「もうっ…! 最後の最後でサヨナラ負けなんて悔し過ぎますわ!」
球場を後にする淡紫色の髪の少女は、到底収まらない腹立ちに不平を鳴らし続けていた。贔屓の球団である『大阪タケーズ』の応援に来たはいいが、残念なことに勝利を目前にして逆転負けを喫してしまったのだ。
「まぁまぁ、こんな日だってあるし、仕方ないよ」
「そうそう、明日はきっと勝ってくれるって」
あまりの苛立ちっぷりになだめにかかるクラスメイトの二人。彼女たちはあくまで誘われて来た身。淡紫色の髪の少女ほどタケーズに思い入れはないのだが…。
「七回裏の継投が裏目に出たと思いませんこと? それに、ワンアウトを取った後の申告敬遠はどう考えても悪手でしたわ…!」
クラスメイトの慰め程度で鎮まる怒りではない。ただひたすらに、ぶつくさとああだこうだを繰り返す。
辺りを見渡せば、最大六点差を覆した劇的勝利の余韻に浸りながら、大手を振って闊歩する『東京スパローズ』のファンたちばかり。あまりの居心地の悪さに、どうしても口が止まらないのである。
さすがのクラスメイトたちも辟易し始めた…そんな頃合い。人混みの中に、彼女は見知った顔を捉えた。
それは自身のトレーナー。しかも、スパローズのユニフォームを着た…。
友人と二人で観戦しに来ていたのだろう。同じ服装をした年の近そうな男性と、楽しげに語り合っている。内容は言わずもがな、今日の試合のハイライトに違いない。勝利の美酒に酔いしれるその微笑みは、彼女の足を突き動かすのに十分だった。
クラスメイトのことなどほっぽり出し、つかつかと、一直線にその人の下へ歩み寄る少女。
「トレーナーさん、こんなところで奇遇ですわね」
「…あっ!?」
目を点にして立ち止まった彼。その反応から、他人の空似である可能性は消えた。
近くで改めて確認してみても、彼が身にまとっているのは紛れもなくスパローズのユニフォーム。あまつさえ、それはサヨナラの殊勲打を放った神村選手のものだった。さぞやご満悦なのだろうと、少女はわざとらしく明朗に振る舞ってみせた。
「トレーナーさんが野球観戦をされているとは思いも寄りませんでしたわ。スパローズのファンでしたのね」
「えっと、それは…」
交差しない目線、そわそわと落ち着かない両手。しどろもどろな所作は、肯定したのと同義だった。
というより、そもそも否定のしようもない。彼の被る野球帽はファンクラブプラチナ会員の限定仕様であるし、ユニフォームも神村選手が昨シーズンMVPを受賞した際に記念生産されたレア物なのだ。彼が筋金入りのスパローズファンであることは、熟れたいちごを見て赤いと言うのと同じくらい疑いの余地がなかった。
自身がタケーズをこよなく愛するファンだからこそ、彼の入れ込みようはすぐに理解できた。
「この娘、誰?」
不意に、彼の友人が声を上げた。
「お初にお目にかかります。私はトレセン学園に在学しております、メジロマックイーンと申しますわ。トレーナーさんの担当ウマ娘ですの」
胸に手を当てながら、淑やかに一礼する彼女。
「ご覧の通り、タケーズのファンですけれど」
白い生地に黒の縦縞模様が施された野球帽とユニフォーム。わざわざそこまで言及する必要もなかったが。
「メジロって…トゥインクル・シリーズで有名な、あの名門の…?」
「はい、メジロ家の者です。私自身はまだデビュー前の身ですが。ご存知でしたとは光栄ですわ」
彼はトゥインクル・シリーズに造詣が深いのだろう。「マジかよ…」という顔をしながら、担当トレーナーを肘でつついた。
「お前凄い娘担当してるんだな…! どうして教えてくれなかったんだよ」
真横で響く驚嘆の声と、眼前にある不信感をにじませた視線。その二つの板挟みにあい、彼は見るからにどぎまぎしていた。
ふと、メジロマックイーンの耳がくるりと後ろを向いた。
「マックちゃん、急にどうしたの? 知ってる人?」
そう声をかけたのは、ようやく彼女に追いついたクラスメイトたち。
