さよならより速く、私はあなたに逢いに行く   作:Werther

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さよなら二部/Sayonara Super Starter
第一部 - 糸


 辞めようと思うの、ここ。

 そう言った。

 その声は思いの外響いて、なかなか消えなかった。

「え?」

 カウンターを挟んで向こう側、テーブル席を拭いていた人が、手を止めて声を上げる。

 だからね。

 もう一度、息を整えて、言う。

「辞めようと思うんだ、このお店」

 まっすぐに見つめた先、そこに静止するまんまるのルビーに見つめられていた。

 かのんはくっと息が詰まる。ずっと前から決めてたことだけど、いざ言うとこんなにも苦しいものなのか、と思って。

 かのんはカウンターの内側で手を組んだり解いたり、していた。片付けは少しも進んでいなくて、使った後のコーヒーミルでさえ、出しっぱなしだった。窓から夕陽がなだれ込んでくる。

「え、と、どういう……」

 綺麗なお団子は、昔から変わることのないトレードマークで、綺麗な銀糸で結われている。

 その口から、戸惑うような声が漏れるので、かのんはやるせなかった。ちぃちゃんの苦しそうな姿は、いつも見たくなくて。

「あのね、私たち、これからは────」

「やだっ!」

 かのんはびくっ、とする。

 千砂都の声があまりにも強くて、有無を言わせない拒絶だったから。

 かのんは両手をだらんと垂らして、思う。

 ちぃちゃんが、ここを好きなのは知っていた。ここでずっと昔から一緒にいて、これからもいつまでも一緒に生きていくと信じていたから。

 でも私は、独り立ちしたかった。家業をちぃちゃんと一緒に継いでやってきたこの数年間も本当に楽しかった。けれど、どうしても自分は自分のお店が持ちたかった。音楽が、歌が、できる場所が欲しかった。

 窓から溢れる夕陽がどろどろこのカフェの空気を溶かしていった。かのんは、自分と千砂都の境界線がひどく曖昧になっているような気がして気が遠くなった。

「…………」

 千砂都はじっと、俯いたまま黙っていた。かのんはそれを見ていた。ものすごく長い時間、見ていた。日が暮れほど。

「ごめん、私、帰る」

 ようやく沈黙を破ったのは千砂都だった。でも、その言葉は二人の間にある夕暮れに溶けて、かのんにはうまく受け取れなかった。

「あのね、説明させて欲しいのっ……」

 かのんは言うのだけれど、その声は弱々しい響きで、途中で夕陽にぶつかって落っこちてしまった。綺麗に磨き上げられたけど年季の入った木目の床に。

「ごめんなさい」

 千砂都はちいさくそう言うと、顔を合わせないまま、入口から出て行った。お客さんが来てくれた時に鳴るベルが当たり前だけど揺れて、ちりんちりぃん、と聞き慣れた音を立てた。

 その反響が、残響になるまで、かのんはじっと立っていた。手もとの、席の数だけミルクとシュガーを入れている、小さな容器が並んでいるのが馬鹿みたいだった。

 一人でそうして立っていた。いつの間にか辺りは薄暗くなってきていた。

「…………はぁ」

 一体、いつから。

 かのんはため息を吐く。

 一体いつから、私たちはこんなふうにがんじがらめになってしまったのだろう。

 何を言うにしても、躊躇うようになってしまった。こんなの、もう卒業したいのに。

 ゆっくり、かのんは思い出していく。

 

 ────もう、七年も前のこと

 

 まだ自分が、高校二年生だった頃の、ことを。

 目を閉じて、夜から記憶をたぐり寄せるように、かのんは呼吸をほそめていった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「はい、じゃあ今日の練習はここまでね! お疲れ様っ!」

 千砂都がぱんっと手を鳴らしたその音は、雲ひとつない夏空に高く吸い込まれて消えていった。その声を皮切りに、辺りでは人がばたばたと倒れていった。

「つ、疲れた、ですの……」

「きな子もっす……」

「私もだ……また元気にしてるの四季だけかよ」

 屋上の縁で、寄りかかって溶けかけのアイスクリームみたいになっている三人の近くに青髪の少女がいた。その子は、四季は、他の一年生のメンバーをじっと見下ろしていた。その日はものすごく暑くて、最高気温を記録しているらしかった。年々、最高気温というものは上昇していく。

 かのんは自分も若干の熱に浮かされながら、日陰に置いていた荷物からスポーツドリンクを取り出して飲む。とくとく、心地いいつめたさが喉を滑り落ちていく。その日もそこらじゅうすごく濃い夏の空気だった。

「……あれ」

 ふと、隣でそんな声がした。見ると、そこには四季がいた。その見ている先を追うと、時計があって、それがいつもの練習終わりよりずいぶん時間が早いことに気づいたのだろう。およそ一時間ほど、長針はいつもより手前を指していた。

「千砂都先輩、練習こんなに早く終わっていいんですか」

 かのんと四季の間で荷物を漁っていた千砂都に、四季がそう訊く。千砂都は手を止めると四季の方を向いて笑って、うん、と頷く。

「今日は一学期も最後の日でしょ、夏休み中も練習はしっかりやるし、今日くらいは早めに切り上げて皆ゆっくりしてもらおうかなって」

 千砂都先輩はほら、と言って首を伸ばし四季の背後をおもむろに見遣る。そこにはさっきのように一年生三人が暑さと疲れで溶けていた。

 かのんはそれを見て微笑ましく思っていた。

「いつもあんなになるまで頑張ってくれてるから、よかったら今日は一年生で遊んできなよ」

 普段あんまりそういう時間ないでしょ、と千砂都は朗らかに笑っていた。ちぃちゃんが笑ってると私も楽しくなるな、とかのんは思う。

 そうしていると四季がこちらを見ていることにかのんは気づき、にこりと笑い返した。四季はかのんと同じスポーツドリンクを飲んでいるみたいだった。

「あれ、かのんちゃん今日はりんごジュースじゃないんだね、珍しい」

 千砂都にそう言われて、かのんははにかんで笑う。

「うん、今日暑すぎだし、たまには飲んでみたいな、って思って。可可ちゃんの飲んでるオレンジジュースや、すみれちゃんのスプライトも美味しそうだなって思ったんだけどね、今日はこれにしたんだ」

 かのんが言うと、何故だか平坦な声色でふぅんと返すと、千砂都は空を見上げた。かのんもそうする。二人ともそうするので、四季も同じように空を見上げたようだった。油断すると重力ごと奪われて落っこちてしまいそうな青天井が街の端まで伸びている。かのんは上を向くと口が少し開いてしまうのが昔からおかしかった。

「夏が始まるねー」

 千砂都が隣で何気なく言った。上を向きながら。

「そうだね」

 かのんも短くこたえる。

 四季は何も言わずに、空を見上げているようだった。

 地面に置いたペットボトルから、水滴が垂れて、そこを黒く濡らした。

 それからかのんは上を見たまま呆けていたのだけれど、ぬっと青空に影がかかった。

「なにしてんのよ、かのん」

 逆光で暗くて見えなかったけれど、声で誰だかすぐに分かった。

「すみれちゃん」

 黒いシルエットのようなすみれに、空が覆い隠されていることにかのんはなんだかとても安心した。

「空、見てたの」

 かのんが言うとすみれは息を吐いて背筋を伸ばして、腰に手をあてる。

「ふぅん、なんか見えたの?」

 かのんはまだ上を見続けながら、こたえる。青い空には、雲ひとつない。

「ううん、なにも」

「なによそれ」

 すみれが言うのを聞いてから、かのんは荷物を手早くまとめる。隣ですでに準備を終えた千砂都と四季が待ってくれていた。向こうを見れば残りの一年生たちがのそのそと起き上がってくるところだった。

