エネルギーの底を尽きかけた機体でふらふらと宙を飛び、海岸で待機していたローランさんとアンジェリカさんの元へ降り立つ。
「ふぅ……なんとか、帰ってこれました……」
「お疲れ様、〇〇。見事だったわよ」
「ああ、よくやった。一人であのバケモノを仕留めきるとはな」
機体から降りた俺が幻想体の卵を渡すと、二人は微笑みながら労いの言葉をかけてくれた。
俺は息を整えながら、ふと気になっていたことを尋ねる。
「ありがとうございます。……そういえば、海から来たあの巨大な貝みたいな生物たちは、どうだったんですか?」
「ああ、連中か。あれも予想通り幻想体だったな。アンジェリカが大剣で硬い殻をカチ割って、俺が露出した中身の真珠をぶっ壊したら、動きが止まってそのままボトボト卵になっていったよ」
ローランさんは肩をすくめ、さも「道端の石を蹴飛ばした」くらいの軽いテンションで言ってのけた。
「……え、サイズを、お二人だけで?」
「ええ。そこまで厄介な相手じゃなかったから、案外あっけなかったわね」
クスリと笑うアンジェリカさんと、余裕そのものの顔立ちのローランさん。
大剣で巨大な貝殻を叩き割る光景を想像し、俺は改めてこの『L社最強のフィクサー夫婦』の底知れぬ強さを実感して冷や汗をかいた。
「おーい! 〇〇ー!!」
そこに、白式に牽引された銀の福音と共に、一夏たち代表候補生も合流してきた。
皆、ひどく疲労困憊した顔をしているが、誰一人欠けることなく無事な様子だ。
「みんな、無事だったか。……そっちの『銀の福音』はどうなった?」
「ああ。回収した後、すぐに束さんがざっと解析してくれたんだ。そしたら『機体の中枢までやられかけてるねー。当分修理だね』だってさ」
「そうか……。なら、再起動の心配もないな」
「あーあ、それにしても……」
「「「とにかく、疲れたぁ……」」」
俺たち全員の心の声が見事にハモり、海岸に気の抜けた笑い声が響く。
「お前たち、無事だったようだな」
笑い合っていると、防波堤の方から織斑先生が歩み寄ってきた。
その顔にはいつもの厳しい表情はなく、安堵したような、どこか誇らしげな色が浮かんでいる。
「今回の緊急事態、よく対処してくれた。お前たちの働きは見事だったと褒めておこう。……今日は、もう何も考えずにゆっくり休め」
少し優しげな声音で命じる織斑先生に、俺たちは深く頷いた。
「ありがとうございます、先生。……あ、そうだ。ローランさん、ちょっと俺の背中がどうなってるか見てくれませんか?」
「ん? 背中がどうかしたのか?」
「いや、さっきあいつの熱波を至近距離でモロに背中で受けたんで、ちょっとヒリヒリしてて……」
俺が背中を見せた瞬間だった。
「……っ!? 嘘でしょ……!?」
「おいおい……! お前、これ……!!」
アンジェリカさんが口元を覆って絶句し、ローランさんが血相を変えて声を荒げた。
「えっ……? 俺の背中、どうなってるんですか?」
「どうなってるも何も……防護服を貫通して、背中一面が酷い大火傷になってるじゃないか! なんでこんな状態で平然と喋ってられるんだ!」
「〇〇! 貴様、すぐに救護室送りだ!! 早く来い!」
織斑先生が凄まじい剣幕で俺の腕を引こうとした、その時。
全員の焦った声を聞いたことで、これまで張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。
「え……? 火傷……?」
途端に。
ごっそりと抜け落ちていた痛覚が、大波となって脳髄を殴りつけた。
「あ、ぁ……っ!!」
「〇〇!? おい、しっかりしろ!!」
「〇〇くん!!」
背中が焼け焦げるような激痛。視界が急速にブラックアウトしていく中、一夏やローランさんたちの叫び声が遠のき――俺はそのまま、深い闇へと意識を手放した。
微かに、消毒液の匂いがした。
ゆっくりと重い目蓋を開けると、窓からは柔らかな朝の光が差し込んでいる。どうやら、救護室のベッドでうつ伏せに寝かされているようだ。
背中には分厚い包帯と湿布のようなものが貼られており、じんわりと心地よい冷却感が広がって、痛みは随分と和らいでいる。
「……ん、ここは……」
状況を把握しようと視線を動かした俺は、ハッと息を呑んだ。
