さよならより速く、私はあなたに逢いに行く   作:Werther

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さよなら一部/外伝
色づいて透明


 それを買ったのに理由はなかった。

 ただ何となく、自分に必要そうな気がした。それだけだった。

 私はリビングのソファに身体を預けて、量子力学について書かれた論文を読んでいた。論文はぺらぺらのコピー用紙が左上でホチキスで留められているだけの簡素なもので、それは大学の課題とも研究室のテーマとも関係ない内容だった。

 ふぅ。

 私は小さく息を吐く。

 いつの間にか没頭していたようで、少し動いただけで足や腕の関節が小気味よく鳴って痺れた。私は論文をソファに置いて、その場で立ち上がりぐいと伸びをする。音もなく緩やかに筋肉が弛緩してゆくのが分かった。

 私は台所に行って、冷蔵庫から牛乳を取り出して一杯飲んだ。ついでに流しの下の収納からせんべいを取り出して噛み付く。それは、私の嗜好ではなかった。もちろんこの部屋も一人にしてはずいぶん広い。

 リビングに戻ると、なんだかやけに静かな気がした。どうしてだろう、と思いながら窓際に近づくと、おもての景色はどこまでも灰色に沈んでいた。見ると、線のように細い雨が街を、電線を、アスファルトを、濡らしていた。

 私はその様子を、窓ガラスに人差し指で触れながら見るともなく見ていた。指先に伝わるつめたさと水の手触りは、そこから私の手のひらを伝い、腕を伝い、肩を伝い、胸の奥にまでそっと触れた。

 私は雨が嫌いじゃなかった。特にこんな静かな雨には、私は外に出かけたくすらなった。でも私は家でじっとしていた。外に出るつもりなんて微塵もなかった。

 私は買ってからポケットに押し込んだままになっていたその軽くて小さな箱を取り出す。振っても中身は音さえ立てない。それを使ってみようか、と思い蓋を開けた、その時だった。

「ただいま〜」

 玄関の扉が開く音にワンテンポ遅れて、そんな声が聞こえた。私はどきりとして、慌ててそれをポケットに隠す。別にやましいことをしている訳じゃないのに、どうしてか見られたくない、と思った。

「おーい、寝てんのか? まだ夕方だってのに……おい四季」

 あなたがそう言いながらリビングにやって来る。手には風船みたいに膨らんだレジ袋が握られていて、それは中身と擦れてかさかさ鳴いていた。

「おかえり、メイ」

 私はソファに置き去りにしていた論文の脇をすり抜けて、あなたの傍に寄る。あなたは台所にその重そうなレジ袋を置くと、私を見て歯を見せて笑う。

「あぁ、ただいま」

「メイ……」

「うん」

 私たちは言うと、そのまま顔を近づけて短く触れるだけのキスをした。おかえりなさいの合図(サイン)。どちらがやり始めたのかなんでもうとっくに忘れてしまった。照れも、慣れという言葉からも、私たちはほど遠かった。そっと、近づくだけみたいな自然さでそれは行われた。

「ご飯作っとくから、四季はシャワーでも浴びてきたらどうだ、どうせ勉強ばっかでろくに休憩もしてないんだろ」

 メイはレジ袋の中身をひとつひとつ手に取っては台所に置いたり、冷蔵庫に入れたり、していた。

 私はなんで何も言ってないのにそんなことが分かるんだろう、と不思議で、メイの後ろ姿をじいっと見ていた。するとメイが首だけで振り向いて、私を見ていたずらっぽく笑う。

「私が何年四季と一緒にいると思ってんだよ、そのくらい分かるって」

 メイは言うとまた手元をごそごそ漁り始めた。台所の床はつめたく裸足の足にはひんやりした。

「……晩御飯は、何?」

「餃子にする、この前テレビで宇都宮の特集やってて久しぶりに食べたいなって話しただろ」

 メイの背中姿がそうこたえる。そういえばそんなこともあったな、と思い出す。何年前か忘れたけど、メイと宇都宮に日帰り旅行に行ったことがある。本当に餃子が美味しくて、私たちは並んで待ったお店で出てきたその肉肉しい見た目と匂いに目を丸くし、出る頃にはもっと頼めばよかったね、と言ってくすくす笑った。

「……ありがとう」

「ああ、やっとくから、ゆっくりしてきな」

 メイが優しくそう言うので、私はその通りにする。リビングのソファの上で風景の一部になっていた論文を邪魔にならないようにすぐ前のテーブルに置いて、私はシャワーを浴びに行く。