「今日は、みんなでどっか行く?」

 すみれがそう言うので、かのんはびくっとする。

 その質問については、言いたいことがあった。別に今日じゃなくてもよかったけれど、でもなんとなく、もう言わなきゃいけない気がしていた。

「あのさ、すみれちゃん」

 かのんは口を開く。思ったより真剣な声が出てしまって、その声の響きに自分で驚く。すみれも、千砂都も、四季でさえ、かのんを驚いたように見ていた。

 少しの沈黙が、夏風にさらわれていった。少しの沈黙。

「……一緒に自動販売機、行かない?」

 かのんがそう言うと、たちまち空気は弛緩して、かのんの後ろの二人なんかの息を吐く音が聞こえてきそうだった。

「いいわよ、そのくらい」

 すみれは事もなげにそう言うと、自分の荷物を掴んですぐに屋上の出口へ歩いていった。

「なにしてんの、行くんでしょ」

 かのんはようやくそこで自分がぼうっとしていることに気がついて、はっとした。

「ま、待って、いくから」

 立ち上がって、歩き出す。振り向き様に、屋上の反対の端の日陰にいた恋と可可に見られているような気がした。だからかのんは、その時千砂都にじっと見つめられていたことに、気がつかなかった。

 そのままみんなを置いて、かのんはすみれについて行った。

 

 屋上からすぐの階段は、いつも薄暗い。こんなに晴れている日でも、どうしてか、雨の日みたいな湿っぽい匂いがする。

 コゥン、と響く二つの足音が反響していた。

 すぐ下を見れば、すみれの頭のつむじが見えていてかのんはそればかり見つめていた。

 そのうち階段は降り切ってしまって、後は廊下を行って、校舎のすぐ傍にある自動販売機に行けばいいだけだった。

 かのんは、でも、この時間がずっと続けばいいのにと思っていた。胸がどくどくいってやまなかった。すみれちゃんの背中。さらさらの長くて、お人形さんみたいな金糸。

「かのん、なに買うの」

 すみれが振り向いてそう言った。

 すみれちゃん。

 口が滑りそうになるのを必死に堪えた。かのんは、ぎりぎりで理性に勝つ。これを言うことは、だって、負け確定だったから。

 おもてに出て、すぐのところにある自動販売機で、すみれは先にお金を入れて、ちょっと悩んでから、三ツ矢サイダーのボタンを押した。

「すみれちゃん、炭酸好きだよね」

 それを見てかのんが声をかける。がこん、と遅れて音がして、すみれは腰を下げて取り出し口に手を突っ込む。

「そうねぇ、まあ夏だし、美味しいわよ……メロンソーダとか、あればっ、よりいいんだけど、ねっ……」

 すみれは取り出すのに手間取っているようで、声が手の探るスピードに揺れていた。

「……ここ、取り出しにくいよね」

「そう、ねぇっ……」

「ね、もう一本私が買ったら重みで落ちないかな」

「いい考えじゃないの」

 すみれはかのんの提案を飲むと自動販売機の前をかのんに明け渡した。

 何を買おうか悩むのだけれど、なんとなく、スプライトが目についた。それを開けた時の夏らしい爽やかな音や、それを飲んだ時のすみれちゃんのすっとした顔。

 かのんはそのまま、ボタンを押していた。

 この自動販売機は買うとがこんと音はするくせに、よく上の方で引っかかって取れなかった。今回はがこんという音に続いて、三ツ矢サイダーが下まで落ちてきた。

「あ」

「やるじゃない、かのん」

 すみれが横からそれを取り出したけれど、かのんの買ったものは落ちてこなかった。

「でも私の落ちてこないよ」

「もう一個買う? そしたら落ちてくるわよ」

「えぇー、嫌だよそんなの」

「ふふっ」

 かのんがふくれっ面をすると、すみれはやさしく笑った。空が真っ青で溺れてしまいそう、とかのんはぼんやり思った。

「もうっ」

 かのんは曖昧に俯いて、なんとか自動販売機の内側のパカパカしたところに指さきで触れる。

「……すみれちゃん」

「なによ」

 自然と名前を呼んでいた。

 あのね。

 かのんは思う。

 あのね、すみれちゃんのそういうちょっとふざけたところがね、私は好きになったの。知らないだろうな。

「どこか、行かない」

 かのんは気がついたらそう言っていた。まだペットボトルを取り出そうと苦心していたから、なんとなく言ってみたくなったのかもしれない。あるいはそれは言い訳だったかも、しれない。ここは校舎の日陰になっていて涼しかった。

「……どこかって、どこよ」

「どこでも。どこかに、ふたりで」

 行こうよ。

 すみれに見られているのがかのんには分かった。それはそうだ。いきなりこんなこと言われたって、訳が分からないと思う方が自然だろう。

 遠くから運動部のかけ声が聞こえてきた。普段はもっと日が暮れてから聞こえる声が、今日はまだ早いのに。

 空気は夏休み前の独特な浮遊感を含んでいた。だから、だから私は。

「いいわよ、かのん」

 不意に、目が合った。かのんははっとする。すみれの瞳のエメラルドに、驚いたような顔が映っていて。

「付き合ったげる、行きましょ」

 予想外の肯定の言葉に、かのんは嬉しいはずなのに動きが止まってしまう。

 え、だって、すみれちゃんは、あの子のことが、好きなんじゃないの。なんで私と二人で一緒にいてくれるの。私なんかじゃ勝ち目ないの、とっくに分かってるのに。

 がこん。

「あ」

 スプライトが、音を立てて落ちた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 駅のホームは帰宅する学生や社会人でごった返していた。かのんはそこに着くと、南へ行こうと思って、小田急線まで行くことを考えた。向かいの三番線に電車がくるアナウンスが響く。

 やがて電車がホームに滑り込んでくる。人が吐き出されて、入れ替わりに人が吸い込まれる。かのんが前を歩いて、すみれはその後ろを何も言わずについてきた。

 電車は当たり前だけど混んでいて、座れるところはなかった。誰もがそうであるように、ドアの端の方で固まってじっとしていた。ドアに『痴漢注意』と『不審者注意』を促す黄色いシール状の貼り紙が目に入った。きっとこれはどの車両にも同じように貼ってあるんだろうな、とかのんは思った。

 それから電車はいくつもの駅に停まり、その度に人は入れ替わるけれど、常に満員だった。一度電車を乗り換えた。小田急線はすぐに東京を置いてけぼりにして、神奈川を走っているようだった。

 私たちはようやく空いた席に二人並んで腰かけた。クッションはごわごわしていて、すみれちゃんにはあまり似合わない色だなとかのんは思った。窓の外を流れる街並みの向こうの空は、さっきより赤みを帯びているような気がした。

「ねぇ、かのん」

「う、うえっ⁉︎ な、なに」

 いきなり声をかけられて、かのんは驚いて背筋を伸ばす。

「私たち、どこ行ってるの、こっち行っても、海しかないわよ」

 すみれはかのんを見つめながら、そう言った。

「そ、それは……」

 具体的に何も考えていなかったかのんは、口籠る。だってそうじゃない、夏休みの始まりの日で、普段と違ってみんな浮き足立って予定もある。すみれちゃんにこれを言うなら、一番都合の良い日が、今日だったの。

