子も夏美も、固唾を飲んで見ているようだった。
「恋さん」
「なんですか」
「私は、恋さんのこと、結構好きでしたよ」
鳥が一羽、空の高いところを滑るみたいに飛んでいた。
「……そうですか、私は、あなたのことが嫌いでした」
「えぇ、知っています」
「ごめんなさい、そして…………」
「さよなら」
そして二人の声が綺麗に重なった。それと同時に二人の衣装のカラフルな模様が光り出す。それから二人はいきなり姿を消すと、屋上に鋭い銃声が二発、ほとんど重なって聞こえた。
私はメイを強い力で抱き抱えていた。メイを護りたい一心で、ただがむしゃらに押さえつけていた。
屋上に音はなく、静かだった。私がゆっくり振り向くと、そこには抱き合うみたいな姿勢のシキと、恋先輩がいた。二人とも、片手でお互いの肩を抱いていて、もう一方の手でお腹に銃を突きつけていた。そして二人の下の地面には赤い水溜まりが広がっていた。
他のみんなはそれを見て、構えた銃を下ろしていた。ただ、二人に近づくことはなかった。
「なんで、急所を外したん、ですかっ…………」
恋先輩は口の端から血が溢れていて、途切れ途切れに言った。
「恋さん、こそ…………」
シキも苦しそうにそう言った。二人はそれから握っていた銃を落とすと崩れ合うように倒れ込んだ。
「四季ちゃん、恋ちゃんっ!」
かのん先輩が二人に走って近づく。はっとしたように他のみんなも駆け寄った。
「四季ちゃん、大丈夫⁉︎ 四季ちゃん⁉︎」
かのん先輩がシキを抱き上げながら名前を呼んでいる。シキのお腹からは血が溢れてきていて、かのん先輩の白い手や足をその色で濡らした。
「私は、大丈夫…………まだ、死ねないっ……」
シキは言いながら真上のかのん先輩を見て、それから横を向いて私とメイを見て、柔く微笑んだ。
その奥ですみれ先輩は恋先輩を腕の中に抱えていた。その下も、シキと同様、真っ赤に染まっていた。
「メイちゃんっ!」
「メイメイ!」
その時屋上の扉が開いて、可可先輩と千砂都先輩が転がり込んできた。私たちは驚いて二人を見る。
「メイちゃんお手洗い行くって言ってもなかなか帰って来なくて、もしかしたら……って思ったの、ごめんね、気付けなくて……」
千砂都先輩は申し訳なさそうに言った。メイはそれを見ると苦笑して言った。
「千砂都先輩、私が勝手にしたことだから、いいんだ。それに四季が助けてくれた」
メイは言いながら振り向いて、かのんの腕の中に収まるシキを見つめる。するとシキが何かを言ったのか、かのん先輩がシキの口元に耳を近づける。うん、うん、と数回頷いてから、かのん先輩は私たちを見て言った。
「四季ちゃんが、二人に話があるって、聞いてあげてくれるかな」
シキはその赤い瞳で私たちを見ていた。そこには絶望とか諦観とかの色はなくて、どこかあたたかくて懐かしい、そんな色をしていた。
私たちは一度見つめ合ってから手を繋いでシキの元へ来た。シキもかのん先輩の腕を離れて、よろよろと立ち上がる。
「シキ…………」
私はシキのお腹を見て、目を逸らしたくなる。何発も銃痕があって、そこから音もなく赤色が染み出してきていたから。そしてそのうちの一発をやったのは自分だった。
「いいの、私だってあなたを殺そうとした、おあいこよ」
申し訳なさそうに俯いた私に、シキはそう言った。メイが驚いたように私とシキを交互に見た。あぁそっか、この世界じゃメイはそれを知らないんだっけ、当然だ。
「あなたに、言っていなかったことがある。メイを助ける、唯一の方法について」
シキは私をまっすぐ見つめてそう言った。私は息を呑む。
「教えて……どうすればいいの」
私は呟くように訊く。長い長い時間の中を彷徨っていた。私はそれだけを追い求めていた。
「メイも、聞いてくれる? あなたと、そこにいる私の、話だから」
シキは言いながら、メイを懐かしむような目で見つめた。メイもこくりと無言で頷く。そしてシキはゆっくりと話し始めた。
「メイ……あなたはこの世界では、もうすぐ死んでしまうの。それは、誰にも止めることができない」
まだ空は青かった。雲ひとつない夏空だ。でももうすぐ、夕暮れが来そうな気もした。その前に、メイは。
「メイが助かって、かつ誰も死なない方法がひとつだけある……メイの死は、常に私がトリガーとなって引き起こされた。それは、私がメイを助けようとすればするほど、そうなっていったことからも自明」
私もメイもじっとシキの唇が動くのを見ていた。メイと繋いだままの手が時々確かめるみたいにきゅっと握られた。
「だから、私とメイが、そもそも出会わない世界にしてしまえば、メイは死ぬことはない…………これが唯一の方法」
シキはゆっくりとそう言い終えた。ぬるい風が私とメイとシキの間のスペースを過ぎていった。
私たちは誰も喋らなかった。私たちの周りの、未来のみんなも、誰も。
やがて口を開いたのはメイだった。
「おい……四季と出会わないようにするって、じゃあここにいる私はどうなるんだよ」
「あなたの記憶から若菜四季の存在は消されるの、消されたことにも気づかない」
「…………」
メイはシキにそう言われて、愕然としている様子だった。私は慌てて口を開く。