「すぅ……すぅ……」
ベッドのすぐ脇。丸椅子に座ったまま、俺の手を両手でギュッと握りしめて、シーツに突っ伏すように眠っている女性がいた。
――山田先生だ。
(わざわざ、ずっと付きっきりで看病してくれてたのか……)
目元にはうっすらとクマがあり、本当に一晩中ここで俺の手を握っていてくれたのだと分かる。
その献身的な優しさと、愛しい寝顔に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
俺は繋がれていない方の手をそっと伸ばし、彼女の柔らかな髪を優しく撫でた。
「……ん……んん……?」
髪を撫でる感触に気付いたのか、山田先生がモゾモゾと身じろぎをして、ゆっくりと顔を上げた。
寝ぼけ眼をこすり、俺とバチリと視線が合う。
「あ……」
「……おはようございます。ただいま戻りました、山田先生」
俺が微笑みながらそう告げると。
山田先生の瞳からポロポロと大粒の涙が溢れ出し、彼女は俺の手を額に押し当てながら、花が咲くような、最高に優しい笑顔を向けてくれた。
「……うんっ。おかえりなさい、〇〇くん……!」
臨海学校3日目。昨日の事件で被害を受けた区域を除き、生徒たちは完全に自由行動を満喫しているはずだった。
しかし、大火傷を負った俺は、一日中救護室のベッドの上で治療と経過観察を受ける羽目になっていた。
関係者以外立ち入り禁止となっている厳戒態勢の救護室。その静寂を破るように、ガチャリと扉が開いた。
「よお、具合はどうだ、患者さん」
「お邪魔するわね、〇〇君」
ひょっこりと顔を出したのは、ローランさんとアンジェリカさんだった。二人は手際よくパイプ椅子を引き寄せると、俺のベッドの周りに腰掛ける。
「ローランさん、アンジェリカさん……。わざわざどうしたんですか?」
「いや、なに。今回の件の報告書をまとめるにあたってな、お前が直接対峙した『あの燃え盛ってた方』のデータが必要になったんだよ。書類仕事はこっちで全部片付けたから、お前は口頭だけでいい。ざっと教えてくれ」
ローランさんの言葉に、俺は記憶を呼び起こしながら、あの蛾のような幻想体の挙動や力場の特徴をかいつまんで説明した。二人は熱心に聞き、アンジェリカさんが小さなタブレットにメモを走らせる。
「……なるほどね。大体分かったわ。助かったわ、〇〇君」
ローランさんが苦笑交じりに肩を叩こうとして、怪我を避けてそっと手を引っ込める。
その背後で、アンジェリカさんがクスリと微笑みながら、少しだけ釘を刺すような声音で言った。
「それとね、〇〇君。どれだけ戦果を挙げようが、命拾いしようが……これ以上、自分の好きな人を悲しませちゃ駄目よ?」
「……っ。はい、気を付けます」
図星を突かれた俺が気まずそうに目を泳がせると、二人は満足そうに頷き、静かに救護室を後にしていった。
――だが、そのやり取りの全てを、ベッドのすぐ傍で聞いていた人物がいた。
「……好きな人、ですか」
しんと静まり返った部屋に、震えるような山田先生の声が響いた。
見上げると、山田先生は両手を固く握りしめ、大粒の涙をポロポロと零しながら、痛ましそうに俺を睨みつけていた。
「せんせ……」
「無茶ばかりして……っ! 昨日の夜、あなたの背中の火傷の治療で、包帯を巻き直したとき……私、見たんです」
山田先生の潤んだ瞳が、悲しみと怒りに揺れていた。
「火傷痕だけじゃない……あなたの身体中には、数え切れないほどの古い切傷や、痛々しい古傷がたくさん残っていた。……昨日だって、一歩間違えれば、あなたは本当に帰ってこられなかったかもしれないんです! 私が……もしあなたがいなくなってしまったら、私はどうすればいいんですか……っ!」
堰を切ったように泣きながら、山田先生は子供のように声を震わせて俺を叱り飛ばした。
胸が締め付けられるような罪悪感に襲われ、俺はベッドの上で申し訳なさそうに身を縮こまらせる。
「ごめんなさい、先生……。心配かけて、本当に……」
「謝ってほしいわけじゃないわ……ただ、自分の身体を、もっと大事にしてください……!」
泣きじゃくる先生の姿を見て、俺は、少しだけ言いづらかった過去の傷について話すことにした。