「……うみ、とか」

「はぁ?」

「海に行きたいなって、思って」

「……へんなかのんね」

 海だったらいつでも行けるじゃない。という言葉は飲み込んでくれたみたいだった。すみれがふっと目を逸らして、息を整えるのをかのんは見ていた。

(あのね、そういう私の気持ちを考えてくれるちょっとした優しさが、いけないんだよ)

 かのんは思いつつ、それは言わない。だって、言ってどうなるか分からないから。

「可可ちゃんとは、最近どうなの」

 そして、口が滑った。

 言ってしまった後、しまった、とかのんは思った。電車の揺れる等間隔なリズムが、二人を平等に揺らしていた。がたん、がたん、静かに、歌みたいに。

「……なんでいま可可の話が出てくるのよ」

 すみれは不思議そうな声でそう言った。かのんは反応が拒絶や嫌悪ではなかったことに心底ほっとする。

「ううん、なんでもない」

 かのんが無理やり話を終わらせてしまうと、後は本当に静かだった。

 電車のメロディに、身も心も満たされていくような。これも音楽かな、とかのんは思った。何気ない日常に潜む音楽。世界に歌を届けるのもいいけれど、いつかこんな風に誰かの日常にひっそりと居られたらいいかもな、と思っていた。きな子ちゃんたち一年生が入ってきてから、かのんはそう思うようになっていた。

『次は、新松田、新松田です。御殿場方面にお越しのお客様はお乗り換えです。お出口は左側、降りましたら黄色い点字ブロックの内側をお歩きください』

 電車内にアナウンスが響く。来たことのない駅名で、御殿場にはアウトレットが有名らしいということくらいしか知らなかった。

 電車は高い音を立てて徐々に速度を緩めていく。いくつもホームのある大きな駅が現れて、そのうちのひとつに電車はぴたりと収まる。

 扉が間の抜けた音を立てて開いて、何人か降りていく。乗ってくる人は誰もいなかった。

 そのまま電車は進んでいく。

 揺れて、揺られて。時間だけが過ぎていくようだった。本当に、この電車はどこかへ向かっているんだろうか、とかのんは不安になった。

「ねぇ、かのん」

「なに、すみれちゃん」

 呼ばれてかのんはすみれの方を向く。

「ほら、あっち」

 すみれは顎の動きだけで、窓の外を指し示した。かのんはそのまますみれの目線の先を追いかける。

 息が詰まった。

 窓の外。その遠くに、水平線が広がっていたから。そしてその真ん中に、赤と呼ぶより茜と呼んだ方がいいような、太陽が落ちていたから。

 沈黙の数だけ電車は揺れた。無抵抗に二人は揺られていた。窓から差し込む夕陽が電車の中を逃げ場なく満たしていく。

「きれいね」

 すみれが呟くので、今度こそかのんはびくっと肩が震える。そのまま言い訳がましく流れていく景色を見ていた。

 そんなことばかり言うのがいけなかった。だって、すみれちゃんのそういうところを、私は────

「かのん?」

 すみれに見つめられていて、かのんはまた意識をこちらに戻す。

「ううん、なんでもないの」

 かのんは平静を装って言った。

 電車は平然と街を過ぎていった。

 呆れるほど同じリズムを繰り返し。

 繰り返し。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 思えばここがターニングポイントなんだったような気がする。

 潮騒、暗闇、星くずとか。

 ほとんど音のしない海の、波打ち際をかのんは歩いていた。すみれが後からついてきていて、二人の間にはでも、会話はなかった。

 さくり。

 ローファーが濡れた砂に沈む感触。浜辺は小さくて、たまたまなのか誰もいなかった。

 大して歩ける距離もないので、かのんはなるべくゆっくり歩いた。これが終わるまでには、言わなければならなかった。ここに来てしまった理由も、その気持ちも。

 もう辺りは暗くて、海と反対側の街並みだけが煌々と光っていた。

「ねぇ、かのん」

 波間に紛れないその声が、かのんの鼓膜を揺らした。立ち止まってしまうには十分だった。

「そろそろ帰らないと、今日家まで着けるか怪しいわよ」

 かのんは振り返らないまま、すみれの言うことを聞いていた。もっともだ、と思って。

 でも何も言えなくて、また歩き出す。しゃくりしゃくり、と一歩ずつ足型がついていく。

「ちょっと、かのん」

 いきなりだった。

 かのんは片手を取られてぐいと引かれ、気がつくと、目の前にすみれの顔がいっぱいにあった。世界は鮮やかな絵画のように、静止する。

「え、なに……」

 すみれの瞳に、困惑したようなかのんの姿が映っていた。そこに吸い込まれてしまいそうで、だから自分が片手を取られてお姫様がされるみたいな抱きしめ方をされていることに気づくのには、時間がかかった。

「ちょ、すみれ、ちゃんっ……⁉︎」

 かのんは逃れようと身を捩ったけれど、すみれは的確にかのんを拘束していて、少しも動けなかった。すみれちゃんが拘束上手いのって、あの時もそうだったな、とかのんはぼんやり思い出す。いつか神社で拘束された日、楽しかったなぁ。

「かのん、あんた、何悩んでんの」

 すみれちゃんはすごく近くでそう言った。まっすぐに、信じられないほどやさしい声で。

 かのんは胸が軋むように痛む。

 いつからだっただろう。

 一体いつから、こんな気持ちになったんだろう。

 初めてすみれちゃんを目にした時から、

 

 ────ここ、スクールアイドル同好会の部室って、聞いたんですけど

 

 初めてすみれちゃんの心に触れられた気がした時から、

 

 ────すみれさん、あなたをスカウトに来ました

 

 初めてすみれちゃんと出たラブライブ、誰にも聞かれない声でそっと言われた時から、

 

 ────かのん、ありがとね

 

 いつから、だっけ。最初からな気もする。もう思い出と気持ちは二年分の暑さに溶けてしまっていて、どこが始まりかなんてさっぱり分からなかった。

「ねぇ、かのんったら」

 肩を揺すられて、意識が戻る。その視線に肺を突かれて、呼吸ができなくなりそうだった。

「すみれちゃん」

 口が動く。かのんはぼうとした頭で、途中の駅に捨ててきた空になったスプライトのペットボトルを思い出した。私もあれくらい軽くなれたらいいのに。

「もし、もしね」

 海がさぁ、と鳴いていた。

「もし、私がすみれちゃんのこと好きって言ったら、どうする?」

 言った後、世界は静かだった。波の音すら聞こえてこなくて、世界は本当に、時が止まってしまったみたいだった。

 一瞬はどんどん一瞬に近づいていった。耳に膜が張ったみたいにこもった音が聞こえた。

 かのんはすみれの方が見れなかった。こわくて。

「かのん」

 呼ばれて顔を上げてかのんは、また息が詰まった。

 だってすみれちゃん、とんでもなく申し訳なさそうな顔してるんだもの。

 返事をもらう前から、その気持ちが伝わってしまっていた。まっすぐすぎるすみれの性格を、かのんは少しだけ恨んだ。そういうところを好きに、なったんだけど。

「……帰りましょ、ほんとに帰れなくなっちゃうわ」

 すみれは言って、向こうの街並みを見上げた。かのんもそうする。

 終電逃したら、一緒にいられる? すみれちゃんの想い人のこと、一瞬忘れて、一晩くらい奇跡が見れない?