「ちょ、ちょっと待って、タイムマシンは破壊されたはず……どうやって行くの」
「私が乗ってきたのがある、それを使って行くことになる……若菜四季、あなたがやるの」
それは、あまりにも残酷な方法だった。私はどうすることもできずにただ立ち竦んでいた。
「……四季と、二人きりで話をさせてくれないか」
メイが私を見て、言った。シキが頷いて、こたえる。
「分かった……ただもう時間がない、メイが死んでしまう時間まで、もう三十分を切った。だから二十分で、二人で話し合って、決めて」
シキはそれだけ言うと、突然バランスを崩して私にもたれかかってきた。私は慌ててシキを支える。背中に回した両手がぬるりと濡れた。喋りすぎたシキはどうやら限界らしかった。
「メイ…………」
私は隣を見て自分にも聞こえないくらい小さく呟くと、メイが気がついて私を向いた。そして桜が降るように柔く微笑んで、言った。
「私は大丈夫、だから四季、そんな顔するなよ」
私は泣き出してしまいそうだった。
メイの声があんまりに優しくて。
メイの顔が儚くて。
空は思い出を吸い込んだみたいに、深い青色だった。
✳︎
私たちは何も言わずに手を繋いで歩いていた。部室を過ぎて、薄暗い階段を降り、廊下をまっすぐ突き当たる。
その『科学愛好会仮部室』の紙が貼られている扉を開けて、私は中に入る。そこは少し空気がつめたくて、しんとしていた。棚に並んだビーカーやフラスコの数々も、ホワイトボードに書かれたいくつもの構造式も。
「おい、四季」
ふと手が離されて、私はようやく振り向く。メイが真剣そうな顔をして私を見つめていた。
「もういいだろ、ここで」
「うん…………」
私はようやく口を開く。メイのわずかに急いでいる通り、私たちには時間がなかった。たったの三十分にも満たない時間。
「最初にどうしても、訊いときたいことがある」
私たちは科学室の隅っこで話した。それはまるで、二人でスクールアイドル部に入ろうと決めた、あの日のようだった。
「四季は、みんなみたいに、未来から来てるんだな?」
メイはそうなんだろ、と言うように力強く言った。私はそんなこと一言も言ってないのに、どうして、と思って口を薄く開いたままメイを見ていた。
「分かるよ、そのくらい」
「メイ……」
「じゃあ、四季は、私が殺されるのを、何度も見てきたのか」
メイの声は春の木漏れ日みたいにあたたかくて優しかった。私は視界がじわりと濡れるのを感じながら、ただ頷くだけでそれにこたえた。
そっか。と短くメイは言った。その声は思いの外近くから聞こえて、私は驚いて顔を上げる。涙に滲む世界のすぐそこで、メイが柔く微笑んでいた。
「ありがとう、辛かったな」
メイの声は夏の午後の清風みたいに穏やかで心地よかった。私はそんなメイに何も言えなくて、気がついたら抱きしめていた。
「メイっ…………私は、メイに生きていて欲しいの、それだけなのっ…………!」
メイは私が突然抱きついたのに声を上げることもなく、逆に静かに背中に手を回してくれた。その感触は秋の落葉のように曖昧で儚いものだった。
「うん、ありがとう、四季。私はきっと他の世界でも、四季がいてくれて嬉しかったと思うよ」
メイは耳元で慈しむように言った。あなたは何も知らないはずなのに、どうしてそんなに優しいかな、もう。メイはやがて私をゆっくり引き剥がすと、その群青で私を見つめて言った。
「相談なんかしなくても、四季のこたえは決まってる……そうだろ?」
私はどきりとした。なんでそんなことまで分かるの、まだ何も話してないのに、と思って。
「だから、四季、分かりやすいんだよ、私が何年一緒にいると思ってるんだ」
私がこたえずにいると、メイは呆れ気味に苦笑してそう言った。
「私がなんて言っても、四季は過去に行って私と出会わない世界を選ぶ……私が四季のことを全部忘れても、私が生きてる方がいいって、四季はそう言うんだろ」
メイの声は冬の白雪のように科学室にしんしんと降りしきり音も色もなく消えていった。私は思っていたことを全部言われて、もう何も言うことがなくなる。
「四季、お願いがあるんだ」
「…………?」
「私が四季のことを全部忘れたら、四季も私のことは忘れてくれ」
「いやっ、そんなの…………」
私が子供みたいに首を横に振ると、メイははにかんで笑った。その顔がとても寂しくていけなかった。
「覚えてても辛いことばっかりだろうからさ、だって私は何一つ四季のことを覚えてないんだぞ」
「…………」
「じゃあ、もう行こうぜ……早く行かなきゃ」
メイはそう言って、踵を返す。このままだと本当にお別れだ。こんなところで。私はまだ、あなたに何も言えてないのに。あなたと私の距離が開いていく。でもまだ、私は。
「…………五枚、なんでしょ」
私は思わず口を開いていた。メイの足がぴたりと止まり、辺りの時も一瞬止まったようになる。やがてメイがゆっくり振り向く。
「私に宛てて書いた、ラブレターの、枚数」
私は胸がはち切れそうになりながらそう言う。胸がどくどくうるさくてその音がメイまで聞こえてしまうんじゃないかと思って怖くなった。科学室はこんな日でも薄暗くてつめたい。
