神々よ、ご照覧あれ 道化の再演を   作:しが

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ベルくんprpr

神々の座、円卓の間。

 

天界の如き荘厳さを模したその場所は、三ヶ月に一度、下界の暇を持て余した超越者たちが一堂に会する「神会(デナトゥス)」の会場となっていた。

今回の神会における最大の争点は、明白だった。

それは、オラリオの歴史を塗り替える速度でランクアップを果たした、ある一人の少年の「二つ名」である。

 

「……ええか、お前ら。変な名前つけたら承知せぇへんぞ」

 

【ロキ・ファミリア】主神ロキは、円卓に着くなり周囲を威嚇した。

普段の飄々とした態度はどこへやら、その表情は真剣そのものであり、同時に隠しきれない焦燥が滲んでいる。

無理もない。彼女の眷属となった少年、ベル・クラネル。彼が成し遂げた偉業はあまりにも鮮烈で、そして彼自身のキャラクターがあまりにも「いじりがい」のあるものだったからだ。

 

「あら、怖い怖い。そんなに威嚇しなくても、私たちは『事実』に基づいて命名するだけよ?」

 

「そうじゃ、ロキ。ワシらは公平公正じゃぞ?」

 

クスクスと笑う女神たちや、ニヤニヤと酒をあおる男神たち。その視線のドス黒さ(あるいはピンク色)を察知して、ロキは胃のあたりを押さえた。

 

「さて、それでは始めようか。今回の目玉……【ロキ・ファミリア】所属、ベル・クラネルの二つ名について!」

 

議長役の神が高らかに宣言すると同時に、円卓は喧騒の渦に包まれた。

 

「『世界最速兎(ラビット・レコード)』! これしかねぇだろ!」

 

「いやいや、色気がないよ。あの逃げ足の速さはもっとこう、コミカルさを入れたいね。『脱兎(ダッシュ・バニー)』とか!」

 

「いっそ『白兎(ホワイト・ラビット)』でええやんけ、見たまんまやし」

 

序盤はまだ良かった。

兎、速さ、白髪。ベル・クラネルの視覚的特徴を捉えた、無難あるいは少々揶揄を含んだ案が飛び交う。ロキも「まあ、『白兎』くらいなら妥協点か……?」と眉間の皺をわずかに緩めかけた、その時だった。

空気が、ねっとりと変質した。

 

「はぁ……そんな無粋な名前じゃ、あのカレの魅力は表現できないわぁ……」

 

とろりとした吐息と共に手を挙げたのは、美の女神に連なる一柱の女神だった。彼女は自身の頬を紅潮させ、配布されたベルのステイタス用紙(似顔絵付き)をうっとりと眺めている。

 

「見てよ、この透き通るような白い肌……。男の子とは思えないほどキメが細かくて、触れたらきっと吸い付くような感触なのよ……じゅるり」

 

「わかるわ! あのあどけない顔立ちなのに、時折見せる憂いを帯びた瞳……庇護欲をそそると同時に、無茶苦茶にして泣かせたくなる背徳感があるのよねぇ」

 

女神たちの暴走が始まった。

ベル・クラネルの容姿は、中性的で整っている。それは前世の英雄アルゴノゥト譲りか、あるいは現世の両親譲りか。いずれにせよ、年上の女神たちにとって彼は極上の「獲物」に見えていた。

「『白雪の美少年(スノー・ホワイト)』はどうかしら? 毒林檎を食べさせて眠らせておきたい可愛さだもの」

 

「もっと直接的に『白の愛玩(プリティ・ホワイト)』でいいじゃない。ああ、あの細い首筋に噛みつきたい……」

 

「『桃色吐息(ピンク・ブレス)』! 彼、追い詰められた時の顔が絶品だもの!」

 

「『総受けの白(ボトム・ホワイト)』!!」

 

「お前らァァァァァッ!! ウチの自慢の子になんて名前つけようとしてんねん!! セクハラで訴えるぞボケェッ!!」

 

ロキが円卓を叩いて絶叫した。

しかし女神たちの妄想は止まらない。

 

「あらロキ、あなたこそ独り占めしてズルいじゃない。あんな可愛い子をファミリアの奥に囲っちゃって」

 