 ねぇ、すみれちゃん。

 声には出さず、かのんは口だけ動かす。

 可可ちゃんのこと、好きなんだよね。

 波音だけが残った。誰も何も、こたえずに。

 メイが交通事故で死んだのは、そんな日のことだった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それから三年の歳月が流れた。かのんは都内の音大に推薦で行くことが決まって、とんとん拍子で時間だけが流れていって、二十歳になった、のも、未だに実感が湧かなかった。

 ふぅ。

 かのんはひとつため息を吐く。

 かのんは実家からでも十分に通える距離だから大学も実家から通っていた。

 もうすっかり寒くなって街路樹も葉は落ちている。石畳を踏んで、歩く。

 カフェの入り口と兼用な扉を開くと、ちりんちりぃん、と軽快な音が鳴った。

「ただいまー」

「あら、おかえりなさい」

 入ると左手にあるカウンター席の奥で、何か片付けをしていた様子の母が声をかけてくれた。かのんは特に会話もせずに通り過ぎようとした。

「あ、ちょっと」

 しかしもう少しのところで、かのんは呼び止められる。

「なに」

 短くこたえると、母はやさしく眉を下げて微笑んだ。

「今日同窓会なんでしょう、みんな元気だといいわね……楽しんできなさい」

 かのんは豆鉄砲を食らったような顔になる。自分の予定をあまり母に伝えてはいなかったから。

「なんで知ってるの」

 かのんが訊くと、母は逆にきょとんとして笑った。

「千砂都ちゃんに聞いたのよ、最近よく来てくれるから」

 入り口の横でまだまだ元気そうにマンマルが首を傾げていた。

 かのんはため息を吐いて、そのままカフェを後にして二階へ上がる。

 自室に飛び込んで、荷物を置いて、そのままベッドに飛び込んだ。ベッドの柔らかさに、身体がわずかに跳ねる。

「はぁ……」

 またため息を吐いてしまう。枕を引き寄せて、そこに顔を埋める。

 夕方。窓からは明け透けな夕陽が差している。部屋はオレンジ色がたぷたぷに満ちているみたいで、息がしにくかった。

 かのんはポケットからスマホを取り出して、メッセージアプリを開く。そのグループの通知を見て、既読はつけずにスマホを放り出す。

 行きたくないわけじゃなかった。行きたいとさえ思っていた。

 でも。

 かのんはベッドに上半身を預けたままひっくり返る。天井にも影が伸びている。そろそろ電気をつけなきゃ暗い時間だった。

 でも、私はあの人に会えるだろうか。

 かのんは思う。

 どうすればいいのだろう。あの日不器用な告白をして、何も言えずに破局した、あの人に、笑いかければいいのだろうか。久しぶり、と言えばいいのだろうか。

 でも行かない選択肢はなかった。だからせめてもの抵抗として、かのんは夕暮れに溺れていた。

 暗くなるまで、ずっと。

 呼吸の音が耳障りになるほど、静かに。

 

 しばらくしてから、ようやくかのんは立ち上がった。へんな姿勢でいたので首が痺れた。

 荷物をショルダーバッグに詰め込んで、着ていたままの服で出て行く。自室の暗闇は置いていく。

 おもてに出ると、つめたかった。

 もうすっかり辺りは冬の空気で、日が暮れてしまうとより、それははっきりと際立った。

 待ち合わせ場所は、二駅くらい向こうにある広い個室のある居酒屋だった。かのんは定期圏内だったのでそれをかざして、改札を通り抜ける。

 電車。扉を入ってすぐのスペースにかのんは立つ。どうせすぐ降りるから、と思って。

 窓からの景色を見ていると、その窓に自分の顔が映っていた。かのんはその情けない顔に苦笑して、吐いた息がガラスに作った白い靄を人差し指でそっとなぞった。つめたい。

 すぐ着いてしまって、目的地まで歩いた。

 繁華街なんて数年前まで用事がなかったのに、今や自分がお酒も飲める歳であることに、かのんは驚いてしまう。

「かのんちゃん」

 ふと、背中を押されて、声をかけられた。崩れた体勢を整えて、かのんは振り向く。

「ちぃちゃん」

 頭の両側に綺麗な銀糸をお団子にしている、その小柄な女性は、かのんの幼馴染だった。

「行く途中に会うなんて、偶然だね、時間もまだちょっと早いよ」

 千砂都は言いながら、かのんの隣のスペースに滑り込んだ。

「行こっか、かのんちゃん」

 かのんは言われて、うん、と短く頷いた。

 お店はすごく分かりやすかった。十人を個室で案内できる居酒屋なんて、この狭い都内ではなかなかない。外装と雰囲気だけでなんとなくここだろうな、とかのんは思った。

「予約した嵐千砂都ですけど……」

 千砂都が全部手続きを済ませてくれるのでかのんは後ろで入り口にあるとても大きい魚の入った水槽と、その水が入れ替わるところをじっと見ていた。なんだか魚くさい匂いがした。

「こちらへどうぞ、もう何人かお連れ様がいらっしゃってますよ」

 店員のお姉さんはそう言うと、滑らかにかのんと千砂都を案内した。奥の方で靴を脱ぐように言われて、さらにその一番奥に案内された。ふすまを開けると、そこは宴会用の細長いテーブルの置かれた細長い部屋だった。かのんはその奥にいる、何人かと目が合った。

「かのん先輩っ!」

 薄い栗色の長髪の女性が、嬉しそうに立ち上がった。

「落ち着くですの……ステイステイ」

 その人を宥めるように服の腰辺りを引っ張っているその子は、相変わらずふわふわの金髪だった。少し会わないだけで、こんなにも大人っぽくなるのか、と思って、かのんは驚く。ほんの少し前まで、みんな高校生だった気がするのに。きな子ちゃんも、夏美ちゃんも。