「四季」
ふと、名前を呼ばれて顔を上げると、そこには鼻先が触れてしまいそうなほど近くにメイがいた。私は息が止まりそうになる。
「…………ごめんな」
メイはただそう言った。
そしてその小さなつまさきをわずかに立てて、壊れ物に触れるみたいに私の頬に手を添えて、それからメイの整った顔が近づいてくるのを、私はただ感じていた。
その時、確かにこの科学室の時間は止まった。私はこの時が永遠に続けばいいのに、と、本気でそう思った。
だって魔法みたいな口触りだったの。それは季節のうつろいみたいに穏やかで、けどはっとするような鮮やかさで、私の胸に落ちてきた。
やがて音もなくメイが離れていって、私たちの間にはいつもみたいな何気ない隙間ができた。
「ひどいよ……こんな、忘れられないことしておいて、忘れろなんて…………」
もう誤魔化しようがなかった。私の視界はぐしゃぐしゃに歪み、堪えきれなくて言葉にできなかった想いが全て雫になって目からこぼれ落ちた。私はメイのことが、好きだった。
「ごめん」
メイは言った。その声は私でなければ聞き逃していただろうけれど、わずかに震えていて、私は涙を拭ってメイを見る。そのメイの、へたくそな笑顔の縁をつう、とひとつ水滴が伝った。
「やっぱり、やだなぁ…………四季のこと忘れるの」
メイは。
メイは。
メイ、は。
そういう顔をするからいけないの。
ずるいよ。
だって、ほんとはそれ、私が言いたいことなのに。
「メイっ!」
私は勢いよくメイを抱きしめる。その細い首筋に顔を埋める。春みたいな匂いがする。このぬくもりだけ感じていたいと切に思った。そうできないことを、誰より残酷に知っていながら。
「ごめんな、四季」
メイは私の頭をゆるく撫でながらそう言った。私たちの影がひとつに伸びていた。
刻一刻と迫るさよならの合図。
目を背けても、無駄だった。
私たちは今始まる今と、今終わる今の隙間でばらばらにならないように、無力な
✳︎
屋上に戻ると、もうあまり時間はなかったのだろう。未来のみんながそわそわして私たちを待っていた。
「……結論は出た?」
かのん先輩が私たち二人の前に立って、そう訊いた。その目はひどく優しかった。
「はい…………シキの、私の、言う通りにします」
私が決意を込めてそう言うと、屋上のみんなは私を見てほころぶように笑った。
「四季ちゃんならそう言うって、思ってたよ。ほら、ちぃちゃんが待ってるから、四季ちゃん急いで」
かのん先輩は言いながら、屋上の奥を指差す。そこには千砂都先輩が上部が球状になっている巨大な装置のようなものの前でひらひら手を振っていた。それはさっき裏庭で見たものと瓜二つだった。何なのかは訊かなくても分かった。
私はメイを置き去りにして千砂都先輩の元に駆け出す。そうでもしないと、後ろ髪を引かれてしまいそうで。
「ほんとにいいの、四季ちゃん」
私が隣まで来ると、千砂都先輩は優しく眉をひそめてそう言った。この人の人を心配する時の顔は、ちっとも変わらないな、と思った。
「もう決めたんです……行きましょう」
私がそう言うと、千砂都先輩は真剣にこくりと頷いてタイムマシンのハッチのような部分を開けた。そこの梯子を登っていき、上から私を呼ぶ。
「登ってきて! すぐ出発するよ!」
私は聞き終わらないうちから梯子に手をかけていた。メイがこっちを見ていた気がしたけど、気づかないフリをした。
船内に入ると、そこの空気は科学室みたいにつめたかった。
千砂都先輩は巨大なモニターとか、見たことのない配列のキーボードなんかが並んでいるメインコントロールらしき椅子に座っていた。よく見ると千砂都先輩の座っている椅子の左右にふたつ、そこから四角形を描いて各頂点に来るように椅子がふたつずつ並んでいた。
「大きいですね」
私が言うと、千砂都先輩はあぁ、と得心して笑う。
「九人乗りなんだ、このタイムマシン」
千砂都先輩はそう言った。どうして九人なのかは、訊かなくても分かった。私は、やっぱりどこまでいっても私らしい。
私は笑ってしまいそうになるのを堪えながら、千砂都先輩の左隣の椅子に腰掛ける。千砂都先輩に目配せして、頷く。千砂都先輩もそうする。
「じゃあ、少しだけ待ってて、設定しちゃうから」
千砂都先輩は言うと、手元のキーボードのようなものをすごい速さで触っていた。するとすぐに宇宙船内部みたいだったタイムマシンの景色が上から透過されて、外の景色が見えるようになった。すぐ私の足元にメイがいて、私を緊張した眼差しで見上げていた。
「内側からしか見えてないんだけど……余計なお世話だったらごめんね」
千砂都先輩は困り笑顔をしていた。目線は青白いモニターに注がれていて、手は動き続けたままだ。
「時代と場所は四季ちゃんが決めて、どうすればいいかは四季ちゃんが一番よく知ってるだろうから」
千砂都先輩は横顔のままそう言った。私は、たぶんそう言われるだろうなと思っていたから、すぐにこたえる。
「三年と四ヶ月前、メイの小学校付近まで連れて行って」
私が言うと、千砂都先輩はオッケー、と言って何かを素早く入力すると手を止めた。
「じゃあ、行くよ、初見だとすごいGだから覚悟してね」