「そうよそうよ。せめて二つ名くらい、私たちの愛を注がせてよ。『多感な白濁(センシティブ・ラビット)』なんてどう?」

 

「直球すぎるわ! もっとこう……『女神の寝室(ベッド・イン)』……」

 

「却下や!! 全部却下や!! アホかお前らは!! ここ神会やぞ!? キャバクラの裏話やないんやぞ!!」

 

ロキの額に青筋が浮かぶ。隣では【ヘスティア・ファミリア】の主神ヘスティアが、参加資格ギリギリの末席から「ボクのベル君になんてこと言うんだこの痴女どもー!!」と叫んでいたが、声量の差で揉み消されている。

男神たちも、この女神たちの熱気には若干引いていたが、面白がって便乗し始めた。

 

「じゃあ間をとって『白の女装(クロス・ドレッサー)』とか?」

 

「お、いいな。あいつ絶対女装似合うぞ」

 

「いっそ性別を超越して『美の精霊(エルフ・フェイス)』とかどうだ?」

 

混沌。まさにカオス。

ロキは頭を抱えた。このままでは、ベルの二つ名がオラリオ中に恥を晒すだけの「変態的な何か」になってしまう。あの英雄志願の少年が、二つ名のせいで街を歩けなくなる未来が見える。

 

(頼む……誰か……まともな案を……!)

 

ロキが天(天井)を仰いだその時、静かに、しかしよく通る声が響いた。

 

「——道化、というのはどうだい?」

 

喧騒が一瞬だけ静まった。

発言の主は、旅服の神ヘルメスだった。彼はニヤニヤとした笑みを浮かべつつ、しかしその瞳の奥には確かな知性を光らせていた。

 

「道化(ピエロ)?」

 

「ああ。彼は自らをそう称しているそうだ。『喜劇を演じる道化だ』とね」

 

ヘルメスの言葉に、神々が顔を見合わせる。

確かに、彼が倒したミノタウロス戦の顛末は、あまりにも劇的だった。Lv.1の冒険者が、格上の怪物を単独で撃破する。それも、まるで筋書きがあったかのような鮮烈さで。

 

「それに、彼の戦い方は……どこか懐かしい。古い時代の英雄譚をなぞるような、泥臭く、滑稽で、けれど誰よりも輝く『喜劇』だ」

 

ヘルメスがちらりとロキを見た。

ロキは息を呑む。ヘルメスは知っているのだ。ベルの前世を。彼がかつて『道化』と呼ばれ、人々に笑われながらも英雄たちを繋いだ『始まりの英雄』であることを。

 

「『道化』か……悪くない響きだね」

 

口を開いたのは、それまで沈黙を守っていた美の女神フレイヤだった。

彼女が発言すると、場の空気が一変する。先程まで「prpr」していた女神たちも、美の頂点たる彼女の前では口をつぐんだ。

 

「彼の魂は、無色透明。何者にも染まれる白。けれど、彼は自らの意思で『道化』の仮面を被り、世界を踊らせようとしている……ふふ、素敵だわ」

 

フレイヤの肯定により、流れは決まった。

「変態的な名前」から「意味深な名前」へのシフト。ロキは心の中でガッツポーズをした。だが、単なる『道化』ではインパクトに欠ける。神々は貪欲だ。もっと「厨二心」をくすぐる何かを求めている。

 

「ただの『道化』じゃ芸がないのう」

 

「そうさな。彼が成し遂げたこと……ミノタウロス殺し。あれはまるで、神時代の前の……」

 

「『再演』じゃな」

 

誰かが呟いた。

神時代以前の英雄譚。それを現代のオラリオで、再び演じてみせた少年。

 

「『再演』……ふむ、良い」

 

「『道化の再演』……いや、名詞としてまとめるなら……」

 

神々の悪ノリが、今度は「カッコイイ方向」へと加速していく。

ロキは固唾を飲んで見守った。変な枕詞がつかないか。変な読み仮名がつかないか。

ヘルメスが、まるで指揮者のようにタクトを振るう仕草を見せた。

 