 雨が降っていた。忘れたものを取りに帰る時みたいに、はっと思い出したような降り方だった。いつまでも、雨は降りしきり、それは街を流れ、地平線を流れ、地球の輪郭をまあるく緩く滑っていた。

 私はシャワーを浴びながら、その腕や足に当たる熱さを心地よく思う。メイが、今頃台所で餃子を焼いてくれている。私たちが二人で探して、二人で選んで、二人で過ごしたこの家で。

 私はこんなに幸せでいいんだろうかな、と思う。唇にはさっき触れたわずかな甘さと愛しさが残っていた。それはシャワーに触れても、もちろんちっとも流れなかった。

「おっ、さっぱりしたか?」

 髪の水分をタオルで適当に取っただけの姿で、私は部屋着に着替えて台所に行く。そこではエプロンをつけたメイがコンロの上のフライパンと鍋を前に楽しそうにしていた。メイはなぜかいつも楽しそうに料理をする。

「うん、ありがとう」

 私が言うと、メイは鍋に視線を戻しながら言う。

「もうちょっと待ってくれ、すぐできるから」

 私はそれなら、と思って、収納からグラスを二つ取り出し、すぐそこの二人がけのテーブルに置く。冷蔵庫から麦茶の入った細長いピッチャーを出して、同じ場所に置く。後は、箸とか、そのくらい。

「慣れたもんだよな、私たち」

 それを見ていたメイが苦笑混じりに言う。慣れたものだった。料理をする方はそっちに集中、してない方はお茶や箸を並べる。もう何年も暮らしてきてそれはすっかり習慣付いていた。なんだか私たち夫婦みたい、と冗談めかして思う。

「ん? 四季なんでちょっと笑ってるんだ?」

「……なんでもない」

「そうか?」

 それをあなたに言ったら、どんな顔するかな。顔を赤くするかな? それとももう恥ずかしがったりするのはなくて、そうだなって一言返してくれるかな? ねぇ、私とメイ、夫婦みたいじゃない?

 私は幸せでいっぱいになりながら、テーブルの上にたくさんの食器に乗った料理が増えていくのを見ていた。どこかの国のお城のパーティなんかより、それはずっとずっと素敵な光景だった。ここが私の居場所だった。

 メイと顔を合わせて、私たちは手を合わせて、いただきますを言う。私たちの慎ましくてささやかな幸せが二人分、雨を凌ぐ屋根の下、淡く灯っていた。

 それから私たちは食べ終わるとベッドに行った。食べ終えた食器も片付けずに、言葉もあまり交わさぬまま、ただ手だけ繋いで部屋を移った。

 私たちは互いの服を剥ぎ取って、壊れ物を扱うように、心の奥にそっと触れるように、優しく肌を撫でた。それは、私の知っている言葉では、たぶんセックスと言うのだけれど、私たちがしているのは、そんなカタカナ四文字の形式ばった行為じゃなくて、むしろなんて言えばいいのかな、きっと子供のじゃれあいに近かった。

 私はメイのピアノを弾く細くてしなやかな指が、私の肌に触れて、滑って、だんだん私とメイとの境界線が曖昧になっていくのを、ただ感じていた。それはとんでもなく甘美なことだった。

 私もメイのその引き締まったお腹に、美しい曲線を描く腰に、さらにその下に、指を添わせて、メイの口から吐息とも音ともつかぬ声が漏れるのを、もどかしい胸の奥で確かめていた。

 私たちのその行為は長く、時間をかけて行われる。終わりなんていつも見えなくて、いつまで経っても足りないままで、私たちはもっともっと、と子供みたいにお互いを手繰り寄せて離さなかった。雨降りの薄暗い部屋、清潔なシーツの海で私たちは正しく健康的にだらだらと溺れていった。

「なぁ、四季」

「うん?」

「私たちって、どこに行くんだろうな」

 二人でジグソーパズルのピースみたいにお互いの隙間を埋めながらセミダブルのベッドに横になっていると、メイがふとそう言った。部屋は静かだ。窓に触れているはずのわずかな雨音さえ聞こえない。

「私たち、出会って仲良くなって、スクールアイドル部入ってさ、色んな友達ができただろ、でももう今はあの頃じゃない、今こうしてるのも、いつか過去になっちゃうのかな、って」