千砂都先輩は言うと、中心のボタンを押してレバーをふたつ引く。
突然がくんと視界が歪んで、身体中が押しつぶされるような強い力が上からかかる。私は悲鳴にもならない声を上げる。やっとの思いで目を開くと、透過された外の景色が波打つようにぼやけてきていた。
その下にいる、その人を私は見る。お別れもろくに言えなかったな、もう二度とあなたには会えないのかな、あなたと行きたいところも見たいものも星の数ほどあったな。
重力がのしかかる。景色の揺らぎは下の方まで伝播していく。私は最後に、あなたの姿を見ておきたくて、目を凝らす。
タイムマシンの外部がおもむろに発光する。
何か言う、あなたが見えなくなる。
✳︎
タイムマシンはものの数十秒で静かになった。周囲は透過状態ではなく、タイムマシン内部の景色だった。
「着いたよ」
千砂都先輩がそう言って、立ち上がる。私の後ろでハッチを開けてくれながら、私を振り向く。
「いい、四季ちゃんが信じたことをして、それがきっと正しことだと思うから」
千砂都先輩は言うと、私の顔をじっと見て、にっと笑った。
「いってらっしゃい、先輩が待ってあげてるから、安心して行きたまえ」
おどけて言う千砂都先輩は、私の知ってるあなたと何も変わらなかった。私は小さく息をひとつ吐いて、立ち上がる。
「いってきます、先輩」
私は静かに梯子を降りていった。
外は、雨が降っていた。
灰色の雲が頭上には立ち込めていて、世界はどこも灰色にくすんでいた。はたはた、と。音もなく雨は街中を濡らしていた。
私は傘など持っていないので、そのまま歩き出す。ここはどうやら広めの公園の隅の方らしかった。
そこを抜けて、私は歩く。
あまり通らない、メイが通っていたという小学校のある街を。
どこに行けばいいのかは分からなかった。どうすればいいのかも。千砂都先輩はああ言ったけれど、そもそもメイに会える保証すらなかった。私はただブラウスもスカートも濡れて肌に張り付くのを感じながら、宛もなく灰色の街を歩き続けた。
信号はカッコウと鳴いていた。待っている間、向かいの車線でトラックが水溜まりを跳ね飛ばして、誰もいない歩道を濡らした。私はそれをぼうっと、目で追いかけていた。
私は歩いた。
どこかへ行くような、どこへも行ってないような、そんな曖昧な心地のまま。
雨。記憶のそれより鮮明に、私の胸を焦がすような。
ふと、私の脇に、公園があった。それはさっきタイムマシンで降りてきたような広い公園ではなくて、住宅街の中にある小さなやつだった。空いてるスペースが寂しいから作りました、というようなそこは入ってすぐにベンチがあって、後は奥に錆びついたブランコがあるだけの簡素な作りだった。雨だからかなのか知らないけれど、誰もいなかったのでそこはかえってもの寂しく思われた。
私は歩き疲れていたから、ふらふらとブランコまで歩いていってその片方に腰掛けた。
じゃり、と濡れた鉄と鉄の擦れる音が座るとして、私はなんだか安心してそのチェーンを握った。不思議と懐かしい気持ちがした。
空を見上げると、雨の筋が降ってくるのが見えた。私の額から頬を伝って、顎にかけて落ちていく。ブランコの下はみんなが蹴って削れているから水溜まりができていた。
ぴちゃり。
と、音がしたのは、その時だった。
濡れた土と水を踏む音がして、ブランコが軋む。
気がつくと、私の隣にも、誰かが座っていた。
私はそっちを見ていないのに、そこに誰がいるのか分かった。何も言わなくても全て伝わってしまいそうな安心感。
私たちはじっとしていた。時折ブランコのチェーンが思い出したように軋んだ。
「…………それ」
口を開いたのは彼女だった。まだその声は高く幼さが残っていた。私はゆっくりと隣を見る。くせっ毛な赤髪の子が、その群青で私を見ていた。
「それ、お姉さんの血?」
言われて私は自分の手を見ると、そこから赤黒い液体がわずかに垂れていた。私は怪我してないけど、と思って記憶を辿る。そして、あぁ、と思い至った。さっきシキを抱きとめた時に手についたんだろう。それが固まって、雨によってまた流れ落ちたのだった。
「うん、そうだよ」
でも私は、否定するのも違う気がしたから、そうこたえた。実際自分の血だから、間違いでもなかった。
彼女は何も言わずに私を見ていた。でもやがて二人して、ブランコの上の空を見上げた。灰色で、まるで夜と区別がつかない空を。
「私な」
またしても彼女が口を開いた。私は今度はそっちを向かないまま、聞く。
「私、目つきも悪いし性格もこんなだからみんなから怖がられててさ」
雨が少し強くなったようだった。頬を打つ雨粒が少し、増える。
「仲良くしようと思って頑張ってたんだけど、疲れちゃったんだ」
彼女はそう言った。彼女はランドセルを背負っていた。私はそれを見て、どうしてか泣き出したくなった。
「大丈夫」
「…………え?」
私が放った言葉は小さすぎたのか、彼女は首を傾げる。
「大丈夫、あなたは優しいから、いつか、いい友達に囲まれるよ、安心して」
私が言うと、彼女はきょとんとしてその幼いながらも鋭い目で私を見ていた。私は、怖がられるのが嫌ならコンタクトつけなよ、と言いたくなるのを必死に堪える。