「彼は道化だ。かつて笑われた、始まりの英雄の再来だ。ならば、その名は一つしかないだろう?」

 

ヘルメスが提案した漢字に、神々が頷く。

そして、その「読み方」を指定した瞬間、会場にはドッと沸くような、あるいは感嘆するような、奇妙な熱狂が走った。

それは、神々にとって最大の皮肉であり、最大の賛辞。

かつて「英雄になり損ねた道化」を指す言葉でありながら、今や「英雄の代名詞」ともなった船の名。

議長の神が、羊皮紙にその名を刻み、高らかに宣言する。

 

「決定した!! 【ロキ・ファミリア】所属、ベル・クラネル!!彼の二つ名は、これより——」

 

その文字が、ロキの目に焼き付いた。

『再演道化(アルゴノゥト)』

 

漢字で書けば「再演道化」。

しかし、神々の理(ルビ)によれば、それは「アルゴノゥト」と読まれる。

かつての喜劇。道化の英雄。

それを再び演じる者。

 

(……はっ)

 

ロキは、椅子の背もたれに深く体を預け、長く、長く息を吐いた。

 

「……上等やないか」

 

『白の愛玩』だの『桃色吐息』だのにならなくて本当によかった。

いや、それ以上に。

この名は、彼にとって最も重く、そして最も相応しい「看板」だ。

前世の記憶を持ち、道化を演じると決めた少年。

彼がこの名背負ってオラリオを歩く時、それはもはや隠れようもない「宣戦布告」となるだろう。

「私はここだ」と。「喜劇は続いている」と。

「ほっ……」

安堵と共に、ロキの口元には獰猛な笑みが浮かんでいた。

さあ、帰って伝えてやらねばならない。

お前が望んだ通りの、最高にふざけた、最高にカッコイイ名前がついたぞ、と。

神会は続く。

だが、ロキにとっても、そしておそらく他の多くの神々にとっても、今日一番のハイライトは既に終わっていた。

『再演道化』の誕生。

神々は、その再演を——文字通り、ご照覧あれというわけだ。

 

黄昏の館、その広間は異様な熱気と、ある種の生温かい呆れに包まれていた。

「英雄日誌、追記。『ベル・クラネルは審判の時を待つ囚人の如く、しかしスポットライトを浴びる主演俳優の如く、優雅にその時を待っていた』……ふふっ」

「……兄さん。さっきからポーズを変えながら独り言をブツブツ言うの、止めてもらっていいですか? ティオナさんたちが『面白い生き物を見る目』で見てますよ」

大食堂の長机、その一番目立つ席で頬杖をつき、無駄にキザな角度で天井を仰ぐ白髪の少年――ベル・クラネル。

その背後で、エルフの少女レフィーヤ・ウィリディスがこめかみを抑えていた。

今日は三ヶ月に一度の神会(デナトゥス)。

神々が下界の子供たちに「二つ名」という名のレッテル、あるいは勲章を貼り付ける日だ。

特に今回は、Lv.2への記録的なランクアップを果たしたベルに二つ名がつくことは確定事項。ファミリアの団員たちも、期待半分、面白半分で主神の帰りを待っていた。

「レフィーヤよ、君には分からないのかい? これは『タメ』だ。物語には静寂という名の助走が必要なのだよ」

ベルは髪をかき上げ、道化の如く大仰に肩をすくめる。

その赤い瞳は、不安よりも期待に、いや、これから始まる「喜劇」への渇望に燃えていた。

「どんな不名誉な名でも甘んじて受け入れよう! 『逃げ腰兎』? 『白髪の貧乏くじ』? ハッハッハ! それもまた一興! 笑われることこそ道化の本懐、嘲笑こそが私の喝采だ!」

