どうして、こんなことになってしまったんでしょうか……。
朝のホームルームが終わってからというもの、私の頭の中はずっとパニック状態でした。
「先生、本当はどこまで進んでるんですか!?」
「結婚式の予定は!?」
なんて、目を血走らせた女子生徒たちに囲まれて、壁際に追いつめられた時の恐怖といったらありません。ただでさえ、彼の部屋が『幻想体』のせいで全焼してしまって、学園が用意した特別防護室で同室になっているだけでも心臓に悪いというのに。昨日の夜、酔い潰れた私が彼に抱きついてしまったなんて……穴があったら入りたい、いや、もういっそISのハイパーセンサーのノイズにでも紛れて消えてしまいたい気分でした。
女子生徒たちの追及から私を救ってくれたのは、彼と、千冬さんでした。
彼が冷静に提示してくれた録音データと、千冬さんの鶴の一声。それだけで暴動のような騒ぎはピタリと収まったのです。彼がL社という過酷な職場で培った『危機対応能力』に助けられたのは事実ですが、私が本当にパニックになったのは、その後の千冬さんの言葉でした。
『なんだ、山田。あいつとなら、案外お似合いだと思うぞ?』
『私の愚弟と違って、気遣いもできる。……お前のその面倒くさい性格を受け止めるには、あれくらい図太い男が似合いだと思うぞ』
お似合い。面倒くさい性格を受け止めてくれる。
千冬さんのその言葉が、一日中、私の頭の中をぐるぐると回っていました。
……そんなわけないじゃないですか。私は彼より年上で、一応『先生』と呼ばれる立場で。でも、ドジで、頼りなくて、ISのデータ分析くらいしか取り柄がなくて。
それに引き換え、彼はどうでしょう。L社という、命の保証すらない恐ろしい場所で、あの『魔法少女』のようなE.G.Oを着てでも必死に戦って。あんなに大人びていて、優しくて、芯が強くて……。私なんかが、彼に釣り合うわけがないんです。
そう思えば思うほど、自分の不甲斐なさに泣きたくなって、放課後、防護室に帰って彼に愚痴をこぼしてしまいました。また馬鹿な大人が泣き言を言っていると、呆れられるかもしれない。そう覚悟していたのに。
『山田先生。俺にとっては、先生は十分頼りになる人ですよ』
L社の無機質な専用端末から手を離し、彼は真っ直ぐに私の目を見て、そう言ってくれたのです。
私が酔って抱きついた時にこぼした仕事の不安や愚痴。それを『面倒くさい』と切り捨てるのではなく、毎日一生懸命やっていると、彼は肯定してくれました。彼の厄介な事情に付き合ってくれていることに、感謝していると、真っ直ぐな瞳で伝えてくれました。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられて、顔から火が出るかと思いました。
生徒からそんな風に慰められるなんて、教師として失格かもしれません。でも、彼の言葉は、嘘偽りのない本心だと分かりました。あの過酷な職場で、狂気と死の狭間を生き抜いている彼だからこそ、その優しい言葉には不思議な重みと、そして温かさがあったのです。嬉しくて、恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうでした。
それからの夕食は、もう生きた心地がしませんでした。
彼が作ってくれた美味しいはずのご飯。なのに、口に入れても味がまったく分からないのです。お箸がカチャカチャと鳴る音すら響き渡るような静寂の中で、私はただひたすら、サラダのトマトを小突くことしかできませんでした。チラリと盗み見た彼の横顔も、なんだかいつもより硬くて……もしかして、彼も緊張してくれているのでしょうか。そう思うと、さらに心臓がドクドクと鳴り響きました。
そして、やってきてしまった就寝の時間。
部屋には、否応なしに大きなベッドが一つだけ。
電気を消して、背中合わせでベッドの端と端に寝転がりました。部屋の中は恐ろしいほど静かです。聞こえるのは、毛布が微かに擦れる音と……私の、うるさすぎる心臓の音だけ。彼に聞こえてしまわないか、息を殺して身を縮めていました。
『……あの、山田先生。起きてますか』
『独り言として、聞いてください』
静寂を破る彼の声に、私の肩が大きく跳ねました。
『昨日……あの時、先生に抱きしめられて、実はすごく嬉しかったんです』
『……もし、あのまま俺が抱き返していたら、どうなっていたんでしょうね』
――っ!?
頭の中が、真っ白になりました。
呼吸の仕方を忘れたように、喉がヒュッと鳴りました。
抱き返していたら。
もし、あの強い腕で、私を抱きしめ返してくれていたら……?
その想像をした瞬間、全身の血が沸騰したかのように熱くなりました。布団を握りしめる両手に、ぎゅっと力が入ります。
彼は、私を『先生』としてだけではなく、一人の『女性』として見てくれている……? あの言葉は、そういう意味なのでしょうか。それとも、からかっているだけ? いえ、あんなに真剣な声で、そんな意地悪をする子ではありません。
背中越しに、彼がそこにいるという熱が、確かな質量を持って伝わってきます。
少し寝返りを打てば、手が届いてしまう距離。
もし今、私が振り向いて、昨日のように彼に触れてしまったら?
「……っ、ぁ……」
声にならない熱い吐息がこぼれそうになって、私は慌てて自分の口を両手で塞ぎました。
ダメです。これ以上は、本当に、先生と生徒の一線を越えてしまいます。でも、心臓の音は狂ったように早鐘を打ち続け、身体の芯から甘い痺れのようなものが広がっていくのを止められません。
彼も、何も言ってきません。
でも、私の背中越しに伝わってくる彼の気配も、どこか張り詰めていて、きっと彼自身も自分の発言にひどく動揺しているのだと分かりました。
結局、その夜。
私はギュッと目を閉じたまま、彼の息遣いと、お互いの隠しきれない緊張感の波に翻弄され続け……窓の外がうっすらと白み始めるまで、一睡もすることができませんでした。