灰色の街の中で、彼女の髪ばかりまぶしい茜色でいけなかった。
「……みらいはかぜのよう、に」
気がつけば私は歌い始めていた。出だしは頼りなく、だんだん感覚を取り戻していくように。
「それでも進みたいんだ
だって後悔したくないよ」
彼女が私を見ているような気がした。
「あきらめない
決めたから」
私は雨を伴奏に歌っていた。それはあなたのピアノみたいに優しく私の声を包んでくれた。
「信じることが大事だと
自分に言い聞かせたら
もっと もっと 遠く目指してみようよ」
自分で紡ぐ歌の歌詞が、心の奥の方の何か柔らかくてあたたかい大切な部分に触れる。この曲を私に教えてくれたのも、あなただった。
「小さな存在だけど
大きな夢があるから
負けないよ さあ一緒に飛ぼうよ」
サビが終わる。私の声は途端にか細くなってしまう。なんで声が出ないのかと思ったら、私は泣いているのだった。あとからあとから、涙が出てきた。
「本気で飛ぼう……さあ、一緒に飛ぼうよ」
私は最後のフレーズをぎりぎり歌い切って、顔を下ろす。自分の頬を伝うのが雨なのか涙なのか私には分からなかった。
さく。と音がした。
私が顔を上げると、隣にいたはずの彼女が目の前にいた。片方だけお団子にしているのも変わらなかった。彼女は歯を見せてにっと笑った。
「いい歌だな」
彼女はそれだけ言った。その笑顔で、その声で、私はもう胸がいっぱいだった。
気がついたら彼女を抱きしめていた。彼女の背は私よりもずいぶんと低いから、私は汚れるのも構わず水溜まりに膝をついて彼女を抱きしめた。つめたい雨の中なのに彼女はひどくあたたかかった。
「お願い…………」
「ん?」
私は決意して、言葉をひとつひとつ選んでいく。
「外苑西中学校だけには、行かないでっ…………」
私は膝立ちで彼女に縋っていたから、懇願するような姿勢だった。泣きながら、お願いをする私の姿は、きっと誰が見ても幼いものだっただろう。彼女は私の腕を払い除けることも、逃れようとすることもないまま、ただ立っていた。
「…………分かった」
ふいに耳元で声がした。私は耳が彼女の声をキャッチしたことで他の情報がどうでもよくなる。雨音が遠くなってゆく。
「お姉さんがそう言うなら、なんか理由があるんだろ、そうするよ」
私はそれを聞くと力が抜けてしまって、彼女を抱いていた手の拘束がするりと解けた。
見つめ合うと彼女はいつもやるみたいに歯を見せてにっと笑っていた。私は見ていられなくて、立ち上がる。膝から下が全て泥に汚されていた。
別れの挨拶もしないまま、私は歩き出す。錆びついたブランコを離れて、ベンチの脇を抜けて、公園を出ようとした、時────
「待ってくれ!」
雨音にも紛れない澄んだ声で、私は射止められた。止まった足はうまく振り向いてくれることさえできない。私は顔だけで公園を振り向く。その真ん中、私を呼び止めた彼女を。
「お姉さんの、名前は?」
彼女は躊躇いがちにそう訊いた。その群青が戸惑いと興味に揺れていた。私はふっと微笑んで、彼女をまっすぐ見つめて言う。
「私は、あなたがいくつもの四季を越えた先で、待ってるよ」
私が言うと、彼女は謎かけにでもあったみたいに首を傾げた。何を言ってるのか分からない、という顔だった。でも、私はそれでよかった。
私は振り向くと、住宅街を走り抜ける。両手の血はとっくに全部流れ落ちていた。
私は走った。
走りながら泣いた。
上を向きながら走った。
込み上げてくるものを抑えていたつもりなのに、気がついたら叫んでいた。
嗚咽のような、咽び泣くような、自分でも発したことのない声だった。多分それは、慟哭と呼ぶのが最も近かった。
私は来た道を泣きながら走った。最初に降り立った公園のその隅にあるはずのタイムマシンに近づく。
しかしそこには何もなく、代わりに千砂都先輩が立っていた。私に気づくと軽く手を振って、手を左側の茂みにかざす。するとそこから住宅街の中ではあまりにも目立つ巨大な機械が姿を現した。私は驚きつつ千砂都先輩に近づく。
「こうやって隠すんだ〜、びっくりした?」
いつもみたいにおどけた口調の千砂都先輩は、今の私には優しすぎた。もう、どうしようもなかった。
「四季ちゃん…………泣いてるの」
私は雨に打たれながら、声も上げずに泣いていた。涙が止まらなくて、しゃくり上げるのを止められなくて、私はみっともなくわんわん声を上げて泣いた。
「四季ちゃん」
そして、気がつくと私の身体はあたたかさと柔らかさに包まれていた。顔のすぐ近くに綺麗な銀糸があった。
「よくがんばったね」
優しく幼子を褒める時みたいな言い方だった。えらいえらい、と子供にするように、私の頭を何度も撫でてくれた。私は雨と泥でぐしゃぐしゃだったのに、千砂都先輩はちっとも気にしてない様子だった。
「行こう、四季ちゃん……私たちの、それぞれの世界に」
私は千砂都先輩からようやく離れて、向かい合う。身体の奥にはもう熱が灯っていた。私は、千砂都先輩の目をまっすぐ見つめて言う。
ここは灰色の雨の街。
私たちが生きるのは、楽しいことも苦しいこともある、あの街。
大切な人の住む街。
陽が沈む街。