「かのんさん、千砂都さん、こちらへどうぞ」

 きな子と夏美の向かいの席に、流れる黒髪の綺麗な女性がいた。その人も、なんて言えばいいんだろう、艶かしくなっているような、気がした。

「ありがと、恋ちゃんっ!」

 千砂都が言って、恋の隣に嬉しそうに腰掛ける。かのんは自然とその隣に座った。

「んー、まだみんな揃ってないけど、先になんかつまんどこっか?」

 千砂都は手早くメニューを手に取って言った。お店的にも席だけ取られるの迷惑だろうからさ、と小さく言い加えて。

「賛成っす! きな子もうお腹ぺこぺこなんすよ〜、夏美ちゃんがダイエットってうるさくて……」

「当たり前ですの! 最近きな子は太り過ぎですの! ほらここの辺りの贅肉とか……」

「ひゃわっ⁉︎ さ、触んなくていいっすから⁉︎」

 なんて、目の前でわいのわいのされている間に、千砂都は恋にメニューを見せながら次々に頼むものを決めていた。

 そして躊躇いもなく呼び出しボタンを押すと、すぐに店員のお姉さんがやって来た。ついでに今来た二人分のお通しも持っていて、都合が良かったのだろう。

「お伺い致します」

 細長い電卓のようなものに、お姉さんは指をかけていた。置かれた小鉢に入った何かの魚には見向きもせずに、千砂都が口を開く。

「えっとー、枝豆、フライドポテト、唐揚げ、馬刺しとー、あと焼き鳥盛り合わせ、あと砂肝四つお願いします、あ、あと人数分の烏龍茶も」

「かしこまりました」

 お姉さんはそう言うと、すっと部屋から退場した。

 かのんはしかし、ここにいない人のことが思われてやまなかった。私がいつもちぃちゃんの隣にいるように、あの人の隣には可可ちゃんが……

「わぁ、すごく広いデスね」

「ちょっと遅れたわ、ごめんなさい」

 そう言いながら外套を手に抱えて入って来たのは、今まさに、かのんの考えていた人だった。

「可可先輩! こっち空いてるっすよ〜!」

「きなきなありがとデス、すみれもこっち来るデスよ」

「はいはい、行くったら行くわよ」

 急に賑やかになったこの場所で、かのんはでも、一人のことしか目に入らなかった。

「すみれ先輩は何がいいっすか? 全部美味しそうっすよ〜!」

「きな子、ダイエットを忘れてないですの……?」

「ひえっ……な、夏美ちゃん、まさかそんなぁ〜」

「ふっ、あんたらほんと仲良いわね」

 その金色の髪が居酒屋の安っぽい照明を浴びてきらきらひかっていた。

「可可は、何食べたい?」

 すごくやさしい声。聞いたことないような。

「うーんと、うーん……どれも美味しそうで決められないデス」

「じゃあもつ煮込み鍋とかどう? 上海にはこういうのはないんじゃない?」

 二人、一緒に暮らしてるんだって、聞いたの。かのんは胸が軋むのを感じる。隣で千砂都と恋が何かを喋っていたけど、うまく聞き取れなかった。

「夏美、ボタン押してくれる?」

「お安い御用ですの」

 すみれちゃん、高校卒業した後、モデルとして事務所契約したんだって。可可ちゃんが帰らなくて済むように、自分で家借りて、モデルとその専属ファッションコーディネーターとして働いてるんだって。目を背けたくなるようなニュース。どうして私は、ここに来たんだっけ。

 かのんは気がついたら立ち上がっていた。まだメニューと睨めっこしていた恋、千砂都と向かいの四人がかのんを驚いて見たようだった。

「ちょっと、お手洗い」

 かのんがいそいそと出口のふすまを開けると、そこには人が、立っていた。かのんは、ぴたりと立ち止まる。

「……お久しぶりです」

 よれた白衣に、知らない間に長く腰くらいまでになった青い髪。それに、耳の赤いピアス。

 場が、一気にしんとなったのが分かった。その人は、あの日からずっと、笑顔を見せない人で。

 だってそれは、あの事件を、思い出してしまうから。

「四季、ちゃん……」

 かのんが絞り出した声に、四季はつめたく赤い瞳を向ける。そのまま四季は、つかつかと座敷に入ると、かのんのいた席の隣に腰を下ろした。すぐに白衣の胸元からケースを取り出して、そのまま流れるような動作で一本手に取り、火をつける。

「夏美、ボタン押して」

 四季が感情の読み取れない声でそう言う。恋がテーブルの端にあった灰皿を頑張って四季の手元まで押し出した。四季はそれを何も言わずに受け取り、美味しくなさそうに深く煙を吐く。

「は、はいですのっ……」

 ボタンが押される。ピンポォンと間抜けな音が鳴る。かのんはそれをじっと見ていた。

 すると入り口に立っていたかのんは、やって来た店員のお姉さんに場所を譲る。

「生十杯ください」

 四季は短くそう言った。

「……かしこまりました」

 お姉さんはやや困惑した様子だったが、四季は涼しい顔をしていた。それをすみれが見ているのをかのんは見ていた。

 かのんは耐えきれなくて、そのままお手洗いを探しに行った。脱いだ靴を履いて、狭くてカクカクしている廊下を歩く。

 お手洗いを見つけると、そこにこもって、じっとしていた。どうすればいいのか分からなかった。かのんは頭を抱える。なんで私、すみれちゃんのことがこんなに好きなんだろう。どうしてあの日、曖昧だけれど振られた日、納得しなかったんだろう。

 長い、時間が経った。

 胸のつっかえがいつまでも外れてくれなくて、それをどうにかして欲しかった。ほんとは先輩として四季ちゃんの支えになってあげなきゃいけないのに。未だにこのLiella!のメンバーには、あの日の苦しみが深く刻まれている。メイちゃんの、死。

「かのんー」

 声がして、びくっと身体が跳ねた。それは今一番聞きたくて聞きたくない人の声だった。

「長いから心配して見にきたのよ」

 かのんはでも、動けなかった。胸がどきどきして、居酒屋のお手洗いという状況がより非日常を感じさせて、ふわふわしていた。

「ねぇ、かのんってば、いるんでしょ」

 かちゃ。

 つっかえ棒を入れるような鍵を外して、扉を開く。

「もう……どうしたの、気分悪いの? まだ何も食べてないじゃない」

 すみれの眉を下げた困り笑顔がかのんを見ていた。心配そうにしてくれる、誰より気遣ってくれる、そういうところが出会った時から、ずっと。

「……すみれちゃん」

「なに、かのん……わっ」

 気がつくと、かのんはすみれの手を取って、思い切り引き寄せていた。それは少し乱暴なくらいで、そのままかのんは個室の鍵を閉める。

「ちょ、っと、なにすんのよ……」

 すみれは冬でも少し薄着で、つけてもいないはずなのに制汗剤みたいな涼しい匂いがする。狭い個室にいると、かのんには余計にそう思えて仕方なかった。

「ちょっと、かのん、大丈夫なの」

 俯いたかのんを、すみれは覗き込んでくる。もう、我慢の、限界だった。

「すみれちゃん」

 かのんが名前を呼んだのと、顔を上げたのと、抱きついたのは、順番に起こったのだけれど、ほぼ同時のようでもあった。

 小さな箱の中、静かな時間が止まる。ずっと遠くからばかみたいな誰かの笑い声が聞こえた。

「すみれちゃん、私ね」

 あの時言えなかったことがあるの。

 かのんは言いながら思い出す。

 あの日、メイちゃんがあんなことになって、みんなは誰もが自分と、その一番大切な人の傍にいることが精一杯で、それ以外に何かを言うなんて、考えもつかなかった。私たちはあの夏から、未だ抜け出せないままで。

「すみれちゃんの、ことがね」

 だからなんだ、そんなこと言ってしまったのは。ちょっと昔に戻ったみたいな、気がして。

 かのんは言いつつ、すみれの胸にぎゅっと縋りつく。もうどうしようもなかった。

「好きなのっ……」

 狭い個室にぴたりと身を寄せて、じっとしていた。誰かが隣の隣の個室に入ってくるような音がして、かのんたちはそのままの姿勢で、じっとしていた。

 やがて水の流れる音と足音が去ってから、かのんはすみれの腕に剥がされて、見つめ合う。

 その瞳を見た時に、かのんはほとんど、絶望したと思う。

 そのエメラルドグリーンに浮かぶのは、複雑なものではなくて、単純な哀しみだった。

「ごめん」

 すみれは短くそう言った。他に何も言わなかった。それが全てだった。お酒が飲める歳になっても、煙草が吸える歳になっても、あの頃と少し背丈が伸びただけで、中身は何も変わっていない。

 そのまま時間だけが過ぎていった。

「私、可可と結婚しようと思うの」

 だからそう言われた時は、聞き間違いかと思ってしまった。かのんはもう一度すみれを見つめる。今度はすみれの方が目を伏せていた。

「私も、かのんのこと、好きよ」

 すみれはそのまま、そう言った。

 かのんはぶん殴られたようで、足もとから崩れ落ちそうになる。それはどんな拒絶の言葉よりも、残酷な告白だった。

「……行きましょ、みんなに心配されちゃうわ」

 すみれは言うと、鍵を開けて外に出ていってしまう。あの頃みたいにはぐらかしてもくれなかったし、待ってもくれなかった。

 かのんは呆然と、鍵の開いたままの個室で立ち竦んでいた。

 