「……あの傷のいくつかは、L社に来る前……この学園に入学する前のものなんです」
「入学前の……?」
「ええ。俺はISの適性が発覚して、特別に引き抜かれる形で訓練を受けたんですが……その時の教官というか、特訓相手が、『アルガリア』っていうちょっとネジの吹っ飛んだ奴でして……」
苦笑いしながら当時の記憶を辿る。
「訓練っていうか、あんなのはもう『虐待』や『暴行』に近かったですね。いつ殺されてもおかしくないような命のやり取りを毎日やらされて……その時の名残が、今の身体に刻まれているんです」
淡々とそう告げた俺に、山田先生ははっと息を呑み、そして切なそうに目を伏せた。
「……知っています。織斑先生から、少しだけ聞いて……それに、あなたがここに来る前の、あの過酷な訓練の記録映像も、一度だけ見たんです」
「えっ、映像を?」
「はい……。だから、胸が痛かった。あなたは本来なら、こんな危険な場所で命を削るような戦いをする年齢じゃない。……学園の中にいる時だけでも、どうか安心して、何の命のやり取りもない、普通の平和な学生生活を送ってほしかった……!」
先生の絞り出すような、切実な願い。
その言葉の裏にある深い愛情を痛いほど感じ取り、俺は胸が熱くなるのを覚えた。
「……ありがとうございます、先生。その言葉だけで、俺は救われます」
俺はゆっくりと上半身を起こし、痛む背中を堪えながら、まっすぐに彼女を見つめた。
「実は、今回のあの戦闘の最中……絶望的な状況で、俺の脳裏に浮かんだのは、他でもない先生の姿でした。『絶対に、あいつの待つ場所に帰るんだ』っていう意志があったからこそ、あんな化け物相手でも折れずに戦い抜いて、こうして戻ってくることができたんです」
「〇〇くん……」
「だから、昨日……目を覚ましたとき、先生が『おかえりなさい』って迎えてくれたのが、本当に、心の底から嬉しかった。……でも同時に、こんな大火傷を負って、先生にこれほど心配をかけてしまったこと自体が、俺にとってもすごく辛かったんです」
言葉を詰まらせる俺の頭を、山田先生は震える手でそっと包み込むように撫でてくれた。
「……馬鹿ね、本当に……」
「ふふ、そうですね。……でも、こうしてまた、二人でおしゃべりができる時間が戻ってきてくれて、本当に嬉しいです」
俺は痛みを忘れ、ベッドの縁に腰掛けている山田先生を優しく引き寄せ、その身体をそっと抱きしめた。
先生も拒むことなく、俺の背中にそっと腕を回し、安堵の息を零す。
二人は言葉を交わすことなく、ただ温もりを確かめ合うように、ゆっくりと優しく目をつぶった。
夜の救護室。
コンコン、と控えめに扉を叩く音がして、旅館の仲居さんが静かに顔を出した。
「失礼いたします。夜のお食事と、お休みのお支度をお持ちしました」
「あ、すみません。こんな時間までわざわざありがとうございます」
仲居さんが用意してくれたのは、大火傷を負った俺の身体を気遣った消化の良い『海鮮雑炊』だった。
「わぁ、美味しそうですね……〇〇くん、身体を起こせますか?」
「ええ、なんとか。……すごくいい匂いだ」
二人で並んで食べる海鮮雑炊は、魚介の出汁がしっかりと効いていて、疲労と痛みで限界を迎えていた身体の隅々にまでじんわりと温かく染み渡っていった。
「美味しいですね、先生」
「ふふ、本当ですね。いっぱい食べて、早く元気になってくださいね」
食事が終わり、仲居さんが手際よく敷いてくれた布団を見て、俺たちは少し顔を見合わせた。どうやら気を利かせてくれたらしく、二人が並んで一緒に眠れるほどの、とても大きな一枚の布団が敷かれていたからだ。
「あ、あの……仲居さん、すごく気を使ってくれたみたいですね……」
「そ、そうですね。これなら、一緒に寝ても狭くないです……」
消灯し、隣り合って一つの布団に入る。
静かな空間の中、お互いの寝息や衣擦れの音がやけに大きく聞こえた。
暗闇の中、俺は少しだけ早鐘を打つ心臓を落ち着かせ、じっと天井を見つめたまま、勇気を振り絞って口を開いた。
「あの、山田先生」
「はい、なんでしょう?」
「その……夏休みのどこかで、俺と一緒に……二人で過ごしませんか?」
俺の唐突な誘いに、隣で山田先生が小さく息を呑む気配がした。少しの沈黙の後、彼女は嬉しそうな、けれど少しだけ困ったような声で答える。
