さよならより速く、私はあなたに逢いに行く   作:Werther

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第二章 - おかえり、ただいま、おやすみなさい

 もし、あなたみたいな瞳になれたら、私はもっとあなたを惹きつけたデショウか。

 

 もし、あなたみたいな髪になれたら、私はもっとあなたの目を引けたデショウか。

 

 もし、あなたみたいな口になれたら、私はもっと大人っぽく見られたデショウか。

 

 もし、ううん、ホントはそんなの、どうでもよくて、

 

 もし、あなたと同じ言葉が母国語だったら、私は……可可は、もっとあなたに気持ちが伝えられたデショウか。

 

 ベランダから見上げる夜空には星一つない。可可が息を吐くと、それは白い靄になって空に(のぼ)っていき、散らばって消えた。

「はぁう……」

 情けないため息が口からは漏れるばかりで、ベランダの手すりに顔をつけるとつめたくて、吐いた空気は湿っぽかった。でも可可はあたたかいネグリジェを着ていたので、へっちゃらだった。

「今日は本当に帰ってくるのが遅いデスね……」

 振り向くと、なんとなくそういうことに決まったウォールナットで統一されたリビングとダイニングが広がっている。そこにあるのは一人分の気配ではなく、二人分の生活感だった。

 可可はもう一度ベランダの手すりに頬をくっつけて、まだつめたい部分を探していた。眼下には暗い街が広がっている。可可たちはあの暗闇に呑まれないように、ずっと昔にこの背の高いビルに引っ越したけれど、ここにいられるのはひとえに仕事が上手くいってくれていたからだった。

 可可は目を閉じて、思い出す。

 今の同居人とも出逢ってからもう、十年以上が経っていた。色々なことがあった。その全てが、今に繋がっていることを、可可はよく知っているつもりだった。

 でも、だから、納得いかなかったのだ。

 いつから────

 可可はぐっと唇を噛む。

 いつから、こんなことになってしまったのだろう。

 一日の終わりの心地よい疲労感とまどろみとぬくもりとつめたさの狭間。溶けていくチョコレートのような記憶を、可可は夜の中、ゆっくり掬い集めていった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「はい、じゃあ今日の練習はここまでね! お疲れ様っ!」

 あの日。千砂都がいつものようにぱんっと手を鳴らして、練習は終わった。辺りで気が抜けた風船みたいに倒れていく一年生たちを、可可は見ていた。

「つ、疲れた、ですの……」

「きな子もっす……」

「私もだ……また元気にしてるの四季だけかよ」

 言う通り、四季だけが立って残りの三人を見下ろしていた。可可も実は倒れそうだったのだけれど、一年生たちの手前、そんなことはおくびにも出せなかった。その日も最高気温を記録しているらしかった。日本という国は、どうしてこんなに蒸し暑いんでショウか、と可可は思う。

 とにかく喉が渇いたので、日陰に置いた荷物の方へと向かう。日陰はできる場所が時間によっても限られるので、なるべく校舎側に寄って、みんないくつかのグループに分かれて休憩するのが常だった。

 日陰に入ると、可可は一瞬目がちかちかした。光に慣れすぎて陰の方が眩しいなんて、おかしい話だ、と可可は思いつつ、自分の荷物からペットボトルを取り出す。

「可可さん、お疲れ様です」

「レンレン、おつかれデス!」

 そっと隣に来たのは、恋だった。そのいかにもお淑やかな女性らしい長い髪は、まだ日差しが残ってきらきらして見えた。

「可可さん、今日の柔軟すごく良かったですね、前よりずっと柔らかくなってます」

 恋は朗らかに笑ってそう言った。可可は、なんでこんなやさしい人と敵対してたんだっけ、と思いつつ、それがもうずっと前のことであることを思って、やっぱりにっこり笑う。

「ありがとデス! レンレンもダンスすっごかったデスよ」

 可可が言うと、恋は嬉しそうにまた笑った。

 それから二人は日陰で一緒に休んだ。可可はオレンジジュースを飲みながら、恋は水筒でお茶を飲みながら、言葉少なに、地面にへたり込んでいる方が暑いし熱いと気づいた一年生が順番に起き上がるのを、ぼんやり見ていた。その横顔がなんだかひどく切なそうだった。

「レンレン、何か……悩み事とか、あるのデスか」

 それで、ふと、口からそんな言葉が漏れた。

「え」

 恋は顔を可可の方に向けて、目を丸くする。可可はでも、続ける言葉が見当たらなくて、黙って前を見ていた。四季がメイに何かを言っていた。メイは赤くなっていて、照れ臭そうに笑う姿に、可可は胸の内でわずかな羨ましさを覚える。可可も、あのくらい素直になれたら。

「……可可さんこそ、なにか、悩み事があるのですか」

 真剣な声にはっとして可可が振り向くと、恋はその唇をきっと引き結んで真面目そのものな顔をしていた。二人は見つめ合っていた。けれど可可は、それがなんだかおかしくて、ぷっと笑ってしまう。

「いいえ、ナニも」

 そう言って立ち上がると、風が吹いて、可可の頬や首筋なんかをやさしく撫でていった。思わぬ涼しさに目を細めて、屋上のフェンス越しに遠くを見つめる。雲一つない青空だ。

 その下で、かのんと千砂都と四季が並んで座っていた。そしてかのんを見下ろすように、すみれが、立っていた。

 なにを話しているのかはなんとなく聞こえた。この隔てるものも何もないそんなに広くない屋上では当然のことだった。

「ねぇ、すみれ……」

 言いかけて、可可は口を噤む。それはかのんが、とびきり真剣な顔ですみれを見ていたから。

「あのさ、すみれちゃん」

 すみれも、千砂都も、四季も、離れていた恋でさえ、かのんを驚いたように見ていた。

 沈黙が風に流れていった。ピリピリした空気だと可可は思った。

「……一緒に自動販売機、行かない?」

 かのんがそう言うと、たちまち空気は弛緩して、かのんの後ろの二人と恋までも、息を吐いた。

「いいわよ、そのくらい」

 すみれはテキパキ準備をする。あ。呼び止めたいのに、声が出ない。なんでだろ。

「なにしてんの、行くんでしょ」

 かのんははっとして立ち上がる。

「ま、待って、いくから」

 かのんはすみれの後を追って、屋上を出ていった。可可はもちろん、恋も千砂都も、そんな二人をじっと見ていた。

 二人がいなくなると、辺りの空気は急に柔らかくなって、息がしやすくなったような気がした。可可はほぅ、と息を吐く。

「可可さん」

「ん? どうかしましたか、レンレン」

 名前を呼ばれたので可可は何気なく振り向く。動揺していることを、悟られないように。

「すみれさんと何かあったのですか……?」

 ばくん、と。

 心臓がひときわ強く鳴ったのは、多分もう少し風があったらその音は聞こえてしまっていただろうな、と可可は思った。そんなはずなくても。

「な、ないデスよ⁉︎ なんで可可があんなグソクムシと何かある訳があるのデスか……」

 可可が言うと、恋はこたえなかったので辺りはまた静かになった。

 その横を、ようやく歩けるようになった一年生三人を四季が率いて扉をくぐっていった。

「甘いものが食べたいっす〜夏美ちゃんいいとこ知ってないんすか〜……」

「そういうのは私の専門じゃありませんの、もっと訊くのに適任な人が、ほら」

「……呼ばれてるよ、メイ」

「……ん? わ、私か⁉︎ そ、そんなの私もあんまり詳しくないぞ……」

「じゃあみんなで竹下通り行かないっすか⁉︎ あそこならなんでもあるっすよ〜!」

 わいわい賑やかな声は遠ざかっていき、やがて扉の向こうで静かになった。千砂都は動かなかった。どこか遠くの、可可たちには見えない場所を見つめているみたいだった。

「レンレン」

 可可は呼んでから、振り返る。恋が「はい」と返事をする。

「ちょっと、先に行っててくれマセンか」

 可可が言うと、恋は一瞬きょとんとしたけれど、向こうにいる千砂都と可可の顔を交互に見ると、すっと納得したような顔になった。

「分かりました……では、また後で」

 そうして可可の横を恋が通り過ぎて、扉が開いて、扉が閉まって、辺りからさっきまであったはずのたくさんの人の気配はほとんど消えた。

 その時、千砂都がそれを目で追っていたみたいに可可には思えた。

「千砂都」

 可可は近づいて声をかける。もしかしたら千砂都は、いま自分と同じ気持ちかもしれない。そう思って。

「可可、ちゃん」

「どうしたのデスか、みんなもう行ってしまいマシタよ」

 可可はでも、それに触れられるだけの勇気を持っていなかった。本当に大切なことには、いつも自ら触れられない。すぐそこまでは来れるのに。

「……ねぇ、可可ちゃん」

 千砂都が俯いたまま口を開く。可可はその綺麗な千砂都の頭の形を見ていた。はい、なんデスか。

「どっか、行こ」

 さぁ、と。

 濡れた風が、千砂都の渇いたはずの声を夏の温度に湿らせていった。

「いいデスよ」

 可可の声も、夏風にさらわれて遠くへなびいていった。

 言うべき相手を互いに失った者の、声が。

 虚しく。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 駅のホームは帰宅する学生や社会人でごった返していた。