 メイは雨だれの庇に打ちつける音みたいに優しい声でそう言った。私は二人暮らしなのにセミダブルベッドがひとつしかない部屋をそっと見る。ベッドを買う時に「どうせくっついて寝るんだからひとつでいいだろ」と言ったのはメイだった。その時の私がどれだけ嬉しかったかなんて、言葉じゃとても言えない。

「大丈夫だよ、メイ」

「四季……?」

 私は暗がりの中、メイのその春みたいに柔らかな匂いのする髪をかき抱いて耳許にそっと口を近づける。

「メイの過去にも今にも、未来にも、私はいるよ。たとえ離れ離れになっても、私が必ず逢いに行く」

 メイは身じろぎひとつせず、私の言葉を聞いていた。やがて私の背中に片方ずつ腕が伸びてきて、気がつくとぎゅっと抱きしめられていた。私の胸許にかかる吐息があたたかくて、それはどう考えても「今」だった。

「うん……もしそうなったら、待ってるよ、四季のこと」

 私はメイの頭を優しく、けど力強く抱く。私を抱くメイの腕にも力がこもったのが分かった。

 私たちは何も言わずにそうしていた。部屋は暗く、空気は少し濡れてつめたく、春にしては侘しげだった。私はメイの匂いと感触に深く溺れていた。

 やがてメイの腕に回している手がゆるやかに弛んだシーツに落ちて、ぽすり、と無抵抗な音を立てた。

「…………メイ?」

 私が呼んでも、返事はなかった。メイは、微睡(まどろみ)の最中に落ちていっているようだった。安らかな寝息が耳をくすぐった。メイの体温はあたたかかった。この世のどんな生き物より、メイのぬくもりを感じていたいと心から思った。

 私はそんなメイからするりと離れ、ベッドサイドに散らばっていた私のショーツと薄いTシャツだけ着てから部屋を後にする。台所の片付けだけでもしておいてあげよう、と思って。

 でも、リビングを通る時に床に何かが落ちているのが見えた。それは黒い、軽くて小さな箱だった。ポケットに入れていた気がしたけれど、シャワーに行く時に落としてしまっていたらしい。メイに見られなくてよかったと胸を撫で下ろしながら、私はそれを拾い上げる。

 ふと、研究室で着ている白衣の丈が合わなくなっていたことを思い出す。そろそろ買い替えなくちゃ。私も、メイも、変わってゆく。それでも、変わらないものもあって。

 私は手に握った小さな箱と、もう一つ、それを持ってベランダまで出る。つっかけを履いて、何もないのに狭いベランダの手すりに肘をつく。目に見えないけどやっぱりそこはじっとりと濡れていた。見上げた鈍色の空から、針のように細い雨が重力に従って落ちてきていた。私はずっと昔を思い出して、懐かしさに思わず目を細める。

 その箱からひとつを取り出して、私は無造作に咥える。そして手をアーチ状にして覆い、持ってきたライターで火をつける。

 じり、と葉の焦げる音がして、私は口から息をゆっくりと吸う。肺にまで染み渡る煙の臭いはお世辞にも気持ちがいいものではなかった。

 それを買ったのに理由はなかった。

 ただ何となく、自分に必要そうな気がした。それだけだった。

 なんでこんなもの買っちゃったんだろうな。私は思いながら、それを右手の中指と薬指で挟んで、灰を落とす。

 遠い昔を思い出したような気がした。ひょっとしたらこれは、昔を思い出すための道具なのかもしれない、と思った。それなら納得がいった。それにしても、慣れなかった。

 

 

 

 ────煙草……美味しいの?

 

 

 

 ふと。

 いつか、どこか。

 ずっと、遠くで。

 そんな声が聞こえた気がした。それを言ったのは誰だったっけ。

 私はもう一度短くなったそれを咥え直して、消えかかった思い出のように薄く、儚く降りしきる雨を見つめる。

 煙を吐いて、煙草を踏み潰して消す。吐いた煙が雨に紛れて透明になってゆくのをぼんやり見ていた。

 私は踵を返す。メイがもうすぐ起きるだろう。メイってばした後すぐに寝るけど三十分くらいで起きるんだから。そしたらテレビでも見よう。他愛もない与太話してみて子供みたいに笑い合おう。

 私は振り向いて、雨の街を見下ろす。さっきの質問……煙草が美味しいか、だっけ? 決まってるじゃん、そんなの、私。

 

 

 

「いや、全然」

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