クラスメイトは彼女の担当トレーナーの顔を見たことがなかった。そのこともあって、彼が学園に務めている人間であることにすら気づかなかった。メジロマックイーンがまとう慇懃過ぎる空気が、担当トレーナーに対峙するそれに見えなかったこともあるが。
「何でもありませんわ。ただ"スパローズファンのお知り合い"の顔を見かけたものですから」
トレーナー本人しか自覚できない程度に、当てつけがましく言い放った彼女。
次いで、男性二人組に向かって恭しく頭を下げた。
「突然お声がけしてすみませんでした。それでは、ごきげんよう」
丁寧に言い終えるや、メジロマックイーンはクラスメイトを引き連れて、雑踏の中へと紛れていった。
そんな彼女を、担当トレーナーは苦い表情で見つめることしかできなかった。
◆
一週間ほど前、トラックでのトレーニングでのこと。
柵の外でタブレットに目を通す彼の不意を打ったのは、担当ウマ娘のどこか無邪気な声だった。
「ただいま戻りましたわ。あの、つかぬことをお聞きしますけれど、トレーナーさんは野球観戦に興味はございまして?」
それはあまりにも突然過ぎる…いや、意外過ぎる問いかけだった。すっかりタブレットに意識を奪われていたせいもあるが、思わず返答に窮してしまった。
これは完全に偏見だが、名門メジロ家のお嬢様から、野球観戦の話が飛び出すとは思ってもみなかったのだ。
ただ、彼女にはそれが"野球に興味がないゆえの反応"に見えたのだろう。両手をぽんと合わせながら、得意げに切り出してみせた。
「実は私、こう見えて大のタケーズファンですの。来週の対スパローズ戦のチケットが手に入りましたから、もし良ければトレーナーさんもご一緒いたしませんこと? デイゲームですし、門限も心配ありませんわ」
ふわふわと揺らめく尻尾が、彼女の期待度の高さをありありと示していた。
もちろん、そのチケットはタケーズファンのひしめく三塁側席に違いない。
彼女が野球好きであることに親近感と驚きを覚えたものの、大のスパローズファンからすれば、とても首を縦に振れるものではなかった。
「あのさ、実は俺…」
真実を告げようと喉元まで到達していた言葉が、臆病風に吹かれてすかさずUターンする。
彼女と契約を結んで一ヶ月。お互いに少しずつ打ち解け、わずかながらも信頼関係を築き始めたこのタイミングで、「実は俺、スパローズの大ファンなんだ」などと、わざわざ余計な火種を投じたくなかったのである。
その代わりに、当たり障りのない嘘をついた。
「…あんまり野球には興味ないんだ」
「あら、そうでしたのね。だったらなおのことですわ。騙されたと思って一度お付き合いくださいまし。白熱した攻守に、ファンの熱い声援…球場を覆う迫力と臨場感といったら、トゥインクル・シリーズに勝るとも劣りませんわ」
「そうなんだ。でも土曜日は予定があってさ…」
「まぁ…それでは仕方ありませんわね…」
そこまで言って、ようやく引き下がった彼女。野球観戦にかける熱意は、やはり並大抵ではないようだった。
それに、土曜日に予定があるのは本当だった。その日は友人とスパローズの応援に行くのだから…。
「付き合えなくてごめん。せっかくだし、友達と楽しんでおいで」
「分かりましたわ。トレーナーさんとご一緒するのは、また次の機会にいたしましょう」
にこにこと、純粋な笑顔をこちらへと向ける担当ウマ娘。野球観戦の魅力に気づかせることを、まだまだ諦めていない様子だった。
心の片隅に、じとりと残る罪悪感。今度はどうやって断ればいいだろうかと、早くも悩みの種になりそうだった。
◆
もし、彼女とばったり出会ってしまったら…? そんな不安が全く無かったわけではない。
しかし、当日球場に押しかける観衆は少なく見積もっても二万人。狙って遭遇することさえ困難だ。まさか鉢合わせすることなんてないだろう。
そう高をくくっていたが、本当に目撃されてしまうとは…。
嘘をついた天罰が下ったのだろうか──
試合の翌日。朝から気分は重かった。
昨日送信した謝罪のLANEは当然のごとく既読スルー。やはり直接会ってきちんと謝るしかないようだった。