 可可たちは一番高い切符を買って、電車に乗った。

 宇都宮に行こう、ということになった。理由は千砂都が「丸い水餃子があるらしくてそれを食べたい」と言ったからだった。

 電車は当たり前だけど混んでいて、座れるところはなかった。可可と千砂都はドアの端の方で固まってじっとしていた。ふとドアに『痴漢注意』と『不審者注意』を促すシール状の貼り紙が目に入って、この表示は日本の電車では大抵どこでも見るな、と可可は思った。

 それから可可と千砂都は二度ほど電車を乗り換えた。電車はいつの間にか東京ではなく、栃木を走っているようだった。

 可可たちは空いていた席に二人並んで腰かけた。窓の外は夕暮れが近いみたいだ。夏の夕暮れはなかなか暮れない。

 それからしばらく何も言わずに可可は千砂都と並んで座ってじっとしていた。

 向かいの窓の向こうに知らない街が流れていった。空ばかり赤いので、景色は丸ごとオレンジジュースの中に溶かし込んだみたいだった。

「千砂都って、どうして丸いものが好きなのデスか」

 ふと、可可は訊いてみた。別に深く気になったわけじゃない。ただ電車の振動と、足もとにこぼれる夕陽と、わずかな沈黙の間を埋めるように、なんとなく訊いていた。そちらは向かずに。

「……丸いものに触ると、落ち着くから、かな」

 周囲にはもちろん人がいたので、絞ったボリュウムで千砂都は言った。当たり障りなく、けどそれ以上もないような、そんな答えだった。

「そう、デスか」

 それからは二人とも何も言わなかった。

 過ぎる街並みが黒い影のように切り取られているのを、ぼんやり見ていた。

 電車はいくつもの駅を越えた。長時間乗っているとたくさん停まるので、なんだか停まってばかりで進んでいないような気がした。

 人は、少なくなったり、逆に増えたりした。でも可可も千砂都も、席は最初の位置から変えなかった。角に行きマスか、なんて、とても言えなかった。

『次は、終点。宇都宮、宇都宮です。お出口は右側。お降りの際は段差にご注意ください』

 やがて電車は二度ほど似たような放送を繰り返してから、安っぽい音を立ててゆっくり停車した。

 炭酸を開けた時みたいな気の抜けた音を立てて扉が開く。すみれの顔が可可の脳裏にちらついた。可可も、飲んでみる?

「行こ」

「はい、デス」

 千砂都が平坦な声でそう言ったので、現実側に引き戻された。

 そのまま二人で電車を降りた。すぐそこの階段を降りて、流行りの広告が立ち並ぶコンコースを抜けて、切符を通して改札を抜けた。

 駅を抜けると、むあっとした空気が肌に絡みついてきた。

 可可は立ち止まって、辺りを見渡す。すぐそこはバスの停留所になっていて、少し遠くでタクシーが列になって並んでいた。

「どこか行く宛はあるんデスか」

 可可が隣の千砂都に訊いた。千砂都は一歩前に出て、その遠くのネオンの広がる街並みを見つめていた。可可はその後ろ姿を、じっと見ていた。もう一度名前を呼んでみたのに、返事はなくて、後ろ姿はかっぽり黒く型取られているようで、可可はむぅ、と自分の唇を尖らせた。

「千砂都、アナタが来たいって言ったのデスよ」

 そう言って、その肩を掴む。ぐい、と引き寄せて、こっちを向かせて。

 息が詰まった。

 煌びやかなネオンを遠くに背負う千砂都は、見たことない絵画みたいに綺麗だった。

 でも息が詰まったのはそれが原因じゃなくて、その両目から、涙がこぼれ落ちていたから。それは頬を伝い、顎まで届かないくらいのところで重力に耐えきれずに一粒ずつ、落ちる。

「…………千砂都」

 可可が名前を呼ぶと、千砂都は曖昧に微笑んだような、そのまま泣いてみたような顔で、そっと微笑んだかもしれなかった。

 夜景がほどほどに綺麗な気がした。可可は、何も言えずにただ千砂都の頬を流れ落ちる涙を見ていた。

「…………ねぇ、可可ちゃん」

 ようやく千砂都が口を開いた時、だからかえって驚いた。可可は、その顔をまっすぐ見つめることと、その声を聞くことしか出来なかった。

 夜景を背中に、千砂都は崩れるように笑う。

「好きな人に好きな人がいる時って、どうすればいいのかなぁ」

 その声は夜に溶けて、闇の一部になって消えていった。でも可可の耳の奥には残って消えてくれなかった。

「…………可可にも、分かんないデス」

 そう言ってしまうと、二人とも何も言わなかったので、辺りは静かだった。遠くで駅のアナウンスが流れているのが聞こえた。いくつかのクラクション。

 立ち止まっても、時間が過ぎていくばかりだった。可可は気づかれないようにすっと息を吸う。勇気を振り絞って、向き直る。

「晩ごはん」

「…………え?」

 夜風が生ぬるく吹きすぎていった。

「晩ごはん、食べに来たんデスよね、ほら、行きマスよ」

 宙ぶらりんだった千砂都の手を取って、可可はそっと歩き出す。

 なるべく顔を見ないように、してあげながら。

 

 コンクリートは踏んでもあまり音がしなかった。だから後ろを千砂都がどんなふうに歩いているのかよく分からなくて、可可は手を握る強さで、速くないか尋ねた。速いならぎゅっと、ちょうどいいならきゅっと。

 きゅっ。

 それからしばらくも行かないうちに、たまたま街中で時計を見かけて、時間を知って可可は慌てた。ご飯を食べて帰るには、あまりにも時間が足りなかったのだ。

 ぎゅっ。

「可可ちゃん」

 ふわり、と解かれる手。千砂都はもう、泣いていなかった。

「そこでご飯、食べよ」

 千砂都のやさしい声が、夜の宇都宮の飲み屋ばかりの通りに紛れて消えて行く前に、可可は頷いて応える。

「はいっ! 行きまショウ!」

 二人でようやく見つけた目的地に滑り込んで、その店内のまた夜風とは違ったむあっとした空気を顔中に浴びながら、可可は思った。

 

 私も、ずっと言う勇気がないんデスよ……

 どうすれば、いいんでしょうか、ねぇ────すみれ

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 駆け込んだ餃子屋さんは空いてたけど美味しくて、二人は食べると目を丸くして、見つめ合って、笑い合った。

 千砂都の言った、丸い水餃子なんてどこにもなくて、結局可可も千砂都も普通の餃子を頼んだ。テーブル席に向かい合って座って、出てきた餃子は想像していたのより一つ一つが巨大で、千砂都は楽しそうに笑っていた。可可もつられて笑った。

 ねぇ。

 なんデスか。

 私たち、こんなふうに喋ったこと、あんまりなかったかもね。

 そうかも、デスね。

 水餃子を食べに来たのなんて、とうの昔に忘れていた。可可は、今が楽しい方が大切じゃないのかな、と思って、細かいことは気にしないでいた。今なんで自分が、こんなお勤め帰りのサラリーマンが来そうな場所にいるのかも。

 餃子は食むと肉汁がじゅわっと滲み出て口内を満たした。その暴力的な旨みを、ほどほどに感じていた。齧った餃子の切れ目からは透明な液体が溢れていた。白いご飯がすごく美味しくて、箸を動かす手が止まらなかった。その端々で、細切れに、会話をした。

 可可ちゃん。

 なんデスか。

 今日、一緒に来てくれてありがとう。すごく楽しかった。

 それは、可可もデスよ。

 …………

 …………

 おいしいね。

 はい、おいしいデス。

 あのね、可可ちゃん、私の、

「私の好きな人、どうすれば振り向いてくれるかな」

 いきなり心臓に針を刺されたみたいだった。可可は喉に詰まらせそうになった餃子と、言いかけた言葉を、コップ一杯の水で流し込む。

 千砂都の目は本気だった。でも乙女の恋愛相談にはこの場はあまりにも不向きだった。天井端の古いテレビから音声ががさがさで何も聞き取れないよく分からないドラマが垂れ流されていた。

「それは…………」

 可可は、ふと、食べ物を食べた後の喜びからか、さっきよりは自分が楽観的にものを捉えているような気がした。人間のそんな単純さに気がついて、可可はぞっとした。今、可可、大丈夫って言おうとしまシタか……?