「メンタルが鋼すぎます……。普通はカッコいい名前がいいって願うものでしょう……」

「カッコいい? ノンノン。私が求むるは『分相応』! 英雄の器にあらずして英雄を志す、この滑稽な我が身に相応しい名であればそれでいい!」

ベルが高笑いしていると、食堂の扉がバンッ!と勢いよく開かれた。

「――たっだいまー!! あー疲れた! もうホンマに疲れたわ!!」

赤髪の主神、ロキの帰還である。

彼女はよろよろと入室すると、出迎えた幹部たちをスルーして、一直線にベルの前の席へと雪崩れ込んだ。

「おかえりなさい、ロキ」

「どうだったー? ベル君の名前!」

ティオナが身を乗り出す。ロキは机に突っ伏したまま、恨めしそうに唸り声を上げた。

「……地獄やったわ。ホンマに地獄やった」

「地獄? 神会がですか?」

フィンが苦笑しながら尋ねると、ロキはガバッと顔を上げ、ベルを指さした。

「こいつや! こいつのせいでウチの精神が削られたんや!! お前なぁ、女神どもにモテすぎやねん!!」

「おや? それはまた光栄な……」

「光栄なことあるかい! 知っとるか? あいつら、お前のそのナヨッとした見た目と、たまに見せる憂い顔だけでご飯三杯いける言うてたんやぞ!?」

ロキは懐から、神会で使われたメモ書き――没案のリストを引っ張り出し、ベルの目の前に叩きつけた。

「ほれ見ぃ! これ最初の候補や!」

ベルが恐る恐るその紙を覗き込む。

そこに書かれていたのは、神聖文字(ヒエログリフ)ですらない、欲望の羅列だった。

『白雪の美少年(スノー・ホワイト)』

『白の愛玩(プリティ・ホワイト)』

『桃色吐息(ピンク・ブレス)』

『総受けの白(ボトム・ホワイト)』

「グホァッ!?」

ベルは喀血したかのような声を上げ、椅子から転げ落ちた。

「な、ななな、なんですかこれはァー!? 英雄譚の欠片もない! ただの背徳的な官能小説のタイトルではないですか!?」

「せやろ!? ウチも必死に止めたんや! 『ウチの子になんて名前つけんねんボケェ!』って叫びすぎて喉枯れたわ!」

「兄さん……『桃色吐息』……ぷっ」

「笑わないでくれレフィーヤ! それは私の尊厳に関わる! いっそ『白兎』でいい! 普通のウサギでいいから!」

ベルが床で悶絶する中、食堂は爆笑の渦に包まれた。ベートなどは腹を抱えてテーブルを叩いている。

ロキはジョッキの酒を一気に煽ると、ふぅ、と息をついた。

「ま、それはあくまで『変態女神どもの戯言』や。安心せぇ」

その言葉に、場の空気が少し締まる。

ロキの雰囲気が変わったからだ。彼女はニヤリと、どこか獰猛で、それでいて満足げな笑みを浮かべた。

「ウチもな、最初はもっとマシな、無難な名前で手打ちにしようと思っとったんや。せやけど……途中で『ある神』が言い出しよったんや」

「ある神?」

「お前をようく知る神や。『あいつは道化や』ってな」

ベルの動きが止まる。

床から這い上がり、衣服を整えながら、彼は真剣な眼差し――ではなく、道化の仮面を被った、あの不敵な笑みをロキに向けた。

「ほう……道化(ピエロ)、と」

「そうや。お前がミノタウロスを倒したあの戦い。あれはただの勝利やない。筋書きのある『喜劇』やと、そう見抜いた奴がおった」

ロキは一枚の羊皮紙を取り出した。

そこには、神々の総意として決定された、ベル・クラネルの二つ名が記されている。

「ええか、ベル。心して聞きぃや。これは神々がお前に課した『役割』であり、最大の『皮肉』であり……そして、最高の『賛辞』や」

食堂のざわめきが消える。

フィンも、リヴェリアも、アイズも、固唾を飲んでその瞬間を待った。

ロキが、羊皮紙を開く。

「……ちゅうわけで、ベルの二つ名は」

彼女の指が、その文字をなぞる。

『再演道化』

「――【再演道化】。読みは……『アルゴノゥト』や」

時が、止まった。

レフィーヤが息を呑む音が、静寂の中でやけに大きく響いた。

他の団員たちは、その読みに首を傾げたり、あるいは驚嘆の声を漏らしている。