幸か不幸か、今日の授業は休みで、丸一日トレーニングに当てることになっていた。
「おはよう」
「おはようございます」
いつもの合流地点。
最初に交わした挨拶は、文字に起こしただけでは到底伝えきれないほどに素っ気なかった。
目に見えて分かるツンとした雰囲気。こちらを威嚇するようにぴんと逆立った両耳と、ぴくりとも動かない尻尾。そして、あまりにも無機質な面持ち。
ありとあらゆる部位で不機嫌さを表現していた。
「昨日はごめん…隠すつもりはなかったんだけど、マックイーンがタケーズの大ファンって聞いて、言い出せなくなってさ…」
おずおずと謝罪し、本心を告げる。
彼女は一切目を合わせることなく、氷でできたナイフのような声を鼓膜に突き立てた。
「もし昨日お会いしなかったらと思うと、ゾッとしますわ。私が悔しさに枕を濡らしている間、トレーナーさんはさぞ良い気分で寝床につかれたのでしょうね。そして、何食わぬ顔で今日もトレーニングを始めていたのでしょう? お優しいトレーナーさんのことですから、『昨日の試合は残念だったね』と、気遣う声の一つもかけてくださったに違いありませんわ」
辛辣なフレーバーをたっぷりまぶして、ここぞとばかりに言い募る彼女。
大逆転負けを喫した上に、信頼すべきトレーナーから嘘までつかれていたのだ。その胸中は察するに余りあるものがあった。
それに何より、彼女の言葉が図星過ぎて何も言い返せなかった。
「今日は自主トレーニングにさせていただきますわ」
すげなく言い放つや、彼女はポケットからウマ娘用のワイヤレスイヤホンを取り出し、慣れた手つきで両耳に装着した。まるで、『もうあなたの指図は受けません』と、暗に訴えかけるように。
次いで、そっぽを向きながらしずしずと歩き出した彼女。
声をかけることもできず、かといって、黙って突っ立っているわけにもいかず…ただ、その後を追うことしかできなかった。
彼女はこちらを一瞥もしない代わりに、一言の文句も口にしなかった。
◆
坂路、ジム、トラック…意外なことに、彼女が向かった先々は、この日トレーニングを予定していた場所だった。
そして、誰に言われるでもなく、ただ黙々と目標をこなしてみせた。そう、それは自主トレーニングと言いつつも、トレーナーの指示と寸分違わぬ行動。一切言葉を交わさないという点以外は、普段と何ら変わらないトレーニング風景だった。
それが意味することが分からないほど無粋でもない。あんなことがあったにもかかわらず、彼女はまだこちらを信頼しようとしてくれているのだ──
「マックイーン、あのさ…」
インターバルを経て、再びトラックの中へ向かおうとした彼女を呼び止める。
イヤホンをつけた淡紫色の耳だけが、くるっと半回転した。
「…ちゃんと謝りたい」
最大限の誠実さを込めて彼は伝えた。
一拍の空白。彼女はやおら向き直り、今日初めて担当トレーナーの目を見た。相変わらずのふくれっ面ながらも、その顔には確かに「どうぞ、聞かせてくださいまし」と書いてあった。
「裏切るようなことをしてごめん。もう二度と嘘をつかないって約束する。心許ないかもしれないけど、ちゃんと信頼してもらえるように本気で努力する」
「……」
「それとさ…本当は俺、嬉しかったんだ。マックイーンが俺と同じで野球好きだったなんて。だから、タケーズの試合は絶対一緒に見に行くよ」
そこまで言って、彼の精悍な面持ちは不意に陰りを帯びた。続けざま、申し訳なさそうにこう付け加えて。
「スパローズ戦以外なら…」
画竜点睛を欠くとはこのことだろうか。冴えない表情のまま、彼は不安げに頭をかいた。
毅然とした決意表明からの落差に、メジロマックイーンは思わず笑みをこぼしていた。
「ふふ、そこはせめて建前だけでも、『どんな試合でも一緒に応援するよ』と言うところではなくて?」
くすくすと、手を口元に当てて目を細める彼女。
「ごめん…そう言えたら一番良かったけど…やっぱりどう考えても三塁側は座れそうにない…」
「そうでしょうね…私も一塁側はまっぴらごめんですわ。トレーナーさんには申し訳ありませんけれど、タケーズの敵陣に腰を下ろすなんて、死んでもお断りですもの」