「……可可ちゃん?」

「なっ、なんでもないデスよ〜、ええっと、その……」

 ふと、目を逸らすと、さっきのテレビの中で男女が見つめ合っていた。安っぽいドラマのそういうシーンらしかった。

「…………」

 可可がそう言ったのは、本当にそう思ったかもしれなかった。あるいはちょっと出来心だったかも。

「キス、してみる……とか」

 可可が言うと、千砂都は目をまんまるにして、そのついでに持っていた箸を落としてしまった。それでも可可の方をじっと見ていた。

 長い時間が経ったような、すぐだったような気がする。

 食べよ。

 そう短く千砂都に言われて、可可ははっとして残りの餃子を食べにかかった。

 ねぇ、可可ちゃん。

 なんデスか。

 また、来ようね。今度は、みんなで。

 …………っ、はい!

 ふふ。

 なんで笑うデスか。

 ううん、なんでもない

 もー、

 二人は喋りながら、手を合わせる。

「……ごちそうさまでした」

 のんびりしている時間もなくて、なんならちょっと急がなきゃ帰れなくなるかもしれない時間で、可可たちは駅まで走り、滑り込みでぎりぎり終電に飛び乗った。

 食べた後に運動したのですごく疲れた。

 結局は食べた餃子は全然丸くなかったしそもそも水餃子でもなかった。でも────

「千砂都」

 来た時みたいに、隣り合わせのあなたに、声をかける。少しうなじが汗ばんでいるのは、暑さのせいか、走ったせいか。

「ん? どうしたの、可可ちゃん」

 その目を見つめて言う。今日はハナマルで、いいんじゃないかな、と思って。

「美味しかったデスね、餃子」

 丸くなかったけど。と付け足すと、千砂都が水餃子でもなかったね、と言って笑った。

 くすくす、と。

 人の少ない車内に押さえた笑い声がこぼれていた。

 向かいの窓に反射する二人の姿は、可可には来る時よりも楽しそうに見えた。

 何かが解決した訳じゃないけど、何かは良くなった気がする。

 可可はそう思うと、安心したのか急に眠くなってきた。

 まどろむ意識の中、寄りかかる体温に揺れる電車がゆりかごみたいで心地よかった。

 そのまま可可は、千砂都の肩に頭を預けて眠りについた。

 千砂都がやさしく頭を撫でてくれていることなんて、可可には知る由もなかった。

 可可が投げ出していた手に、そっと千砂都の手が絡まる。

 それはやさしく。

 きゅっ、と。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 そしてあの日から、一年半が経った。

 季節は似たように一周しただけのはずなのに、この冬が全然前と違うように見えるのは、自分が変わったからだろうか。

 ふぅ。

 可可は息をひとつ吐いて、それが白くぼやけて消えていくのを、ぼんやり眺めていた。手すりに腕を敷いて顔を預けて。

 その先に広がる遠い空の向こうに、これから帰る故郷があるのだった。いくつもの飛行機が、いつでも飛び立てるように羽を広げて待っている。

 帰ってくるのを家族は楽しみにしてくれているらしかった。でも、可可はまだ自分はここでやるべきことがあるような気がしていた。

 しかし現実は非情だった。

 可可が上海に帰ることは、誰にもどうすることも出来なかった。可可がどれだけ嫌だと言っても、他に方法はなかった。もう、時間も限界だった。

 ばいばい、Liella!のみんな。

 可可は心の中で呟いて、すぐ隣に置いていたキャリーバッグを引いて、歩き出す。

 最後に、あの人に、一言だけ挨拶ができたらよかったのにな。可可は思い、わずかに俯く。空港周辺の道独特の、小さな正方形のタイル張りの床。

「クゥクゥッ!」

 だから、びっくりした。

 そんなに強く名前を呼ばれるとは思っていなくて。それも今まさに望んでいた人が、都合よく現れるなんて。

 そっと、振り向く。

「…………なんデスか、すみれ」

 千砂都と一緒に宇都宮まで行ったあの日、可可たちの大切な仲間が一人、事故で亡くなった。あれ以来、そのショックで心に空いた穴を、お互いになんとか埋め合うことで生きていた。……可可は、すっかりすみれ頼りだった気がしマス。可可は、何もしてあげられて、いないのに。

「…………っ」

 すみれは肩で息をしたまま、黙って可可を見ていた。その澄んだ綺麗なエメラルド、もう一度だけ見れて嬉しいな。もう二度と見れないと、そう覚悟して卒業式も抜け出してきたのに。

「可可」

 すみれはようやく整った呼吸の分だけ近づいてくる。ここは二階の通路で、外なので辺りには人がいなくて静かだった。眼下にタクシーが二台、遠くに飛行機がおもちゃみたいにたくさん並んでいる。

「すみれ……こ、こないでっ……」

 可可は後ずさりながら、顔を背ける。触れられたら、なんだか二度と離れられなくなるような気がして、それで話半分に別れてきたのに、どうして追いかけてくるかな。

「可可、私ね……」

 すみれの声がいつになく真剣な色を帯びている。その先に言われることを聞いてしまったら、可可はもう取り返しのつかないことになると思った。

「だめデスッ!」

 今度はすみれが、肩を震わせて立ち止まった。すみれはなんの荷物も持っていなくて、ちょっと薄着だったからか、頬が少し赤らんでいた。

 空が信じたくないくらい青く澄み渡っていた。

「だめなんデス……すみれ……」

 消えてしまいそうな声で可可は言った。悲しみに満ちたその声は辺りに溶けて空気を重くしていった。

 でも、可可にはもう、すみれに何か言わせる気はなかった。言って自分の決意が揺らいでしまうのが怖かったから。その為に、出発予定日も予定時間も言わなかったのに、どうして。

「可可は、今まで散々、家族にワガママを言ってきマシタ……もう、十分楽しかったんデス……だから……だから、もう、いいんデス」

 可可は言いながら、その自分の声が震えていて、つっかえながらでしか喋れないことにはっとする。それで、顔が熱くて、自分が泣いていることに遅れて気がつく。誤魔化すように、必死にすみれに気づかれないように、顔を背けて前を向いた。もう、行かなきゃいけない時間だった。そういうことにしたかった。

「ばいばい……すみれ」

 呟いて、足を一本踏み出した。

 その瞬間だった。

 ぎゅっ、て。

 可可がバランスを崩したのと、わ、って短く声が出たのと、後ろから抱きしめられていると気がついたのはほぼ同時だった。

 世界はいきなり、鮮やかなスローモーションで流れた。見上げた空の雲の隙間に飛行機が飛んでいた。勢いよく手を離したキャリーバッグが地面に倒れて固い音を立てた。

「…………じゃないわよ」

「え?」

 後ろから抱きしめられたまま、耳もとで何かを言われる。可可は、その腕をそっとすり抜けて、振り返る。そして、息が止まった。

 その綺麗な瞳から、ぼろぼろと、涙が溢れていたから。もう、なんて綺麗な涙を流すんデスか、すみれは。

「ばいばい……じゃないわよっ!」

 すみれはほとんど叫ぶみたいに言った。辺りはすみれの声と遠い飛行機のアナウンスしか聞こえなかった。

「なんで勝手に自分で全部決めて、勝手にいなくなろうとしてんのよ……私は、あんたのことがね、ずっと……」

「だめデスっ!」

 今度は可可が叫んだ。すみれはびくっとして言葉を切らす。その先を、言わなかったのは、この時が辛くなるばかりだからなのを、二人とも理解していたはずだったのに。

「だめデスよ、すみれ……可可、もう行かなきゃいけないんデス」

 可可は言うと、横たわっていたキャリーバッグを持ち上げる。

「可可は、もう行きマス……」

 言ったら言うだけ、どんどんここに残りたくなってしまうから、可可は短くそう言った。後は、振り向いて、荷物を引いて、チケットを発券して────

 ふわ。

 一瞬、世界中の重力が消えてしまったのかと思うくらいの、浮遊感があった。また遅れて、気がつく。すみれに、抱きしめられていることに。全身全霊で、あるいは、縋りつくみたいに。