「アルゴノゥト……? あのおとぎ話の?」

「英雄になりたかった男の子の物語……だよね?」

ティオナが目を輝かせる。

しかし、誰よりも反応したのは、当の本人だった。

ベル・クラネルは、目を見開き、その羊皮紙を凝視していた。

震えている。恐怖ではない。羞恥でもない。

それは、魂の底から湧き上がる、歓喜の震え。

「……ク、ククク」

ベルが口元を覆い、肩を揺らす。

「ハハハハハッ! アーハッハッハッハ!!」

突然の高笑い。

それは演技ではない。いや、演技なのだが、あまりにも「入っている」。

彼は両手を広げ、天井のシャンデリアに向かって叫んだ。

「神々よ! ああ、神々よ! 貴方方はどこまで残酷で、どこまで粋な観客なのだ!」

ベルはくるりとターンを決め、ロキの前に膝をつく。まるで舞台上の役者が、演出家に感謝を捧げるように。

「『再演』! そう、まさしくそうだ! 私は繰り返しているに過ぎない! かつての喜劇を、滑稽な足掻きを、この現代のオラリオという舞台で再び演じているだけ!」

彼の瞳が潤んでいるのを、レフィーヤだけが見ていた。

それは「ベル・クラネル」の涙であり、「アルゴノゥト」の涙であり、「フィーナの兄」としての涙だった。

「しかも『道化』と来た! 英雄(ヒーロー)ではない、道化(クラウン)だ! これ以上の適役があるだろうか、いやない! この身は未だ英雄に至らず、ただ英雄を夢見て踊るピエロに過ぎないのだから!」

ベルは羊皮紙をロキから受け取ると、それを宝物のように胸に抱いた。

「『再演道化(アルゴノゥト)』……。ああ、素晴らしい。最高の脚本(タイトル)を頂いた。これなら、どんな無様な姿も、どんな無謀な挑戦も、『喜劇』の一幕として許されるだろう!」

ベルは立ち上がり、呆気に取られるファミリアの面々に向かって、恭しく一礼した。

「改めまして、ロキ・ファミリア所属、新米『道化』のベル・クラネルです! 皆様、これより始まりますは英雄譚の続き……否、誰もが笑って泣ける、最高の『再演』でございます! どうか最後まで、席をお立ちにならぬよう!」

シーン、とした沈黙の後。

ドッ、と食堂が沸いた。

「あははは! なにそれベル君、面白い!」

「アルゴノゥトかぁ! かっこいいじゃん!」

「けっ、気取ってんじゃねぇぞ雑魚が。名前負けしたらぶっ殺すからな」

口々に野次と称賛が飛ぶ。

その喧騒の中で、ロキはジョッキを傾けながら、安堵の息を吐いた。

(……ほっ)

危なかった。本当に危なかった。

あのまま『桃色吐息』になっていたら、この道化役者はきっと舌を噛み切って死んでいただろう。

ヘルメス、そしてフレイヤ。あの場にいた古株の神々の「悪戯心」に、今回ばかりは感謝せねばならない。

「……良かったですね、兄さん」

レフィーヤが、呆れたような、けれどどこか誇らしげな顔で呟く。

「ん? 何か言ったかい、愛しの妹よ?」

「なんでもありません。ただ……その二つ名、名前負けしないように精進してくださいね。『英雄になり損ねた道化』のままじゃ、今のオラリオでは通用しませんから」

「手厳しい! だがその通りだ!」

ベルはニカッと笑った。その笑顔は、かつてのひ弱な少年のものではなく、数々の修羅場(と黒歴史)を越えてきた、ふてぶてしくも輝かしい『再臨英雄』の顔だった。

「綴ろう、英雄日誌! 『少年は今日、己の名を取り戻した。ここからが本当の再演である』と!」

「はいはい、綴ってください。ご飯冷めますよ」

騒がしくも温かい、黄昏の館の夜。

『再演道化(アルゴノゥト)』。

その名は瞬く間にオラリオ中に広まり、ある者は「英雄の再来」と期待し、ある者は「大層な名前だ」と嘲笑し、そしてある者たち(前世を知る者たち)は、静かに涙することになるのだが――それはまた、別の話。

「ほな、宴会や! ベルの二つ名決定と、ランクアップ祝いじゃ! 飲め飲めーい!」

「おおー!!」

「ハッハッハ! 今日は飲むぞー!ベル・クラネル、呑みまーす!!」

道化の再演は、まだ始まったばかりである。

 