そこで、懸命に今を生きていくんだ。
そうなんだ。
分かってるんだ、私。
「はい、帰りましょう……私たちの未来に」
✳︎
タイムマシンはまた数十秒で時を越えた。ほんとにこれを自分が作ったのかな、と不思議に思って私は自分座る椅子の固定された手すりをぺたぺた撫でていた。それを見ていた千砂都先輩がふふっと笑う。
「すごいでしょ、未来の四季ちゃんの科学力。ほんとなんでもできちゃうんだから…………っと、着いたよ」
千砂都先輩が言う頃には地鳴りのようなタイムマシンの起動音も静かになっていた。
私たちは立ち上がり先に千砂都先輩がハッチを開けて、私が後から降りて行った。
「おかえり、ちぃちゃん、四季ちゃん」
一番に声をかけてきたのはかのん先輩だった。その後ろですみれ先輩も一安心するように息を吐いたのが見えた。
「四季ちゃん…………本当に、よかったんすか」
すぐ隣できな子が泣き出しそうな顔をして言った。あなたのそういうところも、ちっとも変わらないんだね。
「うん、いいの……私が、選んだ道だから」
「でもっ、あんまりですのっ、四季さんがどれだけの想いで十数年生きてきたと思ってるんですのっ……」
夏美はすでに泣きながらそう言った。全く、帰ってきた途端にこんなに賑やかだなんて、どこまであたたかい人たちなんだろう。
「しっきーはよく頑張りマシタね、えらいデスよ」
可可先輩もそう言って近づいてくると、頭をぽんぽん撫でてくれた。千砂都先輩とはまた違う優しさの撫で方だった。私は胸に熱いものが込み上げるのが分かる。
「四季」
はっとして名前を呼ぶ方を向くと、かのん先輩ときな子の間から、ぼろぼろの白衣をまとった青髪の長髪の女性がいた。その人が、私を名前で呼ぶのは初めてだった。それも、そんな優しい声で。
その人は何も言わずに私の前までやって来た。お腹に包帯が巻かれていて、どうやら処置はしたらしかった。
そして、その人はおもむろに私をぎゅっと抱きしめた。すごく強い力で、私は少し足が浮いてしまう。
「苦しい、よ、シキ…………」
私が呟くと、背の高いシキは私の耳元に覆い被さるようにして、そっと言葉をこぼした。
「ありがとう……それと、私のエゴに付き合わせて、ごめん。たくさん傷つけてしまって、ごめん。辛い選択ばかり突きつけてしまって、本当に、ごめんね…………」
シキは言い切ると、私の肩を両手で掴んで私を正面から見据えた。もう、そんなに辛そうな顔しなくていいのにな。ねぇ、私。
「あなたは私なんだから、悪かったなんて思わないで、私が同じ立場でも、私はきっと同じことをしていたと思うから」
シキは私を信じられない、という目で見ていた。あなたのその人の言うことに驚いてばっかりなところも、全然変わってないんだね。
「シキ…………じゃなくて、私。来てくれてありがとう。みんなも、ありがとう。私は、嬉しかった」
私は言いながら周囲を見渡す。かのん先輩、すみれ先輩、千砂都先輩、可可先輩、きな子と、夏美、それと……
「あれ、そういえば、恋先輩はどこへ……」
私が言うときな子が突然横に避けた。そこには後ろに手を縛られた恋先輩がいた。シキと同じようにお腹には包帯が巻かれていた。
「どうするんですか、恋先輩…………」
「私たちで、連れて帰る」
私が訊くと、間髪入れずにシキがそう言った。みんなが驚いたようにシキを見る。特にすみれ先輩と夏美は何か言いたげだった。それを遮るようにシキは続ける。
「恋さんは、私と同じ研究室にいた仲間なの……それにみんなのことを忘れた訳じゃない。私たちはやり直せる……そう思う」
シキは恋先輩を見つめながらそう言った。恋先輩は何も言わずにでもシキを見つめ返してはいた。そしてかのん先輩がよし! と声を上げると、みんなの前に出てきて両手を開いて声を上げた。
「これよりRe:era!は四季ちゃんのタイムマシンで未来に帰還します! 恋ちゃんも連れて行きます! 異論のあるメンバー、いる?」
かのん先輩が言うと他のみんなはやれやれ、とでも言いたげに苦笑していた。
「こうなったかのんは言うこと聞かないからね、連れてくったら連れてくわよ」
「可可も賛成デス〜、レンレンもいた方が楽しいに決まってマス!」
「きな子は……四季ちゃんが言うならいいっすよ」
「夏美も文句はありませんの〜」
「決まりだね」
かのん先輩が満足そうに言うと、その脇でシキが恋先輩の前まで来て腰を下ろした。
「恋さん、一緒に来てくれますか」
シキが言うと、恋先輩は苦々しい顔をして目を逸らす。
「私なんかが…………いいんですか、こんなに皆さんのことを傷付けたのにっ……」
恋先輩が言うと、シキはほんのわずかに沈黙して、それから恋先輩の頬を持って自分の方を向けて言った。
「過去には色々ありますよ、でも私たちは未来を生きるんです。私たちの時代で、これからを……私は、そこに恋さんも、いて欲しいんです」
シキが言い終えると、恋先輩はぽかんとしていた。やがてその頬を涙が一筋音もなく伝う。
「ごめんなさい、四季さん……ごめんなさいっ…………」
恋先輩はシキに首を垂れていつまでも泣いていた。街並みの向こうに夕陽がかかって、街は美しいパノラマのようだった。私たちは焼ける茜色のひかりまみれになりながら、全てが終わったのをただ、感じていた。