 そのまま世界の時間は止まった。すみれの身体があたたかいのに震えていることに、可可はやっと気づく。

「…………なさない」

「え…………?」

 すみれが何か言ったみたいで、可可は訊き返す。するとすみれは抱きしめる力をひときわ強めた。

「離さないわよ! さぁ離れてみなさい! 動かないったら動かないんだからっ!」

 すみれは可可の胸もとに顔を埋めて、そう言った。すみれの吐く息が透明になって登ってきたのが顔にぶつかってあたたかかった。

「バカですか、すみれは……」

 可可はもう、帰る気なんて無くしていた。でも行く宛もなかった。現実というのは、いつもどんな時も、目の前に高く立ち塞がる。

 そう可可は思ったのに、すみれは言うのだった。

「私と一緒に暮らしましょう、私、これからモデルとして働くつもりだから、可可はファッションコーディネーターになればいいわ、二人で、暮らしましょう」

「それ、は…………」

 夢のような提案だった。そんなことが実現したら、どんなにいいだろう。でも、現実がそこまで甘くないってことくらい、可可は高校生ながらにちゃんと知っていた。だから、首を縦には振れなかった。

「だめデスよ、すみ……」

 れ。までは、言えなかった。

 真下にいたはずのすみれの顔が持ち上がり、視界を埋めたと思った次の瞬間にはだって、もう、されていた。

「んっ…………」

 涙でぐしゃぐしゃの、ファーストキスだった。

 踏み込むのが怖かったのに、だから告白もしなかったのに。こんな、こんなの。

 とても長い時間唇を合わせていた。遅刻してしまいそうになるくらい。離れた時、そうしたくない、と心から思った。ようやく離れた可可は、なんとか声を絞り出す。

「ずるいデス……こんなの、帰れないじゃ、ないデスか……」

「帰さないって、言ってんのよ」

 すみれは真剣な声でそう言った。可可は、この人となら、なんとかなるかもしれない、と根拠もなく思い始めていた。

「可可」

 涙で滲む世界のすぐそこで、すみれが名前を呼んだ。少しずつピントが合ってきて、どんな顔をしているのかと思ったら────

「好きよ、あなたのことが」

 すみれははにかんで笑っていた。信じられないくらい、やさしく、すみれの頬を伝う涙を宝石のようだと可可は思った。

「ばか……ばかっ!」

「馬鹿はひどいんじゃない……んっ」

 今度は可可が言わせなかった。すみれの身体はところどころ汗ばんでいて、それをとてもとても愛おしいと思った。

 キスをしながら、そっと身体を重ねていた。長い時間、目の前に広がる広大な時間に挑む旅人のように、果てしもなくじっと、ただお互いを感じていた。

 二人の横を、飛行機がひとつ、何気なく飛び立っていった。

 そしてここで可可はずっと悩んでいたことに、決断を下した。青空は信じられないくらいくらい青く澄み渡っていた。

「好きデス……すみれ」

「うん、うんっ……どこにも、行かないで……っ」

「すみれの方こそ、浮気とかするんじゃないデスよ」

「バカねぇ、する訳ないじゃないの……」

 ぽつり、ぽつり、交わす言葉が青空に溶けて。

 可可はぼうとした頭の片隅で、消しちゃったみんなの連絡先、もう一度教えてもらわなきゃ、と思った。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それからの日々は激動だった。

 決まっていたことはと言えば、すみれが本当に芸能プロダクションと契約していたことくらいのもので、日本にいるとは決めたけれど可可はもう家さえ引き払った後だった。

 新居というかすみれが家を借りるまでは、だからすみれの実家に居候させてもらうことになった。

 朝は大抵、卵かけご飯が出た。可可は卵の溶き方や醤油の入れる量なんかは、全部すみれの真似をした。毎晩可可は床に布団を敷いて寝たけど、本当は少し上にあるベッドに潜り込みたくて仕方がなかった。でもこの家が自分の家じゃないから、可可にはそんなことできなかった。

 新居を探すのは、思いの外すんなりいった。女の子同士で暮らすというのが駄目と言われる可能性を考慮して、別にそんなに広い家は必要なかったから、すみれが一人で住みますと言い張り、なるべく家賃の安くてちょっとだけ広い家を探した。すると本当に運良くそれは数件賃貸住宅センターを当たるだけで見つかった。

「……まぁ、このくらいなら、出世払いしちゃおうかしら」

「意味違いマセンか? それ」

 都内のマンションの上の方にたまたま、条件にしてはかなり安い部屋が空いていたので、ほとんど即決でそこに決めた。

 春。

 新居の窓を開けるとやわらかい風が入ってきて、鼻先をくすぐった。

「わぁ、ここが、可可たちの新しいおうち……!」

「もう、はしゃがないの……すぐにもっと綺麗になるわよ」

 とたとたとまだ空っぽな部屋を可可は子犬のように走り回った。すみれは呆れたように後から入ってくる。部屋はリビングとダイニングが一体になっていて、寝室が別にある、一人向けとはとても思えない贅沢な作りだった。もちろんトイレと風呂も別だ。

「すみれ、すみれ」

「なに、可可……っ」

 可可は走り回るのが楽しくなって、そのままの勢いですみれに抱きついた。すみれの口から次の言葉が出る前に。

「ありがとう、すみれ」

 可可は、心から穏やかに微笑んでそう言った。言われたすみれは目をまんまるにさせて可可を見ていた。

「いいったら、いいのよ」

 すみれは言うと、可可の両頬をつかまえる。

 あ。

 気がついた時にはもう、されていた。

 リビングの開けた窓から吹き抜ける風、がらんどうみたいな部屋の隅、互いに感じる唇の熱。

 ゆっくり触れるだけのキスは、何もかもを溶かしてしまいそうだった。

 薄く桜がかるような意識の中、可可は、ただこの人とずっと一緒にいたい、とひたむきに思った。

 その後近所を軽く散歩をした。原宿付近だったから、ウィンドウショッピングをするにもうってつけで、可可はすぐに自分たちの家のことが気に入った。特に、街角のショーケースの中にあるウェディングドレスに、可可は目を奪われた。それは単純な憧れもあったけれど、それだけじゃない。服飾を趣味に持つ人間として、ウェディングドレスというのは学びになる教材だった。

「可可、これ着たいの?」

 すみれが言う。

「ち、違いマスよ」

 可可が言う。

 すぐに水に流されるようにそこを立ち去る。誰からも忘れられていくような一ページだと、可可は思った。こんな日々が積み重なっていくのかな、とも。

 夏。

 すみれは芸能プロダクションから時々、あんまりぱっとしないような内容の仕事をもらってきてはそれに赴くか、そうでなければ近所のコンビニでバイトをして生活していた。

 可可もすみれと同じ場所でバイトをしていた。家が同じで、その家から一番近くて一番時給の高いバイトを探して同じ場所に落ち着くのは、当然と言えば当然だった。可可はすみれと同じ職場というのがすごく嬉しかったのだけれど、いざ仕事が始まってみるとシフトが被ることはまずなかったので、一緒に仕事をするどころか会うことさえほとんどなかった。

 可可は昼のシフトが多くて、すみれは日中は芸能の方の仕事がある日も時々だけれどあったので、夜勤が主になっていた。

 その生活スタイルがほとんど成り行きで────いや、最善を尽くした結果なのだけれど────確立されてしまうと、当然だけれど可可はすみれと会う時間が減った。でも心が離れている訳じゃなかった。むしろ二人で働いたお金で家賃を、光熱費を、Wi-Fi代を、どうしてもお金がなくてすみれの母に借りたマンションの初期費用を少しずつ、払っているとなんだか言いようもない信頼感のようなものが湧いてくるのを可可は感じた。

 一緒に暮らす家にお互いがいる気配は何にも変え難いと可可は思った。

 二人は贅沢もあまりしなかったし全部のものを半分にできたから、お金にはそんなに困らなかった。すみれが出たファッション誌のお金が、一ヶ月後の月末に振り込まれたりなんかして、その日はちょっとだけ美味しいものを食べた。

 だから、必然的に土日が大切になっていった。

 二人で過ごす時間。すみれが夜勤から帰ってきて、明け方のもうちょっと明るくなってきた頃にシャワーを浴びる音が寝室から聞こえる。可可は寝室でまどろんでいる。

 ベッドはセミダブルの、たまたま特価で売っていた一点限りのアンティークフレームのベッドだった。可可は頭の上に広がった、そのクジャクの羽のように広い木の模様に手で触れる。

「これにしまショウ」

「え」

 可可が言うと、すみれは思ってもなかったという顔をしてこちらを見た。白く明るいインテリアショップの、家具売り場の端で、安くなっているそれを見ていた。

「でも、これ、二つも置けないわよ」

 すみれが言った。可可は眉を下げて苦笑する。この人は鋭いのか鈍感なのかよく分からない、と思って。

「……一緒に寝ないの、デスか」

 可可はそっぽを向きながら言った。すみれがどんな顔をしているのかは分からなかった。

「……可可」

 呼ばれるままに、振り向いた。それはその声があんまりにやさしかったから。だからそこまで辿り着くまでは滑らかで、一瞬より短いようだった。

「んっ……」

 触れるだけのキスだった。声ひとつ漏らせなくて、離れていくまでひとつみたいだった。

「……誰かに見られてたら、スキャンダルになりマスよ」

 可可が言うと、すみれはそうね、と短く言ってから何も分かっていなさそうに笑った。

「嬉しかったの、可可が、そう思ってくれてることが」

 すみれの言葉はいつも素直すぎるくらいで、それは愚直すぎるくらいいっそ不器用で、この人の魅力だな、と可可は思っていた。喧嘩ばかりしていた、あの頃から、ううん本当は、初めて出逢った時から、ずっと。