「……ふふ、良いですよ。でも、私から二つだけ『条件』を出してもいいですか?」
「条件、ですか?」
「はい。一つ目は……私たちはあくまで『教師と生徒』ですからね。表向きは『先生が新学期に必要なものを買うための、荷物持ちのお手伝い』という名目にすること」
「あはは……なるほど、そういうアリバイですね。わかりました」
「そして、二つ目は……」
布団の中で、山田先生がそっと身を寄せてきて、俺の顔を至近距離から優しげな瞳で見つめてきた。
「その痛々しい背中の火傷が、綺麗に、完全に治ってからです。……いいですね?」
「……ふふっ、そうですね。仰る通りです。治るまでは大人しくしてますよ」
俺が苦笑交じりに頷いた、次の瞬間だった。
――チュッ。
唇に、信じられないほど柔らかくて、温かい感触が触れた。
あまりの不意打ちに、俺は目を丸くして固まってしまう。
「え……?」
「あ、う……っ」
見ると、山田先生は暗闇でもはっきりと分かるほど顔を真っ赤にして、恥ずかしさのあまり潤んだ瞳を泳がせていた。
「こ、これは……あの……っ! 無理をしてでも、ちゃんと私のところに帰ってきてくれた……その、ご褒美……です……っ」
消え入りそうなほど恥ずかしそうな声で、それでも一生懸命に想いを伝えてくれる彼女が、たまらなく愛おしかった。
火傷の痛みなど忘れて、俺は少しだけ上半身を起こすと、今度は俺の方から彼女の唇にそっとキスを返した。
「んっ……」
「……これは、俺からのお返しです。ずっと看病してくれたことと、可愛いご褒美をくれたことの」
俺自身も顔が信じられないくらい真っ赤になっているのが分かる。
互いに額を合わせ、真っ赤な顔で見つめ合うと、いつの間にかどちらからともなく自然と笑みが溢れていた。
「ふふっ……〇〇くん、顔が真っ赤です」
「先生こそ、林檎みたいですよ」
「もう……からかわないでください」
クスクスと微笑み合いながら、俺は痛む背中に響かないよう、慎重に彼女の華奢な肩を抱き寄せた。山田先生も、俺の胸にそっと顔を埋め、温かい腕を背中に触れないよう優しく回してくれる。
二人きりの静かな空間。
互いの体温と穏やかな鼓動を感じながら、俺たちは深い安心感に包まれ、寄り添うように静かな眠りへと落ちていくのだった。
翌朝、楽しかった(そして壮絶だった)臨海学校もついに終わりを告げ、生徒たちは帰宅の途につく準備を進めていた。
俺は一応、自力で歩ける程度には回復していたものの、背中の傷の重さゆえに、まだまだ万全とは程遠い状態だった。荷物を抱えてバスへと向かう途中、織斑先生に呼び止められる。
「〇〇。お前は学園に戻っても当分は安静だ。IS学園の医療施設で集中治療を受けてもらう」
「えっ、学園で、ですか?」
「当たり前だ。背中にびっしりと三度熱傷が広がっていた人間を、そのまま外に出せるわけがないだろう。しばらくは外出禁止、しっかり治すことに専念しろ」
真っ当すぎる織斑先生の言葉に、俺は素直に「……はい、仰る通りです」と頷くしかなかった。それほどの重傷を負っていたのだと、改めて冷や汗が出る。
「……それとな。今はもうここにはいないが、束にも感謝しておけよ。あいつの持ち込んだ特殊な応急処置と再生医療キットがなければ、お前は死んでいたか、一生残る重大な後遺症を抱えるところだった」
「篠ノ之博士が……。そうだったんですね。今度お礼を言っておきます」
出発前に、昨日まで共に戦ってくれたローランさんとアンジェリカさんにも挨拶をしようとあたりを見回したが、二人の姿はどこにもなかった。織斑先生に尋ねると、
「あの二人はL社のトレーラーで、明け方にはすでに発ったよ。『若者のジャマをしちゃ悪いからな』と言っていた」
とのことだった。最後まであの二人らしく、颯爽と去っていったみたいだ。
指定された大型バスに乗り込むと、車内はすでに生徒たちの熱気で溢れていた。
ふと最後部の広い座席に目をやると、そこには哀れな生贄の姿があった。
中央に座らされた一夏。その右隣に箒、左隣にセシリア、そして正面の席からラウラが鋭い視線を送っており、まさに完全包囲の陣形が敷かれている。
「〇〇……たすけ……」
「がんばれよ、一夏」