 ────嫌だなぁ

 

 ふと、かのんはそう思って、気がついたら視界が歪んでいた。かのんは、泣いていた。涙が溢れて止まらなかった。どうしようもなく、あとから、あとから。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 やっと涙が止まってくれると、洗面台で簡単に身なりを整えてから、みんなのいる部屋に戻った。なにやら騒がしい様子だった。かのんは首を傾げながら、ふすまを開く。

「あー! 夏美ちゃん! それきな子の頼んだたこわさっすよ! 食べちゃダメっす〜!」

「こんな小さいの何個頼んだって一緒ですの、また頼むんですの」

 左手を見ればそれ。

「四季さん、生以外は飲まないんですか? ほら、簡単なカクテル類もあるみたいですが……」

「私は、これでいい。昔飲み屋に行って飲み屋のカクテルは当たり外れが激しいけど、生はサーバーで作るから誰がやっても大体同じ味がするのを学んだ」

 右手を見ればそれ。

「ふぇ〜しゅみれぇ……くらくらするデス〜……」

「ちょ、お酒臭っ! あんためちゃくちゃ弱いんだから外では飲んだらダメよって言ったじゃない!」

 手前にはそんな二人。

 かのんは阿鼻叫喚というかごっちゃごちゃな景色を前に呆然としていた。

「かのんちゃん、こっちこっち」

 手招きしながらそう言ってくれるのは、千砂都だった。一番奥の席はさっきまで恋が座っていたはずだけれど、いつの間にかかのんの座っていた席に移っており、その隣には四季がいた。四季の前にはぱっと見で数えられないほどの空になったジョッキが鎮座している。どんだけ飲んだの、四季ちゃん。かのんがちょっと引くくらいの量を四季は飲んでいた。当然、煙草も。

 かのんはその後ろを蹴り飛ばさないようにそろそろと抜ける。千砂都に招かれるままに、一番奥の空いた恋の席に腰掛ける。

「かのんちゃん用にお刺身取っておいたよ、もうみんな出来上がっちゃってるから、私たちだけでゆっくり楽しも」

 千砂都はそう言ってにこっと笑ったけど、その頬はみんな同様、少し赤らんでいるようだった。手もとにはコーラのようなものがグラスに入っている。マリブコークだろうか、とかのんは思う。ちぃちゃんのお気に入りだ。

「…………うん」

 でも今のかのんには、何を飲む気も、食べる気も起きなかった。目の前で、さっき自分を振った人が、婚約者といちゃいちゃしてるのを見ながら食べれるものなんてなかった。

 居た堪れない気持ちで、言い訳がましく端で鍋を突いていた。もつ煮込みを齧ってみた。すんでのところで戻しそうになるのを必死に堪えて、これはダメだな、と自分で結論づける。

 こんなの、みんなに出会う前以来だった。かのんはふと、思い出す。歌うことが怖くて、世界の何もかもから耳を塞いでうずくまっていたあの頃の私にとって、誰かといるのは恐怖だった。押し潰されてしまいそうで。消えて無くなってしまいたくて。

「かのんちゃん」

 ふと、声がして、隣を向けばそこには千砂都のまんまるなルビーがふたつ、かのんを見つめていた。

 かのんははっとする。その頬は赤らんでいるけれど、目には鋭い光が宿っていた。

「あのね、かのんちゃん」

 千砂都との距離がじりじりと詰まっていく。こんなに人がいるのに、みんな友達なのに、誰も見ていない。非日常と日常の境目で、目の前で雪崩のように全てが瓦解していくのを、どこか他人事のように感じていた。

 千砂都の両手がかのんの頬を掴む。そっと、持ち上げられて、かのんは最初から最後まで無抵抗だった。

「んっ……」

 ファーストキスは、マリブコークの味がした。

 誰も、見ていなかった。夏美はきな子と何やら揉めていて、可可とすみれは完全に自分達の世界、四季と恋からは見えない角度だっただろう。

 短い、触れ合いだった。離れた時に甘すぎる水音が耳に流れ込んできて、かのんはどうすればいいのか分からなかった。

「かのんちゃん……好き」

 かのんはどきっとする。千砂都のそんな声、聞いたことがなくて。

 でも────

 かのんは目を逸らす。

 でも、ひどくないかな、こんなの。

 すみれちゃんに振られて、ちぃちゃんに告白されて。確かに私はちぃちゃんのこと好きだけど、今これを受け入れることが正しいの?

 かのんは自問自答しているはずだったけれど、本当はもう答えは決まっていることに、心のどこかでは気づいていたのかも、しれなかった。

 かのんは千砂都の潤んだ瞳を見つめ返す。この苦しみが助かるなら、なんだってよかった。楽しそうにみんな笑っている。ここだけ現実から乖離しているみたいだった。

「ちぃちゃん」

「……なぁに」

 思ったより真剣な声が出たな、とかのんは思った。

「私が大学卒業したら、私のカフェで一緒に働かない……継ごうと思ってるんだ」

 ごみごみした居酒屋の奥の角部屋の奥の席で、かのんは千砂都にそう言った。酔ったきな子が呼び出しボタンを訳もなく何度も押すので夏美にぶん殴られていた。

「うん」

 千砂都はかのんに笑いかける。今まで見たことのないようなやさしい表情で。

「うんっ! うれしいな」

 それが、これから先ずっと適用される、約束だった。本当はもっともっと、ちゃんと話し合って決めるべきだったんだと思う。例えば、お互いの気持ちについて、とか。

 でも、しなかった。

 ううん、できなかった。

「かのんちゃん」

 あ。

 一瞬のキスが、一生に思えてしまうほど、愛おし過ぎたから。

 それがかのんと千砂都の、恋人関係の始まりだった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 季節なんてものは気がついたら通り過ぎていく。

 春も、夏も、秋や、冬だって、数えきれないほどあった。そのどれもは代わり映えなく、まるで同じであったような気がするのに、それなら今ここでこうしているのは、一体どういう訳だろう。

 かのんはぼうっとしながら窓の外を眺めていた。窓の形に切り取られた風景の中、木の葉が風に揺すられている。音はない。だって窓が開いていない。ただちらちらと光る木漏れ日が優しすぎてかのんは意味もなく目を細めた。時が経つのは、なんて早いんだろう。

「かのんちゃん、お〜い、かのんちゃんってば」

 ふと、耳元で声がして、意識を戻すとかのんのすぐ近くでまんまるのルビーがカウンター越しに下から覗き込んでいた。

「もう店じまいとは言えまだ仕事中だよ、かのんちゃんにしては珍しいね」

「あぁ……ごめんね、ちぃちゃん」

 かのんは言いながら、手もとのコーヒーミルを分解していく。今日も一日働いてくれてありがとう、とかのんは心の中でお礼を言いつつ、拭き上げてあげる。

 かのんはこの時間が好きだった。お客さんが帰って、人の気配がまだ残るのに、もう誰もいない時間。昔手伝いをしていた時とは違う、自分のお店の空気感。

 隣を見れば、千砂都がコーヒーカップを棚にしまっているところだった。昔から変わらない頭の両脇のお団子は時の流れをまるで感じさせないのに、覗く横顔にはもうあの頃の幼さはなく、小さく引き結ばれた唇などはもうすっかり大人びていた。二十歳の時よりもさらにずっと。