 がちゃり。

 つめたく静かな寝室に扉を開く音が響く。遮光カーテンは朝でも部屋を夜にしてしまう。小鳥の囀りが聞こえるのがへんだった。可可は目を閉じて、寝たふりをしてじっとしていた。

「可可」

 空いていた────空けていたんデスが────隣の一人分のスペースに滑り込んでくる、お風呂上がりであたたかい体温。触れられてもいないのにその脚や手が細くしなやかなことが分かった。

「……ただいま」

 背中越しの声を、今すぐ起きて抱きしめようと可可は思った。でもせずに……ううん、できなかった。すみれのその両手で、そっと閉じ込められていたから。

 そうして、可可たちの休みはいつもその言葉から始まる。心の中で呟いて、まどろみのさ中へと落ちていく。

 おかえり、ただいま、おやすみなさい。

 すみれの吐息が首を濡らすので、可可は安心して意識を、手放した。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 秋。

 紅葉って意外と都会でもあるものだ。代々木公園にでも行けば一面の紅色を楽しむことができるし、そうしなくても街中にある木々は結構どれも真っ赤に色づいている。

 生活は滞りなく、水が流れるように変わらなく、でも確実に流れていった。

「最近、寒くなったわね」

 隣ですみれが言う。今日はたまたま二人の休日が平日だけれど被ったので、散歩に出ていた。

「そうデスね」

 可可は、でも、やりたいことがあったので、あまり落ち着かなかった。それは実はずっと前から考えていたことで、いつすみれに言うべきか、悩んでいた。

 歩道は二人並んで歩くと横を抜けれなくなってしまうので、すみれは時々後ろを見たりして、自転車なんかが来たら可可を庇うようにそっと端に寄ってくれた。

 可可は、そんな些細なやさしさが、これ以上ないくらい心の奥まで染み渡った。歩く、歩く。

「すみれ」

「ん、なによ」

 歩きながら口を開く。空は秋の高さをしている。クラクションの音がなぜか心地いいと思った。

「ワタシ、来年から服飾の専門学校に行こうと思いマス」

 可可が言うと、すみれは驚いたように立ち止まり、振り向く。

 風。風が吹いていた。二人の間を風が時間そのもののように流れていく。

「すみれがすごく有名になったら、可可と一緒に働きマセンか」

 すみれがモデルで、可可がデザイナー、デス。

 可可はそう言い加えて、じっとすみれを見つめた。すみれも可可を見ていた。うすく開いた唇が紅葉みたいかもしれなかった。

「可可」

 名前を呼ばれたのと、ふわって制汗剤ともつかない涼しい匂いがしたのと、抱きしめられたのは、どれから起きたかよく、分からなかった。

「なんで、そんな、嬉しいこと言うのよっ……」

 すみれの声は泣いていた。二人とも手ぶらで、だからお互いがお互いを抱くには十分だった。寒い街の片隅。

「私ね、可可の作る服も、それで表現したいことも、大好きなのよ」

 昔から、ずっと。

 そう言って、すみれは可可を抱きしめる力を少し強めた。すみれの方が背が高いから、可可はすみれの肩に顔を埋めるような格好になった。

「すみれ……あの」

「うん、なに」

 空高いところに月が薄く、のぼっていた。

「私、すみれの専属ファッションコーディネーターになりたいデス……ラブライブに挑んだ時みたいに、今度は、二人で」

 可可の口から出る言葉は、全て言葉以上の熱を孕んでいて、二人の間のつめたい空気を満たしていった。

 抱き合っていた手がどちらともなく、するするとほどかれてそのうち見つめ合っていた。道の脇にいて、そうしていたから道ゆく人は誰もが二人をちらりと見た。

「ねぇ、そんなに幸せでいいの、私」

 すみれの、その声が濡れていた。言いようもなく、とめどなく溢れるものを堪えるように。

「はい、だって、すみれがいなかったら、いま可可はここにはいませんから」

 可可は、やわらかく、語りかけるみたいに喋った。自分のその声も震えていることには、言ってから気がついた。

「じゃあ、あのマンションが、今日から私たちの個人プロダクションね」

「…………っ⁉︎」

「私、お金貯めるわ。可可と二人で会社ができるくらい、大きくなってやるから」

 ね。

 秋のそんなに広くない、歩道の片隅だった。

 可可は頷こうとして、でもできなかった。

 んっ。

 それはキスというより、ただひたすらにあたたかくてやさしい何かだった。

 風以外全部、ひどくぬるくてとくとくいってる気がした。

 可可はゆっくり、目を閉じた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 冬。

 可可は来年度から服飾の専門学校に行くために勉強をしていた。通える距離に大学自体はあったものの、入学金は高く、とても払える額ではなかった。だから奨学金について調べまくった結果、まだ通る見込みがありそうなものに応募して、後はひたすら祈りながら勉強をしていた。同時に、すみれと芸能活動をするためには何をするべきかも。

 すみれは自分の所属するプロダクションで徐々に実力をつけていて、仕事も少しずつだが増えてきていた。最近は特に読者モデルの仕事で人気を博していた。

 二人はそれぞれの理由でコンビニバイトから手を引いた。店長から二人とも気に入られていたので週二でもいいから入ってくれないかと言われたが、二人の決心は固かった。

「今年はなんか、色々あったわね」

 向かい合わせに座った小さなダイニングテーブルに肘を置いて、すみれが言った。

「そうデス、ね」

 下を見ると、夕飯を食べ終わった後のコーヒーに自分の顔が映っていた。

「上手くいくわよ、何もかも」

 言われてはっとして顔を上げる。頬に手を置いてにまっと笑うその言葉には、へんな説得力があって可可は訳もなく安心してしまいそうになる。まだ専門学校に行けてもないのに。まだそんな有名モデルでもないのに。

 苦しい日々の中で、それでもだんだんと培われていく感情が、何と呼ばれているのかを、可可は少しずつ知ってきた。

 雪の一度も降らない、寒いだけの冬だった。

 可可は胸があたたかくて仕方なかった。

 口の中でそっと、その言葉を繰り返していた。

 上手くいくわよ、何もかも。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それからも物事はすごいスピードで、かつ二度と戻れない道を転がり落ちていった。

 可可はすみれにただただしがみついていたような気がした。あの日、空港で引き止められてしまってから、心の在り方はただ、ここだった。

 春が過ぎ、夏が過ぎた。

 可可とすみれは、いつか作る自分たちのプロダクションの、その本社であるマンションの七階の一室を『Tiny Galaxy』と呼ぶことにした。可可もすみれも、それを大いに気に入った。

 いいわね、私たちらしくて。

 ふふ、デショウ。

 うん。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 そして季節はどんどん過ぎていった。すみれは忖度も謙遜も使いこなして、ますます仕事を獲得していった。今や女性向けファッション誌で専用のコーナーを作られるくらいには大成していた。

 可可は専門学校に通いながら、家でもできる限りの勉強をした。個人経営事業主のサイトを見て回ったり、確定申告なんかのお金に関することも勉強した。可可は大学を卒業したら本気で''小さな銀河''を建てるつもりでいた。

 そんなある日。

 しゅぽ、という間抜けな音が、置き去りにしていたリビングのテーブルの上で鳴った。

「ん……っしょ」

 その時、ソファで濡れた髪をタオルで押さえていた可可は、身体を折り曲げてそれを手に取る。湯上がりでは反応しない指紋認証を早々に諦めて四桁のパスワードを入れる。

 開いたメッセージを見て、可可は一瞬固まる。

 ふぅ。

 小さくため息をついて、そのグループ名を見つめて、それからスマホの画面を落とす。

(もう、そんなに季節は過ぎたんデスね)

『Liella!同窓会(9)』

 それはもう今週の土曜日にあるらしかった。二日後か、と可可はスマホのカレンダーを見て思う。

 どうしようもなく一方通行の時間の流れに、抗いきれない無情を感じながら、可可は足もとのラグマットに目を落とす。この家はウォールナットの家具で揃えていたから、それもあたたかいこげ茶色をしていた。