✳︎
「じゃあね、四季ちゃん」
「ばいば〜い、ういっすういっす、ういっす〜」
「風邪には気をつけなさいよ、あんた」
「ぷっ、すみれおばあちゃんみたいデス……」
「はっ、痴話喧嘩が始まる前に乗り込むっす! 夏美ちゃん、先行って!」
「了解、ですの〜」
どたばたタイムマシンに乗り込んでいくみんなの別れの言葉を聞きながら、私は一人一人に手を振っていた。
「四季さん」
呼ばれて隣を見れば、シキと恋先輩がいた。恋先輩は私にも申し訳なさそうにしていた。
「許してなんて言えません、私は軽蔑されて当然のことをしたんです……なんとでも罵ってください」
恋先輩はそう言った。私はなぜだか、怒る気も軽蔑する気もこれっぽっちもなかった。自分が微笑んでいるのすら、なんとなく分かった。
「恋先輩」
私は名前を呼ぶ。私にとってあなたはいつまでも恋先輩なのだから、そんな不思議そうな顔で見ないで欲しい。
「未来の私のこと、よろしくお願いします」
私はそれだけ言った。その時シキが恋先輩の後ろで手をかざして、パキンという音がして恋先輩についていた手錠が砕けた。恋先輩は驚いた表情でシキを見つめた。
「先に行って、恋さん……私は四季に、話があるから」
シキはそれだけ言うと、恋先輩から目を離した。それはまるで、あなたを信頼している、とでも言うように。そして恋先輩はタイムマシンへと姿を消した。後には私とシキだけが残った。
「お別れだね、シキ」
「うん」
「もう会えないかな」
「うん」
「そうだよね」
「……うん」
私たちにはもう話すことがなかった。シキが私に話すことがあるなんて嘘だった。不器用な嘘は私譲りみたいだ。
「四季」
ふと名前を呼ばれて、私は目の前を白いカーテンが風に靡いたような光景を目にする。何かと思ったけれど、でも、それは私の肩に落ち着き、ぱさりと音を立てた。見ると、シキのずっと着ていたくたびれた白衣だった。
「服濡れてるから、それでも着ておきなよ、変な人だと思われるよ」
「最後に言う言葉がそれ……?」
私にかかる白衣はかすかにシキのぬくもりがしていた。私は気づかれないようにその裾をそっと手繰り寄せる。私より一回り大きくて、丈も合ってないその白衣を。
「ねぇ、私」
私は私に話しかける。あなたはやっぱりシキじゃなくて私だよ。だから、ねぇ、そんな驚いた顔しないで。
「私は未来を生きてて、幸せ?」
それは純粋な質問だった。夕焼けはますます赤く染まっていく。私の瞳と同じ色だ、となんとなく思った。
その中で、未来の私は力強く頷く。
「うん……私は、辛いことも苦しいこともたくさんあるけれど、幸せだよ」
私がそう言ってくれたので私は心底安心した。
「私も、この街で生きるよ、あなたが生きたこの街で」
私が言うと私は顔を見つめ合わせて、それからぷっと吹き出して笑った。私は、私がタイムマシンに乗り込むのを、見送っていた。乗り込むところで、私は振り向いてこちらを見つめる。
「メイは生きてるよ、心配しないで」
私は思わず倒れ込んでしまいそうになるのを、すんでのところで堪える。私はそんな私を見て楽しそうに笑った。笑うと結構かわいい顔するじゃん、私。と思った。
「また会えるかな」
「もう会えないよ」
「そうだよね」
「でも私たちは離れ離れじゃない、だって、私はあなたなんだから」
「うん、そうだよね」
「じゃあね、私…………未来で待ってる」
私はそう言って、タイムマシンに乗り込んで姿を消した。すぐにその巨大な機械は唸り声を上げて光り輝き、私は眩しすぎて目を押さえる。ようやく光が収まってきて私が恐る恐る目を開けると、そこには夕陽が差すばかりの、空っぽな屋上があった。
まるで初めからそこには何もなかったかのように、ただ風が吹いていた。夏の夕方のぬるい風に、私は目を閉じて道端の花みたいに揺すられていた。
丈のまるで合ってない白衣の縁が靡いて、私は穏やかな気持ちになる。私はそのまま屋上を去ろうとした。去ろうとして、扉を開けた時に、ふと思い立って振り向いて、丁寧にお辞儀をした。深く、ふかく、感謝を込めて。
私はそれから、夕暮れの校舎をゆらゆら歩いた。もうみんな帰っていて、どこもかしこも静かだった。窓から夕陽の茜色が差し込んで、私はあの子の髪の色だ、とぼんやり思った。
どうしてだろう。
別に目指している訳じゃないのに、私は気がついたらいつもの道を歩いていた。すっかり慣れたこの場所は、科学室の前だった。
私は扉に手をかける。閉まっているかと思ったのに、それは予想外にがらがら音を立てて開いた。
私は中に踏み入れる。そこの空気はつめたくて心地よかった。ふと、科学室のその奥を見る。その机の上に置かれていたはずのタイムリープマシンは、まるで初めからそうであるかのように何もなかった。私は全て夢だったんじゃないかと思って、窓の外を見つめる。もう煙草の匂いも吸い殻もどこにもなかった。
「おい、お前何してるんだ」
その時、聞き慣れた喧嘩口調のアルトが耳をくすぐった。私は息が止まりそうなほど驚いて、振り向く。夕焼けの中、夕焼け色の髪をしたあなたが腰に手を当てて私を見ていた。