 でも、かのんにはずっと言いたいことがあった。それは本当は大学を卒業してこのお店を継いだ時から、やりたいと思っていたことだった。

「ちぃちゃん」

 かのんが呼ぶと、振り向いたその瞳が不思議そうに揺れていた。

「話したいことがあるの、今日仕事終わり……いいかな」

 放った言葉はコーヒーに溶ける角砂糖みたいに、この喫茶店の静かな空気にしゅらしゅらと溶けてその形をなくしていった。

「あー……ごめん、今日はこれからバイトあるから、また今度でもいいかな?」

 千砂都は少し逡巡した後、そう言って両手を合わせた。夕陽が天井を音もなく伝っていく。

「……うん、分かった」

 かのんが呆けていると、千砂都はテキパキと仕事を終わらせて、店中を綺麗にしてしまった。

 空中に動いた後の小さな埃が舞ってきらきらしていた。

「じゃ、今日もお疲れ様っ! また後でねっ!」

 千砂都はそう言うと、そそっかしく出ていってしまった。

 残されたかのんは、静寂に耐えかねてラジオをつけた。

『今年度もノーベル賞の受賞は日本の超天才科学者────若菜四季さんで間違いないかと世間では騒がれております! いやー多部門にて活躍されている彼女ですが、齢二十二歳にして物質をミクロ単位にまで圧縮して持ち歩く技術を開発! 依然として躍進が止まりませんねぇ! 今や日本の科学力は世界でもずば抜けたものになっている訳で、中には兵器としての利用が懸念されるあまり一般販売が禁止されている発明もある訳ですが、若菜さん、そのご自身の異例の天才ぶりについて、率直なご感想……いかがですか?』

 知っている名前が出たので、かのんは耳を傾ける。今や日本で彼女の名前を知らない人はいなかった。世間では『悪魔の科学者』などと言う人がいるのは、知りたくなくても知っていた。

『興味ない』

『あ、ちょっと! 若菜さん! もう一言だけでも! 何か今後の展望などあれば!』

 インタビュアーが食い下がる。四季ちゃん、きっとすごい嫌な顔してるんだろうな、とかのんはぼんやり思った。

 最近こういう偏向報道というか、見せたいものだけ見せられているような空気が強くなったような気がする。ここ数年で特に、信じられない話だけど消費税も所得税も、住民税でさえ倍以上になった。物価は大して上がっていないのに。

 かのんは聞いていられなくて、おもてに出る。思いっきり背伸びをして、深呼吸をする。もう暗くなった空気を思い切り吸い込み、同じ時間をかけてゆっくりと吐く。

 エプロンを着たままだったけれど、ちょっとそこまで散歩に出る。石畳を歩いて、近くで一番周りが見える開けた場所まで行く。

「ふぅ……」

 遠くからでも分かる、新宿の方から、空高いビルがたくさん密集して立っているのが見えた。それは光を浴びて薄い青色に輝いていて、代わりにその下の街は真っ暗だった。富も権力も名声も、技術の進歩というだけで持つ者と持たざる者で格差は広がるばかりだった。

 かのんは自分たちだけでなく、世界も変わっていくのを感じる。

 私もやることやらなきゃな、と思った。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 最初は歪な形だったかもしれない。

 少なくとも彼女のよく言うマルからは程遠かっただろう。

 でももう何年も、あの日から何年も経った今は、違った。年月によってだんだん整理されていった気持ちと心は、いつの間にかそういう形になっていた。

 日々のわずかなささくれと時々刺さる深い傷は、二人で庇い合えばいいことを知った。

 かのんは人のいなくなった店でグラスを拭きながら、遠くを見つめていた。

「たーてのいとは、わたし

 よーこのいとは、あなた」

 ひょこっと、カウンター席の下を掃除していた千砂都が出てきた。

「逢うべきいーとに、出逢えることをー

 ひとは仕合わせと、呼びまぁす……」

「なんて曲?」

 千砂都が訊いてくる。

「糸」

 かのんが短くこたえる。

「十五年くらい前の曲だよ」

「ふぅん」

 店内に流しているゆったりしたジャズっぽいBGMも切ってしまったから、二人だけのお店は哀愁さえ感じてしまいそうな静けさだった。かのんが鼻歌を歌うのは、珍しかった。

 ここももう四年になる。

 大学卒業後、実家のカフェを継ぐ形で、ここで仕事を始めた。自営業なのですごく安定しているわけじゃないし、社会情勢も良くないが、幸い母が培ってくれた土台があるおかげで、なんとか生活していけた。

 でも────

 かのんは思う。

 でも、私には、やりたいことがあった。

 それを幼馴染で恋人である千砂都に言うことだけが、うまくできなかった。何年も前からその話をしたかったのだけど。それになんだかその話を、避けられているような気もしていたから。

 はぁ。

 かのんはため息を吐く。

 千砂都とは大学も同じで、かのんは音楽科、千砂都はダンス科だった。付き合うようになったのは二十歳のあの日。そのままあの日の言葉通りに千砂都はかのんの実家のカフェで働いていた。千砂都はその傍、掛け持ちでたこ焼き屋や他のお店でバイトをしているらしく、休日でもあまり一緒にいる時間はなかった。

 かのんはふと、奥のテーブル席の下に雑誌が置き忘れられているのを見つける。

 カウンターから出ていってそれを所定の場所にしまおうとした。

 そして、息が止まった。

 その表紙を飾っていた女の人に、あまりにも見覚えがあったから。

 流れる金糸、髪の両脇でぴょこんと伸びているそのトレードマークも、すっかり大人びた容姿も、でもそのままあなたの姿だった。着飾った服が見事に映えていた。

「ん? どうしたの、かのんちゃん」

「う、ううん! なんでもっ⁉︎」

 かのんはでもそれを手に取ったまま、中身を見ることも、片付けることもできなかった。ただ背中に夕陽を浴びていた。

 雑誌は『ご自由にお読みください』のコーナーのなるべく取り出しにくい位置に隠すように置いた。

 だからかもしれない。

「ちぃちゃん」

「ん、なぁに?」

「……辞めようと思うの、このお店」

 そんなことを言ってしまったのは。

 その頃かのんは千砂都と喋るのは、どうも息が詰まるような気がしていた。

 千砂都は変化を好まない様子だった。なるべくなんでもそのままの形で残したがるような、どうしてそうなのかは分からなかったけれど、あまり外にも出かけなかったし、ものも買わないし捨てなかった。

「やだっ!」

 千砂都の拒絶の言葉が空虚なお店に響いて、しつこく残った。

 一体いつから、私たちはこんなふうにがんじがらめになってしまったのだろう。

 何を言うにしても、躊躇うようになってしまった。こんなの、もう卒業したいのに。

 二十七歳の、冬のある日だった。

 長い時間を思い出していたような気がした。

 かのんはようやく閉じていた目を開く。

 ずっと言いたかった言葉は、ひとつ小さなケースとセットにしてあって、だから今、一緒に渡そうと思った。

 それをポケットにつっこんで、千砂都を追いかけて、かのんも薄暗いおもてに飛び出す。もう街の隙間からどこでも見えるようになった超高層ビルの連なる方は、日本の科学の発展とその技術力を露骨に物語っていて、遠くからでも果てしなく眩しかった。

 かのんはそれには目を背けて、ただ走る。目的地は、そんなに遠くない、いつもの広場だった。まだここには変わらず屋台が出ていて、いつでも香ばしい匂いとソースの匂いがしている。移動販売車のそのうちのひとつ。