「可可ー、あんた女の子なんだからドライヤーしなさいっていつも言ってるでしょー」

 くぐもった声がして、はっとするとすみれがシャワーから上がったみたいだった。

「い、今するデスよ……」

 すみれの声に誘われるがままに、脱衣所の方に行く。扉の茶色と壁の白色。

 一番奥のそこに入ると、ふわっと甘い匂いが鼻から入ってお腹の底まで染み込んできた。ボディソープやシャンプーだけでは説明のつかない、すみれの甘ったるい匂い。

「ほら、早くしなさい、髪痛めるわよ」

 すみれは可可とお揃いのネグリジェを着ていて、湯上がりだから頬が(ほて)っていた。可可は何年経っても見慣れないすみれのその姿から必死に目を引き剥がして、ドライヤーを洗面台の下から取り出して、洗面台に備え付けられたコンセントに差した。

「ねぇ、可可」

「……ん? なんデスか」

 可可はもう握りしめていたドライヤーのスイッチをオンにしてしまう。

「────」

 何も聞こえなかった。

「今言っても分かんないデスよ」

「──────」

 すみれの口の動きだけ、可可は追いかけたりしていた。

「すみれ、待ってくだサイ」

「────────」

 カチッ

 音が最後にして、脱衣所は最初の頃の静けさを取り戻す。

「……すみれの髪も、乾かしてあげマス」

「えっ」

 そこに投げかけた可可の言葉に、すみれは驚いたようだった。毎日同じベッドで寝ているくせに、ちょっと触れるだけで毎回新鮮な反応をするすみれが可可には愛しかった。

「ほーら、後ろ向くデス」

 二人もいると狭い脱衣所で可可は言うと、逃げ場のないすみれをひっくり返した。

「ねぇ、可可、あのね────」

 カチッ

「────────」

(そんな真剣な声で話すのは、今はだめデスよ)

 可可はすみれの長くて美しい、糸のような金髪を乾かしながら思う。

 すみれはいつもふいに可可にとって堪らなくなるようなことを言って、身も心もとろとろに溶かしてしまうのだった。特にこういう日常の些細な瞬間に。

 ずっとこの髪に触れていたい、と思った。可可は自分の髪を乾かすのは好きじゃないけど、すみれの髪を乾かしてあげるのは大好きだった。なんだか本当に心からの愛情表現みたいな気がして。

 カチッ

 長い時間の後、可可の丁寧な手櫛によって、すみれの髪はほどよくふんわりと熱を帯びていた。

「……いいデスよ」

 可可がそう言うと、すみれはゆっくり振り返った。いつまで経っても、間近ですみれを見ると胸がきゅっ、と締め付けられるの、どうにかならないデスかね、と可可は密かに思う。

「行きましょ、今日はせっかくのお休みなんですもの……まだまだ寝かさないわよ」

「ぷっ……すみれ、それ言いたかっただけじゃナイですか」

「ふふ、いいじゃない、別に」

 ドライヤーを元の場所にしまう。

「……今日はせっかくの、すみれのお誕生日デスから……ね」

 見上げたすみれがほころんで、その瞳が、やさしく細められた。

 それでなんだか奇跡みたいな気持ちになって、お互い見つめ合っていた。

 ちっぽけな宇宙の隅っこの、あたたかいだけの脱衣所で。

 

 リビングに戻ると、すみれは台所から冷やしていたそれらをテーブルの上に並べていった。

「…………結構買いマシタね」

 可可が感嘆ともなんともつかない声を漏らした。そのテーブルの上には、近くのコンビニである限りの、ぱっと見美味しそうだと二人で思った多種多様なお酒が並べられていた。

「今日から解禁なのよ、なんとか……ヌヴォーとかも、飲まなきゃ損じゃない?」

「ボジョレーヌーボー、のことデスか……? なんかすみれのイントネーション違わないデスか」

「うっ……⁉︎ い、いいったらいいのよ、そんなよく分からないもののことは……っ」

 あ、逃げた。

 これはほんとに知らないやつデス、と可可は思って、話題を逸らしてあげようとする。いつまで経っても変なところ知ったかぶりする癖も変わらない。

 可可は適当にテーブルの上の缶を一つ手に取って、すみれに差し出した。

「すみれはこれでも飲んでやがれ、デス」

「な、なんですって〜」

 言われたすみれは唇を尖らせていた。

 ほら、こうすればもう可可たちは違うこと考えてるデショウ?

「いいから、ほら」

 すみれの手にそれを掴ませる。ほろよいのグレフルソルティ味。

「すみれの初めてのお酒デスよ……ふふ」

 可可はそう言って、自分ももう一つ適当に手を取る。すみれより大人振りたくて、でもなんとなくお揃いがよくて、手に取った。スミノフアイスのグレープ。

 誕生日だから仕事も学校も休んだ。

 朝はとびきり遅くまで寝た。

 昼はいつも行かない交差点まで散歩をした。

 帰ってきてからケーキも食べた。

 とびきり美味しい手料理を二人で作ったし、滅多につけないテレビで、なんだか安っぽい作りのドラマも見た。

 今日ですみれは二十歳で、やっと可可に追いついた! と息巻いた結果がこのチョイスのまちまちなお酒の山だった。

「うん……ねぇ、可可」

 すみれが急に、真面目な声を出した。あ、さっきみたい。その綺麗な瞳から、逃れることができない。

「大好きよ、今までも……これからも」

 部屋の隅のエアコンの風の音が聞こえていた。

「私、あなたといられて嬉しいわ……ありがと」

 すみれが言い切って、そのまま可可は、呆然としてしまうと思ったのに、でもすみれに合わせて、手に持ったお酒を、開けていた。

「カンパイ」

 すみれが言うので、可可も続く。すみれは缶で、可可は瓶だったので、さっき見たドラマみたいにカンッ、と音は立てなかった。触れるだけ。

 そして二人だけの秘密の女子会が始まった。

 ……そのはずが、可可はそれを数口飲んだだけで、もう言動が怪しかった。

「ふぇ、あ、あれ……すみれが二人いて……アレ?」

 それに気づいたすみれに、可可はお酒をひったくられる。

「ちょ、あんた酔うの早過ぎじゃない……⁉︎ なんかワタシはお酒強いデスみたいな話してたじゃない……⁉︎」

「ふぇ……なんデスかぁ、すみれぇ……」

 可可はほとんど飲んだことがなかったけど、すみれの手前強がって飲めると豪語していた、そのお酒という未知の体験に完全に呑まれていた。目の前がふらふらして、思考がふわふわして、変な感じだった。

「あーもー……こりゃ外では飲ませられないわね……いいわね可可、あんた危ないから外で飲んじゃだめ……んっ」

 すみれの声は途中で途切れる。

 可可が、すみれが喋るのが煩わしくて、その唇を自分の唇でぴったり塞いでいたから。

 いつもはそこ止まりだった。でも、可可はもう熱に浮かされた頭で何も考えられなかった。

「────っ⁉︎」

 すみれの肩が震えたのが分かった。可可は、そのまま、ゆっくりと舌をすみれの中に入れていった。

「んっ……あっ…………」

 可可は自分の口から聞いたことのない甘い声が漏れるのを感じていた。すみれを思いながら、一人でしていた高校生の頃だって、こんな声は出なかったのに。

「ぷはっ……も、くぅ、くぅっ……」

 ようやく呼吸を取り戻したすみれは、まだ手に持っていたほろよいをテーブルに置く。そんなのこぼしちゃえばいいのに、と可可は思った。

「すみ、れ…………」

 可可はぼうとした頭ですみれの熱を、柔さを、水気を思い出していた。多分、今日がそうなるべくしてなる日なのだと可可は思った。

「ねぇ……」

 すみれはもう抵抗しなかった。ただ可可を待っているみたいに、真剣な顔をしていた。

 そして可可はソファの隅にすみれを追い詰めた。その金糸をかき分けて隠された耳朶(みみたぶ)をあらわにする。そこにそっと、顔を近づけて、言った。

「…………シよ」

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 昨日はなんだか記憶がないまま寝てしまったみたいだった。