「ここは科学部の部室だぞ、部員以外は立ち入り禁止だ」
あなたはつかつかと科学室に入ってきながら言った。私は泣きそうになるのを必死に堪える。その人は、確かに、私の前で、生きていた。
「あなたは……科学部の人?」
私が訊くとあなたは怪訝そうな顔をして私を睨んだ。だからコンタクトつけなよ、と言いたいのをなんとか堪える。
「そうだよ、私が科学部の一人だけの部員で部長だ」
あなたはそう言った。私はあぁ、そんなことになってるんだ、と思って悟られないように無表情を決め込んだ。
「科学…………好きなの?」
私が訊くとあなたはなぜか慌てた様子でわたわたと手を振った。
「も、もちろん好きだぞ! 決してここからLiella!の練習風景が観察し放題だからとかそんな邪な理由じゃなくて私は…………って、あ……」
あなたは墓穴を掘った、とでも言いたげに気まずそうに目を逸らした。唇を尖らせてもじもじしてるあなたは子供みたいだった。
「…………好きなの? スクールアイドル」
私が呟くと、あなたはぱあっと目を輝かせて私に近づいて、手を取った。あなたの手のしなやかで柔らかい感触。
「スクールアイドル、お前も知ってるのか⁉︎ 私Liella!が好きで結女に来たんだ!」
あなたは興奮した様子で話しかけてきた。私は、あなたの上目遣いで迫ってくるのにたじろぎながら、窓際へと追い詰められた。生き物のいない水槽が視界の隅でまどろんでいる。
「どうして、スクールアイドル、好きになったの」
私はあなたの追求から逃れるために質問する。するとあなたは手を外して恥ずかしそうに頬をかいた。
「会いたい人が…………いるんだ」
あなたは言葉を続ける。
「会いたい人?」
私はそれを復唱する。あなたのそんな話は聞いたことがなかった。誰だろうか、Liella!のメンバーだろうか。かのん先輩? すみれ先輩? それとも別の人?
あのな────。
あなたはゆっくり口を開く。
「まだ小学生の時に、落ち込んでいる私に公園で歌を歌ってくれた人がいるんだ。名前は知らないし、顔も姿も、よく覚えてないんだけど」
あなたは変な話だろ、と言って笑った。でも私はちっとも笑えなかった。
「そういえばお前みたいな髪色だった気がするな、もしかして…………いや、そんな訳ないか」
もし。
もし。
もし、あなたに、それ私なんだよ、って言ったら、どんな顔するかな。疑われるかな、変な顔されるかな、もしかして笑われてしまうかな。
あなたの記憶にほんの少しでもいられたことが嬉しくて、私はあなたの姿が滲むのを堪えきれなくて隠したくてあなたに背を向ける。
あ、夕陽。
ふと、窓からこぼれる優しい茜色が部屋中に滲んで溶けていった。私の瞳の色で、あなたの髪の色だ。
「…………私は科学が好きなの、科学部になら、入りたい」
私が言うと、その声は夕暮れの科学室に心地よく落ちていった。私はそろそろと振り返って、俯いてあなたのつまさき辺りのタイルを見ていた。
やがてあなたは春の訪れみたいに一歩踏み出すと、すぐに私のそばまで来てぶっきらぼうに言った。
「ねぇ、一緒に行かない」
その言葉には聞き覚えがあった。三年前、もともといつも一人で、それで全然平気だった私に、あなたはそう声をかけてくれたんだよ。覚えてないと、思うけど。
「科学部に入るなら、部員は私とお前の二人だけだ……もう遅いから、帰りながら喋らないか」
あなたは照れ臭そうにはにかんで笑った。その表情は、いつか放課後、私も一人の方が好きなのかもな、と言って笑いかけてきた時によく似ていた。
奇跡みたいな出会いばかりだった。人生というのは数奇な巡り合わせの連続だと、つくづく思う。私は目が潤んできたのを白衣の袖で拭う。その時、ふわりとニコチンとタールの強そうな煙草の匂いがした。何かと思えば、それは白衣に染み付いた匂いだった。もう、もう。
私もようやく一歩を踏み出す。
「うん……嬉しい」
私が言うとあなたは満足げに頷いて、扉のある方に歩き出す。私もその背中を追う。
はじめまして。
おやすみ。おはよう。元気ですか。また明日。
そんな他愛無い、当たり前の挨拶も、全部またここから積み上げていこう。
もしもその時がやってきても、私たちは走ろう。
さよならよりも速い抜群のスピードで。
いい。
ここからでいい。
私たちはもし離れ離れになっても何度だって出逢おう。
そしてまた私はあなたと笑い合うんだ。
時間も願いも、さよならさえも飛び越えて、何度だって私はあなたに逢いに行くよ。
「あ、自己紹介してなかったな……私は米女メイ、よろしく」
「初めまして、若菜四季……よろしく」
私たちはそれから並んで歩いて帰路についた。
夏休みが始まろうとしていた。
沈み始めた夕陽が、世界をただひたすらに茜色に染め上げていた。
私たちは優しく思い出を語るように、離れていた時間を埋めるように、お互いの心にそっと触れ合うように、ぽつりぽつりと言葉を交わした。
そんな、夕暮れの帰り道。
未来は風のように、僕らを呼んでるんだ…………なんてね。
私たちが後日スクールアイドル部に入部するのは、それはまた別の話────
〜終〜