何の憚りも躊躇もなく、彼女は強い口調でばっさりと言い捨てた。しかし、その表情は三女神像のように穏やかだった。
「でも、こうやって本音をぶつけ合うことこそが大切ではありませんの?」
凛とした眼差しを向けて、彼女は諭すように続けた。
「確かに、私は以前トレーナーさんに、私と共にメジロを背負う覚悟…いわば一心同体のような関係になる覚悟を問いましたわ。でも、だからと言って、好きな物から嫌いな物まで合わせる必要なんて無いんですのよ? お互い、どうしても譲れない領域はあるんですもの。大事なのは、それを正直に伝え合い、尊重し合うこと…違いまして?」
年端も行かぬ少女から発せられたとは思えない真理。それはまさに、担当ウマ娘と担当トレーナー、信頼し合うべき二人の理想形だった。
「うん…その通りだ」
驚きと反省、そして尊敬の念をもって彼は頷いた。
そのしかつめらしい返答に、彼女はただ嫣然と微笑んでいた。
「あの時トレーナーさんが本当のことを伏せたのは、私に気を遣った上でのことだったなんて、もちろん分かっておりましてよ? ただ、昨日の試合があまりにひどい逆転負けでしたから、その…今思えば虫の居所がよほど悪かったのでしょうね…少々嫌味ったらしく振る舞ってしまったのは、さすがに大人気なかったとは思いますわ。もし勝敗が逆なら、きっとここまで意固地になっていませんでしたもの…」
今朝の彼女からは想像もつかない、一抹のしおらしさを含ませた柔らかな口調。
ようやく彼女の許しを得た…そう判じて、彼は大きく深呼吸しながらほっと胸を撫で下ろした。
しかし、次の瞬間、メジロマックイーンはきっとした顔つきで担当トレーナーに迫った。
「勘違いしないでくださいまし。私はまだトレーナーさんを許したわけではありませんわ。頭では分かっていても、昨日の負けはあんまりにも悔し過ぎましたもの」
そう告げるや、やにわにイヤホンを取り外した彼女。
次いで、スマホを取り出してその音量を上げた。
徐々に聞こえてきたのは、はきはきとした男性の声。それは紛れもなく野球の実況…現在進行形のスパローズ対タケーズのラジオ中継だった。
『九回裏、ツーアウト一塁。一対〇とタケーズが一点
のリード。タケーズ先発の赤柳は八回までわずか一安打に抑える好投。この回も簡単にアウトを二つ取りましたが、田山が粘ってフォアボールで出塁し、ここで迎えるは昨日サヨナラ打を放った神村。今日の打席はいずれも三振に切って取っています。タケーズベンチに動きはありません。続投です。エースに試合を託します』
試合はいよいよ大詰め。まさに大一番という局面だ。
「タケーズがこの試合に勝ったら、昨日のことは許してあげますわ」
しかし、点差はわずかに一点。勝敗の行方はいまだ、揺蕩っている。
「もし…スパローズが勝ったら?」
「そうですわね。その時は…」
実況と解説のやり取りと、その後ろから漏れ出る静かなざわめき。
ピッチャーは一体何を投じるのか…バッターボックスに立つ打者の心境で待つこの時間は、さながら悠久にも思えた。
刹那、彼女の口から飛び出した提案は、まさに年頃の少女のそれだった。
「今度のお休みの日、いちごスイーツビュッフェに連れていってくださいまし。もちろん、体重管理に支障のない範囲には収めるつもりですけれど…」
はにかむように彼女は言った。少しばかり傾いた両耳を、小動物のようにぴくぴくと動かしながら。
「うん、連れていくって約束するよ。この試合、勝っても負けても」
「まぁ…よろしいんですの?」
「その代わり、食べた分はトレーニングでしっかり…ね」
「ふふ、望むところですわ」
淡紫色の尻尾がぴょこんと跳ね、喜びを表現する。そんな彼女が、いつになくあどけなく見えた。
そして、ついに迎えた勝負の瞬間。
『赤柳が抑えるか、神村が反撃の一打を放つか。第一球を今…投げました!』
ほんの少し…本当にほんの少し。
この時だけは、スパローズファンの歓声ではなく、担当ウマ娘の笑顔を願っていた。