 朝。遮光カーテンは全てを遮るけど、小鳥の囀りだけは遮れない。窓辺に留まる小鳥たちは、近寄ると飛んでいってしまうので、よく見たことがない。

 それでまどろんでいた意識がだんだんどっちが現実か分かってきた。こっち。

 ようやく目を覚ますと、真上に白い天井が見えた。まだ重たい上体を起こしてみると、近くには誰もいなかった。

 一人には広くてつめたいベッドシーツには当たり前だけど一人分の体温しか残っていない。

 まだ寝ていてもよかったけれど、起き出す。何も着ていないままで、ベッドを抜け出すと空気は肌につめたかった。

 ダイニングの隅の冷蔵庫まで歩いていって、牛乳を取り出して、キッチンに出されたままになっていた昨日のコップに注ぐ。それを飲む。

 はぁ。

 可可は、ため息なのかも分からない盛大な吐息を吐いて、その場でじっとしていた。

「もう、あの、グソクムシ……」

 可可は自分で久しぶりにその名前を呼んだな、と思って、今度は苦笑する。

 昨日、すみれは本当に大切そうにやさしく抱いてくれた。それなのに、翌日には可可が起きる前にいなくなっている。

 はぁ。

 今度は本気でため息を吐く。

 それからパンを一枚焼いてりんごジャムを塗って食べた。これ、かのんが好きだって言いそうだな、と思って、可可はふっと笑う。

 いくら触れ合っても足りなかった。どれだけ身体を重ねても、どれだけ言葉を交わしても、朝には全て消えてしまっているような感じだった。

 食べたものを片付けて、ようやく服を着て、可可はリビングからベランダの窓の外を見渡した。青い空ばかり見える。ここ数年で新宿以外の高い建物はほとんど無くなってしまった。二、三階程度の建物が連なる地域が広く続いていて、ここはまだ、大丈夫だった。

「…………可可の誕生日の翌日くらい、家族サービスしなサイよ」

 呟いた声は、もう七年間も住んでいるマンションの七階の一室に響いて消える。玄関の扉には『Tiny Galaxy』とポップに書かれた表札が飾られていた。

 少しずつ言いたい言葉と言えない言葉が増えていった。

 今日は可可の二十五歳の誕生日。

 その翌日の話だった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 夜になって、可可は星を見ていた。

 空の向こうに広がる銀河を見たくて、思えば自分は都会育ちで星空と呼べるような空をあまり見たことがないことに思い至り、だからこんなに憧れるのかもな、と思った。

 ────家族に連絡、しなくちゃな。

 可可は思って、でも何を言えばいいのかが分からなくて、自分の心がこの空みたいに真っ黒で空っぽに思えて、一瞬、息が止まる。

 ネグリジェのポケットに入れてみたその小さな約束の証は、可可の十数年間の想いそのもののつもりだったけど、いつまで経っても、その人は帰ってきてくれなかった。

 いつからだっただろう。

 可可は息を細く吐いて、考える。

 一体いつから、こんな気持ちになってしまったんだろう。

 細く吐いた息は白い線になって煙のように消えていった。悩みもこんなふうに簡単に消えてくれればいいのに、と可可は思った。

 年々、段々と、仕事は忙しくなっていった。最初は、一緒に仕事をしていた。ファッション販売能力検定の一級も取った。ちゃんと役に立つ能力を身につけたはずなのに、しかしいざ蓋を開けてみるとそんなものはあまり関係がなく、結局は本人がかわいいかどうかが評価されるだけの世界だった。

 すみれは、それを申し訳なさそうにしていて、なるべくタッグでやらせてもらえる仕事を選んでくれているようだった。

 最初は可可にはそれが嬉しかったけど、段々と負担になっていないかが不安になってきた。今やすみれは国民的モデルを飛び越えて、バラエティの世界でも、女優としても第一線を張る、今をときめくスーパースターだった。

 だから、仕方なかった。すみれの仕事を、いつしか玄関で見送るようになっていった。いつの間にか自分は家事ばかりしていて、家計の管理こそすれ、自分が働いた額なんてそのうちの微々たるものなのだった。

 だから、どうにもならなかった。

 可可はため息を吐く。

 あなたみたいな瞳になれたら、あなたみたいな髪になれたら、あなたみたいな口になれたら、一緒に芸能のお仕事とか、できたデショウか。

 可可はそう思ったけれど、でも、それは違うことも知っていて、だからせめて、あなたと同じ言葉が母国語だったら、可可は、もっとあなたに気持ちが伝えられたはずなのに、と思って、またベランダの手すりに頬をくっつけた。

 最近は、それだけじゃなかった。

 すみれは、家にいるときも上の空で、よく観察していればスマホばかり気にしているようだった。

 音は鳴らなかった。ただ上に向いた画面が明るくなって、メッセージが来たことだけを表示するメッセージが表示されていた。

 別に見られたくないことがあるのは、分かっているはずなのに、可可はもやっとしてしまった。ベランダに出て行って扉を閉めて、何やら話し込んでいる様子のすみれ。

 だから、こっそり聞いてやろうと思った。すみれは何年経ってもそういうプライバシーとかを大切にする人だったから、可可は大胆な作戦に出た。

 ある日、ソファの下に隠れてみたのだ。

 ソファは横に長いし、下に空間があって、そこは都合よくレースのカーテンを引いたように隠されていた。しかもそこに隠れれば部屋の全体の音を聞くことができた。耳をそば立てれば寝室も聞こえたかもしれない。

「ただいまぁ」

 すみれが帰ってきて、可可の名前を呼んでいる。でもまだ我慢。ここからじっとして、すみれの電話相手を特定してやるんだから。

「あれ、いないのー、可可ー?」

 その時だった。コロコロいうような着信音が聞こえて、すみれが止まったのが分かった。すぐに声が聞こえてくる。

「もしもし……? あぁ、驚いたわ、昼に電話してくることもあるのね」

 その言い方は、可可にしてくれる時のやさしいそれとも違うようだった。可可は知らないうちに奥歯を噛んでいた。

「……えぇ、えぇ、ありがとう。次会う時までには決めるから、その時でいいかしら」

 次会う、という部分が可可の耳の奥に残って離れてくれなかった。次会う、次会う、次会う……どこで? 誰と?

「合わなかったら、その時考えればいいわよ。そんなに問題じゃないわ」

 なんだか親しげな様子の会話は続いていった。可可は身体を綺麗にソファの下に収めたまま、じっとそれを聞いていた。埃臭かった。

「えぇ、ありがとね……うん、ばいばい」

 すみれはそう言うと、洗面台の方へと歩いていったようだった。可可は急いでソファから抜け出して、なるべく音を立てないようにしながら玄関の扉を大袈裟に開いて、閉じた。いつも通り、

「ただいまー」

 大きい声で、言った。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 日に日にすみれは帰ってくる時間が遅くなった。忙しくなってるのは分かっていた。可可は、縁のなかったテレビを見るようになった。すみれの出る番組は全部録画もしてリアルタイムで観た。

 いつの間にか一緒にいる時間より、画面越しに観る時間の方が長くなっていた。それを仕方ないんだと割り切ろうとする自分と、そんなの嫌だと叫びたくなる自分が毎日、せめぎ合っていた。

 もう限界を迎えそうだった。

 すみれとは、多分恋人なのだとは、思う。

 でも────

 可可は思う。

 でも、私はこのままじゃ、嫌だ、と。

 友達より、恋人より、もっとその先の関係性。確かに、告白もしたし、一緒に住んでるし、そういうこともする。これから先もずっと一緒にいるだろう。だからこそ。

 だからこそ、すみれとは、そうなりたかった。

 可可は、今日夜十時に帰ってくると聞いていたすみれの帰りを待ちながら、そう思い出していた。今まであったことを、とめどなく思い出していた。両手で掬い集めていた甘くて苦いチョコレートみたいな記憶が、夜に溶けて落ちていった。向こうの新宿の方にばかり光が集まっていて、可可はやるせない気持ちになる。

「ただいまー」

 その時、背中のガラス越しにくぐもった声が、聞こえた。可可はびくっとする。

「遅くなったわねー、可可、起きてるー?」

 可可は覚悟を決めて、ベランダから抜け出す。リビングに戻ると、誰かのいてくれるやさしさが、やさしすぎるような気がした。

 すみれは帰ったばかりではないみたいで、荷物なんかは寝室に置いてきたみたいだった。

 おかえりなさい。

 その一言が出てこなかった。ううん、なんの言葉も出てこななかった。すみれは歩いて、距離を詰めてきた。

「…………可可?」

 すみれがこちらを覗き込んでくるのが分かった。可可は少し俯いたままで、何も言えなかった。

 少し、暗闇に静かすぎるような時間が流れた。

「…………すみれは」

「え?」

 見上げたすみれの瞳のエメラルドが暗闇の中浮いていた。

「すみれは、可可のことが、嫌いになったのデスか……?」

 ぽつり、そう言っていた。段々離れていっている気がして怖かった。それは可可たちは、これだけ一緒にいても、最後の一歩を踏み出せないでいたからで。

 また少し暗闇が止まった。息を吐くのも重いような思い出まみれの部屋の中。可可はなぜか、ずっと昔、すみれと一緒にコンビニバイトをしていた頃のことを思い出していた。

「くぅくぅ」

 呼ばれて、はっとする。その顔はよく見えなかったけど、その声だけで、どんな顔をしているのかが分かった。

「こっち来て」

 すみれはゆっくりと背を向けて、二つしかない部屋のもう片方に歩いていく。可可もその後を追った。

 寝室は、当然だけど真っ暗だった。遮光カーテンは夜でさえ怖いくらい真っ暗にしてしまう。

「なんデスか……すみれ」

「見て」

 すみれが可可の後ろで言うのと、部屋の電気がつく音がしたのと、そこにあるものが照らし出されたのは、ほぼ同時だった。

「え…………?」

 白い、ふわふわの、レースに覆われた、フリルのついた、豪奢で上品な、それ。

 それが、白い灯りに照らされて、きらきらひかっていた。

「すみれ、これ……」

 振り向いた可可が言葉を切らす。だって、そこにいたすみれの顔が、とんでもなくやさしかったから。

「衣装作りは……ホントは、可可の仕事なんだけどね」

 腰に手を当てて、息を吐くすみれ。

「え……なんデス……」

 困惑する可可に、すみれは唇の端を吊り上げて、笑った。

「いいから、とっとと着なさい」

 それからすみれは、一人では着れないそれを着るのを、手伝ってくれた。寝室の隅にあるドレッサーの前で、ゆっくり、可可は着ているものを脱いで、下着姿になって、それからすみれにされるがままに、それを着ていった。