げっそりと痩せこけた顔で助けを求めてくる一夏に、俺はそっと手を振って通り過ぎた。(これもあいつの人生修行だな)と心の中で合掌しながら。
俺は通路を挟んで、織斑先生の隣の席へと腰掛けた。
全員が乗り込み、いざバスが出発しようとしたその時――ドアのステップを上がるヒールの音が響いた。
「あら、ギリギリセーフかしら?」
乗ってきたのは、見覚えのない一人の大人の女性だった。どこか異国情緒を漂わせる美しい容姿に、車内の生徒たちがざわめく。
「あの、どなたですか? ここは生徒用のバスですが……」
進行方向の座席にいた山田先生が立ち上がって尋ねると、その女性は艶やかな笑みを浮かべ、車内を見渡した。
「失礼。ここに、私の『福音』を助けてくれた男の子がいると聞いて、居ても立っても居られずやってきたの」
「えっ……? 『福音』……?」
そのキーワードに反応し、後部座席から一夏がぽかんと手を挙げた。
「あの……俺のこと、ですか?」
女性は一夏を見つけると、しなやかな足取りで一気に距離を詰め、一夏の前に立った。
「そう、あなたね。私はナターシャ・ファイルス。私の愛機をあんな姿から救ってくれて、本当にありがとう……んっ」
「――っ!??!?」
ナターシャさんは挨拶も早々に、身を乗り出すと一夏の両頬を挟み、そのまま彼の唇に濃厚なキスを贈った。
『『『『えぇぇぇぇぇぇえええええっ!?!?』』』』
バスの中が一瞬で爆発的な歓声と悲鳴に包まれた!
「な、ななな、なにお前は突然仕出かしているんだーーーっ!!」
「な、不潔ですわ! 一夏さんのファーストキス(かもしれないもの)をあっさりと奪うなんてー!」
「嫁になにをするか、この女ーーーっ!!」
箒、セシリア、ラウラの三人が一斉に立ち上がり、ナターシャさんを押し退けながら一夏の胸ぐらを掴んで詰問し始める。
「ち、違う! 俺だって今何が起きたのか全然分かってないってば!!」
大混乱に陥る後部座席。そんな喧騒を気にも留めず、ナターシャさんは満足そうに息を吐くと、今度は俺の方へと視線を向け、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「そして……あなたね。うちの機体から幻想体を引き剥がし、最後まで一人で食い止めてくれたのは」
「あ、はい。一応、俺も戦いましたけど……」
「ふふ、勇ましい男の子ね。あなたにも、とびきりのお礼を――」
ナターシャさんが顔を近づけてこようとしたので、俺は即座に両手をかざして制した。
「あ、すみません! 俺にはもう、心から大事に思っている好きな人がいるので! そういうお礼は、謹んで遠慮させていただきます!」
きっぱりと言い切った俺の言葉に、ナターシャさんは一瞬目を丸くしたが、すぐに楽しそうにクスッと笑った。
「あらあら、振られちゃったわね。……ふふっ、それならこのお礼はよした方が良さそうね。とても誠実で、賢い男の子だわ」
彼女はいたずらっぽくウインクすると、「それじゃあね、ヒーローたち」と言い残し、風のようにバスを降りていった。
「……はぁ、騒がしい奴だったな」
織斑先生が呆れたように息を吐き、ようやくバスが静かに発車した。
ふと前方へ視線をやると、座席の隙間から山田先生がこちらを振り返っていた。
俺がナターシャさんのお礼をきっぱり断った一連のやり取りを見ていたのだろう。彼女の顔には、どこか心底ホッとしたような表情が浮かんでいた。
視線が交差すると、俺と山田先生はお互いに「大変でしたね」「困った人ですね」と無言で語り合うように、少し困ったような、けれど愛おしさの混ざった笑みを浮かべ合った。
一方、バスの後ろの方では未だに修羅場が続いていた。
「一夏! 弁明を聞こうか!」
「だから俺は被害者だって言ってるだろー! 〇〇みたいに断る隙なんてなかったんだよ!」
「見苦しい言い訳ですわぞ、一夏さん!」
怒号と悲鳴が飛び交う後部座席の惨状をバックに、俺は隣の織斑先生に向かって苦笑いを漏らした。
「……一夏の周りは、今度はナターシャさんですか。本当に、どこに行っても話題が尽きない人ですね、あいつは」
俺の言葉に、織斑先生は窓の外を眺めながら、深く、重々しく呟いた。
「……まったくだ」
暑くて溶けそうだ