 

───

 

喧騒と熱気、そして食欲をそそる香りが渦巻く酒場、【豊饒の女主人】。

冒険者たちの怒号と笑い声が混じり合うこの場所は、今夜もオラリオの夜を彩る喧噪の中心地となっていた。

その一角、少し奥まったテーブル席に、奇妙な取り合わせの一団が陣取っていた。

【ロキ・ファミリア】の期待の新星であり、今や時の人となった少年。

同じく【ロキ・ファミリア】の若き才媛であるエルフの魔導師。

【ヘファイストス・ファミリア】の専属契約を勝ち取った鍛冶師の青年。

そして、給仕服に身を包みながらも、その立ち振る舞いに洗練された剣士の空気を漂わせるエルフのウェイトレス。

テーブルの中央には、一枚の羊皮紙が鎮座している。

それは、つい先刻まで天界の如き場所で行われていた「神会(デナトゥス)」の結果を記した、神託にも等しい紙片だった。

「……ふっ、ふふふ。見よ、我が盟友たちよ」

白髪の少年――ベル・クラネルは、芝居がかった動作でグラスを掲げ、陶酔したように天井を仰いだ。

その瞳は、赤い宝石のように煌めいているが、どこか遠い時代を見ているようでもある。

「神々は残酷で、そして粋だ。この私に、これほどまでに皮肉で、これほどまでに痛快な『看板』を与えるとは!」

羊皮紙に刻まれた文字は、神聖文字(ヒエログリフ)でこう記されていた。

『再演道化』

だが、その横に振られた共通語(コイネー)の読み仮名は、決して『リ・エンアクト・クラウン』などではなかった。

『アルゴノゥト』

かつて、英雄になり損ねた道化。

あるいは、全ての英雄の始まりとなった、滑稽なる男。

その名を冠された少年は、震える肩を抑えきれない様子で、再び高らかに笑った。

「英雄日誌、追記。『神々は観客席で腹を抱えて笑っているに違いない。ならば、主演俳優たる私は応えねばなるまい。このふざけたタイトルの喜劇を、最高の大団円(ハッピーエンド)へと導くために!』……どうだい、この完璧な導入は!」

「……声が大きいです、兄さん。他のお客さんが見てますよ」

向かいに座るレフィーヤ・ウィリディスが、呆れたように、けれどどこか安堵したような溜息をついた。

彼女の手には、オレンジジュースの入ったグラスが握られている。

「それにしても……本当に、その名前になったんですね」

レフィーヤの視線が、羊皮紙の上を滑る。

『再演道化(アルゴノゥト)』。

前世の兄、アルゴノゥト。そして今世の兄、ベル・クラネル。

二つの魂が交錯し、過去の因縁をなぞりながらも新しい物語を紡ごうとしている今の彼に、これほど相応しい名は無いと、彼女もまた認めざるを得なかった。

「てっきり、ロキが言っていたような……その、破廉恥な名前になるかとヒヤヒヤしていましたが」

「思い出させないでくれレフィーヤ! 『桃色吐息』だの『白の愛玩』だの、思い出すだけで鳥肌が立つ!」

ベルが大げさに身震いをする。その様子を見て、隣でジョッキを傾けていた赤髪の鍛冶師――ヴェルフ・クロッゾが、豪快に笑い飛ばした。

「ガハハハッ! 違いねぇ! お前がそんなナヨッとした二つ名背負って歩いてたら、俺は他人のフリをしてたかもしれねぇからな!」

「酷いなクロッゾ! 友の危機を見捨てるのかい!?」

「見捨てるさ。俺の打った武器が『桃色吐息の剣』なんて呼ばれるのは御免だからな」

ヴェルフはニカッと笑い、ベルの背中をバシッと叩いた。

その手には、確かな信頼と、戦友としての熱が宿っている。

彼は羊皮紙の文字を指でなぞり、真剣な眼差しで頷いた。

「けどよ、ベル。俺は最高だと思うぜ」

「……ヴェルフ」

「『再演』ってのがいい。ただの『再来』じゃねぇ。お前が自分の意志で、もう一度演じるって意味だ。……俺たちにとっちゃ、過去は重てぇ枷かもしれねぇ。俺の『クロッゾ』の名も、お前の『道化』としての記憶もな」