「すみません! ちぃちゃん来てませんか⁉︎」

 青のりの匂いのする店内に顔をつっこんで、かのんは叫ぶ。中にいた猫背のおばちゃんが驚いて見てきたけれど、かのんだと分かると頬をほころばせて言った。

「あらぁ、千砂都ちゃんなら今日は来てないわよ……バイトも今日はお休みだし……」

「そうですか、ありがとうございますっ!」

 おばちゃんが最後まで言い切らないうちに、かのんはもう、走り出していた。後ろで呼び止める声がするのを、振り切るように走った。後はもうあそこだ、とかのんは思った。

 路地を抜けて、いくつもの電灯を、何度も歩いた同じ道を、越えて。

 ようやく着いたそこは、住宅街の中にある、都内にしては広めの公園だった。半球の、穴がぼこぼこ空いたような形のへんな遊具と、横に長いジャングルジムと滑り台、あとシーソーと、ブランコがあった。

 かのんはそこに踏み入れた。昔はもっと色味が鮮やかだったような気がするけど、と思って、ここで遊んでいたのがもう数十年も前であることに驚く。もう私たちは二十七歳だった。

 ここで出逢ったんだよね。

 ここで仲良くなったし。

 ここでたくさんのことを話した。

 だからつまづいたら私たちはここに戻ってくればよかった。

「ね、ちぃちゃん」

 ブランコのチェーンを頼りなく握って、わずかに揺すられている千砂都に、かのんは声をかけた。その顔がゆっくり持ち上がる。

「……どうしてここが」

「分かるよ」

 千砂都に、かのんは最後まで言わせなかった。

「何年、一緒にいると思ってるの」

 その前まで、歩く。橙色の灯りがスポットライトみたいに二人を包んでいた。

「ちぃちゃん、あのね……」

「いやっ!」

 今度は千砂都が、言わせなかった。かのんは肩がびくっと震える。

「いやだよ、このままでいようよ……」

 千砂都は俯いて、そう言った。ブランコが悲痛そうにキィキィ鳴いた。

「ちぃちゃん」

 かのんは腰を折り、千砂都を覗き込む。隠しているのに隠しきれていない瞳から漏れた視線が、かのんとぶつかる。

「あのね、私、自分のお店を持とうと思うの」

「え……?」

 千砂都の目が見開かれる。かのんはくすりと笑ってしまいそうになる。ほら、やっぱり何か早とちりしてる。

「今のお店もいいんだけど、私は音楽ができるバーがやりたいなって思ってるんだ、それでずっと準備してたの、お金とか、色々」

 かのんが言うのを、千砂都はじっと見ていた。信じられない、というような顔で。でも、まだまだかのんには伝えたいことがあった。本当はサプライズのつもりも、あったんだけどな。

「一緒に来てくれない、ちぃちゃん」

「────っ⁉︎」

 息を呑む音がした。千砂都が固まったのが、かのんには分かった。

 今しかない、と思った。齢も二十七だ。公園の安いスポットライト、一昔前ならデートスポットとかもありそうなものだけど、生憎そんな時代でもなかった。かのんはポケットに入れていたそれを取り出す。丁寧に手に乗せて、ケースを開ける。

「ちぃちゃん、これ」

 そこに収まる丸いリングは、何より丸く、平穏に感じられた。

「かのん、ちゃ……」

 潤んだルビーがかのんを見ていた。

「これからも、一緒にいてくれたら、嬉しいな」

 かのんは清々しい気持ちで、その目を見つめ返してそう言った。恋人になった経緯は、歪だったかもしれない。でもそれから先に描く世界は、私たちに開かれていると、そう思ったから。

 かのんは垂れていた千砂都の手を掴む。千砂都がわずかに震えて、それから同じように握り返してくれる。

「うんっ……これからも、よろしくねっ……」

 そう言う千砂都の頬を水滴が伝った。そうして、涙が溢れてきていた。あとからあとから、きりもなく。

「うんっ……私も……っ!」

 かのんも、一緒になって泣いていた。姿形がいくら変わっても、どれだけの時が経っても、私たちはずっと私たちでいよう、とかのんは思った。

 寒い夜。ガラス玉を砕いたようなきらきらした公園の砂。見つめ合う瞳の中に必要なものが全てあるような気がした。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「いらっしゃいませー」

 今日も軽快になった呼び鈴のベルに、かのんは返事をする。

「お席はこちらへどうぞ〜」

 千砂都がその人を一番案内しやすい席に通して、メニューを渡したり、お水を持っていったり、してくれる。

 千砂都の調子はすこぶる良さそうで、かのんは母とも話し合いを済ませていて、あと二ヶ月もしない間にかのんたちは新しいお店に移れるかという手筈だった。平穏な日常。穏やかでただ糸を編むような日々。

 ジリリリリリリリリ

 そこに、あまり鳴らないお店についている電話が鳴った。かのんは珍しい、と思いながら、それを取る。

「はい、もしもし」

『……も、もしもしっ』

 その声には聞き覚えがあった。数年ぶりだったけれど、すぐに分かった。

「わぁ、久しぶり、きな子ちゃん……どうしたの?」

 えっと、その、と電話越しに狼狽えるきな子の声がする。

『た、大変なんっすよ……! ええっと、これはきな子は何から説明すればいいんすか……』

 電話の向こうで何やらガタガタと揉み合うような音がして『貸すですの』『なんっすか、もう』『あっ』と声がして電話が代わったようだった。

『かのん先輩? こちら夏美ですの』

「あぁ、夏美ちゃん、久しぶり〜」

『再会を喜びたいところですが、そうも言ってられませんの……かのん先輩、端的に言いますの』

 電話越しの夏美の声は張り詰めていて、かのんは店内に流れる穏やかなBGMとは裏腹にごくりと唾を飲む。

「な、なんだろう……」

 そして、すうっと息を吸う音。その直後に、信じられないことを言われることを、まだ夢にも思っていなかった。一瞬前。

 

『夏美たちで、メイちゃんを、助けに行きます……協力して、くれませんか』

 

 一瞬、耳に膜がかかったように、何もかもが聞こえにくくなった。かのんちゃん、ホット一ね。曲名も知らないメロウな雰囲気のBGM、メイちゃん。

 あの日、死んでしまった私たちの大切な仲間。忘れるはずなんてなかった。誰もが皆、なんとなくお互いに関わるのを控えたのは────特に四季ちゃんには────どうしていいか、分からなかったからだ。

「かのんちゃん?」

 すぐ傍で千砂都に覗き込まれていた。かのんははっとして、首を横に振る。

「う、ううん、なんでもないの!」

「そう……? あ、電話済んだら三番テーブルにお水お願いね」

『かのん先輩』

 うん。

 喉で声が止まる。へんな汗をかいている。ひょっとしたら自分は今、とんでもない分かれ道にいるのかもしれない、と思った。

「……そんなの、ありえないよ」

 だから言った。あの日諦めたように。だって人の命は絶対に戻らないから。

「メイちゃんは、あの日、事故で亡くなったんだよ……? 何言ってるの……?」

 かのんが言うと、受話器越しに息を吐く音が聞こえた。

『そう思って当然ですの、だから話をしにきたんですの』

「…………なに、を」

 そうしてたったの一言で、かのんの人生は、未だかつてなく大きく動き出すのだった。

 

『四季が、タイムマシンの開発に、成功しましたの。私たちで過去に、行きませんか?』

 

 ある寒い日のことだった。

 信じられないことが全て、現実になろうとしていた。それらは必然的な糸のように絡み合い、いつの間にか手の届かないところでひとつの形を成そうとしていた。

「かのんちゃーん、おみずー」

 遥か遠くに感じるカウンターの向こう側、千砂都が言った。


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