 しゅらしゅらと、布と布が擦れる柔らかくてくすぐったい音がしていた。永い、時間。

「はい、いいわよ」

 すみれがそう言って、可可は魔法にかかった。ドレッサーに映り込んだ、お姫様みたいな、自分のその姿。なんだか全部が嘘みたい(フィクション)で、でも本当(ノンフィクション)だった。

「よく似合うわ、可可」

「どうシテ……?」

 座っていた可可は正面の自分達を見つめる。すぐ肩の上にいたすみれ。その目と目が、鏡越しに合う。

「ずっと昔、まだここに引っ越してきたばかりの頃、街角で、憧れみたいに見てたじゃない……だから」

 言いながら、すみれは可可の手を取って、立ち上がらせて、そのまま自分の前に踊りにでも誘うみたいに連れ出す。

 やさしすぎる、その全て。

 すみれの瞳、髪、口、その言葉。

「可可、私と結婚してください」

 胸がぎゅっとしたのか、きゅってしたのかも、分からなかった。可可はただ溢れ出す想いを堰き止めるのに必死で、なんとか呼吸を整えていた。

「…………すみれ」

 可可が言うと、すみれはぎょっとしたように顔をわずかに引いた。可可の返事が肯定でも否定でもないことに面食らったのだろう。

 でも、可可の返事は最初から決まっていた。それを言うのに、助走が必要なだけだった。この長い長い十年という助走。

「…………よろこんで」

 ようやく可可は、そう言った。見上げたすみれは、その唇を薄く開いていた。そしていきなり、自分の腕で目もとを覆った。

「…………あぁ、よかったぁ……」

 その声は、聞き間違えることもなく涙に濡れていた。心から嬉しいのが伝わってくるような声で、可可は、最近のが全部すれ違いだったと知って胸があたたかくなった。もう、躊躇う理由はどこにもなかった。

「すみれ」

 可可は言うと、すみれの手を取った。すみれの手。何度触れたかも分からないその細くしなやかな指さき。

「すみれは笑顔が似合いマス……だから」

 そして可可はずっと隠していたそれを、はめる。

 可可が手を離したすみれの左の薬指。銀色のリングが銀河より尊く光っていた。

「泣かないでくだサイ……ね」

 可可は言いながら、自分の視界を滲んでいることに気づく。あれ、おかしいな。あれ。

「あんたも、泣いてるじゃない……っ」

「し、知りマセン……すみれの勘違い……んっ」

 最後まで言う前に、言葉は途切れた。

 背中と頭じゅうを抱き留められるように、そっと腕を回されていた。そして、すみれとはもう、呼吸する隙間もなかった。

(あ…………)

 可可は、初めてキスした時のことを、思い出していた。あの時くらい、涙の味がして、これも一生忘れないだろうと思った。

 そのまま、いつまでもそうしていた。愛おしさがそれ以上の感情になって身体を焦がしてしまうことを、なんと言えばいいのか可可には分からなかった。

 でも今はどうでもよかった。

 言葉はいらなくて、だから人は傍にいたりそれ故にすれ違ったりすることを、何十年も生きてようやく少しだけ知った気がした。

 日々の苦悩と悲しみと、喜びの隙間。

 果てしもないほどキスだけしていたかった。

 果てしもないほど、果てしも、ないほど。

「あ」

「うん?」

 ふと、思い出して、可可は口を開く。そういえばまだ今日は、言えてなかったと思って。

「おかえりなさい、すみれ」

 すみれは一瞬驚いたような顔をして、でもすぐにくしゃりとやさしく笑った。

「うん、ただいま、可可」

 夜。唇。ドレス。特価で売っていたアンティークフレームのベッドの傍で、ずっとずっと。

 疲れてシャワーを浴びたら、一緒に寝よう。今日はいつもよりひっついて寝よう。ただ近くにいるのを確かめ合って子供みたいに抱き合いたい。

「ねぇ、すみれ」

「うん」

 何もかも閉じ込めた寝室に声が響く。

「これからも、二人で生きていこうね」

「…………うん、当たり前、でしょ」

 それから取り留めもない世界の話とかいつまでもしていて、可可は意識がぼやけてきた。

 あたたかさに包まれて、可可はゆっくり意識を手放した。

 すみれ、ねぇ、すみれ。

 なによ、もう。

 夜だった。真っ黒な、星なんて見えない暗い夜。

 可可はここにある私たちの小さな銀河を抱えて生きていこうと思った。

 その日最後に流れ星を聞いた。それは忘れられないくらい、ごくありふれた、奇跡だった。

 

 

 

 ────おやすみなさい

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「ほら、すみれ、起きるデス、朝ごはんデスよ」

「え〜休みなのよ、もうちょっと寝るわ……」

「もうお昼デス! ほらせっかく用意したご飯なんだから食べてくだサイ」

「んん……ねむ……」

「……本当に家だとグソクムシみたいなんデスから」

 今朝はまぶしい白い光が窓からいっぱいに入ってきて、美しい気配だった。すみれの白い手脚がそれに照らされて綺麗だった。

 ようやく起きてきたすみれと遅めの朝ごはんを食べた。卵かけご飯を準備してあげるのが、結局どんな凝ったものを作るより喜ぶので、可可は張り合いのなさを感じていたが、喜んでくれるならなんでもよかった。

「あ、そういえば」

「なによ」

 ふと可可が思い出したように口を開く。

「最近誰かと楽しそうに電話してマシタけど、相手は誰デスか?」

 言われたすみれはきょとんとした。あ、頬にご飯粒ついてる。取ってあげたいな、と可可は思った。

「なんで可可がそんなこと知ってるのよ?」

「そ、それは……」

 すみれの言うことはもっともで、実は隠れて聞いてました、なんて可可には言えるはずもなかった。言い淀んでいると、すみれはそんな可可を見てふっと笑った。

「恋よ」

「え」

 可可は思いもよらない懐かしい名前に、思わず声が漏れる。

「ほら、ウェディングドレス選びとか、プロポーズの相談とか、色々ね、相手になってもらってたのよ」

「…………」

 可可はぽかんとしてそれを聞いていた。

「……でもなんで可可が知ってるの? 私、隠してたつもりだったんだけど……」

「え、えと、それは……」

 その時だった。

 テーブルにうつ伏せで置いていたすみれのスマホが、突然カラコロ鳴り始めた。会話はそこで一旦途切れて、すみれはそれを手に取ると画面を見てふっとほころんだ。

「噂をすれば恋だわ、せっかくだし可可も喋る?」

 すみれが楽しそうに言うので、可可もぱあっと笑顔になって頷いた。すみれが画面を何度かタップして、テーブルの真ん中にスマホを仰向けに置く。

『……もしもし、すみれさん』

「レンレン〜! お久しぶりデス〜! 元気でしたか?」

 可可が喋ると、電話の向こうでくっと息の詰まるような沈黙があった。可可たちは首を傾げる。

『可可さんも一緒なら、話が早いです』

「話? 話って、何よ」

 今度はすみれが言う。恋は再会を喜ぶような素振りも見せずに、また少し沈黙から、決意したように言う。

『……驚かないで、聞いてくださいね』

 その時はまだ、可可たちは何も知らなかった。平穏な遅い朝。白い光と卵かけご飯。人生は自分たちの想像を遥かに上回ることばかりで、まだ物語は始まってすらいないことに、そうして可可たちは、愕然とすることになる。

 

『四季さんが、タイムマシンでメイさんを救う計画を立てています。協力して、頂けないでしょうか』

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