ヴェルフは一度言葉を切り、琥珀色の液体を飲み干した。

かつて魔剣を打ち、その業に焼かれた一族。

かつて英雄を志し、その器の無さに泣きながらも笑った男。

「けど、お前はそれを『喜劇』にするって決めた。鍛え直すって決めたんだ。……『再演道化』。上等じゃねぇか。錆びついた過去を打ち直して、新しい切れ味を見せる。俺の目指す鍛冶の道とも重なるぜ」

「……友よ」

ベルは感極まったようにヴェルフの手を握りしめようとして、「男同士でそれは気持ち悪い」と振り払われた。

そんなやり取りを、テーブルの脇に立ったまま静かに見守っていた人物がいた。

忙しい店内を縫って、追加の料理を運んできたエルフの店員。

リュー・リオン。

かつて、吟遊詩人リュールゥ(ウィーシェ)として、アルゴノゥトの旅路を詩に紡いだ彼女は、空いた皿を下げながら、その透き通るような声で囁いた。

「これ以上ないほどあなたを表す名前ですね、クラネルさん」

「リューさん……いや、リュールゥ」

「今はリューで構いません。……ふふ、それにしても」

彼女は口元に手を当て、珍しく年相応の、あるいは前世の茶目っ気を含んだ笑みを浮かべた。

「『再演道化』……。詩人としても、これほど心躍る題名(タイトル)はありません。かつて私は、あなたの旅路を『英雄譚』として遺そうとしました。けれど、あなたはそれを『喜劇』だと言い張った」

リューの脳裏に、遠い砂漠の記憶が蘇る。

不器用で、弱くて、けれど誰よりも眩しかった背中。

「あの時の続きを、今度こそ最後まで見届けられる。……ええ、本当に。素晴らしい名です」

「君にそう言ってもらえると、道化冥利に尽きるよ。……今世でも、私の無様な姿を記録してくれるかい? 吟遊詩人殿」

「ええ。ただし、今度は私も舞台の上にいますから。客席からの野次ではなく、隣で背中を蹴飛ばして修正して差し上げます」

「手厳しい! だがそれがいい!」

ベルは嬉しそうに目を細めた。

かつての仲間たち。時を超えて再び集った、奇妙で愛おしい縁(えにし)。

彼らがこの名を肯定してくれるなら、神々がどんな意図で名付けたとしても、それはベルにとって最高の勲章だった。

しかし。

その温かな空気の中で、レフィーヤだけが眉を寄せて考え込んでいた。

彼女の指先が、羊皮紙の縁を無意識になぞっている。

「……でも、偶然にしては……」

レフィーヤの呟きに、ベルが首を傾げた。

「ん? どうしたんだい、レフィーヤ」

「いえ、おかしいと思いませんか? 『再演道化』という漢字のチョイスはともかく、それを『アルゴノゥト』と読ませるなんて。……神々の悪ふざけにしては、あまりにも『知っている』感じがします」

レフィーヤの指摘はもっともだった。

「アルゴノゥト」という英雄譚は、オラリオでも有名な物語だ。

だが、ベル・クラネルという少年が、その「アルゴノゥト」とどう結びつくのか。

白い髪や赤い目、あるいはミノタウロス殺しという偉業から連想したとしても、わざわざ『再演』や『道化』という言葉を選ぶだろうか。

それはまるで、ベルの中に眠る「前世の記憶」を、誰かが透視しているかのような――。

「確かに……。ロキの話だと、ヘルメス様が提案したらしいけど」

「ヘルメス様……。あの神様なら、何か勘づいていてもおかしくはありませんが……」

レフィーヤは不安げに視線を巡らせる。

もし、自分たちの「秘密」が露見しているとしたら。

転生という奇跡が、神々の知るところとなっているとしたら。

それは、平穏な日常を脅かす火種になるのではないか。

「……あるいは、もっと別の誰か。兄さんのことを、深く、執拗に見つめている誰かが……」

レフィーヤの脳裏に、ある人物の顔がよぎった。

酒場の喧騒の向こう、厨房で忙しく指示を飛ばしている灰色の髪の少女。

シル・フローヴァ。

あるいは、その背後に見え隠れする、美の女神の影。

「考えすぎだよ、レフィーヤ」

深刻になりかけた空気を、ベルの明るい声が切り裂いた。

彼は大げさに手を振り、羊皮紙をパンと叩いた。

「偶然の一致! 奇跡の符合! それこそが英雄譚の醍醐味じゃないか! 神々が私の本質を見抜いたというのなら、それは私の演技が天に届いた証拠! むしろ称賛すべきことさ!」

「兄さん、あなたは楽観的すぎます! もし正体がバレて、変な実験とかされたらどうするんですか!」

「ハッハッハ! その時はその時! 君が助けに来てくれると信じているよ、我が愛しの妹!」

「もうっ……! 本当に調子がいいんですから!」

レフィーヤは頬を膨らませながらも、ベルの屈託のない笑顔に毒気を抜かれたように肩の力を抜いた。

そうだ。この兄は、いつだってこうなのだ。

崖っぷちでも、絶望的な状況でも、笑って「なんとかなる」と言い放ち、本当になんとかしてしまう。

前世でも、今世でも。

「それに、誰が名付けたとしても、私がやることは変わらない」

ベルはふと、真面目な顔に戻った。

道化の仮面の下にある、英雄の素顔。

その瞳の奥には、決して揺るがない決意の炎が灯っていた。

「私は英雄になる。……あの日、果たせなかった約束を果たすために。誰もが笑って終われる、本当の喜劇を完成させるために。……この名は、そのための『道標』だ」

静寂が、テーブルを包んだ。

酒場の喧騒が遠のき、四人の間にだけ流れる時間。

それは3000年の時を超えて繋がった、魂の共鳴だった。

「……へっ。キザな野郎だ」

ヴェルフが照れ隠しのように鼻を鳴らす。

「承知しました。その道行、お供しましょう」

リューが恭しく一礼する。

「……仕方ありませんね。私がついていないと、兄さんはすぐ無茶をするんですから」

レフィーヤが呆れながらも、優しく微笑む。

四人の視線が交差する。

言葉は要らなかった。

彼らは知っている。この物語が、まだ序章に過ぎないことを。

これから待ち受ける試練が、決して生易しいものではないことを。

だが、それでも。

「さあ、祝杯といこうか! このふざけた、愛すべき二つ名に!」

ベルがグラスを掲げる。

それに合わせて、三つのグラスが重なった。

「乾杯!」

カチン、と軽やかな音が響く。

それは、新たな幕開けを告げる鐘の音のようだった。

「あ、そういえば兄さん」

グラスを置いたレフィーヤが、ふと思い出したように言った。

「ロキが言ってましたけど、二つ名の候補……他にもあったんですよね?」

「うっ……!?」

「『白雪の美少年』でしたっけ? あと『総受けの白』?」

「ぶっ!」

吹き出すヴェルフ。顔を背けて肩を震わせるリュー。

ベルは顔を真っ赤にして、テーブルに突っ伏した。

「わ、忘れてくれ! それは無かったことにしてくれぇぇ!!」

「意外と似合うと思いますよ? 兄さん、基本的に受け身ですし」

「否定はしねぇな。お前、どっちかっていうと巻き込まれ体質だし」

「クスクス……『桃色吐息』……ふふっ」

「リューまでぇぇ!殺せェ!!」

酒場に、彼らの笑い声が溶けていく。

『再演道化(アルゴノゥト)』。

その名がオラリオ全土に知れ渡り、新たな伝説の火蓋が切って落とされるのは、翌朝のことである。

だが今はただ、この束の間の安らぎを。

道化たちが演じる喜劇の、幕間のひとときを。

神々よ、ご照覧あれ。

彼らの笑顔が、いつか世界を救うその日まで。

(英雄日誌、追記。『宴は最高潮。だが会計の時、私は財布を忘れたことに気づくのであった……。レフィーヤ、後で返すから貸してくれないか?』)

 

 

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